負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第25話 1巻4敗目幕間 小鞠視点 部誌の締切

二次創作/視点:小鞠知花

 

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【小鞠知花】

 

「……よ、四日目」

 

松谷は今日も原稿用紙を一枚出して、二時間座って、一文字も書かずに帰った。

 

私は本棚の陰からずっと見ていた。隠れる必要はもうないけど、ここが一番よく見える。あと正面から人を見るのは無理である。

 

「……ご、ゴミ箱」

 

かさかさと紙くずが入っていた。細かく破ってある。指でちぎったのをもう一回ちぎったような細かさだ。

 

その一片に字が残っていた。

 

    件名

 

「……け、件名」

 

隣の一片には日付らしい数字。もう一枚には丸で囲んだ「一」。

 

「……げ、原稿に、件名」

 

つまりあの人は小説を書こうとして書類を書いている。書き出すたび頭に日付と件名がついてしまい、これは違うと気づいて破る。破って捨てる。翌日また新しい一枚を出す。

 

私は破片をゴミ箱に戻した。

 

「……み、見なかったことに、しよう」

 

思ったのに、次の日、口が勝手に動いた。

 

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夏休みの部室は、私の城である。

 

家にいるとチビスケが二人がかりで膝の上を占領し、上の子が下の子を突き飛ばして下の子が泣き、なぜか私が怒られる。

 

「……り、理不尽」

 

世界は長女に厳しい。

 

旧校舎の三階は夏でも風が通る。窓を全部開けてパイプ椅子を並べ、寝そべって本を読む。これを私は夏季集中執筆合宿と呼んでいる。参加者一名。宿泊はしない。

 

私の原稿は、ノートパソコンの中にある。

 

中学のときに親が買った古いやつで、電池がもう三十分しかもたない。だから部室では必ず電源を挿す。

 

  原稿用紙換算 五十二枚

 

画面の隅に、そう出ている。

 

七月二十九日。部誌の締切まで、あと三十三日。

 

朝、グループLINEが来ていた。

 

  『みんな進んでる? 私は進んでません!』

 

  『玉木が私の参考書を隠したのでいま冷戦中』

 

  『小ちゃん、原稿の枚数だけ教えて。心の支えにする』

 

正直に返した。

 

  『五十二枚』

 

既読がついて三十秒止まり、返事が来た。

 

  『あなたって人は』

 

「……ほ、褒められた」

 

たぶん。

 

  『心が折れました』

 

  『でも支えにします』

 

  『支えが重い』

 

「……ど、どっちだ」

 

部長の欄は空だった。

 

「……に、逃げたな」

 

  『玉木は既読だけつけて何も言いません』

 

  『これが十年つきあった男です』

 

「……せ、先輩、それ、グループで言うな」

 

---

 

 

午後三時十二分、松谷が来た。

 

来て座って、原稿用紙を一枚出した。五日目である。

 

「か、書けてないでしょ」

 

我ながらいきなりすぎた。挨拶もしていない。

 

「書けていない」

 

「……み、認めるんだ」

 

「事実だ」

 

「そこは、少し誤魔化すとこ!」

 

「誤魔化すと、明日また同じことを聞かれる」

 

「き、聞かない」

 

「聞くだろう」

 

聞く。

 

嘘をつかない人である。知ってはいるけど、ちょっとは取り繕ってほしい。こっちが言いにくかった立場がなくなる。

 

私はがたっと椅子を一つ分だけ近づけた。一つ分が限界である。

 

「な、なに書くか、決めてないの」

 

「決められない」

 

「す、好きなもの、書けばいい」

 

「好きなものがない」

 

「なっ、ないわけ、ない」

 

「ない」

 

「た、たとえば、こ、この部屋で一番好きなもの」

 

松谷は部屋を見回した。

 

律儀に見回した。本棚、机、扇風機、私のノートパソコン、窓の外。

 

「……窓が全部開いている」

 

「それ、物じゃない」

 

「好きだと聞かれた」

 

「も、物で答えて!」

 

「では、ない」

 

言い訳をしない。困った顔もしない。ただ、ないと言う。魚屋で今日は魚がないと言われたときと同じ言い方だった。

 

「な、なんで、窓なの」

 

「……閉まっていると、落ち着かない」

 

「へ、部屋が、せまいから?」

 

「……いや」

 

「……なにが」

 

「……なんでもない」

 

――ま、また閉じた。

 

この人の「なんでもない」は、たいてい何かある。

 

「じ、じゃあ、いちばん長くやってたことは」

 

「仕事だ」

 

「し、仕事」

 

「……手伝いだ」

 

言い直した。

 

この人はときどきこうなる。前も電車の話をしていて急に黙った。追及はしない。私にだって触られたくない場所は山ほどある。

 

「そ、それ、書けば」

 

「書けない」

 

「なんで」

 

「書くと、困る人間がいる」

 

「だ、誰が困るの」

 

「……もう、いない」

 

「いないなら、困らないじゃん」

 

「いないから、困る」

 

「……い、意味わかんない」

 

「俺にも分からない」

 

「だ、誰も読まないよ、部誌」

 

言ってから、しまったと思った。

 

私の一番いやな言葉を、私が言った。

 

松谷は少し黙った。

 

「誰も読まない、というのは、書いた者の希望だ」

 

「……え」

 

「読まれないことを願って書く文章がある。俺はそれを八年書いた」

 

八年。十五歳が。

 

――ま、また、変な穴があいてる。

 

でも、引っかかったのはそこじゃなかった。

 

誰も読まない部誌。私はずっとそう言ってきた。誰も読まないから何を書いてもいい。恥ずかしくない。傷つかない。

 

全部、私の希望だったってこと?

 

---

 

「わ、私は」

 

声が震えた。震えたけど続けた。これは私の領分の話だ。

 

「わ、私は、しゃべれない。だ、だから、書いてる」

 

「うん」

 

「か、書かないと、なかったことに、なる。あ、あったことも、考えたことも、ぜんぶ」

 

「そうか」

 

「だ、だから、なかったことにするの、よくない」

 

松谷が、私をまっすぐ見た。

 

「なかったことにしたほうがいい事柄も、ある」

 

「ないっ」

 

「ある」

 

「ないっ」

 

部室に響いた。自分でびっくりした。

 

こういうときたいていの人は引く。うるさかったねって言うか、笑ってごまかすか、話題を変える。

 

この人は、引かなかった。

 

「君は、書かなければ消えると言った。俺は、書けば残ると知っている」

 

「の、残ればいいじゃん」

 

「残ったものが、人を殺すことがある」

 

「こ、殺す……?」

 

「言葉が過ぎた」

 

そこだけ少し早口だった。

 

「だが、取り下げない」

 

――私、いま、本気で言い返されてる。

 

月之木先輩は面白がって乗ってくれる。温水は黙って聞いてくれる。チビスケは聞いてない。

 

正面から「ある」と返されたのは、たぶん生まれて初めてだ。

 

こわい。

 

こわいのに体の芯がちょっとだけ熱い。

 

「……じ、じゃあ、聞くけど」

 

私は膝の上で、ぎゅっと拳を握った。

 

「な、無かったことにして、そ、それで、うまくいったの」

 

松谷の指が止まった。

 

「いっていない」

 

「……」

 

「消したものは、消えない。消したという事実が残る」

 

「……そ、それ、いちばん、たち悪い」

 

「そうだ」

 

この人は、いま、私に負けを認めた。

 

勝った気がまったくしなかった。

 

私は自分のノートのことを考えていた。

 

去年の秋に一冊ぶん破いて捨てた。玉木先輩のことを書いた頁が混ざっていたからで、混ざっている頁だけ抜くと不自然になるので、全部まとめて捨てた。

 

いま思い出せるのは、捨てたことのほうである。中身は思い出せない。捨てたという事実だけが、消えずに一年ここにある。

 

そういうことを、この人はたぶん、私の何倍もの量でやっている。

 

---

 

「……じ、じゃあ」

 

私は本を置いた。両手が空いた。

 

「じ、事実だけ、書けば。あ、あったことだけ。だ、誰も困らないこと。ご、ごはん食べたとか、暑かったとか」

 

松谷の指が、机の上でもう一度止まった。

 

「……記録なら、書ける」

 

「か、書けるじゃん」

 

「書ける」

 

そう言って、この人は黙った。

 

長い沈黙だった。蝉がじいじい鳴き、風でカーテンがふわりとふくらんで、私の前髪が持ち上がってまた落ちた。

 

顔を見た。

 

痛そうな顔をしていた。

 

なんで痛そうなの。ごはんの話をしただけなのに。

 

聞かなかった。

 

こういうときは分かる。私にも聞かれたくないことがたくさんある。

 

---

 

松谷は手帳を出し、何か短く書いた。

 

二行くらいだったと思う。覗いてない。覗いてないけど二行だった。

 

「小鞠」

 

「ひゃ、はい」

 

「少し、考えさせてほしい。今日中には出せない」

 

「し、締切、八月三十一日」

 

「承知した」

 

松谷は原稿用紙を机に置いて、上下を確かめ、罫線の向きを直した。

 

慣れている。

 

「……つ、使い方、知ってるんだ」

 

「知っている」

 

「お、教えようと思ってた」

 

「不要だ」

 

「……そ、そう」

 

少し残念だった。

 

---

 

「小鞠」

 

「ひゃ、はい」

 

「一つ、聞いていいか」

 

「な、なに」

 

「君は、それで書いているのか」

 

松谷が、私のノートパソコンを見ていた。

 

「……そう」

 

「速いな」

 

「は、速い?」

 

「さっきから見ていた。手が止まらない」

 

止まらないのは、喋らなくていいからである。

 

口は三割しか出ないが、指は十割出る。

 

「……や、やってみる?」

 

言ってから、しまったと思った。

 

私は人に何かを教えたことがない。

 

「……いいのか」

 

「いいっ」

 

もう遅い。

 

---

 

私はパソコンを松谷の前に押した。

 

松谷は椅子を寄せ、画面を見て、それからキーボードを見た。

 

長いこと見ていた。

 

「……これは、タイプライターと同じか」

 

「え」

 

「並びだ。左の上から、Q、W、E、R、T」

 

「……た、タイプライター?」

 

「そうだ」

 

「え、あの、は、博物館にあるやつ?」

 

「博物館」

 

「そ、そう。ガラスケースの、な、中の」

 

松谷は、しばらく黙った。

 

「……そうか。博物館か」

 

「……し、知ってるんだ」

 

「使った」

 

「つ、使ったことあるの!?」

 

「ある」

 

「に、日本語、打てるの」

 

「打てない」

 

「え」

 

「あれは英文の機械だ。日本語のものは、別にある」

 

「べ、別」

 

「活字を並べた盤があって、一字ずつ拾う。専門の者がやる」

 

「……ぜ、全然ちがう」

 

「全然ちがう。私は日本語のほうは触ったこともない」

 

---

 

「じゃ、じゃあ、な、なんで英文のが打てるの」

 

松谷は、少し黙った。

 

「……向こうにいたときに、覚えた」

 

「む、向こう」

 

「英国だ」

 

「え」

 

「三年いた」

 

「……え?」

 

「三年だ」

 

私は、この人の顔を見た。

 

十五歳である。

 

「あ、あの」

 

「なんだ」

 

「い、いつ」

 

「……昔だ」

 

出た。

 

この人の「昔」は、たいてい出口がない。

 

---

 

「う、打てる人、い、いっぱいいたの」

 

「いない」

 

「え」

 

「向こうへ行った者か、外務省の人間くらいだ」

 

「それだけ?」

 

「それだけだ。だから、自分で打った」

 

「じ、自分で」

 

「人に頼めない紙もある」

 

「……」

 

「速くはない。清書だけだ」

 

また、変な穴があいた。

 

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「な、並び、同じなの」

 

「ほとんど変わっていない」

 

「い、意外と、変わらないんだ」

 

「変わっていない」

 

そう言ったこの人の声が、ほんの少しだけ低かった。

 

変わらないものを見つけたときの声だった。

 

---

 

「だが、これでどうやって仮名を打つ」

 

「か、仮名は打たない」

 

「打たないのか」

 

「ろ、ローマ字で打つ。そ、そしたら、勝手に仮名になる」

 

「……勝手に」

 

「か、勝手に」

 

「……了解した」

 

了解した、と言った人の顔が、了解していなかった。

 

---

 

「う、打ってみて」

 

「何を」

 

「な、名前」

 

松谷は指を二本立てた。

 

一本ではなかった。タイプライターの人である。

 

そして、キーを探しはじめた。

 

「……M、A」

 

「そ、そう」

 

「T、S、U」

 

「そう」

 

「T、A、N、I」

 

  まつたに

 

十九秒かかった。数えてしまった。

 

私は膝の上で拳を握った。握らないと手が出そうだった。

 

「へ、変換」

 

「変換」

 

「し、下の、長いキー」

 

松谷が押した。

 

  松谷

 

「で、出た」

 

「……出たな」

 

この人が驚くのを、私は初めて見た。

 

顔は動いていない。声の高さが、ほんの少しだけ上がっただけである。

 

---

 

「つ、次。し、下の名前」

 

「……」

 

「な、なんて読むの」

 

「せい、だ」

 

「え」

 

「まこと、ではない。せいだ」

 

「し、知らなかった」

 

「よく間違えられる」

 

松谷は、また一本指で打った。

 

変換した。

 

  性  聖  正  制  姓

 

「……な、ないよ」

 

「ない」

 

「じ、自分の名前が、ない」

 

「ある。順番が遅い」

 

松谷は変換のキーを何度も押した。押すたびに指が戻ってきて、また押す。

 

七回目に出た。

 

  誠

 

「……で、出た」

 

「出た」

 

「な、七回」

 

「七回だ」

 

「……お、遅くない?」

 

「遅い」

 

---

 

「ほ、保存して」

 

「保存」

 

「き、消えないように」

 

松谷の指が止まった。

 

「……消えないのか」

 

「き、消えない」

 

「押せば、残るのか」

 

「の、残る」

 

「いつまでだ」

 

「……こ、壊れなければ、ずっと」

 

松谷は、しばらく画面を見ていた。

 

見てから、人差し指で、そのキーを押した。

 

二本ではなく、一本だった。

 

「……残ったな」

 

「の、残った」

 

「そうか」

 

それだけ言って、この人は椅子の背に少しもたれた。

 

もたれるのを、私は初めて見た。

 

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部室を出て、印刷室に寄った。

 

部誌の紙を何枚頼むか、事務の先生に出す紙を書かないといけない。

 

扉を開けたら、先客がいた。

 

「やあ、御機嫌よう」

 

「うなっ!」

 

声が出た。出てから引っ込める方法は、ない。

 

転入生の二人組の、綺麗なほうである。

 

一年の加瀬。生徒会で、新聞部で、七月のバーベキューで網の反対側にいた男だ。

 

肉を焼くのがうまかった。それだけ覚えている。

 

私はこの人と、一度も口をきいていない。

 

同じ火を囲んで、一度もである。

 

「文芸部の小鞠さんですね」

 

「……」

 

「バーベキューでご一緒しました」

 

「……し、知ってる」

 

「覚えていてくださいましたか」

 

「お、覚えてる」

 

「光栄です」

 

嘘だ。

 

この人はたぶん、覚えていない相手にも同じ顔をする。

 

「……な、なんで、わ、私の名前」

 

「五十二枚書いた人だと聞きました」

 

誰だ喋ったのは。月之木先輩か。月之木先輩だ。

 

私は扉のほうへ半歩下がった。

 

「あ、あの、わ、わたわた、私、紙の枚数を、書きにっ」

 

「どうぞ。僕はもう終わりました。輪転機の前、失礼」

 

「……り、輪転機」

 

「印刷機です」

 

「いま輪転機って言った」

 

「言っておりません」

 

「い、言った」

 

「印刷機です」

 

この人、たまに古い言葉を使う。

 

加瀬は印刷機の横をどいた。

 

どいてくれたのに、なぜか出ていかない。

 

そして、口の中で何かを転がしている。

 

カラン、と音がした。飴だ。

 

それと、右手の指が動いている。

 

親指の腹で、人差し指と中指の先を順番に押している。何かを挟んでいた形のまま、挟むものがないので指だけが動いている、という動き方だった。

 

本人は気づいていないと思う。喋りながらずっと動いている。

 

「……」

 

「どうぞ、お気になさらず」

 

気になる。

 

すごく気になる。

 

さっきから、頬の内側で飴が右に行ったり左に行ったりしている。

 

「な、なんで、ずっと、あ、飴なめてるの」

 

「口が寂しいので」

 

「く、口が、さびしい」

 

「昔、別のものを咥えていました」

 

「な、なに」

 

「……鉛筆です」

 

「う、嘘だ」

 

「嘘です」

 

即答された。

 

この人、嘘をついた次の秒に嘘だと言う。何がしたいんだ。

 

「な、なんで、嘘つくの」

 

「間が持ちませんので」

 

「も、持たせなくていい」

 

「持たせるのが、仕事でしたので」

 

「……し、仕事?」

 

「趣味です」

 

「いま、仕事って言った」

 

「言っておりません」

 

「言った」

 

「言っておりません」

 

飴が、また右から左へ移った。

 

---

 

「小鞠さんは、小説を書かれるとか」

 

「……か、書く」

 

「僕も書きます」

 

「し、新聞?」

 

「新聞も書きますし、それ以外も書きます。書くのが趣味ですので」

 

「……し、趣味」

 

私はそこで止まった。

 

「し、趣味なの」

 

「趣味です。仕事ではありません」

 

「……」

 

「ですから、書けなくても死にません」

 

――死ぬけど。

 

私は死ぬ。書けなかったら死ぬ。

 

たぶん顔に出ていた。

 

加瀬はしばらく私を見て、それから飴を頬の反対側に移した。

 

「小鞠さん。船が流されるのは、風のせいだと思いますか」

 

「……は?」

 

「風のせいではありません。錨がないからです」

 

「……い、いかり」

 

「錨です。海に落とす、あの鉄の」

 

急に何の話だ。

 

言い返そうとして、言い返す言葉が出てこなかった。私はこういうとき、いつも三秒遅れる。三秒あれば相手は次の話をしている。

 

「あなたは、書くことを帆にしている」

 

「……ほ」

 

「どこかへ行くための道具にしている。締切とか、枚数とか、誰かに読ませたいとか。速く進みたい人の使い方です」

 

「わ、悪い?」

 

「いいえ。速いのはいいことです」

 

加瀬は印刷機に手を置いた。

 

「ただ、帆しかない船は、風の吹くほうにしか行けません。風が止めば止まりますし、逆から吹けば戻されます」

 

「……」

 

「錨は、進むための道具ではありません。流されないための道具です」

 

「じ、じゃあ、書くのを、い、錨にするって、な、なに」

 

「あなたはさっき、なんと言いました」

 

「……い、言ってない」

 

「では、いつも何と言っていますか」

 

私は口を開いた。

 

開いて、勝手に出た。

 

「……か、書かないと、なかったことに、なる」

 

言ってから、しまったと思った。

 

今日二回目である。

 

「それです」

 

加瀬が言った。

 

「それが錨です」

 

「……え」

 

「進むために書くのではなく、流されないために書く。あなたはもう持っています」

 

「……も、持ってる」

 

「持っていることに、気づいていないだけです」

 

私は、扉の取っ手を握ったまま動けなかった。

 

――ずるい。

 

こんな喋り方をされたら、逃げられない。

 

こっちは一文を三回に分けて出しているのに、この人は最初から最後まで一度もつっかえない。

 

「あ、あの」

 

「はい」

 

「そ、そういうの、ど、どこで習うの」

 

「習っていません」

 

「う、嘘だ」

 

「本当です」

 

「……」

 

「本当ですが、二十年やりました」

 

「に、二十――」

 

「五分です」

 

加瀬はそう言って、机の上の紙を一枚取った。

 

「ちなみに、これが今月の僕の記事です。一世一代の名文ですよ」

 

私は受け取って読んだ。

 

  『購買のパン、値上げ。理由を聞きに行った』

 

「……」

 

「どうです」

 

「……ふ、普通」

 

「普通が一番難しいんです」

 

「み、見出しも、じ、地味」

 

「地味でしょう」

 

「み、認めるんだ」

 

「派手な見出しは、中身が薄いときに使います」

 

「……」

 

「覚えておくといいですよ」

 

なんか腹が立つ。

 

腹が立つのに、私はその三十行をもう一度頭から読んでいた。

 

購買のおばちゃんに値上げの理由を聞きに行って、小麦の値段の話を聞いて、それを三十行に収めてある。おばちゃんが最後に言ったひとことで終わっていて、そのひとことが記事の中でいちばん短い。

 

うまい。

 

悔しいけど、うまい。

 

私が五十二枚かけてやろうとしていることを、この人は三十行でやっている。しかも本人はそれを趣味だと言う。

 

印刷室を出るとき、私は紙を返さなかった。

 

---

 

 

帰りに図書室へ寄った。

 

高木先生はカウンターで本の背に番号を貼っている。この人の夏休みは番号でできている。

 

「小鞠さん。松谷は、部室にいましたか」

 

「い、いました」

 

「そうですか」

 

「な、なんで、聞くんですか」

 

「……通り道ですので」

 

「と、遠回りですよ。ぶ、部室、三階です」

 

「そうですか」

 

私はカードを出しながら余計なことを言った。

 

「げ、原稿、書けてないみたいです」

 

先生の手が止まった。

 

止まって、すぐ動いた。

 

「そうですか」

 

さっきと同じ言葉なのに違って聞こえた。

 

「締切は、いつです」

 

「は、八月三十一日、です」

 

「一か月ありますね。では、大丈夫でしょう」

 

「……な、なんで」

 

「なんとなくです」

 

「……せ、先生、それ」

 

「根拠はありません」

 

「な、ないんですか」

 

「ありません。ですが、大丈夫です」

 

「……い、言い切った」

 

「言い切りました」

 

先生はラベルを貼りながら平気な顔をしている。この学校でいちばん頼りにならない立場の人が、いちばん平気な顔をしている。

 

「せ、先生」

 

「はい」

 

「……こ、この図書室に、か、借りられない本って、あるんですか」

 

「あります」

 

即答だった。

 

「ど、どのくらい」

 

「二千冊ほど」

 

「に、二千!?」

 

「十年、一度も貸出票に判が押されていない本です」

 

「か、数えたんですか」

 

「数えました」

 

「い、いつ」

 

「四月から、六月までです」

 

「……ひ、暇なんですか」

 

「暇です」

 

「そんなに堂々と……」

 

「事実ですので」

 

「せ、先生、それ、生徒に言うことですか」

 

「言いました」

 

「い、言いましたね」

 

「……す、捨てないんですか」

 

「捨てません」

 

「な、なんで」

 

「借りられなかった本と、まだ借りられていない本の区別が、私にはつかないからです」

 

私は、口を閉じた。

 

閉じてから、勝手に開いた。

 

「……わ、私の書いたのも、そ、そっちかも」

 

「どちらですか」

 

「……か、借りられない、ほう」

 

先生はラベルを置いた。

 

こと、と音がした。この人が作業を止めるのを、私は初めて見た。

 

「小鞠さん」

 

「は、はい」

 

「自分の本を、自分で棚から下ろすのは、やめなさい」

 

「……え」

 

「棚から下ろされた本は、二度と借りられません。読まれなかったからではありません。そこに無いからです」

 

「……」

 

「負けたと決めるのは、たいてい、書いた本人です。読む側ではありません」

 

外で蝉がじいじい鳴いていた。

 

図書室は冷房が効いていて、その音だけが遠かった。

 

「わ、私、そんな、し、深刻な話は」

 

「していません」

 

「……し、してないですよね」

 

「本の話です」

 

先生はラベルを持ち直した。

 

「ですが、取り下げません」

 

――今日、二人目だ。

 

この人たち、どうして揃いも揃って、取り下げないんだろう。

 

---

 

「せ、先生」

 

「はい」

 

「ま、松谷は、書けますか」

 

「書きます」

 

「な、なんで、言い切れるんですか」

 

「あの人が、書かなかったことは一度もないからです」

 

「……え」

 

先生はそこで、ほんの少しだけ間を置いた。

 

「……失礼。言い方が悪かった」

 

「え……えっ?」

 

「書けと言われたものを、書かなかったことがない。そういう意味です」

 

「じゃ、じゃあ、なんで白紙なんですか」

 

「今回は、誰にも言われていないからでしょう」

 

私は、しばらくそこに立っていた。

 

言われていないから。

 

言われれば書く。言われなければ書かない。そういう人が、いま、生まれて初めて誰にも言われていない。

 

「……せ、先生。それ、す、すごく、ひどい話じゃないですか」

 

「そうですね」

 

先生はあっさり頷いた。

 

「ひどい話です」

 

そして、番号を貼りはじめた。

 

私は本を抱えたまま、カウンターの前から動けなかった。

 

言われれば書く人。

 

その言い方だと、まるで道具みたいだ。使う人がいて、初めて動くもの。

 

でも、たぶん違う。

 

道具は嫌がらない。あの人は嫌がっていた。原稿用紙の前で二時間座って、書けと言われたわけでもない一枚を破って、翌日また出してくる。

 

自分から書きたいのだと思う。

 

書きたいのに、書き方を知らない。八年ぶんの書き方を、身体が先に覚えてしまっているからだ。

 

……それって。

 

私が、人前で喋れないのと、たぶん同じ形をしている。

 

---

 

 

その夜、布団の中で戦果を集計した。

 

「……さ、作戦名、幽霊部員を人間にする作戦」

 

「……し、進捗、原稿、依然として白紙」

 

「……ふ、副次成果、パ、パソコンの使い方を、お、教えた」

 

「……そ、損害、大声を出した。喉が痛い」

 

「……ぐ、偶発、印刷室で、へ、変な男に、捕まった」

 

「……せ、戦利品、新聞、一部」

 

「……そ、その他、敵が、じ、自分の名前を、七回目で変換」

 

「……ふ、不明点、敵は、な、なぜ英国に三年いたのか」

 

私は加瀬から取ってきた新聞を枕元に置いた。

 

パンの値上げの記事である。三十行しかない。

 

三回読んだ。

 

「……ふ、普通に、面白い」

 

腹立たしい。

 

「……と、特記事項」

 

「……せ、正面から、言い返された。ふ、二人に」

 

もぞ、と掛け布団を鼻まで引き上げた。

 

「ある」って。

 

「取り下げません」って。

 

思い出したらまた体の芯が熱くなった。悔しいのか嬉しいのかは自分でも分からない。たぶん両方だ。

 

私は五十二枚書いた。あの人は零枚。だから私の勝ちである。

 

「……な、なのに」

 

なんで、あの人が一枚書くところをこんなに見たいんだろう。

 

---

 

寝返りを打って、天井を見た。

 

  今回は、誰にも言われていないからでしょう。

 

「……」

 

私は布団の中で起き上がった。

 

「……い、言えば、いいのか」

 

言えば書く。

 

言われないから書かない。

 

じゃあ、言えばいい。

 

「……で、でも」

 

私はこれまで、人に何かをやれと言ったことが一度もない。

 

チビスケにも言えない。温水にも言えない。玉木先輩にも、月之木先輩にも、言ったことがない。

 

いつも、私が引き受けてきた。

 

「……む、無理」

 

言ってから、私はもう一度、加瀬の言葉を思い出した。

 

  流されないための道具です。

 

「……」

 

私は枕元のスマホを取って、メモを開いた。

 

  明日、松谷に言う。

 

  「書け」と言う。

 

指が震えて、変換が二回失敗した。

 

二回である。

 

あの人は、七回だった。

 

「……い、言えるかな」

 

たぶん言えない。

 

言えないけど、書いた。

 

書いたから、なかったことにはならない。

 

---

 

そういえば、と思って、私はパソコンのことを思い出した。

 

あの人が保存したファイルには、名前がついていない。

 

件名を必ずつける人が、つけなかった。

 

中身は三文字である。

 

私は、消していない。

 

《無題  三文字》

 

 

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