負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
二次創作/視点:小鞠知花
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一
【小鞠知花】
「……よ、四日目」
松谷は今日も原稿用紙を一枚出して、二時間座って、一文字も書かずに帰った。
私は本棚の陰からずっと見ていた。隠れる必要はもうないけど、ここが一番よく見える。あと正面から人を見るのは無理である。
「……ご、ゴミ箱」
かさかさと紙くずが入っていた。細かく破ってある。指でちぎったのをもう一回ちぎったような細かさだ。
その一片に字が残っていた。
件名
「……け、件名」
隣の一片には日付らしい数字。もう一枚には丸で囲んだ「一」。
「……げ、原稿に、件名」
つまりあの人は小説を書こうとして書類を書いている。書き出すたび頭に日付と件名がついてしまい、これは違うと気づいて破る。破って捨てる。翌日また新しい一枚を出す。
私は破片をゴミ箱に戻した。
「……み、見なかったことに、しよう」
思ったのに、次の日、口が勝手に動いた。
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夏休みの部室は、私の城である。
家にいるとチビスケが二人がかりで膝の上を占領し、上の子が下の子を突き飛ばして下の子が泣き、なぜか私が怒られる。
「……り、理不尽」
世界は長女に厳しい。
旧校舎の三階は夏でも風が通る。窓を全部開けてパイプ椅子を並べ、寝そべって本を読む。これを私は夏季集中執筆合宿と呼んでいる。参加者一名。宿泊はしない。
私の原稿は、ノートパソコンの中にある。
中学のときに親が買った古いやつで、電池がもう三十分しかもたない。だから部室では必ず電源を挿す。
原稿用紙換算 五十二枚
画面の隅に、そう出ている。
七月二十九日。部誌の締切まで、あと三十三日。
朝、グループLINEが来ていた。
『みんな進んでる? 私は進んでません!』
『玉木が私の参考書を隠したのでいま冷戦中』
『小ちゃん、原稿の枚数だけ教えて。心の支えにする』
正直に返した。
『五十二枚』
既読がついて三十秒止まり、返事が来た。
『あなたって人は』
「……ほ、褒められた」
たぶん。
『心が折れました』
『でも支えにします』
『支えが重い』
「……ど、どっちだ」
部長の欄は空だった。
「……に、逃げたな」
『玉木は既読だけつけて何も言いません』
『これが十年つきあった男です』
「……せ、先輩、それ、グループで言うな」
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二
午後三時十二分、松谷が来た。
来て座って、原稿用紙を一枚出した。五日目である。
「か、書けてないでしょ」
我ながらいきなりすぎた。挨拶もしていない。
「書けていない」
「……み、認めるんだ」
「事実だ」
「そこは、少し誤魔化すとこ!」
「誤魔化すと、明日また同じことを聞かれる」
「き、聞かない」
「聞くだろう」
聞く。
嘘をつかない人である。知ってはいるけど、ちょっとは取り繕ってほしい。こっちが言いにくかった立場がなくなる。
私はがたっと椅子を一つ分だけ近づけた。一つ分が限界である。
「な、なに書くか、決めてないの」
「決められない」
「す、好きなもの、書けばいい」
「好きなものがない」
「なっ、ないわけ、ない」
「ない」
「た、たとえば、こ、この部屋で一番好きなもの」
松谷は部屋を見回した。
律儀に見回した。本棚、机、扇風機、私のノートパソコン、窓の外。
「……窓が全部開いている」
「それ、物じゃない」
「好きだと聞かれた」
「も、物で答えて!」
「では、ない」
言い訳をしない。困った顔もしない。ただ、ないと言う。魚屋で今日は魚がないと言われたときと同じ言い方だった。
「な、なんで、窓なの」
「……閉まっていると、落ち着かない」
「へ、部屋が、せまいから?」
「……いや」
「……なにが」
「……なんでもない」
――ま、また閉じた。
この人の「なんでもない」は、たいてい何かある。
「じ、じゃあ、いちばん長くやってたことは」
「仕事だ」
「し、仕事」
「……手伝いだ」
言い直した。
この人はときどきこうなる。前も電車の話をしていて急に黙った。追及はしない。私にだって触られたくない場所は山ほどある。
「そ、それ、書けば」
「書けない」
「なんで」
「書くと、困る人間がいる」
「だ、誰が困るの」
「……もう、いない」
「いないなら、困らないじゃん」
「いないから、困る」
「……い、意味わかんない」
「俺にも分からない」
「だ、誰も読まないよ、部誌」
言ってから、しまったと思った。
私の一番いやな言葉を、私が言った。
松谷は少し黙った。
「誰も読まない、というのは、書いた者の希望だ」
「……え」
「読まれないことを願って書く文章がある。俺はそれを八年書いた」
八年。十五歳が。
――ま、また、変な穴があいてる。
でも、引っかかったのはそこじゃなかった。
誰も読まない部誌。私はずっとそう言ってきた。誰も読まないから何を書いてもいい。恥ずかしくない。傷つかない。
全部、私の希望だったってこと?
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「わ、私は」
声が震えた。震えたけど続けた。これは私の領分の話だ。
「わ、私は、しゃべれない。だ、だから、書いてる」
「うん」
「か、書かないと、なかったことに、なる。あ、あったことも、考えたことも、ぜんぶ」
「そうか」
「だ、だから、なかったことにするの、よくない」
松谷が、私をまっすぐ見た。
「なかったことにしたほうがいい事柄も、ある」
「ないっ」
「ある」
「ないっ」
部室に響いた。自分でびっくりした。
こういうときたいていの人は引く。うるさかったねって言うか、笑ってごまかすか、話題を変える。
この人は、引かなかった。
「君は、書かなければ消えると言った。俺は、書けば残ると知っている」
「の、残ればいいじゃん」
「残ったものが、人を殺すことがある」
「こ、殺す……?」
「言葉が過ぎた」
そこだけ少し早口だった。
「だが、取り下げない」
――私、いま、本気で言い返されてる。
月之木先輩は面白がって乗ってくれる。温水は黙って聞いてくれる。チビスケは聞いてない。
正面から「ある」と返されたのは、たぶん生まれて初めてだ。
こわい。
こわいのに体の芯がちょっとだけ熱い。
「……じ、じゃあ、聞くけど」
私は膝の上で、ぎゅっと拳を握った。
「な、無かったことにして、そ、それで、うまくいったの」
松谷の指が止まった。
「いっていない」
「……」
「消したものは、消えない。消したという事実が残る」
「……そ、それ、いちばん、たち悪い」
「そうだ」
この人は、いま、私に負けを認めた。
勝った気がまったくしなかった。
私は自分のノートのことを考えていた。
去年の秋に一冊ぶん破いて捨てた。玉木先輩のことを書いた頁が混ざっていたからで、混ざっている頁だけ抜くと不自然になるので、全部まとめて捨てた。
いま思い出せるのは、捨てたことのほうである。中身は思い出せない。捨てたという事実だけが、消えずに一年ここにある。
そういうことを、この人はたぶん、私の何倍もの量でやっている。
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「……じ、じゃあ」
私は本を置いた。両手が空いた。
「じ、事実だけ、書けば。あ、あったことだけ。だ、誰も困らないこと。ご、ごはん食べたとか、暑かったとか」
松谷の指が、机の上でもう一度止まった。
「……記録なら、書ける」
「か、書けるじゃん」
「書ける」
そう言って、この人は黙った。
長い沈黙だった。蝉がじいじい鳴き、風でカーテンがふわりとふくらんで、私の前髪が持ち上がってまた落ちた。
顔を見た。
痛そうな顔をしていた。
なんで痛そうなの。ごはんの話をしただけなのに。
聞かなかった。
こういうときは分かる。私にも聞かれたくないことがたくさんある。
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松谷は手帳を出し、何か短く書いた。
二行くらいだったと思う。覗いてない。覗いてないけど二行だった。
「小鞠」
「ひゃ、はい」
「少し、考えさせてほしい。今日中には出せない」
「し、締切、八月三十一日」
「承知した」
松谷は原稿用紙を机に置いて、上下を確かめ、罫線の向きを直した。
慣れている。
「……つ、使い方、知ってるんだ」
「知っている」
「お、教えようと思ってた」
「不要だ」
「……そ、そう」
少し残念だった。
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「小鞠」
「ひゃ、はい」
「一つ、聞いていいか」
「な、なに」
「君は、それで書いているのか」
松谷が、私のノートパソコンを見ていた。
「……そう」
「速いな」
「は、速い?」
「さっきから見ていた。手が止まらない」
止まらないのは、喋らなくていいからである。
口は三割しか出ないが、指は十割出る。
「……や、やってみる?」
言ってから、しまったと思った。
私は人に何かを教えたことがない。
「……いいのか」
「いいっ」
もう遅い。
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私はパソコンを松谷の前に押した。
松谷は椅子を寄せ、画面を見て、それからキーボードを見た。
長いこと見ていた。
「……これは、タイプライターと同じか」
「え」
「並びだ。左の上から、Q、W、E、R、T」
「……た、タイプライター?」
「そうだ」
「え、あの、は、博物館にあるやつ?」
「博物館」
「そ、そう。ガラスケースの、な、中の」
松谷は、しばらく黙った。
「……そうか。博物館か」
「……し、知ってるんだ」
「使った」
「つ、使ったことあるの!?」
「ある」
「に、日本語、打てるの」
「打てない」
「え」
「あれは英文の機械だ。日本語のものは、別にある」
「べ、別」
「活字を並べた盤があって、一字ずつ拾う。専門の者がやる」
「……ぜ、全然ちがう」
「全然ちがう。私は日本語のほうは触ったこともない」
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「じゃ、じゃあ、な、なんで英文のが打てるの」
松谷は、少し黙った。
「……向こうにいたときに、覚えた」
「む、向こう」
「英国だ」
「え」
「三年いた」
「……え?」
「三年だ」
私は、この人の顔を見た。
十五歳である。
「あ、あの」
「なんだ」
「い、いつ」
「……昔だ」
出た。
この人の「昔」は、たいてい出口がない。
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「う、打てる人、い、いっぱいいたの」
「いない」
「え」
「向こうへ行った者か、外務省の人間くらいだ」
「それだけ?」
「それだけだ。だから、自分で打った」
「じ、自分で」
「人に頼めない紙もある」
「……」
「速くはない。清書だけだ」
また、変な穴があいた。
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「な、並び、同じなの」
「ほとんど変わっていない」
「い、意外と、変わらないんだ」
「変わっていない」
そう言ったこの人の声が、ほんの少しだけ低かった。
変わらないものを見つけたときの声だった。
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「だが、これでどうやって仮名を打つ」
「か、仮名は打たない」
「打たないのか」
「ろ、ローマ字で打つ。そ、そしたら、勝手に仮名になる」
「……勝手に」
「か、勝手に」
「……了解した」
了解した、と言った人の顔が、了解していなかった。
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「う、打ってみて」
「何を」
「な、名前」
松谷は指を二本立てた。
一本ではなかった。タイプライターの人である。
そして、キーを探しはじめた。
「……M、A」
「そ、そう」
「T、S、U」
「そう」
「T、A、N、I」
まつたに
十九秒かかった。数えてしまった。
私は膝の上で拳を握った。握らないと手が出そうだった。
「へ、変換」
「変換」
「し、下の、長いキー」
松谷が押した。
松谷
「で、出た」
「……出たな」
この人が驚くのを、私は初めて見た。
顔は動いていない。声の高さが、ほんの少しだけ上がっただけである。
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「つ、次。し、下の名前」
「……」
「な、なんて読むの」
「せい、だ」
「え」
「まこと、ではない。せいだ」
「し、知らなかった」
「よく間違えられる」
松谷は、また一本指で打った。
変換した。
性 聖 正 制 姓
「……な、ないよ」
「ない」
「じ、自分の名前が、ない」
「ある。順番が遅い」
松谷は変換のキーを何度も押した。押すたびに指が戻ってきて、また押す。
七回目に出た。
誠
「……で、出た」
「出た」
「な、七回」
「七回だ」
「……お、遅くない?」
「遅い」
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「ほ、保存して」
「保存」
「き、消えないように」
松谷の指が止まった。
「……消えないのか」
「き、消えない」
「押せば、残るのか」
「の、残る」
「いつまでだ」
「……こ、壊れなければ、ずっと」
松谷は、しばらく画面を見ていた。
見てから、人差し指で、そのキーを押した。
二本ではなく、一本だった。
「……残ったな」
「の、残った」
「そうか」
それだけ言って、この人は椅子の背に少しもたれた。
もたれるのを、私は初めて見た。
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三
部室を出て、印刷室に寄った。
部誌の紙を何枚頼むか、事務の先生に出す紙を書かないといけない。
扉を開けたら、先客がいた。
「やあ、御機嫌よう」
「うなっ!」
声が出た。出てから引っ込める方法は、ない。
転入生の二人組の、綺麗なほうである。
一年の加瀬。生徒会で、新聞部で、七月のバーベキューで網の反対側にいた男だ。
肉を焼くのがうまかった。それだけ覚えている。
私はこの人と、一度も口をきいていない。
同じ火を囲んで、一度もである。
「文芸部の小鞠さんですね」
「……」
「バーベキューでご一緒しました」
「……し、知ってる」
「覚えていてくださいましたか」
「お、覚えてる」
「光栄です」
嘘だ。
この人はたぶん、覚えていない相手にも同じ顔をする。
「……な、なんで、わ、私の名前」
「五十二枚書いた人だと聞きました」
誰だ喋ったのは。月之木先輩か。月之木先輩だ。
私は扉のほうへ半歩下がった。
「あ、あの、わ、わたわた、私、紙の枚数を、書きにっ」
「どうぞ。僕はもう終わりました。輪転機の前、失礼」
「……り、輪転機」
「印刷機です」
「いま輪転機って言った」
「言っておりません」
「い、言った」
「印刷機です」
この人、たまに古い言葉を使う。
加瀬は印刷機の横をどいた。
どいてくれたのに、なぜか出ていかない。
そして、口の中で何かを転がしている。
カラン、と音がした。飴だ。
それと、右手の指が動いている。
親指の腹で、人差し指と中指の先を順番に押している。何かを挟んでいた形のまま、挟むものがないので指だけが動いている、という動き方だった。
本人は気づいていないと思う。喋りながらずっと動いている。
「……」
「どうぞ、お気になさらず」
気になる。
すごく気になる。
さっきから、頬の内側で飴が右に行ったり左に行ったりしている。
「な、なんで、ずっと、あ、飴なめてるの」
「口が寂しいので」
「く、口が、さびしい」
「昔、別のものを咥えていました」
「な、なに」
「……鉛筆です」
「う、嘘だ」
「嘘です」
即答された。
この人、嘘をついた次の秒に嘘だと言う。何がしたいんだ。
「な、なんで、嘘つくの」
「間が持ちませんので」
「も、持たせなくていい」
「持たせるのが、仕事でしたので」
「……し、仕事?」
「趣味です」
「いま、仕事って言った」
「言っておりません」
「言った」
「言っておりません」
飴が、また右から左へ移った。
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「小鞠さんは、小説を書かれるとか」
「……か、書く」
「僕も書きます」
「し、新聞?」
「新聞も書きますし、それ以外も書きます。書くのが趣味ですので」
「……し、趣味」
私はそこで止まった。
「し、趣味なの」
「趣味です。仕事ではありません」
「……」
「ですから、書けなくても死にません」
――死ぬけど。
私は死ぬ。書けなかったら死ぬ。
たぶん顔に出ていた。
加瀬はしばらく私を見て、それから飴を頬の反対側に移した。
「小鞠さん。船が流されるのは、風のせいだと思いますか」
「……は?」
「風のせいではありません。錨がないからです」
「……い、いかり」
「錨です。海に落とす、あの鉄の」
急に何の話だ。
言い返そうとして、言い返す言葉が出てこなかった。私はこういうとき、いつも三秒遅れる。三秒あれば相手は次の話をしている。
「あなたは、書くことを帆にしている」
「……ほ」
「どこかへ行くための道具にしている。締切とか、枚数とか、誰かに読ませたいとか。速く進みたい人の使い方です」
「わ、悪い?」
「いいえ。速いのはいいことです」
加瀬は印刷機に手を置いた。
「ただ、帆しかない船は、風の吹くほうにしか行けません。風が止めば止まりますし、逆から吹けば戻されます」
「……」
「錨は、進むための道具ではありません。流されないための道具です」
「じ、じゃあ、書くのを、い、錨にするって、な、なに」
「あなたはさっき、なんと言いました」
「……い、言ってない」
「では、いつも何と言っていますか」
私は口を開いた。
開いて、勝手に出た。
「……か、書かないと、なかったことに、なる」
言ってから、しまったと思った。
今日二回目である。
「それです」
加瀬が言った。
「それが錨です」
「……え」
「進むために書くのではなく、流されないために書く。あなたはもう持っています」
「……も、持ってる」
「持っていることに、気づいていないだけです」
私は、扉の取っ手を握ったまま動けなかった。
――ずるい。
こんな喋り方をされたら、逃げられない。
こっちは一文を三回に分けて出しているのに、この人は最初から最後まで一度もつっかえない。
「あ、あの」
「はい」
「そ、そういうの、ど、どこで習うの」
「習っていません」
「う、嘘だ」
「本当です」
「……」
「本当ですが、二十年やりました」
「に、二十――」
「五分です」
加瀬はそう言って、机の上の紙を一枚取った。
「ちなみに、これが今月の僕の記事です。一世一代の名文ですよ」
私は受け取って読んだ。
『購買のパン、値上げ。理由を聞きに行った』
「……」
「どうです」
「……ふ、普通」
「普通が一番難しいんです」
「み、見出しも、じ、地味」
「地味でしょう」
「み、認めるんだ」
「派手な見出しは、中身が薄いときに使います」
「……」
「覚えておくといいですよ」
なんか腹が立つ。
腹が立つのに、私はその三十行をもう一度頭から読んでいた。
購買のおばちゃんに値上げの理由を聞きに行って、小麦の値段の話を聞いて、それを三十行に収めてある。おばちゃんが最後に言ったひとことで終わっていて、そのひとことが記事の中でいちばん短い。
うまい。
悔しいけど、うまい。
私が五十二枚かけてやろうとしていることを、この人は三十行でやっている。しかも本人はそれを趣味だと言う。
印刷室を出るとき、私は紙を返さなかった。
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四
帰りに図書室へ寄った。
高木先生はカウンターで本の背に番号を貼っている。この人の夏休みは番号でできている。
「小鞠さん。松谷は、部室にいましたか」
「い、いました」
「そうですか」
「な、なんで、聞くんですか」
「……通り道ですので」
「と、遠回りですよ。ぶ、部室、三階です」
「そうですか」
私はカードを出しながら余計なことを言った。
「げ、原稿、書けてないみたいです」
先生の手が止まった。
止まって、すぐ動いた。
「そうですか」
さっきと同じ言葉なのに違って聞こえた。
「締切は、いつです」
「は、八月三十一日、です」
「一か月ありますね。では、大丈夫でしょう」
「……な、なんで」
「なんとなくです」
「……せ、先生、それ」
「根拠はありません」
「な、ないんですか」
「ありません。ですが、大丈夫です」
「……い、言い切った」
「言い切りました」
先生はラベルを貼りながら平気な顔をしている。この学校でいちばん頼りにならない立場の人が、いちばん平気な顔をしている。
「せ、先生」
「はい」
「……こ、この図書室に、か、借りられない本って、あるんですか」
「あります」
即答だった。
「ど、どのくらい」
「二千冊ほど」
「に、二千!?」
「十年、一度も貸出票に判が押されていない本です」
「か、数えたんですか」
「数えました」
「い、いつ」
「四月から、六月までです」
「……ひ、暇なんですか」
「暇です」
「そんなに堂々と……」
「事実ですので」
「せ、先生、それ、生徒に言うことですか」
「言いました」
「い、言いましたね」
「……す、捨てないんですか」
「捨てません」
「な、なんで」
「借りられなかった本と、まだ借りられていない本の区別が、私にはつかないからです」
私は、口を閉じた。
閉じてから、勝手に開いた。
「……わ、私の書いたのも、そ、そっちかも」
「どちらですか」
「……か、借りられない、ほう」
先生はラベルを置いた。
こと、と音がした。この人が作業を止めるのを、私は初めて見た。
「小鞠さん」
「は、はい」
「自分の本を、自分で棚から下ろすのは、やめなさい」
「……え」
「棚から下ろされた本は、二度と借りられません。読まれなかったからではありません。そこに無いからです」
「……」
「負けたと決めるのは、たいてい、書いた本人です。読む側ではありません」
外で蝉がじいじい鳴いていた。
図書室は冷房が効いていて、その音だけが遠かった。
「わ、私、そんな、し、深刻な話は」
「していません」
「……し、してないですよね」
「本の話です」
先生はラベルを持ち直した。
「ですが、取り下げません」
――今日、二人目だ。
この人たち、どうして揃いも揃って、取り下げないんだろう。
---
「せ、先生」
「はい」
「ま、松谷は、書けますか」
「書きます」
「な、なんで、言い切れるんですか」
「あの人が、書かなかったことは一度もないからです」
「……え」
先生はそこで、ほんの少しだけ間を置いた。
「……失礼。言い方が悪かった」
「え……えっ?」
「書けと言われたものを、書かなかったことがない。そういう意味です」
「じゃ、じゃあ、なんで白紙なんですか」
「今回は、誰にも言われていないからでしょう」
私は、しばらくそこに立っていた。
言われていないから。
言われれば書く。言われなければ書かない。そういう人が、いま、生まれて初めて誰にも言われていない。
「……せ、先生。それ、す、すごく、ひどい話じゃないですか」
「そうですね」
先生はあっさり頷いた。
「ひどい話です」
そして、番号を貼りはじめた。
私は本を抱えたまま、カウンターの前から動けなかった。
言われれば書く人。
その言い方だと、まるで道具みたいだ。使う人がいて、初めて動くもの。
でも、たぶん違う。
道具は嫌がらない。あの人は嫌がっていた。原稿用紙の前で二時間座って、書けと言われたわけでもない一枚を破って、翌日また出してくる。
自分から書きたいのだと思う。
書きたいのに、書き方を知らない。八年ぶんの書き方を、身体が先に覚えてしまっているからだ。
……それって。
私が、人前で喋れないのと、たぶん同じ形をしている。
---
五
その夜、布団の中で戦果を集計した。
「……さ、作戦名、幽霊部員を人間にする作戦」
「……し、進捗、原稿、依然として白紙」
「……ふ、副次成果、パ、パソコンの使い方を、お、教えた」
「……そ、損害、大声を出した。喉が痛い」
「……ぐ、偶発、印刷室で、へ、変な男に、捕まった」
「……せ、戦利品、新聞、一部」
「……そ、その他、敵が、じ、自分の名前を、七回目で変換」
「……ふ、不明点、敵は、な、なぜ英国に三年いたのか」
私は加瀬から取ってきた新聞を枕元に置いた。
パンの値上げの記事である。三十行しかない。
三回読んだ。
「……ふ、普通に、面白い」
腹立たしい。
「……と、特記事項」
「……せ、正面から、言い返された。ふ、二人に」
もぞ、と掛け布団を鼻まで引き上げた。
「ある」って。
「取り下げません」って。
思い出したらまた体の芯が熱くなった。悔しいのか嬉しいのかは自分でも分からない。たぶん両方だ。
私は五十二枚書いた。あの人は零枚。だから私の勝ちである。
「……な、なのに」
なんで、あの人が一枚書くところをこんなに見たいんだろう。
---
寝返りを打って、天井を見た。
今回は、誰にも言われていないからでしょう。
「……」
私は布団の中で起き上がった。
「……い、言えば、いいのか」
言えば書く。
言われないから書かない。
じゃあ、言えばいい。
「……で、でも」
私はこれまで、人に何かをやれと言ったことが一度もない。
チビスケにも言えない。温水にも言えない。玉木先輩にも、月之木先輩にも、言ったことがない。
いつも、私が引き受けてきた。
「……む、無理」
言ってから、私はもう一度、加瀬の言葉を思い出した。
流されないための道具です。
「……」
私は枕元のスマホを取って、メモを開いた。
明日、松谷に言う。
「書け」と言う。
指が震えて、変換が二回失敗した。
二回である。
あの人は、七回だった。
「……い、言えるかな」
たぶん言えない。
言えないけど、書いた。
書いたから、なかったことにはならない。
---
そういえば、と思って、私はパソコンのことを思い出した。
あの人が保存したファイルには、名前がついていない。
件名を必ずつける人が、つけなかった。
中身は三文字である。
私は、消していない。
《無題 三文字》