負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
二次創作/視点:小鞠知花・高木惣吉
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一
【小鞠知花】
八月二日。
「書け」と言えないまま、四日が過ぎた。
言おうとは思った。毎朝思った。
松谷は三時十二分に部室へ来る。原稿用紙を一枚出して二時間座って帰る。それを私は四回見送った。
見送るたびに、喉の奥で言葉が引き返す。
私の口は三割しか出力しない。その三割は、いつも悪口の側に取られている。
「……む、無理」
だから今日は、部室に行かなかった。
代わりに、旧校舎の二階へ降りた。
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図書室の扉を開けると、冷たい空気と紙の匂いが出てきた。
高木先生はカウンターの内側で本を読んでいた。分厚い。表紙に何も書いていない。
「小鞠さん」
顔を上げずに名前を当てられる。足音である。私は右足が先に鳴るらしい。
「こ、こんにちは」
「こんにちは」
「せ、先生、ずっといるんですか。な、夏休みなのに」
「おります」
「な、なんでですか」
「本があるので」
先生は栞を挟んで本を閉じた。この人は本を伏せない。必ず栞を挟む。
「ご用件は」
「……あ、あの」
「はい」
用件はある。松谷に読ませる本がほしい。
だが言えば「なんで松谷に」と聞かれる。聞かれたら答えられない。
だから遠くから入ることにした。
「ひ、人に、本を、す、すすめるとき」
「はい」
「ど、どうすれば、いいんですか」
先生は、二秒くらい黙った。
「相手の名前を、うかがってよろしいですか」
「だ、駄目です!」
「そうですか」
即答で引き下がられた。
引き下がられると、それはそれで困る。
「あ、あの。な、名前は、言えないんですけど」
「はい」
「ひ、人です」
「人ですか」
「ひ、人に、すすめる話です」
「承知しました」
「な、なんで納得するんですか」
「人以外にすすめる方は、少ないので」
「そうですけどっ!」
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「せ、先生は、す、すすめないんですか」
「すすめません」
「な、なんで」
「私は貸す係です。選ぶ係ではありません」
「……り、理屈っぽい」
「事実です」
「じ、事実で逃げてる」
「逃げています」
認めた。
この人は認めるとき表情が変わらない。松谷と同じである。この学校の転入生と教師は揃いも揃って認めるのが早い。
「じゃ、じゃあ、質問を変えます」
「どうぞ」
「せ、先生が、いま読んでる、そ、それは」
「哲学の本です」
「お、面白いですか」
「面白いです」
「どこが」
先生の指が、表紙の上で止まった。
止まって、それから、少しだけ動いた。
「……説明が、長くなります」
「み、短くしてください」
「短くできません」
「……」
「短くできる程度のものなら、二十年も読みません」
「に、二十年」
「……そう感じただけです」
「せ、先生、二十五ですよね」
「そうです」
私は、口を閉じた。
この人、いま自分の話をしたぞ。
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二
【小鞠知花】
「小鞠さん」
「は、はい」
「一つ、伺ってよろしいですか」
――え。
聞かれた。
この人が私に何かを聞くのは、貸出の手続き以外で初めてである。いつも私が聞いて、この人が答える。それしかなかった。
「ど、どうぞ」
「小鞠さんは、これまでに何冊、人にすすめましたか」
「……え」
「本をです」
私は指を折ろうとして、折る指がないことに気づいた。
「……ぜ、ゼロ」
「そうですか」
「……」
「一冊も、ですか」
「い、一冊も」
「……」
「か、書いたのは、五十二枚あります」
「存じています」
「な、なんで知ってるんですか」
「月之木さんが、おっしゃいました」
「あっ、あの人!」
慰められると思った。
そんなことないですよとか、これからですよとか、そういうやつが来ると思った。
来なかった。
先生は貸出票の箱を引き寄せて、一枚めくった。
「この図書室で、生徒が生徒にすすめた本は、今学期で三冊です」
「……さ、三冊」
「三冊です」
「す、少なくないですか」
「少ないです」
「だ、誰が、すすめたんですか」
「答えません」
「ひ、一人だけ」
「答えません」
「じゃあ、ヒント」
「答えません」
「さ、三回言った」
「三回、聞かれましたので」
「……」
「利用者の記録ですので」
かたい。相変わらずかたい。
でも、私はそこで気づいてしまった。
三冊。
つまりこの学校の生徒は、ほとんど誰も、誰にも、本をすすめていない。
すすめるというのは、たぶん、そういうことなのだ。
これが好きだと言うのは、私はこういう人間ですと言うのと、ほとんど同じ意味になる。
だから誰も言わない。
私も言わない。
――言えるわけない。
言えるわけないのに、鞄の中の重さが急に気になった。
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三
【小鞠知花】
私は鞄を開けた。
開けてから、二十秒くらい迷った。
出したり戻したりしていると、先生は待っていた。待っているのに待っている顔をしない。ただ手を止めて、こちらを見ないまま止まっている。
――松平先生と同じだ。
あの人も、こっちが喋り終わるまで自分の番を取りにこない。この学校の非常勤は揃いも揃ってこれである。
私はカウンターに本を置いた。
ことん、と音がした。
「……こ、これ」
「はい」
「……よ、読んでください」
言った。
言ってから、心臓がどくどく鳴りはじめた。顔が熱い。耳まで熱い。
先生は本を手に取った。
そして、表紙を見た。
『声が出ないので、手紙にします』
制服の女の子が描いてある。全身。うつむいて、口元に手を当てている。
「……これは、表紙が」
「い、言うな!」
「失礼しました」
「い、言うなって言った!」
「言っておりません。表紙が、とだけ」
「そ、そこで止めるのが、いちばん、こわいっ」
先生は表紙を裏返して、机に置いた。
裏返した。気を遣ったのだ。
それはそれで腹が立つ。
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「題名が、正確ですね」
「……え」
「声が出ないので、手紙にします。中身と、題名が、合っています」
「よ、読んでない」
「読んでおりません。ですが、そういう題です」
先生は本を開かないまま、指で厚みを測った。
「小鞠さん」
「はいっ」
「その本の、どこがお好きですか」
――出た。
さっきの質問の、二倍こわいやつが出た。
私は口を開いた。
開いたら、止まらなかった。
「……ま、まず、主人公が、しゃ、喋れないんですけど、こ、これ、病気じゃないんです。喋れるんです。声は出るんです。で、でも、相手の前だけ出ない。そ、それで手紙を書くんですけど、て、手紙って、書き直せるじゃないですか。で、でも喋るのは書き直せない。だ、だから主人公は手紙の中でだけ、す、すごく喋る。三十七通目で、や、やっと、あの、その、相手が、て、手紙のほうが本当なんだって、き、気づくところが、あって」
「はい」
「そ、それで、あの」
「はい」
「……ご、ごめんなさい。長い」
「長くありません」
先生は、一度もこちらから目を離さなかった。
「三十七通目、ですね」
「……お、覚えたんですか」
「はい」
「な、なんで」
「聞いたからです」
私は、返す言葉を持っていなかった。
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――だ、誰も、聞かなかった。
月之木先輩は面白がってくれる。でも先輩は自分の話をする。
温水は黙って聞いてくれる。でも聞き返してこない。
チビスケは聞いていない。
三十七通目、と言い返してきた人は、一人もいなかった。
「小鞠さん」
「……は、はい」
「お預かりして、よろしいですか」
「……ど、どうぞ」
「返却は、いつまでで」
「いつでも」
「では、期限を決めさせてください」
「な、なんでですか」
「決めないと、たいてい間に合いませんので」
「い、いつまでですか」
「一週間で」
「は、早くないですか」
「一晩あれば足ります」
「い、一晩!?」
「四百頁ございませんので」
そのとおりだと思ったので、私は黙ってうなずいた。
「あ、あの、先生」
「はい」
「それ、職員室で読まないでくださいっ」
「なぜです」
「……ひ、表紙が」
「表紙は伏せます」
「ふ、伏せても、めくったら出ます」
「……では、伏せたまま読みます」
「よ、読めないでしょ!」
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四
【小鞠知花】
「せ、先生の番です」
「私のですか」
「す、すすめてください」
「私は選ぶ係では――」
「いま、私が選びました」
言ってから、自分の前髪を引っ張った。引っ張っても、言ったことは消えない。
「……」
「だ、だから、先生も」
先生は、二秒くらい黙った。
「……では、こちらの番です」
先生は立ち上がった。
そして、書架の奥へ入っていった。
戻ってきて、机に一冊置いた。
『善の研究』
「……」
「西田幾多郎です」
「よ、読めるわけないでしょ!」
「読めます」
「い、一頁目で寝ます」
「私も、最初は寝ました」
「ね、寝たんだ」
「三年ほど寝ました」
「さ、三年!?」
「四年目に、起きました」
「よ、四年目に起きる本を、す、すすめないでください」
「では、別のものを」
先生はまた奥へ入っていった。
――いま、あの人、ちょっと残念そうだったな。
戻ってきた。
『山月記』
「それ、教科書に載ってます」
「……そうですか」
「し、知らなかったんですか」
「知りませんでした」
「せ、先生なのに」
「私は司書です。国語の教員ではありません」
「に、逃げた」
「逃げました」
「で、でも、載ってます」
「教科書には、続きが載っておりません」
「つ、続き?」
「同じ方が、もう一つ書いておられます」
先生は三度目に奥へ入り、今度はなかなか戻ってこなかった。
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五分待った。
十分待った。
私は本棚のあいだを覗きに行った。
先生は、いた。
書架の前に立って動いていなかった。
手には本を持っている。開いてもいない。ただ背表紙の列を端から端まで目で往復させている。
「……せ、先生」
聞こえていない。
私は、その横顔をしばらく見ていた。
この人は、こういう顔をするのか。
カウンターにいるときも、廊下ですれ違うときも、この人の顔はいつも同じである。眠そうで眠そうじゃない目。何を言われても変わらない。
いま、変わっている。
――ああ。
これ、知ってる。
去年の冬、図書館の新刊コーナーで、私が三十分動けなかったときと、同じ顔だ。
たぶんこの人は、毎日ここでこれをやっている。
閉館時間を過ぎても気づかない人が、この学校に一人いる。
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「……小鞠さん」
「は、はい」
「失礼しました。いま何時ですか」
「五時、四十分です」
「……そうですか」
「四十分、そこに立ってました」
「そうですか」
「そ、そうですかって」
「……面目ありません」
「な、何を探してたんですか」
「探しておりません」
「た、立ってただけ?」
「見ておりました」
「な、なにを」
「……並びをです」
「な、並び」
「八十年ぶんが、並んでおります」
意味が分からなかった。
分からなかったが、聞き返さなかった。
聞き返してはいけない声だった。
先生は本を持って戻ってきた。
古い本だった。布の表紙が擦り切れて、角が丸くなっている。
『李陵』
「そ、それは」
「同じ方です。教科書に載っていないほうです」
私は本を開いて、後ろの見返しを見た。
貸出票が貼ってある。
日付の欄が、全部、空だった。
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「……い、一度も」
「一度もです」
「な、なんで」
「教科書に載っておりませんので」
さらりと言った。
さらりと言ったが、この人は四月からずっと、この一冊の場所を覚えている。
二千冊のうちの、一冊である。
「せ、先生」
「はい」
「ど、どこが、好きなんですか」
先生は少し黙った。
「……最後の、三行です」
「な、なんて書いてあるんですか」
「読めば分かります」
「いま、知りたい」
「いま申し上げると、三行が二行になります」
「へ、減るんですか」
「減ります」
「……い、意味わかんない」
「読めば分かります」
二回言われた。
この学校の大人は、どうして揃いも揃って二回言うんだろう。
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五
【小鞠知花】
私は貸出票にペンを当てた。
日付の欄のいちばん上。上には何もない。十年ぶんの空白の先頭に、私が書くことになる。
「せ、先生」
「はい」
「こ、これ、借りたら、どうなるんですか」
「判が押されます」
「それだけ?」
「それだけです」
「……」
「ですが、次に開いた者は、あなたの名前を見ます」
「つ、次っていつですか」
「分かりません」
「こ、来ないかも」
「来ないかもしれません」
私はペンを止めた。
そういうことか。
八月二日 小鞠知花
字が震えた。震えたけど書いた。
「せ、先生」
「はい」
「こ、この本、面白いですか」
「面白いです」
「ど、どこがですか」
「……読めば分かります」
「また言った」
「三回目です」
先生は日付印を取って、かたん、と押した。
十年ぶりに、その紙が音を立てた。
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「小鞠さん」
「……はい」
「一つ、申し上げてよろしいですか」
「ど、どうぞ」
「私は、この本を四月に見つけました」
「……四月」
「見つけてから、誰にもすすめておりません」
「な、なんでですか」
「すすめられませんでした。読まれずに戻ってきたら、どうしようかと」
「……せ、先生も、ですか」
「私もです」
私は、その言葉を三回くらい頭の中で繰り返した。
この人が、こわいと言った。
二千冊を数えて、判の数を全部知っていて、いつも平気な顔をしているこの人が、いま、こわかったと言った。
「……せ、先生」
「はい」
「わ、私も、こわかったです」
「そうでしょうね」
「な、なんで分かるんですか」
「二十秒、鞄を開けたり閉めたりしておられましたので」
「み、見てたんですか!」
「見ておりました」
「ふ、普通、目を逸らすとこです」
「逸らすと、置きにくくなりますので」
「……」
「置きやすいほうが、よろしいかと」
「……せ、先生」
「はい」
「か、貸出票、いらないんですか」
「これは私物ですので」
「わ、私の本を、せ、先生に貸すのは、な、なんて言うんですか」
「……貸借です」
「……かたい」
「事実です」
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帰り道、私は本を胸に抱えて歩いていた。
日が長い。八月の五時四十分は、まだ夕方でもない。
蝉がじいじい鳴いている。
歩きながら、私は一つ考えていた。
――言われた。
先生は「読んでください」と言われて、読むことにした。
私は「読んでください」と言った。それだけである。理由も説明していない。うまくもなかった。
それでも、あの人は読む。
今回は、誰にも言われていないからでしょう。
四日前に、同じ人が言った言葉である。
「……い、言えば、いいんだ」
私は立ち止まった。
言えば書く。言われないから書かない。
なら、私が言えばいい。うまく言えなくていい。今日の私は、うまく言えなかった。
それでも通った。
「……あ、明日」
明日、部室に行く。
三時十二分に、あの人が来る。
原稿用紙を一枚出して、二時間座って、一文字も書かずに帰るその前に。
「……か、書けって、言う」
言ってから、自分の声の小ささにびっくりした。
道には誰もいなかった。
誰もいないのに、この音量である。
「……む、無理かも」
無理かもだけど、言う。
私は本を抱え直して、また歩き出した。
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六
【高木惣吉】
その夜、松平邸の自室で、高木惣吉は本を開いた。
『声が出ないので、手紙にします』
表紙は伏せてある。伏せたのは本人の癖である。恥じたわけではない。
彼は最初の頁から順に読んだ。飛ばさなかった。
三十七通目に至るまでに、二時間かかった。
途中で一度、上着の内から小瓶を出した。希塩酸である。栓に指をかけて、そのまま戻した。
痛くないのに飲む必要はない。
そう考えた自分に、少し驚いた。
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「……なるほど」
読み終えたのは、日付が変わってからだった。
彼は本を閉じた。栞を抜いて、机の端に揃えて置く。
手帳を開く。
八月二日 貸出票一件。十年ぶり。
事実を一行。
それから、判断の欄に何を書くかで、彼は珍しく手を止めた。
いつもは保留と書く。三十年、彼は保留と書いてきた。
評価は保留する。
そう書きかけて、彼はその行を消した。
代わりに、こう書いた。
三十七通目は、たしかに、そこであった。
書いてから、彼は自分の字を見た。
判断ではない。感想である。
感想を書いたのは、たぶん、少年のとき以来だった。
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彼はもう一度、本の表紙を裏返した。
制服の少女が、うつむいて口元に手を当てている。
――この題は、正確だ。
声が出ないので、手紙にする。
彼にも心当たりがある。八十年ぶんの心当たりがある。
言えなかったから書いた。書いたものは通らなかった。通らなかったが消えはしなかった。
――明日、言おう。
高木惣吉は電灯を消した。
言うことは、決まっている。
次を、お願いします。
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