負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
二次創作/視点:温水和彦
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一
【温水和彦】
「お兄様、進みましたか」
「進んでない」
「では麦茶をお持ちしますね」
「さっき飲んだ」
「三十分前です」
「三十分前は、さっきだろ」
「お兄様。水分は大切です」
「大切だけど、四杯目だ」
「五杯目もございます」
「予告するな」
八月三日、午前九時半。今日で四杯目である。
佳樹に悪気は一ミリもない。ないからこそ逃げ場がない。三十分おきに進捗を確認される環境で原稿を書けというのは、もう拷問の一種だと思う。
部誌の締切は八月三十一日。枚数自由、テーマ自由。つまり何を書いてもいい。
何を書いてもいいというのは、この世でいちばん難しい条件である。
「お兄様。お邪魔でしたら、佳樹は出ていきます」
「出ていってくれ」
「まあ。お兄様ったら」
「出ていってくれとは言ったが」
「聞こえませんでした」
「聞こえてただろ」
「部室に行ってくる」
「まあ。お勉強ですか」
「執筆環境を整えに行くんだ」
「逃げるんですね」
「違うが?」
「お茶菓子をお持ちしますか」
「持ってくるな!」
そういうわけで俺は、真夏の午前十時に、誰もいない旧校舎の階段を上っていた。
段が妙に浅い。上りやすいというよりリズムが狂う。この建物は全体に、いまの学校と寸法の感覚が違う。天井が高く、窓が大きく、廊下が広い。
三階に着いて、俺は足を止めた。
廊下に人がいる。しゃがみこんで、壁に何か当てている。
司書の高木先生だった。
夏休みの旧校舎に司書がいるのはおかしくない。おかしいのは、持っているものである。
「……巻尺?」
幅の広い、建築現場で使う金属のやつ。
「温水君。ちょうどよかった」
先生は立ち上がると、巻尺の先端を差し出してきた。
「持っていてください」
「え」
「そこの角に当てて、動かさないように」
「あの、これ」
「動かないでください」
「……はい」
受け取ってから、俺はまだ何も聞いていないことに気づいた。
なぜ司書が巻尺を持っているのか。なぜ夏休みの廊下を測っているのか。なぜ通りかかった生徒が端を持たされているのか。
聞くタイミングを、完全に逃した。
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二
シャッ、と金属が伸びる。夏の廊下に、その音だけが響く。
ラノベなら、ここで謎の少女が現れて俺は異世界の測量士に選ばれるところである。現実には、司書に無言で使役される高校一年生がいるだけである。
巻尺の端を持つ役は、絶対に主人公ではない。
「温水君」
「はい」
「動いています」
「動いてません」
「二ミリ動きました」
「二ミリ!?」
「二ミリです」
分かるのか、二ミリが。
「三六四〇」
「はい?」
「二間ですね」
「……にけん、ですか」
「一間が六尺です。一尺が三〇三ミリ。六尺で一八一八ミリ。二間で三六三六」
「三六四〇でしたけど」
「四ミリは施工誤差です。良好な部類でしょう」
ジャッ、と音がして、金属が吸いこまれていく。
一度、指を挟んだ。
「痛っ」
「巻き戻すときは、手を添えてください」
「先に言ってください」
「先に言うと、たいてい忘れます」
「痛い目に遭わせる前提なんですか」
「経験です」
「この建物は、尺で建っています。メートルで測ると半端な数字になり、尺で測るときれいな数字になる。だから、尺で建っている」
「はあ」
「次はあちらです」
俺は言われる前に端を持って、ついていった。この五分で完全に助手になっている。
「先生」
「はい」
「俺、いつ帰っていいんですか」
「帰ってよろしいですよ」
「……」
「帰りますか」
「……もう少しだけ」
なぜだ。
「六〇六〇」
「えっと、それは」
「三間半です」
「暗算、速いですね」
「掛け算だけですから」
「掛け算だけでも遅いんですけど、俺」
「練習の量です」
「どのくらいやったんですか」
「数えていません」
「そこは数えないんですね」
「数えると、嫌になりますので」
先生は次々に測っていった。廊下の幅。教室の入口。柱の間隔。窓の高さ。そのたびに数字を読み上げ、手帳に書く。
俺は端を持つ。持って、ついていく。
不思議と、退屈ではなかった。
三六四〇が二間になり、六〇六〇が三間半になる。世界の裏側に別の目盛りが隠れていたみたいで、なんだか気持ちがいい。
「先生。この建物、なんで尺なんですか。メートルじゃ駄目だったんですか」
「大工が尺で考えていたからです」
「大工さん」
「設計はメートルでもできます。ですが、実際に木を刻むのは大工です。あの人たちの頭の中の目盛りは尺でできていました」
先生は柱の面に手を当てた。
「図面をメートルで書くと、現場で全部尺に直すことになる。それなら最初から尺で書いたほうが早い。そういう時代の建物です」
「……あ」
「どうしました」
「いや、なんか。設計より、作る人に合わせたんだなって」
先生の手が止まった。
止まって、それから頷いた。
「そうです。そういう建て方をしています」
「褒めてます、それ」
「事実を言いました」
この人、たぶん、いま少し嬉しかった。
顔は一ミリも動かなかったけど。
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「先生。これ、何を測ってるんですか」
「頼まれごとです」
「頼まれごと」
「事務から照会がありました。図書室の書架を、動かせるかどうか」
「動かす?」
「建て替えの検討が出ているそうです。移すのなら、どこの部屋に何を入れるか、先に決めなければなりません」
「……それ、先生の仕事なんですか」
「本を運ぶのは、私です」
「何冊あるんですか」
「二千と少し」
「に、二千」
「重さで申しますと、四トンほどです」
「よ、四トン」
「四トンです」
「先生、それ毎日その下にいるんですよね」
「おります」
「こわくないんですか」
「こわいので、測っています」
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「でも、図面見れば分かるんじゃ」
「図面がありません」
「え」
「この校舎の図面が残っていません。戦争で焼けたか、移転のときに紛れたか。どちらかでしょう」
「……それ、まずくないですか」
「まずいですね」
「あっさり言いましたね、いま」
「ですから、測っています」
理屈は通っている。
図書室は二階で、書架を移すなら空いている部屋を探すしかなくて、そのためには寸法がいる。全部つながっている。
つながっているのに、一つだけ引っかかった。
本を置く場所を決めるだけなら、部屋の内寸が分かればいい。
廊下の端から端まで測る必要はない。
たぶん聞いても同じ答えが返ってくる。そんな気がしたので、聞かなかった。
これは俺の悪い癖である。追及しないでおくと、世界が平和に見える。
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三
最後に、先生は北の突き当たりの部屋を測った。
三階のいちばん奥。机も椅子も入っていない教室で、窓に蔦がかかり、光が緑がかっている。
内寸を測り終えると、先生は廊下に戻り、外側から壁を測った。
そして手帳を開いたまま、黙った。
「先生?」
「……」
「あの」
「合いませんね」
「合わない?」
「廊下の端から端までの寸法と、各室の内寸に壁の厚みを足した合計が、合いません」
「え、測り間違いじゃないですか」
「三回測りました」
「三回も」
「差は、一間半です」
「いっけんはん」
「二七〇〇ミリほど」
俺は数学の成績が悪い。二七〇〇ミリと言われて浮かぶのは「まあまあ長い」くらいのものである。
「それって、どういうことなんですか」
「さあ」
「さあって」
「壁が厚いのかもしれません。配管が通っているのかもしれない。私の測り方が悪いのかもしれません」
「三回測ったのに」
「四回目を、そのうちやります」
書架を置く話は、もう終わっている。
この部屋の内寸は、さっき出た。数字は出て、手帳に書かれた。
そのあとで、この人は廊下へ出て、外側からもう一度測った。
「そのうちって、いつですか」
「そのうちです」
先生は巻尺を巻き戻して、話を終わらせた。
終わらせ方が上手い人だと思う。何も隠していないように聞こえるのに、次に何を聞けばいいか分からなくなる。
そこで先生が咳をした。
一回ではなく、続けて何度か。背中を丸め、壁に手をついて。
「先生、大丈夫ですか」
「昔からです」
「水、買ってきます」
「結構です」
「買ってきます」
返事を待たずに階段を下りた。
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一階の自販機の前に、先客がいた。
スーツを着ている。
いや、正確には上着は着ていない。白いシャツに細いネクタイをきっちり締め、袖口を折り返しもせずに留めている。
八月三日である。旧校舎に冷房はない。
俺のTシャツは背中が完全に貼りついているのに、この人はどこも濡れていなかった。
うちのクラスの副担任だった。
松平先生である。政治経済と古典と英語。五月に来て、一学期のうちに授業の評判だけが学年中に回った人だ。
馬に乗るのは日本と西洋のどちらが上手か。その問いから始まり、最後まで黒板に一文字も書かずに終わった授業を俺はまだ覚えている。八奈見が「上手っていうのは、誰にとって上手なんですか」と聞いて、当たりですと言われた回である。
試験には出ません、と先生は言った。じゃあなんでやったんですかと誰かが聞いて、面白いからですと返ってきた。
そういう人が、いま、自販機にスマホを向けていた。
「……松平先生?」
「……なにしてるんですか」
「撮っております」
「自販機をですか」
「はい」
「なんで」
「硬貨を入れると、冷えたものが出てくる」
「……はい」
「これを、外に置いてあるんですね。鍵もかけずに」
「かかってますよ、たぶん」
「見張りはいますか」
「いないです」
「夜も、ですか」
「夜もです」
「取られませんか」
「たまに蹴られてますけど」
「蹴る」
「壊れて出てこないときに」
「……なるほど。それは分かります」
「分かるんですか」
「分かります」
「先生も蹴ったことあるんですか」
「ございません」
「即答ですね」
「蹴りたくなったことは、ございます」
「どっちですか」
「蹴っておりません」
松平先生は、しばらく自販機を見ていた。
「……素晴らしい」
「え」
「素晴らしいと思います」
真顔だった。
授業のときと同じ顔である。この人はたぶん、面白いと思っているときにこの顔になる。
冗談を言っている顔ではなかった。俺は念のため自販機を見た。何度見ても、いつもの自販機である。ボタンの一つが切れかけ、取り出し口に誰かのレシートが挟まっている。
この人は、それを撮っていた。
――変な先生だな。
そう思ってから、少しだけ引っかかった。
うちの学校のこの手の機械を、俺は入学してから一度も見ていない。見てはいるけど見ていない。あそこにあるもの、として処理している。
そういう見方をしていない人が、いま隣に立っている。
……そういえば。
六月の、体育倉庫のときのことを思い出した。
あのとき俺は熱でぼんやりしていて、順番が全部ばらばらになっている。扉が開いた瞬間の光と、肩を抱えられた感覚と、保健室の天井。その三つが順番の分からないまま残っている。
肩を抱えた腕が、やけにしっかりしていたことだけ覚えている。
そのあと、誰にも聞いていない。
聞かないでおくと、世界が平和に見えるからだ。
俺は自販機に百六十円を入れた。ガコン、と二本落ちてきた。松平先生がそれをじっと見ていた。
「先生、飲みます?」
「いえ。持っておりますので」
先生の手には、水筒があった。
銀色の、古そうな、やたら細長いやつ。持ち手が革で巻いてある。
「……それ、かっこいいですね」
「そうでしょう」
即答だった。
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「温水君。ちょうどよかった」
――今日二回目だ、それ。
「進路希望調査票が、白紙で出ておりました」
「……あ」
思い出した。七月の頭に配られて、七月の頭に鞄の底へ行ったやつだ。
出した記憶はある。中身を書いた記憶はない。
そして担任は甘夏先生で、副担任はこの人である。誰の手に渡るかは、考えるまでもなかった。
「名前だけは書いてありましたね。あれは助かりました」
「名前も間違えておられませんでした」
「そこ褒めるとこですか」
「褒めております」
「……ありがとうございます?」
「すいません」
「謝る必要はありません。困ってはいませんので」
先生は水筒の蓋を回した。
「ただ、少し伺いたいのですが。書けなかったのですか。それとも、書かなかったのですか」
「……どっちが悪いんですか」
「どちらも悪くありません。対処が違うだけです」
俺は、少し考えた。
「……たぶん、書けなかったです」
「なるほど」
「なんか、何を書いてもいいって言われると、逆に」
言ってから、今日これと同じことを二回言っていると気づいた。原稿も進路も白紙である。俺の夏は白紙でできている。
「よくあることです」
先生はあっさり言った。
「私の家にも一人、白紙の紙を前にして座っている子がおりますよ」
「……先生の、お子さんですか」
「預かっている子です」
先生は水筒に口をつけて、それから廊下の先を見た。
「あの年頃は、書けと言われないと書けないものです」
――なんか、聞いたことある話だな。
思ったけど、それがどこで聞いた話なのかは、このとき分からなかった。
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「温水君。一つだけ、お伝えしておきます」
「はい」
「順番を、決めておきなさい」
「順番」
「あなたが大切にしているものを、一番、二番、三番と並べてみる。それだけです」
「……中身が、決まってないんですけど」
「中身は変わります。順番は残ります」
先生は水筒の蓋を閉めた。
「人が困るのは、大切なものが無いときではありません。大切なものが二つあって、どちらが上か決めていないときです。そういうとき、人は迷いません。動けなくなります」
「……迷わないんですか」
「迷いは選べます。動けないのは、選べない状態です」
俺は口を開けたまま、少し黙った。
言われてみると、たしかにそうだった。
俺は書きたくないわけじゃない。何を書きたいかが決まっていないのでもない。書きたいものはいくつかあって、そのどれを一番にしていいのかが分からないだけだ。
だから、机の前で二時間、何も起きない。
「……先生、それ、進路の話ですか」
「進路の話です」
「原稿にも効きますか」
「効くでしょうね」
先生は少しだけ笑った。
笑うと、急に年相応に見えた。
――土台を先に言うことです。
一学期の授業で、この人はそう言っていた。噛み合わない議論は頭の悪さのせいではなく、二人が別々の土台に立っているせいだと。
順番を決めておけ、というのは、たぶん同じことである。
俺の中で二人が別々の土台に立っているから、いつまでも話が終わらない。
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「あの、もう一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「先生って、なんか、こう」
言いかけて、言葉を探した。
「……妹がいるんですけど」
「はい」
「三十分おきに麦茶を持ってくるんです」
「たいへんお優しい妹さんですね」
「優しいんですけど、そのせいで一行も書けなくて」
俺は自分でも何を相談しているのか分からなくなってきた。
松平先生は水筒を持ち直して、少し考える顔をした。
「温水君。魚を飼ったことは」
「……え?」
「熱帯魚です」
「ないです」
「魚が死ぬ原因は、三つあります」
急に何の話だ。
「餌のやりすぎ。水温の急な変化。それから、狭いところに詰めこみすぎること」
「はあ」
「そのうち、いちばん多いのが、餌のやりすぎです」
先生は、まっすぐ俺を見た。
「大抵の魚は、飼い主の親切が過ぎて死にます」
「……」
「腹が減っている魚は、自分で餌を探します。腹がふくれている魚は、動きません」
俺は、麦茶四杯ぶんの腹を思った。
「……先生、それ、俺の話ですか」
「魚の話です」
「魚の話ですか」
「魚の話です」
先生は水筒を鞄にしまうと、廊下を歩いていった。
歩き方まで綺麗だった。背筋がまっすぐで、上履きの音がしない。
俺は水を二本持ったまま、しばらくそこに立っていた。
腹が減っている魚は、自分で餌を探す。
それはたぶん、あの人の言い方であって正確な生物学ではないと思う。思うのだが、俺の頭の中では麦茶のコップと原稿用紙が同じ机の上に並んでいる。
三十分ごとに手が止まる。止まるたびに佳樹の顔を見て、ありがとうと言って、また向き直る。
向き直ってから、さっきまで何を考えていたのか思い出せない。
――そりゃ、書けないわ。
書けない理由を、俺はずっと自分の中に探していた。
外にあった。しかもいちばん優しい形で。
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三階に戻るのに、三分かかった。この階段は本当にリズムが狂う。
「どうぞ」
「……いくらでしたか」
「いや、いいですよ」
「よくありません」
「百六十円ですけど」
先生は財布を出し、百六十円を数えて渡してきた。一円単位で。
この学校の一部の人たちは、なんでこんなに金銭の授受に厳格なんだろう。松谷といい、この人といい。
「先生。下で松平先生に会いました」
高木先生の手が、ほんの少し止まった。
「そうですか」
「魚の話をされました」
「……そうですか」
今度は、間があった。
「なんですか、いまの間」
「あの人の魚の話は、たいてい魚の話ではありません」
「じゃあ何の話なんですか」
「魚の話です」
「同じこと言いましたよね!?」
俺たちは窓際に並んで座って、しばらく黙って飲んだ。
グラウンドで野球部が走っている。蝉が鳴いている。遠くで吹奏楽が同じ四小節を繰り返す。
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四
「温水君。原稿は、進んでいますか」
「……なんで知ってるんですか」
「小鞠さんが毎日ここに来ています。締切の話をしていました」
「あいつ、俺の進捗まで報告してるんですか」
「枚数まで伺いました」
「言わないでください、その先」
「零枚と」
「言いましたね」
先生は少し笑って、また窓の外を見た。
「何を書けばいいのか分からなくて。何でもいいって言われると、逆に」
「なるほど」
沈黙。
蝉。吹奏楽。四小節。
……あれ。
ふつう、ここで何か言うところじゃないだろうか。好きなことを書けばいいとか、まず書き出せとか。大人はそういうことを言う生き物のはずだ。
「先生、そこ、なんか言うところじゃないですか」
「何をです」
「いや、なんかこう、助言的な」
「言ってほしいですか」
「……別に」
「では、言いません」
「そこは言うところですよ」
「別に、とおっしゃいました」
「言葉の綾です」
「綾は分かりません」
この人、けっこう意地が悪い。
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「温水君。君は、人の話をよく聞きますね」
「え」
「私が数字を読み上げるあいだ、一時間、端を持っていました。ふつうは途中で意味を聞きます」
「聞きましたけど」
「一時間経ってから聞きました」
「……それは、たんに、言い出しにくかっただけで」
「そうでしょうか」
「そうですよ」
「言い出しにくいと感じる人は、相手の都合を見ています。見ていない人は、いつでも言えますから」
「……はあ」
「それは、職能です」
職能。
はじめて言われた単語だった。
俺はぼっちである。人と関わらないようにしてきただけで、そこに能力が発生している自覚は一ミリもない。ないのだが、背中のあたりがむずむずした。
「褒めてます?」
「事実を言いました」
「褒め方、下手ですね」
「よく言われます」
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「温水君。一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「さっき、巻尺の端を持ちながら、何か考えていましたね」
「……見てました?」
「顔に出ていました」
俺は、水のボトルの結露を親指で拭った。
「……端を持つ役って、主人公じゃないなって」
言ってから、しまったと思った。
高校一年生が真昼間の廊下で言うことじゃない。
先生はしばらく黙っていた。
そして、机の上の巻尺を手に取った。
「温水君。この巻尺で、いま、この廊下を一人で測れますか」
「……無理ですね」
「なぜです」
「片方が動くからです」
「そうです」
先生は巻尺を軽く振った。
「両端が止まっていないと、数字は出ません。片方だけでは、何ミリでもない」
「……はあ」
「ですから、私は今日、あなたに数字を出してもらいました」
俺は先生の顔を見た。
いつもの顔だった。ラベルを貼っているときと、まったく同じ顔である。
「……先生、それ」
「はい」
「けっこう、ずるいこと言いましたよね、いま」
「事実を言いました」
「二回目ですよ、それ」
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「私は、昔、数字を集める仕事をしていました」
先生は窓の外を見たまま言った。
「司書の前ですか」
「前です」
「へえ。何の数字ですか」
「いろいろです。船とか、油とか」
「船」
「そのうち九割は、使いませんでした」
「……九割?」
「集めて、書いて、綴じて、それきりです。一度も誰にも読まれていないものが、山ほどありました」
俺は、なんと言えばいいのか分からなかった。
「……それ、無駄じゃないですか」
「無駄です」
「言い切りますね」
「九割は無駄でした」
先生は、そこで一度、水を飲んだ。
「ですが、九割を集めなければ、残りの一割がどれなのか、分からなかった」
「……」
「使う一割だけを最初から集める方法は、ありません。あるように見える人は、たいてい嘘をついています」
蝉が鳴いていた。
俺は、その言葉をゆっくり飲みこんだ。
書けない原稿のことを考えた。俺はいつも書く価値のあることだけを書こうとして、価値がないと判断して、書かないまま夏休みが減っていく。
書く価値のあるものだけを最初から書く方法は、ない。
たぶん、そういうことだ。
「先生」
「はい」
「今日の測量、九割のほうですか」
「たぶん」
「たぶんなんですか」
「一割かもしれません」
先生は巻尺を鞄にしまった。
「どちらかは、あとで分かります」
俺はその言葉を、しばらく口の中で転がしていた。
九割は無駄で、それでも集める。集めた本人にも、どれが一割なのか最後まで分からない。
そんな仕事、よく八年もやったな、と思った。
思ってから、俺は何も聞いていないのに八年という数字を思い浮かべたことに気づいた。
先生は年数を言っていない。
どこで拾った数字なのか、思い出せなかった。
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帰り際、図書室に寄った。
先生がカウンターの下から薄い布張りの本を出した。表紙の字は掠れ、背は色が抜けている。地元の川の話らしい。橋の名前と、渡し船と、堤防。
「これを」
「え、俺にですか」
「除籍の候補です」
先生は本の後ろを開いた。貸出票の判が並んでいる。上から下へだんだん間隔が空き、いちばん最後の判はずっと昔の年で止まっていた。
「三十一年、誰も借りていません。除籍にすると目録から消えます。この学校にあったことも、消えます」
「消していいんですか、それ」
「よくありません」
「じゃあ、なんで候補に」
「場所がないからです。よくないことと、必要なことは、両立します」
先生は本を俺のほうへ滑らせた。
「借りていきますか」
正直に言うと、まったく興味のない本だった。川の本である。俺が読むのはラノベで、川は出てこない。出てきても、たいてい主人公が転生するときに渡るやつである。
でも、貸出票のいちばん下の空欄が、妙に気になった。
「……借ります」
「ありがとうございます」
「え、なんで先生が礼を言うんですか」
「私は貸す係ですので」
「……はい」
「貸せると、嬉しいのです」
「い、いま、嬉しいって言いました?」
「言っておりません」
トン、と音がした。三十一年ぶりの音である。たぶんこの判は、その間ずっと同じ引き出しに入っていた。
「返却は、九月の第一週で結構です」
「はい」
「温水君。今日は、助かりました」
何と返せばいいのか分からなくて、俺は頭を下げて図書室を出た。
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五
「お帰りなさいませ。進みましたか」
「進んでない」
「まあ」
「でも、一時間くらい壁を測った」
「壁を」
「巻尺の端を持ってた」
麦茶を差し出しかけた佳樹の手が止まる。
「……お兄様」
「なんだ」
「それは、青春では」
「違うが?」
「青春です」
「違う」
「では、なんですか」
「……測量だ」
「青春です」
佳樹はそう言って、麦茶を置いていった。
五杯目である。
俺はコップを見た。
そして、飲まなかった。
「佳樹」
「はい」
「明日から、麦茶は二時間おきでいい」
佳樹の動きが止まった。
止まって、ゆっくり振り返った。
「……お兄様。佳樹が、何かご迷惑を」
「違う。そうじゃない」
俺は言葉を探した。
探して、結局、借り物で言うことにした。
「腹がふくれてると、動かないらしいんだ。魚が」
「……魚?」
「魚の話だ」
「お兄様、暑さでどうかされました?」
「されてない」
「お医者様に」
「行かない!」
佳樹はしばらく心配そうな顔をしていたが、やがて何かに納得したらしく、深く頷いた。
「かしこまりました。二時間おきにいたします」
「ああ」
「お兄様」
「なんだ」
「その魚のお話、どなたに」
「……先生に」
「よい先生ですね」
「……たぶんな」
言えた。
自分で驚いた。
俺はこの妹に、一度も何かを減らしてくれと頼んだことがない。増やさないでくれと叫んだことは何度もあるが、あれは頼みではなく悲鳴である。
減らしてくれ、というのは、頼みだ。
「では、その代わり、お夜食を」
「増やすなよ!?」
「では、お夜食は二時間おきに」
「そこじゃない!」
「では、一時間おきに」
「減ってない!」
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その夜、俺は川の本を開いた。
冒頭の五ページで分かった。この川はかつて三回氾濫し、そのたびに橋が流され、それでも同じ場所に架け直されている。
……ちょっと、面白い。
なんで同じ場所なんだろう、と思って読み進めたら、答えが書いてあった。渡し船の時代から、そこが一番浅かったからである。
流されるのを知っていて、そこに架ける。他の場所に架けたほうが安全なのに、そうしない。渡る人が、そこを渡るからだ。
……順番を決めておきなさい、って。
たぶん、こういうことだと思う。
流されないことが一番なら、橋は他の場所に架ける。渡る人が渡れることが一番なら、そこに架ける。どっちも大事で、どっちが上かを決めた人がいたから、いま橋はそこにある。
「……あ」
俺はノートを引き寄せた。
書いたのは、一行だった。
旧校舎の廊下は、尺でできている。
それだけである。
それだけなのに、消さなかった。
締切まで、あと二十八日。
《貸出票 最下段 三十一年ぶりの記入》