負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
【八奈見杏菜】
「杏菜、なんでこんな遠い店」
「たまにはいいでしょ、こういうの」
草介がメニューを開きながら言うのを、私は笑って流した。
お店選びには自信があるほうだ。誕生日会なら駅前のパンケーキ。テスト明けはドリンクバーが偉いところ。
部活帰りの子と行くなら量が正義。用途に合わせて最適な店を出せるのが八奈見杏菜という女である。
で、今日の条件はひとつだけ。
——ツワブキの制服が、一枚もないこと。
学校から歩いて二十分、隣町のファミレス。事前調査によれば、うちの生徒はここまで流れてこない。
別に変な話をするわけじゃない。ないけど、聞かれたくない話というのは世の中にあるのだ。
「決まった?」
「ステーキセット」
「即答だね」
「腹減ってる」
育ち盛りめ。
私はサラダとスープにした。
……いや、ちゃんと理由があるからね?女子はこういうお店ではまず様子を見るの。前菜なの。
これは前菜。
「なんか用があったんだろ」
「なんで?」
「遠い店選ぶときは、だいたいそう」
——出た。
こういうところだけ、この男は鋭い。十二年ぶんの観察は、向こうにもあるのだ。
「べつに。ただのごはん」
「ふうん」
私はストローの袋を折りながら、切り出すタイミングを測っていた。
華恋ちゃんが外国に行くこと。草介がそれを聞いてからずっと変な顔をしていること。二人がもう、そういう感じになっていること。
ぜんぶ知ってる。十二年も隣にいたんだから。嘘をつくときに耳を触ることも、悩んでるときに飯の減りが遅くなることも、ぜんぶ。
今日のステーキも、減りが遅かった。
「……ねえ、草介」
だから私はあの子の「さよなら」の意味を通訳してあげて、自転車を貸して、行けって言った。
会話の中身は、あんまり細かく思い出したくない。
思い出したくないので、要点だけ言うと、草介は最後に「悪い」って言った。
なんで謝るかな。
謝られたら、こっちが謝られる側になっちゃうじゃん。私はただの、気の利く幼馴染なのに。
「行けって言ったの私だし。頑張んなよ」
我ながら百点の送り出しだったと思う。声も明るかったし、笑顔も作れてたし、涙とかも出てなかった。
軽い足音が店を出ていって、ドアのベルが鳴った。それで終わり。
……終わり。
うん。
テーブルの上に、食べかけのステーキと半分残ったアイスコーヒーが残された。
私はしばらく、ぼーっとそれを見ていた。
「お下げしてよろしいですか」
「あ……まだ、大丈夫です」
店員さんが行ってしまってから、自分の返事にちょっと驚いた。
何が大丈夫なんだろう。
店内のBGMが急にはっきり聞こえるようになった。さっきまで聞こえてなかったのに、変なの。
「……謝んなよ。ばか」
小さい声なら、セーフだと思った。
さて。
ここからの私の行動について、先に弁明させてもらいたい。
目の前にアイスコーヒーが半分残っていた。氷が溶けて、グラスの外側に水滴がついていた。
残したまま店を出たら、捨てられる。
もったいない。
以上である。それ以外の理由は、ない。ないの。
ないったら、ない。飲食物を粗末にしない、それは人として当たり前の道徳であって、そこにストローが刺さっていたのはただの物理的な配置の問題であって——
私は両手でグラスを持ってストローをくわえた。
その瞬間。
視線を、感じた。
通路を挟んだ二つ隣の席。メニューの陰から男子がこっちを見ていた。
ツワブキの制服で。
……え。
なんで。
この店、うちの生徒来ないんじゃなかったの?
しかも、あの顔、見覚えがある。ええと、同じクラスの……ぬく……ぬくぬく君?温水君だ。
教室のどこにいたかは思い出せないけど、名前は出てきた。私、えらい。
じゃなくて。
見られた。
今の、ぜんぶ?どこから?草介とのやりとりから?
それとも——ストローから?
顔が熱くなるのが自分で分かって、それで気管が変なことになって、
「ブフォッ!」
噴いた。
コーヒーを。盛大に。
人生でいちばん消したい三秒を挙げろと言われたら、今この瞬間が単独首位である。
咳きこみながら顔を上げると、温水君の向かいに、もう一人いた。
知らない男子。同じ制服。こっちは隠れもせずにまっすぐ私を見ていた。
「……二人?」
声、震えてたと思う。しょうがないと思う。
*
「言わないで。誰にも」
「言わない」
「絶対に!?」
「言わない。だいたい俺、話す相手がいないし」
「……それはそれで悲しいけど、今は助かる」
温水君は思ってたより話せる人だった。というか、こっちを見ないでいてくれようとする努力を感じる。もう手遅れなんだけど、姿勢は買う。
「あの、俺、そろそろ」
「だめ」
「え」
「いま出てったら、私が男子に逃げられた女になるでしょ」
「もうなってると思うけど」
「言わないで」
問題は、もう一人のほうだった。
「……えっと。松谷君、だっけ」
「そうだ」
「見た?」
「見た」
「なんでそこで正直に言うの!?」
「見たものを見ていないとは言えない」
「言ってよ!」
「無理だ」
なにこの人。
転入生の松谷君。そういえば連休明けに来た子だ。自己紹介の記憶が一ミリもない。
「じゃあ、忘れて」
「忘れる努力はする」
「努力!?」
「他言はしない。それは約束できる」
と、そこで松谷君は少し考えるような間をあけて、
「一つ聞いていいか」
「な、なに」
「あれは、味の問題ではないな」
心臓が止まるかと思った。
この男、いきなり何を言い出すの。そこは全人類が触れないでおいてくれるところでしょ。暗黙の了解でしょ。
人類皆兄弟でしょ。
「……なにその聞き方」
「答えなくていい。確認したかっただけだ」
「気持ち悪いんですけど」
「そうか。悪かった」
あっさり引いた。
あんまりあっさり引くから、逆にこっちの手が空振りした。振り上げた握りこぶしの行き場がない。
「……別に。もったいなかっただけだし」
「なるほど」
「残ってたら、もったいないでしょ」
「そうだな」
——その「そうだな」が、変だった。
からかう感じでもなく、かわいそうな子を見る感じでもなく、気まずそうでもなく。天気の話に相槌を打つみたいに、ただ、そうだな、と。
もったいないよね、って、この人だけが本気で同意した。
……なんだろう。この人の前でだけ、あの三秒が「ただの三秒」になった気がする。
「……松谷君って、変な人だね」
「よく言われる」
言われてるんだ。
*
で、私はそのまま二人の席に座った。
「えーと、どうして座ってんのかな」
「一人で座ってるとさ、店員さんが片づけに来るじゃん」
「そこは頑張ろうよ」
「頑張れるわけないでしょ、いま」
温水君が黙った。正論は強い。
だってしょうがないじゃん。
あのテーブルにひとりで座ってたら、店員さんが草介のお皿を下げに来て、「お連れ様は」って顔をされて、私はにこにこしながら「帰りました」って言うことになるんだよ。無理。
今日はそういう耐久イベント全部無理。
だから語った。草介のこと。シロツメクサの指輪のこと。
お嫁さんにしてやるって言われたこと。
「何歳のとき?」
「五歳」
「……ずいぶん前じゃん」
「十二年前」
「即答だ」
「数えてないと思った?」
「思ってた」
「数えるよ。そこは数えるとこでしょ」
温水君がちょっと引いてた。
うるさい。
話してる途中で、涙がダバーッと出た。
あれ、おかしいな。さっきまで出なかったのに。人に話すと出るんだ。
知らなかった。
温水君があわあわしながらドリンクバーに走っていって、松谷君は無言で紙ナプキンを積んでくれた。積み方がなんか、豆腐屋さんの豆腐みたいに整ってた。
しばらくして、温水君ではなく松谷君のほうがカップを持って戻ってきた。
「飲め」
「……なにこれ」
湯気が立ってる。紅茶だ。ミルクが入っていて色が濃い。
一口飲んで、目を見開いた。
「あっま!」
「そういうものだ」
「いや美味しいけど。美味しいけどさ、砂糖何本入れたの」
「三本」
「三本!?」
「悲しいことがあった人間には、濃い茶に砂糖と乳を入れて出す。そう決まっている」
「決まってるの?」
「決まっている」
……なにそれ。
悲しいことがあった人間、って。
私、そんな顔してた?してたか。ダバーッて泣いたもんね、さっき。
でもこの人、「元気出して」とか「大丈夫?」とか言わないで、決まってるから、って顔で甘い紅茶を置くんだ。
——ずるいなあ、そういうの。
断れないじゃん。
「向こうでは普通だ。イギリスに駐在していたときにな——ゴホン。ゴホンゴホン」
「え、なに」
「いや、なんでもない。むせた」
「今の絶対むせてないよね? 駐在って言った」
「言っていない」
「言った」
「聞き間違いだ」
言ったよ。私、耳はいいんだから。
「え、松谷君って帰国子女なの?」
「……そういうことになる」
「なるんじゃなくて、そうなのかどうかを聞いてるんだけど」
「そうだ」
「なんで一回悩んだの」
「悩んでいない」
悩んでたよ。一秒。私、そういうのは見えるんだから。
まあいいけど。人には言いたくない事情のひとつやふたつ、あるよね。私にも今日できたし。
「……ふうん。じゃあ、これ、向こうの飲み方なんだ」
「そうだ」
「甘すぎ」
文句を言いながら、私は全部飲んだ。
美味しかったからであって、他意はない。
*
それから山盛りポテトが来て(頼んだのは私です。泣きながら頼みました。器用って言われました)、話は当然、あの二人のことになった。
「聞くけど、二人って付き合ってたの?」
温水君の質問に、私は固まった。
「えっ?」
「え?」
「や、やだなあ。そう見えた? 昔からお似合いだって言われてたからね。外から見るとそう見えるよね。えへへ」
「付き合ってなかったのか。じゃあ、乗り換えでも何でもないじゃん」
……この男。
デリカシーをどこかに置いてきたのか。正しければ何を言ってもいいと思ってるのか。いや温水君の場合はたぶん、悪気なく素で言ってる。
それが一番たちが悪い。
「だ、だから半分付き合ってたようなものでしょ! あの乳牛女さえ来なければ絶対うまくいってたの!」
言ってから、あ、今の私よくなかったな、とは思った。華恋ちゃんはいい子です。いい子なんです。
いい子だから困ってるんです。
「まだ勝負ついてないと思うんだよね。土壇場で心変わりとかあるかもしれないし」
「……いや、ついてるよね」
「ないな」
二人同時に来た。
「ちょっと! そこは嘘でも慰めるとこでしょ!」
「嘘は言わない主義だ」
「主義とかいらないから!」
ひどい席に座ってしまった。片方はデリカシーがなくて片方は正直すぎる。慰め成分がゼロ。
カロリーゼロよりひどい。
私はポテトを三本まとめて食べた。ケチャップは端から一直線にかける派です。
しばらくもぐもぐしてから、ふと、聞いてみたくなった。
「……ねえ。さっき私が草介に行けって言ったやつ、どう思った?」
自分でもなんで聞いたのか分からない。
たぶん、誰かに採点してほしかったんだと思う。今日の私、ちゃんとできてたよね、って。
温水君は困った顔で黙った。優しいなあ。この人の沈黙は優しさでできている。
答えたのは、松谷君だった。
「——上手い手だ」
「え?」
「あの場面で、他に手はない。引き止めても彼の気持ちは変わらないし、変わらないまま残られたら、君が一番損をする」
「……それは、そうだけど」
「君は、彼に罪悪感を残さない形で送り出した。関係も壊していない。こちらの被害だけを全部引き受けて、それ以外は何も壊さずに終わらせた」
松谷君は、水のグラスを見ながら喋っていた。
「あれは、負けたのではない」
「……え?」
「負けることを、自分で決めたんだ」
——。
なにそれ。
なにそれ、なにそれ。
負けることを自分で決めた、って。
そんなの、決めてない。決めてないよ。私はただ、草介があんまり情けない顔してるから、見てられなくて、それで。
……ほんとに?
ほんとに、それだけ?
サラダとスープしか頼まなかったのは?このお店を選んだのは?昨日の夜に鏡の前で「行ってあげなよ」って言う練習をしたのは?
——ぜんぶ、知ってたからじゃないの。今日こうなるって。
目の奥が熱くなって私はうつむいた。
肩が震えてるの、たぶんバレてた。
「……なにそれ。ぜんぜん、慰めになってないんだけど」
「慰めではない」
「じゃあ何なの」
「評価だ」
評価。
この人は、今日の私を採点した。慰めでもお世辞でもなく、真顔で、上手い手だ、って。
「もう一つ、言っていいか」
「まだあるの!?」
「負け方には、上手いのと下手なのがある」
「……はい?」
なにその、体育の授業みたいな言い方。
「いちばん下手なのは、刀が折れて矢が尽きるまでやることだ」
「刀」
「たとえだ」
「たとえがもう古いんだよなあ」
松谷君は気にせず続けた。
「最後の一本まで使い切ってから負けると、次に立てるまでに何十年もかかる。関係も、評判も、自分のことを好きだと思う気持ちも、全部なくなってから終わるからだ」
ポテトをつまむ手が、止まった。
「……そこまで、やる人いる?」
「いる」
断言された。
「いくらでもいる。俺は、そういうのばかり見てきた」
「なんの話?」
「一般論だ」
また出た、一般論。
この人の一般論は、いつも一般っぽくない。
「君は、そうしなかった」
「……」
「刀も矢も、まだ残っている。だから、また使える」
——ずるい。
ほんとに、ずるい。
私はさっきまで、自分のことを世界一みじめな女だと思ってたのに。この人は真顔で、まだ矢が残ってますよと言うのだ。
「……そういうのは」
「分かっている」
「まだ言ってないんだけど」
「もっとあとで、だろう」
「……うん」
「では、覚えておく」
松谷君は水を一口飲んだ。
「それと。うちの上に、こういうことを言う人がいてな」
「まだあるの!?」
「——負けるが勝ち。ただし、負けっぷりを、よくしなければならない」
私は、しばらく黙っていた。
「……負けっぷり」
「そうだ」
「その人、感じ悪くない?」
「たいへん立派な方だ」
「私は感じ悪いと思う」
「そうか」
松谷君は少し考えて、それから言った。
「俺も、最初に聞いたときはそう思った」
……ばか。
そういうのはさ。
「……あのさ」
「なんだ」
「そういうのは、もっとあとで言ってよ。今日は無理」
「分かった」
松谷君は、素直に頷いた。
私は紙ナプキンで目のあたりをぐしぐし拭いてポテトに戻った。ポテトは裏切らない。冷めてても裏切らない。
「もー! なんなの二人とも! 全然知らない人だったのに!」
「先にいたのは俺です」
「そうだけど! そうだけどさあ!」
なんでだろう。
今日、人生でいちばんひどい日のはずなのに、ポテトの山がなくなるまで私はこの席にいた。
*
悲劇は、レジで起きた。
……financial 的な意味で。
「あのね、温水君」
「まさか」
「草介が出してくれる予定だったから、私、そんなに持ってきてなくて」
だってそういう予定だったんだもん。今日は草介の相談に乗ってあげる会で、相談に乗ってもらった側が払う。それが幼馴染の経済です。
まさか相談相手が途中で退場するとは思わないじゃん。
伝票を見た温水君が、遠い目をした。
「サラダとスープ。……の下に、ハンバーグセットとデザート」
「だってサラダとスープだけじゃお腹すくじゃん」
「見栄を張ったなら最後まで張ろうよ」
「三十分は張ったよ」
「短い」
うるさいなあ。人間はお腹がすくの。悲しくてもすくの。
悲しいと余計にすくの。これは生命の神秘であって私のせいではない。
「いくら持ってるの」
「……八百円」
温水君がため息をついて財布を出した。ごめん。ほんとごめん。
今度ちゃんと返すから。
そしたら、横から松谷君の手が伸びて、伝票を取った。
「温水。半分出す」
「いや、でも松谷、関係ないだろ」
「同じ卓にいた」
「それだけ?」
「それで十分だ」
……この人たち、なんなんだろう。
今日会ったばっかりの、教室で喋ったこともない女子のごはん代を、当たり前みたいに割り勘して。
「四千四十五円。二で割ると、二千二十二円五十銭」
「銭って言った?」
「……硬貨がない。俺が二千二十二円出す。温水が二千二十三円だ」
「なんで俺が一円多いの」
「先にこの店にいたのは君だ。優先権がある」
「一円の優先権って何」
「重要だ」
一円の攻防を真顔でやる男子二人を眺めながら、私はちょっとだけ笑ってしまった。今日はじめて、演技じゃないやつで。
「……ごめん。ほんとにごめん。ちゃんと返すから」
「うん。じゃあ月曜に」
「あ、待って」
教室で返すのは、だめだ。
私が男子二人にお金を渡してるところを誰かに見られたら絶対に変な話になる。今日フラれた件と合体して、月曜の昼までに学年を一周する。それだけは阻止しなければならない。
私の平穏な学校生活のために。
「昼休みに、旧校舎の横の非常階段に来てもらっていいかな」
「非常階段?」
「三階の踊り場。あそこ、誰も来ないんだよ」
「なんで知ってるの」
「一年かけて探したから」
「探したんだ」
「グラウンドが見えて、風が通って、静かで、誰も来ない。完璧でしょ」
「完璧って言われると、ちょっと切ないな」
「うるさいな」
私の秘密基地である。一人になりたい日のために見つけた場所だ。
……なんで初対面の男子二人に教えてるんだろうね。自分でも分からないよ。
「分かった」
答えたのは松谷君だった。
「書類を用意する」
「え?」
「書類だ」
書類って何。
*
月曜日の昼休み、非常階段の三階には、書類があった。
借用証書、と書いてあった。金額、貸主、借主、日付、利息、返済期日。定規で引いたみたいな字で罫線まで手で引いてある。
「……重っ」
「署名を」
「するの!?」
「利息は取らない。不服なら条件を協議する」
「協議とかしないよ!?」
「温水君。これ普通じゃないよね?」
「普通じゃないね」
「でしょ!」
「でも、書いといたほうがいいと思うよ」
「なんで!」
「書かないと、松谷がずっと気にすると思う」
……裏切り者。
いや、そこはちょっと分かるけど。
結局、手すりに紙を押しつけて署名した。八奈見杏菜。自分の名前をこんなに緊張して書いたのは初めてかもしれない。
書きながら、備考のところで手が止まった。
——端数一円は貸主・温水和彦の負担による。
「……ねえ。この一円って何」
「端数だ」
「それは分かるけど」
「温水が一円多く出した。したがって、この証書は温水が保管する」
一円。
この人たちの世界では、一円がちゃんと一円として扱われている。四千円が四千四十五円として扱われ、私の署名が署名として扱われている。
なんでだろう。
バカにされてる感じが、ぜんぜん、しなかった。
金曜日の私は、たぶん人生でいちばんみっともなかった。フラれて、コーヒー噴いて、泣いて、たかって。その一部始終を見られた相手にまともに扱われている。
「で、結局、今日もお金はないんだけど」
「……返す気ある?」
「あるよ! あるから、ちょっと考えがあって」
私は両手を合わせた。
「明日から、ここでお昼どうかな。私、お弁当作ってくるからさ。それで少しずつ返すってことで」
我ながら名案だと思う。現金はないけど料理の腕はある。お母さん直伝の卵焼きは甘い派で、それはつまり正義である。
温水君が何か言いかけたところで、隣から声がした。
「一食あたりの単価は」
「え?」
「弁当一食で、いくら返済したことになるのかを決めないと、計算ができない」
「そこ!?」
「重要だ」
「じゃあ……三百円とか」
「材料費か」
「え、手間賃は」
「入れるのか」
「入れるでしょ普通!」
「では、四百円だ」
「安っ」
「不服なら協議する」
「協議やだ!」
この人の「重要だ」、たぶん今週三回目。
「じゃあ明日から。玉子焼き、甘いのとしょっぱいのどっちがいい?」
「どちらでも」
「そういうのが一番困るの」
「……では、甘い」
「いま考えたでしょ」
「考えた」
「一秒だったよ」
——ちなみに私は、その夜、砂糖の量を三回はかり直した。
誰にも言ってないけど。
——こうして。
フラれた女と、目撃者二人と、一枚の借用証書で、私の昼休みが始まった。
変なの。
金曜日の夜、私は世界がぜんぶ終わったと思ってたのに。
月曜日の私は、明日の卵焼きを甘くするかしょっぱくするかで、けっこう真剣に悩んでいる。
《借用証書 第一号 残高 四,〇四五円》
【松谷誠】
なぜあの店にいたのか、と聞かれたら、答えに困る。
困る理由のほうは、はっきりしている。
三日前の夕食である。
「松谷さんは、今日は何を」
松平先生は毎晩これを聞く。四人分の茶碗が並ぶと、必ず一度、順に聞いて回る。
「授業です」
「そのあとは」
「帰りました」
「そうですか」
先生はそれ以上聞かない。
聞かれないことのほうが、こたえる。
「加瀬さんは」
「新聞部の見学に行ってまいりました。原稿を一本、書かせてもらえるそうです」
「ほう」
「一世一代の名文を書きます」
「まだ書いていないでしょう」
「書く前から分かるんですよ、そういうものは」
「高木さんは」
「図書室で四時間ほど」
「何を読まれました」
「……申し上げると、長くなります」
「では、伺いましょう」
少将が話し始めた。
二十分喋った。あの人が二十分続けて喋るのを、俺は八年で二度しか見ていない。二度ともこの家に来てからである。
その間、俺は白米を食べていた。
三人とも、この時代でやることを見つけつつある。加瀬は近ごろレコードを買う金を貯めている。少将は図書館から借りた本を積み上げて夜中まで起きている。
松平先生は先週、本当にゴルフに行った。
俺には、話すことがない。
だから、まっすぐ帰らない。
学校からは離れたい。同じ学校の人間には会いたくない。金はほとんど持っていない。
——数百円で、何時間でも座っていられる店がある。
この二か月で、七回行った。あの店だ。
参考書を開くのは、開いていないと座っている理由がなくなるからだ。読んではいない。二時間、同じ頁を見ていた。
飲み物の機械のことは、ずっと気になっていた。
制度が分からないので、俺は毎回、一杯しか取らなかった。二杯目を取っていいのかどうか、店員に聞くのが憚られた。
今日、温水に聞いた。
「あれは、一杯までか」
「え?」
「機械だ。二杯目を取ると、追加で払うのか」
「いや、何杯でもいいけど」
「何杯でも」
「うん。そういう料金だから」
「……そうか」
「松谷、もしかして毎回一杯で我慢してた?」
「制度が分からなかった」
「聞けばよかったのに」
「聞く相手がいなかった」
——そうか。
俺は八月に、芋の蔓を煮て食っている人間を見ている。一昨年の秋には、船の沈む速さと入ってこない米の量を突き合わせて、この国は保たないという結論を出した。
あの計算の先に、あの機械がある。
二か月、俺は一杯ずつ遠慮しながら、その先に座っていたことになる。
——さて。
手帳のことを書く。
俺の手帳には六月の第二週から三名分の頁がある。袴田草介、姫宮華恋、八奈見杏菜。接触の回数と時刻を並べただけの表だ。
結論は、六月十一日に出ていた。
八奈見杏菜は、近いうちに負ける。
日付までは出ていない。出そうと思えばあと二週間観測すれば出せたと思う。出す気はなかった。
何のために出すのかが分からなかったからだ。
その八奈見杏菜が、今日、二メートル先のボックス席に座った。
俺は何もしなかった。
鞄を落とすことも、道を尋ねることも、店員を呼ぶこともしなかった。話の流れを切る手はいくらでもあった。一日延ばせば状況は変わる。
二日延ばせばもっと変わる。時間を稼ぐのは、この八年で俺のやってきた唯一の仕事だ。
やらなかった理由を、俺はいくつも思いつく。
転入して二か月だ。名前しか知らない相手だ。同じ卓に人がいた。
不自然な動きを取ればまず、目の前の温水に見咎められる。
——違う。
言い訳だ。
彼女がグラスに手を伸ばすまで、俺は一度も手帳のことを思い出さなかった。
それだけだ。
数字は手帳の中にあり、当人は二メートル先にいて、その二つが結びつかなかった。
一九四三年から一九四五年まで、俺がいた部屋でも、同じことが起きていたのだと思う。
全員が机の上に紙を持っていた。誰も、それを目の前の人間と結びつけなかった。
そして、予測は外れた。
俺が読んでいたのは「彼女が告白し、断られる」だ。実際に起きたのは違う。彼女は自分の口から相手を送り出した。
相手に罪悪感を残さない形で、関係を壊さない形で、被害だけを引き受けて。
結果は同じだ。数字は当たった。
中身が、まるで違った。
——上手に負けた。
俺は八年かけてその一つも果たせなかった。目的は確立されず、進軍の限界は規制されず、終戦の方策は握れなかった。だから六月に豊橋が焼け、八月に工廠が焼けた。
それを、十五歳が、二十分でやってのけた。
もっとも当人にとっては、何の慰めにもならない。それも今日はっきり分かった。
——そういうのは、もっとあとで言ってよ。
その言葉を、俺は帰りの電車の中で何度か思い返した。
もっとあと、というのは、いつのことなのか。
負けたあとにも時間は続く。俺はそれを八月十五日から知っている。知っているが、その時間をどう扱えばいいのかは、まだ誰にも教わっていない。
教わっていないのは、たぶん、彼女も同じだ。
もう一つ、今日分かったことがある。
あの店には、次からも行くと思う。
行く理由が、一つ増えたからだ。
——負けたあとにも、店は開いている。
誰にも言えない感想だと思ったので、俺は黙っていた。
その夜、松平先生の家の食卓で、俺は書類を書いた。
罫紙が手に入らなかったので、大学ノートを一枚破って定規で罫を引いた。
台所から加瀬が顔を出した。
「松谷さん、何を書いてるんです」
「借用証書だ」
「……誰の」
「同級生の」
加瀬は俺の手元を覗きこんで、それから声を上げて笑った。
「四千円の貸し借りに証書を作る高校生が、この国にいますか」
「金額の多寡は関係ない」
「いや、そこじゃなくてね」
加瀬は俺の向かいに座ると、借主の欄を指で叩いた。
「八奈見杏菜。C組でしょう。袴田草介と姫宮華恋の件ですか」
俺はペンを止めた。
「……なぜ知っている」
「校内で三番目に有名な話ですよ。一番目は生徒会長の眉毛の件です」
「二番目は」
「学食のカレーが変わったことです」
この男は、二か月でこの学校の何を掌握したのか。
「——で。その子は、どうでした」
俺は少し考えた。
「上手に負けた」
「ほう」
「俺よりも」
加瀬はそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、台所へ戻る途中で、一度だけ足を止めた。
「松谷さん。今日は、いい日でしたね」
「どこがだ」
「帰ってきて、話すことがあったでしょう」
俺は返事をしなかった。
加瀬は満足そうに笑って、鼻歌を歌いながら台所へ消えていった。何の曲かは知らない。あの男はいつも、俺の知らない曲を歌う。
入れ替わりに、松平先生が茶を持って通りかかった。
「松谷さん」
「はい」
「今日は、何を」
三日前と、同じ問いである。
俺は書きかけの紙を見た。金額、貸主、借主、日付、利息、返済期日。
「……四千四十五円、貸しました」
「ほう」
「同級生にです。半分は温水が出しました」
「返っておいでですか」
「弁当で返すそうです」
「弁当で」
「一食あたりの単価は、まだ決めていません」
松平先生はしばらく黙っていた。
それから、湯呑みを持ち直した。
「よい貸し方です」
それだけ言って、廊下へ出ていった。
俺は罫を引き直した。