負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
二次創作/視点:焼塩檸檬・加瀬俊一
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一
【焼塩檸檬】
「わっ」
「おっと」
八月四日、朝の六時。
角を曲がったところで、自転車を押した男子とぶつかりそうになった。
白いシャツに細身のズボン、首からカメラ。カゴには紙の束。
「焼塩さん」
「……加瀬君!?」
生徒会の加瀬俊一だった。
学校の外で見ると印象が違う。制服じゃないからかな。あと、髪が朝の風でくしゃっとなってる。
「なんでこんなとこいるの。てか、なんでこの時間?」
「取材です。新聞部の」
「夏休みなのに?」
「夏休みしか撮れないものがあるので」
彼はカメラを持ち上げて、あたしの後ろを指した。
商店街の入口。シャッターが半分だけ上がって、中で誰かが動いている。
「豆腐屋さんは四時半から働いています。パン屋は三時です」
「三時!? 夜じゃん」
「昼にはもう終わっている仕事が、この街にはたくさんあります」
「へー」
「昼にしか動かない人は、それを知りません。知らないまま、この街を全部見たつもりでいる」
「……ちょっと、かっこいい言い方したね、いま」
「しました」
「認めるんだ」
「否定すると、二度手間ですので」
「そういう問題?」
「そういう問題です」
あたしは片足でトントン跳ねながら、思い出したことを言った。
「ねえ、こないだの泳ぎのリベンジは?」
「あれは条件が悪かったんです」
「出た言い訳!」
「言い訳をすると先に申し上げました。宣言した言い訳は、言い訳ではありません」
「なにその理屈!」
「では、私はこれで。走るのを止めてすみません」
会話、たぶん三十秒くらい。
あたしはまた走り出した。
……ちょっと、得したな。
だって、一言も走る理由を聞かれなかったから。
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朝の六時は、世界があたしのものになる。
これ、走ってる人にしか分かんないと思うんだけど、ほんとにそう。信号は青ばっかり。歩道は空いてて、車の音がしないから自分の足音が聞こえる。タッ、タッ、タッ。
夏休みに入ってから毎朝走ってる。部活の朝練は八時からで、それとは別に十キロくらい。コーチには言ってない。言ったらオーバーワークだって止められる。
別に。六時に目が覚めちゃうだけじゃん。起きちゃったら走るしかないじゃんね。
あたしは加瀬君のこと、そんなによく知らない。
知ってるのは二つだけ。
一つ、泳ぐのが速い。ブイまでの勝負はあたしが勝ったけど、たぶん本気じゃなかった。あの泳ぎ方は遊びで覚えたやつじゃない。
もう一つ。体育倉庫の日、この人は保健室に来て、鍵をかけたのは自分だと言った。
あたしは寝たふりをしてたから顔は見てない。声だけ聞いた。
誰も見てなかったのに、言いに来た。なんで言いに来たのかは説明しなかった。
――あたし、ああいうのが好きなんだよね。
理由を長々と喋る人は、たいてい自分のために喋ってる。
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二
次の日も、角にいた。
「おはようございます」
「おはよ! 今日は何撮ってんの?」
「犬です」
「犬?」
「あの家の犬が、毎朝五時五十分に散歩に出ます。正確です。時計より正確だ」
「名前は?」
「タロウです」
「聞いたんだ」
「三日かかりました」
「三日!?」
「飼主が寡黙な方でして」
「三日で何言われたの」
「タロウです、と」
「それだけ!?」
「それだけです」
「三日かける? ふつう」
「かけました」
三十秒。
その次の日は自販機の話だった。
「この道の自販機、六台あります。うち二台が古い。古いほうが当たりが出ます」
「出ないでしょ」
「出ます。先週、二回出しました」
「じゃあ今度やって見せてよ」
「当たりは、狙うと出ません」
「言い訳!」
「観測が対象を変えるのです」
「むずかしい言い訳!」
三十秒。
その次の日は蝉。その次は川の水位。その次は朝刊が届く時刻。
毎朝ちがう話をした。毎朝、三十秒だった。
彼は一度も、あたしに聞かなかった。
なんで走ってるの、とか。部活は、とか。夏休みなのに毎日えらいね、とか。
みんな聞くんだよ、そういうの。悪気なく聞くの。そんであたしは「好きだから!」って笑って答える。それでみんな納得する。
加瀬君は聞かないから、答えなくてよかった。
たぶんこの人、知ってると思うんだよね。光希のことも朝雲さんのことも。生徒会にいて新聞部にもいて、この学校のことを全部知ってるみたいな顔してる人だもん。
知ってて、聞かない。
そういうのって、けっこう難しいと思う。
八奈ちゃんは聞かないでいてくれるけど、目が「聞きたい」って言ってる。ぬっくんは聞かないけど、そもそも人に興味がなさそうだ。
加瀬君のは、どっちとも違った。
聞かないって、決めてる感じ。
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八月八日。
その日、あたしは気づいちゃった。
「ねえ、加瀬君」
「はい」
「なんかずっと、口、もぐもぐしてない?」
「飴です」
「朝から?」
「朝からです」
「なんで」
「口が寂しいので」
「……く、口が寂しいって、なに」
「そういう状態があるのです」
あと、指も動いてた。
右手の親指が、人差し指と中指の先を順番に押してる。自転車のハンドルを握ってないときは、ずっと。
「手も動いてるけど」
「動いていますね」
「なんで」
「癖です」
「なんの癖?」
「……忘れました」
嘘だ。
この人、嘘つくとき返事が一拍だけ長くなる。あたしはこういうの分かるほうだと思う。走ってるとき、相手が本気かどうかは足音で分かるし。
でも突っこまなかった。
聞かないでもらってるぶん、こっちも聞かないでおく。
そういう取引だと思うことにした。
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三
「加瀬君って、朝からずっと起きてるじゃん。夜、何時に寝てんの」
「十一時ごろでしょうか」
「ふつうじゃん」
「ふつうです」
「なんで朝、そんな早く外いんの」
「朝が好きなので」
「あ、それ分かる」
あたしは走るのをやめて、隣を歩いた。
「昔からです」
加瀬君が言った。
「私は、朝に馬に乗っていました」
「……は?」
「馬です」
「馬!?」
「はい」
「乗馬部とかそういうやつ?」
「そういうやつです」
たぶん違うと思う。
でも、この人が嘘をつくときの一拍がなかったから、馬のところは本当だと思った。
「なんで朝なの」
「誰もいないからです」
「……」
「誰もいない道を、自分の速さで行けます。上手も下手も関係ない。行きたい方に行って、疲れたら戻る」
「……分かる」
「分かりますか」
「分かるよ。すっごい分かる」
あたしは、なんか、嬉しくなった。
朝に外に出る人の理由を、初めて人から聞いた気がする。うちのコーチは「基礎づくり」って言う。部の子たちは「起きられない」って言うし、お父さんは「感心だ」って言う。
誰もいないから、って言った人はいなかった。
「いまは乗ってないの?」
「乗っていません」
「なんで」
「馬がおりませんので」
「そりゃそうだ!」
「自転車では、駄目なんですか」
「駄目ではありません」
「じゃあいいじゃん」
「……返事をしませんので」
「馬、返事するの?」
「耳が動きます」
「それ返事?」
「返事です」
「豊橋にも、探せばあるのでしょうが」
「探さないの?」
加瀬君は少し黙った。
「……探すと、乗りたくなりますので」
あたしはその言い方を、あとで何回か思い出すことになる。
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「ナポレオンって知ってます?」
「知ってるよ。背が低い人でしょ」
「実はそれほど低くありません」
「え、そうなの?」
「当時の平均くらいです。低いというのは、あとから作られた話です」
「じゃあ、なんでみんな低いって言うの」
「負かした側が書いたからです」
「うわ、こわ」
「歴史とは、そういうものです」
「ふーん」
あたしは走るペースに戻した。加瀬君は自転車を押しながら並んでくる。
「あの人の軍隊は、誰よりも速く歩きました」
「へー」
「一日に、他所の倍は進みます。それで、ほとんど負けませんでした」
「かっこいいじゃん」
「かっこいいです」
加瀬君は前を向いたまま言った。
「ただ、速さというのは、どこで止まるかを教えてくれません」
「……え」
「速く歩ける人は、たいてい、行き過ぎたところで負けます。止まる場所を、速さ自体は持っていないので」
あたしは足を止めた。
止めるつもりはなかった。勝手に止まった。
「……なにそれ」
「ナポレオンの話です」
「あたしの話じゃなくて?」
「ナポレオンの話です」
加瀬君はそう言って、にこっと笑った。
「では、私はこれで。豆腐屋が閉まりますので」
「ちょ、待ってよ」
「三十秒を超えました」
「時間決まってたの!?」
返事はなかった。
自転車の音が遠ざかっていく。
あたしはそこに立って、しばらく息を整えていた。
走ってないのに、息が上がってた。
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四
八月十一日、五時二十分に家を出た。
理由はない。
……ないったら、ない。
目が覚めちゃっただけだし。天井見てても仕方ないし。走ってれば時間経つし。
外はまだ薄暗くて、空の端っこだけが白い。街灯がまだついてる。誰も歩いてない。
角を曲がった。
いた。
「おはようございます」
あたしは足を止めた。
「……え」
「どうしました」
「や、だって、まだ五時半だよ」
「そうですね」
「そうですねって」
「今日は、この時刻に立つと決めていました」
彼はそれだけ言って、カメラのレンズを拭いた。
早いですね、とは言わなかった。今日は早起きですね、とも言わなかった。
あたしは、なんか、ぞわっとした。
「ねえ。あたしが早くなってんの、知ってた?」
「知っています」
即答だった。
彼はポケットから手帳を出して、開いて、こっちに向けた。
八月四日 六時〇二分
八月五日 六時〇〇分
八月六日 五時五十八分
八月七日 五時五十分
ずっと下まで続いていた。今日の日付の横は、まだ空いていた。
「なにこれ」
「記録です。私は数字を書き留める癖があります。職業病のようなものです」
「高校生に職業病はないでしょ」
「ないですね」
「認めるの早いな!」
でも、そこを突っこめなかった。
この紙、あたしの八日間が全部あるんだもん。
誰も見てないと思ってた。
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「……ねえ」
「はい」
「それ、けっこうキモいよ」
「はい」
「はいって」
「気持ちの悪い話です。自覚はあります」
「え、認めるんだ」
「認めます。毎朝同じ角に立って、同じ人の時刻を書いている。他人に説明できる行動ではありません」
「……うん」
「やめましょうか」
あたしは口を開けたまま止まった。
やめましょうか、って。
そんなにあっさり言う?
「今日でやめます。角は変えます。この道は使いません」
「……」
「そのほうが、走りやすいでしょう」
加瀬君は手帳を閉じて、ポケットにしまった。
しまう手つきが、事務的すぎた。
――あ、この人、ほんとにやめる。
そう思った瞬間、あたしの口が勝手に動いた。
「……いや、いい」
「よろしいので」
「いい。来て」
「よろしいのですか」
「二回聞かないで」
「二回目までは、聞くことにしております」
「なんで」
「一回目は、勢いで答えることがありますので」
「……」
「三回は聞きません。しつこくなりますので」
「……そこ、線引いてあるんだ」
「引いてあります」
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「……なんで聞かないの」
声が、思ったより小さく出た。
「なにをですか」
「なんで早くなってるのって。ふつう聞くじゃん」
加瀬君は手帳を閉じた。
「聞かれたくないから、この時刻に走っているんでしょう」
「……なんで分かるの」
「同じことをしたことがあります」
「加瀬君が?」
「昔です」
「なにから逃げてたの」
「……三十秒を超えました」
「そこで使う!?」
返す言葉がなかった。
そのとおりだったから。
角で立ち止まったまま、あたしは自分の呼吸を聞いていた。走ってないのに、息が上がってる。
「……ずるいよ、それ」
「ずるいですね」
「認めるの早いって!」
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「一つだけ、いいですか」
「……なに」
「朝食は、食べていますか」
「え」
「食べていますか」
「……走ったあと、シャワー浴びて、そんで、なんか、いいかなって」
「よくありません」
「よくないって、そんな」
「よくありません」
彼はカゴから紙袋を出して押しつけてきた。中を見たら、まだ温かいパンが入っていた。
「取材先でいただきました。三時から焼いている人のパンです」
「え、いや、悪いよ」
「私は昼に食べます。二つあるので」
「……ほんとに二つある?」
「あります」
「見せて」
「見せません」
「うそじゃん!」
「言い訳をします」
「言い訳の使い方が違う!」
「では、宣言します。これから言い訳をします」
「宣言しても嘘は嘘!」
「厳しいですね」
「あたりまえでしょ!」
あたしは笑った。笑いながら、パンを受け取った。
「……ありがと」
「どういたしまして」
「加瀬君ってさ、なんか、変だよね」
「よく言われます」
「褒めてないから」
「褒めていただかなくて結構です」
「そこも変」
「変ですか」
「変だよ」
「では、変ということで」
「なんで折れるの早いの!」
「争っても、変ではなくなりませんので」
「そこは争って!」
彼はにこっと笑った。
……ずるいなー、その顔。
「あのさ」
「はい」
「もし、あたしが明日、四時に来たら」
「四時にいます」
「……即答じゃん」
「即答しました」
「なんで」
「その日は、豆腐屋より早く着けますので」
理由がおかしい。
おかしいのに、あたしはなんか、喉のあたりがぎゅっとなった。
「……あたし、四時には来ないよ」
「そうですか」
「うん」
「では、六時に」
「……六時?」
「六時です」
なんでそこ戻すの、と思った。
思って、言わなかった。
言わなくても、たぶん通じてる気がしたから。
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パンを一口かじって、口の中を火傷して、走り出した。
「あっっつ!」
「焼塩さん」
「なに!」
「時計より正確なのは、タロウとあなただけです」
「犬と一緒にしないでよ!」
「褒めています」
「褒め方も変!」
「タロウは優秀です」
「フォローになってない!」
返事は笑い声だけだった。
あたしは笑いながら走った。
その日は、いつもより速く走れた気がした。
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五
【Intermission 記録のみ】
一九〇三年生まれの外務大臣秘書官・加瀬俊一が、豊橋の商店街で自転車を押している。
八月十一日 五時二十二分
加瀬俊一は数字を書きこんで、手帳を閉じた。
角に立って十日目になる。最初の日は偶然だった。二日目からは意図してそこにいる。
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――これが、傍から何に見えるか。
考えなかったわけではない。二日目に考えた。
毎朝、同じ角に立つ。同じ相手の時刻を書き留める。相手の生活の型を本人より正確に把握する。
八十年前にそれをやっていたのは憲兵である。
やられる側にいた人間が、いま、やる側の形をしている。
だから、四つ決めた。
一、こちらから近づかない。角に立つだけで、追わない。
二、聞かない。走る理由も、家の事情も、聞かない。
三、手帳は、見せろと言われたら見せる。隠さない。
四、やめろと言われた日に、やめる。
四つ目がいちばん大事である。
決めておけば迷わない。迷わなければ、判断は本人の手に残る。
――そういう仕組みを、二年かけて作ろうとしたことがあった。
作れなかったが。
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今日、四つ目が使われかけた。
使われなかった。
使われなかったことのほうが、彼には重い。
彼は自転車のスタンドを立て、カメラを構えた。
構えて、下ろした。
「……いい画なんですがね」
遠ざかる背中は、朝の光の中でよく撮れる。逆光で、影が長く伸びる。路面がまだ濡れている。新聞部の紙面なら迷わず一面に使う。
だが、撮れば記事になる。記事になれば名前が載る。名前が載れば、この時刻に走っていることが全校に知れる。
そうなれば、彼女は走る場所を変えるだろう。
情報は、扱う者の都合で人を動かす。外務省で二十年、彼はそればかり見てきた。誰が何を知ったかで国の向きが変わる。最後の年には、知らせないことのほうがよほど難しいと知った。
彼はレンズに蓋をした。
シャツの下、首から下げた指輪が、動くたびに鎖の音を立てる。
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「……言い過ぎましたか」
自転車を押しながら、彼は独りごちた。
速さは、止まる場所を教えてくれません。
言った瞬間に、あの子は足を止めた。届いたということである。届いたのなら、それで十分だった。
その先を言うことはできる。
一日に十里歩ける軍隊は、十里歩けるという理由だけでモスクワまで行き、そこで冬に捕まった。誰も止めなかったからではない。止める条件を誰も決めていなかったからだ。
止める条件のない前進は、必ずどこかで前進ではなくなる。
――それを、あの子に言うのか。
言えば、あの子は明日から走るのをやめるかもしれない。やめないかもしれない。どちらにしても、決めたのは私になる。
彼は自転車のブレーキを軽く鳴らした。
「……私は、あの子の何でもありません」
コーチでもなければ、教師でもない。角で三十秒立っているだけの、他所の学校の同級生である。
権限のない者が人を動かすと、動かされた者はあとで自分の足で立てなくなる。
八十年前に、それを嫌というほど見た。
「よって、本日は、以上」
彼は自分にそう言い聞かせて、豆腐屋の方へ曲がった。
曲がってから、もう一度だけ手帳を開いた。
五時二十二分
その数字の下に、細く、一行だけ書き足す。
朝食 パン一個 摂取確認
「……これくらいは、いいでしょう」
書けることが、これしかなかった。
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夜、松平邸。
「今日は何を撮りました」
侯爵が茶を注ぎながら聞いた。
「豆腐屋です。四時半から働いています。八十年前と同じ時刻でした」
「変わらないものですね」
「変わらないものは、変わらないところにあります」
「よい言い方をなさる」
「言い方だけです」
加瀬はそう言って、それきり黙った。
角のことは、言わなかった。
言えば松谷が調べる。高木が数字を出す。侯爵が段取りをつける。四人が動けば、必ず何かが変わる。
「侯爵」
「はい」
「速い子というのは、見ていて気持ちのいいものですね」
「そうですね」
「ただ、速い子は、自分がどこで止まるべきかを、いちばん知りません」
「……ええ」
「速いというのは、そういうことです。止まるための器官が、別に要る」
侯爵は茶碗を置いた。
「加瀬さん」
「はい」
「餌は、多過ぎるより少な過ぎるほうがよろしい」
「……魚の話ですか」
「魚の話です」
加瀬はしばらく黙って、それから笑った。
「これは、一本取られました」
「取っておりません」
侯爵は微笑んだだけだった。
聞き返さないのが、この人の作法である。
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八月十九日。
五時十分
数字が一つ、手帳に増えた。
彼はしばらくその行を見てから、カメラの蓋を確かめて自転車を押した。
「……そろそろ、豆腐屋に着いてしまいますね」
その日も、写真は撮られなかった。
《記録のみ 記事なし》