負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第28話 1巻4敗目幕間 焼塩視点 六時の角

二次創作/視点:焼塩檸檬・加瀬俊一

 

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【焼塩檸檬】

 

「わっ」

 

「おっと」

 

八月四日、朝の六時。

 

角を曲がったところで、自転車を押した男子とぶつかりそうになった。

 

白いシャツに細身のズボン、首からカメラ。カゴには紙の束。

 

「焼塩さん」

 

「……加瀬君!?」

 

生徒会の加瀬俊一だった。

 

学校の外で見ると印象が違う。制服じゃないからかな。あと、髪が朝の風でくしゃっとなってる。

 

「なんでこんなとこいるの。てか、なんでこの時間?」

 

「取材です。新聞部の」

 

「夏休みなのに?」

 

「夏休みしか撮れないものがあるので」

 

彼はカメラを持ち上げて、あたしの後ろを指した。

 

商店街の入口。シャッターが半分だけ上がって、中で誰かが動いている。

 

「豆腐屋さんは四時半から働いています。パン屋は三時です」

 

「三時!? 夜じゃん」

 

「昼にはもう終わっている仕事が、この街にはたくさんあります」

 

「へー」

 

「昼にしか動かない人は、それを知りません。知らないまま、この街を全部見たつもりでいる」

 

「……ちょっと、かっこいい言い方したね、いま」

 

「しました」

 

「認めるんだ」

 

「否定すると、二度手間ですので」

 

「そういう問題?」

 

「そういう問題です」

 

あたしは片足でトントン跳ねながら、思い出したことを言った。

 

「ねえ、こないだの泳ぎのリベンジは?」

 

「あれは条件が悪かったんです」

 

「出た言い訳!」

 

「言い訳をすると先に申し上げました。宣言した言い訳は、言い訳ではありません」

 

「なにその理屈!」

 

「では、私はこれで。走るのを止めてすみません」

 

会話、たぶん三十秒くらい。

 

あたしはまた走り出した。

 

……ちょっと、得したな。

 

だって、一言も走る理由を聞かれなかったから。

 

---

 

朝の六時は、世界があたしのものになる。

 

これ、走ってる人にしか分かんないと思うんだけど、ほんとにそう。信号は青ばっかり。歩道は空いてて、車の音がしないから自分の足音が聞こえる。タッ、タッ、タッ。

 

夏休みに入ってから毎朝走ってる。部活の朝練は八時からで、それとは別に十キロくらい。コーチには言ってない。言ったらオーバーワークだって止められる。

 

別に。六時に目が覚めちゃうだけじゃん。起きちゃったら走るしかないじゃんね。

 

あたしは加瀬君のこと、そんなによく知らない。

 

知ってるのは二つだけ。

 

一つ、泳ぐのが速い。ブイまでの勝負はあたしが勝ったけど、たぶん本気じゃなかった。あの泳ぎ方は遊びで覚えたやつじゃない。

 

もう一つ。体育倉庫の日、この人は保健室に来て、鍵をかけたのは自分だと言った。

 

あたしは寝たふりをしてたから顔は見てない。声だけ聞いた。

 

誰も見てなかったのに、言いに来た。なんで言いに来たのかは説明しなかった。

 

――あたし、ああいうのが好きなんだよね。

 

理由を長々と喋る人は、たいてい自分のために喋ってる。

 

---

 

 

次の日も、角にいた。

 

「おはようございます」

 

「おはよ! 今日は何撮ってんの?」

 

「犬です」

 

「犬?」

 

「あの家の犬が、毎朝五時五十分に散歩に出ます。正確です。時計より正確だ」

 

「名前は?」

 

「タロウです」

 

「聞いたんだ」

 

「三日かかりました」

 

「三日!?」

 

「飼主が寡黙な方でして」

 

「三日で何言われたの」

 

「タロウです、と」

 

「それだけ!?」

 

「それだけです」

 

「三日かける? ふつう」

 

「かけました」

 

三十秒。

 

その次の日は自販機の話だった。

 

「この道の自販機、六台あります。うち二台が古い。古いほうが当たりが出ます」

 

「出ないでしょ」

 

「出ます。先週、二回出しました」

 

「じゃあ今度やって見せてよ」

 

「当たりは、狙うと出ません」

 

「言い訳!」

 

「観測が対象を変えるのです」

 

「むずかしい言い訳!」

 

三十秒。

 

その次の日は蝉。その次は川の水位。その次は朝刊が届く時刻。

 

毎朝ちがう話をした。毎朝、三十秒だった。

 

彼は一度も、あたしに聞かなかった。

 

なんで走ってるの、とか。部活は、とか。夏休みなのに毎日えらいね、とか。

 

みんな聞くんだよ、そういうの。悪気なく聞くの。そんであたしは「好きだから!」って笑って答える。それでみんな納得する。

 

加瀬君は聞かないから、答えなくてよかった。

 

たぶんこの人、知ってると思うんだよね。光希のことも朝雲さんのことも。生徒会にいて新聞部にもいて、この学校のことを全部知ってるみたいな顔してる人だもん。

 

知ってて、聞かない。

 

そういうのって、けっこう難しいと思う。

 

八奈ちゃんは聞かないでいてくれるけど、目が「聞きたい」って言ってる。ぬっくんは聞かないけど、そもそも人に興味がなさそうだ。

 

加瀬君のは、どっちとも違った。

 

聞かないって、決めてる感じ。

 

---

 

八月八日。

 

その日、あたしは気づいちゃった。

 

「ねえ、加瀬君」

 

「はい」

 

「なんかずっと、口、もぐもぐしてない?」

 

「飴です」

 

「朝から?」

 

「朝からです」

 

「なんで」

 

「口が寂しいので」

 

「……く、口が寂しいって、なに」

 

「そういう状態があるのです」

 

あと、指も動いてた。

 

右手の親指が、人差し指と中指の先を順番に押してる。自転車のハンドルを握ってないときは、ずっと。

 

「手も動いてるけど」

 

「動いていますね」

 

「なんで」

 

「癖です」

 

「なんの癖?」

 

「……忘れました」

 

嘘だ。

 

この人、嘘つくとき返事が一拍だけ長くなる。あたしはこういうの分かるほうだと思う。走ってるとき、相手が本気かどうかは足音で分かるし。

 

でも突っこまなかった。

 

聞かないでもらってるぶん、こっちも聞かないでおく。

 

そういう取引だと思うことにした。

 

---

 

 

「加瀬君って、朝からずっと起きてるじゃん。夜、何時に寝てんの」

 

「十一時ごろでしょうか」

 

「ふつうじゃん」

 

「ふつうです」

 

「なんで朝、そんな早く外いんの」

 

「朝が好きなので」

 

「あ、それ分かる」

 

あたしは走るのをやめて、隣を歩いた。

 

「昔からです」

 

加瀬君が言った。

 

「私は、朝に馬に乗っていました」

 

「……は?」

 

「馬です」

 

「馬!?」

 

「はい」

 

「乗馬部とかそういうやつ?」

 

「そういうやつです」

 

たぶん違うと思う。

 

でも、この人が嘘をつくときの一拍がなかったから、馬のところは本当だと思った。

 

「なんで朝なの」

 

「誰もいないからです」

 

「……」

 

「誰もいない道を、自分の速さで行けます。上手も下手も関係ない。行きたい方に行って、疲れたら戻る」

 

「……分かる」

 

「分かりますか」

 

「分かるよ。すっごい分かる」

 

あたしは、なんか、嬉しくなった。

 

朝に外に出る人の理由を、初めて人から聞いた気がする。うちのコーチは「基礎づくり」って言う。部の子たちは「起きられない」って言うし、お父さんは「感心だ」って言う。

 

誰もいないから、って言った人はいなかった。

 

「いまは乗ってないの?」

 

「乗っていません」

 

「なんで」

 

「馬がおりませんので」

 

「そりゃそうだ!」

 

「自転車では、駄目なんですか」

 

「駄目ではありません」

 

「じゃあいいじゃん」

 

「……返事をしませんので」

 

「馬、返事するの?」

 

「耳が動きます」

 

「それ返事?」

 

「返事です」

 

「豊橋にも、探せばあるのでしょうが」

 

「探さないの?」

 

加瀬君は少し黙った。

 

「……探すと、乗りたくなりますので」

 

あたしはその言い方を、あとで何回か思い出すことになる。

 

---

 

「ナポレオンって知ってます?」

 

「知ってるよ。背が低い人でしょ」

 

「実はそれほど低くありません」

 

「え、そうなの?」

 

「当時の平均くらいです。低いというのは、あとから作られた話です」

 

「じゃあ、なんでみんな低いって言うの」

 

「負かした側が書いたからです」

 

「うわ、こわ」

 

「歴史とは、そういうものです」

 

「ふーん」

 

あたしは走るペースに戻した。加瀬君は自転車を押しながら並んでくる。

 

「あの人の軍隊は、誰よりも速く歩きました」

 

「へー」

 

「一日に、他所の倍は進みます。それで、ほとんど負けませんでした」

 

「かっこいいじゃん」

 

「かっこいいです」

 

加瀬君は前を向いたまま言った。

 

「ただ、速さというのは、どこで止まるかを教えてくれません」

 

「……え」

 

「速く歩ける人は、たいてい、行き過ぎたところで負けます。止まる場所を、速さ自体は持っていないので」

 

あたしは足を止めた。

 

止めるつもりはなかった。勝手に止まった。

 

「……なにそれ」

 

「ナポレオンの話です」

 

「あたしの話じゃなくて?」

 

「ナポレオンの話です」

 

加瀬君はそう言って、にこっと笑った。

 

「では、私はこれで。豆腐屋が閉まりますので」

 

「ちょ、待ってよ」

 

「三十秒を超えました」

 

「時間決まってたの!?」

 

返事はなかった。

 

自転車の音が遠ざかっていく。

 

あたしはそこに立って、しばらく息を整えていた。

 

走ってないのに、息が上がってた。

 

---

 

 

八月十一日、五時二十分に家を出た。

 

理由はない。

 

……ないったら、ない。

 

目が覚めちゃっただけだし。天井見てても仕方ないし。走ってれば時間経つし。

 

外はまだ薄暗くて、空の端っこだけが白い。街灯がまだついてる。誰も歩いてない。

 

角を曲がった。

 

いた。

 

「おはようございます」

 

あたしは足を止めた。

 

「……え」

 

「どうしました」

 

「や、だって、まだ五時半だよ」

 

「そうですね」

 

「そうですねって」

 

「今日は、この時刻に立つと決めていました」

 

彼はそれだけ言って、カメラのレンズを拭いた。

 

早いですね、とは言わなかった。今日は早起きですね、とも言わなかった。

 

あたしは、なんか、ぞわっとした。

 

「ねえ。あたしが早くなってんの、知ってた?」

 

「知っています」

 

即答だった。

 

彼はポケットから手帳を出して、開いて、こっちに向けた。

 

  八月四日 六時〇二分

  八月五日 六時〇〇分

  八月六日 五時五十八分

  八月七日 五時五十分

 

ずっと下まで続いていた。今日の日付の横は、まだ空いていた。

 

「なにこれ」

 

「記録です。私は数字を書き留める癖があります。職業病のようなものです」

 

「高校生に職業病はないでしょ」

 

「ないですね」

 

「認めるの早いな!」

 

でも、そこを突っこめなかった。

 

この紙、あたしの八日間が全部あるんだもん。

 

誰も見てないと思ってた。

 

---

 

「……ねえ」

 

「はい」

 

「それ、けっこうキモいよ」

 

「はい」

 

「はいって」

 

「気持ちの悪い話です。自覚はあります」

 

「え、認めるんだ」

 

「認めます。毎朝同じ角に立って、同じ人の時刻を書いている。他人に説明できる行動ではありません」

 

「……うん」

 

「やめましょうか」

 

あたしは口を開けたまま止まった。

 

やめましょうか、って。

 

そんなにあっさり言う?

 

「今日でやめます。角は変えます。この道は使いません」

 

「……」

 

「そのほうが、走りやすいでしょう」

 

加瀬君は手帳を閉じて、ポケットにしまった。

 

しまう手つきが、事務的すぎた。

 

――あ、この人、ほんとにやめる。

 

そう思った瞬間、あたしの口が勝手に動いた。

 

「……いや、いい」

 

「よろしいので」

 

「いい。来て」

 

「よろしいのですか」

 

「二回聞かないで」

 

「二回目までは、聞くことにしております」

 

「なんで」

 

「一回目は、勢いで答えることがありますので」

 

「……」

 

「三回は聞きません。しつこくなりますので」

 

「……そこ、線引いてあるんだ」

 

「引いてあります」

 

---

 

「……なんで聞かないの」

 

声が、思ったより小さく出た。

 

「なにをですか」

 

「なんで早くなってるのって。ふつう聞くじゃん」

 

加瀬君は手帳を閉じた。

 

「聞かれたくないから、この時刻に走っているんでしょう」

 

「……なんで分かるの」

 

「同じことをしたことがあります」

 

「加瀬君が?」

 

「昔です」

 

「なにから逃げてたの」

 

「……三十秒を超えました」

 

「そこで使う!?」

 

返す言葉がなかった。

 

そのとおりだったから。

 

角で立ち止まったまま、あたしは自分の呼吸を聞いていた。走ってないのに、息が上がってる。

 

「……ずるいよ、それ」

 

「ずるいですね」

 

「認めるの早いって!」

 

---

 

「一つだけ、いいですか」

 

「……なに」

 

「朝食は、食べていますか」

 

「え」

 

「食べていますか」

 

「……走ったあと、シャワー浴びて、そんで、なんか、いいかなって」

 

「よくありません」

 

「よくないって、そんな」

 

「よくありません」

 

彼はカゴから紙袋を出して押しつけてきた。中を見たら、まだ温かいパンが入っていた。

 

「取材先でいただきました。三時から焼いている人のパンです」

 

「え、いや、悪いよ」

 

「私は昼に食べます。二つあるので」

 

「……ほんとに二つある?」

 

「あります」

 

「見せて」

 

「見せません」

 

「うそじゃん!」

 

「言い訳をします」

 

「言い訳の使い方が違う!」

 

「では、宣言します。これから言い訳をします」

 

「宣言しても嘘は嘘!」

 

「厳しいですね」

 

「あたりまえでしょ!」

 

あたしは笑った。笑いながら、パンを受け取った。

 

「……ありがと」

 

「どういたしまして」

 

「加瀬君ってさ、なんか、変だよね」

 

「よく言われます」

 

「褒めてないから」

 

「褒めていただかなくて結構です」

 

「そこも変」

 

「変ですか」

 

「変だよ」

 

「では、変ということで」

 

「なんで折れるの早いの!」

 

「争っても、変ではなくなりませんので」

 

「そこは争って!」

 

彼はにこっと笑った。

 

……ずるいなー、その顔。

 

「あのさ」

 

「はい」

 

「もし、あたしが明日、四時に来たら」

 

「四時にいます」

 

「……即答じゃん」

 

「即答しました」

 

「なんで」

 

「その日は、豆腐屋より早く着けますので」

 

理由がおかしい。

 

おかしいのに、あたしはなんか、喉のあたりがぎゅっとなった。

 

「……あたし、四時には来ないよ」

 

「そうですか」

 

「うん」

 

「では、六時に」

 

「……六時?」

 

「六時です」

 

なんでそこ戻すの、と思った。

 

思って、言わなかった。

 

言わなくても、たぶん通じてる気がしたから。

 

---

 

パンを一口かじって、口の中を火傷して、走り出した。

 

「あっっつ!」

 

「焼塩さん」

 

「なに!」

 

「時計より正確なのは、タロウとあなただけです」

 

「犬と一緒にしないでよ!」

 

「褒めています」

 

「褒め方も変!」

 

「タロウは優秀です」

 

「フォローになってない!」

 

返事は笑い声だけだった。

 

あたしは笑いながら走った。

 

その日は、いつもより速く走れた気がした。

 

---

 

 

【Intermission 記録のみ】

 

一九〇三年生まれの外務大臣秘書官・加瀬俊一が、豊橋の商店街で自転車を押している。

 

  八月十一日 五時二十二分

 

加瀬俊一は数字を書きこんで、手帳を閉じた。

 

角に立って十日目になる。最初の日は偶然だった。二日目からは意図してそこにいる。

 

---

 

――これが、傍から何に見えるか。

 

考えなかったわけではない。二日目に考えた。

 

毎朝、同じ角に立つ。同じ相手の時刻を書き留める。相手の生活の型を本人より正確に把握する。

 

八十年前にそれをやっていたのは憲兵である。

 

やられる側にいた人間が、いま、やる側の形をしている。

 

だから、四つ決めた。

 

  一、こちらから近づかない。角に立つだけで、追わない。

  二、聞かない。走る理由も、家の事情も、聞かない。

  三、手帳は、見せろと言われたら見せる。隠さない。

  四、やめろと言われた日に、やめる。

 

四つ目がいちばん大事である。

 

決めておけば迷わない。迷わなければ、判断は本人の手に残る。

 

――そういう仕組みを、二年かけて作ろうとしたことがあった。

 

作れなかったが。

 

---

 

今日、四つ目が使われかけた。

 

使われなかった。

 

使われなかったことのほうが、彼には重い。

 

彼は自転車のスタンドを立て、カメラを構えた。

 

構えて、下ろした。

 

「……いい画なんですがね」

 

遠ざかる背中は、朝の光の中でよく撮れる。逆光で、影が長く伸びる。路面がまだ濡れている。新聞部の紙面なら迷わず一面に使う。

 

だが、撮れば記事になる。記事になれば名前が載る。名前が載れば、この時刻に走っていることが全校に知れる。

 

そうなれば、彼女は走る場所を変えるだろう。

 

情報は、扱う者の都合で人を動かす。外務省で二十年、彼はそればかり見てきた。誰が何を知ったかで国の向きが変わる。最後の年には、知らせないことのほうがよほど難しいと知った。

 

彼はレンズに蓋をした。

 

シャツの下、首から下げた指輪が、動くたびに鎖の音を立てる。

 

---

 

「……言い過ぎましたか」

 

自転車を押しながら、彼は独りごちた。

 

速さは、止まる場所を教えてくれません。

 

言った瞬間に、あの子は足を止めた。届いたということである。届いたのなら、それで十分だった。

 

その先を言うことはできる。

 

一日に十里歩ける軍隊は、十里歩けるという理由だけでモスクワまで行き、そこで冬に捕まった。誰も止めなかったからではない。止める条件を誰も決めていなかったからだ。

 

止める条件のない前進は、必ずどこかで前進ではなくなる。

 

――それを、あの子に言うのか。

 

言えば、あの子は明日から走るのをやめるかもしれない。やめないかもしれない。どちらにしても、決めたのは私になる。

 

彼は自転車のブレーキを軽く鳴らした。

 

「……私は、あの子の何でもありません」

 

コーチでもなければ、教師でもない。角で三十秒立っているだけの、他所の学校の同級生である。

 

権限のない者が人を動かすと、動かされた者はあとで自分の足で立てなくなる。

 

八十年前に、それを嫌というほど見た。

 

「よって、本日は、以上」

 

彼は自分にそう言い聞かせて、豆腐屋の方へ曲がった。

 

曲がってから、もう一度だけ手帳を開いた。

 

  五時二十二分

 

その数字の下に、細く、一行だけ書き足す。

 

  朝食 パン一個 摂取確認

 

「……これくらいは、いいでしょう」

 

書けることが、これしかなかった。

 

---

 

夜、松平邸。

 

「今日は何を撮りました」

 

侯爵が茶を注ぎながら聞いた。

 

「豆腐屋です。四時半から働いています。八十年前と同じ時刻でした」

 

「変わらないものですね」

 

「変わらないものは、変わらないところにあります」

 

「よい言い方をなさる」

 

「言い方だけです」

 

加瀬はそう言って、それきり黙った。

 

角のことは、言わなかった。

 

言えば松谷が調べる。高木が数字を出す。侯爵が段取りをつける。四人が動けば、必ず何かが変わる。

 

「侯爵」

 

「はい」

 

「速い子というのは、見ていて気持ちのいいものですね」

 

「そうですね」

 

「ただ、速い子は、自分がどこで止まるべきかを、いちばん知りません」

 

「……ええ」

 

「速いというのは、そういうことです。止まるための器官が、別に要る」

 

侯爵は茶碗を置いた。

 

「加瀬さん」

 

「はい」

 

「餌は、多過ぎるより少な過ぎるほうがよろしい」

 

「……魚の話ですか」

 

「魚の話です」

 

加瀬はしばらく黙って、それから笑った。

 

「これは、一本取られました」

 

「取っておりません」

 

侯爵は微笑んだだけだった。

 

聞き返さないのが、この人の作法である。

 

---

 

八月十九日。

 

  五時十分

 

数字が一つ、手帳に増えた。

 

彼はしばらくその行を見てから、カメラの蓋を確かめて自転車を押した。

 

「……そろそろ、豆腐屋に着いてしまいますね」

 

その日も、写真は撮られなかった。

 

《記録のみ 記事なし》

 

 

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