負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
二次創作/視点:小鞠知花・加瀬俊一
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一
【小鞠知花】
八月五日。部室。
「だから三島は絶対に受けなの」
月之木先輩が机を叩いた。
「な、なんの話ですか」
「太宰と三島」
……また始まった。
私はノートパソコンに目を戻した。原稿用紙換算で五十四枚目である。
夏休みの部室は私の城だったのだが、七月の終わりから侵入者が増えている。
一号は松谷だ。毎日来て、書かずに帰る。
二号が月之木先輩である。三年生には夏期講習があるはずなのだが、この人は週に三回ここへ来る。玉木先輩と同じ部屋で勉強すると喧嘩になるからだそうだ。
先週も推しのBL本を隠されて冷戦になっていた。今週は返ってきたらしい。
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「小鞠ちゃん、聞いてる?」
「き、聞いてない」
「一九四六年ね。三島が二十一歳のとき、太宰の集まりに乗りこんでいったの」
聞くしかない。
「そこで本人の前で言ったのよ。僕は太宰さんの文学はきらいなんです、って」
「ひ、ひどい」
「で、太宰がなんて返したと思う?」
「し、知らない」
先輩は一拍おいた。
こういう間の取り方だけは、この人は本当にうまい。
「そんなこと言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな」
「……」
「ね?」
「……」
「ねっ?」
「……ず、ずるい」
「ずるいでしょ! しかもこれ、史実だからね」
「ほ、本当に?」
「本当。教科書には載ってないけど」
「の、載せてほしい」
「載ったら受験生が全滅するわよ」
私はシャープペンシルを置いた。
置くべきではなかったのだが、置いてしまった。
きらいだと言いに行く。
言いに行くために、わざわざ人の集まりに乗りこむ。
そこまでして言う言葉が、きらいだ、なのである。
私はその話の構造がけっこう好きだった。好きだと認めるのは癪なので、認めない。
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「で、三島が受け」
「……そ、そうかな」
「異論があるの」
「太宰のほうが、いつも、あんな感じで受け流してる」
「受け流すのは受けじゃないの」
「受け流してる側が、主導権を握ってる」
「あら」
先輩がにやりとした。
まずい。
「小鞠ちゃん、けっこうやるじゃない」
「や、やってない」
「じゃあ太宰攻めで一本書きなさいよ。部誌に」
「ぶ、部誌にっ!?」
「五十四枚あるんでしょ」
「そ、それはっ、べ、別の話ですっ」
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二
【小鞠知花】
そこで先輩が、机の端に目をやった。
日本史の参考書が置いてある。角が一つも折れていない。背も割れていない。朝からそこにある。
「……小鞠ちゃん」
「な、なんですか」
「私ね、文学史だけは全部覚えたのよ」
「ど、どうやって」
「攻めと受けで」
「や、やっぱり」
「太宰と三島、鴎外と漱石、賢治と……賢治は一人だから除外」
「だいたい合ってる」
「でしょ」
「で、でも、それ、し、試験には」
「出ないけど覚えられるでしょ」
「お、覚え方が、目的とずれてる」
「小鞠ちゃん、それ言っちゃう?」
言った。
この人の暗記術は、覚えるためのものではない。覚えている自分を面白がるためのものである。
三年間そばで見ていれば分かる。
先輩は参考書を開いた。
そして、そのまま額を頁に乗せた。
「無理っ」
「な、なにが」
「覚えられない。人が多すぎる。近衛、東條、木戸、米内、鈴木、阿南。全員ハンコみたいな顔してる」
「失礼だぞ」
「白黒写真の男の人、全員おんなじ顔に見えない?」
見える。
見えるが、認めると先輩が調子に乗る。
「そ、そんなことない」
「小鞠ちゃん、いま目が泳いだ」
「お、泳いでない」
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「……いける気がしてきた」
「な、なにが」
「日本史も、線でつなげばいいのよ。誰が誰を上げて、誰が誰を落としたか」
「せ、先輩。それ、ふ、普通に勉強では」
「普通にやって覚えられたら苦労してないでしょ」
正論だった。
正論なのが、いちばん腹立たしい。
先輩はノートを開いて、真ん中に丸を二つ描いた。
「いちばん太い線が引けるのが、近衛文麿と東條英機」
「……あ」
「気づいた?」
「せ、先輩。それ、実在の人です」
「実在してたのよ。いまはしてないでしょ」
「理屈が乱暴っ」
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「太宰と三島って、一回しか会ってないのよ」
「……一回」
「それであの破壊力。接点が少ないほど濃くなるの。基本よ」
「こ、近衛と東條は」
「……接点、多すぎ」
「お、多いと、薄まるんじゃ」
「多すぎると、逆に煮詰まるの」
煮詰まる、という言い方はたぶん正しくない。
正しくないのに、なんとなく分かってしまうのが悔しい。
この人はときどきこういう言葉の出し方をする。三年間文芸部にいる人の出し方である。
先輩は写真を指でとんとん叩いた。
「で、どっちが攻めだと思う?」
「ひ、東條だと思う」
「理由は」
「ぐ、軍人だから」
「弱い」
「え」
「小鞠ちゃん、それ制服で判断してるでしょ。素人の発想よ」
素人扱いされた。
私は五十四枚書いている女である。
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「言い直します」
「どうぞ」
「東條は、そ、総理大臣と、陸軍大臣と、参謀総長を、ぜ、全部いっぺんにやってる」
「一人で?」
「ひ、一人で」
「それ、何がまずいの」
「ぐ、軍を動かす人と、と、止める人が、お、同じになる」
「うわ」
「ふ、普通じゃない。ぜ、全部自分でやらないと気が済まない人」
「いいわね」
「そ、それに、近衛に、き、清水の舞台から飛び降りろって言った」
「言った言った! あれ最高よ!」
先輩がまた机を叩いた。
「決断できない男に、目をつぶって飛べって迫るのよ? 教科書が悪いわ」
「き、教科書は悪くない」
「悪いわよ。あんな台詞を注釈なしで載せるほうが悪い」
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「で、近衛はどうなの」
「こ、近衛は」
私は参考書の写真を見た。
痩せている。目が細くて口が小さい。制服ではなく背広を着ていて、姿勢だけがやたらいい。
「……こ、公家です。五摂家の、い、いちばん上」
「顔がいいのよね、この人」
「か、顔は関係ないっ」
「あるわよ。当時から光源氏って言われてたんだから」
「そ、そんな注釈ある!?」
「ないけど有名よ」
「じゃ、じゃあ言うなっ」
「病弱。憂い顔。決断できない。総理大臣を三回やって、三回とも途中で投げてる」
「……」
「これで受けじゃなかったら、何が受けなの」
反論できなかった。
反論できないのが、いちばん腹が立つ。
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三
【小鞠知花】
そこで扉が開いた。
一五一二である。この人は毎日この時刻に来る。
「失礼する」
「あら松谷君。ちょうどいいところに」
「なんだ」
「太宰治って読んだことある?」
「……名前は聞いた」
「三島由紀夫は」
「知らない」
「えっ」
「知らない」
先輩が眉をひそめた。
「知らないの? 教科書に載ってるわよ」
「……そうか」
――知らないんだ。
私はそのことを、少しだけ変だと思った。
思っただけで、そのときは流した。
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「使えないわね。じゃあこっちよ」
先輩は参考書を持ち上げた。
「近衛文麿と東條英機。どっちが攻めだと思う?」
「うなっ!?」
私は本気で椅子から浮いた。
「せ、先輩、聞くなっ! この人に聞くなっ」
「なんで」
「ぜ、絶対、伝わらないっ」
松谷は原稿用紙を一枚出しながら、真顔で言った。
「攻めとは、なんだ」
「ほ、ほらーっ!」
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「主導権を握ってるほうよ」
先輩が、たいへんに省略した説明をした。
「押すほうが攻め。押されるほうが受け。分かった?」
「……押す」
「そう」
「押すというのは、どういう押し方だ。命令か、人事か、金か」
「え」
「押し方によって、答えが変わる」
「……松谷君、いま三つ挙げたわね」
「挙げた」
「三つ目、金って言った?」
「言った」
「高校生の会話に出る単語じゃないのよ、それ」
「……そうか」
先輩の目がすっと細くなった。
――あ。
まずい。この顔は、月之木先輩が獲物を見つけた顔である。
「松谷君。あなた、いい質問するわね」
「そうか」
「じゃあ人事でいきましょう。人事」
「では、答えられる」
「答えられるの!?」
「三点ある」
「三点あるの!?」
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松谷は原稿用紙の余白に線を引いた。
いつもの、定規で引いたような線である。
「第一。東條英機を陸軍次官に据えたのは、近衛文麿だ」
「……え」
「昭和十三年。近衛は支那事変を収めたかった。そのために板垣征四郎を陸軍大臣にしたかった」
「うん」
「陸軍は、板垣を出す代わりに東條を次官に置けと言ってきた」
「の、呑んだ側じゃないですか」
「呑んだ。だが、そこへ入れると決めたのは近衛だ」
「……」
「近衛は後年、あれは手違いだったと言っている」
「言ってるんだ!?」
「板垣についても言っている。会ってみたらボンクラだった、と」
「ひどっ! 自分で頼んだのに!」
「自分で頼んでいる」
「これあれね。推しを部長に据えるために、苦手な子を副部長で呑むやつね」
「そ、その状況がまず分からない」
「あるのよ、部活には」
「ぶ、文芸部にはない」
「文芸部は人がいないもの」
先輩がノートに書き取りはじめた。速い。
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「第二。昭和十六年十月、近衛は内閣を投げている」
「な、投げた」
「アメリカとの交渉が詰まっていた。陸軍大臣の東條は、大陸から兵を引くことに応じない。近衛はそこで辞めた」
「じゃあ次の総理を東條にしたのも近衛?」
「違う」
「違うの」
「近衛が挙げたのは皇族だ。東久邇宮。陸軍を抑えられるのは皇族しかいない、という理屈だった」
「へえ」
「そのとき東條も、同じ人を推している」
「え」
「同じ人だ」
「ちょっと待って。二人とも意見が合ってるじゃない」
「合っていた。後継については」
「なにそれ!」
「通らなかったがな」
「通らなかったんだ」
「木戸幸一が止めている。皇族が総理で戦争になれば、負けたときに皇室が背負うことになる、と」
「……うわ」
「東條を出したのは木戸だ。近衛ではない」
「じゃあ近衛は何をしたの」
「放り出した。落ちた先が東條だった、というだけだ」
「そ、それ、攻めなんですか」
「知らん。分類は君たちの仕事だ」
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「第三。昭和二十年二月、近衛は陛下に上奏している」
「上奏。えらい人に直接言うやつね」
「軍のなかの一派を、始末すべきだと書いた」
「誰って書いてあるの」
「書いていない」
「え」
「名前が一つも出てこない。一味、としか書いていない」
「な、名前を書かないほうが、こ、怖い」
「怖い」
先輩がペンを止めた。
「……ちょっと待って。その『一味』って、東條のこと?」
「違う」
「また違うの!?」
「そのとき東條は軍にいない。前の年の七月に辞めて、予備役に入っている」
「じゃあ誰」
「そのとき現に軍の中枢にいた者だ。近衛は、そこに共産主義が入りこんでいると思っていた」
「……思ってた?」
「思っていた」
「事実は」
「事実ではない」
「えっ」
「事実ではないが、近衛は信じていた。信じたまま書いて、陛下に出した」
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「……じゃあ東條は。近衛のなかで、なんだったの」
松谷は線を引く手を止めた。
「別の使い道があった」
「つ、使い道」
「東條は世界中から憎まれている。憎まれている者に全部背負わせれば、その上が軽くなる」
「……その上って」
「近衛はそう言っている。昭和十九年の四月だ」
「誰に言ったの」
「東久邇宮」
「……あれ」
先輩がノートの前の頁をめくり返した。
「それ、さっき出てきた人じゃない」
「三年前に、近衛が総理に推した相手だ」
「……」
「その翌朝、近衛は同じことを娘婿にも話している。書き残されたのは、そっちだ」
部室が、しん、とした。
扇風機だけが、ぶうんと鳴っている。
私は「その上」が誰を指すのか、一拍おいてから分かった。
分かってしまったので、口には出さなかった。
先輩も出さなかった。
「……松谷君」
「なんだ」
「それ、攻めとかそういう話じゃないよね」
「そういう話をしていたのか」
「……ううん」
先輩はノートを見て、それから顔を上げた。
「話よ。続けて。見開きの右が、まだ空いてるの」
「では、続ける」
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四
【小鞠知花】
「じゃあ東條は。ずっと押されっぱなしだったの」
「押し返している」
「どこで!?」
「三つある」
「また三つあるの」
「ある」
松谷は線をもう一本引いた。
「一つ。陸軍次官のときだ。近衛が事変を収めるために据えた板垣陸軍大臣は、省の中を次官に押さえられて動けなくなった」
「じ、次官のほうが強いんですか」
「役所は、書類を止められる者が強い。大臣は判を押すだけだ」
「うわ、生々しい」
「……あ、これ会計だ」
「か、会計?」
「文化祭の予算よ。会長に直談判しても動かないの。書類は会計のところで止まるの。うちの部誌、それで何回死にかけたか」
「じ、実感が」
「三年分の実感よ」
「当時、カミソリ次官と呼ばれている」
「渾名っ」
「近衛が外務大臣に呼んだ宇垣一成の対中交渉も、この時期に潰れた。外交の窓口を陸軍側へ寄せる役所が新しくできて、宇垣は辞めている」
「……押し返してるじゃない」
「押し返している。ただし」
「ただし」
「東條も、次官を半年もたずに飛ばされた」
「えっ」
「事変を広げるな、という側がいた。参謀次長の多田駿。石原莞爾もその側だ」
「ひ、人が増えてく」
「東條は、その石原を処分しろと大臣に迫っている。辞表を懐に入れて、夜にだ」
「こ、怖い」
「大臣は両成敗にした。次官の東條と、次長の多田。同じ日付で、二人とも外へ出ている」
「……押し返して、自分も飛ばされてる」
「そうだ」
「二つ目は」
「陸軍大臣のときだ。日米交渉の条件は、大陸からの撤兵だった。東條は最後まで応じない。近衛は交渉を続けられなくなって、辞めた」
「清水の舞台のやつね」
「そうだ」
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「三つ目。総理大臣のときだ」
「うん」
「和平を口にする人間に、憲兵をつけた」
「け、憲兵」
「近衛の家の向かいの民家に、憲兵が詰めていた。電話も聞かれている。近衛は出かけるたび、駅の地下道を歩いて車を乗り換え、尾行を巻いた」
「ス、スパイ映画だ」
「巻かないと、会いに行った相手に憲兵がつくからだ」
「……あ」
「そのなかで、昭和十八年一月八日。高松宮が、近衛と東條を同じ食卓に呼んでいる。二人を突き合わせて、話をさせるためだ」
「あっ、それ美味しい」
「近衛は三十分早く着いて、宮と先に打ち合わせている」
「準備してる!」
「東條は定刻に、オープンカーで乗りつけた」
「オープンカー!?」
「オープンカーだ」
「一月に!?」
「一月にだ」
「なんで!?」
「わざとだ」
「わざと!?」
「東條はオープンカーを特注していた。アメリカ製の箱型の車を買って、屋根を注文で切り取らせている」
「切った!? 屋根を!?」
「切った。夏も冬も幌は張らない。冬は外套を着て、軍刀を脚の間に立てて、背筋を伸ばして乗る。少々の雨でも車は替えない」
「なんでそこまで」
「指導者は、あらゆる機会に大衆の前へ姿を見せるべきだ、という考えだ。それに東條は、背が高くない。開けた車の上なら、人垣より頭が上に出る」
「セルフプロデュースだ……」
「手本にした男が、同盟国にいた」
「……あ。教科書で隣のページに載ってる人だ」
「載っているのか」
「載ってるのよ! オープンカーで手ェ振ってる写真つきで!」
「席についた瞬間、東條が先に言った。この頃は和平を口にする者がおりますが、と」
「うわああっ」
「近衛はその夜、何も言わずに帰っている」
「せ、先手っ」
「先手だ」
「……勝ってるじゃない、それ」
「そこへ妃殿下が来られた」
「え」
「この寒いのに幌を開けた車では、さぞお寒かったでしょう、と」
先輩が机に突っ伏した。
「……妃殿下つよい」
「そこで東條の話は終わっている」
先輩は突っ伏したまま少し笑って、それから顔を上げた。
「……でも三回とも押し返してる。じゃあもう東條も攻めでいいでしょ」
「三つとも、そのとき自分が持っていた職の権限だ」
「え」
「次官として書類を止めた。陸軍大臣として撤兵を拒んだ。総理大臣として憲兵をつけた。職の外から押したことは、一度もない」
「……それ、何がまずいの」
「昭和十九年七月、東條は総理大臣を辞めた。同じ年に予備役へ入っている」
「予備役って何」
「現役を離れることだ」
「……卒業みたいな?」
「近い」
「あ、じゃあ部室の鍵を返したんだ」
「か、鍵」
「部長って、鍵を持ってる間だけ強いのよ。返したら、もう放課後に入れないの」
「……概ね正確だ」
「概ねなんだ」
「そこで押す手がなくなった。それきりだ」
「……それきり」
「それきりだ」
「……」
「辞めた日の夜、東條は迎えの車を、屋根のある箱型に替えさせている」
「え」
「あれほど屋根を切らせた人が、だ。運転手が驚いた、という話が残っている」
「……もう、見られたくなかったのかな」
「記録にない」
「……そこは、ないほうがいいね」
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「じゃ、じゃあ近衛は」
私は思わず口を出した。
「近衛は、そのとき何の職にもついていない」
「え」
「ついていないまま、東條を落としている」
「……」
「職を持つ者は、職の範囲でしか押せない。職を持たない者は、外から押せる」
先輩がシャープペンシルを落とした。
「……攻めじゃん」
「そうなのか」
「待って。待って待って。ちょっと待って」
先輩は顔を上げた。
「その人、自分では何かやってるの」
「やっていない」
「え」
「辞めるのも、上奏文を書くのも、東條を落とすのも、いつも人が動いている」
「……」
「押しているが、手は出していない。そういう押し方をする人間がいる」
先輩が椅子の背にぐったりもたれた。
「……松谷君」
「なんだ」
「それ、いちばん質の悪い攻めだよ」
「そうか」
先輩はもたれたまま、天井に向かって言った。
「あと、分かった。近衛、OBだ」
「お、OB?」
「卒業して鍵も返してるのに、文化祭のたびに来て、指導って言いながら口を出す人。役職がないから、止める規則もないの」
「ぶ、文芸部にいたの、そんな人」
「演劇部の友達が毎年泣いてる」
松谷は少し黙った。
「……大筋、合っている」
「合っちゃうんだ」
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私はその横顔を見ていた。
この人は、本を読まない。
好きな本を聞かれて答えられなかった人である。自分の名前を変換するのに、七回かかった人である。
その人が、昭和十三年と、昭和十八年の一月八日と、昭和二十年の二月を、参考書も見ずに並べた。
参考書は先輩の手元にある。松谷は一度も覗いていない。
そして、言い方が変だった。
歴史の話をする人は、たいてい語尾を濁す。〜だそうです。〜と言われています。
この人は濁さなかった。
全部、言い切った。
「ま、松谷」
「なんだ」
「そ、それ、どこで覚えたの」
一拍あった。
いつもはない一拍だった。
「……本で読んだ」
「ど、どの本」
「忘れた」
忘れる人ではない。
三島を知らない人が、昭和十三年を知っている。
私はそのことを、しばらく考えていた。
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五
【小鞠知花】
十分後、また扉が開いた。
「失礼します。三十秒で出ます」
転入生の、綺麗なほうである。
「加瀬君! いいところに!」
「三十秒です」
「近衛文麿と東條英機、どっちが攻め?」
加瀬は扉の取っ手を持ったまま静止した。
「……もう一度、伺ってよろしいですか」
「近衛と東條、どっちが攻め」
「一度で結構でした」
聞き返してから、聞き返す必要がなかったと言う。
この人の間の取り方は、月之木先輩とは種類が違う。先輩は溜める。この人は、一度受け取ってから返す。
そして、笑った。
声を出して笑った。
「……な、なんで笑うの」
「失礼。あまりに真面目な議論でしたので」
この人は人が真面目にやっていることほど笑う。
前に印刷室で会ったときもそうだった。
「加瀬君、逃げないで。答えて」
「僕は、順番だけ申し上げます」
加瀬は指を四本立てた。
「昭和十三年、近衛が東條を入れました。昭和十六年、東條が近衛を出しました。昭和十九年、近衛が東條を落としました」
「お、落とした」
「サイパンが取られたあと、重臣が総がかりで東條内閣を倒しています。近衛はその中にいました」
「四本目は」
「昭和二十年です。九月に、東條は自分を撃ちました」
「う、撃った」
「当たりどころが良かったのか悪かったのか、助かっています。それから裁判にかけられました」
「い、いつまで」
「判決が出たのは、その三年後です。絞首刑でした」
「……三年」
「近衛は、その三年前に死んでいます」
先輩がノートから顔を上げた。
「……四回、入れ替わってる」
「四回です。攻守という言い方をなさるなら」
「情報量っ!」
「歴史ですので」
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六
【小鞠知花】
先輩は参考書の頁をめくった。
めくって、止まった。
「……あ」
「な、なんですか」
「近衛さん、死んでる」
「し、死んでる?」
「自殺だって。昭和二十年十二月十六日。……戦犯で呼び出されて、その朝に」
「……」
「うわ。えー……」
そこで先輩の声が止まった。
止まったのは、たぶん、笑うところが見つからなかったからだと思う。
この人はどんな話でも笑う場所を探す。探して見つけて、そこから入る。
見つからないときは、黙る。
私は先輩のそういうところをけっこう尊敬している。
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「……枕元に、本が置いてあったって」
先輩がさっきより小さい声で読んだ。
「読みかけのまま。オスカー・ワイルドの『獄中記』」
「ほ、本」
「うん。……借りた本だって書いてある」
「か、借りた」
「誰に借りたかは、書いてない」
そのとき、私は加瀬の手を見ていた。
理由はない。たまたま視界に入っただけである。
右手の指が動いていた。
親指の腹で、人差し指と中指の先を順番に押している。何かを挟んでいた形のまま、挟むものがないので指だけが動いている、という動き方だった。
前に印刷室で見たのと同じである。
あのときは喋りながらずっと動いていた。
いまは喋っていないのに動いている。
喋っているときの癖なら、癖である。
喋っていないときに出るのは、癖ではない。
私はそれをうまく言葉にできなかった。できなかったが、部室の空気が一段だけ下がったのは分かった。
冷房はない。窓は全部開いている。八月五日の午後三時過ぎである。
それでも、下がった。
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「月之木さん」
加瀬が言った。
声はさっきと同じ高さだった。
「なに」
「日本史は、何点取ればよろしいので」
「え? ……えっと、七割」
「では、その頁は出ませんよ」
「……なんで分かるの」
「脚注ですので」
「……あ、ほんとだ」
先輩が笑った。
笑ってから、少しほっとした顔をした。
――逃がした。
いま、この人は先輩を逃がしたのである。
死んだ人の話から、試験の話へ。三秒で。
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「加瀬」
松谷が言った。
私は驚いた。この人が人の名前を呼んで話しかけるのを、あまり見たことがない。
「なんです」
「……新聞部の、締切は」
「……は?」
「締切だ」
「今日ではありませんが」
「そうか」
「……松谷さん」
「なんだ」
「話の変え方が、下手すぎます」
「そうか」
「もう少し、こう、間に何か挟んでください」
「……検討する」
先輩が吹き出した。
私も笑った。
笑ったが、私は分かっていた。
いま松谷が下手くそに変えようとしたのは、たぶん話題ではない。
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加瀬は扉の取っ手を握り直した。
「では、失礼します」
「あら、もう行くの」
「三十秒と申し上げましたので」
私は壁の時計を見た。
一六〇四。
入ってきたのは一五二二である。
四十二分いた。
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七
【加瀬俊一】
その夜、加瀬俊一は松平邸の自室で、机に本を一冊出した。
『獄中記』 オスカー・ワイルド
四月に古書店で買ったものである。帯がついたままで、一度も開いていない。
八十年前は、別の題で出ていた。同じ本である。
読まない理由を聞かれたら、答えられなかっただろう。
聞く相手もいない。
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一九四五年、正月。熱海。大観荘。
借り物の別荘である。
障子の向こうで海が鳴っていた。床の間に鏡餅があって、廊下は寒く、座敷だけが暑い。
もとは、二人だけの席のはずだった。
重光外務大臣と、軽井沢から下りてきた元首相・近衛文麿公爵。戦をどう終わらせるかを話す。それだけである。
だが、男が二人で別荘に籠れば、それは密談にしか見えない。
見えたら憲兵が来る。
だから加瀬俊一は、女性を四人集めた。
近衛公爵の従妹。姻戚筋の未亡人と、その娘。それに自分の妻である。
新年の物見遊山ということにした。三人は、日と道筋をずらして別々に熱海へ入った。
料理人は外務大臣官邸から呼んだ。酒は多めに出させた。
――たいへんに楽しそうな一座である。
そう見えるように、彼が組んだ。
その席で、近衛公爵だけが素面のような顔をしていた。
湯から上がって丹前を着て、盃を置いたところである。頬にまだ湯の色が残っていた。
「加瀬君。人はどうやって死ぬのが、いちばんきれいだと思うね」
「正月からうかがう話ではございませんね」
「正月だから聞いている。あとになると、聞きそびれる」
「では、寝ているあいだに、ということでしょうか」
「顔が残るだろう」
「残りますね」
「醜い顔を残すのは、どうも」
「残された側が、困りますね」
「そこまでは言っていない」
「失礼いたしました」
「いや。……君はときどき、先に言うな」
女性のひとりが、盃を置いて言った。
「近衛さん。正月早々、縁起でもないわ」
「これは失礼」
公爵は笑って、それきりその話をやめた。
やめ方が、あまりにも慣れていた。
この人はいつもそうだった。
いちばん重い話を、いちばん軽い場所に置く。置いてから、誰かが拾うのを待つ。
拾わなければ、そのまま流す。
加瀬俊一はその夜、拾わなかった。
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翌朝、玄関口である。
車が待っていた。公爵はコートを羽織って、それから思い出したように振り返った。
「加瀬君」
「はい」
「ワイルドの『深淵のうちより』を持っていたら、貸してくれないか」
「……ございます」
「では、頼む」
「いつまでに」
「急がん」
急がないと言った人が、東京へ戻って二日で届けたら、玄関まで出てきた。
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「早いな」
「明日でよろしければ、明日にいたしました」
「君はそういうところがある」
公爵は表紙を見て、それから頁を開いた。
立ったまま、しばらく読んでいた。
読み終わるのを、加瀬は待った。待つのは仕事である。
玄関は暗く、庭は冷えていた。
公爵は頁から目を上げなかった。読むのが速い人ではない。速くないのに、途中で止まらない。
「加瀬君」
「はい」
「これは、返さんかもしれん」
「……」
「そう思って、借りる」
「では、差し上げます」
「いや」
公爵は本を閉じた。
「借りておく」
「……はい」
「贈られたものは、しまってしまうからね。借りたものは、机の上に置く」
そう言って、公爵は本を小脇に挟んで奥へ入っていった。
加瀬俊一は、この後ろ姿に暗いものを感じた。瞼からこびりついて離れない。
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その年の九月二十四日、加瀬俊一はこの時代へ落ちた。
十二月十六日のことは、この時代の本で読んだ。
そういう形で知ることになるとは、思っていなかった。
八十年前の彼は、あの人が死ぬところを見ていない。
見ていないのに、日付だけを正確に知っている。
知っている、というのはこの場合、たぶん正しい言葉ではない。
覚えた、のほうが近い。
彼は八十年前の一月を過ごし、同じ年の十二月を暗記した。同じ一年の話である。
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本には、加瀬には覚えのない箇所に線が引いてあったそうである。
「自分を滅ぼしたのは自分である」
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加瀬俊一はこの一文をじっと見た。
そして静かに本を閉じた。
貸したものは、返ってこなかった。
返ってこないものを、人は貸したとは言わない。
――いや。
あの人は、借りておくと言った。
借りたものは、返す約束である。
彼は本を鞄に戻した。
帯は、つけたままにした。
――まだ、返してもらっていない。