負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

31 / 32
第29話 1巻4敗目幕間 小鞠視点 近衛×東條、どっちが攻め?

 

二次創作/視点:小鞠知花・加瀬俊一

 

---

 

 

【小鞠知花】

 

八月五日。部室。

 

「だから三島は絶対に受けなの」

 

月之木先輩が机を叩いた。

 

「な、なんの話ですか」

 

「太宰と三島」

 

……また始まった。

 

私はノートパソコンに目を戻した。原稿用紙換算で五十四枚目である。

 

夏休みの部室は私の城だったのだが、七月の終わりから侵入者が増えている。

 

一号は松谷だ。毎日来て、書かずに帰る。

 

二号が月之木先輩である。三年生には夏期講習があるはずなのだが、この人は週に三回ここへ来る。玉木先輩と同じ部屋で勉強すると喧嘩になるからだそうだ。

 

先週も推しのBL本を隠されて冷戦になっていた。今週は返ってきたらしい。

 

---

 

「小鞠ちゃん、聞いてる?」

 

「き、聞いてない」

 

「一九四六年ね。三島が二十一歳のとき、太宰の集まりに乗りこんでいったの」

 

聞くしかない。

 

「そこで本人の前で言ったのよ。僕は太宰さんの文学はきらいなんです、って」

 

「ひ、ひどい」

 

「で、太宰がなんて返したと思う?」

 

「し、知らない」

 

先輩は一拍おいた。

 

こういう間の取り方だけは、この人は本当にうまい。

 

「そんなこと言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな」

 

「……」

 

「ね?」

 

「……」

 

「ねっ?」

 

「……ず、ずるい」

 

「ずるいでしょ! しかもこれ、史実だからね」

 

「ほ、本当に?」

 

「本当。教科書には載ってないけど」

 

「の、載せてほしい」

 

「載ったら受験生が全滅するわよ」

 

私はシャープペンシルを置いた。

 

置くべきではなかったのだが、置いてしまった。

 

きらいだと言いに行く。

 

言いに行くために、わざわざ人の集まりに乗りこむ。

 

そこまでして言う言葉が、きらいだ、なのである。

 

私はその話の構造がけっこう好きだった。好きだと認めるのは癪なので、認めない。

 

---

 

「で、三島が受け」

 

「……そ、そうかな」

 

「異論があるの」

 

「太宰のほうが、いつも、あんな感じで受け流してる」

 

「受け流すのは受けじゃないの」

 

「受け流してる側が、主導権を握ってる」

 

「あら」

 

先輩がにやりとした。

 

まずい。

 

「小鞠ちゃん、けっこうやるじゃない」

 

「や、やってない」

 

「じゃあ太宰攻めで一本書きなさいよ。部誌に」

 

「ぶ、部誌にっ!?」

 

「五十四枚あるんでしょ」

 

「そ、それはっ、べ、別の話ですっ」

 

---

 

 

【小鞠知花】

 

そこで先輩が、机の端に目をやった。

 

日本史の参考書が置いてある。角が一つも折れていない。背も割れていない。朝からそこにある。

 

「……小鞠ちゃん」

 

「な、なんですか」

 

「私ね、文学史だけは全部覚えたのよ」

 

「ど、どうやって」

 

「攻めと受けで」

 

「や、やっぱり」

 

「太宰と三島、鴎外と漱石、賢治と……賢治は一人だから除外」

 

「だいたい合ってる」

 

「でしょ」

 

「で、でも、それ、し、試験には」

 

「出ないけど覚えられるでしょ」

 

「お、覚え方が、目的とずれてる」

 

「小鞠ちゃん、それ言っちゃう?」

 

言った。

 

この人の暗記術は、覚えるためのものではない。覚えている自分を面白がるためのものである。

 

三年間そばで見ていれば分かる。

 

先輩は参考書を開いた。

 

そして、そのまま額を頁に乗せた。

 

「無理っ」

 

「な、なにが」

 

「覚えられない。人が多すぎる。近衛、東條、木戸、米内、鈴木、阿南。全員ハンコみたいな顔してる」

 

「失礼だぞ」

 

「白黒写真の男の人、全員おんなじ顔に見えない?」

 

見える。

 

見えるが、認めると先輩が調子に乗る。

 

「そ、そんなことない」

 

「小鞠ちゃん、いま目が泳いだ」

 

「お、泳いでない」

 

---

 

「……いける気がしてきた」

 

「な、なにが」

 

「日本史も、線でつなげばいいのよ。誰が誰を上げて、誰が誰を落としたか」

 

「せ、先輩。それ、ふ、普通に勉強では」

 

「普通にやって覚えられたら苦労してないでしょ」

 

正論だった。

 

正論なのが、いちばん腹立たしい。

 

先輩はノートを開いて、真ん中に丸を二つ描いた。

 

「いちばん太い線が引けるのが、近衛文麿と東條英機」

 

「……あ」

 

「気づいた?」

 

「せ、先輩。それ、実在の人です」

 

「実在してたのよ。いまはしてないでしょ」

 

「理屈が乱暴っ」

 

---

 

「太宰と三島って、一回しか会ってないのよ」

 

「……一回」

 

「それであの破壊力。接点が少ないほど濃くなるの。基本よ」

 

「こ、近衛と東條は」

 

「……接点、多すぎ」

 

「お、多いと、薄まるんじゃ」

 

「多すぎると、逆に煮詰まるの」

 

煮詰まる、という言い方はたぶん正しくない。

 

正しくないのに、なんとなく分かってしまうのが悔しい。

 

この人はときどきこういう言葉の出し方をする。三年間文芸部にいる人の出し方である。

 

先輩は写真を指でとんとん叩いた。

 

「で、どっちが攻めだと思う?」

 

「ひ、東條だと思う」

 

「理由は」

 

「ぐ、軍人だから」

 

「弱い」

 

「え」

 

「小鞠ちゃん、それ制服で判断してるでしょ。素人の発想よ」

 

素人扱いされた。

 

私は五十四枚書いている女である。

 

---

 

「言い直します」

 

「どうぞ」

 

「東條は、そ、総理大臣と、陸軍大臣と、参謀総長を、ぜ、全部いっぺんにやってる」

 

「一人で?」

 

「ひ、一人で」

 

「それ、何がまずいの」

 

「ぐ、軍を動かす人と、と、止める人が、お、同じになる」

 

「うわ」

 

「ふ、普通じゃない。ぜ、全部自分でやらないと気が済まない人」

 

「いいわね」

 

「そ、それに、近衛に、き、清水の舞台から飛び降りろって言った」

 

「言った言った! あれ最高よ!」

 

先輩がまた机を叩いた。

 

「決断できない男に、目をつぶって飛べって迫るのよ? 教科書が悪いわ」

 

「き、教科書は悪くない」

 

「悪いわよ。あんな台詞を注釈なしで載せるほうが悪い」

 

---

 

「で、近衛はどうなの」

 

「こ、近衛は」

 

私は参考書の写真を見た。

 

痩せている。目が細くて口が小さい。制服ではなく背広を着ていて、姿勢だけがやたらいい。

 

「……こ、公家です。五摂家の、い、いちばん上」

 

「顔がいいのよね、この人」

 

「か、顔は関係ないっ」

 

「あるわよ。当時から光源氏って言われてたんだから」

 

「そ、そんな注釈ある!?」

 

「ないけど有名よ」

 

「じゃ、じゃあ言うなっ」

 

「病弱。憂い顔。決断できない。総理大臣を三回やって、三回とも途中で投げてる」

 

「……」

 

「これで受けじゃなかったら、何が受けなの」

 

反論できなかった。

 

反論できないのが、いちばん腹が立つ。

 

---

 

 

【小鞠知花】

 

そこで扉が開いた。

 

一五一二である。この人は毎日この時刻に来る。

 

「失礼する」

 

「あら松谷君。ちょうどいいところに」

 

「なんだ」

 

「太宰治って読んだことある?」

 

「……名前は聞いた」

 

「三島由紀夫は」

 

「知らない」

 

「えっ」

 

「知らない」

 

先輩が眉をひそめた。

 

「知らないの? 教科書に載ってるわよ」

 

「……そうか」

 

――知らないんだ。

 

私はそのことを、少しだけ変だと思った。

 

思っただけで、そのときは流した。

 

---

 

「使えないわね。じゃあこっちよ」

 

先輩は参考書を持ち上げた。

 

「近衛文麿と東條英機。どっちが攻めだと思う?」

 

「うなっ!?」

 

私は本気で椅子から浮いた。

 

「せ、先輩、聞くなっ! この人に聞くなっ」

 

「なんで」

 

「ぜ、絶対、伝わらないっ」

 

松谷は原稿用紙を一枚出しながら、真顔で言った。

 

「攻めとは、なんだ」

 

「ほ、ほらーっ!」

 

---

 

「主導権を握ってるほうよ」

 

先輩が、たいへんに省略した説明をした。

 

「押すほうが攻め。押されるほうが受け。分かった?」

 

「……押す」

 

「そう」

 

「押すというのは、どういう押し方だ。命令か、人事か、金か」

 

「え」

 

「押し方によって、答えが変わる」

 

「……松谷君、いま三つ挙げたわね」

 

「挙げた」

 

「三つ目、金って言った?」

 

「言った」

 

「高校生の会話に出る単語じゃないのよ、それ」

 

「……そうか」

 

先輩の目がすっと細くなった。

 

――あ。

 

まずい。この顔は、月之木先輩が獲物を見つけた顔である。

 

「松谷君。あなた、いい質問するわね」

 

「そうか」

 

「じゃあ人事でいきましょう。人事」

 

「では、答えられる」

 

「答えられるの!?」

 

「三点ある」

 

「三点あるの!?」

 

---

 

松谷は原稿用紙の余白に線を引いた。

 

いつもの、定規で引いたような線である。

 

「第一。東條英機を陸軍次官に据えたのは、近衛文麿だ」

 

「……え」

 

「昭和十三年。近衛は支那事変を収めたかった。そのために板垣征四郎を陸軍大臣にしたかった」

 

「うん」

 

「陸軍は、板垣を出す代わりに東條を次官に置けと言ってきた」

 

「の、呑んだ側じゃないですか」

 

「呑んだ。だが、そこへ入れると決めたのは近衛だ」

 

「……」

 

「近衛は後年、あれは手違いだったと言っている」

 

「言ってるんだ!?」

 

「板垣についても言っている。会ってみたらボンクラだった、と」

 

「ひどっ! 自分で頼んだのに!」

 

「自分で頼んでいる」

 

「これあれね。推しを部長に据えるために、苦手な子を副部長で呑むやつね」

 

「そ、その状況がまず分からない」

 

「あるのよ、部活には」

 

「ぶ、文芸部にはない」

 

「文芸部は人がいないもの」

 

先輩がノートに書き取りはじめた。速い。

 

---

 

「第二。昭和十六年十月、近衛は内閣を投げている」

 

「な、投げた」

 

「アメリカとの交渉が詰まっていた。陸軍大臣の東條は、大陸から兵を引くことに応じない。近衛はそこで辞めた」

 

「じゃあ次の総理を東條にしたのも近衛?」

 

「違う」

 

「違うの」

 

「近衛が挙げたのは皇族だ。東久邇宮。陸軍を抑えられるのは皇族しかいない、という理屈だった」

 

「へえ」

 

「そのとき東條も、同じ人を推している」

 

「え」

 

「同じ人だ」

 

「ちょっと待って。二人とも意見が合ってるじゃない」

 

「合っていた。後継については」

 

「なにそれ!」

 

「通らなかったがな」

 

「通らなかったんだ」

 

「木戸幸一が止めている。皇族が総理で戦争になれば、負けたときに皇室が背負うことになる、と」

 

「……うわ」

 

「東條を出したのは木戸だ。近衛ではない」

 

「じゃあ近衛は何をしたの」

 

「放り出した。落ちた先が東條だった、というだけだ」

 

「そ、それ、攻めなんですか」

 

「知らん。分類は君たちの仕事だ」

 

---

 

「第三。昭和二十年二月、近衛は陛下に上奏している」

 

「上奏。えらい人に直接言うやつね」

 

「軍のなかの一派を、始末すべきだと書いた」

 

「誰って書いてあるの」

 

「書いていない」

 

「え」

 

「名前が一つも出てこない。一味、としか書いていない」

 

「な、名前を書かないほうが、こ、怖い」

 

「怖い」

 

先輩がペンを止めた。

 

「……ちょっと待って。その『一味』って、東條のこと?」

 

「違う」

 

「また違うの!?」

 

「そのとき東條は軍にいない。前の年の七月に辞めて、予備役に入っている」

 

「じゃあ誰」

 

「そのとき現に軍の中枢にいた者だ。近衛は、そこに共産主義が入りこんでいると思っていた」

 

「……思ってた?」

 

「思っていた」

 

「事実は」

 

「事実ではない」

 

「えっ」

 

「事実ではないが、近衛は信じていた。信じたまま書いて、陛下に出した」

 

---

 

「……じゃあ東條は。近衛のなかで、なんだったの」

 

松谷は線を引く手を止めた。

 

「別の使い道があった」

 

「つ、使い道」

 

「東條は世界中から憎まれている。憎まれている者に全部背負わせれば、その上が軽くなる」

 

「……その上って」

 

「近衛はそう言っている。昭和十九年の四月だ」

 

「誰に言ったの」

 

「東久邇宮」

 

「……あれ」

 

先輩がノートの前の頁をめくり返した。

 

「それ、さっき出てきた人じゃない」

 

「三年前に、近衛が総理に推した相手だ」

 

「……」

 

「その翌朝、近衛は同じことを娘婿にも話している。書き残されたのは、そっちだ」

 

部室が、しん、とした。

 

扇風機だけが、ぶうんと鳴っている。

 

私は「その上」が誰を指すのか、一拍おいてから分かった。

 

分かってしまったので、口には出さなかった。

 

先輩も出さなかった。

 

「……松谷君」

 

「なんだ」

 

「それ、攻めとかそういう話じゃないよね」

 

「そういう話をしていたのか」

 

「……ううん」

 

先輩はノートを見て、それから顔を上げた。

 

「話よ。続けて。見開きの右が、まだ空いてるの」

 

「では、続ける」

 

---

 

 

【小鞠知花】

 

「じゃあ東條は。ずっと押されっぱなしだったの」

 

「押し返している」

 

「どこで!?」

 

「三つある」

 

「また三つあるの」

 

「ある」

 

松谷は線をもう一本引いた。

 

「一つ。陸軍次官のときだ。近衛が事変を収めるために据えた板垣陸軍大臣は、省の中を次官に押さえられて動けなくなった」

 

「じ、次官のほうが強いんですか」

 

「役所は、書類を止められる者が強い。大臣は判を押すだけだ」

 

「うわ、生々しい」

 

「……あ、これ会計だ」

 

「か、会計?」

 

「文化祭の予算よ。会長に直談判しても動かないの。書類は会計のところで止まるの。うちの部誌、それで何回死にかけたか」

 

「じ、実感が」

 

「三年分の実感よ」

 

「当時、カミソリ次官と呼ばれている」

 

「渾名っ」

 

「近衛が外務大臣に呼んだ宇垣一成の対中交渉も、この時期に潰れた。外交の窓口を陸軍側へ寄せる役所が新しくできて、宇垣は辞めている」

 

「……押し返してるじゃない」

 

「押し返している。ただし」

 

「ただし」

 

「東條も、次官を半年もたずに飛ばされた」

 

「えっ」

 

「事変を広げるな、という側がいた。参謀次長の多田駿。石原莞爾もその側だ」

 

「ひ、人が増えてく」

 

「東條は、その石原を処分しろと大臣に迫っている。辞表を懐に入れて、夜にだ」

 

「こ、怖い」

 

「大臣は両成敗にした。次官の東條と、次長の多田。同じ日付で、二人とも外へ出ている」

 

「……押し返して、自分も飛ばされてる」

 

「そうだ」

 

「二つ目は」

 

「陸軍大臣のときだ。日米交渉の条件は、大陸からの撤兵だった。東條は最後まで応じない。近衛は交渉を続けられなくなって、辞めた」

 

「清水の舞台のやつね」

 

「そうだ」

 

---

 

「三つ目。総理大臣のときだ」

 

「うん」

 

「和平を口にする人間に、憲兵をつけた」

 

「け、憲兵」

 

「近衛の家の向かいの民家に、憲兵が詰めていた。電話も聞かれている。近衛は出かけるたび、駅の地下道を歩いて車を乗り換え、尾行を巻いた」

 

「ス、スパイ映画だ」

 

「巻かないと、会いに行った相手に憲兵がつくからだ」

 

「……あ」

 

「そのなかで、昭和十八年一月八日。高松宮が、近衛と東條を同じ食卓に呼んでいる。二人を突き合わせて、話をさせるためだ」

 

「あっ、それ美味しい」

 

「近衛は三十分早く着いて、宮と先に打ち合わせている」

 

「準備してる!」

 

「東條は定刻に、オープンカーで乗りつけた」

 

「オープンカー!?」

 

「オープンカーだ」

 

「一月に!?」

 

「一月にだ」

 

「なんで!?」

 

「わざとだ」

 

「わざと!?」

 

「東條はオープンカーを特注していた。アメリカ製の箱型の車を買って、屋根を注文で切り取らせている」

 

「切った!? 屋根を!?」

 

「切った。夏も冬も幌は張らない。冬は外套を着て、軍刀を脚の間に立てて、背筋を伸ばして乗る。少々の雨でも車は替えない」

 

「なんでそこまで」

 

「指導者は、あらゆる機会に大衆の前へ姿を見せるべきだ、という考えだ。それに東條は、背が高くない。開けた車の上なら、人垣より頭が上に出る」

 

「セルフプロデュースだ……」

 

「手本にした男が、同盟国にいた」

 

「……あ。教科書で隣のページに載ってる人だ」

 

「載っているのか」

 

「載ってるのよ! オープンカーで手ェ振ってる写真つきで!」

 

「席についた瞬間、東條が先に言った。この頃は和平を口にする者がおりますが、と」

 

「うわああっ」

 

「近衛はその夜、何も言わずに帰っている」

 

「せ、先手っ」

 

「先手だ」

 

「……勝ってるじゃない、それ」

 

「そこへ妃殿下が来られた」

 

「え」

 

「この寒いのに幌を開けた車では、さぞお寒かったでしょう、と」

 

先輩が机に突っ伏した。

 

「……妃殿下つよい」

 

「そこで東條の話は終わっている」

 

先輩は突っ伏したまま少し笑って、それから顔を上げた。

 

「……でも三回とも押し返してる。じゃあもう東條も攻めでいいでしょ」

 

「三つとも、そのとき自分が持っていた職の権限だ」

 

「え」

 

「次官として書類を止めた。陸軍大臣として撤兵を拒んだ。総理大臣として憲兵をつけた。職の外から押したことは、一度もない」

 

「……それ、何がまずいの」

 

「昭和十九年七月、東條は総理大臣を辞めた。同じ年に予備役へ入っている」

 

「予備役って何」

 

「現役を離れることだ」

 

「……卒業みたいな?」

 

「近い」

 

「あ、じゃあ部室の鍵を返したんだ」

 

「か、鍵」

 

「部長って、鍵を持ってる間だけ強いのよ。返したら、もう放課後に入れないの」

 

「……概ね正確だ」

 

「概ねなんだ」

 

「そこで押す手がなくなった。それきりだ」

 

「……それきり」

 

「それきりだ」

 

「……」

 

「辞めた日の夜、東條は迎えの車を、屋根のある箱型に替えさせている」

 

「え」

 

「あれほど屋根を切らせた人が、だ。運転手が驚いた、という話が残っている」

 

「……もう、見られたくなかったのかな」

 

「記録にない」

 

「……そこは、ないほうがいいね」

 

---

 

「じゃ、じゃあ近衛は」

 

私は思わず口を出した。

 

「近衛は、そのとき何の職にもついていない」

 

「え」

 

「ついていないまま、東條を落としている」

 

「……」

 

「職を持つ者は、職の範囲でしか押せない。職を持たない者は、外から押せる」

 

先輩がシャープペンシルを落とした。

 

「……攻めじゃん」

 

「そうなのか」

 

「待って。待って待って。ちょっと待って」

 

先輩は顔を上げた。

 

「その人、自分では何かやってるの」

 

「やっていない」

 

「え」

 

「辞めるのも、上奏文を書くのも、東條を落とすのも、いつも人が動いている」

 

「……」

 

「押しているが、手は出していない。そういう押し方をする人間がいる」

 

先輩が椅子の背にぐったりもたれた。

 

「……松谷君」

 

「なんだ」

 

「それ、いちばん質の悪い攻めだよ」

 

「そうか」

 

先輩はもたれたまま、天井に向かって言った。

 

「あと、分かった。近衛、OBだ」

 

「お、OB?」

 

「卒業して鍵も返してるのに、文化祭のたびに来て、指導って言いながら口を出す人。役職がないから、止める規則もないの」

 

「ぶ、文芸部にいたの、そんな人」

 

「演劇部の友達が毎年泣いてる」

 

松谷は少し黙った。

 

「……大筋、合っている」

 

「合っちゃうんだ」

 

---

 

私はその横顔を見ていた。

 

この人は、本を読まない。

 

好きな本を聞かれて答えられなかった人である。自分の名前を変換するのに、七回かかった人である。

 

その人が、昭和十三年と、昭和十八年の一月八日と、昭和二十年の二月を、参考書も見ずに並べた。

 

参考書は先輩の手元にある。松谷は一度も覗いていない。

 

そして、言い方が変だった。

 

歴史の話をする人は、たいてい語尾を濁す。〜だそうです。〜と言われています。

 

この人は濁さなかった。

 

全部、言い切った。

 

「ま、松谷」

 

「なんだ」

 

「そ、それ、どこで覚えたの」

 

一拍あった。

 

いつもはない一拍だった。

 

「……本で読んだ」

 

「ど、どの本」

 

「忘れた」

 

忘れる人ではない。

 

三島を知らない人が、昭和十三年を知っている。

 

私はそのことを、しばらく考えていた。

 

---

 

 

【小鞠知花】

 

十分後、また扉が開いた。

 

「失礼します。三十秒で出ます」

 

転入生の、綺麗なほうである。

 

「加瀬君! いいところに!」

 

「三十秒です」

 

「近衛文麿と東條英機、どっちが攻め?」

 

加瀬は扉の取っ手を持ったまま静止した。

 

「……もう一度、伺ってよろしいですか」

 

「近衛と東條、どっちが攻め」

 

「一度で結構でした」

 

聞き返してから、聞き返す必要がなかったと言う。

 

この人の間の取り方は、月之木先輩とは種類が違う。先輩は溜める。この人は、一度受け取ってから返す。

 

そして、笑った。

 

声を出して笑った。

 

「……な、なんで笑うの」

 

「失礼。あまりに真面目な議論でしたので」

 

この人は人が真面目にやっていることほど笑う。

 

前に印刷室で会ったときもそうだった。

 

「加瀬君、逃げないで。答えて」

 

「僕は、順番だけ申し上げます」

 

加瀬は指を四本立てた。

 

「昭和十三年、近衛が東條を入れました。昭和十六年、東條が近衛を出しました。昭和十九年、近衛が東條を落としました」

 

「お、落とした」

 

「サイパンが取られたあと、重臣が総がかりで東條内閣を倒しています。近衛はその中にいました」

 

「四本目は」

 

「昭和二十年です。九月に、東條は自分を撃ちました」

 

「う、撃った」

 

「当たりどころが良かったのか悪かったのか、助かっています。それから裁判にかけられました」

 

「い、いつまで」

 

「判決が出たのは、その三年後です。絞首刑でした」

 

「……三年」

 

「近衛は、その三年前に死んでいます」

 

先輩がノートから顔を上げた。

 

「……四回、入れ替わってる」

 

「四回です。攻守という言い方をなさるなら」

 

「情報量っ!」

 

「歴史ですので」

 

---

 

 

【小鞠知花】

 

先輩は参考書の頁をめくった。

 

めくって、止まった。

 

「……あ」

 

「な、なんですか」

 

「近衛さん、死んでる」

 

「し、死んでる?」

 

「自殺だって。昭和二十年十二月十六日。……戦犯で呼び出されて、その朝に」

 

「……」

 

「うわ。えー……」

 

そこで先輩の声が止まった。

 

止まったのは、たぶん、笑うところが見つからなかったからだと思う。

 

この人はどんな話でも笑う場所を探す。探して見つけて、そこから入る。

 

見つからないときは、黙る。

 

私は先輩のそういうところをけっこう尊敬している。

 

---

 

「……枕元に、本が置いてあったって」

 

先輩がさっきより小さい声で読んだ。

 

「読みかけのまま。オスカー・ワイルドの『獄中記』」

 

「ほ、本」

 

「うん。……借りた本だって書いてある」

 

「か、借りた」

 

「誰に借りたかは、書いてない」

 

そのとき、私は加瀬の手を見ていた。

 

理由はない。たまたま視界に入っただけである。

 

右手の指が動いていた。

 

親指の腹で、人差し指と中指の先を順番に押している。何かを挟んでいた形のまま、挟むものがないので指だけが動いている、という動き方だった。

 

前に印刷室で見たのと同じである。

 

あのときは喋りながらずっと動いていた。

 

いまは喋っていないのに動いている。

 

喋っているときの癖なら、癖である。

 

喋っていないときに出るのは、癖ではない。

 

私はそれをうまく言葉にできなかった。できなかったが、部室の空気が一段だけ下がったのは分かった。

 

冷房はない。窓は全部開いている。八月五日の午後三時過ぎである。

 

それでも、下がった。

 

---

 

「月之木さん」

 

加瀬が言った。

 

声はさっきと同じ高さだった。

 

「なに」

 

「日本史は、何点取ればよろしいので」

 

「え? ……えっと、七割」

 

「では、その頁は出ませんよ」

 

「……なんで分かるの」

 

「脚注ですので」

 

「……あ、ほんとだ」

 

先輩が笑った。

 

笑ってから、少しほっとした顔をした。

 

――逃がした。

 

いま、この人は先輩を逃がしたのである。

 

死んだ人の話から、試験の話へ。三秒で。

 

---

 

「加瀬」

 

松谷が言った。

 

私は驚いた。この人が人の名前を呼んで話しかけるのを、あまり見たことがない。

 

「なんです」

 

「……新聞部の、締切は」

 

「……は?」

 

「締切だ」

 

「今日ではありませんが」

 

「そうか」

 

「……松谷さん」

 

「なんだ」

 

「話の変え方が、下手すぎます」

 

「そうか」

 

「もう少し、こう、間に何か挟んでください」

 

「……検討する」

 

先輩が吹き出した。

 

私も笑った。

 

笑ったが、私は分かっていた。

 

いま松谷が下手くそに変えようとしたのは、たぶん話題ではない。

 

---

 

加瀬は扉の取っ手を握り直した。

 

「では、失礼します」

 

「あら、もう行くの」

 

「三十秒と申し上げましたので」

 

私は壁の時計を見た。

 

一六〇四。

 

入ってきたのは一五二二である。

 

四十二分いた。

 

---

 

 

【加瀬俊一】

 

その夜、加瀬俊一は松平邸の自室で、机に本を一冊出した。

 

  『獄中記』 オスカー・ワイルド

 

四月に古書店で買ったものである。帯がついたままで、一度も開いていない。

 

八十年前は、別の題で出ていた。同じ本である。

 

読まない理由を聞かれたら、答えられなかっただろう。

 

聞く相手もいない。

 

---

 

一九四五年、正月。熱海。大観荘。

 

借り物の別荘である。

 

障子の向こうで海が鳴っていた。床の間に鏡餅があって、廊下は寒く、座敷だけが暑い。

 

もとは、二人だけの席のはずだった。

 

重光外務大臣と、軽井沢から下りてきた元首相・近衛文麿公爵。戦をどう終わらせるかを話す。それだけである。

 

だが、男が二人で別荘に籠れば、それは密談にしか見えない。

 

見えたら憲兵が来る。

 

だから加瀬俊一は、女性を四人集めた。

 

近衛公爵の従妹。姻戚筋の未亡人と、その娘。それに自分の妻である。

 

新年の物見遊山ということにした。三人は、日と道筋をずらして別々に熱海へ入った。

 

料理人は外務大臣官邸から呼んだ。酒は多めに出させた。

 

――たいへんに楽しそうな一座である。

 

そう見えるように、彼が組んだ。

 

その席で、近衛公爵だけが素面のような顔をしていた。

 

湯から上がって丹前を着て、盃を置いたところである。頬にまだ湯の色が残っていた。

 

「加瀬君。人はどうやって死ぬのが、いちばんきれいだと思うね」

 

「正月からうかがう話ではございませんね」

 

「正月だから聞いている。あとになると、聞きそびれる」

 

「では、寝ているあいだに、ということでしょうか」

 

「顔が残るだろう」

 

「残りますね」

 

「醜い顔を残すのは、どうも」

 

「残された側が、困りますね」

 

「そこまでは言っていない」

 

「失礼いたしました」

 

「いや。……君はときどき、先に言うな」

 

女性のひとりが、盃を置いて言った。

 

「近衛さん。正月早々、縁起でもないわ」

 

「これは失礼」

 

公爵は笑って、それきりその話をやめた。

 

やめ方が、あまりにも慣れていた。

 

この人はいつもそうだった。

 

いちばん重い話を、いちばん軽い場所に置く。置いてから、誰かが拾うのを待つ。

 

拾わなければ、そのまま流す。

 

加瀬俊一はその夜、拾わなかった。

 

---

 

翌朝、玄関口である。

 

車が待っていた。公爵はコートを羽織って、それから思い出したように振り返った。

 

「加瀬君」

 

「はい」

 

「ワイルドの『深淵のうちより』を持っていたら、貸してくれないか」

 

「……ございます」

 

「では、頼む」

 

「いつまでに」

 

「急がん」

 

急がないと言った人が、東京へ戻って二日で届けたら、玄関まで出てきた。

 

---

 

「早いな」

 

「明日でよろしければ、明日にいたしました」

 

「君はそういうところがある」

 

公爵は表紙を見て、それから頁を開いた。

 

立ったまま、しばらく読んでいた。

 

読み終わるのを、加瀬は待った。待つのは仕事である。

 

玄関は暗く、庭は冷えていた。

 

公爵は頁から目を上げなかった。読むのが速い人ではない。速くないのに、途中で止まらない。

 

「加瀬君」

 

「はい」

 

「これは、返さんかもしれん」

 

「……」

 

「そう思って、借りる」

 

「では、差し上げます」

 

「いや」

 

公爵は本を閉じた。

 

「借りておく」

 

「……はい」

 

「贈られたものは、しまってしまうからね。借りたものは、机の上に置く」

 

そう言って、公爵は本を小脇に挟んで奥へ入っていった。

 

加瀬俊一は、この後ろ姿に暗いものを感じた。瞼からこびりついて離れない。

 

---

 

その年の九月二十四日、加瀬俊一はこの時代へ落ちた。

 

十二月十六日のことは、この時代の本で読んだ。

 

 

そういう形で知ることになるとは、思っていなかった。

 

八十年前の彼は、あの人が死ぬところを見ていない。

 

見ていないのに、日付だけを正確に知っている。

 

知っている、というのはこの場合、たぶん正しい言葉ではない。

 

覚えた、のほうが近い。

 

彼は八十年前の一月を過ごし、同じ年の十二月を暗記した。同じ一年の話である。

 

---

 

本には、加瀬には覚えのない箇所に線が引いてあったそうである。

 

 

 

「自分を滅ぼしたのは自分である」

 

 

 

---

 

加瀬俊一はこの一文をじっと見た。

 

そして静かに本を閉じた。

 

貸したものは、返ってこなかった。

 

返ってこないものを、人は貸したとは言わない。

 

――いや。

 

あの人は、借りておくと言った。

 

借りたものは、返す約束である。

 

彼は本を鞄に戻した。

 

帯は、つけたままにした。

 

――まだ、返してもらっていない。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。