負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
二次創作/視点:高木惣吉
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一
【高木惣吉】
八月十日、午後二時。
高木惣吉は本を四冊抱えて、旧校舎の廊下を歩いていた。
図書室から職員室へ返却期限の切れた本を運ぶ。夏休みの司書の仕事はそれくらいである。
文芸部の部室の前を通りかかった。
扉が開いていた。冷房のない部屋である。開けておかないと死ぬ、というのが夏休みの生徒の理屈らしい。
中から声がした。
「このクエスト、第一水雷戦隊を編成しないと駄目なんだよ」
「だいいちすいらい?」
「一水戦。軽巡を旗艦にして、あとは駆逐艦を並べる戦隊」
「軽巡」
「軽巡洋艦。駆逐艦より大きくて、重巡より小さいやつ」
「ふーん」
「あと金剛型が、一隻足りないんだよな」
「こんごう?」
「戦艦。四隻いるんだけど、うち三隻しかいなくて」
「ふーん、って顔してるでしょ」
「してない」
「あー、一式陸攻も欲しいな。持ってないんだよ」
高木惣吉は、廊下で足を止めた。
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第一水雷戦隊。
金剛型。
一式陸攻。
一式陸攻…ですと?
高木は本を抱え直した。
三つとも、この時代に残っているはずのない語である。
八十年前に消えた語だ。消したのは我々である。
それを、高校生が言っている。
しかも、話し方が軽い。購買のパンの値段を言うのと同じ調子で言っている。
――なぜだ。
高木惣吉は、開いた扉のほうへ一歩踏み出した。
踏み出してから、踏み出したことに気づいた。
四月にここへ来てから、彼は生徒の部屋へ用もなく立ち入ったことが一度もない。
今日が最初である。
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机の上のノートパソコンに、女がいた。
一人ではない。何人もいた。
軍装のようなものを着ている。だが軍装ではない。腰から下が短く、背には見たことのない装置がついている。
その装置には見覚えがあった。
砲塔である。連装砲である。
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「あ、高木先生」
「……」
「先生?」
「……これは」
「え?」
「……これは、なんでしょうか」
温水和彦が振り返った。この少年は普段、教員に話しかけられると身体が半歩下がる。
いまは下がらなかった。
「艦これです」
「かんこれ」
「艦隊これくしょん。軍艦を擬人化したゲームで」
「擬人化」
「実在した船が、女の子の姿になってるんです」
高木は、本を抱え直した。
抱え直したのは、手が空くと何かしそうだったからである。
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「温水君はどの子が好きなの」
「え」
「いるでしょ」
「……いや、その、順位とかは」
「出た。オタクが本気で選べないやつ」
「そういうんじゃなくて」
「ふーん」
「……し、島風です」
「即答じゃん」
「集めて、育てて、出撃させます。傷ついたら修理して、また出します」
話を変えた。分かりやすい少年である。
「……修理」
「入渠っていうんですけど」
入渠。
その語がこの部屋から出てくるとは思わなかった。
「先生、大丈夫ですか」
八奈見杏菜が言った。この生徒は、人の顔をよく見る。
「大丈夫です」
「なんか固まってました」
「……固まっておりません」
固まっていた。
「先生、これ何の船か分かります?」
「……背中のものは、砲塔です」
「え」
「連装砲です。それも、旧い型の」
「あー、艤装っていうんですよ、それ」
「……ぎそう」
「そういう名前なんです」
「……そうですか」
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「船は、女性です」
「え?」
「英語では she と言います。昔からそうです」
「え、じゃあ合ってるんですか」
「解釈としては、合っています」
高木はそこで一度、言葉を切った。
「ただ、私の時代には、なかった」
言ってから、まずいと思った。
二十五歳の教員が言う台詞ではない。
八奈見杏菜が首をかしげたのが視界の端に映った。
だが彼女は聞き返さなかった。聞き返してよい場所と悪い場所を、この生徒は本能で分けている。
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二
【高木惣吉】
「先生、見ていきます?」
温水和彦がそう言った。
ゲームの話になった途端に、この少年は別人になる。
「よろしいのですか」
「どうぞ」
高木は扉の内側に一歩だけ入った。それ以上は入らなかった。
「これ、比叡です」
温水が画面を触った。
パソコンから、女の声がした。
「井上提督も愛した巡洋戦艦、比叡です」
高木惣吉は、動かなかった。
そのあと声は、肌をぴかぴかに磨いたとか、御召艦を務めたとか、大和型の試験艦になったとか、そういうことを喋っていた。最後は元気よく、ソロモンで奮闘したと言った。
高木は最後まで聞いた。
「……いま、なんと」
「え?」
「いま、なんと言いましたか」
「えっと、比叡です、って」
「その前です」
「その前……あ、井上提督も愛した、ですか」
「……もう一度、流していただけますか」
かちり、と音がした。
同じ声が、同じことを言った。
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井上成美が比叡の艦長だったのは、昭和十二年から十三年にかけてである。
高木は艦長時代のあの人を知らない。知っているのは、机の向こうにいたあの人である。
昭和十九年八月二十九日。海軍省、次官室。
呼ばれて入ると、あの人は笑って迎えた。ソファをすすめられた。
それから、古い回転椅子をこちらへくるりと回した。
回した瞬間に、顔が変わった。
「高木君」
「はい」
「戦局の後始末を、しなければならん」
声が低くなっていた。
「こういう仕事を、いま現に戦をやっている局長連中に言いつけるわけにはいかん」
「……はい」
「米内大臣は、君にやってもらいたいという意向だ」
そこで、あの人は一度言葉を切った。
「差し支えないか」
――差し支えないか。
命令ではなかった。
高木惣吉は、その一語を八十年覚えている。
「承りました」
「うむ」
「御期待に副えるかどうか分かりませんが、最善を尽くします」
あの人はうなずいて、それから声をさらに落とした。
「このことは、大臣と総長と私のほかは誰も知らん。省の中に洩れてもまずい」
「はい」
「君には、病気休養という名目で出仕になってもらう。いいネ」
「いいです」
それだけの会話だった。
十分もかからなかったと思う。
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十二日後に辞令が出た。
軍令部出仕兼海軍大学校研究部員、次官承命服務。
何をする役なのか、文面からは何も分からない。分からないように書いてある。
そのあと、機密費が二千円来た。しばらくして、もう二千円来た。
あの人は、大蔵省に知らせなくてよい金は要らんと言って、それまで一度も受け取らなかった人である。
高木惣吉はその金で、熱海と東京を往復した。
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あの人は、これを公務にした。
まだ、戦に負けるなどと口に出せる時期ではない。口に出した者は憲兵に持っていかれた。
その時期に、公務としてやれと命じたのである。
私事であれば、いつでもやめられる。やめても誰も困らない。
公務であれば、やめられない。やめさせることも、誰にもできない。
――そのように、あの人が作った。
だから、動けた。
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「……そうですか」
高木はそれだけ言った。
言いながら腹の上に手を当てた。当ててから、気づいて離した。
痛みではない。痛くはない。
痛くないのに手が動くのは、あまりよくない兆候である。
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三
【高木惣吉】
「先生、船詳しいんですか」
「少し」
「じゃあ当ててみてください!」
八奈見杏菜がそう言った。
この生徒は場の空気が重くなると必ず声を出す。無意識だと思う。
温水が別の絵を出した。赤い裾の、速そうな娘である。
「島風です」
「え、正解!?」
「舞鶴で造りました」
「え」
「昭和十八年五月十日、竣工引渡式に出ました」
「……え」
「翌朝、〇九〇〇に出港しました」
「……先生、なんでそんな細かいんですか」
「……本に、載っておりましたので」
嘘である。
嘘だが、この場に本当を置く場所がない。
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「じゃあこれは」
「初月です。昭和十七年十二月二十九日、竣工」
「これは」
「利根です。昭和十八年二月二十一日、舞鶴に入りました。ソロモンから帰ってきたところでした」
「そ、ソロモン」
「乗っていた人たちに、戦況を聞きました」
「……え」
「……本に、載っておりました」
二度目である。
「あ、この子、英語混ぜて喋るんですよ」
「……なぜです」
「イギリス生まれだから、とかじゃないですかね」
温水が適当に言った。当てずっぽうの口調だった。
「合っています」
「え」
「金剛です。英国のヴィッカースで造りました。日本国外で造った戦艦は、あれが最後です」
「……え、当たったんですか、俺」
「当たりました」
「先生、なんでも知ってません?」
「知りません」
「知ってます」
「じゃあこれ!」
「日進です。利根の三日後に入ってきました」
「三日後!?」
「二十四日の、〇九五〇です」
「これは」
「多摩です。五月四日、〇七一〇入港」
「先生、時刻まで出るんですけど」
「出ます」
「なんでですか」
「……そういう仕事でしたので」
「どういう仕事ですか」
「……港に、誰が入ったかを書く仕事です」
「それ、面白いですか」
「面白くありません」
「じゃあ、なんでずっと覚えてるんですか」
「……忘れる仕組みが、ないからです」
同じ嘘を二度使うのは、下手な人間のやることだ。
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「あ、これ電探です」
「……電探」
「レーダーですよ」
「存じております」
「え」
「作らせる側におりました」
「え、作ってたんですか!?」
「作らせようとしておりました」
「違うんですか」
「違います。間に合いませんでしたので」
「……」
「先生、推しは誰ですか」
「おし」
「あー、いちばん好きな子です」
温水が横から補足した。
「……順位は、つけません」
「かたい!」
「船に、優劣はありませんので」
「そういう話じゃないんですよ先生。かわいいかどうかの話です」
「……」
「先生」
「……」
「先生ー」
「…………島風は、速そうです」
「答えた!」
「先生、それ性能の話ですよ」
「速いのは、よいことです」
「かわいさの話です!」
「……速いのは、よいことです」
同じことを二度言った。それ以上は出てこない。
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「温水君」
「なに」
八奈見杏菜が立ち上がった。
そして、画面の娘と同じ形に手足を置いた。腰を落として、片手を斜めに上げている。
高木惣吉には、その姿勢の意味が分からなかった。
「この子と八奈見ちゃん、どっちがかわいい?」
温水和彦は、画面と八奈見杏菜を見比べた。
見比べたのが、まず間違いである。
「……いや、その」
「うん」
「比べるものが、違うっていうか」
「ほう」
「向こうは、こう、そういう風に作られてるわけで」
「ほう」
「八奈見さんは、その、実在するから」
「実在」
「実在です」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてる、と思う」
「思う!?」
八奈見杏菜が姿勢を崩して、机を叩いた。
「そういうとこだよ!」
「どういうとこだよ!」
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「先生はどう思います!?」
急にこちらへ振られた。
高木惣吉は、いま見たものを、見たとおりに答えた。
「……姿勢が」
「姿勢?」
「重心が後ろに寄っております。あれでは走れません」
「そういう話じゃないです!」
「……そうですか」
温水和彦が、机に突っ伏して笑っていた。
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高木惣吉には、何がどうしてそうなったのか分からなかった。
分からなかったが、一つだけ分かったことがある。
この二人は、こういうことを毎日やっている。
毎日やっていて、飽きていない。
――結構なことである。
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「ねえ温水君。私が船だったら、何になると思う?」
「え」
「何型?」
「……いや、その」
「早く」
「……給糧艦、とか」
「は?」
「食料を運ぶ船です。前線へ甘味を届けます」
高木が横から補足した。
「え、なにそれ。いいじゃん」
八奈見杏菜の機嫌が、目に見えて直った。
「私、みんなに甘いもの配る船なんだ」
「……いや」
「なに」
「八奈見さんは、たぶん、届く前になくなる」
「は?」
「運ぶ側じゃなくて、食べる側だと思う」
「……いま、すごく失礼なこと言われた気がするんだけど」
「気のせいじゃないと思う」
「太ってないですけど?」
「それは言っていない」
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「先生。いまの、聞いてました?」
「聞いておりました」
「なんとか言ってやってください」
「……海軍では、つまみ食いのことを銀蠅と申します」
「ぎんばえ」
「銀の蠅と書きます」
「え、ハエですか」
「食い物にたかりますので」
「……ちょっと待ってください。それ、いま誰の話ですか」
「……輸送中の銀蠅は、記録上、よくあることです」
「二人がかりで来るの、ずるくないですか」
高木惣吉には、なぜ自分が叱られているのか分からなかった。
分からなかったが、温水和彦がこちらを見て、小さく頭を下げていた。
――すまない、という顔である。
事情は、あとで聞くことにした。
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「あの、先生」
「なんでしょう」
「銀蠅って、俺も聞いたことあります」
「どこでです」
「ゲームで」
「……そうですか」
「先生の言い方のほうが、二割くらい厳しかったですけど」
「事実を申し上げただけです」
八十年前の隠語が、いまの子の口から出てくる。
そういう時代らしい。
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「じゃあ声は」
「声」
「好みの声とか、ないですか」
「ございません」
「絶対ある」
「ありません」
「先生さっき、比叡のとこ三回聞いてましたよね」
「……二回です」
「二回聞いたんだ」
高木惣吉は、湯呑みを持っていなかった。
持っていれば、そこへ目を落とせたのだが。
「……そうですか」
「なんで敬語で逃げるんですか」
「逃げておりません」
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「先生。その仕事、どこでやってたんですか」
「舞鶴です」
「まいづる」
「京都の北です。日本海に面しております」
「そこで何してたんですか」
「参謀長です」
「さ、参謀長!?」
「鎮守府の参謀長です。舞鶴鎮守府と申しました」
「え、それ偉くないですか」
「偉くありません」
「なんでですか」
「後方ですので」
八奈見杏菜は、たぶん半分も分かっていない。
分かっていないまま、うわあ、と言った。
温水和彦のほうは、少し目を丸くしていた。この少年は、たぶん鎮守府という語を知っている。
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舞鶴に一年四か月いた。昭和十七年の六月から、十八年の九月までである。
都落ちである。
前線では毎日人が死んでいるのに、こちらは進水式と竣工式と祝賀の午餐である。
新しい駆逐艦が滑り台を降りていく。白い水が上がる。人が拍手をする。
高木惣吉は、そのたびに同じことを考えた。
――この船も、何もできずに沈むのではないか。
考えながら拍手をした。長官の代理で挨拶もした。文面は自分で書いた。
書いた文面に、沈むという語は一度も入れていない。
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「先生って、船に乗ってたことあるんですか」
「あります」
「えっ、いつ!?」
「……昔です」
「二十五で昔って言います?」
「……そうですね」
「どんな船ですか」
「三流ばかりです」
「さ、三流」
「古い戦艦と、機関科の練習船と、測量の船です。ドサ廻りと呼んでおりました」
「それ、自分で言うんですか」
「自分で言いました。当時は」
胃を壊し、毎日医務室へ通い、辞めようかと本気で考えていた頃の話である。
海軍大学校の試験に受かって、船を降りた。
それから三十年、彼は紙の上にいた。
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「じゃあ先生、艦長さんとかだったんですか」
「いいえ」
「え」
「私は、ずっと陸におりました。役所です。赤い煉瓦の建物で、紙を読んでおりました」
「……え。じゃあ、なんでそんなに詳しいんですか」
「造るところと、出ていくところを、見ておりましたので」
「……」
「進水式と、引渡式と、出港です。ずっと見ておりました」
八奈見杏菜が、なんの気なしに聞いた。
「帰ってくるところは」
高木惣吉は、答えなかった。
答えられなかったのではない。
答えは持っている。持っているものを、この部屋に出す理由がなかった。
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四
【高木惣吉】
温水が次を出した。白い装束の娘である。
「これは有名ですよ。大和です」
「……大和は」
「はい」
「沈めるべきでは、ありませんでした」
部室が静かになった。扇風機だけが、ぶうんと鳴っている。
「え、えっと。沖縄のやつですか」
「そうです」
「……」
「残しておけばよかった」
昭和二十年四月七日。海軍省。
戦闘速報が入った日、高木は次官室へ駆けこんだ。
井上成美は椅子に座ったまま、こちらを見なかった。
「聞いたか」
「聞きました」
「戦艦は、飛行機の敵ではない」
「はい」
「向こうに戦果をくれてやっただけだ。士気まで上げさせた」
「……はい」
「第二艦隊の面目は立ったろう。面目の道連れにされる何千人かは、どうなる」
高木は答えなかった。
答えると、自分の担当している話になるからである。
「高木君」
「はい」
「残しておけば、話をするときの一つの力にはなったろうにな」
その日、大臣室のあたりで、大和の最期を讃える声は一つも聞かなかった。
一つも、である。
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「な、なんでですか」
八奈見杏菜が聞いた。
高木は少し考えて、いちばん短い形で言った。
「……終わらせる話をするときに、手元に何もないのは、まずいので」
「……」
意味が通っていないのは分かっている。
通してしまうと、通した先が困る。
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五
【高木惣吉】
「じゃあ次。これは……あ、翔鶴だ」
高木惣吉は、何も言わなかった。
「先生?」
「……」
「翔鶴、知らないですか?」
「……次を、お願いします」
温水はあっさり次へ行った。
八奈見杏菜は行かなかった。この生徒は、行かない。
だが何も聞かなかった。
聞かないでいてくれたので、高木は息を吐くことができた。
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昭和十九年三月二十五日。目黒、海軍省第一分室。
教育局長室の椅子に、空母「翔鶴」の前艦長、有馬正文が座っていた。海兵の同期である。四十九歳、少将、まもなく前線へ出る男だった。そして、
「高木。戦は、どうすれば勝てるかね」
「貴様から聴きたいところだ」
「指揮官の強いほうが勝つ」
「強い、とは」
「勇気だ。勇があって、智が動く。智仁勇と言うが、順番は勇が先だ」
「……」
「自分の決めたことを、部下に必ずやらせる。やらせられなければ、指揮官ではない」
「貴様はやったほうだろう」
「やれなかった」
有馬は湯呑みを両手で包んだ。
そういう男ではない。この男は、湯呑みを片手で持つ男である。
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「空母というのはな。飛行機を出してしまえば、これほど強いものはない」
「うむ」
「甲板に抱えている間は、これほど弱いものもない。自分の爆弾を抱いているのだから、無いより弱い」
「……虚か」
「虚だ。指揮官は、そこを見る目がいる」
「兵術眼か」
「そうだ。うちの海軍には、それが足りん」
「足りんか」
「飽くまで追い詰めて、ねじ伏せる。その気魄がない」
「……」
「東郷さんは、それをやった艦長を、たいそう感心しておられたそうだ。箱館のときのな」
「聞いたことがある」
「あれが東郷さんの精神だと、俺は思っている」
有馬はそこで、少し黙った。
黙り方が、いつもと違った。
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「南太平洋のときな。俺は翔鶴の艦長だった」
「知っている」
「敵の陣が崩れた。追えば獲れた。俺は徹底追撃を具申した」
「通らなかったか」
「もう十分だ、という空気だった。艦橋というのは、ああいう空気になる」
「……」
「トラックへ帰って、長官に戦闘報告をした。報告が済んで、俺だけ呼び止められた」
「山本さんに」
「ああ」
有馬は湯呑みを置いた。
「もう少し、追撃はできなかったのか、と聞かれた」
「……なんと答えた」
「あれが精一杯でした、と答えた」
「……なぜだ」
「癖だ。直属の上官を庇いたくなる。考える前に口が動いた」
「……」
「先任参謀が横から茶々を入れた。お前のところは北へ走りたがっていたから追撃の考えは出なかったろう、と。腹が立って、そんなものではないと説明した」
「では、伝わったろう」
「遅い」
有馬は、そこで初めてこちらを見た。
目のふちが赤かった。
「精一杯でした、と先に言ってしまった」
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「長官は、翌年の四月に死んだ」
「……ああ」
「日本海軍にも、追撃をやるべきだと言った者が一人か二人はいたのだと、あの人に知らせておきたかった」
「……」
「あれだけは、返す返すも残念だ」
高木惣吉は、何も言わなかった。
言うべきことがなかったからである。
慰めは、この男に対して失礼にあたる。
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帰りぎわ、有馬正文は扉のところで一度だけ振り返った。
「高木」
「なんだ」
「今日の話は、書いておいてくれ」
「書く」
「貴様は、書く男だからな」
それが、最後の会話になった。
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七か月後、昭和十九年十月十五日。
有馬正文はクラークの飛行場から、一番機に乗って出た。
一式陸攻である。
今日、あの少年が欲しいと言っていた機体である。
司令官である。本来乗る立場ではない。
部下たちは必死に止めたが、彼は聞かなかった。
あの男は、「指揮官先頭」「率先垂範」を体現すべく、自ら先駆けとなって空に消えていった。
「特攻」という言葉ができる前の話である。
内地でその報せを受けた高木惣吉は、手帳を開いて、三月二十五日の頁の余白に事実だけを書き足した。
出発の時刻。全軍突撃を下令した時刻。攻撃後、自爆。
形容詞は一つも使わなかった。
使い方を知らないからである。
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第一線であの男が死んだ。同期の多くも死んでいる。
ならば内地にいる自分がやるべきことは、一つしかない。
どれだけ泥をかぶっても、この戦争を終わらせる。
そう決めたのは、あの報せを受けた日である。
その半年後、井上成美に呼ばれた。
呼ばれる前から、答えは決まっていた。
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六
【高木惣吉】
「温水君、この子は持ってるの」
「……持ってない」
「なんで」
「三年やって、出ない」
「三年!?」
「三年です」
「先生、三年ですって」
「……三年ですか」
「三年です」
「……気の毒に」
温水和彦が、この日いちばん人間らしい顔をした。
「先生、いい人ですね」
「事実を申し上げただけです」
「いい人だ」
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「あ、これ知ってますか。明石です」
「……明石」
「工作艦です。他の船を直す船で」
「乗りました」
「え」
「……本で読みました」
「先生、いま乗りましたって言いました?」
「言っておりません」
言った。
---
「あの、先生」
「なんでしょう」
「明石って、昭和十四年の船ですよ」
「……」
「先生、二十五ですよね」
「二十五です」
「計算が」
「合いません」
「合いませんね」
高木は本を抱え直した。
「……前の明石です」
「前の」
「同じ名前の船が、前にありました。二等巡洋艦です。その船ならよく知っています」
「あ、襲名だ」
「そう申します」
「船って、名前を受け継ぐんですね」
「受け継ぎます。除籍した船の名前は、次の船につけます」
「へえ」
「そういう決まりです」
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「どんな船だったんですか」
八奈見杏菜が聞いた。
「商船を守る船でした。インド洋におりました。ドイツの船を追いかけて」
「へえ!」
「一か月も二か月も追いかけて、シンガポールへ戻ります」
「うんうん」
「日本の艦隊は、外の港にしか入れませんでした」
「え」
「英国の艦隊は内側の港に入って、酒宴をしておりました」
「……なにそれ」
「同盟国でしたので」
「同盟国なのに!?」
「同盟国です」
高木惣吉は、そのとき二十五だった。
いまと同じ歳である。
若い士官は、たいてい憤慨した。彼も憤慨した。
憤慨したことを、二十年ほど覚えていた。
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「先生、他にも乗ったんですか」
「乗りました」
「何隻」
「七隻です」
「言えます?」
「言えます」
指を折る必要はなかった。
「磐手、安芸、千歳、明石、帆風、駒橋、満洲」
「……全部出てくるんだ」
「出ます」
温水和彦が画面を触った。
「えっと……千歳はいます。明石もいます」
「そうですか」
「あとは、ないですね」
「そうですか」
「帆風は、いますか」
「……いないです」
「そうですか」
いない船のほうが、話すことが多い。
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七
【高木惣吉】
高木惣吉は、画面を見た。
さっきから見てはいた。だが、見ていなかった。
いま、初めて見た。
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娘たちが動いている。
赤い裾の娘は、じっとしていない。画面の中でも速い。
大きな帽子の娘は、よく喋る。放っておくといつまでも喋っている。
比叡と呼ばれた娘は、肌を磨いたことを自慢していた。
――笑っている。
沈んだ船が、笑っている。
これはどういうことなのか。
高木は少し考えて、答えを出すのをやめた。出す必要のある問いではない。
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進水式の朝、船はまだ一度も浮いたことがない。
式が済んで、支綱が切れて、するすると滑って、白い水が上がって、それで浮く。
あの瞬間だけは、どの船も新しい。
高木惣吉はその瞬間を何度も見た。何度も見て、そのたびに沈む先のことを考えた。
考えたことを彼は誰にも言わなかった。言えば式が台無しになる。
---
いま、その船たちが画面の中で笑っている。
沈んだあとの話である。沈んだあとに、名前だけが残って、笑っている。
――こういう終わり方も、あるのか。
高木惣吉は、少しだけ、嬉しかった。
嬉しいという語を、彼は三十年ほど使っていない。
使っていないので、正しい語かどうか分からない。
分からないが、他に当てはまるものがなかった。
---
「一つ、伺ってよろしいですか」
「あ、はい」
「この中に、沈まなかった船は、おりますか」
温水和彦は画面を見て、指を止めて、少し考えてから答えた。
「……ほとんど、いないです」
「そうですか」
「あの、不謹慎じゃないですか。これ」
温水が小さく言った。ずっと気にしていたのだと思う。
「船を、その、女の子にするのって」
「船は、もともと女性です」
「……はい」
「それに、名前が残っています」
「……」
「沈んだ船の名前を、いまの子が全部覚えている。そういう時代のほうが、よろしい」
高木は本を抱え直した。
「では、よくできています」
「え」
「よくできています」
「……ありがとうございます?」
「礼を言われる筋合いはありません。事実です」
「……先生、けっこう厳しい人ですよね」
「厳しくありません」
「厳しいです」
「……そうですか」
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「温水君」
「はい」
「先ほどの、翔鶴というのは」
「あ、はい」
「……この中では、どうしておりますか」
温水が画面を出した。
強い船らしい。人気もあるらしい。
笑っていた。
「……そうですか」
艦長の名前は、どこにも出ていない。
出るはずがない。これは船の話であって、人の話ではない。
それでよかった。
有馬正文は、翔鶴の艦橋のことを話すとき、目のふちを赤くした男である。
その顔を、こんなところに出す必要はない。
船だけが笑っていればよい。
---
八
【高木惣吉】
その夜、松平邸の自室で手帳を開いた。
八月十日 海軍艦艇(※美少女)の一覧を見る。
事実を一行。
一見すると意味が分からないが、事実である。
判断の欄で、彼は手を止めた。
三十年、この欄には保留と書いてきた。数えていない件数の保留が、彼の手帳には並んでいる。
今日は、別のことを書いた。
有馬。名前は残っている。
書いてから、しばらく見ていた。
消さなかった。
---
上着の内から小瓶を出す。希塩酸である。
栓に指をかけて、それから戻した。
今日は、痛くない。
高木惣吉は電灯を消した。
明日、あの少年に一つだけ聞こうと思った。
――明石は、何をする船ですか。
工作艦だと、もう聞いている。他の船を直す船だと、もう聞いている。
聞いたのに、もう一度聞きたい。
直す、という語を、もう一度言ってもらいたいだけである。