負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
二次創作/視点:高木惣吉
【高木惣吉】
八月十三日、夜。松平邸の居間。
夕食が済んで、皿が下げられて、卓の上には茶しかない。
高木惣吉はその卓にノートパソコンを置いた。
三日前、彼は生徒に一つだけ聞いた。
「明石は、何をする船ですか」
「え」
「あの、明石です」
「……工作艦です。他の船を直します」
「直す」
「はい。前線まで行って、壊れた船を修理するんです」
「……そうですか」
「あ、自分の鎮守府でも直せますよ。入渠っていうんですけど」
「入渠」
「船渠に入れて、時間を置いたら戻ります」
「元のとおりに」
「元のとおりです」
「……そうですか」
そのあと十五分、この少年は説明をやめなかった。登録の仕方、最初にやること、無料でどこまでできるか。
高木は全部書き取った。手帳が二頁埋まった。
---
「高木さん」
松平康昌が急須を持って現れた。
「はい」
「それは、何をなさっているので」
「……ゲームです」
居間が静かになった。
加瀬俊一が新聞から顔を上げた。松谷誠が湯呑みを置いた。
「もう一度、伺ってよろしいですか」
「ゲームです」
「高木さんが」
「私がです」
「……お茶を淹れて参ります」
「いま持っておられます」
「もう一度、淹れて参ります」
侯爵は台所へ引き返した。
動揺している。この人が動揺すると、必ず何かを淹れに行く。
---
「少将。何のゲームです」
加瀬が卓の向かい側から覗きこんできた。
「艦艇です」
「艦艇」
「艦艇が、娘の姿になっております」
「……はい?」
「艦娘、と申すそうです。艦の娘と書きます」
「かんむす」
「かんむすです」
「集めて、直して、また出します」
「直して、また出す」
「そうです」
「……何度でも」
「何度でもです」
---
「高木さん。軍艦ではないのですか」
松平康昌が首をかしげた。
「軍艦は、法令上の呼び名です」
「ほう」
「戦艦、巡洋艦、航空母艦、水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、砲艦、海防艦。これらが軍艦です」
「では、駆逐艦は」
「軍艦ではありません」
加瀬俊一が新聞から顔を上げた。
「駆逐艦は、軍艦ではないのですか」
「ありません。潜水艦もです」
「初耳です」
「艦艇ではありますが、軍艦ではない。艦首に菊の御紋章がつきません。艦尾に掲げる旗も違います」
「なぜです」
「明治三十一年に、艦艇類別標準というものができました。そこで分けたからです」
「……分けたから」
「分けたからです」
---
「では、艦船と申しては」
「艦船と申しますと、商船が入ります」
「入りますか」
「入ります。あの中に、商船はおりません」
「なるほど」
「ですから、艦艇です」
松平康昌は、しばらく黙っていた。
それから、湯呑みを両手で包んで言った。
「……さすがでございますね」
「さすがではありません」
「さすがです」
「規則を覚えているだけです」
「その規則を、八十年覚えておいでで」
「……」
「さすがでございます」
高木惣吉は茶を飲んだ。
飲む以外に、この場をやり過ごす方法がなかった。
規則を覚えているだけだ、というのは本当である。
三十年、彼は規則の側にいた。艦を動かす部屋ではなく、艦をどう呼ぶかを決める部屋にいた。
呼び方を決める仕事は、たいてい何の役にも立たない。
役に立たないから、いつまでも覚えている。
---
「では、少将。いま集めた四隻は」
「駆逐艦です。軍艦ではありません」
「……集めたばかりの船が、全部、軍艦ではないと」
「軍艦ではありません」
「……なんだか、気の毒ですね」
「気の毒ではありません。分類です」
「分類でも、気の毒です」
「……そうですか」
駆逐艦に菊の御紋章はつかない。
つかないが、沈むときは同じである。
書類の上では、軍艦と艦艇は別の欄だった。
海の上では、同じ欄である。
加瀬俊一が、そこで笑いだした。
腹を押さえて笑った。この男がここまで笑うのを、高木は八十年で三度しか見ていない。
「加瀬君」
「失礼。……失礼しました」
「まだ笑っております」
「もう少しだけ、お待ちください」
「加瀬君」
「はい」
「何がそんなに可笑しいのです」
「いえ。……あなたが、船を集めておられるのが」
「集めております」
「八十年前は、減らす一方でしたので」
高木は湯呑みを置いた。
置いた音が、思ったより大きかった。
「加瀬君」
「……失礼しました」
「いえ」
「本当に、失礼しました」
---
二
【高木惣吉】
「登録に、名前が要るそうです」
「本名はまずいですよ」
加瀬が涙を拭いながら言った。
「では、何を」
「なんでもよいのでは。田中とか」
「田中で登録します」
「もう少し考えてください」
「では、高木で」
「本名です」
「高木は、多い姓です」
「惣吉は多くありません」
「……惣吉は入れません」
「賢明です」
画面が変わった。
「鎮守府を選べ、と出ております」
「鎮守府」
松谷誠が湯呑みを置いた。
「横須賀、呉、佐世保、舞鶴、大湊とございます」
「……全部ありますね」
「全部あります」
「どれになさいます」
高木は少し黙った。
「舞鶴で」
「なぜです」
「……近いので」
近くない。京都の北である。ここは豊橋だ。
誰も指摘しなかった。
加瀬俊一が新聞をめくった。めくる音が、少し大きかった。
---
舞鶴鎮守府
画面の隅に、そう出た。
一年四か月、彼はその名前の下で紙を書いた。参謀長という肩書きだった。
その肩書きの下で、彼は一隻も救っていない。
---
提督が鎮守府に着任しました。
これより、艦隊の指揮を執ります。
声が出た。娘の声である。
高木惣吉は、背筋が一度だけ動いたのを自分で感じた。
八月である。居間は暑い。
――艦隊の指揮。
執ってみたかった、と思ったことがある。
一度ではない。
口に出したことは、一度もない。
---
「……提督」
「なんです」
「私を、提督と呼んでおります」
「あなたは提督でしょう」
「いいえ」
「少将は、将官です」
「艦隊を持ったことがありません」
加瀬俊一が新聞を下ろした。
「少将。アドミラルという語には、二つございます」
「……」
「一つは、艦隊を率いる者。もう一つは、海軍の将官そのものです。陸で言う将軍と同じですね」
「知っております」
「知っておられるのに、なぜ否定なさるので」
「……一つ目でないからです」
「二つ目では足りませんか」
「足りません」
加瀬はしばらく黙って、それから新聞に戻った。
「……では、詐称ということにしておきましょう」
「そうしてください」
「ただ、少将」
「なんです」
「その娘たちは、事情を知りません」
「……存じております」
加瀬の言うことは正しい。将官は将官である。語としては、間違っていない。
同じ少将でも、麾下を持った者はいる。
有馬正文がそうだった。艦を預かり、戦隊を預かり、最後は自分で一番機に乗った。
高木惣吉は少将で終わった。
旗艦を持たず、幕僚を持たず、麾下の艦を一隻も預からなかった。
赤煉瓦の三階で紙を読み、数字を出し、それを別の部屋へ運んだ。それだけである。
その男が、いま提督と呼ばれている。
――正しいが、通したくない理屈というものがある。
「称号、というものもあるそうです」
「称号」
「戦果を重ねると、上がると書いてあります」
「戦果」
加瀬が顔を上げた。
「懐かしい言葉ですね」
「加瀬君」
「はい」
「その言い方は、やめなさい」
「……失礼しました」
---
「いまの称号は」
「新米少佐です」
「新米」
「新米少佐です」
松谷が身を乗り出した。
「上は」
「少佐、中佐、大佐、少将、中将、大将」
「その上は」
高木は画面を確かめた。確かめてから、もう一度確かめた。
「……元帥です」
居間が静かになった。
「高木さん」
松平康昌が急須を置いた。
「はい」
「元帥に、なれるのですか」
「なれるそうです」
「どうすれば」
「戦果を重ねればよいそうです」
「……それだけで」
「それだけです」
---
元帥という位は、陛下がお決めになるものである。
東郷さんがそうだった。山本さんは、死んでからそうなった。
その位が、いま、月々の数字で手に入ることになっている。
「意味はあるのですか」
松谷が聞いた。この男はそこを必ず聞く。
「ないと書いてあります」
「ない」
「上の称号になっても、得をすることはないそうです」
「……では、なぜ上がるのです」
「上がるからです」
「……」
「不服ですか」
「いえ」
松谷は少し黙って、それから言った。
「……そのほうが、よろしいかと」
名前だけの位である。
持っていても何にもならない位を、それでも人は欲しがる。
八十年前も、そうでなかったとは言えない。
高木惣吉は、それ以上考えるのをやめた。
---
「訂正はできませんか」
「たぶん、そういう仕組みではないかと」
「……そうですか」
「少将」
「なんです」
「二つ目の意味で、一度くらい呼ばれてもよろしいのでは」
「……」
「呼ばれて減るものではありません」
「減りはしません」
「では」
「……増えもしません」
「屁理屈です」
「事実です」
加瀬はそれきり、新聞に戻った。
---
最初に、船を一隻選べと出た。
四つ並んでいる。全部、駆逐艦である。
吹雪 叢雲 漣 電
名前を見て、高木は少し黙った。
「なんという船です」
松平康昌が覗きこんだ。
「吹雪、叢雲、漣、電です」
「まあ。みな、よい名でございますね」
「よい名です」
「ご存じで」
「四隻とも、知っております」
「よく覚えておいでで」
「……全部、沈んだ船ですので」
知っているというより、書いたことのある名前である。書類の上で何度も。
「どれになさいます」
「……吹雪で」
「なぜです」
「一番艦ですので」
「それだけですか」
「それだけです」
---
残りは三日かけて揃った。
叢雲、漣、電。結局、四隻とも手元へ来た。
揃えるつもりはなかった。
名前を見ると押してしまうのである。
沈んだ船が、舞鶴の名前の下に四隻並んでいる。
そう並べたのは、自分である。
「少将。どうしました」
「……いえ」
「顔が」
「顔は、いつもどおりです」
いつもどおりではなかったらしい。加瀬は何も言わずに新聞に戻った。
この男は、引き際だけは昔から完璧である。
---
三
【高木惣吉】
「少将。これは何です」
加瀬が画面の隅を指した。
「……秘書艦、と申すそうです」
居間の空気が止まった。
四人ぶん、まとめて止まった。
止まったのは、四人とも心当たりがあるからである。
心当たりのある語というのは、たいてい遅れて効いてくる。
「秘書」
「秘書艦です」
加瀬俊一が新聞を置いた。
「僕は秘書官でした」
「存じております」
「松岡さん、東郷さん、谷さん、重光さん。四代です」
「四代ですか」
「四代です。数えたことはありませんでしたが、いま数えました」
「加瀬君」
「はい」
「威張るところではありません」
「威張っておりません。申告しております」
---
「俺もだ」
松谷誠が湯呑みを置いた。
「陸軍大臣秘書官。杉山閣下と、阿南閣下」
「二代ですか」
「それと、総理大臣秘書官だ。鈴木閣下の」
居間が、もう一度静かになった。
「……松谷君」
「なんだ」
「三つ目は、いま出す必要がありましたか」
「聞かれたので」
「聞いておりません」
「加瀬が数えたので、俺も数えた」
「数えなくてよろしい」
---
「高木さんは」
松平康昌が、実に穏やかに言った。
「……」
「高木さん」
「……海軍大臣秘書官です」
「まあ」
「財部さんと、安保さんと、大角さんです」
「三代でございますね」
「……三代です」
「加瀬君が四代、松谷さんが三人、高木さんが三代」
「秘書官長」
「はい」
「数えるのをやめてください」
「もう少しでございます」
「やめてください」
「では、四人のうち三人が秘書官でいらっしゃる」
「そうなります」
侯爵は湯呑みを両手で包んで、少し首をかしげた。
「私は、秘書官長でございました」
「……四人です」
「四人でございますね」
「加瀬君が四代で、我々が四人ですか」
「ややこしいですね」
「ややこしいです」
四人である。
八十年前、この四人が同じ部屋に集められたのには、たぶん理由がある。
誰かの横に立って、誰かの言葉を運ぶ。それだけを長くやってきた人間を、四人集めたのである。
集めたほうも、たいがいである。
誰かの横に立つ人間は、たいてい自分の名前で物を決めない。決めないかわりに、決める者の癖を全部覚える。
覚えた癖は、その人が死んでも消えない。
四人とも、消えないものを抱えたまま八十年を跳んだ。
---
「では、私が適任でございますね」
「艦ではありません」
「魚なら飼えます」
「艦です」
「艦は飼えませんか」
「飼うものではありません」
「では、どなたが適任で」
「艦です」
「艦しか駄目ですか」
「艦しか駄目です」
「厳しゅうございますね」
「規則です」
「先ほどから、規則ばかりでございますね」
「……そうですか」
---
「で、少将。どなたを秘書艦になさいました」
「……吹雪です」
「一隻しかおられませんね」
「一隻しかおりません」
「では、選んだことになりませんね」
「なりません」
「お気の毒に」
「気の毒ではありません。順番です」
---
「出撃、というものがあるそうです」
「ほう」
「出すと、傷つきます」
「沈みますか」
「……沈むこともあると聞きました」
台所から戻ってきた松平康昌が、盆を持ったまま止まった。
「沈むのですか」
「沈みます」
「……」
「ですが、直ります」
侯爵は、しばらく黙っていた。
盆を卓に置いて、湯呑みを一つずつ配って、それから座った。
「もう一度、伺ってよろしいですか」
「はい」
「直るのですか」
「直ります。入渠と申しまして、船渠に入れて、時間を置けば戻ります」
「元のとおりに」
「元のとおりにです」
松平康昌は、水槽のほうを一度見た。
見ただけで、何も言わなかった。
この人が魚について何も言わないのは、珍しいことである。
---
「高木先生」
松谷誠が卓の端から言った。
校内での呼び方が抜けていない。
「なんでしょう」
「編成は、どうなっています」
「編成」
「四隻を、どの順で並べておられますか」
「……順があるのですか」
「あるはずです」
松谷が椅子を寄せてきた。
寄せ方に躊躇がない。書類の匂いのするものが前にあると、この男は距離を詰める。
「先頭が最初に狙われる。ならば先頭は硬いものにするべきです」
「……なるほど」
「それと、これは補給がありますか」
「あります。燃料と、弾です」
「では、出撃の前に必ず満たしてください。満たさずに出したものは、必ず途中で止まります」
---
「ところで少将。僕は、この金剛という娘がよいと思います」
「……加瀬君」
「はい」
「あなたはさっきから新聞を読んでおられました」
「読みながら見ておりました」
「器用ですね」
「外務省ですので」
「どこがよいのです」
「声です。よく通ります」
「声」
「それと、英語が混じる」
「混じりますね」
「英国生まれだからでしょう。ヴィッカースです」
「よくご存じで」
「僕の商売です」
「……で、声がよいと」
「ああいう声の人間は、会議で得をします」
「加瀬君」
「はい」
「その理由でよいと言われた娘が、いちばん気の毒です」
「……失礼しました」
---
「俺はこれだ」
松谷が別の娘を指した。
「明石ですか」
「壊れた船を直す船だろう」
「そうです」
「前線は、後方が保たなければ保たない。いちばん重要だ」
「松谷君。かわいいかどうかの話です」
「……では、分からない」
「即答ですね」
「分からないものは分からない」
高木惣吉は、何も言わなかった。
言うことがなかったからである。
大正七年から八年まで、彼が乗っていた船と同じ名前だった。
---
「秘書官長は」
松平康昌は湯呑みを両手で包んで、しばらく画面を見ていた。
「私は、この赤城という方でしょうか」
「なぜです」
「色が良い」
「色」
「白と紅です。ああいう取り合わせは、魚にもございます」
「……魚に」
「錦鯉でございます」
「侯爵。魚から離れてください」
「離れられません」
「一度でよいので離れてください」
「では、次から」
---
「高木さんは」
「……」
「高木さん」
「私は、選びません」
「なぜです」
「吹雪も叢雲も漣も電も、みな沈んだ船ですので」
「……それは理由になっておりません」
「なっております」
「なっておりません」
「なっております」
加瀬俊一が新聞の陰で肩を震わせていた。
---
「少将」
「なんです」
「これ、傍から見ると、どう見えますか」
「……」
「いい歳をした男が四人、夜中に娘の絵を囲んで議論しております」
「歳は二十五です」
「中身は違います」
「……違いますね」
「合わせて、いくつでしょうか」
「百八十八です」
「即答しないでください」
「聞かれたので」
「聞きましたが、そこまで速く返ってくると思っておりませんでした」
---
高木惣吉は、そこで一度、卓の全体を見た。
見えたのは、次のようなものである。
二十五に見える男が四人、夜の居間で、小さな画面をのぞきこんでいる。
一人は編成の順序を論じ、一人は声の通り方を論じ、一人は色の取り合わせを魚に喩え、一人はそれを止めようとして止めきれていない。
画面には、娘が四人、並んで笑っている。
――どうかしている。
八十年前、この四人が同じ卓で言い合いをしたことは一度もない。
言い合いにならないからである。誰も、負けてよい話題を持っていなかった。
いま、四人で娘の顔を見比べている。
高木惣吉は、湯呑みの茶が冷めていることに気づいた。
冷めるほど話していたということである。
「それと、損害の記録は残りますか」
「残るようです」
「では、三回ぶん取ってください」
「取ってどうします」
「傾向が出れば、次の編成に使えます」
「三回」
「一回では偶然です。二回でも偶然です。三回で、ようやく傾向が出ます」
「……松谷君」
「はい」
「これは遊びです」
「承知しています」
「承知している人間の口ではありません」
「松谷さん」
松平康昌が横から言った。
「はい」
「あなた、楽しそうですね」
「……楽しくはありません」
「そうですか」
「……正確には、分かりません」
「けっこうです」
「……松谷君」
「はい」
「いま何時だと思いますか」
「二十二時十四分です」
「その時刻に、あなたは何をしていますか」
松谷はしばらく考えた。
「……編成です」
「そうですね」
「様式が同じなので」
「そうでしょうね」
加瀬が新聞の陰で肩を震わせていた。
---
四
【高木惣吉】
翔鶴は、なかなか出なかった。
温水和彦の説明では、船は建造するか、海の上で拾うかであるらしい。どちらも運である。
「確率は」
松谷が聞いた。
「知りません」
「調べられませんか」
「調べられるようです」
「では」
「……調べません」
松谷が黙った。
理由を聞かなかったのは、この男にしては上出来である。
---
待っているあいだに、船は増えた。
三日目の夜、島風が出た。
高木惣吉は、秘書艦をそちらへ変えた。
変えてから、加瀬に見つかった。
「少将。秘書艦が変わっておりますね」
「……変えました」
「島風ですか」
「島風です」
「なぜです」
「速いからです」
「速さで秘書を選ぶ人は、初めて見ました」
「早いのは、よいことです」
「速いのほうですね、それ」
「……そうです」
「少将。いま、動揺なさいましたね」
「しておりません」
「字を間違えるのは、動揺の兆候です」
「口で喋っております。字は書いておりません」
「屁理屈です」
「事実です」
---
四日かかった。
八月十七日の夜、画面に翔鶴が出た。
高木惣吉は、しばらくそれを見ていた。
娘である。白と赤の袴のようなものを着て、矢を持っている。弓を引く姿が、そのまま艦載機を出す仕草になっているらしい。
「出ましたか」
加瀬が、卓の向かいから静かに聞いた。
「出ました」
「……そうですか」
「加瀬君」
「はい」
「見ますか」
「……いえ」
「そうですか」
「僕は、たぶん、余計なことを言います」
「言ってよろしい」
「言うと、少将が困ります」
それ以上は、互いに何も言わなかった。
---
高木は、その娘の声を全部聞いた。
出会いの声。着任の声。編成に入れたときの声。出撃の声。攻撃の声。傷ついたときの声。直ったときの声。
図鑑の説明も読んだ。二度読んだ。
姉妹のこと。真珠湾のこと。珊瑚海のこと。南太平洋のこと。マリアナのこと。
沈んだ日のことも、書いてあった。
「少将」
「なんです」
「その娘は、なんと言っておりますか」
「……よろしく、と」
「それだけですか」
「それだけです」
---
艦長のことは、一言も出てこなかった。
一言もである。
比叡は、井上提督の名を出した。あれは出るのである。出る作りにはなっている。
翔鶴は、出さなかった。
「先生」
松谷が卓の向こうから言った。
「なんです」
「顔色が」
「いつもどおりです」
「……そうですか」
---
高木惣吉は湯呑みを持ったまま動かなかった。
腹の上に手を当てそうになって、当てなかった。
――当然である。
これは船の話であって、人の話ではない。
そう自分に言った。三日前、同じことを部室で考えた。船だけが笑っていればよいと考えた。
考えたはずである。
それなのに、いま、少し怒っている。
怒りというのは久しぶりだった。二年ぶんの仕事を彼は怒らずにやり通した男である。
---
五
【高木惣吉】
――名前が残っている。
三日前、彼は生徒にそう言った。沈んだ船の名前を、いまの子が全部覚えている。そういう時代のほうがよろしい、と。
言ったことは、正しい。
正しいが、残っているのは船の名前である。
翔鶴という語は残った。有馬正文という語は、どこにも残らなかった。
残らなかったのではない。
――誰も書かなかったのだ。
---
昭和十九年三月二十五日、目黒の第一分室。
帰りぎわに、有馬正文は扉のところで振り返った。
「高木」
「なんだ」
「今日の話は、書いておいてくれ」
「書く」
「貴様は、書く男だからな」
---
書いた。
あの日のうちに書いた。七か月後には、余白に時刻と自爆の二字を足した。
書いた手帳は、八十年前にある。
いま、彼の手元には何もない。
---
高木惣吉は上着の内から手帳を出した。
いまの手帳である。四月に文具屋で買った罫線の細い薄いものだ。
いつもは一日に二行しか書かない。事実を一行、判断を一行。
今夜は、そうしなかった。
彼は、あの日の会話を頭から順に書いた。
戦はどうすれば勝てるかね、というところから書いた。
虚実の話。追撃の具申。艦橋の空気。トラックでの、長官のひとこと。
あれが精一杯でした、と答えてしまったこと。
翌年の四月に、長官が死んだこと。
返す返すも残念だと、あの男が言ったこと。
---
書き終えたのは、日付が変わってからだった。
十一頁になった。
罫線が細いので、字が小さくなった。読みにくい。
読みにくいが、読める。
---
「高木さん」
いつのまにか、松平康昌が卓の向こうに座っていた。
茶が新しくなっている。
「……いつからそこに」
「一時間ほど前から」
「声をかけてください」
「かけると、止まりますので」
侯爵は湯呑みを両手で包んでいた。
「書き物ですか」
「書き物です」
「よろしゅうございます」
「何がでしょう」
「秘書官長」
「はい」
「私は、判断を書く男です」
「存じております」
「今夜は、判断が出ません」
「けっこうです」
「けっこうですか」
「あなたが、ご自分の判断以外を書いておられるのは、初めて拝見しました」
高木は手帳を閉じた。
閉じてから、少し考えて、また開いた。
一行だけ足りない気がしたからである。
有馬正文。翔鶴艦長。昭和十九年十月十五日、クラークより一番機。
そう書いた。
これで、この時代に一冊だけ、その名前が残ったことになる。
一冊である。
一冊でも、ゼロとは違う。
---
六
【高木惣吉】
翌朝、画面を開いた。
編成をいじった。
陣形は単縦陣にした。一列に並ぶ形である。松谷の言うことでは、先頭がいちばん狙われるらしい。
その先頭に、翔鶴を置いた。
---
やってみたいことがあった。
空母は、飛行機を出してしまえば、これほど強いものはない。
甲板に抱えている間は、これほど弱い。自分の爆弾を抱いているのだから、無いより弱い。
八十年前、教育局長室であの男がそう言った。
なるほどと思った。思っただけである。
高木惣吉は、それを試す立場に一度も立たなかった。
いまは、立っている。
---
置いてから、妙なことを考えた。
――この船には、あの男が乗っているのだろうか。
艦娘、と呼ぶらしい。あの少年がそう呼んでいた。
その艦娘に艦長がいるのかどうか、彼は知らない。
聞けば、あの少年は答えるだろう。たぶん、いない、と答える。船そのものが娘なのだから、中に人が乗っている道理がない。
道理がないのは、分かっている。
分かっているが、先頭に置くというのは、そういうことである。
八十年前、先頭に置かれた船には、必ず誰かが乗っていた。
名前のある人間が、必ず一人は乗っていた。
---
高木惣吉は、編成の画面をしばらく見ていた。
見てから、そのままにした。
外さなかった。
---
出撃を押した。
昼に航空戦がある。翔鶴が艦載機を出す。甲板が空になる。
そこから先が、砲撃戦である。
先頭の翔鶴に、弾が向いた。
――来た。
高木惣吉は画面から目を離さなかった。
---
当たった。
一度、二度。
娘の絵が傾いた。服が破れて、髪が乱れている。そういう見せ方をするらしい。
――当たるか。
飛行機を出したあとでも、当たるものは当たる。
有馬の言ったことは、たぶん正しい。
正しいが、正しいだけでは弾は逸れない。
八十年前も、そうだった。
---
――先頭に置いてみた。
報告する相手はいない。
いないのに、報告する形で考える癖が抜けない。
三十年やった仕事の癖である。
---
全部、帰ってきた。
入渠しますか。
高木惣吉はそこで少しだけ手を止めた。
八十年前、傷ついた船が舞鶴へ運ばれてきた。修理の予定が延びた。延びた分だけ、新しい船の建造が遅れた。彼はその数字を書いて、上へ回した。
上へ回した紙が、どこかで止まった。
止まったまま、船は出ていって、帰ってこなかった。
---
「少将。押さないので」
「押します」
「手が止まっております」
「……止まっておりません」
彼は、はい、を押した。
時計の絵が出た。あと三十四分と表示されている。
三十四分待てば、戻るらしい。
「……三十四分ですか」
誰にともなく言った。
台所から声が返ってきた。
「なんのお話です」
「船が、三十四分で直るそうです」
「まあ」
「三十四分です」
「舞鶴では、いかほどでした」
「一年です」
「……一年」
「一年かかると書いて、上へ回しました」
「戻って参りましたか」
「戻りません」
「……よい時代でございますね」
「よい時代です」
「高木さん」
「はい」
「三十四分、何をなさいます」
「……待ちます」
「それだけで」
「待つのは、慣れております」
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待っているあいだに、画面の隅で新しい娘が一人、頭を下げた。
――冬月です。よろしくお願いします。
高木惣吉は、湯呑みを置いた。
秋月型の八番艦である。舞鶴で起工した。昭和十八年五月八日、彼が参謀長の席にいた頃だ。
船台の割り当て、鋼材の督促、職工の頭数。全部、彼の判が要った。
前線から傷ついた船が次々に帰ってきて、修理に人手を取られ、そのぶん新しい船の竜骨が上がらない。一、二か月遅れます、と工作部から電話が来る。彼はその数字を書いて、上へ回した。
――上がったのか。
上がって、名前をもらって、いまここで頭を下げている。
「……高木さん」
「はい」
「顔が、少しゆるんでおります」
「ゆるんでおりません」
「そうですか」
「……舞鶴の船です」
「なるほど」
高木惣吉は、その娘の声をもう一度聞いた。
聞いて、少し止まった。
「秘書官長」
「はい」
「この声は」
「はい」
「甘夏先生に、似ておりませんか」
松平康昌が、湯呑みを持ったまま画面を覗きこんだ。
覗きこんで、しばらく見ていた。
「……ふむ」
「似ておりますでしょう」
「似ております」
「そうですか」
「……確かに。偶然でしょうか」
「偶然でしょう」
「偶然でしょうね」
侯爵はそう言って、茶をひとくち飲んだ。
飲んでから、もうひとくち飲んだ。
高木惣吉は、それ以上聞かなかった。
聞かないほうがよい間合いというものが、この人にはある。
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高木惣吉は茶を飲んだ。
薬は、今日も出さなかった。
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三十四分後、娘が船渠から出てきた。
出てきて、こう言った。
――提督。
高木惣吉は、訂正しなかった。