負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第31話 1巻4敗目幕間 高木視点 艦艇美少女ゲームと海軍少将高木惣吉 下

二次創作/視点:高木惣吉

 

【高木惣吉】

 

八月十三日、夜。松平邸の居間。

 

夕食が済んで、皿が下げられて、卓の上には茶しかない。

 

高木惣吉はその卓にノートパソコンを置いた。

 

三日前、彼は生徒に一つだけ聞いた。

 

「明石は、何をする船ですか」

 

「え」

 

「あの、明石です」

 

「……工作艦です。他の船を直します」

 

「直す」

 

「はい。前線まで行って、壊れた船を修理するんです」

 

「……そうですか」

 

「あ、自分の鎮守府でも直せますよ。入渠っていうんですけど」

 

「入渠」

 

「船渠に入れて、時間を置いたら戻ります」

 

「元のとおりに」

 

「元のとおりです」

 

「……そうですか」

 

そのあと十五分、この少年は説明をやめなかった。登録の仕方、最初にやること、無料でどこまでできるか。

 

高木は全部書き取った。手帳が二頁埋まった。

 

---

 

「高木さん」

 

松平康昌が急須を持って現れた。

 

「はい」

 

「それは、何をなさっているので」

 

「……ゲームです」

 

居間が静かになった。

 

加瀬俊一が新聞から顔を上げた。松谷誠が湯呑みを置いた。

 

「もう一度、伺ってよろしいですか」

 

「ゲームです」

 

「高木さんが」

 

「私がです」

 

「……お茶を淹れて参ります」

 

「いま持っておられます」

 

「もう一度、淹れて参ります」

 

侯爵は台所へ引き返した。

 

動揺している。この人が動揺すると、必ず何かを淹れに行く。

 

---

 

「少将。何のゲームです」

 

加瀬が卓の向かい側から覗きこんできた。

 

「艦艇です」

 

「艦艇」

 

「艦艇が、娘の姿になっております」

 

「……はい?」

 

「艦娘、と申すそうです。艦の娘と書きます」

 

「かんむす」

 

「かんむすです」

 

「集めて、直して、また出します」

 

「直して、また出す」

 

「そうです」

 

「……何度でも」

 

「何度でもです」

 

---

 

「高木さん。軍艦ではないのですか」

 

松平康昌が首をかしげた。

 

「軍艦は、法令上の呼び名です」

 

「ほう」

 

「戦艦、巡洋艦、航空母艦、水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、砲艦、海防艦。これらが軍艦です」

 

「では、駆逐艦は」

 

「軍艦ではありません」

 

加瀬俊一が新聞から顔を上げた。

 

「駆逐艦は、軍艦ではないのですか」

 

「ありません。潜水艦もです」

 

「初耳です」

 

「艦艇ではありますが、軍艦ではない。艦首に菊の御紋章がつきません。艦尾に掲げる旗も違います」

 

「なぜです」

 

「明治三十一年に、艦艇類別標準というものができました。そこで分けたからです」

 

「……分けたから」

 

「分けたからです」

 

---

 

「では、艦船と申しては」

 

「艦船と申しますと、商船が入ります」

 

「入りますか」

 

「入ります。あの中に、商船はおりません」

 

「なるほど」

 

「ですから、艦艇です」

 

松平康昌は、しばらく黙っていた。

 

それから、湯呑みを両手で包んで言った。

 

「……さすがでございますね」

 

「さすがではありません」

 

「さすがです」

 

「規則を覚えているだけです」

 

「その規則を、八十年覚えておいでで」

 

「……」

 

「さすがでございます」

 

高木惣吉は茶を飲んだ。

 

飲む以外に、この場をやり過ごす方法がなかった。

 

規則を覚えているだけだ、というのは本当である。

 

三十年、彼は規則の側にいた。艦を動かす部屋ではなく、艦をどう呼ぶかを決める部屋にいた。

 

呼び方を決める仕事は、たいてい何の役にも立たない。

 

役に立たないから、いつまでも覚えている。

 

---

 

「では、少将。いま集めた四隻は」

 

「駆逐艦です。軍艦ではありません」

 

「……集めたばかりの船が、全部、軍艦ではないと」

 

「軍艦ではありません」

 

「……なんだか、気の毒ですね」

 

「気の毒ではありません。分類です」

 

「分類でも、気の毒です」

 

「……そうですか」

 

駆逐艦に菊の御紋章はつかない。

 

つかないが、沈むときは同じである。

 

書類の上では、軍艦と艦艇は別の欄だった。

 

海の上では、同じ欄である。

 

加瀬俊一が、そこで笑いだした。

 

腹を押さえて笑った。この男がここまで笑うのを、高木は八十年で三度しか見ていない。

 

「加瀬君」

 

「失礼。……失礼しました」

 

「まだ笑っております」

 

「もう少しだけ、お待ちください」

 

「加瀬君」

 

「はい」

 

「何がそんなに可笑しいのです」

 

「いえ。……あなたが、船を集めておられるのが」

 

「集めております」

 

「八十年前は、減らす一方でしたので」

 

高木は湯呑みを置いた。

 

置いた音が、思ったより大きかった。

 

「加瀬君」

 

「……失礼しました」

 

「いえ」

 

「本当に、失礼しました」

 

---

 

 

【高木惣吉】

 

「登録に、名前が要るそうです」

 

「本名はまずいですよ」

 

加瀬が涙を拭いながら言った。

 

「では、何を」

 

「なんでもよいのでは。田中とか」

 

「田中で登録します」

 

「もう少し考えてください」

 

「では、高木で」

 

「本名です」

 

「高木は、多い姓です」

 

「惣吉は多くありません」

 

「……惣吉は入れません」

 

「賢明です」

 

画面が変わった。

 

「鎮守府を選べ、と出ております」

 

「鎮守府」

 

松谷誠が湯呑みを置いた。

 

「横須賀、呉、佐世保、舞鶴、大湊とございます」

 

「……全部ありますね」

 

「全部あります」

 

「どれになさいます」

 

高木は少し黙った。

 

「舞鶴で」

 

「なぜです」

 

「……近いので」

 

近くない。京都の北である。ここは豊橋だ。

 

誰も指摘しなかった。

 

加瀬俊一が新聞をめくった。めくる音が、少し大きかった。

 

---

 

  舞鶴鎮守府

 

画面の隅に、そう出た。

 

一年四か月、彼はその名前の下で紙を書いた。参謀長という肩書きだった。

 

その肩書きの下で、彼は一隻も救っていない。

 

---

 

  提督が鎮守府に着任しました。

  これより、艦隊の指揮を執ります。

 

声が出た。娘の声である。

 

高木惣吉は、背筋が一度だけ動いたのを自分で感じた。

 

八月である。居間は暑い。

 

――艦隊の指揮。

 

執ってみたかった、と思ったことがある。

 

一度ではない。

 

口に出したことは、一度もない。

 

---

 

「……提督」

 

「なんです」

 

「私を、提督と呼んでおります」

 

「あなたは提督でしょう」

 

「いいえ」

 

「少将は、将官です」

 

「艦隊を持ったことがありません」

 

加瀬俊一が新聞を下ろした。

 

「少将。アドミラルという語には、二つございます」

 

「……」

 

「一つは、艦隊を率いる者。もう一つは、海軍の将官そのものです。陸で言う将軍と同じですね」

 

「知っております」

 

「知っておられるのに、なぜ否定なさるので」

 

「……一つ目でないからです」

 

「二つ目では足りませんか」

 

「足りません」

 

加瀬はしばらく黙って、それから新聞に戻った。

 

「……では、詐称ということにしておきましょう」

 

「そうしてください」

 

「ただ、少将」

 

「なんです」

 

「その娘たちは、事情を知りません」

 

「……存じております」

 

加瀬の言うことは正しい。将官は将官である。語としては、間違っていない。

 

同じ少将でも、麾下を持った者はいる。

 

有馬正文がそうだった。艦を預かり、戦隊を預かり、最後は自分で一番機に乗った。

 

高木惣吉は少将で終わった。

 

旗艦を持たず、幕僚を持たず、麾下の艦を一隻も預からなかった。

 

赤煉瓦の三階で紙を読み、数字を出し、それを別の部屋へ運んだ。それだけである。

 

その男が、いま提督と呼ばれている。

 

――正しいが、通したくない理屈というものがある。

 

「称号、というものもあるそうです」

 

「称号」

 

「戦果を重ねると、上がると書いてあります」

 

「戦果」

 

加瀬が顔を上げた。

 

「懐かしい言葉ですね」

 

「加瀬君」

 

「はい」

 

「その言い方は、やめなさい」

 

「……失礼しました」

 

---

 

「いまの称号は」

 

「新米少佐です」

 

「新米」

 

「新米少佐です」

 

松谷が身を乗り出した。

 

「上は」

 

「少佐、中佐、大佐、少将、中将、大将」

 

「その上は」

 

高木は画面を確かめた。確かめてから、もう一度確かめた。

 

「……元帥です」

 

居間が静かになった。

 

「高木さん」

 

松平康昌が急須を置いた。

 

「はい」

 

「元帥に、なれるのですか」

 

「なれるそうです」

 

「どうすれば」

 

「戦果を重ねればよいそうです」

 

「……それだけで」

 

「それだけです」

 

---

 

元帥という位は、陛下がお決めになるものである。

 

東郷さんがそうだった。山本さんは、死んでからそうなった。

 

その位が、いま、月々の数字で手に入ることになっている。

 

「意味はあるのですか」

 

松谷が聞いた。この男はそこを必ず聞く。

 

「ないと書いてあります」

 

「ない」

 

「上の称号になっても、得をすることはないそうです」

 

「……では、なぜ上がるのです」

 

「上がるからです」

 

「……」

 

「不服ですか」

 

「いえ」

 

松谷は少し黙って、それから言った。

 

「……そのほうが、よろしいかと」

 

名前だけの位である。

 

持っていても何にもならない位を、それでも人は欲しがる。

 

八十年前も、そうでなかったとは言えない。

 

高木惣吉は、それ以上考えるのをやめた。

 

---

 

「訂正はできませんか」

 

「たぶん、そういう仕組みではないかと」

 

「……そうですか」

 

「少将」

 

「なんです」

 

「二つ目の意味で、一度くらい呼ばれてもよろしいのでは」

 

「……」

 

「呼ばれて減るものではありません」

 

「減りはしません」

 

「では」

 

「……増えもしません」

 

「屁理屈です」

 

「事実です」

 

加瀬はそれきり、新聞に戻った。

 

---

 

最初に、船を一隻選べと出た。

 

四つ並んでいる。全部、駆逐艦である。

 

  吹雪 叢雲 漣 電

 

名前を見て、高木は少し黙った。

 

「なんという船です」

 

松平康昌が覗きこんだ。

 

「吹雪、叢雲、漣、電です」

 

「まあ。みな、よい名でございますね」

 

「よい名です」

 

「ご存じで」

 

「四隻とも、知っております」

 

「よく覚えておいでで」

 

「……全部、沈んだ船ですので」

 

知っているというより、書いたことのある名前である。書類の上で何度も。

 

「どれになさいます」

 

「……吹雪で」

 

「なぜです」

 

「一番艦ですので」

 

「それだけですか」

 

「それだけです」

 

---

 

残りは三日かけて揃った。

 

叢雲、漣、電。結局、四隻とも手元へ来た。

 

揃えるつもりはなかった。

 

名前を見ると押してしまうのである。

 

沈んだ船が、舞鶴の名前の下に四隻並んでいる。

 

そう並べたのは、自分である。

 

「少将。どうしました」

 

「……いえ」

 

「顔が」

 

「顔は、いつもどおりです」

 

いつもどおりではなかったらしい。加瀬は何も言わずに新聞に戻った。

 

この男は、引き際だけは昔から完璧である。

 

---

 

 

【高木惣吉】

 

「少将。これは何です」

 

加瀬が画面の隅を指した。

 

「……秘書艦、と申すそうです」

 

居間の空気が止まった。

 

四人ぶん、まとめて止まった。

 

止まったのは、四人とも心当たりがあるからである。

 

心当たりのある語というのは、たいてい遅れて効いてくる。

 

「秘書」

 

「秘書艦です」

 

加瀬俊一が新聞を置いた。

 

「僕は秘書官でした」

 

「存じております」

 

「松岡さん、東郷さん、谷さん、重光さん。四代です」

 

「四代ですか」

 

「四代です。数えたことはありませんでしたが、いま数えました」

 

「加瀬君」

 

「はい」

 

「威張るところではありません」

 

「威張っておりません。申告しております」

 

---

 

「俺もだ」

 

松谷誠が湯呑みを置いた。

 

「陸軍大臣秘書官。杉山閣下と、阿南閣下」

 

「二代ですか」

 

「それと、総理大臣秘書官だ。鈴木閣下の」

 

居間が、もう一度静かになった。

 

「……松谷君」

 

「なんだ」

 

「三つ目は、いま出す必要がありましたか」

 

「聞かれたので」

 

「聞いておりません」

 

「加瀬が数えたので、俺も数えた」

 

「数えなくてよろしい」

 

---

 

「高木さんは」

 

松平康昌が、実に穏やかに言った。

 

「……」

 

「高木さん」

 

「……海軍大臣秘書官です」

 

「まあ」

 

「財部さんと、安保さんと、大角さんです」

 

「三代でございますね」

 

「……三代です」

 

「加瀬君が四代、松谷さんが三人、高木さんが三代」

 

「秘書官長」

 

「はい」

 

「数えるのをやめてください」

 

「もう少しでございます」

 

「やめてください」

 

「では、四人のうち三人が秘書官でいらっしゃる」

 

「そうなります」

 

侯爵は湯呑みを両手で包んで、少し首をかしげた。

 

「私は、秘書官長でございました」

 

「……四人です」

 

「四人でございますね」

 

「加瀬君が四代で、我々が四人ですか」

 

「ややこしいですね」

 

「ややこしいです」

 

四人である。

 

八十年前、この四人が同じ部屋に集められたのには、たぶん理由がある。

 

誰かの横に立って、誰かの言葉を運ぶ。それだけを長くやってきた人間を、四人集めたのである。

 

集めたほうも、たいがいである。

 

誰かの横に立つ人間は、たいてい自分の名前で物を決めない。決めないかわりに、決める者の癖を全部覚える。

 

覚えた癖は、その人が死んでも消えない。

 

四人とも、消えないものを抱えたまま八十年を跳んだ。

 

---

 

「では、私が適任でございますね」

 

「艦ではありません」

 

「魚なら飼えます」

 

「艦です」

 

「艦は飼えませんか」

 

「飼うものではありません」

 

「では、どなたが適任で」

 

「艦です」

 

「艦しか駄目ですか」

 

「艦しか駄目です」

 

「厳しゅうございますね」

 

「規則です」

 

「先ほどから、規則ばかりでございますね」

 

「……そうですか」

 

---

 

「で、少将。どなたを秘書艦になさいました」

 

「……吹雪です」

 

「一隻しかおられませんね」

 

「一隻しかおりません」

 

「では、選んだことになりませんね」

 

「なりません」

 

「お気の毒に」

 

「気の毒ではありません。順番です」

 

---

 

「出撃、というものがあるそうです」

 

「ほう」

 

「出すと、傷つきます」

 

「沈みますか」

 

「……沈むこともあると聞きました」

 

台所から戻ってきた松平康昌が、盆を持ったまま止まった。

 

「沈むのですか」

 

「沈みます」

 

「……」

 

「ですが、直ります」

 

侯爵は、しばらく黙っていた。

 

盆を卓に置いて、湯呑みを一つずつ配って、それから座った。

 

「もう一度、伺ってよろしいですか」

 

「はい」

 

「直るのですか」

 

「直ります。入渠と申しまして、船渠に入れて、時間を置けば戻ります」

 

「元のとおりに」

 

「元のとおりにです」

 

松平康昌は、水槽のほうを一度見た。

 

見ただけで、何も言わなかった。

 

この人が魚について何も言わないのは、珍しいことである。

 

---

 

「高木先生」

 

松谷誠が卓の端から言った。

 

校内での呼び方が抜けていない。

 

「なんでしょう」

 

「編成は、どうなっています」

 

「編成」

 

「四隻を、どの順で並べておられますか」

 

「……順があるのですか」

 

「あるはずです」

 

松谷が椅子を寄せてきた。

 

寄せ方に躊躇がない。書類の匂いのするものが前にあると、この男は距離を詰める。

 

「先頭が最初に狙われる。ならば先頭は硬いものにするべきです」

 

「……なるほど」

 

「それと、これは補給がありますか」

 

「あります。燃料と、弾です」

 

「では、出撃の前に必ず満たしてください。満たさずに出したものは、必ず途中で止まります」

 

---

 

「ところで少将。僕は、この金剛という娘がよいと思います」

 

「……加瀬君」

 

「はい」

 

「あなたはさっきから新聞を読んでおられました」

 

「読みながら見ておりました」

 

「器用ですね」

 

「外務省ですので」

 

「どこがよいのです」

 

「声です。よく通ります」

 

「声」

 

「それと、英語が混じる」

 

「混じりますね」

 

「英国生まれだからでしょう。ヴィッカースです」

 

「よくご存じで」

 

「僕の商売です」

 

「……で、声がよいと」

 

「ああいう声の人間は、会議で得をします」

 

「加瀬君」

 

「はい」

 

「その理由でよいと言われた娘が、いちばん気の毒です」

 

「……失礼しました」

 

---

 

「俺はこれだ」

 

松谷が別の娘を指した。

 

「明石ですか」

 

「壊れた船を直す船だろう」

 

「そうです」

 

「前線は、後方が保たなければ保たない。いちばん重要だ」

 

「松谷君。かわいいかどうかの話です」

 

「……では、分からない」

 

「即答ですね」

 

「分からないものは分からない」

 

高木惣吉は、何も言わなかった。

 

言うことがなかったからである。

 

大正七年から八年まで、彼が乗っていた船と同じ名前だった。

 

---

 

「秘書官長は」

 

松平康昌は湯呑みを両手で包んで、しばらく画面を見ていた。

 

「私は、この赤城という方でしょうか」

 

「なぜです」

 

「色が良い」

 

「色」

 

「白と紅です。ああいう取り合わせは、魚にもございます」

 

「……魚に」

 

「錦鯉でございます」

 

「侯爵。魚から離れてください」

 

「離れられません」

 

「一度でよいので離れてください」

 

「では、次から」

 

---

 

「高木さんは」

 

「……」

 

「高木さん」

 

「私は、選びません」

 

「なぜです」

 

「吹雪も叢雲も漣も電も、みな沈んだ船ですので」

 

「……それは理由になっておりません」

 

「なっております」

 

「なっておりません」

 

「なっております」

 

加瀬俊一が新聞の陰で肩を震わせていた。

 

---

 

「少将」

 

「なんです」

 

「これ、傍から見ると、どう見えますか」

 

「……」

 

「いい歳をした男が四人、夜中に娘の絵を囲んで議論しております」

 

「歳は二十五です」

 

「中身は違います」

 

「……違いますね」

 

「合わせて、いくつでしょうか」

 

「百八十八です」

 

「即答しないでください」

 

「聞かれたので」

 

「聞きましたが、そこまで速く返ってくると思っておりませんでした」

 

---

 

高木惣吉は、そこで一度、卓の全体を見た。

 

見えたのは、次のようなものである。

 

二十五に見える男が四人、夜の居間で、小さな画面をのぞきこんでいる。

 

一人は編成の順序を論じ、一人は声の通り方を論じ、一人は色の取り合わせを魚に喩え、一人はそれを止めようとして止めきれていない。

 

画面には、娘が四人、並んで笑っている。

 

――どうかしている。

 

八十年前、この四人が同じ卓で言い合いをしたことは一度もない。

 

言い合いにならないからである。誰も、負けてよい話題を持っていなかった。

 

いま、四人で娘の顔を見比べている。

 

高木惣吉は、湯呑みの茶が冷めていることに気づいた。

 

冷めるほど話していたということである。

 

「それと、損害の記録は残りますか」

 

「残るようです」

 

「では、三回ぶん取ってください」

 

「取ってどうします」

 

「傾向が出れば、次の編成に使えます」

 

「三回」

 

「一回では偶然です。二回でも偶然です。三回で、ようやく傾向が出ます」

 

「……松谷君」

 

「はい」

 

「これは遊びです」

 

「承知しています」

 

「承知している人間の口ではありません」

 

「松谷さん」

 

松平康昌が横から言った。

 

「はい」

 

「あなた、楽しそうですね」

 

「……楽しくはありません」

 

「そうですか」

 

「……正確には、分かりません」

 

「けっこうです」

 

「……松谷君」

 

「はい」

 

「いま何時だと思いますか」

 

「二十二時十四分です」

 

「その時刻に、あなたは何をしていますか」

 

松谷はしばらく考えた。

 

「……編成です」

 

「そうですね」

 

「様式が同じなので」

 

「そうでしょうね」

 

加瀬が新聞の陰で肩を震わせていた。

 

---

 

 

【高木惣吉】

 

翔鶴は、なかなか出なかった。

 

温水和彦の説明では、船は建造するか、海の上で拾うかであるらしい。どちらも運である。

 

「確率は」

 

松谷が聞いた。

 

「知りません」

 

「調べられませんか」

 

「調べられるようです」

 

「では」

 

「……調べません」

 

松谷が黙った。

 

理由を聞かなかったのは、この男にしては上出来である。

 

---

 

待っているあいだに、船は増えた。

 

三日目の夜、島風が出た。

 

高木惣吉は、秘書艦をそちらへ変えた。

 

変えてから、加瀬に見つかった。

 

「少将。秘書艦が変わっておりますね」

 

「……変えました」

 

「島風ですか」

 

「島風です」

 

「なぜです」

 

「速いからです」

 

「速さで秘書を選ぶ人は、初めて見ました」

 

「早いのは、よいことです」

 

「速いのほうですね、それ」

 

「……そうです」

 

「少将。いま、動揺なさいましたね」

 

「しておりません」

 

「字を間違えるのは、動揺の兆候です」

 

「口で喋っております。字は書いておりません」

 

「屁理屈です」

 

「事実です」

 

---

 

四日かかった。

 

八月十七日の夜、画面に翔鶴が出た。

 

高木惣吉は、しばらくそれを見ていた。

 

娘である。白と赤の袴のようなものを着て、矢を持っている。弓を引く姿が、そのまま艦載機を出す仕草になっているらしい。

 

「出ましたか」

 

加瀬が、卓の向かいから静かに聞いた。

 

「出ました」

 

「……そうですか」

 

「加瀬君」

 

「はい」

 

「見ますか」

 

「……いえ」

 

「そうですか」

 

「僕は、たぶん、余計なことを言います」

 

「言ってよろしい」

 

「言うと、少将が困ります」

 

それ以上は、互いに何も言わなかった。

 

---

 

高木は、その娘の声を全部聞いた。

 

出会いの声。着任の声。編成に入れたときの声。出撃の声。攻撃の声。傷ついたときの声。直ったときの声。

 

図鑑の説明も読んだ。二度読んだ。

 

姉妹のこと。真珠湾のこと。珊瑚海のこと。南太平洋のこと。マリアナのこと。

 

沈んだ日のことも、書いてあった。

 

「少将」

 

「なんです」

 

「その娘は、なんと言っておりますか」

 

「……よろしく、と」

 

「それだけですか」

 

「それだけです」

 

---

 

艦長のことは、一言も出てこなかった。

 

一言もである。

 

比叡は、井上提督の名を出した。あれは出るのである。出る作りにはなっている。

 

翔鶴は、出さなかった。

 

「先生」

 

松谷が卓の向こうから言った。

 

「なんです」

 

「顔色が」

 

「いつもどおりです」

 

「……そうですか」

 

---

 

高木惣吉は湯呑みを持ったまま動かなかった。

 

腹の上に手を当てそうになって、当てなかった。

 

――当然である。

 

これは船の話であって、人の話ではない。

 

そう自分に言った。三日前、同じことを部室で考えた。船だけが笑っていればよいと考えた。

 

考えたはずである。

 

それなのに、いま、少し怒っている。

 

怒りというのは久しぶりだった。二年ぶんの仕事を彼は怒らずにやり通した男である。

 

---

 

 

【高木惣吉】

 

――名前が残っている。

 

三日前、彼は生徒にそう言った。沈んだ船の名前を、いまの子が全部覚えている。そういう時代のほうがよろしい、と。

 

言ったことは、正しい。

 

正しいが、残っているのは船の名前である。

 

翔鶴という語は残った。有馬正文という語は、どこにも残らなかった。

 

残らなかったのではない。

 

――誰も書かなかったのだ。

 

---

 

昭和十九年三月二十五日、目黒の第一分室。

 

帰りぎわに、有馬正文は扉のところで振り返った。

 

「高木」

 

「なんだ」

 

「今日の話は、書いておいてくれ」

 

「書く」

 

「貴様は、書く男だからな」

 

---

 

書いた。

 

あの日のうちに書いた。七か月後には、余白に時刻と自爆の二字を足した。

 

書いた手帳は、八十年前にある。

 

いま、彼の手元には何もない。

 

---

 

高木惣吉は上着の内から手帳を出した。

 

いまの手帳である。四月に文具屋で買った罫線の細い薄いものだ。

 

いつもは一日に二行しか書かない。事実を一行、判断を一行。

 

今夜は、そうしなかった。

 

彼は、あの日の会話を頭から順に書いた。

 

戦はどうすれば勝てるかね、というところから書いた。

 

虚実の話。追撃の具申。艦橋の空気。トラックでの、長官のひとこと。

 

あれが精一杯でした、と答えてしまったこと。

 

翌年の四月に、長官が死んだこと。

 

返す返すも残念だと、あの男が言ったこと。

 

---

 

書き終えたのは、日付が変わってからだった。

 

十一頁になった。

 

罫線が細いので、字が小さくなった。読みにくい。

 

読みにくいが、読める。

 

---

 

「高木さん」

 

いつのまにか、松平康昌が卓の向こうに座っていた。

 

茶が新しくなっている。

 

「……いつからそこに」

 

「一時間ほど前から」

 

「声をかけてください」

 

「かけると、止まりますので」

 

侯爵は湯呑みを両手で包んでいた。

 

「書き物ですか」

 

「書き物です」

 

「よろしゅうございます」

 

「何がでしょう」

 

「秘書官長」

 

「はい」

 

「私は、判断を書く男です」

 

「存じております」

 

「今夜は、判断が出ません」

 

「けっこうです」

 

「けっこうですか」

 

「あなたが、ご自分の判断以外を書いておられるのは、初めて拝見しました」

 

高木は手帳を閉じた。

 

閉じてから、少し考えて、また開いた。

 

一行だけ足りない気がしたからである。

 

  有馬正文。翔鶴艦長。昭和十九年十月十五日、クラークより一番機。

 

そう書いた。

 

これで、この時代に一冊だけ、その名前が残ったことになる。

 

一冊である。

 

一冊でも、ゼロとは違う。

 

---

 

 

【高木惣吉】

 

翌朝、画面を開いた。

 

編成をいじった。

 

陣形は単縦陣にした。一列に並ぶ形である。松谷の言うことでは、先頭がいちばん狙われるらしい。

 

その先頭に、翔鶴を置いた。

 

---

 

やってみたいことがあった。

 

  空母は、飛行機を出してしまえば、これほど強いものはない。

  甲板に抱えている間は、これほど弱い。自分の爆弾を抱いているのだから、無いより弱い。

 

八十年前、教育局長室であの男がそう言った。

 

なるほどと思った。思っただけである。

 

高木惣吉は、それを試す立場に一度も立たなかった。

 

いまは、立っている。

 

---

 

置いてから、妙なことを考えた。

 

――この船には、あの男が乗っているのだろうか。

 

艦娘、と呼ぶらしい。あの少年がそう呼んでいた。

 

その艦娘に艦長がいるのかどうか、彼は知らない。

 

聞けば、あの少年は答えるだろう。たぶん、いない、と答える。船そのものが娘なのだから、中に人が乗っている道理がない。

 

道理がないのは、分かっている。

 

分かっているが、先頭に置くというのは、そういうことである。

 

八十年前、先頭に置かれた船には、必ず誰かが乗っていた。

 

名前のある人間が、必ず一人は乗っていた。

 

---

 

高木惣吉は、編成の画面をしばらく見ていた。

 

見てから、そのままにした。

 

外さなかった。

 

---

 

出撃を押した。

 

昼に航空戦がある。翔鶴が艦載機を出す。甲板が空になる。

 

そこから先が、砲撃戦である。

 

先頭の翔鶴に、弾が向いた。

 

――来た。

 

高木惣吉は画面から目を離さなかった。

 

---

 

当たった。

 

一度、二度。

 

娘の絵が傾いた。服が破れて、髪が乱れている。そういう見せ方をするらしい。

 

――当たるか。

 

飛行機を出したあとでも、当たるものは当たる。

 

有馬の言ったことは、たぶん正しい。

 

正しいが、正しいだけでは弾は逸れない。

 

八十年前も、そうだった。

 

---

 

――先頭に置いてみた。

 

報告する相手はいない。

 

いないのに、報告する形で考える癖が抜けない。

 

三十年やった仕事の癖である。

 

---

 

全部、帰ってきた。

 

  入渠しますか。

 

高木惣吉はそこで少しだけ手を止めた。

 

八十年前、傷ついた船が舞鶴へ運ばれてきた。修理の予定が延びた。延びた分だけ、新しい船の建造が遅れた。彼はその数字を書いて、上へ回した。

 

上へ回した紙が、どこかで止まった。

 

止まったまま、船は出ていって、帰ってこなかった。

 

---

 

「少将。押さないので」

 

「押します」

 

「手が止まっております」

 

「……止まっておりません」

 

彼は、はい、を押した。

 

時計の絵が出た。あと三十四分と表示されている。

 

三十四分待てば、戻るらしい。

 

「……三十四分ですか」

 

誰にともなく言った。

 

台所から声が返ってきた。

 

「なんのお話です」

 

「船が、三十四分で直るそうです」

 

「まあ」

 

「三十四分です」

 

「舞鶴では、いかほどでした」

 

「一年です」

 

「……一年」

 

「一年かかると書いて、上へ回しました」

 

「戻って参りましたか」

 

「戻りません」

 

「……よい時代でございますね」

 

「よい時代です」

 

「高木さん」

 

「はい」

 

「三十四分、何をなさいます」

 

「……待ちます」

 

「それだけで」

 

「待つのは、慣れております」

 

---

 

待っているあいだに、画面の隅で新しい娘が一人、頭を下げた。

 

  ――冬月です。よろしくお願いします。

 

高木惣吉は、湯呑みを置いた。

 

秋月型の八番艦である。舞鶴で起工した。昭和十八年五月八日、彼が参謀長の席にいた頃だ。

 

船台の割り当て、鋼材の督促、職工の頭数。全部、彼の判が要った。

 

前線から傷ついた船が次々に帰ってきて、修理に人手を取られ、そのぶん新しい船の竜骨が上がらない。一、二か月遅れます、と工作部から電話が来る。彼はその数字を書いて、上へ回した。

 

――上がったのか。

 

上がって、名前をもらって、いまここで頭を下げている。

 

「……高木さん」

 

「はい」

 

「顔が、少しゆるんでおります」

 

「ゆるんでおりません」

 

「そうですか」

 

「……舞鶴の船です」

 

「なるほど」

 

高木惣吉は、その娘の声をもう一度聞いた。

 

聞いて、少し止まった。

 

「秘書官長」

 

「はい」

 

「この声は」

 

「はい」

 

「甘夏先生に、似ておりませんか」

 

松平康昌が、湯呑みを持ったまま画面を覗きこんだ。

 

覗きこんで、しばらく見ていた。

 

「……ふむ」

 

「似ておりますでしょう」

 

「似ております」

 

「そうですか」

 

「……確かに。偶然でしょうか」

 

「偶然でしょう」

 

「偶然でしょうね」

 

侯爵はそう言って、茶をひとくち飲んだ。

 

飲んでから、もうひとくち飲んだ。

 

高木惣吉は、それ以上聞かなかった。

 

聞かないほうがよい間合いというものが、この人にはある。

 

---

 

高木惣吉は茶を飲んだ。

 

薬は、今日も出さなかった。

 

---

 

三十四分後、娘が船渠から出てきた。

 

出てきて、こう言った。

 

  ――提督。

 

高木惣吉は、訂正しなかった。

 

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