負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
二次創作/視点:小鞠知花・四人組
【小鞠知花】
お母さんの手が、止まった。
八月六日、朝。台所で麦茶を注いでいたら、外のスピーカーが鳴ったのだ。
『豊橋市役所からお知らせします。本日八月六日は、広島に原子爆弾が投下された日です。犠牲になられた方々のご冥福をお祈りし、黙祷をささげましょう』
事務的で少しだけ間延びした声。毎年同じ人が読んでいる気がする。
そのあと、サイレンが鳴った。
ウーーーーーーーー
低いところから始まって、ゆっくり上がって、そのまま伸びる音である。
どこで鳴っているのかは分からない。町のあちこちのスピーカーが少しずつずれて鳴るせいで、音の縁がぼやけて重なる。
――映画で聞くやつだ。
戦争の映画で、みんなが防空壕へ走り出す場面で必ず鳴るやつ。
本物を毎年聞いているのに、私はいつも映画のほうを先に思い出す。
順番が逆だと思う。
洗い物の途中で、お母さんは動かなくなった。
「うるさーい」
下のチビスケが耳を塞いだ。
「し、静かに」
「なんでー」
「い、いま、静かにするやつだから」
「なんでー」
「……し、死んだ人が、いるから」
「しんだ?」
「そ、そう」
「だれが」
「……」
「ねえねえ、なにー?」
チビスケが袖を引っぱる。
「広島の日」
「ひろしま?」
「そう」
「ひろしまってなにー」
「あとで教えたげる」
それだけ言って、お母さんはまた皿を洗い始めた。
サイレンは一分くらいで止まった。
「ねえお姉ちゃん、ひろしまってなに」
「……ば、爆弾が、落ちたとこ」
「ばくだん?」
「そ、そう」
「だれが落としたの」
「……ひ、飛行機」
「なんで」
「……」
答えられなかった。
私は本を読む人である。人よりたくさん読んでいる自信もある。
なのに、この子の三つ目の質問に答えられない。
「……そ、そういえば、鳴るんだった」
「お姉ちゃん、いま、どもった」
「ど、どもってない」
「どもった」
「い、いつも、どもってる」
「じゃあ今もどもってる」
「そ、そう」
「なんで威張るの」
「し、宿題やってきなさい」
毎年鳴っているはずなのに、私は毎年、鳴ってから思い出す。
夏休みの朝は、だいたい寝ているからだと思う。
---
二
八月九日。
その日は朝から図書室にいた。
夏休みの図書室は私にとって世界で二番目に安全な場所である。一番は部室。二番はここ。三番はうちの押し入れ。
高木先生はカウンターでいつものように本の背にラベルを貼っていた。
「せ、先生」
「はい」
「そ、それ、いつ終わるんですか」
「終わりません」
「お、終わらないんですか」
「本が増えますので」
「へ、減らないんですか」
「減りません」
「じ、除籍とか、しないんですか」
「します。ですが、増えるほうが速いのです」
「せ、先生、それ、い、一生終わらないやつです」
「一生かけます」
「せ、先生の一生って、あ、あと何年ですか」
「……存じません」
「そこは適当に言うとこです」
「適当には申しません」
「か、軽く言った」
「軽くありません。長いだけです」
「な、長いのと、軽いのは、ち、違うんですか」
「違います」
十一時二分の少し前、放送が入った。
『本日八月九日は、長崎に原子爆弾が投下された日です。黙祷をささげましょう』
サイレンが鳴った。
ウーーーーーーーー
図書室は窓が閉まっていて、冷房が効いている。それでも入ってきた。
壁を通ると、サイレンは音というより振動になる。床から膝に上がってきて、歯の裏が少しざらつく。
先生の手が、止まった。
貼りかけのラベルを、そっと机に置いた。
そして、椅子を引いて立ち上がった。
カウンターを出て、窓の方へ体を向ける。
正面ではなく、そこから少しだけ左へ。
――なんで、そっち。
背筋が伸びた。両手が体の横にぴたりとついた。
目を閉じて、上体が倒れた。
深い。四十五度くらい。頭だけ下げるのではなく、腰から上が一枚の板みたいにまっすぐ倒れている。
そのまま、動かなくなった。
サイレンが鳴っているあいだ、ずっとである。
指の先まで動かない。
私はカウンターの向こうから、それを見ていた。
――大人はそういうものなのかな。
うちのお母さんは、皿を持ったまま止まっただけだった。
こういうのじゃなかった。
---
サイレンが止まった。
先生は、まだ動かなかった。
それから顔を上げて、静かに椅子へ戻り、ラベルを貼り終えて次の本を取った。
戻ったあと、少しだけ咳をした。
---
「せ、先生」
「はい」
「い、いまの、こわくないですか」
「サイレンがですか」
「は、はい」
「……こわくはありません」
「ほんとですか」
「本当です」
「……」
「音そのものは、何もしませんので」
「せ、先生」
「はい」
「い、いまの」
「はい」
「な、なんですか」
「黙祷です」
「そ、そこまでする人、い、いないですよ」
「おりますか」
「い、いないです。た、立たないです。ふ、ふつう座ったまま、め、目を閉じるだけです」
「そうですか」
「な、なんで、そこまで」
「……姿勢が崩れると、時間が短くなりますので」
「……そ、それ、答えになってないです」
「なっていませんね」
先生はあっさり認めた。
---
「せ、先生」
「はい」
「さ、さっき、ま、まっすぐじゃなかったです」
「まっすぐ、とは」
「ま、窓の。す、少しだけ、ひ、左」
先生の手が、また止まった。
さっきより短かった。
「……気のせいでしょう」
「き、気のせいじゃないです」
「そうですか」
「せ、先生」
「はい」
「い、いま、ご、誤魔化しました」
「誤魔化しました」
この人、誤魔化すときに誤魔化していると言う。ずるいと思う。ずるいのに、なぜか怒れない。
「せ、先生」
「はい」
「と、図書室の本って、せ、戦争で焼けたんですよね」
「焼けました」
「な、何冊ですか」
「分かりません」
「わ、分からないんですか」
「目録も一緒に焼けましたので」
私は、口を開けた。
開けたまま、少し考えた。
「……あ」
「気づきましたか」
「な、何が無くなったか、書いた紙も、な、無くなった」
「そうです」
先生はラベルを一枚剥がした。
「何が失われたかを記した紙は、たいてい、失われたものと同じ場所に置いてあります。ですから一緒に無くなる。何が無くなったのかは、永久に分かりません」
「……」
「無くなった、ということすら分からない。無かったのと同じ形になります」
蝉が鳴いていた。
冷房の音がして、外の音だけが遠かった。
「じ、じゃあ、どうするんですか」
「いま在るものを、数え直します」
「それ、意味あるんですか」
「あります」
先生は次の本を手に取った。
「次に何かが無くなったときに、何が無くなったのかが分かります」
私は、しばらく黙っていた。
「……せ、先生」
「はい」
「そ、それ、いま在る本を数えてる人が、い、生きてないと、駄目ですよね」
先生の手が、また止まった。
さっきより短かった。たぶん一秒くらい。
「……そうです」
「そ、そうですよね」
「五冊、お借りします」
「え」
「本の話です」
「わ、私、貸出係じゃないです」
「そうでしたね」
先生はそれきり、番号を貼りはじめた。
---
三
八月十五日。
その日、松谷は珍しく午前中から部室にいた。
いつもは三時十二分に来て、二時間座って帰る。誤差五分の人である。それが十時前から座っている。
「……は、早いね」
「そうだな」
「な、なんで」
「……そうしたかった」
「……へえ」
「早いか」
「は、早い。ご、五時間くらい」
「そうか」
私は、それ以上聞かなかった。
聞くとこの人は理由を全部きちんと説明する。説明されるとこっちが何か言い返さなきゃいけない気がする。それが面倒くさい……というのは嘘で、たぶんちょっと怖い。
机の上には原稿用紙。相変わらず、白紙。
「し、締切、あと十六日」
「承知している」
「……し、してるだけじゃん」
「そうだな」
「そこは否定してっ」
「否定する材料がない」
私は本棚の陰でノートパソコンを開き、五十五枚目を書いていた。三枚増えた。増やす気はなかったのに勝手に増える。
窓は開けてある。風が入るとカーテンが膨らんで、松谷の姿が一瞬隠れる。
蝉が鳴いている。平和な午前だった。
---
十一時五十分ごろ、松谷が腕時計を見た。
そのあと、もう一度見た。
三分後に、また見た。
「……な、なんか、変」
この人が時計を三回見るのは変である。この人はたいてい時計を見なくても時刻を当てる。
十一時五十九分、松谷が立ち上がった。
椅子を引き、机から離れて窓の前に立った。
そして、窓の外を見た。
見ているというより確かめている感じだった。首をわずかに動かして、遠くのどこかを探すみたいに。
「……な、なに?」
返事はなかった。
スピーカーが鳴った。
『本日は、終戦記念日です。戦争で亡くなられたすべての方々に、黙祷をささげましょう』
放送の後、一拍置いて、六日と九日と同じように、サイレンが鳴りだした。
ウーーーーーーーーーーーー
正午のサイレンが、町の向こうから空気全体を押すみたいに広がってきた。
窓が全部開いているので、まともに入ってくる。
低い音である。人の声より低い。
上がりきったところで音が平らになって、そこからは伸びるだけになる。
伸びているあいだ、蝉の声が聞こえなくなった。
蝉は鳴きやんでいない。鳴いているのに、聞こえない。
サイレンのほうが太いのだ。
――やっぱり、映画のやつだ。
思ってから、自分にぞっとした。
これが先にあって、映画はあとだ。
その時だった。
松谷は、姿勢を正した。
背筋が伸び、かかとが揃い、両手が体の横にぴたりとついた。
直立不動。まさにその言葉がぴったりだった。
そして、ゆっくりと右手が上がった。
指を四本きっちり揃えて伸ばし、親指をつけて、手のひらをわずかに前へ向ける。肘が肩の高さで止まった。
指先が、こめかみの少し上で止まっている。
敬礼。
鉄道の運転士、警察官や消防士、そして自衛官がする、あの敬礼である。
ただ、私が知っているどの敬礼とも違った。テレビの警察のとも、映画のアメリカ兵のとも違う。
角度が、全部決まっている感じだった。
軍人。
私は軍人に会ったことはないが、何となくそれがしっくりきた。本職という感じだった。
ふわっ
窓からの風が、カーテンをなびかせ、一瞬、松谷の姿を隠した。
次の瞬間、松谷が、全く違う姿をしているように見えた。
一言でいうと、陸軍軍人のようだった。
戦争映画やドキュメンタリーでしか見たことがない、旧日本軍の軍人である。
頭には、黒い鍔付きの軍帽をかぶっている。
上がカーキ色、下が赤色をしており、赤色の中央には五芒星が付いている。
そして、夏だというのに、長袖のカーキ色の軍服を着て、襟には赤地に金線2本、その上に星が3つついている。
左胸には色とりどりなメダルのようなものがぶら下がっている。
左腰には軍刀を下げて、手は白い手袋をしている。
下衣も長ズボンだったが、何より目立ったのは靴で、ふくろはぎ付近まである、黒い革製のロングブーツを履いていた。
まるで、戦争映画に出てくる、陸軍の偉い人、例えるなら陸軍大佐のようだった。
顔も、どこか精悍で眉間や目元に深いしわがあるように見えた。
何も言えずにただ呆然としていると、風が吹き、また松谷はカーテンに隠れた。
次に見た時には松谷は元の高校の制服を着ていた。
顔もいつも通りだった。
今の、何だったんだろう。
おかしい。松谷は同級生のはずなのに。
松谷の顔は、窓の外に向いていた。
――東の、ちょっと北のほう。
一秒。五秒。十秒。
蝉が鳴いている。カーテンが膨らんでしぼんだ。
私はノートを持ったまま本棚の陰で固まっていた。
息をするのが悪いことみたいな気がして浅く吸った。
サイレンが止まった。
それでも松谷は、しばらく動かなかった。
やがて右手が下りた。
下ろすときも速さが決まっていて、途中で一度も揺れなかった。
そのあと数秒、まっすぐ立っていた。
窓の外を見たまま。
---
「……あ、あの」
声が震えた。震えるつもりはなかった。
「なんだ」
「い、いまの……なに」
「大切な日なんだ」
「……た、大切な日?」
「そうだ」
「し、知ってる。終戦の日」
「そうだ」
「い、いまの、け、敬礼だよね」
「そうだ」
「で、でも、て、手、あそこで止まってた」
「止めた」
「な、なんで、あそこ」
「……そこに、鍔がある」
「つ、つば?」
「帽子の」
「か、被ってないよ」
「被っていない」
「……」
「で、でも、なんで、あんな」
長い間があった。
蝉の声が、やけに大きく聞こえた。
「……あの戦争で、大勢死んだ」
低い声だった。
「三百万人を超えている。数えられた者だけでその数だ。数えられなかった者は、いまも数えられていない」
「……そ、それ、教科書に」
「載っているだろうな」
「……の、載ってた。テストにも出た」
「そうか」
「……あ、あの」
「なんだ」
「わ、私、その数字、お、覚えました」
「そうか」
「……で、でも、いま、ぜ、全然、覚えてなかった」
「そういうものだ」
なのに、この人の口から出ると、数字に聞こえなかった。
「同じ年に学校へ入った者が、何十人といた」
「……が、学校?」
「……昔の話だ」
松谷は、そこで一度、言葉を切った。
窓の外を見たまま、続けた。
「半分は、帰ってこなかった」
「……ひっ」
出かかった声を、私は両手で押さえた。
半分。半分って、なに。
うちのクラスは三十八人だ。その半分だと十九人だ。
「な、何十人って、言った」
「言った」
「そ、その人たち、松谷の……」
「昔の話だと言った」
かぶせるように言われた。
私は、それ以上聞けなかった。
「八月十五日は、それが止まった日だ」
「と、止まった」
「あの日に終わらなければ、次の日も、その次の日も、人は死んでいた」
「……う、うん」
「終わらせるために、働いた人間がいる」
松谷の声は、いつもと同じだった。
数字を読み上げるときとまったく同じ、平らな声。
なのに、なんで。
なんで、こんなに聞いていられないんだろう。
「な、名前は、習ってない」
「残っていない」
「な、なんで」
「残さないことにしたからだ」
「だ、だったら、誰も、知らないじゃん」
「そうだ」
「そ、それでいいの」
「よくない」
松谷は、そこでやっと振り向いた。
そして、まっすぐ私を見て、言った。
「だから、俺が覚えている」
---
私はそのあと、三十分くらい、一文字も書けなかった。
松谷も、書かなかった。
「……ま、松谷」
「なんだ」
「……か、書いても、いい?」
「何をだ」
「い、いまの、話」
長い間があった。
さっきより長かった。
蝉が鳴いて、カーテンが膨らんで、しぼんだ。
「……好きにしろ」
「そ、それ、いいってこと?」
「駄目だと言う権利が、俺にはない」
「な、なんで」
「俺は、書かないほうを選んだ人間だ」
「……」
「選ばなかったほうを、人に禁じることはできない」
私は画面の隅の数字を見た。
五十五枚。全部、誰にも困らない話である。婚約破棄されて、追放されて、それでも幸せになる令嬢の話だ。
「……ひ、一つ、聞いていい?」
「なんだ」
「か、書かないほう、えらんで。……よ、良かった?」
「良くない」
即答だった。
「じゃ、じゃあ、なんで」
「他に手がなかった」
「……」
「良くないが、正しかった。その二つは同時に成り立つ」
――そんなことある?
あるんだと思う。この人がそう言うんだから。
「一つだけ、いいか」
「な、なに」
「書いたものは、いつか誰かが読む」
「……う、うん」
「読まれても構わないものだけを書け」
私は、少し考えた。
考えて、答えた。
「……ぜ、全部読まれても、こ、困らない」
「そうか」
「こ、困らないよ。は、恥ずかしいけど、こ、困らない」
松谷が、私を見た。
見て、少しだけ黙った。
「……それは、強い」
――え。
「い、いま」
「なんだ」
「つ、強いって、言った?」
「言った」
「わ、私に?」
「他に誰がいる」
私は、口を開けたまま、しばらく固まっていた。
強い、と言われたのは、生まれて初めてだった。
背が低くて、声が小さくて、人と目を合わせられなくて、教室で名前を呼ばれると心臓が止まりそうになる私が、この夏、強いと言われた。
しかも、根拠が「書いたものを全部読まれても困らない」である。
そんなの、強さの数え方に入ってると思わなかった。
「……ま、松谷」
「なんだ」
「……な、なんでもない」
部室で二人、別々の理由で、何も書かないでいた。
「……お、覚えてる、って」
「……十五歳が、言うことじゃない」
言うことじゃないのに、あの言い方は聞いた話を喋る人の言い方じゃなかった。
「……き、聞いちゃいけないやつだ」
分かってるのに、聞きたい。
「……こ、これ、私の悪い癖だ」
「……書きたく、なるやつだ」
---
四
【Intermission 同時刻】
豊橋から見て、皇居はほぼ東北東にある。方位でいえば六十五度。
八十年前、この四人が正午にどこを向いたかは決まっていた。決めた者はいない。全員が同じ方角を向いた。
――図書室。
高木惣吉はラベルを貼る手を止め、カウンターを出た。
窓の掛け金を外して押し開ける。蝉の声が一段大きくなった。
彼は窓枠の正面ではなく、そこからわずかに左へ体を向けた。方角は昨夜のうちに確かめてある。地図を広げて分度器を当てるほどのことではない。それでも彼は当てた。
放送が流れ、サイレンが鳴った。
ウーーーーーーーーーーーー
――音が、違う。
高木惣吉はそう思い、思ったことを誰にも言わなかった。
昔のものは、こう伸びなかった。上がって、下がって、また上がる。切れ目のある音である。
切れ目があるから、人は走れた。
いまの音には切れ目がない。
切れ目がないというのは、逃げなくてよいということである。
――よい音だ。
背筋を伸ばし、両手を体側につける。
目を閉じ、上体を四十五度に折った。
最敬礼である。
一分間、動かない。指の先まで動かない。
肺の弱い男である。四十五度は長く続けると苦しい。息が浅くなり、耳の奥が鳴りはじめる。
彼はそれを、一度も変えなかった。
顔を上げたあと、彼は少し咳をした。
それから、午前中に交わした会話を思い出した。
――いま在る本を数えてる人が、生きてないと、駄目ですよね。
十六歳が言うことである。
言った本人は、たぶん気づいていない。
「……そうです」
もう一度、同じ返事を、誰もいない図書室で言った。
---
――生徒会室。
加瀬俊一は一人で、広報の原稿を書いていた。
夏休みの生徒会室には誰も来ない。彼はそれを知っていて、この時刻にここにいる。
ペンを置き、椅子を引いて窓の方へ体を向けた。
ポケットの中で、飴の包み紙が鳴った。
「……今日は、やめておきましょう」
サイレンが鳴る。
彼は深く礼をした。
――八十年前の、この時刻。
彼は総理大臣官邸にいた。内閣総理大臣秘書官室。松谷誠の部屋である。
四人はそこに集まって、ラジオの前に立っていた。
受信状態は悪く、雑音がひどかった。
それでも、冒頭の次の文章は明確に聞こえた。
朕深ク 世界ノ大勢ト 帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ 時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル 爾臣民ニ告ク
朕ハ 帝國政府ヲシテ 米英支蘇四國ニ對シ 其ノ共同宜言ヲ受諾スル旨 通告セシメタリ
そこから先は、雑音に沈んだ。
ああ、負けたのだ。
ようやく、負けることができたのだ。
四人とも、口にはしなかったが、その思いでいっぱいだった。
松谷は直立不動で陸軍式の敬礼をしていた。
高木は目を閉じ、四十五度に上体を折っていた。放送のあいだ、一度も戻さなかった。
松平は手を前で組んで、同じく目を閉じて頭を下げていた。
加瀬俊一は、その三人を見ていた。一人、ただ呆然としていた。
少し腰を折って皆と同じ礼をするので精いっぱいだった。
見ていた自分だけが、あとで覚えていることになる。
放送が終わったあと、しばらく誰も動かなかった。
窓の外で、蝉が鳴いていた。
――最初に口を開いたのが、誰だったか。
それだけが、どうしても思い出せない。
あの八か月のことは日付も時刻も文面もすべて覚えているのに、その一点だけが抜けている。
一分後、彼は顔を上げ、シャツの下の鎖を一度だけ押さえた。
「……さて」
書きかけの原稿に戻る。
見出しは「豊橋の朝、四時半から」だった。
---
――職員室。
「先生、それ、何書いてるんですか」
甘夏古奈美は、書類を取りに来ただけだった。
副担任の松平先生は、自分の机で墨を磨っていた。夏休みに。この人はいつも墨を磨っている。
「返事です」
「誰への?」
「もう、届かない相手へです」
「……はい?」
甘夏が聞き返そうとしたとき、放送が入り、サイレンが鳴った。
松平康昌は硯に筆を置いた。
立ち上がって椅子を静かに引き、窓の方へ向き直る。
そして、深く礼をした。
甘夏は口を開けたまま、それを見ていた。
――え。
いま、二十五歳の新任教師が。職員室で。誰にも言わずに。ものすごく慣れた動作で。
サイレンが止まっても、松平先生はしばらく動かなかった。
目を閉じて、静かに黙とうをしていた。
やがて顔を上げると、静かに椅子に戻る。
「先生」
「はい」
「……いまの、なんですか」
「甘夏先生。人は、覚えていようと思っただけでは、覚えていられません」
「はあ」
「日と時刻を決めて体を動かしておく。そうしておかないと、驚くほど早く忘れます」
「そんなもんですか」
「三年で薄れ、十年で他人事になり、三十年で歴史になります」
「……三十年で歴史」
「歴史になると、人は安心します。安心すると、同じことをします」
「……先生」
「はい」
「あのサイレン、こわくないですか」
「こわくはありません」
「私、毎年ちょっとこわいんですけど」
「それは、よいことです」
「よくないですよ」
「よいのです」
「なんでですか」
「こわいと思う人がいるあいだは、まだ他人事ではありませんので」
「……先生」
「はい」
「たまに、そういう言い方しますよね」
「いたしますか」
「します」
「……気をつけます」
「……先生、おいくつでしたっけ」
「二十五です」
「ですよね」
「ですよ」
「二十五で、そんな習慣あります?」
「ございます」
「誰に教わったんですか」
「……先人です」
「先人」
「昔の人たちです」
「そこ、掘っていいやつですか」
「掘らないほうが、早く終わります」
「終わらせたいんですか」
「終わらせたくはありません。ただ、掘ると長うございます」
松平先生は微笑んだ。いつもの、何も答えていない微笑みだった。
「先生。さっき、窓のほう向いてましたよね」
「向いておりました」
「なんであっちなんですか」
「東北東です」
「……なにがあるんですか」
「皇居が」
「え」
「陛下がおわします」
「なぜ皇居なんですか」
「……なんとなくです」
松平はそれまで目を落としていたが、やがて甘夏の方を向いてしっかりと見つめた。
今まで見たことのない真剣な目線に甘夏はドキッとした。
「……甘夏先生」
「は、はい」
「私には、忘れると困る約束があります」
「約束、ですか」
「返事のできない相手との約束です」
「それ、約束って言います?」
「言いません。ですから、こちらが忘れないほうを引き受けるしかありません」
甘夏は、何も言えなかった。
言えないまま自分の机に戻り、書類を上下逆さまに持っていることに気づいた。
「……なんなのこの人」
いつものことである。
いつもと違ったのは、それが夕方まで頭から離れなかったことだった。
---
五
【Intermission 夜】
その夜、松平邸の食卓に四人が揃った。
茶を注ぐ音。薬の包みを開ける音。手帳を開いて、何も書かずに閉じる音。
先に口を開いたのは、加瀬だった。
「こちらへ来て、最初の八月でしたね」
「最初です」
「音は、変わりましたね」
「変わりました」
「昔のは、もっとせわしなかった」
「せわしないほうが、正確です」
「正確ですか」
「逃げる時間を知らせる音でしたので」
「……いまのは」
「知らせておりません。ただ鳴っているだけです」
「よい音ですね」
「よい音です」
高木が答えた。
四人とも、示し合わせてはいない。
示し合わせずに、三度とも立った。
八十年前に決めた形が、四人の身体に別々に残っている。
「八十年ですか」
「八十年と、少しです」
高木が訂正した。
「八十年後でも、絶えることなくサイレンが鳴る、メモリアルされるのは、いいことですね」
「その通りです」
松谷が湯呑みを置いた。
「……八十年、経った」
「はい」
「だが、俺たちには、まだ半年も経っていない」
「あの日から、記録を焼いた日まで四十日。着地の朝から今日まで、百三十一日。合わせて百七十一日です」
「半年に、十日あまり足りませんね」
加瀬が指を折る真似をした。
「八十年を、半年で歩いたことになる」
「歩いてはいません。落ちただけです」
「言い方が身も蓋もない」
「事実です」
「高木さん、今日はそればかりだ」
松平が茶を注ぎ足した。
「長いのか短いのか、私にはまだ決めかねます」
「決めなくてよいでしょう」
高木が言った。
「決めた時点で、終わったことになりますから」
沈黙が落ちた。
蚊取り線香の煙がまっすぐ上がって、天井の手前で崩れた。
「――今日、見られました」
松谷が言った。
三人が顔を上げる。
「部室にいたときに。文芸部の子です」
「小鞠さんですか」
「はい」
「なんと答えました」
松谷は湯呑みを見たまま、少し黙った。
「癖だ、と答えるつもりでした」
「ほう」
「そう答えれば、あの子は引き下がる。そのつもりで口を開きました」
「では、なんと」
「……大切な日だ、と」
加瀬が茶を置いた。笑わなかった。
「いい答えです」
「言うつもりはなかった」
「珍しく、松谷さんが言葉を選ばれましたね」
「選んでいません。出ました」
「それを、選んだと言うのです」
松谷は答えなかった。
代わりに、もう一つだけ言った。
「……名前は残っていない、と言いました。だから俺が覚えている、と」
「事実でしょう」
「紙を焼いたのは、俺です」
部屋が、静かになった。
「松谷君」
「はい」
「あれは正しかった。私は何度でもそう言います」
「……はい」
「ですが、覚えていると口に出したのは、今日が初めてでしょう」
「……そうかもしれません」
「小鞠さんは、書くと言いましたか」
「聞かれました。書いていいか、と」
「なんと答えました」
「好きにしろ、と」
高木が湯呑みを持つ手を止めた。
「……松谷君。それは、許可です」
「許可ではありません。禁じなかっただけです」
「同じことです」
「違います」
松谷は湯呑みを置いた。
「あの子は、全部読まれても困らないと言いました」
三人が、顔を上げた。
「……ほう」
「私たちにはできなかったことです」
高木が静かに言った。
「八年、一度もできなかった」
「はい」
「十六歳が、平然と言いますか」
「言いました」
加瀬が笑った。今度は本当に笑った。
「敵いませんね」
---
松谷が立ち上がった。
「どちらへ」
「原稿を書きます」
三人が、同時に彼を見た。
「……ほう」
「締切が十六日後です」
「何を書くんです」
「まだ決めていません」
「松谷君」
松平が呼び止めた。
「はい」
「白紙のまま出すのも、一つの手ではありますよ」
「……は」
「白い紙が一枚、部誌に綴じてある。誰にも意味が分からない。三十年経って、誰かが気づくかもしれません」
「侯爵。それは、意地が悪い」
「加瀬さんに言われますか」
「僕は正面から意地が悪いのです」
「では、私は横からですね」
松谷はしばらく黙っていた。
「侯爵」
「はい」
「それは」
「冗談です」
「冗談ですか」
「半分は」
松谷は一礼して、部屋を出ていった。
「……侯爵」
「はい」
「あの人が、書けるといいですね」
「そうですね」
松平は茶碗を置いた。
「加瀬さん。餌は、多過ぎるより少な過ぎるほうがよろしい」
「今日はもう、聞きました」
「二度申し上げるほど大事なことです」
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六
【小鞠知花】
その夜、私はノートの新しいページを開いた。
原稿のページじゃない。後ろのほう。誰にも見せない側だ。
今日、松谷が「だから、俺が覚えている」と言った。
一行だけ書いた。
「……け、消そうかな」
消しゴムを持って五秒くらい迷い、やめた。
「……け、消したら、なかったことになる」
なかったことにしたほうがいい事柄もある、とあの人は言った。私は「ない」と言い返した。あれは負け惜しみじゃなくて、たぶん本気だ。
「……そ、それに」
「……名前が残ってない人のこと、あの人が一人で覚えてるんだったら」
「……ひ、一人は、少なすぎる」
私は書く人だから、書く。
意味は、分からなくていい。
分かる日が来るかどうかも、分からなくていい。
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もう一行、書き足した。
目録が焼けると、何が無くなったか分からなくなる。(高木先生)
「……こ、これも、いる」
私はしばらくその二行を見ていた。
一行目は、覚えている人が一人だという話。
二行目は、数える人が生きていないと数えられないという話。
――同じこと言ってない?
そう思って、ぞっとした。
あの人たち、たぶん、同じ話を別の言い方でしている。
しかも、示し合わせてない。示し合わせてないのに揃うというのは、同じところにいた人たちだからだ。
「……ど、どこにいたの」
答えは返ってこない。
返ってこないので、私は三行目を書いた。
書いた人が生きていないと、書けない。
「……あ、当たり前のこと、書いてる」
当たり前のことなのに、書いたら少し息がしやすくなった。
私はノートを閉じて、電気を消した。
窓の外で、まだ蝉が鳴いていた。
八月六日 八時十五分
八月九日 十一時二分
八月十五日 正午
三つ書いて、私はペンを止めた。
今年の八月に、この町で三回サイレンが鳴った。
三回とも鳴っていたことを、私は今日まで一度も数えたことがなかった。
《八月 黙祷三度 記録者 二名》