負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第33話 1巻4敗目幕間 志喜屋視点 均衡された水槽

二次創作/視点:志喜屋夢子・松平康昌

 

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【志喜屋夢子】

 

「……ここ……どこ」

 

八月十七日、午後二時。

 

電車を二駅、乗り過ごした。

 

わざとではない。窓の外を見ていたら景色が全部同じに見えて、どこで降りるつもりだったのか分からなくなった。

 

こうなることは割とよくある。だから最近、練習している。バスと電車と自分の足。夏休みのうちに慣れておかないと来年困る。

 

――来年のことを、考えている。

 

そう気づいて、少し可笑しくなった。生徒会の仕事では来年の予定を組むのに、自分の来年はいつも後回しになる。

 

ホームに降りると、日差しが刺さった。

 

「……あつい」

 

「……水……ほしい」

 

言っても、誰もいない。

 

これには慣れている。

 

頭の中はそれなりに速いと思う。少なくとも、周りが喋っている速さについていけないほど遅くはない。

 

問題は、そこから口までの距離である。

 

考える。言葉にする。息を吸う。声にする。その工程に、私は人よりずいぶん時間がかかる。理由は分からない。子供のころからそうだった。

 

だから、私が組み立て終わるころには話が次に進んでいる。

 

  ――いま、それ、言おうと思ってたのに。

 

一日に何回か、そう思う。

 

思うだけで、これも言わない。言い終わるころには、また次の話になっている。

 

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改札を出て、日陰を探して歩いた。

 

商店街の外れに、窓から青い光が漏れる建物があった。看板の字は掠れている。熱帯魚、と読めた。

 

自動ドアが、少し遅れて開いた。

 

「……つめたい」

 

中は薄暗くて、両側の壁が全部水槽だった。上から下まで四段。青い光がずらりと並び、そのひとつひとつで小さい魚が動いている。

 

ポンプの音が店じゅうで重なって、雨みたいに聞こえた。

 

「……ここ……すごく……いい」

 

暗くて涼しくて青くて、誰も私に話しかけてこない。

 

こういう場所を、私はずっと探していたのだと思う。

 

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奥の棚の前に、白いシャツの背中があった。

 

動かない。

 

私が水槽を三つ見るあいだ、動かなかった。五つ見るあいだも動かなかった。

 

近づいて、横から顔を見る。

 

「……松平先生」

 

「志喜屋さん」

 

顔を上げずに、名前を呼ばれた。

 

「……気づいて……ました?」

 

「入ってこられたときに」

 

「……声……かけて……ください」

 

「かけようとしたのですが、水槽をご覧になっていたので。邪魔をしてはいけません」

 

先生は棚の箱を一つ取って、こちらに向けた。細長い機械の写真が印刷されている。

 

「これは、水温を一定に保つ機械です。二十五度に設定すると、二十五度になります」

 

「……はい」

 

「下がれば温まり、上がれば止まる。人が見ていなくても、そうなります」

 

「……見て……なくても」

 

「見ていなくてもです」

 

もう一つ箱を取る。

 

「こちらは水を濾す機械です。回し続けると、水が澄みます」

 

先生は棚の上の段を見上げた。

 

そこには照明が並んでいた。細長い板みたいなやつで、値札に消費電力と書いてある。

 

「これは」

 

「……ライト……ですよね」

 

「明るさが変わります。朝と夜も、決められる」

 

「……はい」

 

「……全部、機械がやるんですか」

 

「……たぶん」

 

先生はしばらく、その棚を見上げていた。

 

見上げているだけなのに、なんだかすごく長く感じた。

 

「……先生?」

 

「失礼しました」

 

「……ほしいん……ですか」

 

「ほしいですね」

 

即答だった。

 

いつも何を考えているか分からない人が、ライトの棚の前で即答した。

 

「……先生……くわしい……んですね」

 

そこまで言うのに、七秒くらいかかった。

 

先生は、待っていた。

 

途中で口を挟まなかった。目もそらさなかった。

 

――待った。

 

――この人、最後まで待った。

 

「昔、少し」

 

先生は箱を棚に戻した。

 

「その頃は、水温を保つのが、いちばん難しいことでした」

 

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そのあと、私たちは水槽の列を端から順に見て回った。

 

四十分いて、十回くらいしか喋っていない。

 

私は、人といると疲れる。

 

相手が私の返事を待っているのが分かるからだ。待たせていると思うと焦る。焦ると余計に言葉が出てこない。それで相手が「あ、大丈夫だよ」と笑って話題を変える。

 

みんな優しい。優しいから、こうなる。

 

この人は水槽を見ながら待っていた。私が喋り出すとそちらを向いた。喋り終わると、また水槽を見た。

 

それだけのことなのに、息がしやすかった。

 

「志喜屋さん。これが、エンジェル・フィッシュです」

 

薄い三角形の魚だった。ひれが長くて、水の中で立っているみたいに見える。

 

「魚の王様、と呼ばれます。私が決めたのではありません」

 

「……ちがう魚も……王様って……言われたい……かも」

 

言い終わるまでに、たっぷり十秒かかった。

 

先生は最後まで聞いて、それから笑った。

 

「そうかもしれませんね」

 

「……いま……変なこと……言いました」

 

「変ではありません」

 

「……変です」

 

「では、面白いことを」

 

――笑った。

 

変なことを言ったのに。

 

いや、たぶん変なことを言ったから笑ったのだと思う。いい笑い方だった。

 

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小さい水槽の前で、先生が足を止めた。

 

魚はいない。水草だけが植わっていて、底に巻貝が二つへばりついている。

 

「……貝?」

 

「掃除夫です。枯れた草や、余った餌を食べます」

 

「……食べてる……だけ……ですよね」

 

「そうです。食べているだけです」

 

先生は貝を指で示した。

 

「ですが、これがいる水槽といない水槽では、換水の手間がまるで違います。本人は掃除をしているつもりはないでしょうけれど」

 

先生は隣の水槽を指した。

 

小さい水槽に、同じ種類の魚が十匹以上いた。上のほうでかたまってずっと動いている。

 

「あちらは、少し多いですね」

 

「……多い?」

 

「魚が病気になる原因は、三つあります。餌のやりすぎ。水温の急な変化。それから、狭いところに詰めこみすぎること」

 

「……つめこみ」

 

「密集といいます。喧嘩をするわけではありません。ただ、逃げる場所がなくなる」

 

私は、その水槽をしばらく見ていた。

 

十匹全部が動いていた。誰も、止まっていなかった。

 

止まると、後ろの魚にぶつかるからだと思う。

 

ぶつかりたくないから動く。動くから、また誰かの後ろに来る。それを全員が同時にやっている。

 

「……先生」

 

「はい」

 

「……人も……そうですか」

 

「魚の話です」

 

「……はい」

 

言われても、私は生徒会室のことを考えていた。

 

あの部屋は、そんなに狭くない。人数も六人しかいない。

 

なのに私は月曜の会議のあと、いつも二時間ほど誰とも喋れなくなる。

 

――あ。

 

生徒会に加瀬君を入れたのは私だ。

 

理由はうまく説明できない。あの子は目立つし、喋るのが上手いし、書くのも速い。でも入れたいと思ったのはそこじゃなかった。

 

あの子は部屋に入ってくると、まず端に立つ。誰も座らない席に座る。会議で誰も拾わなかった話を、あとで一人で処理している。

 

「……先生。生徒会に……加瀬君……入れたの……私です」

 

「存じています」

 

「……理由……うまく……言えなくて」

 

「どうぞ」

 

「……あの子……部屋に入ると……まず……端に立つんです」

 

「……誰も座らない……席に……座る」

 

「……会議で……誰も拾わなかった話……あとで……一人で……やってる」

 

「なるほど」

 

「……いま……分かりました。掃除夫……です」

 

先生は貝を見たまま言った。

 

「よく見ておいでだ」

 

「……見てる……だけ……です」

 

「見ているだけの人が、いちばん少ないんですよ」

 

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いちばん奥に、椅子が二つ置いてあった。

 

なんとなく二人でそこに座った。正面の大きな水槽で、光が水面で揺れている。

 

「……先生。ちょっと……聞いても……いいですか」

 

「どうぞ」

 

息を吸った。

 

これを言うのに、何日か前から頭の中で組み立てていた気がする。誰かに言うつもりはなかったのに勝手に組み立てていた。

 

「……私……話すの……遅くて」

 

「……言おうと……思ったこと……言い終わる……前に」

 

「……みんな……先に……行っちゃう……んです」

 

二十秒くらいかかった。

 

先生は水槽を見たまま、こう言った。

 

「餌は、多過ぎるより、少な過ぎるほうがいいんですよ」

 

「……え」

 

「魚が死ぬのは、たいてい飼主の親切が過ぎたときです。心配して、余計にやってしまう」

 

先生は水槽を指した。

 

「あれは、水を換えていません。水草が酸素を出し、貝が汚れを食べて、釣り合っている。こうなった水は、いじらないほうがいい」

 

「……いじらない」

 

「均衡された水槽、と言います」

 

そこで初めて、先生は私のほうを見た。

 

「手を入れたくなるんですけれどね。何もしていないと、心配になるので」

 

「……先生。それ……なんの……話ですか」

 

「魚の話です」

 

「……ほんとに?」

 

「ほんとうに、魚の話です」

 

微笑まれた。

 

私は、返事ができなかった。

 

いつもの、口が遅いのとは違った。

 

たぶんこの人は魚の話しかしていない。魚の話しかしていないのに、私は返事に困っている。

 

「……先生は……ずるい……です」

 

「よく言われます」

 

――加瀬君と、同じこと言った。

 

――この二人、絶対、なにかある。

 

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レジで、先生は巻貝を三つ買った。

 

袋に水を入れて、店主が輪ゴムで縛る。五十歳くらいの人だ。腕にタオルをかけている。

 

「お客さん、詳しいねえ」

 

「そうでもありません」

 

「いや、さっきの説明、うちの店員より上手いよ。同業の方?」

 

「いいえ」

 

「じゃあ飼育歴が長いんだ。何年?」

 

「……本を一冊、書いたことがあります」

 

――え。

 

「え、なんの本?」

 

「熱帯魚の飼い方です」

 

「うそでしょ。お若いのに」

 

「もう、絶版です」

 

「はは、そりゃ残念だ。今度うちに置かせてよ」

 

「置ける在庫がありません」

 

「じゃあ古本屋だな」

 

「探されますか」

 

「探すよ。何年の本?」

 

「……昭和七年です」

 

「昭和!? お客さん、それ、おじいさんの本でしょ」

 

「そういうことにしておきます」

 

店主は笑った。冗談だと思ったのだと思う。私も、そういうことにしておいたほうがいい気がした。

 

でも、見てしまった。

 

先生が答えるまでに、一拍あったのを。

 

いつも一拍も置かないで喋る人が、そこだけ置いた。

 

---

 

店を出る前に、私は言った。

 

言うのに、十五秒くらいかかった。

 

「……先生」

 

「はい」

 

「……さっき……一拍……置きましたね」

 

先生の手が、袋の口のところで止まった。

 

「……何のことでしょう」

 

「……本を……書いたって……言う……前です」

 

「……」

 

「……いつもの……先生なら……置かない……ところ……でした」

 

長い間があった。

 

先生はこういうとき、たいてい微笑む。今日は微笑まなかった。

 

「志喜屋さん」

 

「……はい」

 

「よくお気づきになりました」

 

「……私……話すの……遅いので」

 

「はい」

 

「……だから……人が……一拍……置いたのが……分かるんです」

 

私は、言葉を探した。

 

探して、たぶん初めて自分でその形に気づいた。

 

「……速い人は……気づかないと……思います」

 

「……そうでしょうね」

 

「……先に……次の話に……行ってるので」

 

先生は袋を持ち直した。

 

「志喜屋さん」

 

「……はい」

 

「それは、能力です」

 

「……のうりょく」

 

「速く喋る訓練は、いくらでもあります。人の間を聞き取る訓練は、ありません」

 

「……」

 

「あれは、遅い人しか身につきません」

 

私は、返事ができなかった。

 

十六年、これは直すものだと思っていた。

 

小学校の先生も中学の先生もそう言った。もっと大きい声で。もっとはっきり。落ち着いて、ゆっくりでいいから。ゆっくりでいいと言う人は、たいてい三秒しか待たない。

 

直そうとして、直らなくて、そのうち直らないほうが自分なのだと決めた。決めただけである。良いものだとは一度も思わなかった。

 

良いものだと言われたのは今日が初めてである。しかも、この街でいちばん読めない人が読まれた側から言っている。

 

いつもの、口が遅いのとは違った。

 

十五秒経っても、二十秒経っても、何も出てこなかった。

 

「……先生」

 

「はい」

 

「……いま……手を……入れましたね」

 

先生が、目を丸くした。

 

初めて見る顔だった。

 

「……参りました」

 

そう言って、この人は、笑った。

 

---

 

 

店を出ると、外はまだ明るかった。

 

「志喜屋さん。駅は、あちらです」

 

「……はい」

 

「送りますよ。車で来ています」

 

「……いえ……あの」

 

断ろうと思った。言葉を組み立てはじめて、五秒くらいしてやめた。

 

暑かったし、駅の名前を思い出せていなかったし、それに。

 

――この人なら、待ってくれる。

 

「……お願い……します」

 

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車の中は、驚くほど静かだった。

 

曲がるときに体が振られない。信号で止まるときも、いつ止まったのか分からない。

 

「……先生……運転……上手ですね」

 

「昔、上手な方に習いました」

 

「……その人も……ずるい……人ですか」

 

「あの人は、私よりずるいです」

 

「……こわい」

 

先生が小さく笑った。

 

「志喜屋さん。よく、道に迷われますか」

 

「……はい」

 

「では、方角を一つだけ決めておくといい。駅でも、川でも、海でもいい。あれがあちらにある、と一つ決めておけば、迷っても戻れます」

 

「……地図は」

 

「地図は、自分がどこにいるか分かっている人の道具です」

 

「……あ」

 

「分からなくなった人に要るのは、地図ではありません。一つだけ動かないものです」

 

「……ひとつ……だけ」

 

「二つ決めると、迷います。三つ決めると、動けなくなります」

 

「……先生も……決めてます?」

 

「決めています」

 

「……どっち……ですか」

 

信号が赤になった。

 

車が、音もなく止まった。

 

「東の、少し北です」

 

「……そこに……なにが」

 

信号が青になった。

 

車が動き出す。

 

「志喜屋さん、次の角は右でしたか」

 

「……あ……はい」

 

聞きそびれた。

 

いつものことである。

 

でも、今日はあまり悔しくなかった。

 

「……先生。こんど……また……聞きます」

 

「どうぞ」

 

「……逃げないで……ください」

 

「善処します」

 

「……それ……逃げてます」

 

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【Intermission 絶版】

 

一九三二年、松平康昌は『熱帯産観賞魚の飼ひ方』という小冊子を著している。発行は銀座千疋屋本店。定価四十銭。

 

「ただいま戻りました。侯爵、どちらへ」

 

「魚屋です」

 

「またですか」

 

「貝を買ってまいりました」

 

松平は袋の口を開け、水槽の縁にそっと沈めた。三つともすぐにガラスへ吸いついて動き出す。

 

加瀬俊一が横に立って、覗きこんだ。

 

「働きますねえ、こいつらは」

 

「働いているつもりはないでしょう」

 

「そこがいい」

 

ヒーターの目盛りは二十五度で止まっている。人が見ていなくても、そうなる。

 

「加瀬さん。私は本に、水温を保つのが最も難しいと書きました」

 

「拝読しました」

 

「読んだのですか」

 

「押しつけてこられたのです」

 

「差し上げたはずですが」

 

「三冊も、ですか」

 

「余っておりましたので」

 

「絶版の理由が分かりました」

 

八十年前、彼は温度計と湯を足す手とゴム管でこれをやっていた。夜に冷える。冬に落ちる。誰かが毎日、必ず見ていなければならなかった。

 

今日、棚の箱にはこう書いてあった。設定温度を自動で維持します。

 

「あれが、千円あまりの箱になっておりました。誰も難しいとは思っておりません」

 

「難しかったことを、誰も覚えていない」

 

「そういうことです」

 

しばらく、ポンプの音だけがした。

 

「侯爵。巻頭のホームズの警句、あれは冗談でしょう」

 

「気づきましたか」

 

「八十年かかって、私が一人目ですか」

 

「二人目です。一人目は妻でした」

 

加瀬は何も言わずに、水槽の照明を落とした。

 

---

 

「今日、生徒を一人お送りしました。志喜屋さんです」

 

「……ほう」

 

「あの子は、言葉が出るまでに時間がかかる。本人はそれを欠点だと思っております」

 

「言ってやらなかったのですか。欠点ではないと」

 

「言えば、手を入れることになります」

 

言えば、あの子は自分の速さを直そうとする。直そうとすれば、たぶんいまより喋れなくなる。

 

――大抵の魚が死ぬのは、飼主の親切が過ぎるからだ。

 

自分で書いた一行である。書いたときは、魚のことしか考えていなかった。

 

「では、何もおっしゃらなかった」

 

「餌の話をしました」

 

「伝わりましたか」

 

「さあ」

 

松平はそこで、茶碗を置いた。

 

「加瀬さん。今日、一つ、見抜かれました」

 

「ほう」

 

「一拍、置いたそうです。本の話をする前に」

 

加瀬が振り返った。

 

「……あの子がですか」

 

「あの子がです」

 

「二十年、誰にも気づかれなかった間合いを」

 

「気づかれました」

 

加瀬はしばらく黙って、それから低く笑った。

 

「速い者には見えないものが、遅い者には見える」

 

「そういうことのようです」

 

「……厄介ですね」

 

「たいへん、厄介です」

 

松平は湯呑みの縁を撫でた。

 

「あの子は、それを欠点だと思っております。今日、そこだけは申し上げました」

 

「手を入れたではありませんか」

 

「入れました」

 

「侯爵」

 

「一度だけです」

 

加瀬は何も言わなかった。

 

言わないことで、たぶん、許していた。

 

松平は硯を出し、墨を磨りはじめた。

 

「侯爵。あの方に、方角を聞かれませんでしたか」

 

手が、一瞬だけ止まった。

 

「……お聞きになりました」

 

「なんとお答えに」

 

「東の、少し北です」

 

加瀬は答えなかった。

 

代わりに、シャツの下の鎖を一度だけ押さえて、部屋を出ていった。

 

松平は日付の欄に、貝の数と水温を書いた。

 

そのあとに、一行だけ足した。

 

  ――生徒を一人、送る。方角を聞かれた。

 

答えたことは、書かなかった。

 

筆を置いてから、彼はもう一行足した。

 

  ――生徒に、一度だけ手を入れた。

 

書いてから、しばらくその行を見ていた。

 

八十年前、彼は手を入れない側の人間だった。入れれば必ず何かが動く。動いたものは元に戻らない。それを職務として九年やって、最後に国が焼けた。

 

今日は、女子高生一人に「それは能力です」と言っただけである。

 

同じ天秤に載せるようなことではない。

 

載せるようなことではないのだが、指は勝手に動いていた。

 

「……水は、換えないのですが」

 

誰もいない部屋で、彼はそう言った。

 

ポンプの音だけが返ってきた。

 

《均衡された水槽 水は、換えない》

 

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