負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
二次創作/視点:志喜屋夢子・松平康昌
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一
【志喜屋夢子】
「……ここ……どこ」
八月十七日、午後二時。
電車を二駅、乗り過ごした。
わざとではない。窓の外を見ていたら景色が全部同じに見えて、どこで降りるつもりだったのか分からなくなった。
こうなることは割とよくある。だから最近、練習している。バスと電車と自分の足。夏休みのうちに慣れておかないと来年困る。
――来年のことを、考えている。
そう気づいて、少し可笑しくなった。生徒会の仕事では来年の予定を組むのに、自分の来年はいつも後回しになる。
ホームに降りると、日差しが刺さった。
「……あつい」
「……水……ほしい」
言っても、誰もいない。
これには慣れている。
頭の中はそれなりに速いと思う。少なくとも、周りが喋っている速さについていけないほど遅くはない。
問題は、そこから口までの距離である。
考える。言葉にする。息を吸う。声にする。その工程に、私は人よりずいぶん時間がかかる。理由は分からない。子供のころからそうだった。
だから、私が組み立て終わるころには話が次に進んでいる。
――いま、それ、言おうと思ってたのに。
一日に何回か、そう思う。
思うだけで、これも言わない。言い終わるころには、また次の話になっている。
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二
改札を出て、日陰を探して歩いた。
商店街の外れに、窓から青い光が漏れる建物があった。看板の字は掠れている。熱帯魚、と読めた。
自動ドアが、少し遅れて開いた。
「……つめたい」
中は薄暗くて、両側の壁が全部水槽だった。上から下まで四段。青い光がずらりと並び、そのひとつひとつで小さい魚が動いている。
ポンプの音が店じゅうで重なって、雨みたいに聞こえた。
「……ここ……すごく……いい」
暗くて涼しくて青くて、誰も私に話しかけてこない。
こういう場所を、私はずっと探していたのだと思う。
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奥の棚の前に、白いシャツの背中があった。
動かない。
私が水槽を三つ見るあいだ、動かなかった。五つ見るあいだも動かなかった。
近づいて、横から顔を見る。
「……松平先生」
「志喜屋さん」
顔を上げずに、名前を呼ばれた。
「……気づいて……ました?」
「入ってこられたときに」
「……声……かけて……ください」
「かけようとしたのですが、水槽をご覧になっていたので。邪魔をしてはいけません」
先生は棚の箱を一つ取って、こちらに向けた。細長い機械の写真が印刷されている。
「これは、水温を一定に保つ機械です。二十五度に設定すると、二十五度になります」
「……はい」
「下がれば温まり、上がれば止まる。人が見ていなくても、そうなります」
「……見て……なくても」
「見ていなくてもです」
もう一つ箱を取る。
「こちらは水を濾す機械です。回し続けると、水が澄みます」
先生は棚の上の段を見上げた。
そこには照明が並んでいた。細長い板みたいなやつで、値札に消費電力と書いてある。
「これは」
「……ライト……ですよね」
「明るさが変わります。朝と夜も、決められる」
「……はい」
「……全部、機械がやるんですか」
「……たぶん」
先生はしばらく、その棚を見上げていた。
見上げているだけなのに、なんだかすごく長く感じた。
「……先生?」
「失礼しました」
「……ほしいん……ですか」
「ほしいですね」
即答だった。
いつも何を考えているか分からない人が、ライトの棚の前で即答した。
「……先生……くわしい……んですね」
そこまで言うのに、七秒くらいかかった。
先生は、待っていた。
途中で口を挟まなかった。目もそらさなかった。
――待った。
――この人、最後まで待った。
「昔、少し」
先生は箱を棚に戻した。
「その頃は、水温を保つのが、いちばん難しいことでした」
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三
そのあと、私たちは水槽の列を端から順に見て回った。
四十分いて、十回くらいしか喋っていない。
私は、人といると疲れる。
相手が私の返事を待っているのが分かるからだ。待たせていると思うと焦る。焦ると余計に言葉が出てこない。それで相手が「あ、大丈夫だよ」と笑って話題を変える。
みんな優しい。優しいから、こうなる。
この人は水槽を見ながら待っていた。私が喋り出すとそちらを向いた。喋り終わると、また水槽を見た。
それだけのことなのに、息がしやすかった。
「志喜屋さん。これが、エンジェル・フィッシュです」
薄い三角形の魚だった。ひれが長くて、水の中で立っているみたいに見える。
「魚の王様、と呼ばれます。私が決めたのではありません」
「……ちがう魚も……王様って……言われたい……かも」
言い終わるまでに、たっぷり十秒かかった。
先生は最後まで聞いて、それから笑った。
「そうかもしれませんね」
「……いま……変なこと……言いました」
「変ではありません」
「……変です」
「では、面白いことを」
――笑った。
変なことを言ったのに。
いや、たぶん変なことを言ったから笑ったのだと思う。いい笑い方だった。
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小さい水槽の前で、先生が足を止めた。
魚はいない。水草だけが植わっていて、底に巻貝が二つへばりついている。
「……貝?」
「掃除夫です。枯れた草や、余った餌を食べます」
「……食べてる……だけ……ですよね」
「そうです。食べているだけです」
先生は貝を指で示した。
「ですが、これがいる水槽といない水槽では、換水の手間がまるで違います。本人は掃除をしているつもりはないでしょうけれど」
先生は隣の水槽を指した。
小さい水槽に、同じ種類の魚が十匹以上いた。上のほうでかたまってずっと動いている。
「あちらは、少し多いですね」
「……多い?」
「魚が病気になる原因は、三つあります。餌のやりすぎ。水温の急な変化。それから、狭いところに詰めこみすぎること」
「……つめこみ」
「密集といいます。喧嘩をするわけではありません。ただ、逃げる場所がなくなる」
私は、その水槽をしばらく見ていた。
十匹全部が動いていた。誰も、止まっていなかった。
止まると、後ろの魚にぶつかるからだと思う。
ぶつかりたくないから動く。動くから、また誰かの後ろに来る。それを全員が同時にやっている。
「……先生」
「はい」
「……人も……そうですか」
「魚の話です」
「……はい」
言われても、私は生徒会室のことを考えていた。
あの部屋は、そんなに狭くない。人数も六人しかいない。
なのに私は月曜の会議のあと、いつも二時間ほど誰とも喋れなくなる。
――あ。
生徒会に加瀬君を入れたのは私だ。
理由はうまく説明できない。あの子は目立つし、喋るのが上手いし、書くのも速い。でも入れたいと思ったのはそこじゃなかった。
あの子は部屋に入ってくると、まず端に立つ。誰も座らない席に座る。会議で誰も拾わなかった話を、あとで一人で処理している。
「……先生。生徒会に……加瀬君……入れたの……私です」
「存じています」
「……理由……うまく……言えなくて」
「どうぞ」
「……あの子……部屋に入ると……まず……端に立つんです」
「……誰も座らない……席に……座る」
「……会議で……誰も拾わなかった話……あとで……一人で……やってる」
「なるほど」
「……いま……分かりました。掃除夫……です」
先生は貝を見たまま言った。
「よく見ておいでだ」
「……見てる……だけ……です」
「見ているだけの人が、いちばん少ないんですよ」
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四
いちばん奥に、椅子が二つ置いてあった。
なんとなく二人でそこに座った。正面の大きな水槽で、光が水面で揺れている。
「……先生。ちょっと……聞いても……いいですか」
「どうぞ」
息を吸った。
これを言うのに、何日か前から頭の中で組み立てていた気がする。誰かに言うつもりはなかったのに勝手に組み立てていた。
「……私……話すの……遅くて」
「……言おうと……思ったこと……言い終わる……前に」
「……みんな……先に……行っちゃう……んです」
二十秒くらいかかった。
先生は水槽を見たまま、こう言った。
「餌は、多過ぎるより、少な過ぎるほうがいいんですよ」
「……え」
「魚が死ぬのは、たいてい飼主の親切が過ぎたときです。心配して、余計にやってしまう」
先生は水槽を指した。
「あれは、水を換えていません。水草が酸素を出し、貝が汚れを食べて、釣り合っている。こうなった水は、いじらないほうがいい」
「……いじらない」
「均衡された水槽、と言います」
そこで初めて、先生は私のほうを見た。
「手を入れたくなるんですけれどね。何もしていないと、心配になるので」
「……先生。それ……なんの……話ですか」
「魚の話です」
「……ほんとに?」
「ほんとうに、魚の話です」
微笑まれた。
私は、返事ができなかった。
いつもの、口が遅いのとは違った。
たぶんこの人は魚の話しかしていない。魚の話しかしていないのに、私は返事に困っている。
「……先生は……ずるい……です」
「よく言われます」
――加瀬君と、同じこと言った。
――この二人、絶対、なにかある。
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五
レジで、先生は巻貝を三つ買った。
袋に水を入れて、店主が輪ゴムで縛る。五十歳くらいの人だ。腕にタオルをかけている。
「お客さん、詳しいねえ」
「そうでもありません」
「いや、さっきの説明、うちの店員より上手いよ。同業の方?」
「いいえ」
「じゃあ飼育歴が長いんだ。何年?」
「……本を一冊、書いたことがあります」
――え。
「え、なんの本?」
「熱帯魚の飼い方です」
「うそでしょ。お若いのに」
「もう、絶版です」
「はは、そりゃ残念だ。今度うちに置かせてよ」
「置ける在庫がありません」
「じゃあ古本屋だな」
「探されますか」
「探すよ。何年の本?」
「……昭和七年です」
「昭和!? お客さん、それ、おじいさんの本でしょ」
「そういうことにしておきます」
店主は笑った。冗談だと思ったのだと思う。私も、そういうことにしておいたほうがいい気がした。
でも、見てしまった。
先生が答えるまでに、一拍あったのを。
いつも一拍も置かないで喋る人が、そこだけ置いた。
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店を出る前に、私は言った。
言うのに、十五秒くらいかかった。
「……先生」
「はい」
「……さっき……一拍……置きましたね」
先生の手が、袋の口のところで止まった。
「……何のことでしょう」
「……本を……書いたって……言う……前です」
「……」
「……いつもの……先生なら……置かない……ところ……でした」
長い間があった。
先生はこういうとき、たいてい微笑む。今日は微笑まなかった。
「志喜屋さん」
「……はい」
「よくお気づきになりました」
「……私……話すの……遅いので」
「はい」
「……だから……人が……一拍……置いたのが……分かるんです」
私は、言葉を探した。
探して、たぶん初めて自分でその形に気づいた。
「……速い人は……気づかないと……思います」
「……そうでしょうね」
「……先に……次の話に……行ってるので」
先生は袋を持ち直した。
「志喜屋さん」
「……はい」
「それは、能力です」
「……のうりょく」
「速く喋る訓練は、いくらでもあります。人の間を聞き取る訓練は、ありません」
「……」
「あれは、遅い人しか身につきません」
私は、返事ができなかった。
十六年、これは直すものだと思っていた。
小学校の先生も中学の先生もそう言った。もっと大きい声で。もっとはっきり。落ち着いて、ゆっくりでいいから。ゆっくりでいいと言う人は、たいてい三秒しか待たない。
直そうとして、直らなくて、そのうち直らないほうが自分なのだと決めた。決めただけである。良いものだとは一度も思わなかった。
良いものだと言われたのは今日が初めてである。しかも、この街でいちばん読めない人が読まれた側から言っている。
いつもの、口が遅いのとは違った。
十五秒経っても、二十秒経っても、何も出てこなかった。
「……先生」
「はい」
「……いま……手を……入れましたね」
先生が、目を丸くした。
初めて見る顔だった。
「……参りました」
そう言って、この人は、笑った。
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六
店を出ると、外はまだ明るかった。
「志喜屋さん。駅は、あちらです」
「……はい」
「送りますよ。車で来ています」
「……いえ……あの」
断ろうと思った。言葉を組み立てはじめて、五秒くらいしてやめた。
暑かったし、駅の名前を思い出せていなかったし、それに。
――この人なら、待ってくれる。
「……お願い……します」
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車の中は、驚くほど静かだった。
曲がるときに体が振られない。信号で止まるときも、いつ止まったのか分からない。
「……先生……運転……上手ですね」
「昔、上手な方に習いました」
「……その人も……ずるい……人ですか」
「あの人は、私よりずるいです」
「……こわい」
先生が小さく笑った。
「志喜屋さん。よく、道に迷われますか」
「……はい」
「では、方角を一つだけ決めておくといい。駅でも、川でも、海でもいい。あれがあちらにある、と一つ決めておけば、迷っても戻れます」
「……地図は」
「地図は、自分がどこにいるか分かっている人の道具です」
「……あ」
「分からなくなった人に要るのは、地図ではありません。一つだけ動かないものです」
「……ひとつ……だけ」
「二つ決めると、迷います。三つ決めると、動けなくなります」
「……先生も……決めてます?」
「決めています」
「……どっち……ですか」
信号が赤になった。
車が、音もなく止まった。
「東の、少し北です」
「……そこに……なにが」
信号が青になった。
車が動き出す。
「志喜屋さん、次の角は右でしたか」
「……あ……はい」
聞きそびれた。
いつものことである。
でも、今日はあまり悔しくなかった。
「……先生。こんど……また……聞きます」
「どうぞ」
「……逃げないで……ください」
「善処します」
「……それ……逃げてます」
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七
【Intermission 絶版】
一九三二年、松平康昌は『熱帯産観賞魚の飼ひ方』という小冊子を著している。発行は銀座千疋屋本店。定価四十銭。
「ただいま戻りました。侯爵、どちらへ」
「魚屋です」
「またですか」
「貝を買ってまいりました」
松平は袋の口を開け、水槽の縁にそっと沈めた。三つともすぐにガラスへ吸いついて動き出す。
加瀬俊一が横に立って、覗きこんだ。
「働きますねえ、こいつらは」
「働いているつもりはないでしょう」
「そこがいい」
ヒーターの目盛りは二十五度で止まっている。人が見ていなくても、そうなる。
「加瀬さん。私は本に、水温を保つのが最も難しいと書きました」
「拝読しました」
「読んだのですか」
「押しつけてこられたのです」
「差し上げたはずですが」
「三冊も、ですか」
「余っておりましたので」
「絶版の理由が分かりました」
八十年前、彼は温度計と湯を足す手とゴム管でこれをやっていた。夜に冷える。冬に落ちる。誰かが毎日、必ず見ていなければならなかった。
今日、棚の箱にはこう書いてあった。設定温度を自動で維持します。
「あれが、千円あまりの箱になっておりました。誰も難しいとは思っておりません」
「難しかったことを、誰も覚えていない」
「そういうことです」
しばらく、ポンプの音だけがした。
「侯爵。巻頭のホームズの警句、あれは冗談でしょう」
「気づきましたか」
「八十年かかって、私が一人目ですか」
「二人目です。一人目は妻でした」
加瀬は何も言わずに、水槽の照明を落とした。
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「今日、生徒を一人お送りしました。志喜屋さんです」
「……ほう」
「あの子は、言葉が出るまでに時間がかかる。本人はそれを欠点だと思っております」
「言ってやらなかったのですか。欠点ではないと」
「言えば、手を入れることになります」
言えば、あの子は自分の速さを直そうとする。直そうとすれば、たぶんいまより喋れなくなる。
――大抵の魚が死ぬのは、飼主の親切が過ぎるからだ。
自分で書いた一行である。書いたときは、魚のことしか考えていなかった。
「では、何もおっしゃらなかった」
「餌の話をしました」
「伝わりましたか」
「さあ」
松平はそこで、茶碗を置いた。
「加瀬さん。今日、一つ、見抜かれました」
「ほう」
「一拍、置いたそうです。本の話をする前に」
加瀬が振り返った。
「……あの子がですか」
「あの子がです」
「二十年、誰にも気づかれなかった間合いを」
「気づかれました」
加瀬はしばらく黙って、それから低く笑った。
「速い者には見えないものが、遅い者には見える」
「そういうことのようです」
「……厄介ですね」
「たいへん、厄介です」
松平は湯呑みの縁を撫でた。
「あの子は、それを欠点だと思っております。今日、そこだけは申し上げました」
「手を入れたではありませんか」
「入れました」
「侯爵」
「一度だけです」
加瀬は何も言わなかった。
言わないことで、たぶん、許していた。
松平は硯を出し、墨を磨りはじめた。
「侯爵。あの方に、方角を聞かれませんでしたか」
手が、一瞬だけ止まった。
「……お聞きになりました」
「なんとお答えに」
「東の、少し北です」
加瀬は答えなかった。
代わりに、シャツの下の鎖を一度だけ押さえて、部屋を出ていった。
松平は日付の欄に、貝の数と水温を書いた。
そのあとに、一行だけ足した。
――生徒を一人、送る。方角を聞かれた。
答えたことは、書かなかった。
筆を置いてから、彼はもう一行足した。
――生徒に、一度だけ手を入れた。
書いてから、しばらくその行を見ていた。
八十年前、彼は手を入れない側の人間だった。入れれば必ず何かが動く。動いたものは元に戻らない。それを職務として九年やって、最後に国が焼けた。
今日は、女子高生一人に「それは能力です」と言っただけである。
同じ天秤に載せるようなことではない。
載せるようなことではないのだが、指は勝手に動いていた。
「……水は、換えないのですが」
誰もいない部屋で、彼はそう言った。
ポンプの音だけが返ってきた。
《均衡された水槽 水は、換えない》