負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第34話 2巻1敗目 八奈見視点 素麺の使者

二次創作/視点:八奈見杏菜

 

【八奈見杏菜】

 

「素麺、いりませんか」

 

「うち、間に合ってるのよ。ごめんね」

 

「あ、はい。失礼しましたー」

 

三軒目である。

 

門扉がかちゃりと閉まる音を背中で聞きながら、私は紙袋を持ち直した。

 

八月二十日、午前十時四十分。気温はたぶん三十四度。アスファルトが下から焼いてくる。

 

――間に合ってる、って。

 

素麺に間に合うも間に合わないもないでしょ。素麺は水物じゃないんだから。乾麺は二年もつんだから。二年後の自分に間に合わせるって発想はないの。

 

……いや、ある。うちにはある。

 

うちの父が勤め先から夏のボーナスを素麺で受け取ってきたのは七月の終わりで、それから我が家の廊下には段ボールの壁ができている。母は三日で怒るのをやめた。怒っても麺は減らないからだ。

 

私は減らそうと思った。

 

思ったので、こうして配って歩いている。

 

「……これ、親孝行だからね」

 

誰にともなく声に出した。

 

親孝行以外の理由は、ない。ないったら、ない。家にいたくないとか、そういうんじゃないから。ぜんぜん。

 

紙袋がずっしり重い。汗が背中を流れる。喉が変な感じにひりつく。

 

私は次の角を曲がって、そこで足を止めた。

 

視界がぐらっとした。

 

「……あれ」

 

「危ない」

 

腕を掴まれた。

 

---

 

 

「……松谷君?」

 

自転車ではなく、徒歩だった。紙袋を提げている。中身はコピーの束らしい。

 

「顔色が悪い」

 

「暑いだけだって」

 

「水を飲んだか」

 

「飲んだよ。ペットボトル一本」

 

「足りない」

 

松谷君はポケットから小さな筒を出した。中から白い錠剤を二つ出して、手のひらに載せて差し出してくる。

 

「塩だ」

 

「え、なにそれ怖い」

 

「塩だ」

 

「怖いって」

 

「塩化ナトリウムだ」

 

「余計こわいよ!」

 

真夏の道端である。同級生の男子が謎の白い錠剤を手のひらに載せて立っている。絵面が完全に事案だった。

 

「水だけでは戻らない。汗で出ているのは水だけではないからだ」

 

「そういうのいいから」

 

「よくない」

 

「はいはい」

 

「はい、は一度でいい」

 

「言い方!」

 

この人はこういうところがある。

 

こっちが会話を切りにいっても切らせてくれない。ふつうは「まあいいや」で引くところを引かない。むかつく。

 

……ちょっとだけ、新鮮でもある。

 

私は根負けして錠剤を受け取った。

 

口に入れる。しょっぱい。ほんとにしょっぱい。

 

「まずい」

 

「うまいものではない」

 

「そこ、否定しないんだ」

 

「事実だ」

 

弁解しない人である。

 

でも三分くらいしたら、頭のふわふわが消えていた。

 

「……あのさ」

 

「なんだ」

 

「なんでこんなの持ち歩いてるの」

 

「携行するものだ」

 

「誰が」

 

「……夏は、誰でもだ」

 

答えになっていない。

 

なっていないけど、私はそれ以上聞かなかった。ここで踏みこむと、たぶん長くなる。

 

代わりに、紙袋を持ち上げて突き出した。

 

「じゃあ、これ持って」

 

「なぜだ」

 

「介抱した人の責任だから」

 

「そういう規則はない」

 

「あるよ」

 

「ない」

 

「じゃあ、いま作る」

 

松谷君は三秒くらい黙って、それから紙袋を受け取った。

 

……あ、持った。

 

この人、理屈で押すと折れないくせに、無茶を言うとわりとあっさり持つ。覚えておこう。

 

---

 

 

「どこへ行く」

 

「温水君ち。次はそこなの」

 

「温水の家を知っているのか」

 

「部の緊急連絡網に載ってたから。行くよーってLINEも送ったし」

 

「返事は」

 

「ない」

 

「既読は」

 

「ついてない」

 

「では、相手は来訪を知らないな」

 

「あの子、通知って機能を知らないんだと思う」

 

松谷君は紙袋を二つ提げても歩き方が変わらない。姿勢がまっすぐすぎて、荷物のほうが申し訳なさそうにしている。

 

「これは、なんだ」

 

「素麺。うちの父さんの給料」

 

「……給料」

 

「ボーナスがまるごと素麺で出たの。笑うでしょ」

 

笑わなかった。

 

歩きながら、この人はしばらく黙っていた。

 

「受け取らない選択はあったのか」

 

「え?」

 

「断れたのか。現金でくれと言えたのか」

 

「……たぶん、言えないよ。会社だし」

 

「では、笑い話ではない」

 

私は立ち止まりかけた。

 

「いや、笑い話だって。うちの父さんの話なんだから、私が笑っていいの」

 

「それは別の問題だ」

 

「別じゃないでしょ。うちの家の話だよ」

 

「家の話であることと、笑ってよいことは、両立しない」

 

「なにその理屈!」

 

私は本気でむっとした。

 

だってこれ、私が三週間かけて笑い話に加工したやつなんだけど。加工しないと廊下の段ボールを毎日またげないんだけど。

 

「……松谷君さあ」

 

「なんだ」

 

「ふつうさ、こういうときは、大変だねーって言うんだよ」

 

「大変だとは思う」

 

「じゃあそう言ってよ」

 

「言った」

 

「言ってない! いま初めて言った!」

 

「……そうか」

 

真顔だった。

 

この人、本当に、いま初めて気づいた顔をしている。

 

――なんだろう、この人。

 

腹は立つのに、話を軽く流されてる感じが一ミリもしない。

 

それはちょっと、困る。

 

「じゃあ聞くけどさ」

 

私は日陰を選んで歩きながら言った。

 

「松谷君は、自分のことは笑うの?」

 

「笑わない」

 

「即答じゃん」

 

「笑うほどのことがない」

 

「そういう意味じゃないんだけど」

 

「では、どういう意味だ」

 

聞かれた。

 

真面目に聞かれると、こっちが逃げ場をなくす。この人のいちばん厄介なところである。

 

私は、なんとなく、言ってしまった。

 

「……私さ、失恋したんだよね。六月に」

 

「知っている」

 

「うわ、即答」

 

「その場にいた」

 

「……いたね」

 

「二つ隣の席に」

 

「席の位置まで覚えてなくていいから!」

 

「忘れる努力はしている」

 

「二か月でそれなの!?」

 

そうだった。この人は聞いた側じゃなくて、見た側だった。ストローのところまで、ぜんぶ。

 

「まあいいや。それでさ」

 

私は袋の持ち手を持ち替えた。

 

「それも、笑い話にしてるの、私」

 

「知っている」

 

「駄目?」

 

松谷君は、少し歩いてから答えた。

 

「駄目ではない」

 

「じゃあいいじゃん」

 

「ただ、笑い話にできるのは、終わったものだけだ」

 

私は、足を止めかけた。

 

止めなかった。止めたら、認めたことになる気がしたから。

 

「……終わってるよ」

 

「では、いい」

 

あっさり引かれた。

 

引かれたのに、なぜか、こっちが押し返されている感じがした。

 

---

 

「一つ、言っていいか」

 

「なに」

 

「一度も負けたことのない国は、たいてい弱い」

 

「……は?」

 

「歴史の話だ」

 

松谷君は前を見たまま言った。

 

「長く続いた国は、どこも数回、負けている。負けて、こたえて、それから強くなる。一度も負けていない国は、負け方を知らないまま最初の一敗を迎えることになる」

 

「……なにそれ」

 

「事実だ」

 

「慰めてよ、そこは」

 

「慰めは、俺の職掌ではない」

 

「職掌!」

 

私は思わず立ち止まった。

 

「なに、その言い方。職掌って。会社員?」

 

「……言い方の問題だ」

 

「言い方の問題じゃないよ、絶対」

 

松谷君は答えなかった。

 

代わりに、もう一つ言った。

 

「ただし、順番が決まっている」

 

「順番?」

 

「負けたと認めてからでないと、次は始まらない」

 

私は袋を持ち直した。

 

持ち直す必要は、なかった。

 

「認めないうちは、まだ同じ戦をしている。同じ戦をしているあいだは、何をしても同じところに戻ってくる」

 

蝉が鳴いていた。

 

アスファルトが白く光っていて、松谷君の影だけがまっすぐ落ちている。

 

「……お腹すいた」

 

「話をそらしたな」

 

「そらしてないよ。ほんとにすいてるもん」

 

「そうか」

 

「ほんとだって」

 

「そうか」

 

二回言われた。

 

二回目のほうが、なんか、優しかった。

 

それが、いちばん腹立たしかった。

 

---

 

「量はどれくらいある」

 

「えーと、うちの廊下が埋まるくらい。三十万円分だって父さんは言ってた」

 

松谷君の足が、半歩ぶん遅れた。

 

「……三十万」

 

「うん」

 

「そうか」

 

それきり、何も言わなかった。

 

――あ、同情された。

 

たぶん、三十万円分の麺を抱えた家族を気の毒に思ったんだと思う。まあ、気の毒ではある。うん。

 

「配る順は決めてあるか」

 

「順?」

 

「訪問する家の順序だ」

 

「気分」

 

「気分」

 

「近いとこから、なんとなく」

 

松谷君は歩きながら手帳を出した。

 

「近い順は、最も効率が悪い。断られる家を先に回れ」

 

「なんで!?」

 

「断られた分を、あとの家に上乗せできる。逆だと最後に余る」

 

「余ってもいいじゃん」

 

「余った場合、君はもう一度同じ道を歩くことになる」

 

「……あ」

 

言われてみればそうだった。今日すでに三軒断られていて、私は同じ袋をまだ提げている。

 

「ちょっと、それ見せて」

 

「まだ書いている」

 

「書いてるの!?」

 

覗きこむと、手帳に線が引かれていた。定規なんて持ってないはずなのに、まっすぐな線だった。

 

  配布先 優先順位

  一、既に断られた家(再訪不可)

  二、家族数の多い家

  三、その他

 

「なんで私の素麺に計画表ができてるの」

 

「配給には名簿が要る」

 

「配給じゃないから!」

 

「……頒布だ」

 

「言い直しても変だからね」

 

私は手帳を奪おうとした。松谷君は手帳をひょいと持ち上げた。背が私より少し高いだけなのに、この持ち上げ方は完全にずるい。

 

「返してよ」

 

「まだ二行ある」

 

「二行!?」

 

そうやって押し問答をしているうちに、私たちは温水君の家に着いた。

 

---

 

 

「はい、どちら様――」

 

出てきたのは、中学生くらいの女の子だった。

 

私を見て、笑顔になって、松谷君を見て、笑顔のまま固まった。

 

「……お二人、で?」

 

「あ、八奈見です。温水君のクラスの」

 

「松谷だ」

 

「……少々、お待ちください」

 

女の子は素早くドアを閉めた。

 

中でドタドタと音がする。何かを畳んでいる音と、階段を駆け上がる音。

 

「……なんか、慌ててない?」

 

「慌てている」

 

「なんで?」

 

「分からん」

 

三分後、ドアが開いた。

 

さっきの子が、制服に着替えていた。

 

真夏の日曜に。家の中で。

 

「お待たせしました。妹の佳樹と申します。どうぞお上がりください」

 

「……あの、お構いなく」

 

「構います」

 

構われた。

 

通されたリビングは冷房が効いていて、私は生き返った。

 

そして、テーブルの上に鍋があった。

 

「カレーです。昨日のですが」

 

「二日目じゃん」

 

「はい、二日目です」

 

「……二日目のカレーってさ」

 

「一番おいしいです」

 

「分かってる子だ!」

 

私は完全に降参した。

 

気づいたら皿を受け取っていた。松谷君も受け取っていた。この人は勧められると断らない。断る理屈を持っていないんだと思う。

 

しばらく、スプーンの音だけがした。

 

温水君の家のカレーは、うちのより少し甘い。玉ねぎを長く炒めた甘さだ。二日目でルウが落ち着いて、じゃがいもの角が丸くなっている。私はこの角の取れ方が好きである。

 

松谷君は綺麗に食べる。音を立てない。皿に一粒も残さない。

 

食べ終わって、佳樹ちゃんが水を注ぎながら聞いた。

 

「お口に合いましたか」

 

「……ああ」

 

「どうでした?」

 

「……」

 

「松谷君?」

 

「……熱量として、十分だ」

 

「ちょっと待って」

 

私はスプーンを置いた。

 

「感想。感想を言いなよ」

 

「言った」

 

「言ってない! カロリーの話しかしてない!」

 

「うまいと言えばいいのか」

 

「そうじゃなくて!」

 

「では、どう言えばいい」

 

真剣に聞かれた。

 

真剣に聞かれると、こっちが困る。

 

「……そういうのは、自分で考えるとこでしょ」

 

「考えている」

 

「考えて出てきたのがカロリーなの!?」

 

「……分からない」

 

松谷君はコップを持ったまま、少し黙った。

 

「うまいかどうかが、分からないんだ。ずっと分からない。食えるかどうかしか、頭に浮かばない」

 

リビングが、静かになった。

 

佳樹ちゃんが水差しを置く音がした。

 

――え。

 

私はスプーンを持ち直した。

 

なんて言えばいいのか、分からなかった。

 

「……じゃあ、食えるかどうかで言うと?」

 

「食える」

 

「二日目だけど」

 

「二日目のほうが、味が」

 

そこで、この人は止まった。

 

自分で言いかけて、自分で驚いた顔をしていた。

 

「……ほら」

 

私は笑った。

 

「いま、味の話したよ」

 

「……した」

 

「したね」

 

「……したな」

 

佳樹ちゃんが、こっそり水をもう一杯注いだ。

 

---

 

 

「では、面接を始めます」

 

「面接!?」

 

佳樹ちゃんはレポート用紙とボイスレコーダーを持ってきていた。

 

準備がいい。準備がよすぎる。

 

「まず松谷様」

 

「俺からか」

 

「参考人です」

 

「参考人」

 

「兄の学校での様子を伺います。出席状況は」

 

「五月以降、欠席一日。六月十九日」

 

「早退は」

 

「二回。いずれも保健室経由」

 

「部活動の実態は」

 

「文芸部。活動時間は放課後の一時間から二時間。主に読書。執筆はしていない」

 

「……お兄様」

 

佳樹ちゃんがペンを止めた。

 

「執筆、していないんですか」

 

「いや、部誌の締切があるらしいけど」

 

「進捗は零枚だ」

 

「なんで知ってんの!?」

 

「同じ部だ」

 

私はレポート用紙を覗きこんだ。びっしり埋まっている。行と行のあいだに補足まで書きこまれていて、これはもう面接というより取り調べの記録だった。

 

「ちょっと、なんでこの人こんなに詳しいの。私、温水君の欠席日数なんて知らないよ」

 

「数えているだけだ」

 

「数えるほうが怖いから」

 

「では、最後に一つ」

 

佳樹ちゃんが顔を上げた。

 

「松谷様は、兄をどう思っていらっしゃいますか」

 

来た。

 

私は正直、ちょっと身構えた。ここは普通、いいやつですよとか、面白いですよとか、そういうのを言う場面である。

 

松谷君は、しばらく考えた。

 

長かった。

 

「……あの男は、扉を開ける」

 

「扉」

 

「閉じているものを見ると、開けてしまう。損だと分かっていても開ける。俺の知っている限り、四回」

 

「……はあ」

 

「勘定に合わないことをやる人間は、少ない」

 

佳樹ちゃんが、黙った。

 

私も黙った。

 

ボイスレコーダーの赤いランプだけが光っている。

 

「……あの、それ、褒めてます?」

 

「事実を言った」

 

「褒め方が下手すぎる」

 

「よく言われる」

 

そのとき、玄関で音がした。

 

---

 

 

足音が、三和土で止まった。

 

止まって、動かない。

 

……長い。

 

そこそこ長い。

 

玄関には私のスニーカーと、松谷君の靴が並んでいる。あの子はいま、あそこで一生懸命に、この二足の意味を考えているのだと思う。考えても答えは出ないと思う。私だって出ない。

 

「ただいま」

 

リビングに入ってきた温水君は、私を見て、松谷君を見て、テーブルの上のカレーの皿を見て、動きを止めた。

 

「やっほー」

 

私はスプーンを持ったまま手を振った。

 

「……なんでいるの」

 

「素麺配りに来た。行くよってLINEしたよ、三回」

 

「え」

 

「見てないでしょ」

 

「……」

 

「あと、松谷君は荷物持ち」

 

「なんで松谷まで!?」

 

「介抱した人の責任だ」

 

「なにその責任!?」

 

温水君は本を一冊、手に持っていた。書店のカバーがかかっている。

 

私はそれを見逃さなかった。

 

「なに買ったの?」

 

「なんでもない」

 

「見せてよ」

 

「なんでもないって」

 

「ふーん」

 

私が手を伸ばすより早く、松谷君が温水君の手元を真顔で覗きこんだ。

 

「その紙は、なんだ」

 

「書店のカバー」

 

「表紙を隠す道具か」

 

「隠すためのものじゃない!」

 

「では、外せるな」

 

「外せない!」

 

「隠すためではないのだろう」

 

「聞くな!」

 

「聞いていない。確認している」

 

温水君が本を抱えて後ずさりした。顔が赤い。

 

私はしばらく笑い転げていた。

 

正直、中身は見ていない。見ていないけど、あの慌てぶりだけで十分すぎるほど元は取れた。人の弱点というのは、本体より反応のほうに出る。これは私が十七年かけて学んだ数少ない真理である。

 

「あ、ついでに言うけど、今朝のも見てないでしょ」

 

「今朝の?」

 

「明日、臨時部会だって。玉木部長から」

 

「聞いてないんだけど」

 

「見てないだけだよ」

 

「受領済みだ」

 

松谷君がスマホを出した。

 

画面を覗くと、返信が表示されていた。

 

  『受領。出席する。松谷』

 

「……電報?」

 

「返信だ」

 

「毎回これなの?」

 

「様式は統一している」

 

「様式!」

 

温水君が頭を抱えていた。私は笑いすぎてカレーの匂いでむせた。

 

---

 

 

「そろそろ行く」

 

松谷君が立ち上がった。

 

「資料を返さねばならん」

 

「あ、じゃあこれ持ってって」

 

私は素麺を三束、紙に包んで押しつけた。

 

松谷君は両手で受け取って、それから困った顔をした。

 

「これは、贈答か」

 

「そうだけど」

 

「では、返礼が要る」

 

「いらないよ」

 

「要る」

 

「いらないって!」

 

「……いくらだ」

 

「聞かない!」

 

この人は本気で計算しようとしている。

 

私は思い出して、鞄から紙を引っぱり出した。折り目のついた、あの一枚である。

 

「あのさ。これ、まだ署名してないんだけど」

 

    借 用 証 書(第二号・案)

 

「してもらっていない」

 

「するわけないでしょ、もろきゅうサンドの製法を貸すって書いてあるんだよ」

 

「無形の目的物は分割返済に馴染む」

 

「そこじゃない!」

 

「では、素麺で置き換えるか」

 

「置き換えないでよ!」

 

「……検討する」

 

「しなくていいから!」

 

玄関で靴を履きながら、松谷君は最後にこう言った。

 

「八奈見」

 

「なに」

 

「配る順は、書いておいた」

 

「勝手に!」

 

「破ってよい」

 

そう言って、この人は帰っていった。

 

私は窓から見送った。

 

日差しの中を、まっすぐ歩いていく。角を曲がるときも姿勢が崩れない。荷物を持ってもらったのはこっちなのに、なんであんなに背中が真面目なんだろう。

 

――そういえば。

 

あの人、今月に入ってから、ちょっと変だ。

 

いつも変な人だけど、いつもと違う種類で変というか。

 

十五日にも、部室で何かあったって小鞠ちゃんが言いかけて、途中でやめた。

 

……まあ、いいや。

 

聞いたら長くなるやつだ。私はそういうのを、なんとなく分かるようになってきた。

 

《借用証書 第二号・案 署名欄 依然として空白》

 

---

 

 

「梨、召し上がりますか」

 

「食べる」

 

即答した。

 

佳樹ちゃんが出してきたのは、皮を剥いて切った梨だった。皿に扇形に並べてある。

 

「小島の梨です」

 

「わ、この時期にもう出てるんだ」

 

「早いものは、お盆過ぎから出ますよ」

 

一口食べて、私は目を閉じた。

 

冷たい。硬い。歯を入れた瞬間に水が出る。

 

――夏だ。

 

いや、これは夏の終わりの味だ。素麺は夏の真ん中の味で、梨は終わりの味である。私はそういうのを味で覚えている。

 

縁側のほうで、温水君が空を見上げていた。

 

「なんか、雲の形が変わってきたな」

 

「え?」

 

「入道雲じゃなくなってる。あと、ひぐらしが鳴いてる」

 

「そうだね」

 

「秋が近付いてるんだよ」

 

私は梨をもう一切れ取った。

 

「梨の季節だね」

 

「そういう話じゃないんだけど」

 

「そういう話だよ。梨のあとは栗で、栗のあとは柿だから。秋って三段階なんだよ」

 

「季節の感じ方が全部食い物じゃん」

 

「他になにがあるの?」

 

温水君が呆れた顔をした。

 

呆れた顔をしながら、梨に手を伸ばしていた。

 

――ふうん。

 

私はそれを横目で見ながら、三切れ目を確保した。

 

配って歩いてるだけなのに、なんでちょっと楽しかったんだろ。

 

三軒も断られたのに。汗だくになったのに。変な錠剤まで飲まされたのに。

 

答えは出さないでおいた。

 

出すと、たぶん、めんどくさいことになる気がしたので。

 

---

 

……そういえば。

 

負けたと認めてからでないと次は始まらない、って。

 

あれ、認めてない人に言う台詞だよね。

 

私は梨の最後の一切れを取った。

 

認めてるってば。六月に泣いたし、七月にいっぱい食べたし、八月に入ってからは笑い話にできるようになった。ちゃんと段階を踏んでる。

 

踏んでるのに、なんで、あんなにあっさり「では、いい」って言われたんだろう。

 

引き下がられたのに、負けた気がする。

 

「……あの人、絶対、性格悪い」

 

「誰が」

 

「なんでもない」

 

---

 

夕方、紙袋は空になっていた。

 

順番を変えたら、きれいに配り終わった。

 

……あの手帳、破らなくてよかったかもしれない。

 

新学期まで、あと十日ある。

 

十日もあれば、なんにも起きないでしょ。

 

――そう思っていた自分を、私はこのあと、何度も思い出すことになる。

 

---

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