負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
二次創作/視点:八奈見杏菜
【八奈見杏菜】
「素麺、いりませんか」
「うち、間に合ってるのよ。ごめんね」
「あ、はい。失礼しましたー」
三軒目である。
門扉がかちゃりと閉まる音を背中で聞きながら、私は紙袋を持ち直した。
八月二十日、午前十時四十分。気温はたぶん三十四度。アスファルトが下から焼いてくる。
――間に合ってる、って。
素麺に間に合うも間に合わないもないでしょ。素麺は水物じゃないんだから。乾麺は二年もつんだから。二年後の自分に間に合わせるって発想はないの。
……いや、ある。うちにはある。
うちの父が勤め先から夏のボーナスを素麺で受け取ってきたのは七月の終わりで、それから我が家の廊下には段ボールの壁ができている。母は三日で怒るのをやめた。怒っても麺は減らないからだ。
私は減らそうと思った。
思ったので、こうして配って歩いている。
「……これ、親孝行だからね」
誰にともなく声に出した。
親孝行以外の理由は、ない。ないったら、ない。家にいたくないとか、そういうんじゃないから。ぜんぜん。
紙袋がずっしり重い。汗が背中を流れる。喉が変な感じにひりつく。
私は次の角を曲がって、そこで足を止めた。
視界がぐらっとした。
「……あれ」
「危ない」
腕を掴まれた。
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二
「……松谷君?」
自転車ではなく、徒歩だった。紙袋を提げている。中身はコピーの束らしい。
「顔色が悪い」
「暑いだけだって」
「水を飲んだか」
「飲んだよ。ペットボトル一本」
「足りない」
松谷君はポケットから小さな筒を出した。中から白い錠剤を二つ出して、手のひらに載せて差し出してくる。
「塩だ」
「え、なにそれ怖い」
「塩だ」
「怖いって」
「塩化ナトリウムだ」
「余計こわいよ!」
真夏の道端である。同級生の男子が謎の白い錠剤を手のひらに載せて立っている。絵面が完全に事案だった。
「水だけでは戻らない。汗で出ているのは水だけではないからだ」
「そういうのいいから」
「よくない」
「はいはい」
「はい、は一度でいい」
「言い方!」
この人はこういうところがある。
こっちが会話を切りにいっても切らせてくれない。ふつうは「まあいいや」で引くところを引かない。むかつく。
……ちょっとだけ、新鮮でもある。
私は根負けして錠剤を受け取った。
口に入れる。しょっぱい。ほんとにしょっぱい。
「まずい」
「うまいものではない」
「そこ、否定しないんだ」
「事実だ」
弁解しない人である。
でも三分くらいしたら、頭のふわふわが消えていた。
「……あのさ」
「なんだ」
「なんでこんなの持ち歩いてるの」
「携行するものだ」
「誰が」
「……夏は、誰でもだ」
答えになっていない。
なっていないけど、私はそれ以上聞かなかった。ここで踏みこむと、たぶん長くなる。
代わりに、紙袋を持ち上げて突き出した。
「じゃあ、これ持って」
「なぜだ」
「介抱した人の責任だから」
「そういう規則はない」
「あるよ」
「ない」
「じゃあ、いま作る」
松谷君は三秒くらい黙って、それから紙袋を受け取った。
……あ、持った。
この人、理屈で押すと折れないくせに、無茶を言うとわりとあっさり持つ。覚えておこう。
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三
「どこへ行く」
「温水君ち。次はそこなの」
「温水の家を知っているのか」
「部の緊急連絡網に載ってたから。行くよーってLINEも送ったし」
「返事は」
「ない」
「既読は」
「ついてない」
「では、相手は来訪を知らないな」
「あの子、通知って機能を知らないんだと思う」
松谷君は紙袋を二つ提げても歩き方が変わらない。姿勢がまっすぐすぎて、荷物のほうが申し訳なさそうにしている。
「これは、なんだ」
「素麺。うちの父さんの給料」
「……給料」
「ボーナスがまるごと素麺で出たの。笑うでしょ」
笑わなかった。
歩きながら、この人はしばらく黙っていた。
「受け取らない選択はあったのか」
「え?」
「断れたのか。現金でくれと言えたのか」
「……たぶん、言えないよ。会社だし」
「では、笑い話ではない」
私は立ち止まりかけた。
「いや、笑い話だって。うちの父さんの話なんだから、私が笑っていいの」
「それは別の問題だ」
「別じゃないでしょ。うちの家の話だよ」
「家の話であることと、笑ってよいことは、両立しない」
「なにその理屈!」
私は本気でむっとした。
だってこれ、私が三週間かけて笑い話に加工したやつなんだけど。加工しないと廊下の段ボールを毎日またげないんだけど。
「……松谷君さあ」
「なんだ」
「ふつうさ、こういうときは、大変だねーって言うんだよ」
「大変だとは思う」
「じゃあそう言ってよ」
「言った」
「言ってない! いま初めて言った!」
「……そうか」
真顔だった。
この人、本当に、いま初めて気づいた顔をしている。
――なんだろう、この人。
腹は立つのに、話を軽く流されてる感じが一ミリもしない。
それはちょっと、困る。
「じゃあ聞くけどさ」
私は日陰を選んで歩きながら言った。
「松谷君は、自分のことは笑うの?」
「笑わない」
「即答じゃん」
「笑うほどのことがない」
「そういう意味じゃないんだけど」
「では、どういう意味だ」
聞かれた。
真面目に聞かれると、こっちが逃げ場をなくす。この人のいちばん厄介なところである。
私は、なんとなく、言ってしまった。
「……私さ、失恋したんだよね。六月に」
「知っている」
「うわ、即答」
「その場にいた」
「……いたね」
「二つ隣の席に」
「席の位置まで覚えてなくていいから!」
「忘れる努力はしている」
「二か月でそれなの!?」
そうだった。この人は聞いた側じゃなくて、見た側だった。ストローのところまで、ぜんぶ。
「まあいいや。それでさ」
私は袋の持ち手を持ち替えた。
「それも、笑い話にしてるの、私」
「知っている」
「駄目?」
松谷君は、少し歩いてから答えた。
「駄目ではない」
「じゃあいいじゃん」
「ただ、笑い話にできるのは、終わったものだけだ」
私は、足を止めかけた。
止めなかった。止めたら、認めたことになる気がしたから。
「……終わってるよ」
「では、いい」
あっさり引かれた。
引かれたのに、なぜか、こっちが押し返されている感じがした。
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「一つ、言っていいか」
「なに」
「一度も負けたことのない国は、たいてい弱い」
「……は?」
「歴史の話だ」
松谷君は前を見たまま言った。
「長く続いた国は、どこも数回、負けている。負けて、こたえて、それから強くなる。一度も負けていない国は、負け方を知らないまま最初の一敗を迎えることになる」
「……なにそれ」
「事実だ」
「慰めてよ、そこは」
「慰めは、俺の職掌ではない」
「職掌!」
私は思わず立ち止まった。
「なに、その言い方。職掌って。会社員?」
「……言い方の問題だ」
「言い方の問題じゃないよ、絶対」
松谷君は答えなかった。
代わりに、もう一つ言った。
「ただし、順番が決まっている」
「順番?」
「負けたと認めてからでないと、次は始まらない」
私は袋を持ち直した。
持ち直す必要は、なかった。
「認めないうちは、まだ同じ戦をしている。同じ戦をしているあいだは、何をしても同じところに戻ってくる」
蝉が鳴いていた。
アスファルトが白く光っていて、松谷君の影だけがまっすぐ落ちている。
「……お腹すいた」
「話をそらしたな」
「そらしてないよ。ほんとにすいてるもん」
「そうか」
「ほんとだって」
「そうか」
二回言われた。
二回目のほうが、なんか、優しかった。
それが、いちばん腹立たしかった。
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「量はどれくらいある」
「えーと、うちの廊下が埋まるくらい。三十万円分だって父さんは言ってた」
松谷君の足が、半歩ぶん遅れた。
「……三十万」
「うん」
「そうか」
それきり、何も言わなかった。
――あ、同情された。
たぶん、三十万円分の麺を抱えた家族を気の毒に思ったんだと思う。まあ、気の毒ではある。うん。
「配る順は決めてあるか」
「順?」
「訪問する家の順序だ」
「気分」
「気分」
「近いとこから、なんとなく」
松谷君は歩きながら手帳を出した。
「近い順は、最も効率が悪い。断られる家を先に回れ」
「なんで!?」
「断られた分を、あとの家に上乗せできる。逆だと最後に余る」
「余ってもいいじゃん」
「余った場合、君はもう一度同じ道を歩くことになる」
「……あ」
言われてみればそうだった。今日すでに三軒断られていて、私は同じ袋をまだ提げている。
「ちょっと、それ見せて」
「まだ書いている」
「書いてるの!?」
覗きこむと、手帳に線が引かれていた。定規なんて持ってないはずなのに、まっすぐな線だった。
配布先 優先順位
一、既に断られた家(再訪不可)
二、家族数の多い家
三、その他
「なんで私の素麺に計画表ができてるの」
「配給には名簿が要る」
「配給じゃないから!」
「……頒布だ」
「言い直しても変だからね」
私は手帳を奪おうとした。松谷君は手帳をひょいと持ち上げた。背が私より少し高いだけなのに、この持ち上げ方は完全にずるい。
「返してよ」
「まだ二行ある」
「二行!?」
そうやって押し問答をしているうちに、私たちは温水君の家に着いた。
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四
「はい、どちら様――」
出てきたのは、中学生くらいの女の子だった。
私を見て、笑顔になって、松谷君を見て、笑顔のまま固まった。
「……お二人、で?」
「あ、八奈見です。温水君のクラスの」
「松谷だ」
「……少々、お待ちください」
女の子は素早くドアを閉めた。
中でドタドタと音がする。何かを畳んでいる音と、階段を駆け上がる音。
「……なんか、慌ててない?」
「慌てている」
「なんで?」
「分からん」
三分後、ドアが開いた。
さっきの子が、制服に着替えていた。
真夏の日曜に。家の中で。
「お待たせしました。妹の佳樹と申します。どうぞお上がりください」
「……あの、お構いなく」
「構います」
構われた。
通されたリビングは冷房が効いていて、私は生き返った。
そして、テーブルの上に鍋があった。
「カレーです。昨日のですが」
「二日目じゃん」
「はい、二日目です」
「……二日目のカレーってさ」
「一番おいしいです」
「分かってる子だ!」
私は完全に降参した。
気づいたら皿を受け取っていた。松谷君も受け取っていた。この人は勧められると断らない。断る理屈を持っていないんだと思う。
しばらく、スプーンの音だけがした。
温水君の家のカレーは、うちのより少し甘い。玉ねぎを長く炒めた甘さだ。二日目でルウが落ち着いて、じゃがいもの角が丸くなっている。私はこの角の取れ方が好きである。
松谷君は綺麗に食べる。音を立てない。皿に一粒も残さない。
食べ終わって、佳樹ちゃんが水を注ぎながら聞いた。
「お口に合いましたか」
「……ああ」
「どうでした?」
「……」
「松谷君?」
「……熱量として、十分だ」
「ちょっと待って」
私はスプーンを置いた。
「感想。感想を言いなよ」
「言った」
「言ってない! カロリーの話しかしてない!」
「うまいと言えばいいのか」
「そうじゃなくて!」
「では、どう言えばいい」
真剣に聞かれた。
真剣に聞かれると、こっちが困る。
「……そういうのは、自分で考えるとこでしょ」
「考えている」
「考えて出てきたのがカロリーなの!?」
「……分からない」
松谷君はコップを持ったまま、少し黙った。
「うまいかどうかが、分からないんだ。ずっと分からない。食えるかどうかしか、頭に浮かばない」
リビングが、静かになった。
佳樹ちゃんが水差しを置く音がした。
――え。
私はスプーンを持ち直した。
なんて言えばいいのか、分からなかった。
「……じゃあ、食えるかどうかで言うと?」
「食える」
「二日目だけど」
「二日目のほうが、味が」
そこで、この人は止まった。
自分で言いかけて、自分で驚いた顔をしていた。
「……ほら」
私は笑った。
「いま、味の話したよ」
「……した」
「したね」
「……したな」
佳樹ちゃんが、こっそり水をもう一杯注いだ。
---
五
「では、面接を始めます」
「面接!?」
佳樹ちゃんはレポート用紙とボイスレコーダーを持ってきていた。
準備がいい。準備がよすぎる。
「まず松谷様」
「俺からか」
「参考人です」
「参考人」
「兄の学校での様子を伺います。出席状況は」
「五月以降、欠席一日。六月十九日」
「早退は」
「二回。いずれも保健室経由」
「部活動の実態は」
「文芸部。活動時間は放課後の一時間から二時間。主に読書。執筆はしていない」
「……お兄様」
佳樹ちゃんがペンを止めた。
「執筆、していないんですか」
「いや、部誌の締切があるらしいけど」
「進捗は零枚だ」
「なんで知ってんの!?」
「同じ部だ」
私はレポート用紙を覗きこんだ。びっしり埋まっている。行と行のあいだに補足まで書きこまれていて、これはもう面接というより取り調べの記録だった。
「ちょっと、なんでこの人こんなに詳しいの。私、温水君の欠席日数なんて知らないよ」
「数えているだけだ」
「数えるほうが怖いから」
「では、最後に一つ」
佳樹ちゃんが顔を上げた。
「松谷様は、兄をどう思っていらっしゃいますか」
来た。
私は正直、ちょっと身構えた。ここは普通、いいやつですよとか、面白いですよとか、そういうのを言う場面である。
松谷君は、しばらく考えた。
長かった。
「……あの男は、扉を開ける」
「扉」
「閉じているものを見ると、開けてしまう。損だと分かっていても開ける。俺の知っている限り、四回」
「……はあ」
「勘定に合わないことをやる人間は、少ない」
佳樹ちゃんが、黙った。
私も黙った。
ボイスレコーダーの赤いランプだけが光っている。
「……あの、それ、褒めてます?」
「事実を言った」
「褒め方が下手すぎる」
「よく言われる」
そのとき、玄関で音がした。
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六
足音が、三和土で止まった。
止まって、動かない。
……長い。
そこそこ長い。
玄関には私のスニーカーと、松谷君の靴が並んでいる。あの子はいま、あそこで一生懸命に、この二足の意味を考えているのだと思う。考えても答えは出ないと思う。私だって出ない。
「ただいま」
リビングに入ってきた温水君は、私を見て、松谷君を見て、テーブルの上のカレーの皿を見て、動きを止めた。
「やっほー」
私はスプーンを持ったまま手を振った。
「……なんでいるの」
「素麺配りに来た。行くよってLINEしたよ、三回」
「え」
「見てないでしょ」
「……」
「あと、松谷君は荷物持ち」
「なんで松谷まで!?」
「介抱した人の責任だ」
「なにその責任!?」
温水君は本を一冊、手に持っていた。書店のカバーがかかっている。
私はそれを見逃さなかった。
「なに買ったの?」
「なんでもない」
「見せてよ」
「なんでもないって」
「ふーん」
私が手を伸ばすより早く、松谷君が温水君の手元を真顔で覗きこんだ。
「その紙は、なんだ」
「書店のカバー」
「表紙を隠す道具か」
「隠すためのものじゃない!」
「では、外せるな」
「外せない!」
「隠すためではないのだろう」
「聞くな!」
「聞いていない。確認している」
温水君が本を抱えて後ずさりした。顔が赤い。
私はしばらく笑い転げていた。
正直、中身は見ていない。見ていないけど、あの慌てぶりだけで十分すぎるほど元は取れた。人の弱点というのは、本体より反応のほうに出る。これは私が十七年かけて学んだ数少ない真理である。
「あ、ついでに言うけど、今朝のも見てないでしょ」
「今朝の?」
「明日、臨時部会だって。玉木部長から」
「聞いてないんだけど」
「見てないだけだよ」
「受領済みだ」
松谷君がスマホを出した。
画面を覗くと、返信が表示されていた。
『受領。出席する。松谷』
「……電報?」
「返信だ」
「毎回これなの?」
「様式は統一している」
「様式!」
温水君が頭を抱えていた。私は笑いすぎてカレーの匂いでむせた。
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七
「そろそろ行く」
松谷君が立ち上がった。
「資料を返さねばならん」
「あ、じゃあこれ持ってって」
私は素麺を三束、紙に包んで押しつけた。
松谷君は両手で受け取って、それから困った顔をした。
「これは、贈答か」
「そうだけど」
「では、返礼が要る」
「いらないよ」
「要る」
「いらないって!」
「……いくらだ」
「聞かない!」
この人は本気で計算しようとしている。
私は思い出して、鞄から紙を引っぱり出した。折り目のついた、あの一枚である。
「あのさ。これ、まだ署名してないんだけど」
借 用 証 書(第二号・案)
「してもらっていない」
「するわけないでしょ、もろきゅうサンドの製法を貸すって書いてあるんだよ」
「無形の目的物は分割返済に馴染む」
「そこじゃない!」
「では、素麺で置き換えるか」
「置き換えないでよ!」
「……検討する」
「しなくていいから!」
玄関で靴を履きながら、松谷君は最後にこう言った。
「八奈見」
「なに」
「配る順は、書いておいた」
「勝手に!」
「破ってよい」
そう言って、この人は帰っていった。
私は窓から見送った。
日差しの中を、まっすぐ歩いていく。角を曲がるときも姿勢が崩れない。荷物を持ってもらったのはこっちなのに、なんであんなに背中が真面目なんだろう。
――そういえば。
あの人、今月に入ってから、ちょっと変だ。
いつも変な人だけど、いつもと違う種類で変というか。
十五日にも、部室で何かあったって小鞠ちゃんが言いかけて、途中でやめた。
……まあ、いいや。
聞いたら長くなるやつだ。私はそういうのを、なんとなく分かるようになってきた。
《借用証書 第二号・案 署名欄 依然として空白》
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八
「梨、召し上がりますか」
「食べる」
即答した。
佳樹ちゃんが出してきたのは、皮を剥いて切った梨だった。皿に扇形に並べてある。
「小島の梨です」
「わ、この時期にもう出てるんだ」
「早いものは、お盆過ぎから出ますよ」
一口食べて、私は目を閉じた。
冷たい。硬い。歯を入れた瞬間に水が出る。
――夏だ。
いや、これは夏の終わりの味だ。素麺は夏の真ん中の味で、梨は終わりの味である。私はそういうのを味で覚えている。
縁側のほうで、温水君が空を見上げていた。
「なんか、雲の形が変わってきたな」
「え?」
「入道雲じゃなくなってる。あと、ひぐらしが鳴いてる」
「そうだね」
「秋が近付いてるんだよ」
私は梨をもう一切れ取った。
「梨の季節だね」
「そういう話じゃないんだけど」
「そういう話だよ。梨のあとは栗で、栗のあとは柿だから。秋って三段階なんだよ」
「季節の感じ方が全部食い物じゃん」
「他になにがあるの?」
温水君が呆れた顔をした。
呆れた顔をしながら、梨に手を伸ばしていた。
――ふうん。
私はそれを横目で見ながら、三切れ目を確保した。
配って歩いてるだけなのに、なんでちょっと楽しかったんだろ。
三軒も断られたのに。汗だくになったのに。変な錠剤まで飲まされたのに。
答えは出さないでおいた。
出すと、たぶん、めんどくさいことになる気がしたので。
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……そういえば。
負けたと認めてからでないと次は始まらない、って。
あれ、認めてない人に言う台詞だよね。
私は梨の最後の一切れを取った。
認めてるってば。六月に泣いたし、七月にいっぱい食べたし、八月に入ってからは笑い話にできるようになった。ちゃんと段階を踏んでる。
踏んでるのに、なんで、あんなにあっさり「では、いい」って言われたんだろう。
引き下がられたのに、負けた気がする。
「……あの人、絶対、性格悪い」
「誰が」
「なんでもない」
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夕方、紙袋は空になっていた。
順番を変えたら、きれいに配り終わった。
……あの手帳、破らなくてよかったかもしれない。
新学期まで、あと十日ある。
十日もあれば、なんにも起きないでしょ。
――そう思っていた自分を、私はこのあと、何度も思い出すことになる。
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