負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第35話 2巻1敗目 八奈見視点 百八の魔法の言葉

~1敗目~ 夏の終わりは、だいたい誰かのせいである

 

二次創作/視点:八奈見杏菜

 

---

 

 

【八奈見杏菜】

 

扉が、開かない。

 

正確には、開けられない。両手が塞がっているからである。

 

私はいま、段ボール箱を抱えて文芸部の部室の前に立っている。中身は素麺。重い。取っ手のない箱というのは人類の敵だと思う。

 

「……よい、しょっと」

 

足で扉を蹴った。

 

ドスンと音がして、扉が開いた。

 

「お疲れー、二人とも早いね」

 

中に二人いた。

 

窓が全部開いていて、カーテンが膨らんでいる。旧校舎の三階は冷房がないくせに、この時間だけは涼しい。夏休みの部室のこの感じを、私は思っていたより気に入っている。

 

温水君が立ち上がって、箱を受け取ってくれた。腰の入れ方が微妙に頼りない。

 

「ありがと。まだ先輩たち来てないんだ」

 

「みたいだな。ってこの箱、やたら重いと思ったら素麺か」

 

「みんなにもあげようと思って。小鞠ちゃんも帰りに持ってってね」

 

部屋の隅で、小鞠ちゃんがコクリと頷いた。

 

……隅?

 

さっきまで本棚の前にいたはずの子が、椅子ごと部屋の隅に移動している。前髪の奥の目が、こっちを警戒している。

 

私は温水君の隣に椅子を寄せた。温水君が微妙に遠ざかった。それは無視した。

 

七月の終わりに一度、この部屋で泣きそうになったことがある。誰も見ていなかったし、泣かなかったので、なかったことになっている。それ以来、私はこの椅子の位置が好きだ。窓を背にすると、顔が逆光になる。

 

「……温水君、小鞠ちゃんになんかした? 頭のピコピコ引っ張ったとか」

 

「しないし。慣れるまであんな感じだから、大きな声を出したり急に動いたりするなよ」

 

「分かった。猫カフェみたいなもんだね」

 

「そんな可愛いもんかな」

 

可愛いと思うけど。

 

「さっきまで齧歯類の話をしてたんだ」

 

「なんの話?」

 

「ハムスターと砂ネズミの違い」

 

「え、なんで?」

 

「距離を詰めようと思って」

 

「詰まった?」

 

「ググるから大丈夫って言われた」

 

小鞠ちゃんが隅で小さく頷いていた。

 

――この人たち、なんなんだろ。

 

一学期からずっとこうである。この二人のあいだには、私には翻訳できない言語がある。齧歯類の話をふつう二十分もできる相手というのは、たぶん、そういうことだ。

 

---

 

 

「遅れた」

 

扉が開いて、松谷君が入ってきた。

 

「まだ時間前だよ」

 

「三分前だ」

 

「じゃあ遅れてないでしょ」

 

「五分前に着く予定だった」

 

なんでこの人は、予定に対して遅刻するんだろう。

 

松谷君は空いている椅子に座って、鞄を膝に置いた。そのまま動かない。

 

この人の座り方はいつも同じである。背もたれを使わない。足を組まない。机に肘をつかない。そのくせ本人は行儀のつもりが一切なくて、たぶん、こうしか座れないんだと思う。

 

そして鞄から、紙袋を出した。

 

昨日、この人はうちの素麺を運ばされて、押しつけられた三束を両手で受け取って帰った。あのとき返礼が要ると言い出したのを、私は冗談だと思っていた。

 

思っていたのが間違いだったと、いま分かった。

 

「八奈見」

 

「なに」

 

「返礼だ」

 

「え」

 

袋の中には、蓋つきのガラス瓶が入っていた。中で赤いものが、行儀よく並んでいる。

 

「……梅干し?」

 

「昨日、塩を摂らせた。あれは応急のものだ。日常的には食品から摂るほうがいい」

 

「いや、そうじゃなくて」

 

「不足か」

 

「不足じゃなくて! なんで返礼が梅干しなの!」

 

「素麺に合う」

 

「合うけど!」

 

「合うなら、問題はない」

 

温水君が横で肩を震わせていた。小鞠ちゃんが隅で椅子を少しだけ前に出していた。

 

私は瓶を握ったまま、しばらく言葉を探した。

 

……理屈は通っている。

 

素麺をあげたら梅干しが返ってくる。物々交換として完璧である。完璧なんだけど、女子高生が同級生の男子から梅干しをもらう夏というのは、たぶん、想定されていない。

 

「あのさ」

 

「なんだ」

 

「ふつう、こういうときはお菓子とかだから」

 

「菓子は、君の消費量が読めない」

 

「どういう意味!?」

 

「多いと余る。少ないと足りない」

 

「そこ!? 悩むとこそこ!?」

 

「梅干しは腐らない」

 

「勝ち誇らないでよ!」

 

私は蓋を開けた。

 

匂いで分かった。市販の減塩のやつじゃない。ちゃんとしょっぱいほうの梅干しである。

 

……あれ。

 

瓶にラベルがない。値札を剥がした跡もない。蓋の裏に、油性ペンで小さく日付が書いてある。

 

「これ、どこの?」

 

「庭の」

 

「庭?」

 

「保護者の家に木がある。今年は二十七個なった」

 

「数えたの!?」

 

「数えた」

 

「じゃなくて! 自分で漬けたってこと!?」

 

「そうだ」

 

温水君が、噴いた。

 

本気で噴いた。机に突っ伏して、肩どころか背中全体で笑っている。この子がこんなふうに笑うところを、私は見たことがない。温水君はだいたい笑いをこらえる側の人間で、こらえきれなくても口の端で済ませる。それが机を叩いている。

 

「ちょっと温水君!」

 

「だって、松谷が――梅を――」

 

「笑いすぎ!」

 

「六月から、ずっと?」

 

「六月からだ」

 

「無理」

 

温水君は完全に駄目になっていた。

 

私も駄目になりかけていた。だって考えてもみてほしい。この人は連休明けに転入してきた。転入して一か月で先生の家の庭の梅をもいで、塩に漬けて、いま私に渡している。転入生のやることではない。

 

私は瓶を掲げた。

 

「あのさ。高校一年の男子が、自分で漬けた梅干しを、高校一年の女子に返礼として渡してるの。分かってる?」

 

「分かっている」

 

「分かってないよ」

 

「素麺の返礼だ」

 

「そこは分かってるの! それ以外が分かってないの!」

 

「……なんで漬けたの」

 

「なっていたからだ」

 

「なってたら漬けるの!?」

 

「落ちるだけだ。落ちれば、腐る」

 

「もったいないから漬けたんだ」

 

「そうだ」

 

……その理屈は、私には反論できない。私はもったいないの人である。ファミレスで証明済みである。

 

---

 

隅で、椅子が動いた。

 

小鞠ちゃんが、机一つ分だけ前に出ていた。

 

「あ、あの」

 

「なんだ」

 

「ど、どうやって」

 

松谷君が小鞠ちゃんを見た。

 

「作るのか」

 

「……そ、そう」

 

「梅と、塩だ」

 

「そ、それだけ?」

 

「重石と、容器と、日が要る」

 

小鞠ちゃんがスマホを出した。指が動く。画面がこっちを向いた。

 

  『塩は何%』

 

「十八」

 

「じゅ、十八!?」

 

「減らすと、かびる」

 

「か、かびる……」

 

「三日で梅酢が上がる。上がれば、あとは待つだけだ」

 

「梅酢って、なに」

 

私が口を挟んだ。

 

「梅から出る水だ。塩で出る」

 

「梅から水出るの!?」

 

「出る」

 

「へえ……」

 

小鞠ちゃんの指が止まらない。メモに何か打ちこんでいる。この子、こういうときだけ手が速い。

 

  『赤いのは』

 

「紫蘇だ。梅酢が上がってから入れる。揉んで、灰汁を捨てて、漬け汁に浸す」

 

  『いつ』

 

「六月の末」

 

  『干すのは』

 

「土用だ。三日、日に当てる。夜は取りこむ」

 

「夜も!?」

 

私はまた口を挟んだ。

 

「夜も」

 

「毎晩?」

 

「三晩だ」

 

「先生の家の庭で、一人で、梅を出したり入れたりしてたの?」

 

「そうだ」

 

「……なにやってんの」

 

「梅を干していた」

 

「聞いてない!」

 

温水君がまた突っ伏した。

 

小鞠ちゃんが顔を上げた。前髪の奥の目が、さっきまでの警戒とは違う色をしている。

 

「ら、来年」

 

「なんだ」

 

「ら、来年、わ、私も」

 

「……」

 

「や、やって、みたい」

 

松谷君は少し黙って、それから頷いた。

 

「六月に言え。梅の時期は短い」

 

「わ、分かった」

 

……なんで小鞠ちゃんが梅干しの弟子になってるの。

 

私は蓋を閉めて、瓶を鞄にしまった。

 

……持って帰るけど。

 

だって梅干し、うちにないんだもん。

 

---

 

約束の時間から少し遅れて、三年生が二人現れた。

 

「悪い、みんな待たせたな」

 

「ごめんねー、折角の夏休み中に」

 

部長の玉木先輩と、副部長の月之木先輩。

 

二人が並んで座ると、小鞠ちゃんが安心したように椅子を近づけてきた。移動速度が私のときの三倍くらいある。ちょっと悔しい。

 

「さすがに受験勉強が大変でさ。俺はなんとか合格圏内だけど」

 

部長が横目で見ると、月之木先輩がそっと目を逸らした。

 

「頑張ってはいるのよ? でもほら、受験は逃げないから自分のペースを大切にしようと思ってね」

 

「古都、受験は逃げなくても合格はどこまでも逃げるぞ」

 

「全部落ちたら就職しようかな。永久就職――なんちゃって」

 

月之木先輩と小鞠ちゃんの目が合った。

 

二人は顔を見合わせて、何ともいえない顔でニターッと笑い合った。部長が頭を抱えた。

 

私は空気を変えようと手を上げた。

 

「それで今日は何があるんですか?」

 

---

 

 

「生徒会から通知があってな。今年から全部の部活が、夏休みの活動実績を報告することになったんだ」

 

「もうお盆過ぎてますけど」

 

「七月には通知が来てたんだけどな」

 

部長が苦笑いで隣を見た。

 

「仕方ないのよ。私、受験勉強と自動車学校で忙しくて、すっかり忘れてたの」

 

……いま、自動車学校って言った?

 

受験勉強で忙しい人が、なぜ教習所に通えるのか。時間の総量というのは有限だったはずだが、この先輩の周りでは違う法則が働いているらしい。

 

言ったけど、ここは触れないほうがいい。部長の顔がそう言っている。

 

私はプリントを受け取って目を通した。

 

「これ、合宿もOKって書いてありますよ。先月の海水浴じゃダメなんですか」

 

「あれは夏休み前だからな。あと一週間遅ければ良かったんだが」

 

「一週間!」

 

「一週間だ」

 

松谷君が復唱した。

 

「……部長」

 

「ん?」

 

「この様式は、いつ配布されたものですか」

 

「七月の頭だな」

 

「提出期限は」

 

「九月の第一週」

 

「様式の写しはありますか」

 

「これがそうだけど」

 

松谷君はプリントを受け取ると、上から下まで一度で読んだ。読む速度が異常に速い。左上から右下へ、視線が一往復もしていない。

 

人がものを読むところを見て、こわいと思ったのは初めてだった。

 

「活動実績の欄が、日付と内容の二列です」

 

「そうだな」

 

「日付が入る欄がある以上、参加者名と時間の記載を求められる可能性があります。あとから聞かれると、記憶で埋めることになる」

 

「……あー」

 

部長が天を仰いだ。

 

「ある、それ。去年もあった」

 

「では、報告書は私が書きます」

 

部室が、しんとした。

 

「え」

 

私は思わず声を出した。

 

「書けるの?」

 

「報告書は書ける」

 

「小説は?」

 

「……書けない」

 

「なんでそこで詰まるの!」

 

「詰まってはいない。事実を述べた」

 

「詰まってたよ、いま!」

 

温水君が下を向いて笑いをこらえていた。月之木先輩が目を輝かせていた。この先輩がこの目をするときは、たいてい、その人を作品の材料として見ている。

 

「松谷君、あなた面白いわね」

 

「よく言われます」

 

「褒めてないわよ?」

 

「存じています」

 

この人、たまにこういう返しをする。

 

――なんなの。

 

いま、ちょっと格好よかったんだけど。

 

認めたくないけど、ちょっとだけ、そう思った。

 

---

 

 

「見て。みんなのWEB小説を印刷して、部誌のサンプルを作ってみたの」

 

月之木先輩が鞄から冊子を出した。

 

回ってきたサンプルをめくる。表紙は仮のもので、真ん中に部の名前だけが入っている。紙の端がまだ揃っていなくて、家庭用のプリンタで刷ったのがすぐに分かった。

 

「あ、私のやつも載ってる」

 

自分の書いたものが紙になっていると、変な感じがする。画面で見ているときは自分の字なのに、紙になると他人の字みたいだ。

 

「なんか白紙のページが多いですね」

 

「あくまでサンプルだ。完成版では、みんなの小説の間に俺が解説やコラムを入れようかと思ってな」

 

「先輩、それ何やってるんですか」

 

さっきから月之木先輩は、黙ってノートに何か描いている。

 

「私の新作は慎太郎に掲載不可を喰らってね。代わりに表紙の絵を描こうかと」

 

覗きこむと、男の人が二人、向かい合っている絵だった。

 

……距離が近い。

 

「あの、先輩。これ表紙ですよね」

 

「そうよ」

 

「表紙って、外から見えますよね」

 

「そうね」

 

「……はい」

 

私は何も見なかったことにした。

 

---

 

「みんなは今から、収録する自分の小説をどれにするか考えてくれ。新しく書いてもらってもいい」

 

「はい、私は合宿の時に書いたやつの続きを書きます!」

 

言ってから、しまったと思った。

 

続き、書いてない。

 

一行も書いてない。八月に入ってから開いてもいない。合宿のときは、あんなに手が動いたのに。あのときは書きたいことが体の中でぱんぱんになっていて、押し出すみたいに書けた。いまは、押し出すものがない。

 

でもまあ、あと十日ある。人間、追いこまれると書けるって聞くし。

 

「ね、小鞠ちゃんはどうするの?」

 

「うぇ……? あ……」

 

小鞠ちゃんはスマホを取り出して、画面をこちらに向けた。

 

  『私は新しく短編を書くつもり』

 

「へえ、頑張るね。温水君は?」

 

「俺は連載してるやつの第一話を手直しして」

 

「ぶ、部長は、なに載せるんですか」

 

「俺は連載のダイジェストにしようかと。みんなも無理がないように頼むな」

 

部長が両手を打ち合わせかけて、そこで止まった。

 

「そういや松谷。お前、なろうに何か上げてたか」

 

部屋が静かになった。

 

蝉の声が、急に大きく聞こえる。

 

「上げていません」

 

「一本もか」

 

「一本も」

 

「じゃあ新しく書くか、載せないかだな」

 

「……書きます」

 

「おっ、いいね。何書くの?」

 

月之木先輩が身を乗り出した。

 

「まだ決めていません」

 

「ジャンルは?」

 

「決めていません」

 

「長さは?」

 

「決めていません」

 

「なんにも決まってないじゃん!」

 

私はつい口を挟んだ。

 

「報告書はあんなにスラスラ引き受けたのに?」

 

「様式があるからだ」

 

「小説にも様式あるでしょ」

 

「ない」

 

「あるって! 起承転結とか!」

 

「あれは様式ではない。分類だ」

 

「なんの違いが!?」

 

「様式は、埋めれば終わる。分類は、埋めても終わらない」

 

――うわ。

 

様式は埋めれば終わる。分類は埋めても終わらない。

 

言われてみれば、私が合宿で書いたあれも、まだ終わっていない。終わらせ方が分からないから、開いていないだけかもしれない。

 

なんか、いま、変に納得しちゃったんだけど。

 

私が言葉に詰まっていると、隅のほうで椅子が動いた。

 

小鞠ちゃんが、少しだけ前に出ていた。

 

「か、書けます」

 

小さい声だった。

 

「この人は、書けます」

 

部屋が、また静かになった。

 

小鞠ちゃんが人のことでこんなふうに口を開くのを、私は初めて見た。

 

この子が部長のためにお茶を淹れるのは何度も見た。あれは緊張の産物だった。いまのは違う。声が震えていない。

 

「……小鞠さん」

 

「な、なに」

 

「ありがたいが、まだ一行も書いていない」

 

「し、知ってる」

 

「知っているのか」

 

「ゴ、ゴミ箱、見た」

 

「見たのか」

 

「み、見てない。た、たまたま目に入った」

 

「そうか」

 

なんの話をしているのか、私にはさっぱり分からなかった。

 

分からなかったけど、この二人のあいだに、私の知らない何かが一本通っているのは分かった。

 

――なにそれ。

 

私は素麺の箱の縁を、指でなぞった。

 

小鞠ちゃんが人のために声を出した。それは喜ばしいことである。喜ばしいことなんだけど、その相手が私じゃないというだけで、こんなに座り心地が悪くなるのはなんなんだろう。

 

「はい、みなさんに素麺です!」

 

「え、なにこれ」

 

「うちのボーナスです」

 

「ボーナス?」

 

説明が面倒だったので、私は笑ってごまかした。

 

笑ってごまかすのは得意である。得意になったのは、たぶん七月からだ。それ以前の私は、こんなに笑わなくても生きていられた。

 

---

 

 

「原稿の準備ができたら俺に送ってくれ」

 

そう言って、部長と月之木先輩が立ち上がった。

 

「古都が受験から逃げないよう捕まえておかないとな。それじゃ、また」

 

「じゃーね、後はよろしく」

 

出ていこうとした月之木先輩が、扉のところで振り返った。

 

「あ、そうだ。ねえ、明日なんだけど。誰か私の代わりに図書室の手伝いに行けないかしら」

 

「手伝いですか?」

 

「うちからも毎年、図書委員を出してるでしょ。当番まではしないけど、蔵書整理の時には手伝いに行ってるのよ。今年は私が委員なんだけど、忙しくてね」

 

「新刊を入れるとき希望を聞いてくれるし、部費で本を買うときは図書室経由だと割引してもらえるんだ」

 

部長が肩越しに補足する。

 

「ま、持ちつ持たれつって関係だな」

 

「わ、私、い、行けます」

 

小鞠ちゃんが手を上げた。

 

「俺も大丈夫です」

 

温水君が続く。

 

そして、少し遅れて。

 

「……私も行きます」

 

松谷君だった。

 

「あら、三人も? 助かるー」

 

「人数が多い分には大歓迎。図書室とは仲良くしておかないとね」

 

――あ。

 

私は手を合わせた。

 

「すいません。私、明日は同窓会の約束があって」

 

「気にしないで、急なお願いだったし。じゃ、詳しい時間はあとで連絡するわ」

 

先輩たちが手を振って出ていった。

 

廊下の声が遠ざかっていく。

 

……いまの、遅かったな。

 

松谷君のことである。

 

この人はふだん、こういうときに一番早く手を上げる。人手が要る、と言われたら、その瞬間に要不要を計算して答えを出す人だ。

 

なのに今日は、二人が言い終わるまで待っていた。

 

「松谷君、なんで一拍置いたの」

 

「置いていない」

 

「置いてたよ」

 

「……人数が足りるかどうかを考えていた」

 

「足りたら行かないつもりだったってこと?」

 

「そうだ」

 

「じゃあなんで行くの。足りてたじゃん」

 

松谷君は、少し黙った。

 

「……蔵書点検は、リストと現物を突き合わせる作業だ」

 

「うん」

 

「一冊でも合わないと、最後まで原因が分からない。人手が多いほうがいい」

 

「それ、答えになってる?」

 

「なっている」

 

なってない。

 

なってないけど、この人がこういう言い方をするときは、たいてい別の理由がある。私はそれを、この夏でちょっとだけ学んだ。

 

たぶん、あの司書の先生に会いたくて、会いたくないんだと思う。

 

私はあの二人が話しているところを、一度だけ廊下で見たことがある。会話らしい会話はしていなかった。松谷君が本を返して、先生が受け取って、それで終わりだった。

 

それだけの光景を、なぜか私はよく覚えている。

 

……なんでそう思ったのかは、自分でもよく分からない。

 

---

 

しばらくして、小鞠ちゃんが文庫本を閉じ、ボソボソ何か呟いて部室を出ていった。たぶん、お疲れ様的なことを言ったんだと思う。

 

松谷君は、帰らなかった。

 

窓際の椅子に座ったまま、鞄から紙を一枚出して、机の上に置く。

 

この人が部室に残るのは珍しい。だいたい、用が済むと時刻ぴったりに立つ。今日は立たなかった。

 

  配布先 優先順位

 

「まだ持ってたの!?」

 

「控えだ」

 

「控えがあるの!?」

 

「明日、君は図書室に来ない。渡すなら今日だ」

 

「もう配り終わったよ!」

 

「では、破ってよい」

 

私は紙を見た。

 

定規で引いたみたいな線。三行だけの箇条書き。控えを取ってあるということは、あの人はこれを一度、清書したということだ。素麺の配布順を。

 

……破らなかった。

 

だって、昨日これで全部配り終わったんだもん。

 

---

 

 

私はあくびを噛み殺して伸びをする。

 

「じゃ、私も帰るね。明日に備えて、美容院予約してるの」

 

「明日って、同窓会だっけ」

 

「そうそう」

 

「……ひょっとして、袴田も来るのか」

 

来た。

 

温水君は、こういうところだけ勘がいい。ふだんは石みたいに鈍いのに、なんでここだけ引っかかるんだろう。

 

「もちろん。でも同窓会っていっても大げさなものじゃなくて、草介とか当時仲良かった何人かで遊びに行くだけだよ」

 

「ふうん。楽しそうじゃん」

 

「……はい?」

 

心にもない相槌である。

 

私は明るく笑ってみせた。ここ、笑うところだから。

 

「その同窓会に――華恋も来るの」

 

温水君の動きが止まった。

 

「え、姫宮さんも?」

 

「うちらの仲間内、彼氏彼女ができたら紹介するの。強制じゃないけどさ」

 

温水君が、心配そうな顔をした。

 

――やめてよ、その顔。

 

そういう顔をされると、私が心配される側の人間だってことになるじゃんね。

 

私は明日、髪を切りに行く。切るというほどは切らないけど、整えてもらう。整えてもらって、いちばん気に入っている服を着て、ちゃんと笑って、平気な顔で店に入る。それだけのことである。それだけのことのために、私は三日前から予約を取っている。

 

「心配ないって。私は一学期の私じゃないの」

 

「一学期の八奈見さん」

 

「そう。私はね、自分を取り巻く全て、世界の全てに感謝する優しい心に目覚めたの」

 

「……はあ」

 

「温水君にも分かるように説明するね?」

 

「期待してないけど頼む」

 

「あのね、草介も華恋も私の親友でしょ。親友が幸せになるってことは、私にとっての幸せでもあるじゃない?」

 

温水君が素直に頷いた。

 

よし。

 

「つまりあの二人は付き合うことによって私を幸せにしてくれたの。今となっては二人には感謝しかないかな」

 

「……八奈見さんがそれでいいなら」

 

「いいに決まってるでしょ」

 

「――感謝と幸福は、別だ」

 

窓際から声がした。

 

……いた。

 

いたけど、いま黙っててくれてもよかったと思う。

 

「なにが」

 

「感謝は、相手に向ける。幸福は、自分の状態だ。片方があっても、もう片方は成立しない」

 

「するよ」

 

「しない」

 

「するって! 私、いま幸せだもん!」

 

「そうか」

 

「そうだよ」

 

「では、なぜ本を買った」

 

私は、口を開けたまま止まった。

 

鞄の中の一冊が、急に重くなった気がした。

 

「……見てないでしょ」

 

「見た。書店の袋を持って部室に来た日がある」

 

「なんで覚えてんの!?」

 

「覚えている」

 

「こわいよ!」

 

温水君が慌てて割って入った。

 

「まあまあ、松谷。そのへんで」

 

「事実の確認をしている」

 

「その確認、いま必要ないやつだから」

 

「……そうか」

 

松谷君は素直に引いた。

 

引いたけど、私はもう平気な顔ができなくなっていた。

 

この人は、私を傷つけようとしていない。傷つけようとしていないから、たちが悪い。悪意のある言葉なら弾き返せる。事実だけを置かれると、置かれたものが正しいかどうかを、自分で考えるしかなくなる。

 

---

 

しばらく、誰も何も言わなかった。

 

蝉が鳴いている。カーテンが膨らんで、しぼんだ。

 

やがて、松谷君が言った。

 

「同窓会は、行ったことがない」

 

「……は?」

 

「聞かれていないが、答えておく」

 

「聞いてないよ」

 

「同期の会なら、あった。行かなかったが」

 

「なにが違うの、それ」

 

「同窓会は、学校を出た者の全体だ。卒業の年が違っても入る。同期会は、同じ年に入った者だけだ」

 

私は指を折った。

 

草介、華恋、それから何人か。全員、同じ小学校の同じ学年である。上の学年の人も、下の学年の人も、誰も呼ばれていない。

 

言われてみれば、そのとおりだった。私はいままで、あれを同窓会だと思いこんでいた。

 

「……あ。じゃあ私が行くの、同窓会じゃないじゃん」

 

「同期会だな」

 

「え、なんか急に固くない? 同期会」

 

「固い」

 

「認めるんだ」

 

「固い会だと聞いた」

 

「聞いた?」

 

「行っていない」

 

「なんで行かなかったの」

 

「機会がなかった」

 

「一回も?」

 

「……あったが、出なかった」

 

「もったいなくない?」

 

「……そうだな」

 

この人が私の言葉に同意するのは珍しい。だいたいは反論してくるか、事実を訂正してくるかのどちらかだ。

 

窓の外で、吹奏楽が同じ四小節を繰り返している。

 

「じゃあさ、同じ年の人と仲良かったりしないの?」

 

「四人で仕事をしたことはある。同じ年の者だ」

 

「いいじゃん。その人たち、いま何してんの」

 

返事がなかった。

 

蝉の声が、また大きく聞こえる。

 

「松谷君?」

 

「……分からん」

 

「連絡取ってないんだ」

 

「取れていない」

 

「じゃあ取ればいいじゃん。名前で検索すれば出てくるでしょ」

 

「……そうだな」

 

返事が、いつもより半拍遅かった。

 

検索すれば出てくる、と私は言った。言ってから、なんとなく、言わなければよかったような気がした。理由は分からない。

 

「一つ、決めておけ」

 

「なに」

 

「何時に帰るかだ」

 

「……は?」

 

「明日の話だ。店に入る前に、出る時刻を決めておけ」

 

「決めないよ、そんなの」

 

「なぜだ」

 

「流れってものがあるでしょ。楽しかったら残るし、そうじゃなかったら早く出るし」

 

「それは、決めていないということだ」

 

「決めなくていいの!」

 

私は椅子の背に寄りかかった。

 

なんでこの人は、こんなに人の予定に口を出すんだろう。素麺の配布順といい、明日の帰宅時刻といい。

 

「流れに任せると、いちばん長くいた者が、いちばん疲れる」

 

「……」

 

「楽しいから残るのはいい。残る理由がなくなってから残るのが、いちばんこたえる」

 

蝉が鳴いていた。

 

私は何か言い返そうとして、口を開けて、閉じた。

 

「……何時にすればいいの」

 

「知らん。君が決めることだ」

 

「聞いてんじゃん!」

 

「決め方は教えられる。時刻は決められない」

 

「役に立たない!」

 

「立つ」

 

温水君が横で「立つのか」と小さく言った。

 

私は聞こえないふりをした。

 

……六時、かな。

 

思ったけど、口には出さなかった。出したら、明日それを守らなきゃいけなくなる。

 

---

 

そのあと、この人はもう一度だけ口を開いた。

 

「集まれるうちに、集まっておくといい」

 

言い方が、変だった。

 

いつもの、事実を読み上げるときの平らな声なのに、そこだけ少し、重さが違った。

 

「……なにそれ」

 

「そのままの意味だ」

 

「そうじゃなくてさ」

 

返事はなかった。

 

――なんなの、この人。

 

慰められた気は、まったくしない。あの人は私が明日どんな顔で店に入るかなんて、たぶん一ミリも考えていない。

 

考えていないのに、なんで。

 

なんで私は、いま、鞄に手を入れてるんだろう。

 

「なにそれ」

 

温水君が私の手元を見ていた。

 

出したつもりはなかったのに、手が勝手に出していた。

 

  あなたの心を軽くする108の魔法の言葉

 

「百八というのは、煩悩の数か」

 

「ちょっと黙ってて!」

 

「そうか」

 

「そうだよ!」

 

私は表紙を裏返して机に伏せた。

 

伏せてから、それが一番かっこ悪い動きだと気づいた。隠すというのは、そこに隠すものがあると教える動作である。私は十七年生きてきて、それをいまだに学習できていない。

 

もういい。開き直ろう。

 

「あ、これ?」

 

私はページをめくってみせる。

 

「なんかこう、君は君のままでいいんだよ、焼鳥は串から外さなくて良いんだ、一本丸ごと食べていい……みたいなことが書いてあるの」

 

「……焼鳥」

 

「そう、焼鳥」

 

「串から」

 

「外さなくていいの。すごくない?」

 

「串は、外したほうが食べやすい」

 

「そういう話じゃない!」

 

「なぜだ。皿に取り分ければ、複数人で分けられる」

 

「そこじゃないの! 外さなくていいって言われることに意味があるの!」

 

「……分からん」

 

「分からなくていいから!」

 

私は本を掲げた。

 

掲げてみて、この本がやたら軽いことに気づいた。心を軽くする本は、物理的にも軽い。そういうところだけは正直だと思う。

 

「じゃあ松谷君にも貸してあげようか?」

 

「軽くなるのか」

 

「……え」

 

「表紙に、心が軽くなると書いてある。軽くなるのか」

 

私は本を持ったまま止まった。

 

……軽くなるのか。

 

そんなこと、聞かれたことがなかった。この本はもう二週間、私の鞄に入っている。線も引いたし、付箋も貼った。それなのに、軽くなったかどうかを、私は一度も自分に確かめていない。

 

確かめないほうが、たぶん、都合がよかったからだ。

 

軽くなっていないと分かったら、この本を鞄に入れておく理由がなくなる。理由がなくなったら、私は次に何を鞄に入れればいいのか分からない。

 

だから確かめない。持っていることを、効いていることの代わりにしている。

 

そういうのを、二週間やっていた。

 

「……なるよ」

 

「そうか」

 

「たぶん」

 

言ってしまった。

 

「たぶん、とは」

 

「うるさいな!」

 

「では、要らない」

 

「なんでそこで決めるの!」

 

「軽くならないなら、要らない」

 

「なるって言ったでしょ!」

 

「たぶん、と言った」

 

「聞き逃してよ、そこは!」

 

「聞いた」

 

即答だった。

 

ふつうの人は、こういうとき受け取ってくれる。ぱらぱらめくって、いいねって言って、返してくる。書いてあるとおりになるかどうかなんて、誰も聞かない。聞かないから、私も答えなくていい。

 

この人は聞いて、私の「たぶん」を拾って、それだけで決めた。

 

要らない、と言われたのに、突き放された感じがまるでしなかった。

 

たぶんこの人は、本を否定していない。効くなら要る、効かないなら要らない。それだけを言っている。効くかどうかを決めるのは、持っている私である。

 

そこを人任せにしていたのは、私のほうだった。

 

腹が立つより先に、笑ってしまった。

 

私は笑いながら、隣を向いた。

 

「温水君にも貸してあげようか?」

 

温水君は、しばらく私を見ていた。

 

言いたいことがあるときに黙る人である。黙って、そのまま何も言わないでいてくれる人でもある。

 

そして、何も言わずに首を横に振った。

 

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