負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
~1敗目~ 夏の終わりは、だいたい誰かのせいである
二次創作/視点:八奈見杏菜
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一
【八奈見杏菜】
扉が、開かない。
正確には、開けられない。両手が塞がっているからである。
私はいま、段ボール箱を抱えて文芸部の部室の前に立っている。中身は素麺。重い。取っ手のない箱というのは人類の敵だと思う。
「……よい、しょっと」
足で扉を蹴った。
ドスンと音がして、扉が開いた。
「お疲れー、二人とも早いね」
中に二人いた。
窓が全部開いていて、カーテンが膨らんでいる。旧校舎の三階は冷房がないくせに、この時間だけは涼しい。夏休みの部室のこの感じを、私は思っていたより気に入っている。
温水君が立ち上がって、箱を受け取ってくれた。腰の入れ方が微妙に頼りない。
「ありがと。まだ先輩たち来てないんだ」
「みたいだな。ってこの箱、やたら重いと思ったら素麺か」
「みんなにもあげようと思って。小鞠ちゃんも帰りに持ってってね」
部屋の隅で、小鞠ちゃんがコクリと頷いた。
……隅?
さっきまで本棚の前にいたはずの子が、椅子ごと部屋の隅に移動している。前髪の奥の目が、こっちを警戒している。
私は温水君の隣に椅子を寄せた。温水君が微妙に遠ざかった。それは無視した。
七月の終わりに一度、この部屋で泣きそうになったことがある。誰も見ていなかったし、泣かなかったので、なかったことになっている。それ以来、私はこの椅子の位置が好きだ。窓を背にすると、顔が逆光になる。
「……温水君、小鞠ちゃんになんかした? 頭のピコピコ引っ張ったとか」
「しないし。慣れるまであんな感じだから、大きな声を出したり急に動いたりするなよ」
「分かった。猫カフェみたいなもんだね」
「そんな可愛いもんかな」
可愛いと思うけど。
「さっきまで齧歯類の話をしてたんだ」
「なんの話?」
「ハムスターと砂ネズミの違い」
「え、なんで?」
「距離を詰めようと思って」
「詰まった?」
「ググるから大丈夫って言われた」
小鞠ちゃんが隅で小さく頷いていた。
――この人たち、なんなんだろ。
一学期からずっとこうである。この二人のあいだには、私には翻訳できない言語がある。齧歯類の話をふつう二十分もできる相手というのは、たぶん、そういうことだ。
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二
「遅れた」
扉が開いて、松谷君が入ってきた。
「まだ時間前だよ」
「三分前だ」
「じゃあ遅れてないでしょ」
「五分前に着く予定だった」
なんでこの人は、予定に対して遅刻するんだろう。
松谷君は空いている椅子に座って、鞄を膝に置いた。そのまま動かない。
この人の座り方はいつも同じである。背もたれを使わない。足を組まない。机に肘をつかない。そのくせ本人は行儀のつもりが一切なくて、たぶん、こうしか座れないんだと思う。
そして鞄から、紙袋を出した。
昨日、この人はうちの素麺を運ばされて、押しつけられた三束を両手で受け取って帰った。あのとき返礼が要ると言い出したのを、私は冗談だと思っていた。
思っていたのが間違いだったと、いま分かった。
「八奈見」
「なに」
「返礼だ」
「え」
袋の中には、蓋つきのガラス瓶が入っていた。中で赤いものが、行儀よく並んでいる。
「……梅干し?」
「昨日、塩を摂らせた。あれは応急のものだ。日常的には食品から摂るほうがいい」
「いや、そうじゃなくて」
「不足か」
「不足じゃなくて! なんで返礼が梅干しなの!」
「素麺に合う」
「合うけど!」
「合うなら、問題はない」
温水君が横で肩を震わせていた。小鞠ちゃんが隅で椅子を少しだけ前に出していた。
私は瓶を握ったまま、しばらく言葉を探した。
……理屈は通っている。
素麺をあげたら梅干しが返ってくる。物々交換として完璧である。完璧なんだけど、女子高生が同級生の男子から梅干しをもらう夏というのは、たぶん、想定されていない。
「あのさ」
「なんだ」
「ふつう、こういうときはお菓子とかだから」
「菓子は、君の消費量が読めない」
「どういう意味!?」
「多いと余る。少ないと足りない」
「そこ!? 悩むとこそこ!?」
「梅干しは腐らない」
「勝ち誇らないでよ!」
私は蓋を開けた。
匂いで分かった。市販の減塩のやつじゃない。ちゃんとしょっぱいほうの梅干しである。
……あれ。
瓶にラベルがない。値札を剥がした跡もない。蓋の裏に、油性ペンで小さく日付が書いてある。
「これ、どこの?」
「庭の」
「庭?」
「保護者の家に木がある。今年は二十七個なった」
「数えたの!?」
「数えた」
「じゃなくて! 自分で漬けたってこと!?」
「そうだ」
温水君が、噴いた。
本気で噴いた。机に突っ伏して、肩どころか背中全体で笑っている。この子がこんなふうに笑うところを、私は見たことがない。温水君はだいたい笑いをこらえる側の人間で、こらえきれなくても口の端で済ませる。それが机を叩いている。
「ちょっと温水君!」
「だって、松谷が――梅を――」
「笑いすぎ!」
「六月から、ずっと?」
「六月からだ」
「無理」
温水君は完全に駄目になっていた。
私も駄目になりかけていた。だって考えてもみてほしい。この人は連休明けに転入してきた。転入して一か月で先生の家の庭の梅をもいで、塩に漬けて、いま私に渡している。転入生のやることではない。
私は瓶を掲げた。
「あのさ。高校一年の男子が、自分で漬けた梅干しを、高校一年の女子に返礼として渡してるの。分かってる?」
「分かっている」
「分かってないよ」
「素麺の返礼だ」
「そこは分かってるの! それ以外が分かってないの!」
「……なんで漬けたの」
「なっていたからだ」
「なってたら漬けるの!?」
「落ちるだけだ。落ちれば、腐る」
「もったいないから漬けたんだ」
「そうだ」
……その理屈は、私には反論できない。私はもったいないの人である。ファミレスで証明済みである。
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隅で、椅子が動いた。
小鞠ちゃんが、机一つ分だけ前に出ていた。
「あ、あの」
「なんだ」
「ど、どうやって」
松谷君が小鞠ちゃんを見た。
「作るのか」
「……そ、そう」
「梅と、塩だ」
「そ、それだけ?」
「重石と、容器と、日が要る」
小鞠ちゃんがスマホを出した。指が動く。画面がこっちを向いた。
『塩は何%』
「十八」
「じゅ、十八!?」
「減らすと、かびる」
「か、かびる……」
「三日で梅酢が上がる。上がれば、あとは待つだけだ」
「梅酢って、なに」
私が口を挟んだ。
「梅から出る水だ。塩で出る」
「梅から水出るの!?」
「出る」
「へえ……」
小鞠ちゃんの指が止まらない。メモに何か打ちこんでいる。この子、こういうときだけ手が速い。
『赤いのは』
「紫蘇だ。梅酢が上がってから入れる。揉んで、灰汁を捨てて、漬け汁に浸す」
『いつ』
「六月の末」
『干すのは』
「土用だ。三日、日に当てる。夜は取りこむ」
「夜も!?」
私はまた口を挟んだ。
「夜も」
「毎晩?」
「三晩だ」
「先生の家の庭で、一人で、梅を出したり入れたりしてたの?」
「そうだ」
「……なにやってんの」
「梅を干していた」
「聞いてない!」
温水君がまた突っ伏した。
小鞠ちゃんが顔を上げた。前髪の奥の目が、さっきまでの警戒とは違う色をしている。
「ら、来年」
「なんだ」
「ら、来年、わ、私も」
「……」
「や、やって、みたい」
松谷君は少し黙って、それから頷いた。
「六月に言え。梅の時期は短い」
「わ、分かった」
……なんで小鞠ちゃんが梅干しの弟子になってるの。
私は蓋を閉めて、瓶を鞄にしまった。
……持って帰るけど。
だって梅干し、うちにないんだもん。
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約束の時間から少し遅れて、三年生が二人現れた。
「悪い、みんな待たせたな」
「ごめんねー、折角の夏休み中に」
部長の玉木先輩と、副部長の月之木先輩。
二人が並んで座ると、小鞠ちゃんが安心したように椅子を近づけてきた。移動速度が私のときの三倍くらいある。ちょっと悔しい。
「さすがに受験勉強が大変でさ。俺はなんとか合格圏内だけど」
部長が横目で見ると、月之木先輩がそっと目を逸らした。
「頑張ってはいるのよ? でもほら、受験は逃げないから自分のペースを大切にしようと思ってね」
「古都、受験は逃げなくても合格はどこまでも逃げるぞ」
「全部落ちたら就職しようかな。永久就職――なんちゃって」
月之木先輩と小鞠ちゃんの目が合った。
二人は顔を見合わせて、何ともいえない顔でニターッと笑い合った。部長が頭を抱えた。
私は空気を変えようと手を上げた。
「それで今日は何があるんですか?」
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三
「生徒会から通知があってな。今年から全部の部活が、夏休みの活動実績を報告することになったんだ」
「もうお盆過ぎてますけど」
「七月には通知が来てたんだけどな」
部長が苦笑いで隣を見た。
「仕方ないのよ。私、受験勉強と自動車学校で忙しくて、すっかり忘れてたの」
……いま、自動車学校って言った?
受験勉強で忙しい人が、なぜ教習所に通えるのか。時間の総量というのは有限だったはずだが、この先輩の周りでは違う法則が働いているらしい。
言ったけど、ここは触れないほうがいい。部長の顔がそう言っている。
私はプリントを受け取って目を通した。
「これ、合宿もOKって書いてありますよ。先月の海水浴じゃダメなんですか」
「あれは夏休み前だからな。あと一週間遅ければ良かったんだが」
「一週間!」
「一週間だ」
松谷君が復唱した。
「……部長」
「ん?」
「この様式は、いつ配布されたものですか」
「七月の頭だな」
「提出期限は」
「九月の第一週」
「様式の写しはありますか」
「これがそうだけど」
松谷君はプリントを受け取ると、上から下まで一度で読んだ。読む速度が異常に速い。左上から右下へ、視線が一往復もしていない。
人がものを読むところを見て、こわいと思ったのは初めてだった。
「活動実績の欄が、日付と内容の二列です」
「そうだな」
「日付が入る欄がある以上、参加者名と時間の記載を求められる可能性があります。あとから聞かれると、記憶で埋めることになる」
「……あー」
部長が天を仰いだ。
「ある、それ。去年もあった」
「では、報告書は私が書きます」
部室が、しんとした。
「え」
私は思わず声を出した。
「書けるの?」
「報告書は書ける」
「小説は?」
「……書けない」
「なんでそこで詰まるの!」
「詰まってはいない。事実を述べた」
「詰まってたよ、いま!」
温水君が下を向いて笑いをこらえていた。月之木先輩が目を輝かせていた。この先輩がこの目をするときは、たいてい、その人を作品の材料として見ている。
「松谷君、あなた面白いわね」
「よく言われます」
「褒めてないわよ?」
「存じています」
この人、たまにこういう返しをする。
――なんなの。
いま、ちょっと格好よかったんだけど。
認めたくないけど、ちょっとだけ、そう思った。
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四
「見て。みんなのWEB小説を印刷して、部誌のサンプルを作ってみたの」
月之木先輩が鞄から冊子を出した。
回ってきたサンプルをめくる。表紙は仮のもので、真ん中に部の名前だけが入っている。紙の端がまだ揃っていなくて、家庭用のプリンタで刷ったのがすぐに分かった。
「あ、私のやつも載ってる」
自分の書いたものが紙になっていると、変な感じがする。画面で見ているときは自分の字なのに、紙になると他人の字みたいだ。
「なんか白紙のページが多いですね」
「あくまでサンプルだ。完成版では、みんなの小説の間に俺が解説やコラムを入れようかと思ってな」
「先輩、それ何やってるんですか」
さっきから月之木先輩は、黙ってノートに何か描いている。
「私の新作は慎太郎に掲載不可を喰らってね。代わりに表紙の絵を描こうかと」
覗きこむと、男の人が二人、向かい合っている絵だった。
……距離が近い。
「あの、先輩。これ表紙ですよね」
「そうよ」
「表紙って、外から見えますよね」
「そうね」
「……はい」
私は何も見なかったことにした。
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「みんなは今から、収録する自分の小説をどれにするか考えてくれ。新しく書いてもらってもいい」
「はい、私は合宿の時に書いたやつの続きを書きます!」
言ってから、しまったと思った。
続き、書いてない。
一行も書いてない。八月に入ってから開いてもいない。合宿のときは、あんなに手が動いたのに。あのときは書きたいことが体の中でぱんぱんになっていて、押し出すみたいに書けた。いまは、押し出すものがない。
でもまあ、あと十日ある。人間、追いこまれると書けるって聞くし。
「ね、小鞠ちゃんはどうするの?」
「うぇ……? あ……」
小鞠ちゃんはスマホを取り出して、画面をこちらに向けた。
『私は新しく短編を書くつもり』
「へえ、頑張るね。温水君は?」
「俺は連載してるやつの第一話を手直しして」
「ぶ、部長は、なに載せるんですか」
「俺は連載のダイジェストにしようかと。みんなも無理がないように頼むな」
部長が両手を打ち合わせかけて、そこで止まった。
「そういや松谷。お前、なろうに何か上げてたか」
部屋が静かになった。
蝉の声が、急に大きく聞こえる。
「上げていません」
「一本もか」
「一本も」
「じゃあ新しく書くか、載せないかだな」
「……書きます」
「おっ、いいね。何書くの?」
月之木先輩が身を乗り出した。
「まだ決めていません」
「ジャンルは?」
「決めていません」
「長さは?」
「決めていません」
「なんにも決まってないじゃん!」
私はつい口を挟んだ。
「報告書はあんなにスラスラ引き受けたのに?」
「様式があるからだ」
「小説にも様式あるでしょ」
「ない」
「あるって! 起承転結とか!」
「あれは様式ではない。分類だ」
「なんの違いが!?」
「様式は、埋めれば終わる。分類は、埋めても終わらない」
――うわ。
様式は埋めれば終わる。分類は埋めても終わらない。
言われてみれば、私が合宿で書いたあれも、まだ終わっていない。終わらせ方が分からないから、開いていないだけかもしれない。
なんか、いま、変に納得しちゃったんだけど。
私が言葉に詰まっていると、隅のほうで椅子が動いた。
小鞠ちゃんが、少しだけ前に出ていた。
「か、書けます」
小さい声だった。
「この人は、書けます」
部屋が、また静かになった。
小鞠ちゃんが人のことでこんなふうに口を開くのを、私は初めて見た。
この子が部長のためにお茶を淹れるのは何度も見た。あれは緊張の産物だった。いまのは違う。声が震えていない。
「……小鞠さん」
「な、なに」
「ありがたいが、まだ一行も書いていない」
「し、知ってる」
「知っているのか」
「ゴ、ゴミ箱、見た」
「見たのか」
「み、見てない。た、たまたま目に入った」
「そうか」
なんの話をしているのか、私にはさっぱり分からなかった。
分からなかったけど、この二人のあいだに、私の知らない何かが一本通っているのは分かった。
――なにそれ。
私は素麺の箱の縁を、指でなぞった。
小鞠ちゃんが人のために声を出した。それは喜ばしいことである。喜ばしいことなんだけど、その相手が私じゃないというだけで、こんなに座り心地が悪くなるのはなんなんだろう。
「はい、みなさんに素麺です!」
「え、なにこれ」
「うちのボーナスです」
「ボーナス?」
説明が面倒だったので、私は笑ってごまかした。
笑ってごまかすのは得意である。得意になったのは、たぶん七月からだ。それ以前の私は、こんなに笑わなくても生きていられた。
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五
「原稿の準備ができたら俺に送ってくれ」
そう言って、部長と月之木先輩が立ち上がった。
「古都が受験から逃げないよう捕まえておかないとな。それじゃ、また」
「じゃーね、後はよろしく」
出ていこうとした月之木先輩が、扉のところで振り返った。
「あ、そうだ。ねえ、明日なんだけど。誰か私の代わりに図書室の手伝いに行けないかしら」
「手伝いですか?」
「うちからも毎年、図書委員を出してるでしょ。当番まではしないけど、蔵書整理の時には手伝いに行ってるのよ。今年は私が委員なんだけど、忙しくてね」
「新刊を入れるとき希望を聞いてくれるし、部費で本を買うときは図書室経由だと割引してもらえるんだ」
部長が肩越しに補足する。
「ま、持ちつ持たれつって関係だな」
「わ、私、い、行けます」
小鞠ちゃんが手を上げた。
「俺も大丈夫です」
温水君が続く。
そして、少し遅れて。
「……私も行きます」
松谷君だった。
「あら、三人も? 助かるー」
「人数が多い分には大歓迎。図書室とは仲良くしておかないとね」
――あ。
私は手を合わせた。
「すいません。私、明日は同窓会の約束があって」
「気にしないで、急なお願いだったし。じゃ、詳しい時間はあとで連絡するわ」
先輩たちが手を振って出ていった。
廊下の声が遠ざかっていく。
……いまの、遅かったな。
松谷君のことである。
この人はふだん、こういうときに一番早く手を上げる。人手が要る、と言われたら、その瞬間に要不要を計算して答えを出す人だ。
なのに今日は、二人が言い終わるまで待っていた。
「松谷君、なんで一拍置いたの」
「置いていない」
「置いてたよ」
「……人数が足りるかどうかを考えていた」
「足りたら行かないつもりだったってこと?」
「そうだ」
「じゃあなんで行くの。足りてたじゃん」
松谷君は、少し黙った。
「……蔵書点検は、リストと現物を突き合わせる作業だ」
「うん」
「一冊でも合わないと、最後まで原因が分からない。人手が多いほうがいい」
「それ、答えになってる?」
「なっている」
なってない。
なってないけど、この人がこういう言い方をするときは、たいてい別の理由がある。私はそれを、この夏でちょっとだけ学んだ。
たぶん、あの司書の先生に会いたくて、会いたくないんだと思う。
私はあの二人が話しているところを、一度だけ廊下で見たことがある。会話らしい会話はしていなかった。松谷君が本を返して、先生が受け取って、それで終わりだった。
それだけの光景を、なぜか私はよく覚えている。
……なんでそう思ったのかは、自分でもよく分からない。
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しばらくして、小鞠ちゃんが文庫本を閉じ、ボソボソ何か呟いて部室を出ていった。たぶん、お疲れ様的なことを言ったんだと思う。
松谷君は、帰らなかった。
窓際の椅子に座ったまま、鞄から紙を一枚出して、机の上に置く。
この人が部室に残るのは珍しい。だいたい、用が済むと時刻ぴったりに立つ。今日は立たなかった。
配布先 優先順位
「まだ持ってたの!?」
「控えだ」
「控えがあるの!?」
「明日、君は図書室に来ない。渡すなら今日だ」
「もう配り終わったよ!」
「では、破ってよい」
私は紙を見た。
定規で引いたみたいな線。三行だけの箇条書き。控えを取ってあるということは、あの人はこれを一度、清書したということだ。素麺の配布順を。
……破らなかった。
だって、昨日これで全部配り終わったんだもん。
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六
私はあくびを噛み殺して伸びをする。
「じゃ、私も帰るね。明日に備えて、美容院予約してるの」
「明日って、同窓会だっけ」
「そうそう」
「……ひょっとして、袴田も来るのか」
来た。
温水君は、こういうところだけ勘がいい。ふだんは石みたいに鈍いのに、なんでここだけ引っかかるんだろう。
「もちろん。でも同窓会っていっても大げさなものじゃなくて、草介とか当時仲良かった何人かで遊びに行くだけだよ」
「ふうん。楽しそうじゃん」
「……はい?」
心にもない相槌である。
私は明るく笑ってみせた。ここ、笑うところだから。
「その同窓会に――華恋も来るの」
温水君の動きが止まった。
「え、姫宮さんも?」
「うちらの仲間内、彼氏彼女ができたら紹介するの。強制じゃないけどさ」
温水君が、心配そうな顔をした。
――やめてよ、その顔。
そういう顔をされると、私が心配される側の人間だってことになるじゃんね。
私は明日、髪を切りに行く。切るというほどは切らないけど、整えてもらう。整えてもらって、いちばん気に入っている服を着て、ちゃんと笑って、平気な顔で店に入る。それだけのことである。それだけのことのために、私は三日前から予約を取っている。
「心配ないって。私は一学期の私じゃないの」
「一学期の八奈見さん」
「そう。私はね、自分を取り巻く全て、世界の全てに感謝する優しい心に目覚めたの」
「……はあ」
「温水君にも分かるように説明するね?」
「期待してないけど頼む」
「あのね、草介も華恋も私の親友でしょ。親友が幸せになるってことは、私にとっての幸せでもあるじゃない?」
温水君が素直に頷いた。
よし。
「つまりあの二人は付き合うことによって私を幸せにしてくれたの。今となっては二人には感謝しかないかな」
「……八奈見さんがそれでいいなら」
「いいに決まってるでしょ」
「――感謝と幸福は、別だ」
窓際から声がした。
……いた。
いたけど、いま黙っててくれてもよかったと思う。
「なにが」
「感謝は、相手に向ける。幸福は、自分の状態だ。片方があっても、もう片方は成立しない」
「するよ」
「しない」
「するって! 私、いま幸せだもん!」
「そうか」
「そうだよ」
「では、なぜ本を買った」
私は、口を開けたまま止まった。
鞄の中の一冊が、急に重くなった気がした。
「……見てないでしょ」
「見た。書店の袋を持って部室に来た日がある」
「なんで覚えてんの!?」
「覚えている」
「こわいよ!」
温水君が慌てて割って入った。
「まあまあ、松谷。そのへんで」
「事実の確認をしている」
「その確認、いま必要ないやつだから」
「……そうか」
松谷君は素直に引いた。
引いたけど、私はもう平気な顔ができなくなっていた。
この人は、私を傷つけようとしていない。傷つけようとしていないから、たちが悪い。悪意のある言葉なら弾き返せる。事実だけを置かれると、置かれたものが正しいかどうかを、自分で考えるしかなくなる。
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しばらく、誰も何も言わなかった。
蝉が鳴いている。カーテンが膨らんで、しぼんだ。
やがて、松谷君が言った。
「同窓会は、行ったことがない」
「……は?」
「聞かれていないが、答えておく」
「聞いてないよ」
「同期の会なら、あった。行かなかったが」
「なにが違うの、それ」
「同窓会は、学校を出た者の全体だ。卒業の年が違っても入る。同期会は、同じ年に入った者だけだ」
私は指を折った。
草介、華恋、それから何人か。全員、同じ小学校の同じ学年である。上の学年の人も、下の学年の人も、誰も呼ばれていない。
言われてみれば、そのとおりだった。私はいままで、あれを同窓会だと思いこんでいた。
「……あ。じゃあ私が行くの、同窓会じゃないじゃん」
「同期会だな」
「え、なんか急に固くない? 同期会」
「固い」
「認めるんだ」
「固い会だと聞いた」
「聞いた?」
「行っていない」
「なんで行かなかったの」
「機会がなかった」
「一回も?」
「……あったが、出なかった」
「もったいなくない?」
「……そうだな」
この人が私の言葉に同意するのは珍しい。だいたいは反論してくるか、事実を訂正してくるかのどちらかだ。
窓の外で、吹奏楽が同じ四小節を繰り返している。
「じゃあさ、同じ年の人と仲良かったりしないの?」
「四人で仕事をしたことはある。同じ年の者だ」
「いいじゃん。その人たち、いま何してんの」
返事がなかった。
蝉の声が、また大きく聞こえる。
「松谷君?」
「……分からん」
「連絡取ってないんだ」
「取れていない」
「じゃあ取ればいいじゃん。名前で検索すれば出てくるでしょ」
「……そうだな」
返事が、いつもより半拍遅かった。
検索すれば出てくる、と私は言った。言ってから、なんとなく、言わなければよかったような気がした。理由は分からない。
「一つ、決めておけ」
「なに」
「何時に帰るかだ」
「……は?」
「明日の話だ。店に入る前に、出る時刻を決めておけ」
「決めないよ、そんなの」
「なぜだ」
「流れってものがあるでしょ。楽しかったら残るし、そうじゃなかったら早く出るし」
「それは、決めていないということだ」
「決めなくていいの!」
私は椅子の背に寄りかかった。
なんでこの人は、こんなに人の予定に口を出すんだろう。素麺の配布順といい、明日の帰宅時刻といい。
「流れに任せると、いちばん長くいた者が、いちばん疲れる」
「……」
「楽しいから残るのはいい。残る理由がなくなってから残るのが、いちばんこたえる」
蝉が鳴いていた。
私は何か言い返そうとして、口を開けて、閉じた。
「……何時にすればいいの」
「知らん。君が決めることだ」
「聞いてんじゃん!」
「決め方は教えられる。時刻は決められない」
「役に立たない!」
「立つ」
温水君が横で「立つのか」と小さく言った。
私は聞こえないふりをした。
……六時、かな。
思ったけど、口には出さなかった。出したら、明日それを守らなきゃいけなくなる。
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そのあと、この人はもう一度だけ口を開いた。
「集まれるうちに、集まっておくといい」
言い方が、変だった。
いつもの、事実を読み上げるときの平らな声なのに、そこだけ少し、重さが違った。
「……なにそれ」
「そのままの意味だ」
「そうじゃなくてさ」
返事はなかった。
――なんなの、この人。
慰められた気は、まったくしない。あの人は私が明日どんな顔で店に入るかなんて、たぶん一ミリも考えていない。
考えていないのに、なんで。
なんで私は、いま、鞄に手を入れてるんだろう。
「なにそれ」
温水君が私の手元を見ていた。
出したつもりはなかったのに、手が勝手に出していた。
あなたの心を軽くする108の魔法の言葉
「百八というのは、煩悩の数か」
「ちょっと黙ってて!」
「そうか」
「そうだよ!」
私は表紙を裏返して机に伏せた。
伏せてから、それが一番かっこ悪い動きだと気づいた。隠すというのは、そこに隠すものがあると教える動作である。私は十七年生きてきて、それをいまだに学習できていない。
もういい。開き直ろう。
「あ、これ?」
私はページをめくってみせる。
「なんかこう、君は君のままでいいんだよ、焼鳥は串から外さなくて良いんだ、一本丸ごと食べていい……みたいなことが書いてあるの」
「……焼鳥」
「そう、焼鳥」
「串から」
「外さなくていいの。すごくない?」
「串は、外したほうが食べやすい」
「そういう話じゃない!」
「なぜだ。皿に取り分ければ、複数人で分けられる」
「そこじゃないの! 外さなくていいって言われることに意味があるの!」
「……分からん」
「分からなくていいから!」
私は本を掲げた。
掲げてみて、この本がやたら軽いことに気づいた。心を軽くする本は、物理的にも軽い。そういうところだけは正直だと思う。
「じゃあ松谷君にも貸してあげようか?」
「軽くなるのか」
「……え」
「表紙に、心が軽くなると書いてある。軽くなるのか」
私は本を持ったまま止まった。
……軽くなるのか。
そんなこと、聞かれたことがなかった。この本はもう二週間、私の鞄に入っている。線も引いたし、付箋も貼った。それなのに、軽くなったかどうかを、私は一度も自分に確かめていない。
確かめないほうが、たぶん、都合がよかったからだ。
軽くなっていないと分かったら、この本を鞄に入れておく理由がなくなる。理由がなくなったら、私は次に何を鞄に入れればいいのか分からない。
だから確かめない。持っていることを、効いていることの代わりにしている。
そういうのを、二週間やっていた。
「……なるよ」
「そうか」
「たぶん」
言ってしまった。
「たぶん、とは」
「うるさいな!」
「では、要らない」
「なんでそこで決めるの!」
「軽くならないなら、要らない」
「なるって言ったでしょ!」
「たぶん、と言った」
「聞き逃してよ、そこは!」
「聞いた」
即答だった。
ふつうの人は、こういうとき受け取ってくれる。ぱらぱらめくって、いいねって言って、返してくる。書いてあるとおりになるかどうかなんて、誰も聞かない。聞かないから、私も答えなくていい。
この人は聞いて、私の「たぶん」を拾って、それだけで決めた。
要らない、と言われたのに、突き放された感じがまるでしなかった。
たぶんこの人は、本を否定していない。効くなら要る、効かないなら要らない。それだけを言っている。効くかどうかを決めるのは、持っている私である。
そこを人任せにしていたのは、私のほうだった。
腹が立つより先に、笑ってしまった。
私は笑いながら、隣を向いた。
「温水君にも貸してあげようか?」
温水君は、しばらく私を見ていた。
言いたいことがあるときに黙る人である。黙って、そのまま何も言わないでいてくれる人でもある。
そして、何も言わずに首を横に振った。