負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第36話 2巻1敗目 志喜屋視点 給水

~1敗目~ 夏の終わりは、だいたい誰かのせいである

 

二次創作/視点:志喜屋夢子

 

---

 

 

【志喜屋夢子】

 

「だれか……いるの……?」

 

八月二十一日、午後四時。

 

私はいま、中庭の自販機の陰にいる。

 

正確には寄りかかっている。もっと正確に言うと、崩れ落ちている。

 

生徒会室に書類を出しに来ただけだった。出して帰るだけだった。帰り道に飲み物を買おうと思って自販機の前まで来て、そこで力が尽きた。

 

小銭は握っている。

 

握っているのに、指が動かない。

 

……ボタンって、こんなに高い位置にあったっけ。

 

日陰まで這って、そこから動けなくなった。コンクリートが冷たい。冷たくて気持ちがいい。このまま溶けてもいいかなと思っていたら、足音が聞こえた。

 

「だれか……いるの……?」

 

言うのに三秒かかった。

 

そこそこ大きい声を出したつもりだったけど、たぶん蝉に負けた。

 

足音が止まった。

 

止まって、こちらへ来た。

 

私は手を伸ばした。伸ばすことしかできないので、伸ばした。

 

――ふつうは、ここで悲鳴が上がる。

 

私は知っている。暗がりから白い手が出てきたら人はだいたい叫ぶ。前に一年生の男子が叫んだ。あれはちょっと面白かった。

 

叫ばなかった。

 

代わりに、目の前にしゃがみこんだ人がいた。

 

「……松谷……くん」

 

生徒会に用があってたまに来る一年生ではない。文芸部のほうの一年生だ。名前だけは、いつだったか加瀬君から聞いた。

 

その松谷君は、私の顔を見ていた。

 

見ているというより、確かめていた。

 

「いつから、ここにいますか」

 

「……わかんない」

 

「水は」

 

「……買いに来て……力尽きた」

 

「持っていた分は」

 

「……朝に……飲んだ」

 

「朝から飲んでいないのですか」

 

「……たぶん」

 

「たぶん、では困ります」

 

「……こまる?」

 

「困ります。手を」

 

「……手?」

 

「失礼します」

 

松谷君は私の手首を取った。

 

取って、そのまま黙りこんだ。数を数えているみたいな顔だった。

 

そして立ち上がった。

 

「動かないでください」

 

「……うごけない」

 

「結構です」

 

「……よくない……と思う」

 

――動けない、って言ったのに。

 

そう思ったけど、言葉にする前にいなくなっていた。

 

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戻ってきた松谷君は、ペットボトルを二本持っていた。

 

「いろはすが……いい」

 

「桃ですか」

 

「……なんで……わかったの」

 

「桃のボタンだけ、押した跡が多い」

 

「……見てたの?」

 

「見えました」

 

「……こわい」

 

「よく言われます」

 

「……もう一本は?」

 

「予備です」

 

「……よび」

 

「一本で足りるとは限りません」

 

「……よび……いつも……持ってるの」

 

「持ちます」

 

「……なんで」

 

「一本しかないと、配れません」

 

「……くばる?」

 

「必要な人が二人いた場合です」

 

「……いま……ひとりだけど」

 

「いまはそうです」

 

蓋を開けて、一本を差し出してくる。

 

私は握っていた小銭を出した。

 

出したというより、手を開いた。指が言うことを聞かなかったので、そうするしかなかった。

 

「百四十円です」

 

「……はい」

 

「二十円、お返しします」

 

「……いい……のに」

 

「よくありません」

 

「……こまかい」

 

「細かくありません。十円単位です」

 

「……そこ……こだわるんだ」

 

松谷君は二十円をきっちり私の手に載せて、指を閉じさせた。

 

……この人、こういうところが。

 

いや、この言い方は最近どこかで聞いた。四日前だ。熱帯魚屋で水の話をしていた先生も、同じ言い方をした。よくありません、と言った。

 

それから、松谷君はポケットから小さな筒を出した。

 

中から白い錠剤を二つ出して手のひらに載せる。

 

「……なにそれ」

 

「塩です」

 

「……たべもの?」

 

「食べ物です」

 

「……こわい」

 

「そう言われました。昨日も」

 

「……昨日……だれに」

 

「同級生です」

 

「……おんなのこ?」

 

「……なぜ、そう思われます」

 

「……かん」

 

「勘ですか」

 

「……あたった?」

 

「……次の話をします」

 

「……あたった」

 

「……昨日も?」

 

「昨日もです」

 

「……よく……配ってるんだ」

 

「配ってはいません。必要な人に渡しています」

 

「……それ……配ってる……って言う」

 

「……そうかもしれません」

 

事情はよく分からなかったけど、この夏、私以外にもこれを飲まされた人がいるらしい。

 

かわいそうに、と思った。

 

三秒後に、自分もこれから飲むのだと気づいた。

 

---

 

 

「飲ませて……」

 

言ってみた。

 

これは、私のやつである。

 

弱っているときの私はたいていこれを言う。相手が困る顔を見るためではない。困った顔をされると、こっちが動かなくても会話が進むからだ。会話が進んでいるあいだ、私は言葉を組み立てなくていい。

 

温水君のときは、たっぷり五秒くらい固まっていた。あれは楽しかった。

 

私は目を閉じて、顔を上げた。

 

「……は……やく……」

 

固まらなかった。

 

一秒も、固まらなかった。

 

後頭部に手が回り、支えられて、角度が変わった。

 

「口を開けてください」

 

言われたとおりにした。

 

冷たいのが流れこんできた。少しだけ。すぐ止まって、また少しだけ。

 

――え。

 

――え、なにこれ。

 

私の頭は、そこそこ速い。速いと思っている。

 

なのに、いま、一つも組み立てられていない。

 

――間が、ない。

 

いつもはある。相手が慌てているあいだ、必ず間ができる。その間で私は次の言葉を用意する。それが私の生き方である。

 

この人は慌てない。慌てないから、間ができない。

 

流れが止まった。

 

「一度に飲まないでください。少量ずつです」

 

「……もっと……ほしい」

 

「駄目です」

 

「……けち」

 

「胃が受けつけません」

 

「……にゃっ」

 

むせた。

 

派手にむせた。口の端から冷たいのがこぼれ、顎を伝ってリボンに落ちた。

 

「……こぼれた」

 

「こぼれました」

 

「……あふれそう……だった」

 

「速度を落とします」

 

――そこ?

 

いま、私、けっこう恥ずかしいことをしたと思うんだけど。

 

松谷君は真顔で速度を調整していた。

 

私は残りを飲み終えて、それから塩の錠剤を口に入れた。

 

しょっぱい。

 

ものすごく、しょっぱい。

 

「……まずい」

 

「うまいものではありません」

 

「……そこ……否定しないんだ」

 

「事実です」

 

「……ふつう……そこは……嘘つく」

 

「まずいものをうまいと言うと、次に出したときに飲んでもらえません」

 

「……つぎ……あるの」

 

「あるかもしれません」

 

「志喜屋さん」

 

「……ん」

 

「一つ、伺います」

 

「……どうぞ」

 

「なぜ、誰かに頼まなかったのですか」

 

「……たのむ?」

 

「生徒会室に、人はいましたか」

 

「……いた」

 

「では、水をくれと言えばよかった」

 

私は、答えなかった。

 

答えられなかった、が正しい。

 

「……言うのに……時間が……かかるから」

 

十秒かけて、それだけ言った。

 

「……たのむ……ころには……相手……もう……次の話……してる」

 

「……なるほど」

 

松谷君はペットボトルの蓋を閉めた。

 

「志喜屋さん」

 

「……ん」

 

「要求をしない者の状態は、誰にも分かりません」

 

「……」

 

「倒れてから分かります。倒れてからでは、遅い」

 

私は日陰のコンクリートを見ていた。

 

正しい。ものすごく正しい。

 

正しいけど、それができたら十六年苦労していない。

 

「……できたら……してる」

 

「そうでしょうね」

 

あっさり認められた。

 

そのあと、この人は言った。

 

「文にしようとするから、時間がかかるのだと思います」

 

「……ぶん?」

 

「水をいただけますかと言おうとすると、十秒かかる。水、なら一秒です」

 

「……たんご……だけ?」

 

「単語だけで結構です」

 

「……それ……失礼じゃない?」

 

「倒れるほうが、失礼です」

 

私は、口を開けた。

 

そのまま、しばらく閉じられなかった。

 

「無礼だと思われるのが嫌なら、そのときは私が言い直します。伝わってからでいい」

 

「……つたわって……から」

 

「先に伝えてください。整えるのは、そのあとです」

 

蝉が鳴いていた。

 

順番が、逆だった。

 

私はいつも、整えてから伝えようとしていた。整え終わるころには、伝える相手がいなくなっている。

 

十六年、そればかりやっていた。

 

「……松谷君」

 

「はい」

 

「……あなた……なんの……仕事……してたの」

 

「高校生です」

 

「……こたえに……なってない」

 

「なっています」

 

---

 

三分くらいして、頭のふわふわが引いた。

 

引いてから気づいた。

 

心臓が、速い。

 

暑さのせいだと思う。

 

たぶん。

 

「……松谷君」

 

「はい」

 

「……いま……はやいのは……暑さ……だと思う」

 

「そうでしょうね」

 

「……そこ……否定して」

 

「否定する材料がありません」

 

「……つまんない」

 

「よく言われます」

 

---

 

 

「口、拭いて……?」

 

私はハンカチを差し出した。

 

ピンクの、フリルのついたやつである。

 

「……ピンク」

 

「見えています」

 

「……いや?」

 

「布です」

 

ここもいつもは面白いところだ。だいたいの人は「持ってるなら自分で拭いてください」と言う。言いながら結局やってくれる。そのやりとりが好きだった。

 

松谷君はハンカチを受け取った。

 

何も言わずに、私の口の端を拭いた。

 

……速い。

 

そして、慣れていた。

 

力の入れ方がちょうどよかった。強すぎず、弱すぎず、一度で終わる。こういうのは、やったことのある人の手つきである。

 

「……上手」

 

「そうですか」

 

「……なんで……なれてるの」

 

「……昔、少し」

 

「……なにを」

 

「人の顔を拭くことです」

 

「……こたえに……なってない」

 

「なっています」

 

四日前にも、まったく同じ言葉を聞いた。

 

熱帯魚屋の棚の前で、詳しいんですねと聞いたら、その先生は昔少し、と言った。

 

「……松谷君」

 

「はい」

 

「……知り合いに……似てる」

 

「どなたです」

 

「……先生」

 

「学校の教員は、私の知り合いです」

 

「……そういう……意味じゃなくて」

 

「そうですか」

 

流された。

 

流し方まで似ている、と言おうとしたけど、言い終わる前に話が動いた。

 

「リボンが濡れています」

 

「……ん」

 

「そこは、ご自分で」

 

「……とって……くれないの」

 

「ご自分の服です」

 

「……つめたい」

 

「適切です」

 

松谷君はハンカチを持ったまま、半歩下がった。

 

――あ。

 

いま、この人、線を引いた。

 

すごく自然に、こちらに気を遣わせない引き方で引いた。

 

私はリボンを押さえながら、なんとなく悔しくなった。

 

からかったつもりが、全部きれいに処理されている。

 

---

 

 

日が傾いてきた。

 

中庭のコンクリートから、まだ熱が上がってくる。蝉が鳴いている。

 

私は、聞こうと思っていたことを思い出した。

 

正確にはずっと思い出していた。生徒会室を出たときから頭の中で組み立てていた。組み立てては崩し、また組み立てていた。

 

言えるかどうか、自信がなかった。

 

いまなら、言えそうな気がした。

 

「……そういえば」

 

「はい」

 

「……古都さん……月之木先輩は……どうしてる」

 

言い終わるのに、十秒くらいかかった。

 

松谷君は、待った。

 

途中で口を挟まなかった。

 

「今日、部室で会いました」

 

「……そう」

 

「受験勉強が進んでいないそうです」

 

「……あの人……昔から」

 

「あとは自動車学校に通っていると聞きました」

 

「……じどうしゃ」

 

「本人がそう言っていました」

 

「……受験は?」

 

「進んでいないそうです」

 

「……ふうん」

 

私は、次の言葉を組み立てた。

 

これは短い。短いから、たぶん言える。

 

「……玉木さんと……付き合いだしたのは……ホント?」

 

「本当です」

 

即答だった。

 

嘘をつかない人なんだな、と思った。

 

思って、そのあと、何も思えなくなった。

 

「……そう……なんだ……」

 

蝉が鳴いている。

 

私は自販機に手をついた。ついてから、必要な動作ではなかったことに気づいた。

 

「志喜屋さん」

 

「……ん」

 

「一つ、聞いてもいいですか」

 

「……どうぞ」

 

松谷君は、私を見ていた。

 

そして、聞いた。

 

「なぜ、いま、それを聞いたのですか」

 

――え。

 

「……なんで……そんなこと……聞くの」

 

「知りたいからです」

 

「……こたえに……なってない」

 

「なっています」

 

私は口を開けた。

 

開けたまま、何も出てこなかった。

 

いつもは組み立てているうちに話が次に進む。それが私の困りごとである。

 

いまは、違った。

 

組み立てられなかった。

 

材料がない。単語が一つも浮かばない。頭の中がきれいに白い。

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

松谷君は、待っていた。

 

十秒くらい待った。

 

二十秒くらい待った。

 

私が何も言わないと分かると、それ以上は聞かなかった。

 

「分かりました」とも言わなかった。

 

ただ、視線を自販機のサンプルのほうへ移して、そこで止めた。

 

――ずるい。

 

この人、待つのに、答えなくていいとは言わない。

 

言われたら楽なのに。

 

言われないから、私はいま、答えられなかった自分と二人きりになっている。

 

---

 

 

「……帰る」

 

私は立ち上がった。

 

立ち上がった、つもりだった。

 

膝が抜けて、体が前に倒れた。

 

松谷君が支えた。

 

肩ではなく腕のところを持たれた。持たれて、まっすぐに戻されて、それからすぐに離された。

 

一秒もなかった。

 

「歩けますか」

 

「……たぶん」

 

「校舎の中を通ってください。日陰です」

 

「……うん」

 

「途中で座れる場所があります。二階の渡り廊下です」

 

「……くわしい」

 

「調べました」

 

「……いつ」

 

「先ほどです」

 

「タクシーを呼びますか」

 

「……だいじょうぶ……迎え……来る」

 

「では、日陰で待ってください」

 

「……はい」

 

「返事は一度で結構です」

 

「……一度しか……言ってない」

 

指示が多い。

 

多いんだけど、全部そのとおりにしたほうがいい内容だった。

 

私は数歩あるいて振り返った。

 

松谷君は、ハンカチを持ったままだった。

 

「……それ」

 

「洗って返します」

 

「……いい……のに」

 

言った。

 

言ったけど、遅かった。

 

「松谷君」

 

「はい」

 

「……名前」

 

「なんでしょう」

 

「……次に会ったら……教えて」

 

「いま言えます」

 

「……いい。……次で」

 

その人は一度だけ振り返って、それから背を向けた。

 

日差しの中をまっすぐ歩いていく。角を曲がるときも姿勢が崩れない。

 

私は口を半分開けたまま、それを見送った。

 

そこで、気づいた。

 

――名前、って。

 

一語だった。

 

水、と同じである。文にしなかった。整えなかった。組み立てもしなかった。

 

なのに、通じた。

 

いま言えます、とあの人は言った。ちゃんと、私の言いたいことが届いていた。

 

十六年で、初めてかもしれない。

 

――間に合わなかった。

 

いつものことである。

 

私が言葉を組み立て終わるころには、たいてい話は次に進んでいる。今日もそうだった。

 

なのに。

 

私は、自分の口の端がわずかに上がっているのに気づいた。

 

――間に合わなくて、よかった。

 

だって、あの人はハンカチを持っている。

 

持っている以上、返しに来る。

 

返しに来るなら、次がある。

 

次があるなら、そのときに聞ける。似ている先生のことも、あの質問に答えられなかった理由も、まだ全部間に合う。

 

「……はじめて」

 

私は日陰へ入りながら、小さく言った。

 

「……間に合わなくて……よかったの……はじめて」

 

蝉が鳴いていた。

 

コンクリートの熱が、少しずつ引いていった。

 

《ハンカチ 一枚 返却待ち》

 

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