負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
~1敗目~ 夏の終わりは、だいたい誰かのせいである
二次創作/視点:志喜屋夢子
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一
【志喜屋夢子】
「だれか……いるの……?」
八月二十一日、午後四時。
私はいま、中庭の自販機の陰にいる。
正確には寄りかかっている。もっと正確に言うと、崩れ落ちている。
生徒会室に書類を出しに来ただけだった。出して帰るだけだった。帰り道に飲み物を買おうと思って自販機の前まで来て、そこで力が尽きた。
小銭は握っている。
握っているのに、指が動かない。
……ボタンって、こんなに高い位置にあったっけ。
日陰まで這って、そこから動けなくなった。コンクリートが冷たい。冷たくて気持ちがいい。このまま溶けてもいいかなと思っていたら、足音が聞こえた。
「だれか……いるの……?」
言うのに三秒かかった。
そこそこ大きい声を出したつもりだったけど、たぶん蝉に負けた。
足音が止まった。
止まって、こちらへ来た。
私は手を伸ばした。伸ばすことしかできないので、伸ばした。
――ふつうは、ここで悲鳴が上がる。
私は知っている。暗がりから白い手が出てきたら人はだいたい叫ぶ。前に一年生の男子が叫んだ。あれはちょっと面白かった。
叫ばなかった。
代わりに、目の前にしゃがみこんだ人がいた。
「……松谷……くん」
生徒会に用があってたまに来る一年生ではない。文芸部のほうの一年生だ。名前だけは、いつだったか加瀬君から聞いた。
その松谷君は、私の顔を見ていた。
見ているというより、確かめていた。
「いつから、ここにいますか」
「……わかんない」
「水は」
「……買いに来て……力尽きた」
「持っていた分は」
「……朝に……飲んだ」
「朝から飲んでいないのですか」
「……たぶん」
「たぶん、では困ります」
「……こまる?」
「困ります。手を」
「……手?」
「失礼します」
松谷君は私の手首を取った。
取って、そのまま黙りこんだ。数を数えているみたいな顔だった。
そして立ち上がった。
「動かないでください」
「……うごけない」
「結構です」
「……よくない……と思う」
――動けない、って言ったのに。
そう思ったけど、言葉にする前にいなくなっていた。
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二
戻ってきた松谷君は、ペットボトルを二本持っていた。
「いろはすが……いい」
「桃ですか」
「……なんで……わかったの」
「桃のボタンだけ、押した跡が多い」
「……見てたの?」
「見えました」
「……こわい」
「よく言われます」
「……もう一本は?」
「予備です」
「……よび」
「一本で足りるとは限りません」
「……よび……いつも……持ってるの」
「持ちます」
「……なんで」
「一本しかないと、配れません」
「……くばる?」
「必要な人が二人いた場合です」
「……いま……ひとりだけど」
「いまはそうです」
蓋を開けて、一本を差し出してくる。
私は握っていた小銭を出した。
出したというより、手を開いた。指が言うことを聞かなかったので、そうするしかなかった。
「百四十円です」
「……はい」
「二十円、お返しします」
「……いい……のに」
「よくありません」
「……こまかい」
「細かくありません。十円単位です」
「……そこ……こだわるんだ」
松谷君は二十円をきっちり私の手に載せて、指を閉じさせた。
……この人、こういうところが。
いや、この言い方は最近どこかで聞いた。四日前だ。熱帯魚屋で水の話をしていた先生も、同じ言い方をした。よくありません、と言った。
それから、松谷君はポケットから小さな筒を出した。
中から白い錠剤を二つ出して手のひらに載せる。
「……なにそれ」
「塩です」
「……たべもの?」
「食べ物です」
「……こわい」
「そう言われました。昨日も」
「……昨日……だれに」
「同級生です」
「……おんなのこ?」
「……なぜ、そう思われます」
「……かん」
「勘ですか」
「……あたった?」
「……次の話をします」
「……あたった」
「……昨日も?」
「昨日もです」
「……よく……配ってるんだ」
「配ってはいません。必要な人に渡しています」
「……それ……配ってる……って言う」
「……そうかもしれません」
事情はよく分からなかったけど、この夏、私以外にもこれを飲まされた人がいるらしい。
かわいそうに、と思った。
三秒後に、自分もこれから飲むのだと気づいた。
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三
「飲ませて……」
言ってみた。
これは、私のやつである。
弱っているときの私はたいていこれを言う。相手が困る顔を見るためではない。困った顔をされると、こっちが動かなくても会話が進むからだ。会話が進んでいるあいだ、私は言葉を組み立てなくていい。
温水君のときは、たっぷり五秒くらい固まっていた。あれは楽しかった。
私は目を閉じて、顔を上げた。
「……は……やく……」
固まらなかった。
一秒も、固まらなかった。
後頭部に手が回り、支えられて、角度が変わった。
「口を開けてください」
言われたとおりにした。
冷たいのが流れこんできた。少しだけ。すぐ止まって、また少しだけ。
――え。
――え、なにこれ。
私の頭は、そこそこ速い。速いと思っている。
なのに、いま、一つも組み立てられていない。
――間が、ない。
いつもはある。相手が慌てているあいだ、必ず間ができる。その間で私は次の言葉を用意する。それが私の生き方である。
この人は慌てない。慌てないから、間ができない。
流れが止まった。
「一度に飲まないでください。少量ずつです」
「……もっと……ほしい」
「駄目です」
「……けち」
「胃が受けつけません」
「……にゃっ」
むせた。
派手にむせた。口の端から冷たいのがこぼれ、顎を伝ってリボンに落ちた。
「……こぼれた」
「こぼれました」
「……あふれそう……だった」
「速度を落とします」
――そこ?
いま、私、けっこう恥ずかしいことをしたと思うんだけど。
松谷君は真顔で速度を調整していた。
私は残りを飲み終えて、それから塩の錠剤を口に入れた。
しょっぱい。
ものすごく、しょっぱい。
「……まずい」
「うまいものではありません」
「……そこ……否定しないんだ」
「事実です」
「……ふつう……そこは……嘘つく」
「まずいものをうまいと言うと、次に出したときに飲んでもらえません」
「……つぎ……あるの」
「あるかもしれません」
「志喜屋さん」
「……ん」
「一つ、伺います」
「……どうぞ」
「なぜ、誰かに頼まなかったのですか」
「……たのむ?」
「生徒会室に、人はいましたか」
「……いた」
「では、水をくれと言えばよかった」
私は、答えなかった。
答えられなかった、が正しい。
「……言うのに……時間が……かかるから」
十秒かけて、それだけ言った。
「……たのむ……ころには……相手……もう……次の話……してる」
「……なるほど」
松谷君はペットボトルの蓋を閉めた。
「志喜屋さん」
「……ん」
「要求をしない者の状態は、誰にも分かりません」
「……」
「倒れてから分かります。倒れてからでは、遅い」
私は日陰のコンクリートを見ていた。
正しい。ものすごく正しい。
正しいけど、それができたら十六年苦労していない。
「……できたら……してる」
「そうでしょうね」
あっさり認められた。
そのあと、この人は言った。
「文にしようとするから、時間がかかるのだと思います」
「……ぶん?」
「水をいただけますかと言おうとすると、十秒かかる。水、なら一秒です」
「……たんご……だけ?」
「単語だけで結構です」
「……それ……失礼じゃない?」
「倒れるほうが、失礼です」
私は、口を開けた。
そのまま、しばらく閉じられなかった。
「無礼だと思われるのが嫌なら、そのときは私が言い直します。伝わってからでいい」
「……つたわって……から」
「先に伝えてください。整えるのは、そのあとです」
蝉が鳴いていた。
順番が、逆だった。
私はいつも、整えてから伝えようとしていた。整え終わるころには、伝える相手がいなくなっている。
十六年、そればかりやっていた。
「……松谷君」
「はい」
「……あなた……なんの……仕事……してたの」
「高校生です」
「……こたえに……なってない」
「なっています」
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三分くらいして、頭のふわふわが引いた。
引いてから気づいた。
心臓が、速い。
暑さのせいだと思う。
たぶん。
「……松谷君」
「はい」
「……いま……はやいのは……暑さ……だと思う」
「そうでしょうね」
「……そこ……否定して」
「否定する材料がありません」
「……つまんない」
「よく言われます」
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四
「口、拭いて……?」
私はハンカチを差し出した。
ピンクの、フリルのついたやつである。
「……ピンク」
「見えています」
「……いや?」
「布です」
ここもいつもは面白いところだ。だいたいの人は「持ってるなら自分で拭いてください」と言う。言いながら結局やってくれる。そのやりとりが好きだった。
松谷君はハンカチを受け取った。
何も言わずに、私の口の端を拭いた。
……速い。
そして、慣れていた。
力の入れ方がちょうどよかった。強すぎず、弱すぎず、一度で終わる。こういうのは、やったことのある人の手つきである。
「……上手」
「そうですか」
「……なんで……なれてるの」
「……昔、少し」
「……なにを」
「人の顔を拭くことです」
「……こたえに……なってない」
「なっています」
四日前にも、まったく同じ言葉を聞いた。
熱帯魚屋の棚の前で、詳しいんですねと聞いたら、その先生は昔少し、と言った。
「……松谷君」
「はい」
「……知り合いに……似てる」
「どなたです」
「……先生」
「学校の教員は、私の知り合いです」
「……そういう……意味じゃなくて」
「そうですか」
流された。
流し方まで似ている、と言おうとしたけど、言い終わる前に話が動いた。
「リボンが濡れています」
「……ん」
「そこは、ご自分で」
「……とって……くれないの」
「ご自分の服です」
「……つめたい」
「適切です」
松谷君はハンカチを持ったまま、半歩下がった。
――あ。
いま、この人、線を引いた。
すごく自然に、こちらに気を遣わせない引き方で引いた。
私はリボンを押さえながら、なんとなく悔しくなった。
からかったつもりが、全部きれいに処理されている。
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五
日が傾いてきた。
中庭のコンクリートから、まだ熱が上がってくる。蝉が鳴いている。
私は、聞こうと思っていたことを思い出した。
正確にはずっと思い出していた。生徒会室を出たときから頭の中で組み立てていた。組み立てては崩し、また組み立てていた。
言えるかどうか、自信がなかった。
いまなら、言えそうな気がした。
「……そういえば」
「はい」
「……古都さん……月之木先輩は……どうしてる」
言い終わるのに、十秒くらいかかった。
松谷君は、待った。
途中で口を挟まなかった。
「今日、部室で会いました」
「……そう」
「受験勉強が進んでいないそうです」
「……あの人……昔から」
「あとは自動車学校に通っていると聞きました」
「……じどうしゃ」
「本人がそう言っていました」
「……受験は?」
「進んでいないそうです」
「……ふうん」
私は、次の言葉を組み立てた。
これは短い。短いから、たぶん言える。
「……玉木さんと……付き合いだしたのは……ホント?」
「本当です」
即答だった。
嘘をつかない人なんだな、と思った。
思って、そのあと、何も思えなくなった。
「……そう……なんだ……」
蝉が鳴いている。
私は自販機に手をついた。ついてから、必要な動作ではなかったことに気づいた。
「志喜屋さん」
「……ん」
「一つ、聞いてもいいですか」
「……どうぞ」
松谷君は、私を見ていた。
そして、聞いた。
「なぜ、いま、それを聞いたのですか」
――え。
「……なんで……そんなこと……聞くの」
「知りたいからです」
「……こたえに……なってない」
「なっています」
私は口を開けた。
開けたまま、何も出てこなかった。
いつもは組み立てているうちに話が次に進む。それが私の困りごとである。
いまは、違った。
組み立てられなかった。
材料がない。単語が一つも浮かばない。頭の中がきれいに白い。
「……」
「……」
「……」
松谷君は、待っていた。
十秒くらい待った。
二十秒くらい待った。
私が何も言わないと分かると、それ以上は聞かなかった。
「分かりました」とも言わなかった。
ただ、視線を自販機のサンプルのほうへ移して、そこで止めた。
――ずるい。
この人、待つのに、答えなくていいとは言わない。
言われたら楽なのに。
言われないから、私はいま、答えられなかった自分と二人きりになっている。
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六
「……帰る」
私は立ち上がった。
立ち上がった、つもりだった。
膝が抜けて、体が前に倒れた。
松谷君が支えた。
肩ではなく腕のところを持たれた。持たれて、まっすぐに戻されて、それからすぐに離された。
一秒もなかった。
「歩けますか」
「……たぶん」
「校舎の中を通ってください。日陰です」
「……うん」
「途中で座れる場所があります。二階の渡り廊下です」
「……くわしい」
「調べました」
「……いつ」
「先ほどです」
「タクシーを呼びますか」
「……だいじょうぶ……迎え……来る」
「では、日陰で待ってください」
「……はい」
「返事は一度で結構です」
「……一度しか……言ってない」
指示が多い。
多いんだけど、全部そのとおりにしたほうがいい内容だった。
私は数歩あるいて振り返った。
松谷君は、ハンカチを持ったままだった。
「……それ」
「洗って返します」
「……いい……のに」
言った。
言ったけど、遅かった。
「松谷君」
「はい」
「……名前」
「なんでしょう」
「……次に会ったら……教えて」
「いま言えます」
「……いい。……次で」
その人は一度だけ振り返って、それから背を向けた。
日差しの中をまっすぐ歩いていく。角を曲がるときも姿勢が崩れない。
私は口を半分開けたまま、それを見送った。
そこで、気づいた。
――名前、って。
一語だった。
水、と同じである。文にしなかった。整えなかった。組み立てもしなかった。
なのに、通じた。
いま言えます、とあの人は言った。ちゃんと、私の言いたいことが届いていた。
十六年で、初めてかもしれない。
――間に合わなかった。
いつものことである。
私が言葉を組み立て終わるころには、たいてい話は次に進んでいる。今日もそうだった。
なのに。
私は、自分の口の端がわずかに上がっているのに気づいた。
――間に合わなくて、よかった。
だって、あの人はハンカチを持っている。
持っている以上、返しに来る。
返しに来るなら、次がある。
次があるなら、そのときに聞ける。似ている先生のことも、あの質問に答えられなかった理由も、まだ全部間に合う。
「……はじめて」
私は日陰へ入りながら、小さく言った。
「……間に合わなくて……よかったの……はじめて」
蝉が鳴いていた。
コンクリートの熱が、少しずつ引いていった。
《ハンカチ 一枚 返却待ち》