負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
【小鞠知花】
作戦名、「幽霊部員回収大作戦」。
立案、小鞠知花。実行、小鞠知花。承認、誰もしてない。
だって部長は逃げたから。
ことの起こりは昨日の放課後である。生徒会から一枚、紙が来た。
「名簿に載ってるのに一度も来てない部員が二名いるんだって。実態に即して報告しろって」
古都先輩は、その紙を指で弾いた。
「丁寧でしょ。丁寧で、事務的で、つまり死刑宣告」
「……ご、五人しか、いないのに」
「そう。うち二人が幽霊。で、私と玉木は来年いない」
先輩は指を折った。
「小鞠ちゃん、引き算できる?」
「……一人」
「うん。来年の文芸部、小鞠ちゃん一人」
「せ、先輩は」
「卒業するね」
「た、玉木先輩は」
「する」
「じゃ、じゃあ」
「小鞠ちゃん一人」
「……む、無理です」
「うん、無理だね」
「そ、そこは嘘ついてください!」
「嘘ついてどうにかなるなら、いくらでもつくよ」
一人の部は、部じゃない。
部室がなくなったら、私は、どこで本を読めばいいの。
だから私は立ち上がった。比喩じゃなくて、物理的に。それで教室の入口で二十分、立ったままでいる。
……だ、だって、一年C組、遠いんだもん。心理的に。
教室というのは、怖い。知らない人間が入っていくと、空気が一瞬「ん?」となる。
あの「ん?」で私のHPは八割削れる。
でも行くしかない。部室のためだ。
——ちなみに私は、昼休みに一度、逃げている。
図書室に。
*
旧校舎の図書室には、非常勤の高木先生がいる。
春に来た先生で、数学と倫理を持っていて、あとはずっとここにいる。若い。若いのに姿勢がおかしいくらい良い。
背もたれに触らずに一時間座っていられる人を、私は他に知らない。
この人の前だと、なぜか少しだけ喋れる。
たぶん、こっちを見ないからだ。本の背表紙に番号を貼りながら聞いている。
「……せ、生徒会から、紙が来て」
「拝見しました」
「え」
「小鞠さんが持ってきて、机に置いて、逃げていきました。三日前です」
「……」
覚えられていた。
「二人、増やさないと、部が」
「なくなりますね」
言い切られた。
この先生は慰めない。だから私は、この先生のところへ来る。
「……ど、どうしたら」
「教室へ行くのでしょう」
「む、無理です」
「そうですか」
先生は次の本を取った。
「では、来年の四月に、あなた一人で部室の鍵を開けることになります」
「……」
「それでもよければ、無理をなさらないほうがいい」
私は本棚の陰から、先生の背中を見た。
こわい。この人の言い方、こわい。
「せ、先生」
「はい」
「……い、意地悪、ですか」
「いえ」
先生は手を止めた。
そして、初めてこちらを見た。
——やっぱりこの目、こわい。
「私は、決断を先延ばしにする人を、たくさん見てきました」
「……」
「みなさん、理由がありました。いま動くと角が立つ、もう少し様子を見よう、動いて失敗したらどうする。全部、もっともな理由です」
先生は薬瓶を出して栓を抜き、中身をあおった。顔をしかめる。
「そうやって様子を見ているうちに、見るべきものが無くなりました」
「……」
「小鞠さん。傷つくのが怖くて何もしないというのは、慎重とは言いません」
言葉が、途中で止まった。
先生が言い直したのが分かった。もっときつい言い方をしかけて、やめたのだ。
「——負けに行く態度、と言います」
「ま、負け……」
「はい。いちばん、みっともない負け方です」
私は本棚を掴んでいた。
指が痛い。
「そ、そんな言い方」
「すみません」
先生はあっさり謝った。
「ですが、訂正はしません」
この人、絶対いい人じゃない。
……いい人じゃないのに、なんで私は、ここに来るんだろう。
「小鞠さん」
「……はい」
「二人とも、断らないと思いますよ」
顔を上げた。
「な、なんで」
「名前だけ置いて二か月来ない生徒というのは、たいてい、行く場所がないだけです」
先生は本を棚に戻した。
「行く場所がない人間は、呼ばれると、来ます」
*
というやりとりがあって。
私はいま、一年C組の入口に立っている。
目標その一、温水和彦。
入学式の直後に見学に来て入部届を書いて、それきり来なくなった人。顔は……ええと……思い出せそうで思い出せない。写真で見ると「ああ」ってなるのに、目を離すと消える顔。
教室を覗きこむと、いた。窓から三列目。机に突っ伏して消えようとしている。
……あ、あの人だ。消え方に見覚えがある。
私は深呼吸を三回した。
(すみません、文芸部の小鞠です。入部届の件でお話が)
よし。完璧。今日の私は喋れる。
突入した。
「あ、あの……ぬ、温水君、ですよね」
「えっと、どちらさま」
——どちらさま。
どちらさまと来たか。
いや、いい。想定内。私だって人の顔を覚えられない側の人間だ。
お互いさま。お互いさまだけどちょっとだけ傷ついた。
「こ、小鞠です! 小鞠知花! 文芸部!」
「文芸部の人が、俺に何の用?」
…………。
……この人、忘れてる。
入部したこと自体を、忘れてる。
嘘でしょ。入部届って忘れられるものなの?私はあの日、入部届を書くのに十五分かけたよ。
ボールペンの試し書きから始めたよ。
説明する気力が尽きたので、私はスマホを出した。文明の利器。私の外部音声。
『生徒会から、名前だけで活動していない部員がいるという指摘がありました。うちは人数がギリギリなんです』
「あー……そう言われれば、そうかもしれない」
思い出した。よかった。
『今日の放課後、部室に来てください』
「あー、うん。分かった。顔出すよ」
……よし。
「あ、あの」
「うん?」
「……い、以上です」
「うん」
よし!一人目、確保!
私はやればできる子。コミュニケーション、完全に成立した。九割スマホで最後の一割が「以上です」だったけど、成立は成立。
目標その二、松谷誠。
こっちはもっと情報がない。五月に転入してきて入部届を出して、一回も来てない人。名簿の字だけ知ってる。
やたら綺麗な字だった。定規で書いたのかと思った。
窓際の席で数学を解いている男子がいた。名簿の写真と、たぶん一致。
「あ、あの……ま、松谷君、ですよね」
「そうだ」
「わっ、わたし、文芸部の——」
「小鞠知花さんだな」
——ひっ。
な、なんで。なんで名前。私、名乗ってない。
名乗る前に言われた。
「な、なんで名前」
「同学年の名簿は覚えている」
「ぜ、全員……?」
「四百二十一人だ」
こわい。
「あ、あの、なんで、覚えて」
「必要だと思ったので」
「な、なにに」
「まだ分かりません」
分からないのに覚えるな。
何この人。名簿を覚える人、実在するの?個人情報が個人の頭の中に格納されている。
後ずさりする私に、松谷君は姿勢を正して言った。
「用件は」
「あ、あの、ぶ、文芸部の……」
「入部届を出したまま、一度も出席していない件だな」
は、話が早い。早すぎる。私の用件が、私の言う前に終わってる。
隣で温水君が身を乗り出した。
「お前も?」
「五月に出した」
「なんで行ってないんだよ」
「行く必要が生じなかった」
「入部届出しといて!?」
……この人たち、知り合いなんだ。ちょっと意外。どっちも一人でいそうな顔してるのに。
私はスマホを叩いて、二人に画面を向けた。
『二人とも今日の放課後、部室に来てください』
太字にした。太字は、私の精一杯の圧である。
【松谷誠】
五月の連休明け、松平先生——校内ではそう呼ぶことになっている——が夕食の席で言った。
「松谷君、加瀬君。部活には入っておきなさい」
「必要ですか」
「必要です」
侯爵は味噌汁を置いて、にこにこと続けた。
「どこにも属していない生徒というのは、目立つんですよ。教員の視野に、変な形で引っかかる」
「なるほど」
「所属というのはね、隠れ蓑としては優秀です。人は、肩書きのある人間を疑いません」
加瀬が笑った。
「侯爵、それ、我々が二年やったことですよ」
「そうです。二年やって、一度も疑われませんでした」
というわけで、俺は文芸部に入部届を出した。
「文芸部ですか」
加瀬が意外そうな顔をした。
「理由は三つある。一つ、部員が少ないので目立たない」
「ふむ」
「二つ、活動の実態が薄いので拘束されない」
「三つ目は」
「旧校舎にある。高木先生の図書室と同じ建物だ」
「……三つ目が本命ですね」
「順番に意味はない」
「ありますよ。あなたは大事なものを最後に置く癖がある」
加瀬は箸を置いた。
「で、行かれるんですか」
「行かない」
「は?」
「入って、行かない。それが最も安全だ」
「安全ですか」
「行けば人間関係が生じる。生じれば来歴を聞かれる。聞かれれば、いずれ嘘をつくことになる」
「嘘は、つけばつくほど整合が取れなくなる」
「そうだ。八年前に学んだ」
加瀬はしばらく俺を見ていた。
それから、味噌汁を飲んだ。
「私は新聞部にします」
「理由は」
「書けるからです」
「ほかには」
「ありません」
一つしかなかった。
——判断は、正しかったと思う。
だが今日、小柄な一年生に太字で呼び出された。
【小鞠知花】
放課後の部室で、私は文庫本を構えて待っていた。
読んでない。一文字も読んでない。ページをめくる指がさっきから同じところを往復してる。
だって、これから知らない人が二人来るんだよ。私の部室に。私の聖域に。
来た。
扉が開いて、温水君と松谷君が入ってくる。
私は本から顔を上げない。上げないことで、平常心を演出する。演出は大事。
中身はバクバクだけど。
温水君は離れたパイプ椅子に座った。距離の取り方が上手い。この人、分かってる。
問題は松谷君だった。
座らない。本棚の前に立って、じっと棚を見てる。
……な、なに。なんで棚を見るの。棚には何もないよ。
何も。何もないったら。
あるんだけど。
私の蔵書が。カバーを、その、かけ替えた本たちが。
やめて。そこは通り過ぎて。太宰は囮なの。
太宰のカバーは全人類が素通りする安全地帯なの。
温水君が一冊、手に取った。
……あ。
あああああ。
それ。それは。それは駄目なやつ。
『昭和二十三年、玉川上水にて』のやつ。私の、自費出版の、魂の。
温水君のページをめくる手が、止まった。
顔が、ゆっくりこっちを向く。
私は本を奪い取った。自分でもびっくりする速さで体が動いた。火事場の何とか力。
「だっ、だだだ、駄目! これ男子、よっ、読むの禁止!」
「太宰治だろ?」
「そ、そう! だから、だめ!」
「なんでだよ」
「だ、太宰は、男子が読むと、その」
「読んだけど」
「読んだの!?」
「授業で」
「じゃ、じゃあ、これは違うやつ!」
「太宰じゃないのか」
「……ち、違わない」
理屈はない。理屈はないの。禁止だから禁止なの。
世の中には理由を説明できない禁止事項があるの。
と、そのとき隣で声がした。
「小鞠さん」
「ひっ」
松谷君が、別の一冊を開いていた。
終わった。二冊目。私の防衛線、既に二箇所突破。
「これは、印刷所を通していないな」
「あ、あああああ」
「綴じが手で折ってある。それに、目次の頁数と本文の頁数が合っていない。あとから差し替えた綴りが二つある」
「な、なななんで、そんなとこ見るの!」
「差し替えのある綴りは、まず疑う」
……。
…………ん?
待って。
この人、いま製本の話しかしてない。
中身。中身についての言及がゼロ。目次と頁数の話だけしてる。
内容には、指一本触れてない。
わざと?わざとなの?それとも本当に製本しか見てないの?
どっちにしても、この対応は——
——ちょっとだけ、助かる。
いや駄目。ほだされるな私。この人は敵。
私の聖域を暴いた敵。
「わ、私の、蔵書……!」
「私物だったのか」
「し、資料!」
資料です。文芸活動のための資料。研究です。
学術です。
そこへ、扉が開いた。
「おー、さっそく仲良くやってるねー」
古都先輩だ。助かった。援軍。
いや、この人も油断すると敵になるんだけど今は味方。
私は先輩の後ろに隠れた。定位置である。
「あら、二人とも来たんだ。私、月之木古都。三年で副部長ね」
先輩は椅子を引いて座った。
「単刀直入に言うね。うち、部員が五人しかいないの」
「五名の内訳を伺っても」
「私、部長の玉木、小鞠ちゃん、あんたたち二人」
「その部長は」
「今日も逃げてる」
「逃げる部長がいるのですか」
「いるんだなこれが」
「では、本日この部屋にいる五名のうち、三名が本日初対面ということになります」
「そうなの。ひどい部でしょ」
「三年生はお二人ですか」
「そう。私と玉木は来年いない」
私が二十分かけても言えなかったことを、先輩は二分で言った。
……いいなあ、ああいうの。私も、ああやって喋れたらなあ。
「規定では」
松谷君が口を開いた。
「部として存続するのに、何名必要ですか」
「五人よ」
「現在、活動実態のある部員は三名」
「そうね」
「では、我々二名が抜けた時点で、廃部です」
「そういうこと」
部室が、しんとした。
……そうだよ。
そういうことなんだよ。
私はうつむいた。手をぎゅっと握る。袖が長いのは、こういうときに便利だ。
言えなかったんだ、私。教室で。「あなたたちがいないと部が潰れます、私の居場所がなくなります」って。
そんなの重すぎて言えない。だから生徒会がどうとか、指摘がどうとか、そういう言い方をした。
卑怯だって、分かってる。
「あの」
温水君が口を開いた。
「俺、来ます」
……え。
「いや、その。籍だけあるのも気持ち悪いし。本もいっぱいあるし。……ラノベとか、読んでいいなら」
「よ、読んでいい」
即答した。自分でも驚く速さで。
ラノベ、いっぱいあるよ。先輩たちが置いてったのも私のも。読んでいいよ。
いくらでも読んでいいよ。
「じゃあ来ます」
「……う、うん」
私はうつむいた。前髪、ありがとう。今の顔はたぶん、見られたくない顔をしてる。
松谷君は、腕を組んで黙っていた。
それから、質問を始めた。活動内容。部誌のこと。
部数。配布先。
「——いつからのものが、残っていますか」
変な質問だった。
部誌のバックナンバーなんて誰も聞かない。私しか読まない。先輩ですら「誰も読まないもの」って言った。
ひどい。事実だけど、ひどい。
「読んでも」
「いいわよ」
松谷君は本棚のいちばん下にしゃがみこんで、いちばん古い一冊を抜いた。
紙が茶色くなった、ガリ版刷りの薄い冊子。
私はそれをこっそり見ていた。本棚の陰から。もう隠れる必要はないんだけど、ここが一番観察に向いてるから。
松谷君は長いこと、表紙を見ていた。
それから開いて、ゆっくり一ページずつ読んだ。
……あの読み方は、知ってる。
流し読みじゃない。確認でもない。あれは、ちゃんと読む人の読み方だ。
一行ずつ書いた人がいることを分かってる読み方。
誰も読まない部誌を、あの人はちゃんと読んでる。
——この人のこと、ちょっとだけ、わかんなくなってきた。
こわい人だと思ったのに。名簿を四百人覚えてて製本の粗を三秒で見つけて、廃部って単語を平気で言う人なのに。
誰も読まないものを、いちばん丁寧に読む。
「入部します」
松谷君が立ち上がって言った。
「入部してるのよ、あなたは」
「……そうでした」
「じゃ、出席します、が正解ね」
先輩が笑って、私もちょっとだけ袖の中で笑った。
*
コンコン。
ノックの音がして、扉がゆっくり——ゆっくりすぎる速度で——開いた。
「あの……生徒会の志喜屋だけど。今、いいかな」
隙間から、白い目が覗いた。
「ひっ」
私は本を落とした。
志喜屋先輩だ。生徒会の。全校で一番こわい人。
血の通ってない色の肌と、白いコンタクトと、あの喋り方。去年、廊下で一度すれ違って三日夢に見た。
私は本棚の陰に退避した。自己最速だったと思う。
棚の隙間から観察する。志喜屋先輩はゆらゆらと部室に入ってきて、名簿の更新がどうとか言っている。古都先輩とは知り合いらしい。
世界は広いようで狭い。
温水君が、声を裏返しながら名乗った。分かる。あの距離はこわい。
冷気を感じる距離。
そして、白い目が松谷君に向いた。
……あ。
どうなるんだろ。あの松谷君でも、さすがに志喜屋先輩は。
松谷君は姿勢を正して、一歩前に出た。
「一年C組、松谷誠です」
前に、出た。
下がるんじゃなくて。
「本日付で、文芸部への出席を再開しました。名簿の更新にあたって、必要な書式はありますか」
……なに言ってるの、この人。
書式。書式って言った。志喜屋先輩に。
書式の話をしに行った。
「所定の様式があれば、こちらで記入します。提出期限もお伺いしたい」
志喜屋先輩が、止まった。
まばたきを、した。
……あの人、まばたきするんだ。初めて見た。
「……様式……ある……」
「では、いただけますか」
「持ってきてない……」
「では、明日、生徒会室へ受け取りに伺います。何時ごろがよろしいですか」
「……四時……」
「承知しました。四時に伺います」
会話が。
会話が、成立してる。
志喜屋先輩と事務手続きの会話が、すらすら成立してる。私、あの先輩と人類の会話が成立するところを初めて見た。
「君……いい……」
「は」
「話が……早い……」
褒められてる。あの松谷君が、あの志喜屋先輩に気に入られてる。
なにこの光景。異文化交流?それとも同文化交流なの?
もしかしてあの二人、同じ星の出身なの?
志喜屋先輩は帰り際に爆弾を置いていった。来年度から部の存続に六人必要になる、という爆弾を。
「……玉木ぃ!」
古都先輩の叫びが部室に響いた。部長は今日も逃げている。
扉が閉まって白い目が見えなくなってから、私は本棚の陰から這い出した。
スマホを叩く。指が、まだちょっと震えてる。
『あの人、生きてますか』
「たぶん」
温水君が、真顔で答えた。
たぶん、って。
【松谷誠】
部誌のいちばん古い一冊は、一九五〇年代のものだった。
わら半紙を綴じただけの、十六ページの冊子だ。表紙は手書きで印刷はガリ版だった。字が滲んでいる。
最初のページに、こう書いてあった。
——本校文芸部は、このたび再興されました。
再興、と書いてあった。
つまり、一度途切れている。
途切れた時期は書いていない。理由も書いていない。ただ「再興」の二文字だけがある。
その次の行から、部員たちの短い文章が並んでいた。詩が二篇。随筆が三篇。
小説が一篇。
どれも他愛のないものだった。校庭の桜のこと。飼っている犬のこと。
片思いの話が一篇あった。
俺は、それを読んだ。
——これを書いた人間は、いま九十代か。
あるいは、もういないかもしれない。
途切れる前の部員たちがどこへ行ったのかも書いていない。書いていないから、分からない。
分からないというのは、こういうことか。
俺は九月に、自分たちの記録を焼いた。誰も困らないように全部焼いた。
あれは正しかったと、いまでも思っている。
だが、あの紙束のどこかには他愛のないことも書いてあったはずだ。誰が誰と会って何を食ったか。会議が何時に終わって、誰が遅刻したか。
加瀬が自分の文章を名文だと言い張ったこと。少将が薬を飲んで顔をしかめたこと。
全部、燃やした。
残ったのは、四人の頭の中だけだ。
そして俺たちは、八十年先に落ちた。
——誰も、俺たちを知らない。
当たり前だ。俺がそうしたのだから。
部室を出ると、廊下はもう暗かった。
図書室の前を通ると、明かりがついている。カウンターで高木少将が本の背表紙に何かを貼っていた。
「松谷君」
「……はい」
「文芸部に行きましたか」
「なぜ分かるんです」
「小鞠さんが、昼にここへ来ました。名簿だけの部員が二人いる、と言っていました」
少将は貼り終えた本を脇に置いた。
「一人は温水君でしょう。もう一人が誰か、聞かなくても分かりました」
「……申し訳ありません」
「謝ることではない」
少将は次の本を取り上げた。
「行ってみて、どうでした」
俺は少し考えた。
「部誌がありました」
「ほう」
「創部からのものが、全部残っています。いちばん古いのは五十年代です」
「読みましたか」
「一冊だけ」
少将の手が止まった。
「——残っていましたか」
「はい」
「そうですか」
少将はそれだけ言って、また作業に戻った。
俺は立っていた。
「先生」
「はい」
「あの部は、来年、廃部になるかもしれません」
「そうですか」
「規定が変わります。六名必要になる。現状、確実なのは三名です」
「なるほど」
「……」
「松谷君」
少将が顔を上げた。
この人の目は、昔から人を落ち着かなくさせる。
「それは、君が何とかする話ですか」
「……分かりません」
「では、考えておきなさい」
少将は本を棚に戻した。
「私は非常勤です。職員会議に出られず、担任も持たず、部の顧問にもなれません。この学校で、私は何の権限もない」
「はい」
「ですが、記録は残せます」
俺は少将を見た。
「本の背表紙に、番号を貼っています。これは、この本がこの学校にあったという記録です。本がなくなっても、目録は残る」
少将は、貼り終えた本を静かに置いた。
「——君が焼いたものの話は、私はしません。あれは正しかった」
「……はい」
「ですが、あれ以外の紙が、あってもよかった」
「先生」
「はい」
「いちばん古い一冊に、再興と書いてありました」
「再興」
「一度、途切れたということです。時期は書いてありません」
少将はしばらく黙っていた。
「五十年代に再興したのでしたら、途切れたのは」
「書いてありません」
「書けなかったのでしょう」
「……はい」
「松谷君。書かなかったのか、書けなかったのか、書く人がいなくなったのか」
少将は次の本を取り上げた。
「その三つは、紙の上では同じ形をしています」
「……はい」
「だから、その部は残しておいたほうがいい」
「先生が残せと言われるのですか」
「言いません。私は権限がありません」
少将は番号の札を、まっすぐに貼った。
「独り言です」
窓の外はもう暗い。
旧校舎の廊下に、少将の声だけが残った。
「もう帰りなさい。侯爵が夕食を用意しています」
【小鞠知花】
その夜、私はベッドの上で今日の戦果を集計した。
幽霊部員、二名回収。成功。
蔵書の秘密、二冊露見。失敗。ただし片方は製本の話しかされなかったので実質○・五冊。
志喜屋先輩の襲来、生存。
来年度の必要部員数、六名。……これは、大問題。
現状、確定しているのは私と温水君と松谷君の三人。あと三人、足りない。
三人。
私が今日、二人回収するのに使った勇気の総量を考えると、あと三人は天文学的な数字である。
……でも。
私は天井を見ながら、今日の部室を思い出した。
温水君が「ラノベ読んでいいなら」って言ったこと。松谷君が、誰も読まない部誌を一ページずつ読んでたこと。
変な人たちだった。二人ともたぶん、教室ではあんまり上手くやれてない側の人たち。
私と、同じ側の。
……ふ、ふふ。
いいこと思いついた。作戦名、「文芸部増員大作戦」。
立案、小鞠知花。実行は……実行は、みんなでやればいいと思う。
だって、うちの部は今日から五人だから。
私は枕元のスマホを取って、古都先輩に送った。
『二人とも、回収しました』
既読がついて、すぐ返ってきた。
『やるじゃん小鞠ちゃん。明日から五人だね』
五人。
『来年度から六人だそうです』
『は? 』
『生徒会の人が言ってました』
『玉木ぃ!!! 』
部長は今夜も逃げているらしい。
私は電気を消して、布団にもぐった。
明日、部室に行ったら二人がいる。
それって、なんかすごいことだ。