負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
【八奈見杏菜】
「ひどくない?」
「安っ」
火曜日の昼休み。非常階段を上がってきた温水君に私が第一声を放つと、それにかぶせて松谷君が第二声を放った。
ちなみに「安っ」は私の弁当への査定である。まだ包みも開けてないのに。
「なんで見る前から値段つけてるの!?」
「包みの膨らみ方だ。主菜は卵と見た」
「当たってるけど! 当たってるけどさあ!」
この男の目、なんなの。税務署なの。
温水君が三段目に座りながら、呆れた顔をした。
「で、俺は何がひどいって?」
「昨日だよ。私が廊下で助けを求めたのに、無視したよね」
「廊下ですれ違っただけだろ」
「目が合ったじゃん。あれは助けてって目だったの」
「そんな高度な通信は受信できません」
受信してよ。十二年隣にいた幼馴染は受信できたんだから。……できてなかったから、こうなってるんだけど。
私は階段にハンカチを敷いて座った。
「昨日ね、二人にカラオケ誘われたの」
「行ったんだ」
「行くよ。断ったら私が気にしてるみたいじゃん」
「もう十分——」
「言わなくていいから」
分かってるの。自分がいちばん分かってるの。
「それでね、聞いて。あの二人、デュエットしたの」
「へえ」
「へえじゃないよ。あの雪のやつ」
「ああ、ありのままの」
「そっちじゃない。王子様と歌うほう」
サビで結婚の約束をするやつだ。片方が歌で聞いて、片方が歌で即答するの。世界中の恋人たちの定番曲を、私の目の前で私の幼馴染が。
「私、ずっとタンバリン持って笑ってた」
「地獄だ」
「地獄だよ。シャンシャン鳴らしながら、私、前世でなにか悪いことしたかなって考えてた」
たぶん、してない。してないのにこれなんだから世界の設計にバグがある。
「——質問がある」
松谷君が手を挙げた。授業か。
「その、雪のやつ、というのは」
「え、知らないの?」
「知らない」
「うそでしょ。あれ、みんな知ってるよ。雪の女王がお城作って、妹が助けに行くの」
「……」
「歌が有名なんだって。世界中で」
「そうか」
「そうか、じゃないよ! どこの国から来たの君!?」
「……そういう時期に、外にいたので」
「留学?」
「そんなところだ」
「へえ。じゃあ、日本の歌も知らない?」
「軍歌なら少し」
「なんで!?」
「……冗談だ」
冗談の顔じゃなかったんだよなあ、いまの。
この転入生、ときどき変な穴があいてる。誰でも知ってることを知らなくて誰も知らないことを知ってる。紅茶の淹れ方とか、弁当の原価とか。
まあいい。人には事情がある。私は詮索しない女なのだ。
気にはなるけど。すごく気になるけど。
「で、弁当は?」
「はい、どうぞ」
私は今日の包みを差し出した。
温水君がそれを見て、固まった。
「……これ、チラシ?」
「そう。折ったの」
カラフルな紙の箱である。鶏もも肉九十八円の文字が箱の側面に来るように折ったのは、私なりの遊び心だ。
「なんで」
「……あー、うん。それね」
言おうかどうか、ちょっとだけ迷った。
今朝のことだ。
台所でお弁当箱を二つ出してたら、お母さんが後ろを通ってなんか言った。
——何を言ったかは、まあ、いいじゃん。
草介の名前が入ってた。それだけ。悪気はないの。
お母さんは何も知らないんだから。私が毎朝二人分作って、片方を隣の家のばかに届けてたのを、微笑ましく見てただけなんだから。
私は「んー」とか言いながら、二つ目のお弁当箱を棚に戻した。
音を立てないように戻すの、ちょっとだけ大変だった。
「——で、弁当箱が一個になっちゃったから、チラシ」
「途中の説明ぜんぶ飛ばしたよね?」
「飛ばしてないよ。要約しただけ」
「要約で消えた部分が本編な気がするんだけど」
温水君はたまに鋭い。鋭いけど、それ以上は聞いてこない。この人の距離感、ほんとにちょうどいい。
誰にも言わないけど。
箱の中身はコンビニのサンドイッチである。ハムと玉子。
「外側だけ手作りじゃん」
「手作りでしょ」
「どこからどこまでが」
「気持ちの部分が」
「じゃあ査定は——」
「二百六十八円」
温水君と松谷君の声が、完全に揃った。
「なんで二人ともそんなに即答なの!」
「値札が」
「書いてある」
「そこは見て見ぬふりしてよ!」
しょうがないので、私は自分のお弁当から卵焼きをひと切れと唐揚げをひとつ進呈した。
「これで三百五十円」
「よし」
査定の仕組みは三日で覚えた。私、覚えの早い女なので。
サンドイッチを食べながら横を見ると、松谷君が私の剥がしたビニールの包装をじっと見ていた。
「……なに、ゴミがどうかした?」
「これは、昨日の二十三時に作られている」
「そりゃそうでしょ」
「昨日の夜に作って、今朝、店に並んでいたのか」
「うん」
「毎日?」
「毎日」
「全国で?」
「たぶん」
「……そうか」
松谷君はしばらくその包装を眺めてから、丁寧に畳んだ。
ゴミを。丁寧に。
……この人のこういう瞬間、なんて呼べばいいんだろう。自販機の前でも水道の蛇口でも、たまにこうなる。当たり前のものを、当たり前じゃないものを見る目で見てる。
変な人。
でも、変な人に変って言われたくないだろうから言わないでおいてあげる。
「そういえばさ、温水君」
「うん?」
「昨日の放課後、下駄箱と反対のほうに歩いてたよね」
「よく見てるね」
「だっていつも一人で最短距離で帰るから、逆に目立つの」
「棘があるなあ」
「事実だもん」
「……実は、文芸部に入ってたみたいで。昨日から出るようになった」
「へえ! 温水君、そういうの興味あったんだ」
ちょっと意外だった。この人、放課後に予定のある人だったんだ。
「じゃあ私も見学行こうかな。一緒に行っていい?」
「別にいいけど。八奈見さん、興味あるの?」
「うん、私、花とか好きだし」
「……それ園芸部」
「え」
「文芸部。文を芸するほう」
「…………あー」
あー。
うん。
知ってた。知ってたし。文芸のほうも、ぜんぜん好きだし。
本とか。読むし。年に……読むし。
私は誤魔化すために唐揚げを口に入れた。唐揚げは口実に最適の食べ物である。
「じゃあ松谷君は? 部活入ってるの?」
「文芸部だ」
「え、一緒?」
「同じ日に入部が確認された」
「確認って何?」
「入部届は五月に出していた」
「二か月行ってなかったってこと?」
「そうなる」
「なにその人生」
入部届を出して二か月放置する人と、入部してたことを忘れてた人が同じ日に回収される部活。文芸部、大丈夫なのかな。
《本日の貸付金残高 三,三七五円》
【八奈見杏菜】
水曜日の朝は、最悪だった。
最悪の理由は通学路で判明した。角のところで草介と華恋ちゃんが待ち合わせをしていたのだ。私はとっさに一本裏の道へ入って、遠回りして学校に着いた。
十二年使った通学路を、二か月の子に明け渡した気分である。いや別に道は誰のものでもないけど。ないけどさ。
そして追い打ちは昼前に来た。
「杏菜、今日さ、放課後うち来ない? 三人で試験勉強しよ」
「三人」
「うん。草介も来るって」
華恋ちゃんの家。三人で。試験勉強。
断る理由がない。断ったら「あれ?」って思われる。
あれ?って思われたら、私が気にしてるってバレる。バレたら、あの二人は気を遣う。
気を遣われたら、私の十二年が「気を遣われる案件」になる。
「いいよー」
語尾にハートがつくくらいの発声で言った。
「やった。杏菜いると助かる。数学ぜんぜん分かんなくて」
「まかせて」
「おやつ、コンビニで買ってく?」
「作ってこうか」
言ってから、なんで言ったんだろうと思った。
「えっ、いいの?」
「いいよ。得意だし」
得意なんだよね。
それだけは。
我ながら見事だった。見事すぎて、昼休みの階段を上る足が鉛だった。
*
その途中、旧校舎の渡り廊下で知らない男子に呼び止められた。
「八奈見さん」
振り向くと、うちの学年でいちばん顔がいいと噂の転入生が立っていた。加瀬君。生徒会の庶務で新聞部で、なぜか一年生なのに先生たちに敬語を使われている。
「……なんで名前」
「校内で三番目に有名な人ですから」
「なにそれ最悪なんだけど」
「一番目は生徒会長の眉毛です」
「……それは知ってる」
加瀬君は笑った。感じのいい笑い方だった。感じがよすぎて、逆にちょっと身構える。
「一つだけ、余計なことを言ってもいいですか」
「よくないけど」
「では言います」
聞く気ないじゃん。
「君はいま、たいへん元気ですね」
「……はい?」
「元気すぎます」
——ぞくっとした。
「船というのは、嵐のときに帆を張ったままだと、どこへ行くか分からなくなるんです」
「……なんの話?」
「錨の話です」
加瀬君は渡り廊下の手すりにもたれた。
「錨というのは、進むための道具じゃありません。流されないための道具です。荷物になるし、重いし、あっても速くならない。ふだんは何の役にも立たない」
「うん」
「ですが、嵐のときにそれがないと、どこまでも流されます。自分がどこにいるかも分からなくなる」
私は、返事をしなかった。
「あるといいですよ、錨」
「……たとえば?」
「さあ」
加瀬君は肩をすくめた。
「私が決めることではありません。人によって違いますから。ただ、たいていは——」
そこで、言葉を切った。
「——自分がいちばんみっともなかったところを見た相手が、そうなります」
私の頭に、一人だけ浮かんだ。
ストローをくわえた瞬間に目が合った、あの男が。
「……それ、最悪じゃない?」
「最悪です」
加瀬君は明るく言い切った。
「ですが、いちばん切れにくい」
「……」
「では、失礼」
そのまま行ってしまった。
台風みたいな人だった。
……というか、なんであの人、私が嵐だって知ってるんだろう。
「——というわけなんですよ」
弁当を配り終えた私は、二人に経緯を説明した。
「断れば?」
「はい?」
温水君の第一声に、地を這う声が出た。
「だってさ、二人はもう付き合ってるんだし」
「私が行かなかったら二人きりでしょ!?」
「そりゃそうだけど」
「そうだけど、じゃないの!」
……いや、分かってる。分かってるんだよ。
「私が行っても行かなくても、たぶん、何も変わらないの。分かってるの」
「うん」
「でも行かないとさ、行かなかった時間のこと、家でずーっと考えちゃうじゃん。いま二人で何してるのかなーって。それなら現場にいたほうがマシなの。現場にいれば、少なくとも想像はしなくて済むから」
言葉にしたら、我ながらけっこう病んでた。
温水君が困った顔で黙った。ごめんね、重くて。
「——八奈見さん」
松谷君が口を開いた。
「なに」
「行くのなら、時間を決めておいたほうがいい」
「時間?」
「何時に帰るかを、行く前に言っておく」
「……なんで?」
「そうしないと、帰るきっかけが自分で作れなくなる。作れなくなると、最後まで残ることになる」
「最後まで残ると、どうなるの」
「見なくていいものを、見る」
——あ。
なんか、ぞくっとした。
この人、具体的に何かを思い出しながら喋ってる。目がちょっとだけここにいない。
「……松谷君ってさ、たまに、変にリアルなこと言うよね」
「経験だ」
「え、そういう経験あるの?」
「……別の話でだ」
別の話。この人の別の話は、いつか聞いてみたいような、聞かないほうがいいような。
でも、助言はもらっておく。五時に帰るって先に言おう。お母さんの手伝いがあるって言えば嘘にもならないし。
「じゃ、今日のお弁当ね」
私は鞄から、アルミのお弁当箱を取り出した。
一個だけ。
「……あれ、一個?」
「うん。弁当箱、一個しかないから」
「じゃあ、どうやって」
「はい、蓋持って」
温水君に蓋を渡す。
そして私は箸を突き立てて、腕に全力をこめて白ごはんの塊を持ち上げた。
ボトン。
「重っ……」
「一つのお弁当箱に、二人分を力いっぱい詰めてきました」
昨日の夜に考えたのだ。弁当箱は一個。食べる人は二人(+査定人)。
ならば詰めればいい。物理は私の味方である。
おかずの塊も二つ落とした。炒め物と煮物が、それぞれお弁当箱の形を保ったまま着地した。ちょっと地層っぽい。
温水君が割り箸で発掘を始めた。ごめんね、考古学みたいで。
……正直、これはどうかなって詰めながら思ってたんだよね。女子の弁当としてどうなのって。かわいくないなって。
華恋ちゃんなら絶対こんな詰め方しないなって。
ちらっと横を見た。
松谷君が、食べていた。
黙々と。しかも速い。塊を箸できれいに割って口に運んで、また割って。
ためらいが一ミリもない。
「……松谷君、それ、食べにくくない?」
「いや」
「え?」
「よく詰めてある」
松谷君は塊をひとつ持ち上げて、断面をしげしげと見た。
「同じ容積で、二人分が入っている。隙間がない。落としても崩れない。持ち運びにも向いている」
「そ、そうかな」
「合理的だ」
——合理的。
合理的って。
かわいいとかおいしそうとかじゃなくて、合理的って。
……なんでだろ。今まで貰ったどの褒め言葉より、じんとした。
だって、この人、本気で言ってるんだもん。お世辞の顔じゃないんだもん。私が昨日の夜、これはどうなんだろうって思いながら詰めたやつを、この人は正解だって言うんだもん。
「私ね、これ作りながら、どうなんだろって思ってたの」
「問題ない。むしろ、こういう詰め方をする人間は少ない」
松谷君はもう一口食べて、それからぽつりと言った。
「——昔、こういうものを食っていた」
「昔?」
「……いや」
また、別の話だ。
この人の「昔」は、いつも途中で霧になる。
でも、いいや。この塊弁当が誰かの「昔」の味に似てるなら、それはたぶん、悪い思い出の味じゃない。食べ方が丁寧だったから、分かる。
「じゃ、査定は?」
「五百八円だ」
「高っ! え、なんで!?」
「炒め物の中に、冷凍のコロッケが一個入っている。あれは加工品だから原価が乗る」
「見つかった!」
冷凍庫の残り物を混ぜたのがバレた。この男の舌、なんなの。国税庁なの。
「あと、量が多い」
「量は単価に影響しないって言ってたじゃん!」
「副菜の量は影響しない。総量は影響する」
「なにその線引き!」
「八円は、コロッケだ」
「八円のコロッケってある!?」
温水君が、噴き出した。
声を上げて笑ってる。この人が笑うの、初めて見たかもしれない。
……ふふ。なんか、勝った気分。
何にかは知らないけど。
*
お弁当の発掘作業が終わったころ、私は立ち上がった。
「ねえ、上行ってみない?」
「上?」
「四階。踊り場からグラウンドが見えるんだよ」
私の秘密基地の、さらに特等席である。手すりの向こうにグラウンドが全部見える。
三人で上がると、風がぶわっと通った。前髪が乱れる。直すのはやめた。
ここには直す相手がいない。それがこの場所のいいところだ。
グラウンドでは何人かが走っていた。昼練は禁止のはずなのに、元気なことである。
その中のひとりが、スタートと同時に飛び出した。
「あ、檸檬ちゃんだ」
焼塩檸檬。同じクラスの、陸上部の子。
速い。ほんとに速い。十歩で全員置き去りにして、あとはもう独走でまっすぐゴールに入っていく。
「クラスの焼塩さん?」
「そう。中学のとき、県で三位だったんだって」
「へえ」
「走ってると、ほんと気持ちよさそうだよね」
二本目。また飛び出す。また独走。
……見てると、なんか、胸のへんが変になる。
「いいなあ」
口から出てた。
檸檬ちゃんはさ、走ったら勝つの。位置について、よーいどんで、まっすぐ走って、一番にゴールして、それで終わり。結果が出るの。
数字で。誰が見ても分かる形で。
私、そういうの、一回もやったことない。
私がやってたのは、なんだったんだろう。毎朝おんなじ時間に家を出て、毎日おんなじ道を歩いて、雨の日は傘に入れてもらって。
スタートの合図もなくて、ゴールテープもなくて、順位の発表もなくて。
気づいたら、負けてた。
いつ負けたのかも分からないまま。
「——昼の分は、済んだ」
松谷君が、急にそう言った。
「え?」
「計上は終わりだ。あとは管轄外になる」
証書を畳んで温水君に押しつけると、松谷君はさっさと階段を下り始めた。
「え、松谷? まだ十五分あるけど」
「先に戻る」
足音が三階、二階って遠くなって、消えた。
……なにあれ。
なにあれって思ったけど、三秒くらいで分かった。
あの人、いなくなってくれたんだ。
管轄外、とか言って。査定人の顔のまま。
——ずるいなあ、ほんと。そういうの。
温水君は、隣にいた。
何も言わずに手すりに肘をついて、グラウンドを見てる。
三本目のスタート。檸檬ちゃんが飛び出す。誰も追いつかない。
「温水君」
「うん」
「私さ、十二年いたのに、二か月で負けたんだよ」
「……うん」
うん、だって。
慰めない。否定もしない。分析もしない。
うん、だけ。
それがさ。
それが、いちばん、くるんだって。
目の奥が熱くなって、私は手すりに顔を伏せた。
声は、出さなかった。出さない技術は、この一週間でずいぶん上達した。肩が震えるのだけは、まだ止め方が分からない。
温水君は、何も言わなかった。
帰りもしなかった。
ただ、隣にいた。
風の音と遠くの吹奏楽と、グラウンドの掛け声だけが聞こえてた。
……いまごろ、教室ではさ。
草介と華恋ちゃんが並んでお弁当食べてるんだよ。写真とか撮って、笑って、放課後の約束とかして。
私が泣いてても泣いてなくても、あの二人の昼休みは進むの。世界は止まってくれないの。そういうの、ずるいって思ってたけど、最近ちょっとだけ分かってきた。
止まらないのは、私の時間も同じなんだよね。
お弁当を詰めて、査定に文句言って、八円のコロッケで笑って。負けた私の毎日も、ちゃんと、一秒ずつ進んでる。
顔を上げた。目は拭かなかった。風が乾かしてくれるから、いいの。
「……ごめん。なんでもない」
「うん」
「ほんとになんでもないから」
「うん」
「……うん」
それきり、二人とも黙った。
何を話すでもなく風に吹かれながら、私たちは走る生徒たちをぼんやり眺め続けた。
予鈴が鳴るまで、ずっと。
《本日の貸付金残高 二,八六七円》