負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第4話 2敗目 松谷視点 文芸部の重大発表

 

【松谷誠】

 

 部室の戸を開けたら、松平先生が座っていた。

 

 奥の椅子で古い冊子を膝に載せ、袖口を机の縁からわずかに浮かせている。この人はどこにいても座り方が同じである。

 

「松谷君。こんにちは」

 

「……こんにちは」

 

 俺は部屋の隅の椅子まで歩いた。入って左の、窓から二番目。入部して二か月、この位置から動いたことがない。

 

 月之木先輩が湯呑みを持って戻ってきた。教員に茶を出す手つきが慣れている。

 

「先生、今日は何号ですか」

 

「二〇〇六年の夏号です」

 

「うわ、それ一番ひどいやつですよ。当時の部長が一人で全部書いてます」

 

「知っています。だから開きました」

 

 小鞠が机の下で指を組んだり外したりしている。原稿を鞄に押しこむ気配がした。押しこむ必要はないと思うが、本人の中では必要らしい。

 

「先生、部誌って面白いですか」

 

 先輩が聞いた。世間話の顔だが、目が笑っていない。本当に答えを聞きたいときの顔である。

 

「面白いですよ」

 

 松平先生は頁をめくった。

 

「二〇〇六年の高校生が、二〇〇六年に何を面白いと思っていたか。これは当時の新聞には載りません」

 

「載りませんか」

 

「載るのはその年に大事だったことです。面白かったことを書く人は、あまりいません」

 

 小鞠が顔を上げた。

 

「え」

 

「なんでしょう」

 

「い、いま書いてるやつも、じゅ、十八年後に……?」

 

「読まれるかもしれません」

 

「よ、読まれる」

 

「読まれない方がよろしいですか」

 

 小鞠は口を開けて、閉じて、また開けた。

 

「……よ、読まれたい」

 

「では、そのようにお書きになるとよい」

 

 先生は次の頁をめくった。

 

 先輩が何か言いかけて、やめた。

 

 俺は手帳を開いて書き取った。

 

  面白かったことは、誰も書かない。

 

 俺の書いた紙に、面白いことは一行も入っていない。数と日付と、誰が何を言ったか。それだけだ。

 

 そして九月に全部焼いた。

 

 残らない紙を書いて、自分で消したことになる。

 

「では、これは一冊お預かりします」

 

 松平先生は立ち上がり、冊子を上着の内側にしまった。

 

 預かる、と言った。

 

 借りるでもなく、もらうでもない。返す前提の言葉である。この人は語の選び方でだけ、たまに正体を出す。

 

「先生、それ来月には返してくださいね」

 

「善処します」

 

「去年のも一昨年のも返ってきてませんけど」

 

「善処します」

 

 同じ調子で同じ言葉が返った。声の高さまで同じである。二度目の方が丁寧に聞こえた。

 

「あの、先生。まだ帰らないんですか」

 

「片づけております」

 

 風呂敷を畳んでいる。畳み方が丁寧すぎて、ほとんど進んでいない。

 

「私のことはお構いなく。どうぞお続けください」

 

 

「さて、集まってもらったのは他でもないわ。我らが文芸部の今後の活動について、重大発表があります」

 

 先輩は芝居がかった仕草で、両手の人差し指を立てた。

 

「面倒な話と、割と面倒な話があります。どちらから聞きたい?」

 

「面倒でない話はないんですか」

 

 温水が即座に言う。この男は状況を確認してから逃げ道を探す。順番が正しい。

 

「どうしてもと言うなら、長くて地味にうんざりする話なら」

 

「面倒な話からお願いします」

 

 先輩は満足そうにうなずいて、指を一本下ろした。

 

「毎日ただ本を読むだけの日々からは卒業よ。我々は書く方に進出する」

 

「文芸部なのに、書いてなかったんですか」

 

「分かってないな、君は」

 

 先輩は指を左右に振った。

 

「書く書くと言って、書かないのが私たちなのよ」

 

 小鞠が深くうなずいている。

 

 戸口で、風呂敷の音が止まった。

 

「よく分かります」

 

 松平先生が言った。振り向いてもいない。

 

「先生も書かないんですか」

 

「書きます。ただ、書いたものを人が読むまでに、たいてい何十年かかかりました」

 

「……何十年」

 

「歌の話です」

 

 そう言って、また畳み始めた。

 

 意味が分からなかったので、俺はその一言も書き取った。分からないことは書いておく。あとで分かることがある。

 

 

「ぶっちゃけると、こないだの部長会で生徒会に突っこまれてさ。活動内容に執筆と書いてあるのに、何も書いていないではないかと」

 

 温水の肩がわずかに動いた。

 

「執筆があること、うまいこと隠してたんだけどね。なんでバレたんだろ」

 

 俺は天井を見た。

 

 四月から六月にかけて、生徒会庶務が全部活動の届出を洗い直したという話を聞いた。文芸部の届出は一九九〇年代の書式のままだったはずである。

 

 あの男は書式を読む。書式しか読まないと言ってもいい。

 

 だが俺はそれを言わなかった。校内では、あれとは他人だ。

 

「じゃあ、また部誌を作るんですか」

 

「紙代も印刷代もかかるし、配る先もない。そこで」

 

 先輩は得意げにスマホを掲げた。

 

「我々は電子の大海に漕ぎ出す。『文豪になろう』に投稿するのだ!」

 

 小鞠が拍手した。仕込みかと思ったが、この二人はたぶん素でこれをやっている。

 

「掌編でも第一話でもいい。とにかく何かを上げましょう」

 

「質問があります」

 

 俺は手を挙げた。

 

 三人が一斉に俺を見る。俺がこの部屋で発言するのは、たぶん三度目だ。

 

「締切はいつですか」

 

 沈黙が落ちた。

 

 月之木先輩が、初めて言葉に詰まった顔をした。

 

「……えーと。締切?」

 

「はい。いつまでに、誰に、何枚提出すればよろしいですか」

 

「誰にも提出しないけど……」

 

「では、何のために書くのですか」

 

 言ってから、しまったと思った。

 

 嫌味に聞こえる。本当に分からなかっただけだ。

 

 俺が書いてきた紙には、必ず宛先があった。誰が読み、誰が判を押し、どの箱に入るかが決まっていた。決まっていないものを書いたことが、一度もない。

 

「松谷君はさ」

 

 先輩が首をかしげる。

 

「書きたいものとか、ないの?」

 

「……ありません」

 

「好きな本は?」

 

「ありません」

 

 部室が静かになった。

 

 戸口で、風呂敷の音が止まった。

 

 温水がラノベを閉じる音がした。小鞠が机の下で指を止めた気配がした。

 

 この部屋には、全員に一冊ずつ何かがある。温水にはラノベがあり、小鞠には原稿があり、先輩には見せてもらえない本がある。

 

 俺だけが、手ぶらでここに座っている。

 

「うーん」

 

 先輩は腕を組んで、しばらく考えていた。

 

 そして言った。

 

「じゃあ探すとこからだね」

 

「探す」

 

「そう。それも活動だよ。書けない部員が書けないまま部室にいるの、うちの伝統だから」

 

「松谷って、休みの日なにしてんの」

 

 温水が聞いた。

 

「歩いています」

 

「どこを」

 

「豊橋を」

 

「……散歩?」

 

「調べています」

 

「なにを」

 

「地形と、道と、建物の建った順番です」

 

 温水がラノベを持ったまま固まった。

 

「それ、楽しい?」

 

 三人がまた俺を見た。

 

 楽しいかどうかで物事を測ったことがない。必要だから歩き、必要だから書く。正確に答えると、この部屋ではたいてい何かが止まる。

 

「……分かりません」

 

「じゃあ、それも探すやつだね」

 

 先輩があっさり言った。

 

 伝統。

 

 俺は手帳にその二文字を書いて、しばらく眺めた。

 

 伝統というのは、続いたものにつける名前だ。続かなかったものは、そう呼ばれない。

 

「では、失礼します」

 

 松平先生が戸口で一礼した。

 

「先生、それで四冊目ですからね」

 

「善処します」

 

「善処って、やる気がないときに使う言葉ですよね」

 

「よくご存じで」

 

 戸が閉まった。

 

 俺は手帳に目を戻し、それからもう一度、戸を見た。

 

 あの人は俺が「ありません」と答えたところで手を止めた。半歩ぶんの間である。それから何も言わずに畳み続けた。

 

 意味があるのかどうかは分からない。

 

 分からないので、書いておいた。

 

  松平先生、半歩。

 

「じゃあ次、割と面倒な話ね」

 

 

「それに伴い、今週末、文芸部の合宿を行います!」

 

「今週末って、明後日じゃないですか」

 

 温水が悲鳴のような声を上げる。

 

「田原の青年の家に空きがあったの。二部屋押さえた」

 

「早すぎませんか」

 

「昨今の出版業界はスピード感が命でね。勢いなら若い君たちにも負けないよ」

 

「正直、週末は家にいたいです」

 

「分かっていないな」

 

 先輩の眼鏡が光った。気のせいだと思うが、光った。

 

「この単語を聞いても、君はそう言える? ——缶詰」

 

「お、おお……」

 

 小鞠が宙を見つめて恍惚とした表情になった。

 

 俺には何が起きているのか分からなかった。

 

「あの」

 

「なに、松谷君」

 

「持参するのですか」

 

「は?」

 

「缶詰です」

 

「缶詰」

 

「何日分でしょうか」

 

「あと、開けるものは各自で用意するのですか」

 

 小鞠が机に突っ伏した。肩が震えている。

 

「ち、ちがっ、そうじゃなくて……!」

 

「違うのか」

 

「作家が旅館とかに閉じこめられて原稿を書かされるやつ! そういう、その、憧れの……!」

 

 小鞠が真っ赤な顔で一気に言い切って、また突っ伏した。

 

 閉じこめられて、書かされる。

 

 俺は少し考えて、それから言った。

 

「それは、憧れるものなのか」

 

「あ、憧れる!」

 

「……そうか」

 

「温水は憧れるのか」

 

「俺は普通に家がいい」

 

「同意見だ」

 

「え、松谷も嫌なのか」

 

「嫌ではない。名簿に入っているから行く」

 

「それ全然同意見じゃないだろ」

 

 書けと命じられて、部屋から出してもらえない。

 

 俺の知っている限り、それは罰である。

 

 だがこの部屋では、それが夢らしい。

 

 俺は手帳にもう一行だけ足した。

 

  缶詰=閉じこめられて書くこと。良いことらしい。

 

 書いてから、破らずにそのままにしておいた。

 

 

 

【小鞠知花】

 

 部室を出た頃には、廊下はすっかり夕方の色になっていた。

 

 私はトートバッグを抱えて、温水の隣を歩いていた。

 

 隣、というのは正確ではない。

 

 隣を歩けるように歩幅を調整していた。半歩下がると気まずいし、半歩前に出ると先導しているみたいになる。

 

 こういうことに、私は毎日けっこうな集中力を使っている。

 

 

 松谷が少し後ろを歩いていた。

 

「あの、松谷」

 

 温水が振り返った。

 

「合宿、来るのか」

 

「行く。名簿に入っているそうだ」

 

「いや、行きたいかどうかの話なんだけど」

 

「……考えたことがなかった」

 

 ——変なやつだ。

 

 私はそう思った。

 

 思ったが、少し分かる気もした。

 

 行きたいかどうかで物事を決めたことが、私にもあまりない。行っていい場所と、行くと浮く場所があって、私はいつも後者を避けているだけである。

 

 行きたい場所というのは、選べる人間だけが持てるものだ。

 

 

「じゃあ荷物運びとか、松谷いれば大丈夫だよな」

 

「たぶん」

 

「なら俺、そんなに気張らなくていいか」

 

 ——ん。

 

「そもそも俺、書けって言われても書けないし。松谷もいるんだし、部室も毎日来なくていいよな。俺がいてもいなくても——」

 

 

 気がついたら、トートバッグを落としていた。

 

 ドン、と音がした。

 

「え、おい。落としたぞ」

 

「……ぬ、温水」

 

 顔を上げたら、視界が滲んでいた。

 

 ——なんで。

 

 泣くようなことは、何も言われていない。

 

 この男は、自分が部にいてもいなくても変わらない、と言っただけである。

 

 事実だと思っているのだ。本気で。

 

 

「あ、あの、ごめん。俺なんか——」

 

「なにも、分かってない!」

 

 出た。

 

 三割の方が出た。

 

「わ、私が、なんで、お前を、ぶ、部活に呼んだと思ってるんだ!」

 

「え、いや、人数が足りないから」

 

「ち、ちがう!!」

 

 違う。

 

 全然違う。

 

 人数なら、四月からずっと足りていない。足りないまま、私は誰も呼ばなかった。

 

 人に話しかけられないからである。

 

「に、人数なら、ま、松谷がいる! そういう話じゃない!」

 

「じゃあどういう話だよ!」

 

「し、知るか!!」

 

 ——知ってる。

 

 知っているが、言えない。

 

 

 私が温水和彦を部に呼んだ理由は、たぶん、三つある。

 

 一つ目。四月の終わりに、この男が図書室で本を返していたのを見た。返却の仕方が丁寧だった。背表紙を撫でていた。

 

 ——同類だ。

 

 そう思った。

 

 二つ目。この男は、部室で私が黙っていても、黙ったままにしておいてくれる。

 

 黙っている人間に話しかけない人間というのは、思っているよりずっと少ない。

 

 三つ目。

 

 三つ目は、まだうまく言葉になっていない。

 

 なっていないのに、いま、この男は「いてもいなくても」と言った。

 

 

 私はスマホを取り出して、震える指で打った。

 

 打つのは得意である。

 

 口は三割しか出力しないが、指は九割出る。

 

  『代わりはいない』

 

 眼前に突きつけた。

 

「……いや、あの」

 

「よ、読んだな!」

 

 読ませたのは私だが、読まれると恥ずかしい。

 

 理不尽なのは分かっている。

 

 

「ぶ、部活、ちゃんと来い!」

 

「明日はちゃんと行くって」

 

「あ、明日だけじゃない! ず、ずっとだ!」

 

「……ずっと?」

 

「だぞ!」

 

 言い捨てて、私は走った。

 

 走るのは苦手である。

 

 苦手だが、あの場に一秒でも長くいたら、たぶん三つ目を言ってしまう。

 

 

 階段の踊り場まで走って、私は壁に手をついた。

 

 息が上がっている。

 

 ——最悪だ。

 

 唾を飛ばした。あれは確実に飛んだ。顔も真っ赤だったと思う。声も裏返っていた。

 

 そして、いちばん最悪なのは。

 

  『代わりはいない』

 

 ——これ、どっちの意味だと思われただろう。

 

 部員として、なのか。

 

 そうでない方、なのか。

 

 私は自分でも、どちらのつもりで打ったのか分からない。

 

 打つときは指が九割出る。考える前に出てしまう。

 

 

 しばらく壁に寄りかかって、私は自分に言い聞かせた。

 

 ——部員としてだ。

 

 そういうことにしておかないと、明日から部室に行けない。

 

 私は、部室に行きたい。

 

 だから、そういうことにする。

 

 

 踊り場の窓から、渡り廊下が見えた。

 

 松平先生が旧校舎の方へ歩いていく。上着の内側から冊子を出して、歩きながら開いた。

 

 ——読むの、そこでか。

 

 二〇〇六年の部誌である。当時の部長が一人で全部書いた、あのひどいやつだ。

 

 先生は歩きながら一頁めくって、それから立ち止まった。

 

 しばらく動かなかった。

 

 私はなんとなく、その背中を見ていた。

 

 十八年前の高校生が書いたものを、大人が渡り廊下で立ち止まって読んでいる。

 

 そんなことが起こるとは、書いた当人はたぶん考えていない。

 

 

 トートバッグの中で、原稿用紙の束がぐしゃりと折れていた。

 

 さっき落としたときに曲がったらしい。

 

 私は廊下の隅にしゃがんで、それを一枚ずつ伸ばした。

 

 伸ばしながら、一つだけ思った。

 

 ——書いてよかった。

 

 叫ぶのは苦手だ。

 

 説明するのはもっと苦手だ。

 

 だが、書けば出る。

 

 九割出る。

 

 ……出しすぎることもあるが。

 

 私は原稿用紙を抱え直して、立ち上がった。

 

 明日も部室に行く。

 

 たぶん、明後日は合宿である。

 

 ——缶詰。

 

 そう思ったら、少しだけ、走ったことがどうでもよくなった。

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