負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
三
【松谷誠】
部室の戸を開けたら、松平先生が座っていた。
奥の椅子で古い冊子を膝に載せ、袖口を机の縁からわずかに浮かせている。この人はどこにいても座り方が同じである。
「松谷君。こんにちは」
「……こんにちは」
俺は部屋の隅の椅子まで歩いた。入って左の、窓から二番目。入部して二か月、この位置から動いたことがない。
月之木先輩が湯呑みを持って戻ってきた。教員に茶を出す手つきが慣れている。
「先生、今日は何号ですか」
「二〇〇六年の夏号です」
「うわ、それ一番ひどいやつですよ。当時の部長が一人で全部書いてます」
「知っています。だから開きました」
小鞠が机の下で指を組んだり外したりしている。原稿を鞄に押しこむ気配がした。押しこむ必要はないと思うが、本人の中では必要らしい。
「先生、部誌って面白いですか」
先輩が聞いた。世間話の顔だが、目が笑っていない。本当に答えを聞きたいときの顔である。
「面白いですよ」
松平先生は頁をめくった。
「二〇〇六年の高校生が、二〇〇六年に何を面白いと思っていたか。これは当時の新聞には載りません」
「載りませんか」
「載るのはその年に大事だったことです。面白かったことを書く人は、あまりいません」
小鞠が顔を上げた。
「え」
「なんでしょう」
「い、いま書いてるやつも、じゅ、十八年後に……?」
「読まれるかもしれません」
「よ、読まれる」
「読まれない方がよろしいですか」
小鞠は口を開けて、閉じて、また開けた。
「……よ、読まれたい」
「では、そのようにお書きになるとよい」
先生は次の頁をめくった。
先輩が何か言いかけて、やめた。
俺は手帳を開いて書き取った。
面白かったことは、誰も書かない。
俺の書いた紙に、面白いことは一行も入っていない。数と日付と、誰が何を言ったか。それだけだ。
そして九月に全部焼いた。
残らない紙を書いて、自分で消したことになる。
「では、これは一冊お預かりします」
松平先生は立ち上がり、冊子を上着の内側にしまった。
預かる、と言った。
借りるでもなく、もらうでもない。返す前提の言葉である。この人は語の選び方でだけ、たまに正体を出す。
「先生、それ来月には返してくださいね」
「善処します」
「去年のも一昨年のも返ってきてませんけど」
「善処します」
同じ調子で同じ言葉が返った。声の高さまで同じである。二度目の方が丁寧に聞こえた。
「あの、先生。まだ帰らないんですか」
「片づけております」
風呂敷を畳んでいる。畳み方が丁寧すぎて、ほとんど進んでいない。
「私のことはお構いなく。どうぞお続けください」
「さて、集まってもらったのは他でもないわ。我らが文芸部の今後の活動について、重大発表があります」
先輩は芝居がかった仕草で、両手の人差し指を立てた。
「面倒な話と、割と面倒な話があります。どちらから聞きたい?」
「面倒でない話はないんですか」
温水が即座に言う。この男は状況を確認してから逃げ道を探す。順番が正しい。
「どうしてもと言うなら、長くて地味にうんざりする話なら」
「面倒な話からお願いします」
先輩は満足そうにうなずいて、指を一本下ろした。
「毎日ただ本を読むだけの日々からは卒業よ。我々は書く方に進出する」
「文芸部なのに、書いてなかったんですか」
「分かってないな、君は」
先輩は指を左右に振った。
「書く書くと言って、書かないのが私たちなのよ」
小鞠が深くうなずいている。
戸口で、風呂敷の音が止まった。
「よく分かります」
松平先生が言った。振り向いてもいない。
「先生も書かないんですか」
「書きます。ただ、書いたものを人が読むまでに、たいてい何十年かかかりました」
「……何十年」
「歌の話です」
そう言って、また畳み始めた。
意味が分からなかったので、俺はその一言も書き取った。分からないことは書いておく。あとで分かることがある。
「ぶっちゃけると、こないだの部長会で生徒会に突っこまれてさ。活動内容に執筆と書いてあるのに、何も書いていないではないかと」
温水の肩がわずかに動いた。
「執筆があること、うまいこと隠してたんだけどね。なんでバレたんだろ」
俺は天井を見た。
四月から六月にかけて、生徒会庶務が全部活動の届出を洗い直したという話を聞いた。文芸部の届出は一九九〇年代の書式のままだったはずである。
あの男は書式を読む。書式しか読まないと言ってもいい。
だが俺はそれを言わなかった。校内では、あれとは他人だ。
「じゃあ、また部誌を作るんですか」
「紙代も印刷代もかかるし、配る先もない。そこで」
先輩は得意げにスマホを掲げた。
「我々は電子の大海に漕ぎ出す。『文豪になろう』に投稿するのだ!」
小鞠が拍手した。仕込みかと思ったが、この二人はたぶん素でこれをやっている。
「掌編でも第一話でもいい。とにかく何かを上げましょう」
「質問があります」
俺は手を挙げた。
三人が一斉に俺を見る。俺がこの部屋で発言するのは、たぶん三度目だ。
「締切はいつですか」
沈黙が落ちた。
月之木先輩が、初めて言葉に詰まった顔をした。
「……えーと。締切?」
「はい。いつまでに、誰に、何枚提出すればよろしいですか」
「誰にも提出しないけど……」
「では、何のために書くのですか」
言ってから、しまったと思った。
嫌味に聞こえる。本当に分からなかっただけだ。
俺が書いてきた紙には、必ず宛先があった。誰が読み、誰が判を押し、どの箱に入るかが決まっていた。決まっていないものを書いたことが、一度もない。
「松谷君はさ」
先輩が首をかしげる。
「書きたいものとか、ないの?」
「……ありません」
「好きな本は?」
「ありません」
部室が静かになった。
戸口で、風呂敷の音が止まった。
温水がラノベを閉じる音がした。小鞠が机の下で指を止めた気配がした。
この部屋には、全員に一冊ずつ何かがある。温水にはラノベがあり、小鞠には原稿があり、先輩には見せてもらえない本がある。
俺だけが、手ぶらでここに座っている。
「うーん」
先輩は腕を組んで、しばらく考えていた。
そして言った。
「じゃあ探すとこからだね」
「探す」
「そう。それも活動だよ。書けない部員が書けないまま部室にいるの、うちの伝統だから」
「松谷って、休みの日なにしてんの」
温水が聞いた。
「歩いています」
「どこを」
「豊橋を」
「……散歩?」
「調べています」
「なにを」
「地形と、道と、建物の建った順番です」
温水がラノベを持ったまま固まった。
「それ、楽しい?」
三人がまた俺を見た。
楽しいかどうかで物事を測ったことがない。必要だから歩き、必要だから書く。正確に答えると、この部屋ではたいてい何かが止まる。
「……分かりません」
「じゃあ、それも探すやつだね」
先輩があっさり言った。
伝統。
俺は手帳にその二文字を書いて、しばらく眺めた。
伝統というのは、続いたものにつける名前だ。続かなかったものは、そう呼ばれない。
「では、失礼します」
松平先生が戸口で一礼した。
「先生、それで四冊目ですからね」
「善処します」
「善処って、やる気がないときに使う言葉ですよね」
「よくご存じで」
戸が閉まった。
俺は手帳に目を戻し、それからもう一度、戸を見た。
あの人は俺が「ありません」と答えたところで手を止めた。半歩ぶんの間である。それから何も言わずに畳み続けた。
意味があるのかどうかは分からない。
分からないので、書いておいた。
松平先生、半歩。
「じゃあ次、割と面倒な話ね」
「それに伴い、今週末、文芸部の合宿を行います!」
「今週末って、明後日じゃないですか」
温水が悲鳴のような声を上げる。
「田原の青年の家に空きがあったの。二部屋押さえた」
「早すぎませんか」
「昨今の出版業界はスピード感が命でね。勢いなら若い君たちにも負けないよ」
「正直、週末は家にいたいです」
「分かっていないな」
先輩の眼鏡が光った。気のせいだと思うが、光った。
「この単語を聞いても、君はそう言える? ——缶詰」
「お、おお……」
小鞠が宙を見つめて恍惚とした表情になった。
俺には何が起きているのか分からなかった。
「あの」
「なに、松谷君」
「持参するのですか」
「は?」
「缶詰です」
「缶詰」
「何日分でしょうか」
「あと、開けるものは各自で用意するのですか」
小鞠が机に突っ伏した。肩が震えている。
「ち、ちがっ、そうじゃなくて……!」
「違うのか」
「作家が旅館とかに閉じこめられて原稿を書かされるやつ! そういう、その、憧れの……!」
小鞠が真っ赤な顔で一気に言い切って、また突っ伏した。
閉じこめられて、書かされる。
俺は少し考えて、それから言った。
「それは、憧れるものなのか」
「あ、憧れる!」
「……そうか」
「温水は憧れるのか」
「俺は普通に家がいい」
「同意見だ」
「え、松谷も嫌なのか」
「嫌ではない。名簿に入っているから行く」
「それ全然同意見じゃないだろ」
書けと命じられて、部屋から出してもらえない。
俺の知っている限り、それは罰である。
だがこの部屋では、それが夢らしい。
俺は手帳にもう一行だけ足した。
缶詰=閉じこめられて書くこと。良いことらしい。
書いてから、破らずにそのままにしておいた。
四
【小鞠知花】
部室を出た頃には、廊下はすっかり夕方の色になっていた。
私はトートバッグを抱えて、温水の隣を歩いていた。
隣、というのは正確ではない。
隣を歩けるように歩幅を調整していた。半歩下がると気まずいし、半歩前に出ると先導しているみたいになる。
こういうことに、私は毎日けっこうな集中力を使っている。
松谷が少し後ろを歩いていた。
「あの、松谷」
温水が振り返った。
「合宿、来るのか」
「行く。名簿に入っているそうだ」
「いや、行きたいかどうかの話なんだけど」
「……考えたことがなかった」
——変なやつだ。
私はそう思った。
思ったが、少し分かる気もした。
行きたいかどうかで物事を決めたことが、私にもあまりない。行っていい場所と、行くと浮く場所があって、私はいつも後者を避けているだけである。
行きたい場所というのは、選べる人間だけが持てるものだ。
「じゃあ荷物運びとか、松谷いれば大丈夫だよな」
「たぶん」
「なら俺、そんなに気張らなくていいか」
——ん。
「そもそも俺、書けって言われても書けないし。松谷もいるんだし、部室も毎日来なくていいよな。俺がいてもいなくても——」
気がついたら、トートバッグを落としていた。
ドン、と音がした。
「え、おい。落としたぞ」
「……ぬ、温水」
顔を上げたら、視界が滲んでいた。
——なんで。
泣くようなことは、何も言われていない。
この男は、自分が部にいてもいなくても変わらない、と言っただけである。
事実だと思っているのだ。本気で。
「あ、あの、ごめん。俺なんか——」
「なにも、分かってない!」
出た。
三割の方が出た。
「わ、私が、なんで、お前を、ぶ、部活に呼んだと思ってるんだ!」
「え、いや、人数が足りないから」
「ち、ちがう!!」
違う。
全然違う。
人数なら、四月からずっと足りていない。足りないまま、私は誰も呼ばなかった。
人に話しかけられないからである。
「に、人数なら、ま、松谷がいる! そういう話じゃない!」
「じゃあどういう話だよ!」
「し、知るか!!」
——知ってる。
知っているが、言えない。
私が温水和彦を部に呼んだ理由は、たぶん、三つある。
一つ目。四月の終わりに、この男が図書室で本を返していたのを見た。返却の仕方が丁寧だった。背表紙を撫でていた。
——同類だ。
そう思った。
二つ目。この男は、部室で私が黙っていても、黙ったままにしておいてくれる。
黙っている人間に話しかけない人間というのは、思っているよりずっと少ない。
三つ目。
三つ目は、まだうまく言葉になっていない。
なっていないのに、いま、この男は「いてもいなくても」と言った。
私はスマホを取り出して、震える指で打った。
打つのは得意である。
口は三割しか出力しないが、指は九割出る。
『代わりはいない』
眼前に突きつけた。
「……いや、あの」
「よ、読んだな!」
読ませたのは私だが、読まれると恥ずかしい。
理不尽なのは分かっている。
「ぶ、部活、ちゃんと来い!」
「明日はちゃんと行くって」
「あ、明日だけじゃない! ず、ずっとだ!」
「……ずっと?」
「だぞ!」
言い捨てて、私は走った。
走るのは苦手である。
苦手だが、あの場に一秒でも長くいたら、たぶん三つ目を言ってしまう。
階段の踊り場まで走って、私は壁に手をついた。
息が上がっている。
——最悪だ。
唾を飛ばした。あれは確実に飛んだ。顔も真っ赤だったと思う。声も裏返っていた。
そして、いちばん最悪なのは。
『代わりはいない』
——これ、どっちの意味だと思われただろう。
部員として、なのか。
そうでない方、なのか。
私は自分でも、どちらのつもりで打ったのか分からない。
打つときは指が九割出る。考える前に出てしまう。
しばらく壁に寄りかかって、私は自分に言い聞かせた。
——部員としてだ。
そういうことにしておかないと、明日から部室に行けない。
私は、部室に行きたい。
だから、そういうことにする。
踊り場の窓から、渡り廊下が見えた。
松平先生が旧校舎の方へ歩いていく。上着の内側から冊子を出して、歩きながら開いた。
——読むの、そこでか。
二〇〇六年の部誌である。当時の部長が一人で全部書いた、あのひどいやつだ。
先生は歩きながら一頁めくって、それから立ち止まった。
しばらく動かなかった。
私はなんとなく、その背中を見ていた。
十八年前の高校生が書いたものを、大人が渡り廊下で立ち止まって読んでいる。
そんなことが起こるとは、書いた当人はたぶん考えていない。
トートバッグの中で、原稿用紙の束がぐしゃりと折れていた。
さっき落としたときに曲がったらしい。
私は廊下の隅にしゃがんで、それを一枚ずつ伸ばした。
伸ばしながら、一つだけ思った。
——書いてよかった。
叫ぶのは苦手だ。
説明するのはもっと苦手だ。
だが、書けば出る。
九割出る。
……出しすぎることもあるが。
私は原稿用紙を抱え直して、立ち上がった。
明日も部室に行く。
たぶん、明後日は合宿である。
——缶詰。
そう思ったら、少しだけ、走ったことがどうでもよくなった。