負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第5話 2敗目 焼塩視点 体育倉庫と保健室

 

【松谷誠】

 

「馬に乗るのは、日本と西洋と、どちらが上手でしょうか」

 

 一限の政治経済である。

 

 松平先生は黒板に何も書かず、教壇の前に立って、そう言った。

 

 教室が静かになった。何を聞かれたのか分からない、という種類の静けさである。

 

「先生、それ政治経済ですか」

 

 前の席の男子が聞いた。

 

「はい」

 

「はい、じゃなくて」

 

「続けます。日本の馬術は、一人前になるまで五、六年かかるそうです。西洋の乗り方は、一年か二年で、たいていの人が乗れるようになる。さて、どちらが上手でしょう」

 

「西洋じゃないですか。早いんだから」

 

「では、五年かける方は、無駄をしていることになりますか」

 

 男子が黙った。

 

 窓側で手が挙がった。八奈見杏菜である。

 

「はい、八奈見さん」

 

「その、質問なんですけど」

 

「どうぞ」

 

「上手っていうのは、誰にとって上手なんですか」

 

 松平先生は、そこで初めて微笑んだ。

 

「いま、この授業で必要なことを全部おっしゃいました」

 

「え、当たり?」

 

「当たりです」

 

 八奈見が両手を挙げた。前の席の男子が「ずるい」と言った。

 

「一人で乗ることを考えるなら、五年かけて覚えた方が細かいことまでできます。ですが千人を一年で乗せなければならないとしたら、五年の方法は使えません。前者は術の話で、後者は便宜の話です」

 

 先生は指を二本立てた。

 

「議論が噛み合わないとき、たいてい、二人は別々の土台に立っています。どちらが正しいかを争っても、結論は出ません。出ないどころか、間違った結論が出ます」

 

「じゃあ、どうすれば」

 

「自分がどちらに立っているかを、先に言うことです。それだけで、半分は片づきます」

 

 俺は手帳を開いて、二行書いた。

 

  土台を先に言う。

 

  噛み合わないのは、頭の悪さではない。

 

 書いてから、破らずに閉じた。

 

 チャイムが鳴った。

 

「本日はここまで。試験には出ません」

 

「出ないんですか」

 

「出ません」

 

「じゃあなんでやったんですか」

 

「面白いからです」

 

 先生は出席簿を持って、教室を出ていった。

 

 

 降りしきる蝉時雨。

 

「納得いかねー」

 

「はあ」

 

 俺の隣で、同じクラスの温水和彦がハードルを一台、体育倉庫の壁際に押しこんでいる。二限の体育が終わったところだ。

 

「日付と同じ出席番号のやつが片付けって、これ三十番台が有利すぎないか」

 

「有利ではない」

 

「え」

 

「一年は三百六十五日ある。三十一日まである月は七つ。三十一番は年に七回、十二番は年に十二回だ。損をしているのは前半の番号だぞ」

 

 温水が動きを止めて、俺を見た。

 

「……松谷って、そういうのすぐ出てくるよな」

 

「計算していない。覚えているだけだ」

 

 これは本当のことだ。日数と暦は、覚えていないと仕事にならなかった。もっとも、その仕事はもう存在しない。

 

 温水は「ふうん」とだけ言って、最後のハードルを奥へ押しこむ。俺は先に倉庫を出た。

 

 砂の照り返しが目に刺さる。朝の掲示によれば、今日の予想最高気温は三十五度だという。

 

 数字だけなら、俺の知っている夏より一度か二度高い。あの夏との差は、二度では語れない。

 

 扉は開いていた。

 

 俺はそれを見て、そして通り過ぎた。

 

 

 更衣室は、汗と埃と男子の匂いで満ちていた。

 

 俺は自分のシャツのボタンを留めながら、部屋を一度だけ見渡す。

 

 三十二。

 

 数えるつもりはなかった。目に入ったものを数えるのは癖だ。そうしないと落ち着かない。

 

 一年C組の男子は十七名。うち一名は今朝から欠席。合同授業の相手のクラスと合わせて、この部屋にいるべきは三十三名。

 

 一人足りない。

 

「なあ」

 

 隣で髪を拭いていた男子が顔を上げる。名前が出てこない。俺は教室で誰の名前も覚えられていないし、誰にも覚えられていない。

 

「温水は戻ったか」

 

「え? ぬくみず……あー、誰だっけ」

 

「同じクラスだ」

 

「うちのクラス? ごめん、分かんね」

 

「席は窓側の後ろから二番目だ」

 

「そこ空いてなかった?」

 

「今日は座っていた」

 

「うーん、ごめん。顔が出てこない」

 

 彼は悪気なく笑って、鞄を担いだ。

 

「ってか、君も誰だっけ」

 

「松谷だ」

 

「あ、そう。松谷ね」

 

 出ていった。

 

 俺は窓の外を見る。グラウンドには人影がない。次の時間の体育はプールだと、さっき誰かが言っていた。

 

 倉庫の扉は、閉まっていた。

 

 

 チャイムが鳴る。三限が始まる。

 

 俺は席に着き、手帳を開いた。

 

  十時四十一分 扉・開

 

  十時四十七分 三十三のうち三十二

 

  温水和彦

 

  (焼塩檸檬・欠 ※要確認)

 

 焼塩の欠席に気づいたのは、書いている途中だった。女子の人数まで数えていたことに、自分で少し驚く。

 

 ——それで、どうする。

 

 数字は揃った。揃ったから何だ。

 

 俺は転入して二か月の、名前も覚えられていない一年生だ。教師でも委員でも部長でもない。

 

 手を挙げて「二名が倉庫にいると思われます」と言ったところで、根拠はと聞かれれば、頭数を数えただけだと答えるしかない。

 

 そして笑われるだろう。数えていたのか、と。

 

 俺はシャープペンシルの尻で机を二度叩いた。

 

 隣の席の男子が、こちらを見た。

 

「うるさい」

 

「すまない」

 

「なに、腹でも痛いの」

 

「いや」

 

「じゃあ叩くなって」

 

 俺は立ち上がった。

 

「どうした松谷」

 

 古典の教師が振り向く。

 

「小官は——」

 

 飲みこむ。二か月経っても、これだけは抜けない。

 

「失礼します。保健室に行かせてください」

 

 嘘だ。生まれて初めて、授業を抜けるための嘘をついた。

 

 

 廊下に出て、俺は自分の速度に苛立った。

 

 旧校舎なら、目をつぶっても歩ける。階段の段数も、渡り廊下の継ぎ目の位置も、風の抜ける向きも知っている。

 

 新校舎のことは、何も知らない。

 

 職員室がどちらだったか、二度迷った。

 

 図書室の前まで来た。

 

 扉が開いている。中に高木先生がいる。あの人なら三行で理解して、三十秒で正しい手順を出す。

 

 ——正しいことを知っている人間が、何の権限も持っていない。

 

 その配置を、俺は嫌になるほどよく知っている。

 

 通り過ぎるべきだった。

 

「松谷君」

 

 呼ばれた。

 

 カウンターの内側で、高木先生が返却票を繰っている。顔は上げていない。

 

「三限は古典では」

 

「……そうです」

 

「では、なぜここにおられますか」

 

 俺は入口で立ち止まった。

 

「二限のあと、更衣室に一名足りません。温水和彦。同じ時間に、焼塩檸檬も見ていません。南倉庫の扉は十時四十一分に開いていて、四十七分には閉まっていました」

 

 高木先生は返却票を置いた。

 

「あの扉は、内側から開きません」

 

「ご存じでしたか」

 

「四月に見ました」

 

「なぜ、そのままなのですか」

 

「備品は点検されます。建具は誰の仕事にもなっていない」

 

 先生は立ち上がりかけて、途中で止まった。

 

 止まって、座り直した。

 

「私は職員会議に出られません」

 

「存じています」

 

「鍵の所在も知りません。非常勤には配られない」

 

「はい」

 

「松谷君」

 

「はい」

 

「その材料で、誰が動きますか」

 

 俺は答えた。

 

「担任です。一年C組の甘夏先生」

 

 先生はしばらく黙っていた。

 

「……そうですか」

 

「違いますか」

 

「いえ。行ってください」

 

「先生は」

 

「私が行けば、あなたが私と話したことになります」

 

 それだけだった。

 

 俺は一礼して、廊下へ出た。

 

 出てから、少し引っかかった。

 

 あの人は「誰に持っていきますか」とは聞かなかった。

 

 ——誰が、動きますか。

 

 同じことだと思った。

 

 十時四十九分である。

 

 

 職員室の扉を開けたとき、甘夏古奈美は自分の机で書類の山を崩しかけていた。

 

「甘夏先生」

 

「んー? どちらさん」

 

「一年C組の松谷です」

 

「あー、はいはい。松谷。……松谷?」

 

「二限のあと、更衣室に一名足りませんでした。温水和彦。C組です。同じ時間に、焼塩檸檬も見ていません」

 

 甘夏先生の手が止まる。止まったのは一秒だった。

 

「見ていないって、それだけ?」

 

「俺が倉庫を出たとき、扉は開いていました。四十七分に見たときは閉まっていました」

 

「……それだけ?」

 

「それだけです」

 

 言ってしまってから、自分でも薄いと思った。

 

 たったこれだけの材料で、大人一人を動かそうとしている。

 

 甘夏先生は、机の上の書類の山を見た。それから壁の時計を見た。

 

「うーん。授業サボってるだけじゃない?」

 

「二人同時にですか」

 

「あるある。あの子ら仲いいし」

 

「南倉庫の扉は、内側から開きません」

 

「え、そうなの?」

 

「四月からそうです」

 

「へえ。……あー、でもさ」

 

 先生は書類の角を揃えた。

 

「それ、閉じこめられてたらの話でしょ」

 

「はい」

 

「閉じこめられてるって、誰か見た?」

 

「誰も見ていません」

 

「だよね」

 

「三十五度です」

 

「そうだねえ、暑いねえ」

 

 先生は一枚目の書類にペンを走らせながら言った。

 

「分かった。あとで見に行くね。ありがとね、松谷君」

 

「先生」

 

「はいはい。教室戻ってな、授業中でしょ」

 

 

 俺は、そのまま職員室を出た。

 

 出るしかなかった。

 

 ——渡した。

 

 材料を集め、整理し、権限のある人間の前に置いた。

 

 置かれたものは、書類の山の三枚目あたりに埋もれた。悪意はない。優先順位が低いだけだ。

 

 俺は、この光景を何十回も見ている。

 

 一九四三年三月十七日から、一九四五年八月まで。数字を書いて、持っていって、渡した。読まれた。うなずかれた。

 

 ありがとうと言われた。そして何も起きなかった。

 

 ——今回もか。

 

  その材料で、誰が動きますか。

 

 俺は、持っていく先の名前を答えた。

 

 聞かれたのは、動く人間の名前である。

 

 同じではない。

 

 二十年やって、同じ間違いを、まだやる。

 

 廊下の窓から、グラウンドが見えた。

 

 倉庫の扉は閉まっている。

 

 日陰の温度計は三十四度を指していた。

 

 十時五十一分。

 

 

 俺は、そこで手順を変えた。

 

 変えるべきではないと分かっていた。

 

 俺と加瀬は他人であり、高木先生は非常勤であり、松平先生は保護者である。校内では線を跨がない。

 

  「見られれば疑われます」

 

  「疑われれば調べられる」

 

  「調べられて困るものは、四人とも持っております」

 

  「では、跨がない。以上」

 

 五月の夜、松平邸の居間で、四人で確認した。所要三分である。二年やって身についた手際だった。

 

 いま、俺は職員室の廊下に立っている。

 

 十時五十二分。温度計は三十四度である。

 

 俺は歩き出した。

 

 

 一年C組の副担任は、松平康昌という。

 

 五月の連休明けに着任した専任教諭で、担当は政治経済と古典と英語。担任を持たないから副担任である。

 

 そして、俺の保護者である。

 

 学年主任の机の並びのいちばん端で、姿勢良く座って、生徒の提出物に朱を入れていた。

 

 ——筆である。

 

 机の隅に硯と文鎮が置いてある。この人は毎朝、職員室で墨を磨る。

 

 一度だけ、なぜ筆なのかと聞いたことがある。

 

「手が覚えておりますので」

 

 それだけだった。

 

 赤ペンでも採点はできる。速い。安い。乾くのも早い。

 

 侯爵はそれを全部知っていて、毎朝十分かけて朱墨を磨る。

 

 六月に、加瀬が筆ペンを買ってきたことがある。

 

「これでしたら、磨る手間が省けます。穂先も割れません」

 

「ほう。よくできていますね」

 

 侯爵は素直に受け取って、三日使った。

 

 四日目の朝、机の上には硯が戻っていた。

 

「侯爵、あの筆ペンは」

 

「たいへん結構なものでした。書き味も申し分ありません」

 

「では、なぜ」

 

 侯爵は少し困ったように笑った。

 

「いつでも書けてしまうのです」

 

 加瀬は何も言わなかった。俺には、その一言の意味が分からなかった。

 

 いまも、たぶん半分しか分かっていない。

 

 墨を磨るあいだ、この人は何も書けない。十分間、ただ手を動かしている。

 

 その十分で、何を書くかを決めているのだと思う。

 

 俺は書く前に、いつも下書きを三通作る。作ってから一つを選ぶ。

 

 侯爵は、下書きを作らない。作らずに、一度で書く。

 

 そのための十分である。

 

 

 答案の余白に入る朱の字について、一度、加瀬に聞いたことがある。

 

「あれは、上手いのか」

 

「上手いという言い方は、しません」

 

「では、なんと言う」

 

「読める、と言います」

 

「読めるだけか」

 

「読めるだけの字を、あの寸法で書ける人が少ないのです」

 

 加瀬は指で、空中に小さな四角を描いてみせた。

 

「答案の隅の、二センチもない空き。あそこに三文字を入れて、はみ出さず、余らせない」

 

「揃えているだけだろう」

 

「逆です。紙のほうが、最初からその三文字を待っていたように見えるのです」

 

「……見えるか」

 

「見えます。私には」

 

 俺には、そこまでは見えない。

 

 見えないなりに、一つだけ分かることがある。書いた人間の気分が、どこにも出ていないのだ。八十七点の「八」と「七」が、同じ幅で、同じ角度で並んでいる。

 

 ただの点数が、切り取って壁に掛けても成立してしまう。

 

 一年C組には、返却された答案を写真に撮る生徒が何人かいる。点数を記録しているのではない。

 

「松平先生の点数、なんか額に入れたくならない?」

 

「分かる」

 

 赤点の答案を捨てられずに持っている生徒もいる。点数を上げずに生徒を立ち直らせる方法として、これは相当に効率がいい。

 

 たぶん本人は、そんなことは一つも考えていない。

 

 俺が近づくと、顔を上げた。

 

「松谷さん」

 

 先生はいつもそう呼ぶ。生徒に対して、この人は誰にでも敬称を使う。

 

 俺は口を開いた。

 

 言うべきことは決まっている。二限のあとの人数、扉の開閉、時刻、気温。順番も組み立ててある。

 

 だが、何も言えなかった。

 

 たぶん、線を跨いだことの方が、言うべき内容より重かったからだと思う。

 

 

 松平康昌は、俺の顔を三秒ほど見た。

 

 そして、筆を硯の縁に置いた。

 

 穂先を揃えてから置く。この人はどんなに急いでも、その一手間を省かない。

 

「どちらの倉庫でしょう」

 

「……南側です。グラウンドの」

 

「二名ですか」

 

「二名です」

 

「分かりました」

 

 それだけだった。

 

 理由は聞かれなかった。根拠も、時刻も、なぜ俺が知っているのかも、一度も聞かれなかった。

 

 先生は立ち上がった。

 

 その前に、蓋のない硯に紙を一枚かぶせた。埃が入るからである。

 

 それから机の引き出しを開けて、鍵束を取り出した。

 

 そして、隣の島に向かって穏やかに声をかけた。

 

「甘夏先生。南倉庫の鍵をお借りします」

 

「え、あ、はい。……あれ、なんかありました?」

 

「散歩です」

 

「散歩」

 

「暑いので、ついでに水を持っていきます」

 

 甘夏先生は「はあ」と言って、また書類に戻った。

 

 

 先生が廊下へ出るとき、俺は一歩下がって道を空けた。

 

 すれ違いざま、先生が言った。

 

「松谷さん。教室へお戻りなさい」

 

「……はい」

 

「それと」

 

 先生は足を止めずに、前を向いたまま続けた。

 

「よく持ってきてくださいました」

 

 俺は返事をしなかった。

 

 できなかった。

 

 先生は歩いていった。

 

 

 十時四十七分に気づいた。

 

 十時五十八分に、松平先生が階段を降りていった。

 

 十一分。

 

 俺は廊下の窓から、日傘も差さずにグラウンドを横切っていく後ろ姿を見ていた。

 

 扉が開くところは見なかった。開ける人間が向かったのだから、扉は開く。

 

 窓の外は、三十四度である。倉庫の中は、たぶんそれより五度は高い。

 

 ——十五歳が二名。

 

 温水和彦と、焼塩檸檬。名簿は見たが、生年までは覚えていない。十五か、十六である。

 

 そこで俺は、一度だけ、別のことを考えた。

 

 一九四五年八月、豊川の工廠で死んだ者の中に、同じ年齢の生徒が何百人といた。動員されて、旋盤の前に立っていて、そのまま死んだ。

 

 数は知っている。何度も見た数字だ。

 

 ——比べ物にならない。

 

 俺は自分にそう言った。あちらは何百人で、こちらは二名で、しかも今日の二名は、たぶん助かる。比べる方が失礼である。

 

 だが、扉を開ける人間がいるかどうかで結果が変わる、という点だけは同じだ。

 

 あの夏は、開ける人間がいなかった。

 

 俺は窓から離れた。

 

 手順は同じだ。数える。書く。持っていく。渡す。

 

 一九四四年の春、俺は同じ手順で紙を積み上げた。船の沈む速さと、飛行機の造れる数。答えは出ていた。書いた。

 

 持っていった。渡した。

 

 そして、一年が過ぎた。

 

 十一分。

 

 俺は手帳を開いて、その数字だけを書いた。

 

 書いてから、破って捨てた。

 

 学校では、燃やせない。

 

 

 その日の放課後、俺は松平先生に一度だけ聞いた。

 

 夜の、家の居間である。

 

「なぜ、理由をお聞きにならなかったのですか」

 

 侯爵は湯呑みを両手で包んで、少し考えた。

 

「聞く必要がありましたか」

 

「ありました。俺の材料は薄かった。甘夏先生は動かなかった」

 

「ええ、そうでしょうね」

 

「では、なぜ」

 

 松平康昌は、実に穏やかに言った。

 

「あなたが、私のところへ来たからです」

 

「……」

 

「二年やって、あなたは一度も、私のところへ無駄足を運んだことがない」

 

 先生は茶を一口飲んだ。

 

「材料が薄いときのあなたの顔は、覚えております。あの顔で来られたことは、たしか三度ほどありました。三度とも、あとから正しかった」

 

「……三度」

 

「ええ。三度目のときは、間に合いませんでしたが」

 

 そこで先生は、その話を打ち切った。

 

 

「それと、松谷さん」

 

「はい」

 

「甘夏先生には、何も申し上げておりません」

 

「……はい」

 

「先生が気づかれた、ということで通っております」

 

 俺は顔を上げた。

 

「なぜですか」

 

「手柄は、置いてくるものです」

 

 侯爵は湯呑みを置いた。

 

「持って帰ると、次に使えなくなりますのでね」

 

 ——ああ。

 

 俺は、その言い方を知っている。

 

 二年間、この人はずっとそうだった。情報を持っていくと、対価を受け取らずに帰ってくる。誰に会ったかも言わない。

 

 何を頼んだかも言わない。

 

 そして次の月にも、同じ人がまた会ってくれる。

 

「先生」

 

「はい」

 

「今朝の授業のことですが」

 

「馬の話ですか」

 

「はい。土台を先に言え、と」

 

「申し上げました」

 

「俺は、甘夏先生のところへ行きました。担任だからです」

 

「ええ」

 

「間違いでしたか」

 

 松平先生は湯呑みを置いた。

 

「間違いではありません。職制という土台に立てば、担任が正解です」

 

「ですが、動きませんでした」

 

「動く人を探すという土台に立てば、答えは変わります」

 

「どちらが正しいのですか」

 

「どちらも正しい。今日必要だったのが、後者だっただけです」

 

 俺は膝の上で手を握った。

 

「先生は、朝それを言われました。俺は書き取りました。書き取って、三時間後に間違えました」

 

「ええ」

 

「二十年やって、まだ間違えます」

 

「松谷さん」

 

「はい」

 

「あなたは土台を選び間違えたのではありません。二つあることを、今朝まで知らなかっただけです」

 

「……知りました」

 

「では、本日はそれで十分です」

 

 先生は茶を注ぎ足した。

 

「それと、松谷さん」

 

「はい」

 

「本日は、よく走られました」

 

「……走ってはいません」

 

「そうでしたか」

 

 先生は笑って、それ以上は言わなかった。

 

 

Intermission 三十四度

 

「甘夏先生、面談の日程って今日までですよね」

 

「今日までです」

 

「出てます?」

 

「出てません」

 

 隣の島から声がかかって、甘夏古奈美は返事だけで済ませた。

 

 机の上には山が三つある。期末の処理と、二学期の行事の起案と、来週の保護者面談の日程調整。どれも締切が近い。

 

 ——減らないな。

 

 その日いちばん最初に思ったことが、それだった。

 

 そこへ一年生の男子が来た。

 

 ——松谷。

 

 名前は出てきた。顔と一致するまでに二秒かかった。教室でこの子が喋っているところを、彼女はほとんど見たことがない。

 

  更衣室に一名足りませんでした。

 

  扉が開いていました。閉まっていました。

 

  それだけです。

 

 ——うん、薄いな。

 

 そう思った。

 

 思って、あとで見に行くね、と言った。

 

 嘘ではなかった。行くつもりだった。この一枚を片付けたら行こう、と本当に思っていた。

 

 三十分後、彼女はまだ同じ書類を見ていた。

 

 

 保健室に呼ばれたのは、十一時十五分である。

 

「点滴、一本ずつ入れました」

 

 小抜先生は記録を書きながら言った。

 

「二人ともですか」

 

「男子は自力で立てませんでした」

 

「女子は」

 

「名前を呼んで、返事まで四秒」

 

「四秒」

 

「暑さのわりに、汗が出ていませんでした」

 

「それって」

 

「あと十五分遅ければ、救急車を呼んでいます」

 

 甘夏古奈美は、自分の顔から血が引いていくのが分かった。

 

 倉庫の中の温度は、たぶん四十度を超えていた。

 

 ——三十分。

 

 彼女が書類を見ていた三十分である。

 

 そのあいだ、二人はあそこにいた。

 

 

 その日の昼、甘夏古奈美は職員室の廊下で松平康昌を捕まえた。

 

 正確には、待ち構えていた。

 

「松平先生」

 

「はい」

 

「あの、さっきの倉庫の件なんですけど」

 

「はい」

 

 彼女は頭を下げた。深く下げた。

 

「すみませんでした」

 

「なにか、ございましたか」

 

「わたし、聞いてたんです。十時五十分ごろに、C組の松谷君が職員室に来て、人数が合わないって」

 

「そうでしたか」

 

「そうでしたか、じゃないですよ」

 

 顔を上げられなかった。

 

「わたし、あとで見に行くって言って、行かなかったんです。三十分。三十分もあったのに」

 

「……」

 

「あの子たち、死んでたかもしれない」

 

 

 松平康昌は、しばらく黙っていた。

 

 その沈黙が、妙に長かった。

 

「甘夏先生」

 

「はい」

 

「頭をお上げください。廊下ですので」

 

「……はい」

 

「それと、一つだけ申し上げます」

 

 松平先生は穏やかに続けた。

 

「私が倉庫へ参ったのは、散歩のついでです」

 

「え」

 

「たまたま通りかかりました。それだけのことです」

 

 甘夏古奈美は、その顔を見た。

 

 穏やかで、何も読み取れない顔だった。

 

「……先生。それ、嘘ですよね」

 

「さあ」

 

「絶対、嘘ですよね」

 

「暑い日でしたので」

 

 それ以上、この人は何も言わなかった。

 

 

 保健室に戻ると、小抜先生が湯を沸かしていた。

 

「甘夏先生、顔が変ですよ」

 

「変ですか」

 

「怒られた顔です」

 

「怒られてないんですよ、それが」

 

 彼女は椅子に落ちるように座った。

 

「松平先生に謝ってきたんです。そしたら、散歩のついでですって」

 

「あの人らしい」

 

「らしいで済ませないでください。わたし、廊下で十分立ってたんですよ。頭下げて」

 

「下げろって言われました?」

 

「言われてないです。上げてくださいって言われました」

 

「じゃあ、なんで下げてたんですか」

 

「……それが分かんないんですよ」

 

 小抜先生が湯呑みを二つ出した。

 

「あの人、いくつでしたっけ」

 

「二十五です。履歴書見ました。わたしの一個下」

 

「一個下」

 

「経験年数はこっちが四年多いんです」

 

「見えませんね」

 

「見えないでしょう」

 

 甘夏古奈美は湯呑みを両手で持った。

 

「五月に来て、二日目には職員室のどこに何があるか全部知ってたんですよ。クレームの保護者を五分で味方につけて、米浦先生があの人にだけ敬語使うんです」

 

「城戸さんも、面会の順番を融通してますよ」

 

「なんなんですか、あれ」

 

「十年前からいる人みたい、ってことですよね」

 

「……いや」

 

 彼女は湯呑みを置いた。

 

 そういうことではない気がした。

 

 この学校にいた期間の問題ではない。あの人が背負っている年数そのものが、二十五年ぶんに見えないのだ。

 

「小抜先生」

 

「はい」

 

「わたし、さっき、あの子たち死んでたかもしれないって言ったんです」

 

「言いますよね」

 

「普通、一緒に青くなるじゃないですか。大丈夫でしたよって言うか」

 

「言いますね」

 

「あの人、黙ったんです。わたしが言い終わるまで」

 

 小抜先生は、しばらく茶を注いでいた。

 

「待ち方が、上手いんですね」

 

「そう、それです。待ち方がうますぎるんです」

 

 こういう待ち方をする人を、彼女は一人だけ知っている。

 

 教育実習のときに指導についてくれた先生である。

 

 あの人は、定年まであと二年だと言っていた。

 

 

 職員室に戻ってから、甘夏古奈美は椅子に座って、しばらく天井を見ていた。

 

「城戸さん」

 

「はい」

 

「倉庫の鍵って、生徒に貸してるんですか」

 

「点検の日だけですね。生徒会庶務に」

 

「なんで生徒なんですか」

 

「去年からそうなってます」

 

「去年から」

 

「その前は用務員さんでしたが、勤務が週三日になりまして」

 

 事務長は書類の束を揃えながら、淡々と答えた。

 

「甘夏先生、それ、いま調べる話ですか」

 

「……ですよね」

 

 分かっている。

 

 腹が立っているのは、鍵の管理でも、扉の構造でもない。三十分、書類を見ていた自分にである。

 

 それを、どこかに逃がしたいだけだ。

 

 分かっていて、彼女は椅子から立った。

 

 ——事実確認は、必要だから。

 

 必要ではあった。ただ、彼女は明らかに機嫌が悪かった。

 

 

Intermission 鍵をかけた男

 

 生徒会庶務、加瀬俊一にとって、この学校で最も価値のある仕事は屋外備品の点検である。

 

 理由は単純で、外に出られるからだ。

 

 授業を一つ抜けられる。誰にも見られない。そして何より、風の通る場所に立てる。

 

 二限の終わりを、加瀬は倉庫の壁に背を預けて待っていた。生徒が用具を戻し終えるまで、庶務にできることは何もない。

 

 彼は目を閉じて息を吸った。

 

 土と、乾いた木と、油の匂い。ここには彼の欲しいものは何ひとつない。ないと分かっていて、それでも吸ってしまう。

 

「……だめですね」

 

 呟いて、加瀬はポケットから飴を出した。包み紙を剥くときの手つきだけが、かつての習慣の名残として残っている。

 

 一九四五年までの彼なら、この時間に一本吸っていた。銘柄は「光」。高木がいれば必ず咳をして、風上に立つなと言われて、律儀に三歩ずれるところまでが型になっていた。

 

 いまは飴である。

 

 甘い。ただ甘いだけだ。

 

 

「あの、これどこですか」

 

 女子生徒が、ボールを二つ抱えて立っていた。

 

「そちらの籠へ。上ではなく、下の段です」

 

「上じゃないんですか」

 

「上は跳び箱の踏切板が入ります。今日の午後に使いますので」

 

「くわし……」

 

「点検票に書いてあるだけです」

 

 女子生徒は笑って、ボールを下の段に入れて出ていった。

 

 グラウンドから人影が消えた。

 

 加瀬は入口に立ち、点検票にチェックを入れていく。

 

  ハードル 二十四台

 

  カラーコーン 三十

 

  ラインカー 二

 

 数は合っている。合わなかった場合にどうするかは、この学校では誰も決めていない。決めていないから、合っている。

 

 彼が二十年見てきた役所というものは、だいたいこういう作りだった。

 

 奥は暗い。棚とマットの陰は、入口からでは見えない。

 

 見えないところは数えない。それが正しい書式である。

 

 扉を引き、南京錠をかけた。

 

  十時四十三分 施錠

 

 そう書きこんで、点検票を挟んだクリップボードを小脇に抱える。

 

 蝉が鳴いている。日陰の温度は三十度を越えていた。

 

 彼は一度だけ振り返り、それから校舎へ歩き出した。

 

 一分でも長く外にいたかったのに、結局、いつもより急いでいた。

 

 

 昼前。

 

 生徒会室に一年C組の担任が顔を出したとき、加瀬は広報用の記事の下書きを二枚書き終えたところだった。

 

「あんたら、体育倉庫の鍵って誰が持ってんの」

 

 甘夏古奈美は、明らかに機嫌が悪かった。

 

「備品点検の日は生徒会が借り受けています。今日は自分でした」

 

「二限のあと、うちのクラスの生徒が二人閉じこめられてた」

 

 加瀬の手が止まった。

 

「熱中症。二人とも保健室」

 

「……お名前を伺っても」

 

「温水と焼塩」

 

 窓の外で、蝉の声がひときわ高くなる。

 

 加瀬は自分の顔が動いていないことを確認した。二十年かけて作った顔だ。こういうときに崩れないように作ってある。

 

「点検票をお出しします。施錠は十時四十三分でした」

 

「……あー」

 

 甘夏が頭を掻いた。その仕草だけで、時刻が噛み合ってしまったことが分かる。

 

「あんたのせいじゃないよ」

 

「中を確認していません」

 

「奥まで見る子なんていないって」

 

「普通は見ない、というのは、見なかったことの説明にはなりません」

 

 言ってから、加瀬はわずかに眉根を寄せた。言い方が硬すぎた。この顔と、この年齢の口から出る言葉ではない。

 

 甘夏はしばらく彼を見ていたが、やがて手をひらひらと振った。

 

「事故だって。誰のせいでもない。それに、気づいた子がいたから間に合ったんだし」

 

「……気づいた?」

 

「うん。C組の男子が職員室まで言いに来てくれてさ。人数が合わないって」

 

「お名前は」

 

「えーと」

 

 甘夏は真剣に三秒ほど考えて、あきらめた。

 

「ごめん、忘れちゃった。地味な子。ほら、いるじゃん、いてもいなくても分かんないタイプの」

 

「……ええ」

 

 加瀬は微笑んだ。

 

 誰のことだか、心当たりがありすぎるほどあった。

 

 だが彼はそれを言わなかった。校内では、あの男とは他人である。

 

 

 甘夏が出ていったあと、加瀬はしばらく点検票を眺めていた。

 

 十時四十三分。

 

 あの時刻に二人が中にいたと確定したわけではない。証明する方法も、否定する方法も存在しない。誰も彼を疑っていないし、これから疑う者も出ない。

 

 黙っていれば終わる話だ。

 

 そして加瀬俊一は、黙っていれば終わる話を黙って終わらせなかったことによって、一度、国を敵に回しかけた男である。

 

 彼はペンを取り、点検票の様式を書き写した。項目を一つだけ増やす。

 

  施錠前 内部呼びかけ □

 

 それだけである。誰も気づかないし、誰も褒めない。来年この用紙を使う生徒は、この一行が誰の手で増えたのかを永久に知らない。

 

 書式は、そうやって残るものだ。

 

 加瀬は下書きの束をまとめると、保健室へ向かった。

 

 

 渡り廊下で、高木惣吉とすれ違った。

 

 本を四冊抱えている。手続きを踏んだようには、どうしても見えない。

 

「高木先生」

 

「加瀬君」

 

 二人とも足を止めなかった。止めれば会話になる。会話になれば、見られる。

 

 歩きながら、加瀬は言った。

 

「南倉庫の件は、お聞きですか」

 

「聞きました」

 

「錠を掛けたのは私です」

 

「知っています」

 

 高木はそれきり何も言わない。

 

 三歩ほど進んでから、加瀬は付け加えた。

 

「点検票に一行足しました。施錠前に、中へ呼びかける欄です」

 

「効きますか」

 

「効きません。誰も読みませんので」

 

「では、なぜ足しました」

 

「来年も、同じ用紙が使われるからです」

 

 高木の足が、わずかに遅くなった。

 

「加瀬君」

 

「はい」

 

「あなたは、そういうことを一度もやめませんね」

 

「褒めておいでですか」

 

「いえ」

 

「では、なんでしょう」

 

「……羨ましいのだと思います」

 

 言い終えると、高木は歩調を戻した。

 

 そして、二歩ぶん風下にずれた。

 

 加瀬は思わず足を止めそうになった。

 

「もう、吸っておりません」

 

「知っています」

 

「では、なぜずれるのですか」

 

「習慣です」

 

 高木は振り向かずに歩いていった。四冊の本を抱えたままである。

 

 ——あの方は、あれで人を励ましているつもりがない。

 

 加瀬は口の端だけで笑って、保健室へ向かった。

 

 

 

【焼塩檸檬】

 

 最初は、めっちゃ面白いと思った。

 

 あたしはボールを取りに倉庫へ入って、奥の棚の上にある籠に手を伸ばしていた。そこへ温水が入ってきて、ハードルを押しこんで、それから何かの拍子に扉が閉まった。

 

 ガチャン、と音がした。

 

「あれ?」

 

「……あれ?」

 

 二人で扉を押した。

 

 開かなかった。

 

「うわ、閉じこめられた!」

 

 あたしは笑った。

 

 だって、めったにないじゃん。こんなこと。

 

「面白くないから」

 

 温水がすごく嫌そうな顔をした。

 

「面白いって! これ絶対、あとで話のネタになるよ」

 

「なるかもしれないけど、いま暑いんだって」

 

 暑かった。

 

 たしかに、すごく暑かった。

 

 

 十分たった。

 

 あたしたちは扉を叩いて、大声を出して、それから疲れて座った。

 

 グラウンドには誰もいない。次の時間はプールだと誰かが言っていた。

 

「誰か来るかな」

 

「来るだろ。たぶん」

 

「たぶんかー」

 

 温水は扉の隙間から外を見ていた。

 

 この男子のことを、あたしはあんまり知らない。同じクラスで、文芸部で、いつも一人でいて、たまに八奈ちゃんと喋っている。

 

 ——ぬっくん。

 

 いま勝手にあだ名をつけた。悪くないと思う。

 

 

 二十分たったころから、あんまり面白くなくなってきた。

 

 暑いというより、熱い。

 

 倉庫の中は空気が動かない。マットとゴムと土の匂いが、頭の後ろの方にたまっていく。

 

 あたしはTシャツの襟をつまんでパタパタやった。

 

「焼塩さん、あんまり動かない方がいい」

 

「なんで」

 

「体温上がるから」

 

「へー。詳しいじゃん」

 

「保健の授業でやった」

 

「聞いてなかった」

 

「知ってる」

 

「なんで知ってんの」

 

「寝てただろ、後ろの席で」

 

「見てたんだ」

 

「見てない。いびきが聞こえた」

 

「かいてないし!」

 

 あたしは動くのをやめた。

 

 やめて、床に座って、天井を見た。

 

 ——そういえば、動くのをやめるの、久しぶりだな。

 

 そう思った。

 

 あたしはたぶん、一日のうち九割くらい動いている。走ってるか、歩いてるか、跳ねてるか。止まっているのは寝てるときだけだ。

 

 止まると、考えてしまうからである。

 

 

「光希のこと、知ってる?」

 

 気がついたら、そう言っていた。

 

「え、綾野?」

 

「うん」

 

「同じクラスだけど」

 

「あいつさ」

 

 そこで言葉が止まった。

 

 なんて言えばいいのか分からなかった。

 

  あいつさ、最近ちょっと変なんだよね。

 

  あいつさ、あたしのこと、どう思ってるのかな。

 

  あいつさ、朝の登校時間が変わったんだよ。

 

 全部、言えなかった。

 

 言ったら、認めることになる。

 

「……なんでもない」

 

「なんでもないの?」

 

「うん。暑いから、変なこと言った」

 

 温水は「そっか」とだけ言った。

 

 それ以上聞かなかった。

 

 ——助かった。

 

 あたしはそのとき、たぶん、少しだけこの男子を信用した。

 

 聞かない人間は、けっこう貴重である。

 

 

 三十分を過ぎたあたりから、記憶があいまいになる。

 

 暑いというより、遠くなる感じだった。

 

 耳の奥で、蝉の声が二重に聞こえた。

 

「焼塩さん、寝るな」

 

「寝てないよー」

 

「目、閉じてる」

 

「閉じてない」

 

「じゃあ何本」

 

「え」

 

「指。何本立ててる」

 

「……三本」

 

「二本」

 

「じゃあ二本」

 

「いま合わせただろ」

 

「合わせてない」

 

 合わせていた。

 

「焼塩さん」

 

「なにー」

 

「喋ってて。内容はなんでもいい」

 

「なんでもいいって言われると、いちばん困るやつじゃん」

 

「じゃあ好きな食い物」

 

「からあげ」

 

「早いな」

 

「ぬっくんは」

 

「……いま考えた名前?」

 

「うん」

 

「却下で」

 

「えー」

 

 そこから先は、たぶん喋っていない。

 

 

 ——あ。

 

 そのとき、あたしは一つだけ、はっきり考えたことがある。

 

  いま死んだら、光希は泣くかな。

 

 考えて、すぐに自分で嫌になった。

 

 そういうのは、ずるい。

 

 好きな人に泣いてほしいと思うのは、いちばんずるいやつだ。

 

 あたしは走るのが得意で、明るいのが得意で、そういうずるいことを考えるのは苦手なはずだった。

 

 ——ぜんぜん苦手じゃないな。

 

 そう思ったところで、扉が開いた。

 

 光が入ってきて、白くて、それきり覚えていない。

 

 

 

【焼塩檸檬】

 

 目が覚めたのは保健室だった。

 

 天井が白い。冷房が効いている。腕に何か刺さっていた気がしたけど、たぶん気のせいである。

 

 隣のベッドに温水がいる気配がした。

 

 カーテンの向こうで、八奈ちゃんの声がする。

 

「温水君、まだ食べる?」

 

「もう無理」

 

「じゃあ私が食べるね」

 

 ——起きよう。

 

 そう思って、やめた。

 

 たぶん、倉庫の中で考えたことを、まだ誰にも見られたくなかったからだと思う。

 

 だからあたしは、寝たふりをすることにした。

 

 寝たふりは得意である。中学のとき、部活の朝練前によくやっていた。

 

 

 ガラララ、と扉が開いた。

 

「失礼します」

 

 知らない声。男子だ。

 

「甘夏先生から預かってきた。机の上に置いておくのもどうかと」

 

「あ、悪い。助かる」

 

「あれ、C組の……えっと」

 

「松谷だ」

 

 ——ああ。

 

 いた気がする。うちのクラスに、姿勢のやたら良い男子が。

 

「ねえ松谷君、オムライス食べる? 残ってるよ」

 

「いただく」

 

 しばらく、何も聞こえなかった。

 

 食べているらしい。

 

 やたら静かに食べる人である。

 

 

「ごちそうさま。ありがとう」

 

「待って待って」

 

「なんだ」

 

「いま何秒で食べた?」

 

「量ってはいない」

 

「四十秒だよ。わたし数えてた」

 

「そうか」

 

「……えっ、それだけ?」

 

「なにがだ」

 

「感想。感想は」

 

「食べ物だった」

 

 ——え。

 

 あたしは危うく笑うところだった。

 

 寝たふりをしている人間にとって、これはかなりの危機である。

 

「そういうことじゃないんだって!」

 

「じゃあ聞くけどさ。松谷君、これいくらだと思う?」

 

「値段?」

 

「そう、値段。君ならこれにいくらつける?」

 

 数秒の間があった。

 

「材料費なら、卵とホワイトソースと米で、二人分でも三百円しないと思う」

 

「うわああああ!!」

 

 ——だめだ。

 

 あたしは毛布の中で、必死に息を止めた。

 

 肩が震えるのだけは、どうしようもなかった。

 

「聞いた温水君? 聞いた今の!」

 

「聞いてない。俺は寝てる」

 

 温水も寝たふりをしていた。

 

 この部屋、寝たふりが二人いる。

 

 

 そのあと、松谷君は帰る前に温水に言った。

 

「あの倉庫の扉は、内側から開かない構造だ。次からは、片付けの前に確認するといい」

 

 ——え。

 

 内側から開かない。

 

 あの三十分、あたしは何回か扉を押した。押すたびに、開くかもしれないと思っていた。

 

 開かないと決まっていたのだ。

 

 ……なんか、ちょっと嫌だな。

 

 でも、なんでこの人、そんなこと知ってるんだろう。

 

 

 次に入ってきたのは、別の男子だった。

 

「失礼します。生徒会の加瀬と申します」

 

 ——うわ、聞いたことある。

 

 生徒会にすごい顔のいい一年がいる、というのは、女子の間ではけっこう有名な話である。あたしは興味がないので聞き流していたけど、声からして、たしかにいい。

 

 八奈ちゃんが「本物だ」とか言っている。

 

 そして加瀬という人は、温水にこう言った。

 

「その扉に錠を掛けたのは、私です」

 

 ——え。

 

「十時四十三分に施錠しました。あなた方が中におられた可能性があります。申し訳ありませんでした」

 

 あたしは目を開けそうになった。

 

「でも、誰も見てなかったんだろ?」

 

「見ていません」

 

「じゃあ、言わなくてもよかったんじゃ……」

 

「そうですね」

 

 それだけだった。

 

 理由は言わなかった。

 

 

 ——なんだこの人。

 

 あたしは毛布の中で考えた。

 

 黙っていれば、絶対にバレなかった話である。

 

 倉庫の中には窓がない。誰も見ていない。あたしだって、何時に閉まったかなんて覚えていない。

 

 なのに、わざわざ言いに来た。

 

 しかも、言ったあとの説明が「そうですね」だけ。

 

 あたしは、そういうのがけっこう好きである。

 

 理由を長々と喋る人は、たいてい自分のために喋っている。

 

 

 そこから先は、オムライスの査定大会になった。

 

「もし店に出ておりましたら、私は千二百円をお支払いします。喜んで」

 

「せんにひゃくえんっ!!」

 

 八奈ちゃんの声がひっくり返った。

 

 三百円と五百円と千二百円。

 

 同じオムライスである。

 

 ——大人って、こんな感じなのかな。

 

 なんとなく、そう思った。

 

 なんで大人なのかは、自分でも分からない。

 

 

「これ、缶詰のソースなんだけど」

 

「存じています。ですが、それを選び、それをこの卵に合わせたのは、あなたです」

 

「…………」

 

 八奈ちゃんが黙った。

 

 あたしは、そこで少し、悔しくなった。

 

 八奈ちゃんは料理が上手い。あたしは火と刃物を持たせてもらえない。

 

 八奈ちゃんは言葉が上手い。あたしは思ったことをそのまま言って、たいてい失敗する。

 

 八奈ちゃんは、好きな人に十年も気づいてもらえなくて、それでも笑っていられる。

 

 あたしには、たぶん無理だ。

 

 

 

【焼塩檸檬】

 

「……あれ、なんか騒がしい」

 

 あたしは起き上がった。

 

 もう寝たふりをしている理由がなくなったからである。

 

 暗いところで考えたことは、明るいところに出ると薄くなる。さっき倉庫で考えた、いちばんずるいやつも、いまはもう遠い。

 

 ——うん、大丈夫。

 

「あ、生徒会の人だ」

 

「加瀬です。お加減はいかがですか」

 

「元気元気。あたし、寝れば治るタイプだから」

 

 これは本当である。

 

 あたしは寝れば治る。走れば忘れる。

 

 そういうふうにできている。というか、そういうふうにしている。

 

「羨ましい体質です」

 

「あんたも走る?」

 

 言ってから、自分でも脈絡がないと思った。

 

 でも、あたしが人に何かを勧めるとしたら、これしかない。

 

 走ると、考えなくて済むから。

 

 

「走るのは不得手でしてね。乗る方が好きでした」

 

「乗る? なにに」

 

「……昔の話です」

 

「えー、なにそれ気になる」

 

「気にさせておくのが、私の芸ですので」

 

 あたしは声を上げて笑った。

 

 ——この人、絶対なんか隠してる。

 

 隠してるけど、悪い感じはしない。

 

 隠してる人は、だいたい二種類いる。隠してるのがバレたら困る人と、隠してること自体は見せてもいい人。

 

 この人は後者だ。

 

 そういう人は、けっこう信用できる。

 

 ……たぶん。

 

 

 加瀬という人が出ていったあと、八奈ちゃんが空の皿を眺めて言った。

 

「今日、変な男子ばっかり来るね」

 

「同意しかない」

 

「松谷君は原価計算するし、加瀬君は褒め方が上手すぎるし」

 

「後者はいいことなんじゃないの」

 

「よくないよ。あれ、誰にでも言えるやつだもん」

 

 ——そうかな。

 

 あたしは、そうは思わなかった。

 

 でも、口には出さなかった。

 

 八奈ちゃんがああいう言い方をするときは、たいてい照れているからである。

 

 

 そのあと、あたしはもう一度横になった。

 

 天井を見ながら、一つだけ思い出したことがある。

 

 倉庫の中で、あたしは光希のことを言いかけて、やめた。

 

 温水は聞かなかった。

 

 聞かなかったから、あたしはまだ、何も認めていない。

 

 ——うん。まだ大丈夫。

 

 明日になったら、また走ろう。

 

 走れば、たいていのことは、なんとかなるのだ。

 

 いままで、ずっとそうだった。

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