負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
一
【松谷誠】
「馬に乗るのは、日本と西洋と、どちらが上手でしょうか」
一限の政治経済である。
松平先生は黒板に何も書かず、教壇の前に立って、そう言った。
教室が静かになった。何を聞かれたのか分からない、という種類の静けさである。
「先生、それ政治経済ですか」
前の席の男子が聞いた。
「はい」
「はい、じゃなくて」
「続けます。日本の馬術は、一人前になるまで五、六年かかるそうです。西洋の乗り方は、一年か二年で、たいていの人が乗れるようになる。さて、どちらが上手でしょう」
「西洋じゃないですか。早いんだから」
「では、五年かける方は、無駄をしていることになりますか」
男子が黙った。
窓側で手が挙がった。八奈見杏菜である。
「はい、八奈見さん」
「その、質問なんですけど」
「どうぞ」
「上手っていうのは、誰にとって上手なんですか」
松平先生は、そこで初めて微笑んだ。
「いま、この授業で必要なことを全部おっしゃいました」
「え、当たり?」
「当たりです」
八奈見が両手を挙げた。前の席の男子が「ずるい」と言った。
「一人で乗ることを考えるなら、五年かけて覚えた方が細かいことまでできます。ですが千人を一年で乗せなければならないとしたら、五年の方法は使えません。前者は術の話で、後者は便宜の話です」
先生は指を二本立てた。
「議論が噛み合わないとき、たいてい、二人は別々の土台に立っています。どちらが正しいかを争っても、結論は出ません。出ないどころか、間違った結論が出ます」
「じゃあ、どうすれば」
「自分がどちらに立っているかを、先に言うことです。それだけで、半分は片づきます」
俺は手帳を開いて、二行書いた。
土台を先に言う。
噛み合わないのは、頭の悪さではない。
書いてから、破らずに閉じた。
チャイムが鳴った。
「本日はここまで。試験には出ません」
「出ないんですか」
「出ません」
「じゃあなんでやったんですか」
「面白いからです」
先生は出席簿を持って、教室を出ていった。
降りしきる蝉時雨。
「納得いかねー」
「はあ」
俺の隣で、同じクラスの温水和彦がハードルを一台、体育倉庫の壁際に押しこんでいる。二限の体育が終わったところだ。
「日付と同じ出席番号のやつが片付けって、これ三十番台が有利すぎないか」
「有利ではない」
「え」
「一年は三百六十五日ある。三十一日まである月は七つ。三十一番は年に七回、十二番は年に十二回だ。損をしているのは前半の番号だぞ」
温水が動きを止めて、俺を見た。
「……松谷って、そういうのすぐ出てくるよな」
「計算していない。覚えているだけだ」
これは本当のことだ。日数と暦は、覚えていないと仕事にならなかった。もっとも、その仕事はもう存在しない。
温水は「ふうん」とだけ言って、最後のハードルを奥へ押しこむ。俺は先に倉庫を出た。
砂の照り返しが目に刺さる。朝の掲示によれば、今日の予想最高気温は三十五度だという。
数字だけなら、俺の知っている夏より一度か二度高い。あの夏との差は、二度では語れない。
扉は開いていた。
俺はそれを見て、そして通り過ぎた。
更衣室は、汗と埃と男子の匂いで満ちていた。
俺は自分のシャツのボタンを留めながら、部屋を一度だけ見渡す。
三十二。
数えるつもりはなかった。目に入ったものを数えるのは癖だ。そうしないと落ち着かない。
一年C組の男子は十七名。うち一名は今朝から欠席。合同授業の相手のクラスと合わせて、この部屋にいるべきは三十三名。
一人足りない。
「なあ」
隣で髪を拭いていた男子が顔を上げる。名前が出てこない。俺は教室で誰の名前も覚えられていないし、誰にも覚えられていない。
「温水は戻ったか」
「え? ぬくみず……あー、誰だっけ」
「同じクラスだ」
「うちのクラス? ごめん、分かんね」
「席は窓側の後ろから二番目だ」
「そこ空いてなかった?」
「今日は座っていた」
「うーん、ごめん。顔が出てこない」
彼は悪気なく笑って、鞄を担いだ。
「ってか、君も誰だっけ」
「松谷だ」
「あ、そう。松谷ね」
出ていった。
俺は窓の外を見る。グラウンドには人影がない。次の時間の体育はプールだと、さっき誰かが言っていた。
倉庫の扉は、閉まっていた。
チャイムが鳴る。三限が始まる。
俺は席に着き、手帳を開いた。
十時四十一分 扉・開
十時四十七分 三十三のうち三十二
温水和彦
(焼塩檸檬・欠 ※要確認)
焼塩の欠席に気づいたのは、書いている途中だった。女子の人数まで数えていたことに、自分で少し驚く。
——それで、どうする。
数字は揃った。揃ったから何だ。
俺は転入して二か月の、名前も覚えられていない一年生だ。教師でも委員でも部長でもない。
手を挙げて「二名が倉庫にいると思われます」と言ったところで、根拠はと聞かれれば、頭数を数えただけだと答えるしかない。
そして笑われるだろう。数えていたのか、と。
俺はシャープペンシルの尻で机を二度叩いた。
隣の席の男子が、こちらを見た。
「うるさい」
「すまない」
「なに、腹でも痛いの」
「いや」
「じゃあ叩くなって」
俺は立ち上がった。
「どうした松谷」
古典の教師が振り向く。
「小官は——」
飲みこむ。二か月経っても、これだけは抜けない。
「失礼します。保健室に行かせてください」
嘘だ。生まれて初めて、授業を抜けるための嘘をついた。
廊下に出て、俺は自分の速度に苛立った。
旧校舎なら、目をつぶっても歩ける。階段の段数も、渡り廊下の継ぎ目の位置も、風の抜ける向きも知っている。
新校舎のことは、何も知らない。
職員室がどちらだったか、二度迷った。
図書室の前まで来た。
扉が開いている。中に高木先生がいる。あの人なら三行で理解して、三十秒で正しい手順を出す。
——正しいことを知っている人間が、何の権限も持っていない。
その配置を、俺は嫌になるほどよく知っている。
通り過ぎるべきだった。
「松谷君」
呼ばれた。
カウンターの内側で、高木先生が返却票を繰っている。顔は上げていない。
「三限は古典では」
「……そうです」
「では、なぜここにおられますか」
俺は入口で立ち止まった。
「二限のあと、更衣室に一名足りません。温水和彦。同じ時間に、焼塩檸檬も見ていません。南倉庫の扉は十時四十一分に開いていて、四十七分には閉まっていました」
高木先生は返却票を置いた。
「あの扉は、内側から開きません」
「ご存じでしたか」
「四月に見ました」
「なぜ、そのままなのですか」
「備品は点検されます。建具は誰の仕事にもなっていない」
先生は立ち上がりかけて、途中で止まった。
止まって、座り直した。
「私は職員会議に出られません」
「存じています」
「鍵の所在も知りません。非常勤には配られない」
「はい」
「松谷君」
「はい」
「その材料で、誰が動きますか」
俺は答えた。
「担任です。一年C組の甘夏先生」
先生はしばらく黙っていた。
「……そうですか」
「違いますか」
「いえ。行ってください」
「先生は」
「私が行けば、あなたが私と話したことになります」
それだけだった。
俺は一礼して、廊下へ出た。
出てから、少し引っかかった。
あの人は「誰に持っていきますか」とは聞かなかった。
——誰が、動きますか。
同じことだと思った。
十時四十九分である。
職員室の扉を開けたとき、甘夏古奈美は自分の机で書類の山を崩しかけていた。
「甘夏先生」
「んー? どちらさん」
「一年C組の松谷です」
「あー、はいはい。松谷。……松谷?」
「二限のあと、更衣室に一名足りませんでした。温水和彦。C組です。同じ時間に、焼塩檸檬も見ていません」
甘夏先生の手が止まる。止まったのは一秒だった。
「見ていないって、それだけ?」
「俺が倉庫を出たとき、扉は開いていました。四十七分に見たときは閉まっていました」
「……それだけ?」
「それだけです」
言ってしまってから、自分でも薄いと思った。
たったこれだけの材料で、大人一人を動かそうとしている。
甘夏先生は、机の上の書類の山を見た。それから壁の時計を見た。
「うーん。授業サボってるだけじゃない?」
「二人同時にですか」
「あるある。あの子ら仲いいし」
「南倉庫の扉は、内側から開きません」
「え、そうなの?」
「四月からそうです」
「へえ。……あー、でもさ」
先生は書類の角を揃えた。
「それ、閉じこめられてたらの話でしょ」
「はい」
「閉じこめられてるって、誰か見た?」
「誰も見ていません」
「だよね」
「三十五度です」
「そうだねえ、暑いねえ」
先生は一枚目の書類にペンを走らせながら言った。
「分かった。あとで見に行くね。ありがとね、松谷君」
「先生」
「はいはい。教室戻ってな、授業中でしょ」
俺は、そのまま職員室を出た。
出るしかなかった。
——渡した。
材料を集め、整理し、権限のある人間の前に置いた。
置かれたものは、書類の山の三枚目あたりに埋もれた。悪意はない。優先順位が低いだけだ。
俺は、この光景を何十回も見ている。
一九四三年三月十七日から、一九四五年八月まで。数字を書いて、持っていって、渡した。読まれた。うなずかれた。
ありがとうと言われた。そして何も起きなかった。
——今回もか。
その材料で、誰が動きますか。
俺は、持っていく先の名前を答えた。
聞かれたのは、動く人間の名前である。
同じではない。
二十年やって、同じ間違いを、まだやる。
廊下の窓から、グラウンドが見えた。
倉庫の扉は閉まっている。
日陰の温度計は三十四度を指していた。
十時五十一分。
俺は、そこで手順を変えた。
変えるべきではないと分かっていた。
俺と加瀬は他人であり、高木先生は非常勤であり、松平先生は保護者である。校内では線を跨がない。
「見られれば疑われます」
「疑われれば調べられる」
「調べられて困るものは、四人とも持っております」
「では、跨がない。以上」
五月の夜、松平邸の居間で、四人で確認した。所要三分である。二年やって身についた手際だった。
いま、俺は職員室の廊下に立っている。
十時五十二分。温度計は三十四度である。
俺は歩き出した。
一年C組の副担任は、松平康昌という。
五月の連休明けに着任した専任教諭で、担当は政治経済と古典と英語。担任を持たないから副担任である。
そして、俺の保護者である。
学年主任の机の並びのいちばん端で、姿勢良く座って、生徒の提出物に朱を入れていた。
——筆である。
机の隅に硯と文鎮が置いてある。この人は毎朝、職員室で墨を磨る。
一度だけ、なぜ筆なのかと聞いたことがある。
「手が覚えておりますので」
それだけだった。
赤ペンでも採点はできる。速い。安い。乾くのも早い。
侯爵はそれを全部知っていて、毎朝十分かけて朱墨を磨る。
六月に、加瀬が筆ペンを買ってきたことがある。
「これでしたら、磨る手間が省けます。穂先も割れません」
「ほう。よくできていますね」
侯爵は素直に受け取って、三日使った。
四日目の朝、机の上には硯が戻っていた。
「侯爵、あの筆ペンは」
「たいへん結構なものでした。書き味も申し分ありません」
「では、なぜ」
侯爵は少し困ったように笑った。
「いつでも書けてしまうのです」
加瀬は何も言わなかった。俺には、その一言の意味が分からなかった。
いまも、たぶん半分しか分かっていない。
墨を磨るあいだ、この人は何も書けない。十分間、ただ手を動かしている。
その十分で、何を書くかを決めているのだと思う。
俺は書く前に、いつも下書きを三通作る。作ってから一つを選ぶ。
侯爵は、下書きを作らない。作らずに、一度で書く。
そのための十分である。
答案の余白に入る朱の字について、一度、加瀬に聞いたことがある。
「あれは、上手いのか」
「上手いという言い方は、しません」
「では、なんと言う」
「読める、と言います」
「読めるだけか」
「読めるだけの字を、あの寸法で書ける人が少ないのです」
加瀬は指で、空中に小さな四角を描いてみせた。
「答案の隅の、二センチもない空き。あそこに三文字を入れて、はみ出さず、余らせない」
「揃えているだけだろう」
「逆です。紙のほうが、最初からその三文字を待っていたように見えるのです」
「……見えるか」
「見えます。私には」
俺には、そこまでは見えない。
見えないなりに、一つだけ分かることがある。書いた人間の気分が、どこにも出ていないのだ。八十七点の「八」と「七」が、同じ幅で、同じ角度で並んでいる。
ただの点数が、切り取って壁に掛けても成立してしまう。
一年C組には、返却された答案を写真に撮る生徒が何人かいる。点数を記録しているのではない。
「松平先生の点数、なんか額に入れたくならない?」
「分かる」
赤点の答案を捨てられずに持っている生徒もいる。点数を上げずに生徒を立ち直らせる方法として、これは相当に効率がいい。
たぶん本人は、そんなことは一つも考えていない。
俺が近づくと、顔を上げた。
「松谷さん」
先生はいつもそう呼ぶ。生徒に対して、この人は誰にでも敬称を使う。
俺は口を開いた。
言うべきことは決まっている。二限のあとの人数、扉の開閉、時刻、気温。順番も組み立ててある。
だが、何も言えなかった。
たぶん、線を跨いだことの方が、言うべき内容より重かったからだと思う。
松平康昌は、俺の顔を三秒ほど見た。
そして、筆を硯の縁に置いた。
穂先を揃えてから置く。この人はどんなに急いでも、その一手間を省かない。
「どちらの倉庫でしょう」
「……南側です。グラウンドの」
「二名ですか」
「二名です」
「分かりました」
それだけだった。
理由は聞かれなかった。根拠も、時刻も、なぜ俺が知っているのかも、一度も聞かれなかった。
先生は立ち上がった。
その前に、蓋のない硯に紙を一枚かぶせた。埃が入るからである。
それから机の引き出しを開けて、鍵束を取り出した。
そして、隣の島に向かって穏やかに声をかけた。
「甘夏先生。南倉庫の鍵をお借りします」
「え、あ、はい。……あれ、なんかありました?」
「散歩です」
「散歩」
「暑いので、ついでに水を持っていきます」
甘夏先生は「はあ」と言って、また書類に戻った。
先生が廊下へ出るとき、俺は一歩下がって道を空けた。
すれ違いざま、先生が言った。
「松谷さん。教室へお戻りなさい」
「……はい」
「それと」
先生は足を止めずに、前を向いたまま続けた。
「よく持ってきてくださいました」
俺は返事をしなかった。
できなかった。
先生は歩いていった。
十時四十七分に気づいた。
十時五十八分に、松平先生が階段を降りていった。
十一分。
俺は廊下の窓から、日傘も差さずにグラウンドを横切っていく後ろ姿を見ていた。
扉が開くところは見なかった。開ける人間が向かったのだから、扉は開く。
窓の外は、三十四度である。倉庫の中は、たぶんそれより五度は高い。
——十五歳が二名。
温水和彦と、焼塩檸檬。名簿は見たが、生年までは覚えていない。十五か、十六である。
そこで俺は、一度だけ、別のことを考えた。
一九四五年八月、豊川の工廠で死んだ者の中に、同じ年齢の生徒が何百人といた。動員されて、旋盤の前に立っていて、そのまま死んだ。
数は知っている。何度も見た数字だ。
——比べ物にならない。
俺は自分にそう言った。あちらは何百人で、こちらは二名で、しかも今日の二名は、たぶん助かる。比べる方が失礼である。
だが、扉を開ける人間がいるかどうかで結果が変わる、という点だけは同じだ。
あの夏は、開ける人間がいなかった。
俺は窓から離れた。
手順は同じだ。数える。書く。持っていく。渡す。
一九四四年の春、俺は同じ手順で紙を積み上げた。船の沈む速さと、飛行機の造れる数。答えは出ていた。書いた。
持っていった。渡した。
そして、一年が過ぎた。
十一分。
俺は手帳を開いて、その数字だけを書いた。
書いてから、破って捨てた。
学校では、燃やせない。
その日の放課後、俺は松平先生に一度だけ聞いた。
夜の、家の居間である。
「なぜ、理由をお聞きにならなかったのですか」
侯爵は湯呑みを両手で包んで、少し考えた。
「聞く必要がありましたか」
「ありました。俺の材料は薄かった。甘夏先生は動かなかった」
「ええ、そうでしょうね」
「では、なぜ」
松平康昌は、実に穏やかに言った。
「あなたが、私のところへ来たからです」
「……」
「二年やって、あなたは一度も、私のところへ無駄足を運んだことがない」
先生は茶を一口飲んだ。
「材料が薄いときのあなたの顔は、覚えております。あの顔で来られたことは、たしか三度ほどありました。三度とも、あとから正しかった」
「……三度」
「ええ。三度目のときは、間に合いませんでしたが」
そこで先生は、その話を打ち切った。
「それと、松谷さん」
「はい」
「甘夏先生には、何も申し上げておりません」
「……はい」
「先生が気づかれた、ということで通っております」
俺は顔を上げた。
「なぜですか」
「手柄は、置いてくるものです」
侯爵は湯呑みを置いた。
「持って帰ると、次に使えなくなりますのでね」
——ああ。
俺は、その言い方を知っている。
二年間、この人はずっとそうだった。情報を持っていくと、対価を受け取らずに帰ってくる。誰に会ったかも言わない。
何を頼んだかも言わない。
そして次の月にも、同じ人がまた会ってくれる。
「先生」
「はい」
「今朝の授業のことですが」
「馬の話ですか」
「はい。土台を先に言え、と」
「申し上げました」
「俺は、甘夏先生のところへ行きました。担任だからです」
「ええ」
「間違いでしたか」
松平先生は湯呑みを置いた。
「間違いではありません。職制という土台に立てば、担任が正解です」
「ですが、動きませんでした」
「動く人を探すという土台に立てば、答えは変わります」
「どちらが正しいのですか」
「どちらも正しい。今日必要だったのが、後者だっただけです」
俺は膝の上で手を握った。
「先生は、朝それを言われました。俺は書き取りました。書き取って、三時間後に間違えました」
「ええ」
「二十年やって、まだ間違えます」
「松谷さん」
「はい」
「あなたは土台を選び間違えたのではありません。二つあることを、今朝まで知らなかっただけです」
「……知りました」
「では、本日はそれで十分です」
先生は茶を注ぎ足した。
「それと、松谷さん」
「はい」
「本日は、よく走られました」
「……走ってはいません」
「そうでしたか」
先生は笑って、それ以上は言わなかった。
Intermission 三十四度
「甘夏先生、面談の日程って今日までですよね」
「今日までです」
「出てます?」
「出てません」
隣の島から声がかかって、甘夏古奈美は返事だけで済ませた。
机の上には山が三つある。期末の処理と、二学期の行事の起案と、来週の保護者面談の日程調整。どれも締切が近い。
——減らないな。
その日いちばん最初に思ったことが、それだった。
そこへ一年生の男子が来た。
——松谷。
名前は出てきた。顔と一致するまでに二秒かかった。教室でこの子が喋っているところを、彼女はほとんど見たことがない。
更衣室に一名足りませんでした。
扉が開いていました。閉まっていました。
それだけです。
——うん、薄いな。
そう思った。
思って、あとで見に行くね、と言った。
嘘ではなかった。行くつもりだった。この一枚を片付けたら行こう、と本当に思っていた。
三十分後、彼女はまだ同じ書類を見ていた。
保健室に呼ばれたのは、十一時十五分である。
「点滴、一本ずつ入れました」
小抜先生は記録を書きながら言った。
「二人ともですか」
「男子は自力で立てませんでした」
「女子は」
「名前を呼んで、返事まで四秒」
「四秒」
「暑さのわりに、汗が出ていませんでした」
「それって」
「あと十五分遅ければ、救急車を呼んでいます」
甘夏古奈美は、自分の顔から血が引いていくのが分かった。
倉庫の中の温度は、たぶん四十度を超えていた。
——三十分。
彼女が書類を見ていた三十分である。
そのあいだ、二人はあそこにいた。
その日の昼、甘夏古奈美は職員室の廊下で松平康昌を捕まえた。
正確には、待ち構えていた。
「松平先生」
「はい」
「あの、さっきの倉庫の件なんですけど」
「はい」
彼女は頭を下げた。深く下げた。
「すみませんでした」
「なにか、ございましたか」
「わたし、聞いてたんです。十時五十分ごろに、C組の松谷君が職員室に来て、人数が合わないって」
「そうでしたか」
「そうでしたか、じゃないですよ」
顔を上げられなかった。
「わたし、あとで見に行くって言って、行かなかったんです。三十分。三十分もあったのに」
「……」
「あの子たち、死んでたかもしれない」
松平康昌は、しばらく黙っていた。
その沈黙が、妙に長かった。
「甘夏先生」
「はい」
「頭をお上げください。廊下ですので」
「……はい」
「それと、一つだけ申し上げます」
松平先生は穏やかに続けた。
「私が倉庫へ参ったのは、散歩のついでです」
「え」
「たまたま通りかかりました。それだけのことです」
甘夏古奈美は、その顔を見た。
穏やかで、何も読み取れない顔だった。
「……先生。それ、嘘ですよね」
「さあ」
「絶対、嘘ですよね」
「暑い日でしたので」
それ以上、この人は何も言わなかった。
保健室に戻ると、小抜先生が湯を沸かしていた。
「甘夏先生、顔が変ですよ」
「変ですか」
「怒られた顔です」
「怒られてないんですよ、それが」
彼女は椅子に落ちるように座った。
「松平先生に謝ってきたんです。そしたら、散歩のついでですって」
「あの人らしい」
「らしいで済ませないでください。わたし、廊下で十分立ってたんですよ。頭下げて」
「下げろって言われました?」
「言われてないです。上げてくださいって言われました」
「じゃあ、なんで下げてたんですか」
「……それが分かんないんですよ」
小抜先生が湯呑みを二つ出した。
「あの人、いくつでしたっけ」
「二十五です。履歴書見ました。わたしの一個下」
「一個下」
「経験年数はこっちが四年多いんです」
「見えませんね」
「見えないでしょう」
甘夏古奈美は湯呑みを両手で持った。
「五月に来て、二日目には職員室のどこに何があるか全部知ってたんですよ。クレームの保護者を五分で味方につけて、米浦先生があの人にだけ敬語使うんです」
「城戸さんも、面会の順番を融通してますよ」
「なんなんですか、あれ」
「十年前からいる人みたい、ってことですよね」
「……いや」
彼女は湯呑みを置いた。
そういうことではない気がした。
この学校にいた期間の問題ではない。あの人が背負っている年数そのものが、二十五年ぶんに見えないのだ。
「小抜先生」
「はい」
「わたし、さっき、あの子たち死んでたかもしれないって言ったんです」
「言いますよね」
「普通、一緒に青くなるじゃないですか。大丈夫でしたよって言うか」
「言いますね」
「あの人、黙ったんです。わたしが言い終わるまで」
小抜先生は、しばらく茶を注いでいた。
「待ち方が、上手いんですね」
「そう、それです。待ち方がうますぎるんです」
こういう待ち方をする人を、彼女は一人だけ知っている。
教育実習のときに指導についてくれた先生である。
あの人は、定年まであと二年だと言っていた。
職員室に戻ってから、甘夏古奈美は椅子に座って、しばらく天井を見ていた。
「城戸さん」
「はい」
「倉庫の鍵って、生徒に貸してるんですか」
「点検の日だけですね。生徒会庶務に」
「なんで生徒なんですか」
「去年からそうなってます」
「去年から」
「その前は用務員さんでしたが、勤務が週三日になりまして」
事務長は書類の束を揃えながら、淡々と答えた。
「甘夏先生、それ、いま調べる話ですか」
「……ですよね」
分かっている。
腹が立っているのは、鍵の管理でも、扉の構造でもない。三十分、書類を見ていた自分にである。
それを、どこかに逃がしたいだけだ。
分かっていて、彼女は椅子から立った。
——事実確認は、必要だから。
必要ではあった。ただ、彼女は明らかに機嫌が悪かった。
Intermission 鍵をかけた男
生徒会庶務、加瀬俊一にとって、この学校で最も価値のある仕事は屋外備品の点検である。
理由は単純で、外に出られるからだ。
授業を一つ抜けられる。誰にも見られない。そして何より、風の通る場所に立てる。
二限の終わりを、加瀬は倉庫の壁に背を預けて待っていた。生徒が用具を戻し終えるまで、庶務にできることは何もない。
彼は目を閉じて息を吸った。
土と、乾いた木と、油の匂い。ここには彼の欲しいものは何ひとつない。ないと分かっていて、それでも吸ってしまう。
「……だめですね」
呟いて、加瀬はポケットから飴を出した。包み紙を剥くときの手つきだけが、かつての習慣の名残として残っている。
一九四五年までの彼なら、この時間に一本吸っていた。銘柄は「光」。高木がいれば必ず咳をして、風上に立つなと言われて、律儀に三歩ずれるところまでが型になっていた。
いまは飴である。
甘い。ただ甘いだけだ。
「あの、これどこですか」
女子生徒が、ボールを二つ抱えて立っていた。
「そちらの籠へ。上ではなく、下の段です」
「上じゃないんですか」
「上は跳び箱の踏切板が入ります。今日の午後に使いますので」
「くわし……」
「点検票に書いてあるだけです」
女子生徒は笑って、ボールを下の段に入れて出ていった。
グラウンドから人影が消えた。
加瀬は入口に立ち、点検票にチェックを入れていく。
ハードル 二十四台
カラーコーン 三十
ラインカー 二
数は合っている。合わなかった場合にどうするかは、この学校では誰も決めていない。決めていないから、合っている。
彼が二十年見てきた役所というものは、だいたいこういう作りだった。
奥は暗い。棚とマットの陰は、入口からでは見えない。
見えないところは数えない。それが正しい書式である。
扉を引き、南京錠をかけた。
十時四十三分 施錠
そう書きこんで、点検票を挟んだクリップボードを小脇に抱える。
蝉が鳴いている。日陰の温度は三十度を越えていた。
彼は一度だけ振り返り、それから校舎へ歩き出した。
一分でも長く外にいたかったのに、結局、いつもより急いでいた。
昼前。
生徒会室に一年C組の担任が顔を出したとき、加瀬は広報用の記事の下書きを二枚書き終えたところだった。
「あんたら、体育倉庫の鍵って誰が持ってんの」
甘夏古奈美は、明らかに機嫌が悪かった。
「備品点検の日は生徒会が借り受けています。今日は自分でした」
「二限のあと、うちのクラスの生徒が二人閉じこめられてた」
加瀬の手が止まった。
「熱中症。二人とも保健室」
「……お名前を伺っても」
「温水と焼塩」
窓の外で、蝉の声がひときわ高くなる。
加瀬は自分の顔が動いていないことを確認した。二十年かけて作った顔だ。こういうときに崩れないように作ってある。
「点検票をお出しします。施錠は十時四十三分でした」
「……あー」
甘夏が頭を掻いた。その仕草だけで、時刻が噛み合ってしまったことが分かる。
「あんたのせいじゃないよ」
「中を確認していません」
「奥まで見る子なんていないって」
「普通は見ない、というのは、見なかったことの説明にはなりません」
言ってから、加瀬はわずかに眉根を寄せた。言い方が硬すぎた。この顔と、この年齢の口から出る言葉ではない。
甘夏はしばらく彼を見ていたが、やがて手をひらひらと振った。
「事故だって。誰のせいでもない。それに、気づいた子がいたから間に合ったんだし」
「……気づいた?」
「うん。C組の男子が職員室まで言いに来てくれてさ。人数が合わないって」
「お名前は」
「えーと」
甘夏は真剣に三秒ほど考えて、あきらめた。
「ごめん、忘れちゃった。地味な子。ほら、いるじゃん、いてもいなくても分かんないタイプの」
「……ええ」
加瀬は微笑んだ。
誰のことだか、心当たりがありすぎるほどあった。
だが彼はそれを言わなかった。校内では、あの男とは他人である。
甘夏が出ていったあと、加瀬はしばらく点検票を眺めていた。
十時四十三分。
あの時刻に二人が中にいたと確定したわけではない。証明する方法も、否定する方法も存在しない。誰も彼を疑っていないし、これから疑う者も出ない。
黙っていれば終わる話だ。
そして加瀬俊一は、黙っていれば終わる話を黙って終わらせなかったことによって、一度、国を敵に回しかけた男である。
彼はペンを取り、点検票の様式を書き写した。項目を一つだけ増やす。
施錠前 内部呼びかけ □
それだけである。誰も気づかないし、誰も褒めない。来年この用紙を使う生徒は、この一行が誰の手で増えたのかを永久に知らない。
書式は、そうやって残るものだ。
加瀬は下書きの束をまとめると、保健室へ向かった。
渡り廊下で、高木惣吉とすれ違った。
本を四冊抱えている。手続きを踏んだようには、どうしても見えない。
「高木先生」
「加瀬君」
二人とも足を止めなかった。止めれば会話になる。会話になれば、見られる。
歩きながら、加瀬は言った。
「南倉庫の件は、お聞きですか」
「聞きました」
「錠を掛けたのは私です」
「知っています」
高木はそれきり何も言わない。
三歩ほど進んでから、加瀬は付け加えた。
「点検票に一行足しました。施錠前に、中へ呼びかける欄です」
「効きますか」
「効きません。誰も読みませんので」
「では、なぜ足しました」
「来年も、同じ用紙が使われるからです」
高木の足が、わずかに遅くなった。
「加瀬君」
「はい」
「あなたは、そういうことを一度もやめませんね」
「褒めておいでですか」
「いえ」
「では、なんでしょう」
「……羨ましいのだと思います」
言い終えると、高木は歩調を戻した。
そして、二歩ぶん風下にずれた。
加瀬は思わず足を止めそうになった。
「もう、吸っておりません」
「知っています」
「では、なぜずれるのですか」
「習慣です」
高木は振り向かずに歩いていった。四冊の本を抱えたままである。
——あの方は、あれで人を励ましているつもりがない。
加瀬は口の端だけで笑って、保健室へ向かった。
二
【焼塩檸檬】
最初は、めっちゃ面白いと思った。
あたしはボールを取りに倉庫へ入って、奥の棚の上にある籠に手を伸ばしていた。そこへ温水が入ってきて、ハードルを押しこんで、それから何かの拍子に扉が閉まった。
ガチャン、と音がした。
「あれ?」
「……あれ?」
二人で扉を押した。
開かなかった。
「うわ、閉じこめられた!」
あたしは笑った。
だって、めったにないじゃん。こんなこと。
「面白くないから」
温水がすごく嫌そうな顔をした。
「面白いって! これ絶対、あとで話のネタになるよ」
「なるかもしれないけど、いま暑いんだって」
暑かった。
たしかに、すごく暑かった。
十分たった。
あたしたちは扉を叩いて、大声を出して、それから疲れて座った。
グラウンドには誰もいない。次の時間はプールだと誰かが言っていた。
「誰か来るかな」
「来るだろ。たぶん」
「たぶんかー」
温水は扉の隙間から外を見ていた。
この男子のことを、あたしはあんまり知らない。同じクラスで、文芸部で、いつも一人でいて、たまに八奈ちゃんと喋っている。
——ぬっくん。
いま勝手にあだ名をつけた。悪くないと思う。
二十分たったころから、あんまり面白くなくなってきた。
暑いというより、熱い。
倉庫の中は空気が動かない。マットとゴムと土の匂いが、頭の後ろの方にたまっていく。
あたしはTシャツの襟をつまんでパタパタやった。
「焼塩さん、あんまり動かない方がいい」
「なんで」
「体温上がるから」
「へー。詳しいじゃん」
「保健の授業でやった」
「聞いてなかった」
「知ってる」
「なんで知ってんの」
「寝てただろ、後ろの席で」
「見てたんだ」
「見てない。いびきが聞こえた」
「かいてないし!」
あたしは動くのをやめた。
やめて、床に座って、天井を見た。
——そういえば、動くのをやめるの、久しぶりだな。
そう思った。
あたしはたぶん、一日のうち九割くらい動いている。走ってるか、歩いてるか、跳ねてるか。止まっているのは寝てるときだけだ。
止まると、考えてしまうからである。
「光希のこと、知ってる?」
気がついたら、そう言っていた。
「え、綾野?」
「うん」
「同じクラスだけど」
「あいつさ」
そこで言葉が止まった。
なんて言えばいいのか分からなかった。
あいつさ、最近ちょっと変なんだよね。
あいつさ、あたしのこと、どう思ってるのかな。
あいつさ、朝の登校時間が変わったんだよ。
全部、言えなかった。
言ったら、認めることになる。
「……なんでもない」
「なんでもないの?」
「うん。暑いから、変なこと言った」
温水は「そっか」とだけ言った。
それ以上聞かなかった。
——助かった。
あたしはそのとき、たぶん、少しだけこの男子を信用した。
聞かない人間は、けっこう貴重である。
三十分を過ぎたあたりから、記憶があいまいになる。
暑いというより、遠くなる感じだった。
耳の奥で、蝉の声が二重に聞こえた。
「焼塩さん、寝るな」
「寝てないよー」
「目、閉じてる」
「閉じてない」
「じゃあ何本」
「え」
「指。何本立ててる」
「……三本」
「二本」
「じゃあ二本」
「いま合わせただろ」
「合わせてない」
合わせていた。
「焼塩さん」
「なにー」
「喋ってて。内容はなんでもいい」
「なんでもいいって言われると、いちばん困るやつじゃん」
「じゃあ好きな食い物」
「からあげ」
「早いな」
「ぬっくんは」
「……いま考えた名前?」
「うん」
「却下で」
「えー」
そこから先は、たぶん喋っていない。
——あ。
そのとき、あたしは一つだけ、はっきり考えたことがある。
いま死んだら、光希は泣くかな。
考えて、すぐに自分で嫌になった。
そういうのは、ずるい。
好きな人に泣いてほしいと思うのは、いちばんずるいやつだ。
あたしは走るのが得意で、明るいのが得意で、そういうずるいことを考えるのは苦手なはずだった。
——ぜんぜん苦手じゃないな。
そう思ったところで、扉が開いた。
光が入ってきて、白くて、それきり覚えていない。
三
【焼塩檸檬】
目が覚めたのは保健室だった。
天井が白い。冷房が効いている。腕に何か刺さっていた気がしたけど、たぶん気のせいである。
隣のベッドに温水がいる気配がした。
カーテンの向こうで、八奈ちゃんの声がする。
「温水君、まだ食べる?」
「もう無理」
「じゃあ私が食べるね」
——起きよう。
そう思って、やめた。
たぶん、倉庫の中で考えたことを、まだ誰にも見られたくなかったからだと思う。
だからあたしは、寝たふりをすることにした。
寝たふりは得意である。中学のとき、部活の朝練前によくやっていた。
ガラララ、と扉が開いた。
「失礼します」
知らない声。男子だ。
「甘夏先生から預かってきた。机の上に置いておくのもどうかと」
「あ、悪い。助かる」
「あれ、C組の……えっと」
「松谷だ」
——ああ。
いた気がする。うちのクラスに、姿勢のやたら良い男子が。
「ねえ松谷君、オムライス食べる? 残ってるよ」
「いただく」
しばらく、何も聞こえなかった。
食べているらしい。
やたら静かに食べる人である。
「ごちそうさま。ありがとう」
「待って待って」
「なんだ」
「いま何秒で食べた?」
「量ってはいない」
「四十秒だよ。わたし数えてた」
「そうか」
「……えっ、それだけ?」
「なにがだ」
「感想。感想は」
「食べ物だった」
——え。
あたしは危うく笑うところだった。
寝たふりをしている人間にとって、これはかなりの危機である。
「そういうことじゃないんだって!」
「じゃあ聞くけどさ。松谷君、これいくらだと思う?」
「値段?」
「そう、値段。君ならこれにいくらつける?」
数秒の間があった。
「材料費なら、卵とホワイトソースと米で、二人分でも三百円しないと思う」
「うわああああ!!」
——だめだ。
あたしは毛布の中で、必死に息を止めた。
肩が震えるのだけは、どうしようもなかった。
「聞いた温水君? 聞いた今の!」
「聞いてない。俺は寝てる」
温水も寝たふりをしていた。
この部屋、寝たふりが二人いる。
そのあと、松谷君は帰る前に温水に言った。
「あの倉庫の扉は、内側から開かない構造だ。次からは、片付けの前に確認するといい」
——え。
内側から開かない。
あの三十分、あたしは何回か扉を押した。押すたびに、開くかもしれないと思っていた。
開かないと決まっていたのだ。
……なんか、ちょっと嫌だな。
でも、なんでこの人、そんなこと知ってるんだろう。
次に入ってきたのは、別の男子だった。
「失礼します。生徒会の加瀬と申します」
——うわ、聞いたことある。
生徒会にすごい顔のいい一年がいる、というのは、女子の間ではけっこう有名な話である。あたしは興味がないので聞き流していたけど、声からして、たしかにいい。
八奈ちゃんが「本物だ」とか言っている。
そして加瀬という人は、温水にこう言った。
「その扉に錠を掛けたのは、私です」
——え。
「十時四十三分に施錠しました。あなた方が中におられた可能性があります。申し訳ありませんでした」
あたしは目を開けそうになった。
「でも、誰も見てなかったんだろ?」
「見ていません」
「じゃあ、言わなくてもよかったんじゃ……」
「そうですね」
それだけだった。
理由は言わなかった。
——なんだこの人。
あたしは毛布の中で考えた。
黙っていれば、絶対にバレなかった話である。
倉庫の中には窓がない。誰も見ていない。あたしだって、何時に閉まったかなんて覚えていない。
なのに、わざわざ言いに来た。
しかも、言ったあとの説明が「そうですね」だけ。
あたしは、そういうのがけっこう好きである。
理由を長々と喋る人は、たいてい自分のために喋っている。
そこから先は、オムライスの査定大会になった。
「もし店に出ておりましたら、私は千二百円をお支払いします。喜んで」
「せんにひゃくえんっ!!」
八奈ちゃんの声がひっくり返った。
三百円と五百円と千二百円。
同じオムライスである。
——大人って、こんな感じなのかな。
なんとなく、そう思った。
なんで大人なのかは、自分でも分からない。
「これ、缶詰のソースなんだけど」
「存じています。ですが、それを選び、それをこの卵に合わせたのは、あなたです」
「…………」
八奈ちゃんが黙った。
あたしは、そこで少し、悔しくなった。
八奈ちゃんは料理が上手い。あたしは火と刃物を持たせてもらえない。
八奈ちゃんは言葉が上手い。あたしは思ったことをそのまま言って、たいてい失敗する。
八奈ちゃんは、好きな人に十年も気づいてもらえなくて、それでも笑っていられる。
あたしには、たぶん無理だ。
四
【焼塩檸檬】
「……あれ、なんか騒がしい」
あたしは起き上がった。
もう寝たふりをしている理由がなくなったからである。
暗いところで考えたことは、明るいところに出ると薄くなる。さっき倉庫で考えた、いちばんずるいやつも、いまはもう遠い。
——うん、大丈夫。
「あ、生徒会の人だ」
「加瀬です。お加減はいかがですか」
「元気元気。あたし、寝れば治るタイプだから」
これは本当である。
あたしは寝れば治る。走れば忘れる。
そういうふうにできている。というか、そういうふうにしている。
「羨ましい体質です」
「あんたも走る?」
言ってから、自分でも脈絡がないと思った。
でも、あたしが人に何かを勧めるとしたら、これしかない。
走ると、考えなくて済むから。
「走るのは不得手でしてね。乗る方が好きでした」
「乗る? なにに」
「……昔の話です」
「えー、なにそれ気になる」
「気にさせておくのが、私の芸ですので」
あたしは声を上げて笑った。
——この人、絶対なんか隠してる。
隠してるけど、悪い感じはしない。
隠してる人は、だいたい二種類いる。隠してるのがバレたら困る人と、隠してること自体は見せてもいい人。
この人は後者だ。
そういう人は、けっこう信用できる。
……たぶん。
加瀬という人が出ていったあと、八奈ちゃんが空の皿を眺めて言った。
「今日、変な男子ばっかり来るね」
「同意しかない」
「松谷君は原価計算するし、加瀬君は褒め方が上手すぎるし」
「後者はいいことなんじゃないの」
「よくないよ。あれ、誰にでも言えるやつだもん」
——そうかな。
あたしは、そうは思わなかった。
でも、口には出さなかった。
八奈ちゃんがああいう言い方をするときは、たいてい照れているからである。
そのあと、あたしはもう一度横になった。
天井を見ながら、一つだけ思い出したことがある。
倉庫の中で、あたしは光希のことを言いかけて、やめた。
温水は聞かなかった。
聞かなかったから、あたしはまだ、何も認めていない。
——うん。まだ大丈夫。
明日になったら、また走ろう。
走れば、たいていのことは、なんとかなるのだ。
いままで、ずっとそうだった。