負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
一
【八奈見杏菜】
金曜の朝の教室は、そわそわしている。
「杏菜、日曜あいてる?」
「んー、たぶん」
「たぶんってなに」
「予定が二個あって、まだ決めてないの」
嘘である。
予定は一個しかないし、決める権利は私にない。
「えー、なになに」
「言えない」
「彼氏?」
「いたら言うって」
三人が笑って、話が別のところへ流れていった。
合わせるのは得意である。中学のころからずっとやっている。
——日曜、どうしよう。
考えないようにしていたことを、朝から考えてしまった。最悪の目覚めである。
「なあ松谷、週末なんかすんの?」
斜め前で、男子が振り返っていた。
話しかけられたのは、うちのクラスの松谷君。四月に来た転入生で、いつも姿勢がやたら良くて、たぶんクラスの半分は名前を覚えていない。
「合宿に行く」
「え、なんの?」
「文芸部だ」
「文芸部あんの、うち」
……あるんだよ。あるんだって。
会話が終わった。男子は前を向いて、もう忘れている。
そこへ温水君が横から口を挟んだ。
「そうじゃなくてさ。あいつが聞きたいのは、合宿以外に何かあるかって話だと思うぞ」
「ない」
「即答すぎるだろ」
「予定というのは、誰かに指定されるものだ。指定されていない時間の使い方を、俺は」
そこで松谷君は言葉を切った。
「……いや。なんでもない」
私は自分の話に相槌を打ちながら、その一言だけ拾っていた。
——なんだろ、いまの。
まあ、いいや。あの子はいつも変だし。
二
【八奈見杏菜】
昼休み。旧校舎の非常階段、四階の踊り場。
温水君の定位置だと知っていて、私は先に座っていた。
膝の上に弁当箱。開けていない。
食欲がないわけじゃない。私に食欲がない日は生涯で三日しかない。ただ、話を先にしないと箸が進まないのだ。
「遅い」
「俺の場所なんだけど」
「今日は貸してあげる」
貸す側と借りる側が逆だ、みたいな顔をされた。知ってる。
「どうしたんだよ。飯食ってないじゃん」
「聞いてよ温水君。うちの母親がさ」
私は深々と溜息をついた。
「袴田んちのおばさんと、まだ仲いいんだよね」
説明するのが、少し面倒だった。
「おばさんって、袴田の?」
「そう。小学校の役員からの付き合いで、十年たってもお茶飲んでる」
「じゃあ、六月のことは」
「知らない」
「言ってないのか」
「言ってない」
「なんで」
「言ったら心配されるでしょ。心配されたら、私、大丈夫だよって言わなきゃいけないじゃん」
「言えばいいだろ」
「大丈夫だよって言うの、けっこう疲れるんだよ」
温水君が黙った。
その結果がこれである。
「今度の日曜、袴田んちが海でバーベキューやるんだって。それでうちの母親が『杏菜も行くわよね』って」
「うわ」
「うわ、じゃないんだよ。もう先方に返事しちゃってるの」
「断れば」
「断れないの。断ったら理由を説明しないといけないでしょ」
そう。
理由を説明するくらいなら、行った方がまだましだ、と思うところまで私は来ている。
——いや、それは無理だな。
さすがに無理である。
「そこで私は考えました」
私は人差し指を立てた。
「同じ日に、別の予定があればいい」
「あるの?」
「あるじゃん。目の前に」
「文芸部の合宿、明日から一泊でしょ。田原って海だよね。バーベキューもやるって先輩が言ってた」
「言ってたけど」
「バーベキューにはバーベキューをぶつけるしかないの」
理屈がおかしい、という顔をされた。
おかしくない。同じ日に同じ内容の予定があれば、母は納得する。予定の格が同じだからだ。
「友達と海」では弱いが、「部活の合宿」なら強い。
こういう計算は、わりと得意である。
「じゃあ私、合宿行くから」
「いや、八奈見さん、部員じゃないだろ」
——あ。
そうだった。
「入る」
「え」
「入る! 今すぐ入るから!」
温水君がスマホを出して、私を文芸部のグループに招待した。
通知が飛んだ瞬間、月之木先輩から親指のスタンプが三連続。授業中では。
「よし、入部完了」
私はようやく弁当を開けた。今日の卵焼きは自信作である。
「動機が不純すぎない?」
「不純? 逃げ場を求めて部活に来るのが不純なら、この学校の部活の半分は不純だよ」
半分は言いすぎかもしれない。でも三割はいると思う。
「それにさ」
私は卵焼きをつまみながら、口が勝手に動くのを止められなかった。
「別に、逃げるためだけじゃないし」
「え」
「なんでもない」
卵焼きを口に入れた。
——なんで言ったんだろ。
たぶん、この二週間、ここでご飯を食べるのが思ったより悪くなかったからだと思う。
借金のカタで作ってる弁当なのに、朝六時に起きて、今日は何を入れようかと考えている自分がいて。
それを言うのは、なんか、負けた気がする。
だから言わない。
そして私は、グループを開いた。
「へー、これがうちの部の……あれ」
「どうした」
「メンバー五人しかいないけど」
「そりゃそうだろ。先輩二人と、小鞠と俺と、八奈見さんで五人」
……五人?
「え、待って」
私はもう一度スクロールした。
「松谷君は?」
いない。
どれだけ探しても、松谷誠の名前がない。
「え、あいつ部員だよな。俺より前から入ってるよな」
「入ってるよね。だって明日、合宿来るって言ってたし」
「……なんで?」
「知らないよ。温水君が部長でしょ」
「まだ部長じゃない」
温水君はスマホを見下ろしたまま、しばらく黙っていた。
「……俺、あいつのこと、なんも知らないな」
「私もだけど」
私は弁当箱の蓋を閉めて、立ち上がった。
「よし。捕まえに行こ」
三
【八奈見杏菜】
昼休みの終わり際。松谷君は自分の席で、本も開かずに座っていた。
窓の外を見ているわけでもない。ただ座っている。
……なんかこれ、見てて落ち着かないな。
「松谷君!」
机の前に立ちはだかると、あの子は少し身を引いた。
「なんだ」
「あんた、部のグループ入ってないでしょ」
「……グループ」
「LINE。文芸部の」
視線がわずかに泳いだ。
「入っていない」
「なんで!」
「必要がなかった」
「必要しかないんだけど!」
温水君が横から聞いた。
「いや待て。じゃあお前、日程とか持ち物とか、どうやって把握してたんだ」
「部室の黒板だ。月之木先輩が書く。あれを毎回、写している」
「写してる?」
「手帳に。それと、部室での会話を聞いていれば、大体は分かる。集合時刻と場所さえ取れれば足りる」
「昨日の合宿の話は」
「先輩が口頭で言った。田原、青年の家、二部屋、明後日。四つとも聞いた」
私は口を開けたまま固まった。
二か月。
この子、そうやって全部拾ってきたのか。
「それ、めちゃくちゃ大変じゃない?」
「大変ではない。慣れている」
——え。
「慣れてちゃダメなんだって!」
思わず大きな声が出た。自分でもびっくりした。
「スマホは持ってるんだよな?」
温水君が聞くと、松谷君はカバンから一台出した。
私は二度見した。
ケースなし。傷なし。壁紙は初期設定。アプリのアイコンが一列だけ、買ったときの並びのまま。
新品にしか見えない。
「え、買ったばっかり?」
「四月だ」
「三か月使ってこれ?」
「電話はかけられる」
「他は」
「……他は、まだだ」
私はあの子の手からスマホを取り上げた。
「ちょっと貸して。うわ、なにこれ。通知ぜんぶオンじゃん。よくこれで平気だね」
「鳴ったことがない」
……あー。
そりゃ誰も連絡しないからでしょ。
さすがに言えなかった。
「LINEは? 入ってる?」
「保護者が入れた。名前だけ登録されているはずだ」
画面を見た。
まつたに
アイコンは灰色の初期設定。ひらがな四文字。ステータスメッセージ、空欄。
……なんか、切ないな。
「これ、松谷君が自分でつけたの?」
「保護者だ」
「じゃあ変えなよ。名前くらい漢字にしなって」
「変え方が分からない」
私は黙って操作した。
「はい、松谷誠。これでいいでしょ」
「……速いな」
「これくらい誰でもできるって」
「俺にはできない」
きっぱり言い切るところが、この子らしい。
温水君がグループに追加した瞬間、あの子の手の中で端末が短く震えた。
肩が跳ねた。
「え、なんだ今の」
「通知。メッセージ来ると鳴るんだよ」
「鳴ると、どうすればいい」
「別に、読めばいいだけだけど」
松谷君は両手で慎重にスマホを持ち直した。書類を受け取るみたいな持ち方だ。
月之木先輩の「松谷君ようこそ〜〜〜」に、スタンプが五つ。私も三つ送った。
あの子は画面をじっと見つめている。
「……これは、返答が必要か」
「必要ではないけど、まあ、なんか返しとけば」
そして片手の人差し指で、一文字ずつ、ゆっくり打ち始めた。
一分かかった。
送信されたのがこれである。
『受領しました』
「なにその返事!」
私は吹き出した。
「間違っているか」
「間違ってはないけど! なんかFAXみたいなんだって!」
「ファ……なんだ?」
「知らないの!?」
温水君はもう堪えるのをやめていた。声を出して笑っている。
月之木先輩から笑い転げるクマのスタンプが十連投されている。松谷君はそれを一つずつ、実に真剣な顔で眺めていた。
「温水」
「なんだよ」
「この絵は、何を意味している」
「意味はない」
「意味がないものを、なぜ送る」
「……いい質問だな」
私はお腹が痛くなってきた。
チャイムが鳴って、私は自分のクラスへ走った。
走りながら、ちょっとだけ考えた。
二か月、誰にも連絡先を聞かれなかった子。
黒板を写して、会話を盗み聞きして、それで全部やってきた子。
そして本人は、それを大変だと思っていない。
……あの子、どういう育ち方したんだろ。
まあいいや。今日から通知が鳴る。それでいいじゃん。
四
【八奈見杏菜】
放課後の部室。
私は温水君に紙の王冠をかぶせられて、菓子を食べていた。
「新入部員」と書いてある。誰が作ったんだこれ。
小鞠ちゃんはまだ来ていない。松谷君は書棚のあたりに立っている。月之木先輩がソファで足を組んでいる。
平和である。
そこへ、焼塩檸檬が男の子を連れて入ってきた。
背の高い、眼鏡の男子。
——ああ、この子か。
綾野光希。檸檬ちゃんの幼馴染で、彼女が好きな相手。
檸檬ちゃんは隠しているつもりらしいけど、隠せていない。あの子は全部顔に出る。走ってるときも笑ってるときも、恋してるときも。
……見ていて、正直、うらやましかった。
まだ何も終わっていない子の顔だから。
月之木先輩が本を勧めて、綾野君が笑って、檸檬ちゃんが横から口を出す。
いい感じの空気だった。
そこで先輩が言った。
「それはそうと綾野君。文芸部に興味はないかな」
「気にはなりますけど。塾が忙しいし」
「気が向いた時に本を借りに来るだけでもいいの」
「じゃあ、考えておきますね」
——ここで終わればよかったのだ。
「そっちの可愛い彼女さんも一緒に入ってよ」
檸檬ちゃんの背筋が伸びた。
「えっ? あ、あたし? 彼女ってあたしのことですかー? いやー、参ったなー」
参ってない。
嬉しいのが顔に全部出ている。
私は菓子を持つ手を止めた。
そのとき、松谷君が急に喋った。
「綾野」
全員がそっちを見た。
「入部案内の裏面に、旧年度の書式が残っている。顧問名が前任のままだ。訂正版を渡す」
「え、あ、そうなんですか」
「二枚組の方が正しい。少し待ってくれ」
あの子は棚の下の箱を開けて、中を探し始めた。
……なにやってんの、いま。
みんなが黙って待つ。綾野君は書類を見ている。月之木先輩は勧誘の続きが言えない。
檸檬ちゃんは笑ったままの顔で止まっている。
十秒くらいだったと思う。
そして先輩が思い出したように言った。
「あ、そうそう。それで彼氏さんの方はどうなの、うちに入る気は」
「はは、檸檬に悪いですよ。俺たち、付き合ってないですから」
「こいつ昔から結構モテるんで、俺なんかじゃ釣り合わないですって」
「あたし、彼氏とかいないし! モテたって誰でもいいわけじゃないしさ!」
檸檬ちゃんが綾野君の服を掴んで詰め寄る。
「そ、そうか……。悪い、俺なんか変なこと言ったか」
「そうじゃないけど。あの、あたし……ごめん」
月之木先輩が二人を見比べた。
——やめて。
私は口を開こうとした。
「あれ。やっぱ二人、付き合ってないにしてもそんな感じなの?」
「え、ややや、そんなんじゃないですって!」
「だから違いますよ。俺、彼女いますし」
檸檬ちゃんの笑顔が、凍った。
その瞬間を、私は真横で見ていた。
見ていて、思ったことがある。
——あ、私の顔だ。
六月十一日の私の顔だ。
たぶん一生忘れないやつだ。
そこから先のことは、あんまり覚えていない。
綾野君が朝雲さんの話をして、退散して、檸檬ちゃんが椅子に座って、入部届に名前を書いた。
「あれー……光希……彼女いたんだー……あはは……あたしって……今まで何してたんだろうね……」
私は自分の頭から王冠を取って、あの子の頭に載せた。
「えーと。とりあえず、お疲れ様」
「……はい。あたし、お疲れです」
檸檬ちゃんが私のお腹に顔をうずめた。
肩が震えているのが、腕に伝わってくる。
——今日は私が上級生だ。
一学期に一敗している人間には、それくらいの権利はあると思う。
五
【八奈見杏菜】
その日の帰り、私は三人にメッセを送った。
『帰りにお茶してこ』
『檸檬ちゃんと松谷君も呼ぶから』
店を選ぶのに、たぶん三秒もかからなかった。
学校から歩いて二十分、隣町のファミレス。
——そう。あの店である。
私が草介に振られた店。
なんで選んだのか、と聞かれたら困る。
ツワブキの生徒が少ないから。安いから。ドリンクバーがあるから。
理由なら三つくらい用意できる。
あそこは私にとって、いちばん負けた場所である。
そこに檸檬ちゃんを連れていけば、あの店は「私が負けた店」ではなくなる。
「私たちが負けた店」になる。
——それって、二分の一になるってことじゃん。
そういう計算をしている自分が、ちょっと嫌だった。
でも、やった。
「檸檬ちゃん、隣どーぞ」
「うん、ありがと」
素直に座る檸檬ちゃんは、しおらしい。いつもこうならモテるのに。
温水君は明らかに何か言いたそうな顔をしていた。
たぶん「ここってお前が振られた店だろ」と思っている。
思ってればいいよ。私は強いのだ。
松谷君がメニューを開いて、一秒で閉じた。
「水でいい」
「え、なんか頼めよ」
「腹は減っていない」
私はメニュー越しに睨んだ。
「松谷君。今日はそういう日じゃないの」
「どういう日だ」
「食べる日」
「……理由になっていない」
「理由がいる日でもないの」
そう。
食べるのに理由はいらない。悲しいときに甘いものを食べるのは、理由じゃなくて手順である。
「そうだ、言ってなかったけど」
私はメニューをめくりながら言った。
「私も今日、入部したんだけど」
「え、そうなの?」
「そ。だから檸檬ちゃんとは同期だね」
「なんで入ったの?」
「バーベキューから逃げるため」
「なにそれ!」
檸檬ちゃんが、今日はじめて声を出して笑った。
——よし。
一勝である。
そこからは、私の得意分野だ。
私は何も聞かない。
好きな人の名前も、朝雲さんの名前も出さない。代わりに、メニューの上から順に頼む。
パンケーキ。パフェ。ドリンクバー四人分。ポテト。なぜかグラタン。
「八奈見さん、多くない?」
「檸檬ちゃん、甘いのとしょっぱいの、どっちの気分?」
「……えっと、どっちも」
「よし、正解」
正解である。どっちも、が出るうちはまだ大丈夫だ。
運ばれてくる皿を、私は片端から檸檬ちゃんの前に置いていった。
三皿目で、あの子が黙った。
四皿目で、目元を拭った。
私は見ないふりをして、五皿目を置いた。
見ないふりをするのが、たぶん一番大事だ。
見られていると、泣けない。
そして、自分のパフェを崩しながら言った。
「ここのパンケーキね、私、前に一人で食べたことあるんだよ」
「そうなんだ」
「うん。二人分頼んで、一人で食べた」
言ってから、なんでこれを言ったんだろうと思った。
檸檬ちゃんが顔を上げる。
「……二人分?」
「そ。頼んだあとに一人になったから」
それ以上は言わなかった。
言えることは、それで全部だったからだ。
あの日、私は二人分のパンケーキを前にして、たぶん四十分くらい座っていた。
その四十分に何を考えていたかは、いまも思い出さないことにしている。
思い出さないことにしていれば、なかったことになる。
……ならないけど。
檸檬ちゃんはしばらく黙って、それからパンケーキを一切れ食べた。
「……美味しいね」
「でしょ」
——うん。
これでいい。
温水君がグラスの氷を見ていた。何か言おうとして、言うことがないと気づいた顔だった。
松谷君は皿を見ていた。さっきから一言も喋っていない。
「はい松谷君、あーん」
「断る」
「食べないと帰さないから」
「……脅迫だぞ、それは」
結局あの子はパンケーキを一切れ食べた。三口で終わった。感想はない。
私はいつもの「食べ物だった」を待ち構えていたが、今日は来なかった。
代わりに、こう言った。
「これは、食べるためのものではないな」
私の手が止まった。
「……どういう意味?」
「量が多すぎる。四人では食べきれない。最初から食べきる想定で頼んでいない」
「そりゃそうだけど」
「では何のために頼んだのか、と思ったが」
あの子はフォークを置いた。
「……分かった。理由はいらないと言ったのは、そういうことか」
私は目を丸くした。
——気づいたんだ。
原価しか言わない子だと思っていた。
その子が、量から意図を読んだ。
「松谷君。あんた、思ったより見どころあるじゃん」
「褒めるな」
「褒めてないけど」
「……そうか」
嘘である。
ちょっと褒めた。
「そうだ、写真撮ろ」
「なんの」
「今日の。だってほら、二人の入部記念じゃん」
「記念という日ではないと思うが」
「うるさい。ほら、松谷君も寄って」
あの子は椅子ごと少しだけ動いた。
ぎこちない。写真に慣れていない動き方だった。
シャッターを切って、グループに送った。
松谷君の手の中で端末が震えた。
「……また来た」
「読みなよ」
あの子は画面を開いて、写真をじっと見つめている。
長い。
「なんかおかしいとこあるか」
温水君が覗きこむ。
「……いや」
松谷君は画面を拡大したり戻したりして、それから小さく言った。
「これは、消えないんだな」
「消さなきゃ消えないけど」
「……そうか」
そのままポケットにしまった。
——なにそれ。
写真が消えないのが、そんなに珍しい?
……いや。
あの子はたぶん、消えるものの方に慣れているんだと思う。
そう思ったら、いろいろ腑に落ちた気がした。
腑に落ちただけで、何も分からなかったけど。
六
【八奈見杏菜】
会計。
「二千三百八十円になります」
財布を開けた。
小銭入れを見た。札入れを開けた。カード入れの隙間を探った。ポケットに手を突っこんだ。
……あれ。
「八奈見さん、どうかした」
「ちょっと待ってね。うん、大丈夫。大丈夫だから」
大丈夫ではない。
だって足りない。ぜんぜん足りない。
言い訳をさせてもらうと、朝から予定が二回変わっているのだ。合宿が決まって、入部して、ファミレスに来て。人生には予測できないことがある。
あと単純に、頼みすぎた。
「必要なら、俺が立て替える」
横から松谷君が言った。
「ただし、いくら不足しているか教えてくれ。返済は明日でいい。合宿の集合時に受け取る。利子は取らない。念のため金額と日付を書いて、二人分の控えを作ろう」
「……えっ」
「貸付だからだ」
——待って。
私は、その申し出の中身を三秒で吟味した。
利子なし。期日明確。控え二部。
完璧である。
なのに。
「そんな借り方したくないんだけど!!」
「なぜだ」
「なんか! 一生返し終わらない気がするから!」
そう。
きちんとした書類のある借金は、絶対に終わらない気がする。数字が残っている限り、私はずっと債務者である。
そんなのは嫌だ。
だから私は、隣を向いた。
温水君が、こっちを見ている。
……この人は、たぶん、何も書かない。
条件も期日も控えも作らない。ただ黙って出して、たぶん頭の中だけで数えている。
それが分かる程度には、この二週間で私はこの人を知っていた。
私は震えた。演技ではなく、本当に震えた。
「まさか、お金が足りないなんてことは」
顔を上げて、まっすぐ見つめる。
これは、まあ、ちょっと演技である。
「あの……温水君……」
温水君は黙って千円札を差し出した。
——ほらね。
私はそれを受け取って、レジに出した。
そして振り返ったら、松谷君が手帳を開いていた。
「八奈見」
「……なに」
「証書に追記する。第一号の但し書きだ」
「え」
「金一,〇〇〇円也。貸主、温水和彦。本日付」
「ちょっと待って」
「待てない。書かないと残高が合わなくなる」
——増えた。
減らしていたはずのものが、増えた。
私は二週間、朝六時に起きて弁当を作っていた。三百二十円、二百六十八円、五百八円。少しずつ削って、やっと三千円台に入ったところだったのである。
それが、たった一晩で。
「……ねえ松谷君」
「なんだ」
「これ、いつ終わるの」
松谷君はシャープペンシルの尻で手帳を二度叩いて、実に真面目な顔で答えた。
「返済方法が弁当である以上、君の作る速度と、君の借りる速度の差による」
「差」
「現状、追いついていない」
「言わないで!!」
《借用証書 第一号 追記:金一,〇〇〇円也》
七
【八奈見杏菜】
店を出たら、駐車場に大人が一人いた。
黒い車の後部座席に、透明な袋を積んでいる。袋の中には水が入っていて、その中で何かが動いていた。
「あ」
見たことのある人だった。というか、担任じゃないほうの先生だ。
「松平先生」
「おや。文芸部の皆さんですね」
松平先生が振り向いて微笑んだ。
一年C組の副担任で、返された答案の朱の字がやたら綺麗な人である。
「先生、なんでここに」
「そこの店に用がありまして」
私は隣を見た。看板が出ている。熱帯魚と、水草と、書いてある。
「……魚屋さん?」
「魚屋ではありません。飼うほうです」
「飼うほう」
「飼うほうです」
先生は袋を持ち上げてみせた。中で、赤いのが二匹、ゆらゆらしている。
隣で、松谷君が言った。
「……また、増えるのですか」
「増えません。減った分です」
「減ったのですか」
「二匹ほど」
先生はあっさりそう言って、袋をそっと置いた。
置き方が、荷物の置き方ではなかった。
「では、お送りしましょう」
「え」
「夜道ですので」
「いや、歩けますって」
「歩けるのは存じております」
——なんだこの返し。
「松谷さんは」
「自転車が学校にあります」
「では、お気をつけて」
松谷君はうなずいて、さっさと歩いていってしまった。あの子は本当に、迷うということをしない。
温水君が助手席に押しこまれ、私と檸檬ちゃんが後ろに乗った。
車の中は、なんだか、いい匂いがした。墨の匂いだと気づいたのは、ずっとあとである。
三つ目の信号で、肩が重くなった。
檸檬ちゃんが、私にもたれて寝ていた。
泣いた子はよく寝る。知ってる。私も六月十一日の夜は、十一時間寝た。
「先生」
「はい」
「ひとつ、聞いていいですか」
「どうぞ」
私は声を落とした。
「……こういうとき、この子に何て言ってあげたらいいんでしょう」
先生はしばらく黙っていた。
黙ったまま、ウインカーを出して、左に曲がった。
「八奈見さんは、魚を飼われますか」
「……は?」
「熱帯の魚です」
「飼ってないですけど」
「私は飼っております」
なんの話。
「水槽というのはですね。水草が酸素を出して、貝が底の汚れを食べて、魚がそのあいだで暮らしている。三つが釣り合っていれば、水は濁りません」
「はあ」
「その状態になったら、水は換えないほうがよろしい」
「換えないんですか」
「換えると崩れます。よかれと思って手を入れると、たいてい壊れる」
助手席で温水君が振り返った。
「先生、それ、なんの話ですか」
「魚の話です」
「……はい」
温水君が前を向いた。諦めが早い。
「餌も同じです。多過ぎるより、少な過ぎるほうがよろしい」
「餌をやらないと、死にませんか」
「餌のやりすぎで死ぬ魚のほうが、ずっと多いのです」
——え。
「飼い主の親切が過ぎて殺してしまう。私が書いたときは、そう書きました」
「書いた?」
「昔の話です」
またこれだ。
この学校の人たち、なんで揃いも揃って「昔の話」で終わらせるんだろう。
「あの、先生」
「はい」
「それ、さっきの質問の答えですか」
「さあ」
「さあって」
「魚の話です」
先生はそう言って、ハンドルを切った。
私は窓の外を見た。
餌のやりすぎ。
……今日、私、五皿頼んだんだよね。
パンケーキとパフェとポテトとグラタンと、あともう一皿なんだっけ。
多すぎたのかな。
三皿目で檸檬ちゃんが黙って、四皿目で目元を拭ったとき、私は見ないふりをした。何も聞かなかった。好きな人の名前も、朝雲さんの名前も、一度も出さなかった。
——換えなかった。
水を。
……いや、なに考えてんだろ私。この子は魚じゃないんだって。
でも。
なんか、腑に落ちた。
腑に落ちただけで、何も分かってないけど。
檸檬ちゃんを起こして降ろして、温水君を降ろして、最後に私の家に着いた。
「ありがとうございました」
「いえ」
「あの、先生」
「はい」
「魚、何匹いるんですか」
先生は少し考えた。
「二年ほど、数えておりません」
「数えてないんですか」
「数えなくても、生きております」
車が行ってしまってから、私は玄関の前でしばらく立っていた。
——なんだあの人。
明日は合宿である。
バーベキューから逃げるために入った部の、合宿。
……まあ、いっか。
逃げ場でも、行く場所には違いないし。