負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー 作:房吉
Intermission 消えない記録
※金曜日の夜、豊橋の帰り道
旧校舎の三階に、灯りが一つ点いていた。
午後八時である。正門は閉まっていて、俺は自転車を押しながら通用口の前を通りかかったところだった。
そのまま行けばよかった。だが灯りの位置が図書室だったので、俺は自転車を停めた。
階段は木で、上るたびに同じ場所が鳴る。三段目と十一段目。二か月で覚えた。
図書室の戸は開いていた。
高木先生は書架の間に立っていた。座っていない。本を三冊ほど左腕に抱えて、四冊目を開いたまま、その場から動いていない。
机の上の湯呑みから、湯気が出ていなかった。
「高木先生」
返事がない。
もう一度呼ぼうとしたところで、先生が顔を上げた。
「……松谷君」
「戸締まりの時間は過ぎています」
「そうですか」
「六時です」
「そうですか」
同じ返事が二回来た。この人は頭が別の場所にあるとこうなる。
俺は入口に立ったまま、抱えている本の背を見た。哲学、歴史、それから何かの科学。厚みも判型も揃っていない。
探して選んだのではなく、目についた順に取ったのだと分かる。
「借りるのですか」
「いえ」
「では、なぜ持っておられるのですか」
先生は少し黙って、それから抱えた本をわずかに持ち上げた。
「置くと、次にどこにあるか分からなくなる」
「棚に戻せば分かります」
「分かります。分かるのですが」
そこで言葉が切れた。
「戻したくないので」
司書の発言ではなかった。
「先生」
「なんでしょう」
「食事は」
「……していません」
「六時です」
「それはさっき聞きました」
先生は本を抱えたまま器用に片手で内ポケットを探り、小瓶を出した。栓を抜いて、ほんの少し口に含む。顔をしかめて、栓を戻した。
「先生」
「習慣です」
「まだ何も申し上げていません」
「聞かれることが決まっていますので」
「その返事も、習慣ですね」
高木先生は少しだけ黙った。
「……そうかもしれません」
*
俺は書架を見た。
天井まである。同じ幅の棚が、部屋の端から端まで並んでいる。
「多いですね」
「八十年分あります」
「その一冊目は、何ですか」
「フランス語からの翻訳です。私が読んだ版は誤訳が多かった」
「読み比べておられるのですか」
「三十年前に直っていました」
「三十年前」
「私が引っかかっていた箇所です。訳者が註で謝っている」
先生の声が、少し早くなった。
「謝る必要はないのです。当時の辞書ではああ訳すしかない。私もそう訳しました。それを、この人は八頁も使って説明している」
「……八頁」
「八頁です」
そこで先生は自分の声に気づいたらしく、口を閉じた。
「先生」
「なんでしょう」
「いま、早口でした」
「……気のせいです」
「私が知りたかったことは、たいてい答えが出ています。誰かが調べて、書いて、印刷して、この棚に入れてある。私は出して読むだけでいい」
「よかったですね」
言ってから、間違えたと思った。
この人はその言い方をいちばん嫌う。
だが先生は怒らなかった。本を抱え直して、そのまま言った。
「ええ。よかったです」
俺は少し驚いた。
「先生」
「なんでしょう」
「残ってよかったと、思いますか」
「何がです」
「紙です」
図書室が静かになった。
俺たちは焼いた。読んだら焼き、写しは取らず、名前は書かない。残せば人が死ぬからだ。
九月の三日間で、俺は自分が四年かけて書いたものを全部燃やした。灰の量は思っていたより少なかった。
高木先生は書架の方を向いたまま答えた。
「焼いたのは正しかった」
「はい」
「そのうえで私はいま、焼かなかった人間の書いたものを読んでいます」
「……」
「都合のいい話です」
「そうですね」
「ですが、都合のいい話に助けられている以上、私はそれを否定しません」
先生は四冊目を閉じた。
「あなたが焼いたおかげで、名前を出さずに済んだ人が何十人かいます。その人たちが戦後に書いたものが、この棚に何冊か入っている。私は今週、そのうちの二冊を読みました」
「……知りませんでした」
「言っていませんから」
「なぜです」
「他の二人には、まだ言わないでください」
理由は言わなかった。
俺も聞かなかった。
*
「先生」
「はい」
「その四冊は、戻してください」
「明日にします」
「明日には、どこにあるか分からなくなります」
「分かります」
先生は言った。
「四冊とも、私が持って帰りますので」
規則違反である。
この人が学校司書だということを、俺は一瞬忘れそうになった。
「貸出票は」
「……書きます」
「いま書いてください」
「松谷君」
「はい」
「あなたは、そういうところが変わりませんね」
「規則です」
「規則を書いたのは私です。この図書室の利用規程は、四月に私が作りました」
「では、なおさらです」
高木先生は四冊を机に置いて、貸出票に手を伸ばした。
「一冊目、著者名から書きますか」
「書名からです。様式にそう印刷されています」
「……様式に従うのが好きですね、あなたは」
「好きではありません。速いだけです」
「四冊目の書名が読めません」
「ドイツ語です」
「読める者は校内に何人いますか」
「一人です」
「では、その一人が書いてください」
*
帰り道。
豊橋の夜は明るい。街灯が等間隔に並び、自動販売機が道端で光っている。灯火管制という言葉が意味を失った街を、俺は二か月かけて少しずつ歩き慣れてきた。
ポケットの中で、端末が震えた。
立ち止まって取り出す。八奈見からだった。パンケーキの皿の写真と、意味の分からない絵が三つ。
それに月之木先輩の返事が続き、焼塩が何か短く書きこんでいる。
五人が同じものを、同じ時刻に見ている。
そして、消えない。
——これがあれば。
考えるまいとしたが、もう考えていた。
陸軍と海軍と外務省と宮中。四つの役所は四つの別の国のようなものだった。同じ都市の中にありながら、電話は盗聴を疑い、文書は経路が残り、口頭で伝えるには本人が動くしかない。
一つの文を届けるために丸一日を使ったことがある。返事はさらに二日後に来た。
会って話すには会う口実がいる。口実を作るのに三日かかり、その三日で状況が変わる。
二年かかった。
もしあの四人が、この小さな板を一つずつ持っていたら。
同じ文が、同じ瞬間に、四人の手元に届く。返事はその日のうちに揃う。歩かなくていい。
——二か月で済んだかもしれない。
そこまで考えて、俺は自分の顔が強張っているのに気づいた。
そして、すぐに気づいた。
消えないのだ。
この板の中身は、消さなければ消えない。持ち主が捕まれば、全部が一度に出る。
二年が数か月になり、そして——一週間で全員が挙げられていた。
たぶん、そちらの方が確実だ。
便利になった道具は、便利になった分だけ正確に人を殺す。八十年経っても、そこだけは何も変わっていない。
*
……いや。
俺は自分の考えを止めた。
さっきから、これを仕事の話として考えている。連絡速度と、保全と、露見の危険。習い性というやつだ。
だが俺がさっきから何度も画面に戻しているのは、そこではない。
写真である。
ファミレスの席で、四人が並んでいる。八奈見が真ん中で笑っていて、焼塩が寄りかかり、温水が半分だけ写っていて、俺は端に、椅子ごと少しずれた位置にいる。
姿勢が悪い。表情も硬い。写り方を知らない人間の写り方だ。
俺は自分の写真をほとんど持っていない。
軍装の記録写真が何枚かあったはずだが、あれは俺の写真ではなく階級の写真だった。それも九月に焼いた。
これは階級ではない。
金曜日の夜に、菓子の皿の前に座っていた男が写っている。ただそれだけの光の集まりが、消さない限り消えないという。
俺は指を動かして、この画像を消す手順を探した。
たぶんどこかにある。八奈見に聞けば三秒で教えてくれるだろう。
——都合のいい話に助けられている以上、私はそれを否定しません。
探すのをやめた。
「……残しておく」
声に出してから、誰に言ったのだろうと思った。
端末をポケットにしまい、俺はまた歩き出す。
明日は八時に愛大前。三回読んだので、間違いはない。
旧校舎の三階は、まだ点いていた。