負けヒロインと終戦四人組ー戦前の高級官僚たちがタイムスリップしてきたらー   作:房吉

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第7話 2敗目 松谷視点 消えない記録

Intermission 消えない記録

 

 

 

※金曜日の夜、豊橋の帰り道

 

 旧校舎の三階に、灯りが一つ点いていた。

 

 午後八時である。正門は閉まっていて、俺は自転車を押しながら通用口の前を通りかかったところだった。

 

 そのまま行けばよかった。だが灯りの位置が図書室だったので、俺は自転車を停めた。

 

 階段は木で、上るたびに同じ場所が鳴る。三段目と十一段目。二か月で覚えた。

 

 図書室の戸は開いていた。

 

 高木先生は書架の間に立っていた。座っていない。本を三冊ほど左腕に抱えて、四冊目を開いたまま、その場から動いていない。

 

 机の上の湯呑みから、湯気が出ていなかった。

 

「高木先生」

 

 返事がない。

 

 もう一度呼ぼうとしたところで、先生が顔を上げた。

 

「……松谷君」

 

「戸締まりの時間は過ぎています」

 

「そうですか」

 

「六時です」

 

「そうですか」

 

 同じ返事が二回来た。この人は頭が別の場所にあるとこうなる。

 

 俺は入口に立ったまま、抱えている本の背を見た。哲学、歴史、それから何かの科学。厚みも判型も揃っていない。

 

 探して選んだのではなく、目についた順に取ったのだと分かる。

 

「借りるのですか」

 

「いえ」

 

「では、なぜ持っておられるのですか」

 

 先生は少し黙って、それから抱えた本をわずかに持ち上げた。

 

「置くと、次にどこにあるか分からなくなる」

 

「棚に戻せば分かります」

 

「分かります。分かるのですが」

 

 そこで言葉が切れた。

 

「戻したくないので」

 

 司書の発言ではなかった。

 

「先生」

 

「なんでしょう」

 

「食事は」

 

「……していません」

 

「六時です」

 

「それはさっき聞きました」

 

 先生は本を抱えたまま器用に片手で内ポケットを探り、小瓶を出した。栓を抜いて、ほんの少し口に含む。顔をしかめて、栓を戻した。

 

「先生」

 

「習慣です」

 

「まだ何も申し上げていません」

 

「聞かれることが決まっていますので」

 

「その返事も、習慣ですね」

 

 高木先生は少しだけ黙った。

 

「……そうかもしれません」

 

       *

 

 俺は書架を見た。

 

 天井まである。同じ幅の棚が、部屋の端から端まで並んでいる。

 

「多いですね」

 

「八十年分あります」

 

「その一冊目は、何ですか」

 

「フランス語からの翻訳です。私が読んだ版は誤訳が多かった」

 

「読み比べておられるのですか」

 

「三十年前に直っていました」

 

「三十年前」

 

「私が引っかかっていた箇所です。訳者が註で謝っている」

 

 先生の声が、少し早くなった。

 

「謝る必要はないのです。当時の辞書ではああ訳すしかない。私もそう訳しました。それを、この人は八頁も使って説明している」

 

「……八頁」

 

「八頁です」

 

 そこで先生は自分の声に気づいたらしく、口を閉じた。

 

「先生」

 

「なんでしょう」

 

「いま、早口でした」

 

「……気のせいです」

 

「私が知りたかったことは、たいてい答えが出ています。誰かが調べて、書いて、印刷して、この棚に入れてある。私は出して読むだけでいい」

 

「よかったですね」

 

 言ってから、間違えたと思った。

 

 この人はその言い方をいちばん嫌う。

 

 だが先生は怒らなかった。本を抱え直して、そのまま言った。

 

「ええ。よかったです」

 

 俺は少し驚いた。

 

「先生」

 

「なんでしょう」

 

「残ってよかったと、思いますか」

 

「何がです」

 

「紙です」

 

 図書室が静かになった。

 

 俺たちは焼いた。読んだら焼き、写しは取らず、名前は書かない。残せば人が死ぬからだ。

 

 九月の三日間で、俺は自分が四年かけて書いたものを全部燃やした。灰の量は思っていたより少なかった。

 

 高木先生は書架の方を向いたまま答えた。

 

「焼いたのは正しかった」

 

「はい」

 

「そのうえで私はいま、焼かなかった人間の書いたものを読んでいます」

 

「……」

 

「都合のいい話です」

 

「そうですね」

 

「ですが、都合のいい話に助けられている以上、私はそれを否定しません」

 

 先生は四冊目を閉じた。

 

「あなたが焼いたおかげで、名前を出さずに済んだ人が何十人かいます。その人たちが戦後に書いたものが、この棚に何冊か入っている。私は今週、そのうちの二冊を読みました」

 

「……知りませんでした」

 

「言っていませんから」

 

「なぜです」

 

「他の二人には、まだ言わないでください」

 

 理由は言わなかった。

 

 俺も聞かなかった。

 

       *

 

「先生」

 

「はい」

 

「その四冊は、戻してください」

 

「明日にします」

 

「明日には、どこにあるか分からなくなります」

 

「分かります」

 

 先生は言った。

 

「四冊とも、私が持って帰りますので」

 

 規則違反である。

 

 この人が学校司書だということを、俺は一瞬忘れそうになった。

 

「貸出票は」

 

「……書きます」

 

「いま書いてください」

 

「松谷君」

 

「はい」

 

「あなたは、そういうところが変わりませんね」

 

「規則です」

 

「規則を書いたのは私です。この図書室の利用規程は、四月に私が作りました」

 

「では、なおさらです」

 

 高木先生は四冊を机に置いて、貸出票に手を伸ばした。

 

「一冊目、著者名から書きますか」

 

「書名からです。様式にそう印刷されています」

 

「……様式に従うのが好きですね、あなたは」

 

「好きではありません。速いだけです」

 

「四冊目の書名が読めません」

 

「ドイツ語です」

 

「読める者は校内に何人いますか」

 

「一人です」

 

「では、その一人が書いてください」

 

       *

 

 帰り道。

 

 豊橋の夜は明るい。街灯が等間隔に並び、自動販売機が道端で光っている。灯火管制という言葉が意味を失った街を、俺は二か月かけて少しずつ歩き慣れてきた。

 

 ポケットの中で、端末が震えた。

 

 立ち止まって取り出す。八奈見からだった。パンケーキの皿の写真と、意味の分からない絵が三つ。

 

 それに月之木先輩の返事が続き、焼塩が何か短く書きこんでいる。

 

 五人が同じものを、同じ時刻に見ている。

 

 そして、消えない。

 

——これがあれば。

 

 考えるまいとしたが、もう考えていた。

 

 陸軍と海軍と外務省と宮中。四つの役所は四つの別の国のようなものだった。同じ都市の中にありながら、電話は盗聴を疑い、文書は経路が残り、口頭で伝えるには本人が動くしかない。

 

 一つの文を届けるために丸一日を使ったことがある。返事はさらに二日後に来た。

 

 会って話すには会う口実がいる。口実を作るのに三日かかり、その三日で状況が変わる。

 

 二年かかった。

 

 もしあの四人が、この小さな板を一つずつ持っていたら。

 

 同じ文が、同じ瞬間に、四人の手元に届く。返事はその日のうちに揃う。歩かなくていい。

 

——二か月で済んだかもしれない。

 

 そこまで考えて、俺は自分の顔が強張っているのに気づいた。

 

 そして、すぐに気づいた。

 

 消えないのだ。

 

 この板の中身は、消さなければ消えない。持ち主が捕まれば、全部が一度に出る。

 

 二年が数か月になり、そして——一週間で全員が挙げられていた。

 

 たぶん、そちらの方が確実だ。

 

 便利になった道具は、便利になった分だけ正確に人を殺す。八十年経っても、そこだけは何も変わっていない。

 

       *

 

……いや。

 

 俺は自分の考えを止めた。

 

 さっきから、これを仕事の話として考えている。連絡速度と、保全と、露見の危険。習い性というやつだ。

 

 だが俺がさっきから何度も画面に戻しているのは、そこではない。

 

 写真である。

 

 ファミレスの席で、四人が並んでいる。八奈見が真ん中で笑っていて、焼塩が寄りかかり、温水が半分だけ写っていて、俺は端に、椅子ごと少しずれた位置にいる。

 

 姿勢が悪い。表情も硬い。写り方を知らない人間の写り方だ。

 

 俺は自分の写真をほとんど持っていない。

 

 軍装の記録写真が何枚かあったはずだが、あれは俺の写真ではなく階級の写真だった。それも九月に焼いた。

 

 これは階級ではない。

 

 金曜日の夜に、菓子の皿の前に座っていた男が写っている。ただそれだけの光の集まりが、消さない限り消えないという。

 

 俺は指を動かして、この画像を消す手順を探した。

 

 たぶんどこかにある。八奈見に聞けば三秒で教えてくれるだろう。

 

  ——都合のいい話に助けられている以上、私はそれを否定しません。

 

 探すのをやめた。

 

「……残しておく」

 

 声に出してから、誰に言ったのだろうと思った。

 

 端末をポケットにしまい、俺はまた歩き出す。

 

 明日は八時に愛大前。三回読んだので、間違いはない。

 

 旧校舎の三階は、まだ点いていた。

 

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