Circle Magicという複数のキャスターが協力して1つの呪文を強化・拡張する協力詠唱システムを作中に取り入れています。
参考:
https://www.dndbeyond.com/posts/2083-circle-magic-and-new-spells-gain-mastery-over-the
石笛の渡り
夜明け前のガウロス峡谷では、川より先に石が動いていた。
ゾンビが二体ずつ石籠の横木を担ぎ、浅い河床を南から北へ運んでいる。青黒く膨れた足首が岩へ当たるたび、水音とは違う湿った響きが続いた。
後ろでは生者の工兵が籠をほどき、古い橋台の根元へ割石を落とす。さらに高い崩落道では、スケルトンが夜露を吸った弓弦を張り直していた。息を吐かない兵の列には、白い息が一つも浮かばない。
峡谷の上空では、四体のマンティコアが岩壁の影を縫っていた。北段と古い橋台の上に大きな輪を描き、翼を打つたび、尾のトゲが朝の薄明かりを横切った。南の崩落道では、獣使いが骨笛を胸へ下げ、四体の動きを追っている。
ダーヴァン・オルスは河床へ下りる手前で足を止め、六つの護衛組を見渡した。
二十四名のサーイの騎士が、四人ずつ六名のレッド・ウィザードを囲んでいる。黒く処理したプレート・アーマーに、赤い縁取りを残した短い外套。大型の盾には、それぞれが仕える魔道士の徽章──黒い塔、折れた鎖、三つ目の炎などが小さく打たれていた。
盾の握りには、徽章とは別に細い鉄輪が一つずつ通されている。三年前の北境撤退で、六組が夜通し位置を入れ替えながら魔道士たちを囲み、生還した者へ遠征軍の司令官であるカザル・ドレヴが付けさせた印だった。
自分の護衛を他人の組と混ぜられるのを嫌った魔道士もいた。カザルは撤退に加わった術者の名と騎士の戦死者名簿を同じ板へ記し、六組を元へ戻さなかった。以来、彼の指揮下で複数のレッド・ウィザードが同じ戦場へ出る時、この二十四人はまとめて呼ばれている。
内側の護衛はロングソードを帯び、外側の護衛は狭い場所でも扱える短柄のグレイヴを持つ。天幕も食事も主人ごとに別だったが、盾が一枚倒れた時、誰が空いた半歩へ入るかは決まっていた。
赤い肩帯の見習い魔道士が測量板を抱えて通ると、騎士は盾を引いて道を空けた。その外側にいた工兵は、さらに一歩、水へ下りる。見習いであっても魔道士は騎士より上に立ち、騎士は歩兵と工兵へ命令を下す。
馬は一頭も河床へ入らない。峡谷の入口からさらに南、工兵道が広がる場所に鞍と予備装備が残され、乗騎は従卒へ預けてある。ここでは騎兵の速さより、盾を置く場所の方が役に立つ。
ダーヴァンは角笛手を呼び、白傷の副長と並ばせた。角笛は革紐で角笛手の胸へ吊られ、手袋をした指が吹き口を覆っている。
「サーヴァ師が倒れた時の合図は?」
副長は顎紐を押し上げ、石籠の軋みに負けない声で答えた。
「長く一度です」
「敵が結陣へ入った時は?」
「長く一度、続けて短く二度です」
ダーヴァンは角笛手へ視線を移した。
「短三つは、誰の命令で出す?」
「カザル閣下かサーヴァ師です。サーヴァ師が斜路を保てないと告げた時は、カザル閣下の返答を待たずに吹きます」
「よし。次の組へ伝えろ。文言は変えるなよ」
答えは四人の口から次の四人へ渡り、河床の六組を一巡した。南の曲がりで待つ中継の角笛手にも届く。これで四度目の確認だが、誰も「分かっている」とは言わない。歴代の名簿には、聞き違えた一音のためにラシェメンの峡谷へ残った名が並んでいた。
六つの組は装備こそ同じでも、立つ場所が違う。死霊術士ヤレク・ヴァシュを守る四人は、運び込まれる死体と石籠の間へ盾を置いた。力術士の護衛は、術が飛ぶ方向を空けて半月形に散る。
サーヴァ・メレクを囲む四人は、測量杭と巻き尺を踏まぬよう足元まで見ていた。サーヴァが杭を動かすたび、盾を寄せる者と、測量線から靴を退ける者が入れ替わる。騎士は結陣へ魔力を足せない。その代わり、彼女が腕を伸ばす向きと、敵の矢が届く角度を覚えていた。
ダーヴァンは南の退路へ目を移した。霧やみぞれが出れば軍旗は消え、声も三列先まで届かない。狭い坂を一列で抜けるなら、担架と石籠を同じ道へ残してはおけなかった。
工兵へ手を振り、退路に置かれた石籠を壁際へ移させる。担架も三枚、すぐ取れる向きで岩へ立て掛けた。
「隊長、朝飯の前から退路を掃くと、縁起を気にする連中が騒ぎます」
白傷の副長が、石籠へ肩を入れたまま言った。
ダーヴァンは道を半分塞ぐ籠を顎で示す。
「騒いだ者から担架を運ばせろ。石籠は印の外だ」
「では、口の軽い順に働かせます」
副長は笑わず、石籠を壁際の白い印まで押していった。
橋台の上で、占術を担うレッド・ウィザードが宙へ差し出した両手を閉じる。掌の間で見えない膜が潰れ、空気が一度波打った。
「《秘術の眼》を戻しました。北の高原道に兵がおよそ五百。夜が明けて二時間ほどで北段へ着きます」
カザル・ドレヴがローブの裾を泥へ触れさせず、橋台を上がってくる。胸元の金具に刻まれた司令官章が見えるだけで、見習い魔道士は左右へ分かれ、騎士は盾を引いた。工兵は槌を置き、頭を下げる。
カザルは占術士の正面で足を止めた。
「ハスランの儀式場は見えたか?」
「北段の奥だけ、人影と儀式具が抜け落ちています。地面と木立は見えますが、その間にいるはずの者が映りません。複数の《占術妨害》です」
「見えない者へ術を撃つ必要はない。北段を取った後、森を兵に洗わせる」
占術士は一礼し、濡れた石から下がった。
古代ラウマサールの橋台は、峡谷の両側に折れた歯のように残る。上面は荷車二台が並べられるほど広いが、北寄りの角が割れ、亀裂へ打ち込まれた鉄針の周囲には新しい石粉が溜まっていた。
サーヴァはそこで膝をつき、手袋を外した指で粉を払う。亀裂の奥から水がにじんでいた。
細い測量針を差し込み、針先についた水を銀板へ落とす。濁りを確かめた彼女は、銀板を傾けてカザルへ見せた。
「上から入った雨水ではありません。橋台の下を通った水です。北側の基礎を開き、出口を確かめる時間をください、カザル閣下」
「どれほど要る?」
「二時間です。ゾンビを掘削へ回せば、一時間半まで縮められます。割石を詰め直し、第一斜路の荷重を南へ逃がします」
「その一時間半で、ラシェメンの増援は高原道を詰める。二本目へ取りかかる頃には頭上だ。補強した橋台を敵へ渡すために遠征したのではない」
サーヴァは銀板の濁った一滴を指先で囲んだ。
「荷重は逃がせますが、水は止められません。ここへ《石の壁》を載せれば、支えが増える前に亀裂が広がります」
「第一斜路は南の橋台と河床へ分散させろ。二本目を掛ける前に沈みが増えたなら報告しろ」
サーヴァは測量針から手を離さない。
「構築を打ち切る判断は、私にお任せいただけますか?」
カザルは亀裂を一瞥した。
「構わん。続けられないとお前が判断した時は止めろ。ただし、進撃を始める時刻は私が決める」
「承知しました、閣下」
流れのない空気の中で、針が震えた。サーヴァは赤い糸を取り出し、別の亀裂へ打った二本目の針と結ぶ。どちらかが傾けば、離れた場所からでも分かる。
北を監視していた弩兵が、白地に黒い横線を二本引いた旗を下げた。伝令が斜面を滑り降り、膝まで泥に入ってカザルの前へ来る。
「北方街道へ上がった避難民用の荷車は四台です。残る二台が横谷で、北西の石切場から下る軍用荷車三台と行き合っています!」
カザルは伝令の泥だらけの膝を見下ろした。
「軍用車の積み荷は?」
「第二斜路用の鉄針と花崗岩、油樽です。護衛は歩兵と工兵のみで、横谷から伝令を一人出した後、連絡が途絶えました」
ダーヴァンは伝令の靴についた泥を見た。河床の灰色に細かな赤土が混じっている。横谷へ続く支道の土だ。あそこは人一人なら抜けられるが、荷車が向かい合えば、どちらかが広い場所まで戻らない限り動けない。
カザルは橋台を下りながら告げた。
「避難民に軍用車の荷を降ろさせろ。三台を積み出し場まで戻せ。間に合わなければ、避難民の荷車を崖へ落として道を空けろ。抵抗する者は殺せ」
サーヴァは銀板を拭い、手袋を戻す。
「油樽と鉄針が届かなければ、第二斜路の工兵配置も遅れます」
「第一斜路を通した後、上の鉱夫道から騎士を回す。今は北段を取る」
カザルが右手を上げた。角笛手は胸の角笛を取り、長い一音に短い一音を続けた。折れた石柱の空洞が低く鳴り、一息遅れて進撃の合図を北へ返した。
*
北段の岩陰で、ボリヴィク・チェルノは角笛の反響を聞いた。
最初の音は谷底からまっすぐ上がり、折れた橋台へぶつかって二つに割れる。二つ目が消える前に、南の河床で赤い光が六つ灯った。レッド・ウィザードは互いの肩が見える間隔へ立ち、見習い魔道士がその外側へ幾何学模様を描くように並んでいる。
詠唱が揃うと、晴れていた峡谷へみぞれが落ちた。
《みぞれ混じりの嵐》は一つではない。最初の白い柱が北段の防柵前へ立ち、その奥へ二本目が重なる。氷の粒が盾を打ち、岩の表面を薄く覆った。
十歩先の人影が消え、火鉢も音なく潰える。凍りきらない水と泥が混じり、踏み込んだ靴を横へ滑らせた。
若い弓兵が白い幕へ顔を向ける。
「隣が見えない! 防柵はどっちだ!」
ボリヴィクは怒鳴り返した。
「声を追うな! 縄を腰へ回せ! 前の者が消えても、縄を離すな!」
彼はバトルアックスの柄を地面へ突き、後ろの戦士が縄を結ぶ間、白い幕を睨んだ。敵の姿は見えない。河床から石を擦る重い音が、まっすぐ近づいてくる。
赤衣がみぞれで道を隠し、死者を先に歩かせる。祖父の代から語り継がれてきたサーイの攻め方だ。ラシェメンでは、子供が弓を持つ前に縄の結び方を教わる。
みぞれの中から石籠が現れた。押しているのはゾンビだ。肩へ矢が刺さっても手を放さず、籠を北段の斜面へ寄せてくる。その後ろではスケルトンが骨の指でショートボウを引いた。
鳥羽の仮面をつけたハスランが、防柵の後ろから両腕を上げる。《風の壁》が斜面を横切り、矢を跳ね上げた。マンティコアの尾のトゲも透明な圧力に弾かれ、岩や倒木へ散る。壁の端を回った弓兵の一矢が、低く来た一体の翼膜へ穴を開けた。獣は尾を振りながら高度を上げ、白い幕の外へ離れた。
雲の底が青白く光った。河床から、黒い盾の隊長の怒声がみぞれを突き抜ける。
「《招雷》だ! 組ごとに間を取れ!」
ボリヴィクの右手では、別のハスランが雲へ腕を伸ばしている。雷はレッド・ウィザードの結陣近くで岩を割るが、黒い甲冑の護衛は一列に集まらない。
黒い盾の隊長が腕を横へ振り、四人ずつの組を散らした。雷で一人が膝をつくと、二人がすぐ後ろへ引き、残る一人は赤衣の前から動かない。
ボリヴィクは縄を結び終えた先頭の肩を叩いた。
「中棚へ下りて、石籠の左を取れ! 赤衣が見えても追うな。縄が張ったら戻れ!」
若い狂戦士は返事をせず、みぞれの奥で揺れる赤衣へバトルアックスを向ける。腰の縄が張る前から、身体が半歩前へ出ていた。
ボリヴィクはその肩を掴み、隊列へ引き戻す。
「赤衣を斬りたいのは分かる! だが、お前が飛び出せば、後ろの十五人まで敵の射線へ引きずり出す。俺の合図より先に走るな!」
狂戦士たちは防柵の切れ目から白い幕へ入った。先頭がバトルアックスの背で地面を探り、二人目はその足跡へ靴を置く。三人目から先は白く消え、腰の縄が張った。
ボリヴィクは最後尾の縄を腰へ回し、その後へ続く。
中棚へ下りる斜面では、足場を探るより先に盾がぶつかった。みぞれの奥から黒い大盾が突き出され、先頭の狂戦士を胸から押し返す。
滑りかけた身体を腰の縄が止めた。別の戦士が盾の縁へバトルアックスの刃を掛けると、黒い騎士は半歩下がり、その空間へ次の盾が入る。肩越しから短柄のグレイヴが伸びてきた。
ボリヴィクは穂先をバトルアックスで払い、盾の下へ靴を差し入れる。肩を当てても列は崩れない。前の騎士が傷を負えば、後ろが同じ場所へ入る。誰も彼を追わず、赤衣との間を十歩以上空けなかった。
後方でクロスボウの弦が鳴る。アンデッドの列が膝をつき、その隙間から生者の弩兵が射ってきた。狂戦士の一人が肩を貫かれ、縄へ体重を預ける。後ろの者が帯を掴み、白い幕の外へ引き始めた。
みぞれの向こうから、サーイ語の詠唱が一節届く。続いて硫黄を擦る匂いが冷気へ混じり、白い幕の中に橙色の火が一点浮かんだ。
風の壁を保つ鳥羽のハスランが火の色へ顔を向けた。彼女はみぞれの外縁におり、十歩ほど離れた橋台の裏だけが白い幕から外れて見えた。《霧渡り》の一語とともに銀色の霧が足元から巻き、その姿を包む。
次の瞬間、彼女は橋台の裏へ片膝をついて現れる。ボリヴィクは火の色を指すようにバトルアックスを振った。
「《火球》が来るぞ! 橋台の陰へ入れ!」
赤い珠が白い幕を貫いた。足場の悪い斜面で全員が走れば、互いに巻き込んで倒れる。ボリヴィクは最も近い戦士の襟を掴み、折れた石組みの後ろへ放り込む。火球が、鳥羽のハスランのいた防柵中央で開いた。
熱がみぞれを蒸気へ変え、木杭と縄の表面を焼く。防柵中央に残った二人は声を上げる間もなく丸焦げになり、焼けた杭の間へ折り重なった。伏せた者の背にも木片が降る。石の欠片がボリヴィクの頬を切り、血より先に冷たい水が傷へ流れ込んだ。
石組みから覗くと、防柵の中央は焼け落ちていた。そこへゾンビが石籠を押し込み、倒れた杭を踏み折る。黒い騎士たちは追わず、すでに術者の周囲へ戻っていた。白い幕の奥では、工兵の槌が響き始めている。
ボリヴィクが腰の縄を二度引くと、前列の縄が北へ動き出した。
「負傷者を先へ上げろ! 歩ける者は振り向くな!」
狂戦士たちは肩を貫かれた一人を縄へ括り、北段へ引き上げる。最後尾の男が追ってきたゾンビの膝をバトルアックスで割る。なおも這う死体の頭蓋を、風の壁の端へ回った弓兵の矢が岩へ縫い留めた。
最初の白い幕が薄くなった。空の色が透けるより早く、河床の別の赤衣が詠唱を終え、同じ場所へ新たなみぞれが落ちる。継ぎ目が一瞬明るくなり、また敵も味方も白く消えた。
その下を、サーイの工兵と見習い魔道士が河床から中棚へ上がってくる。逆向きにはラシェメンの負傷者が運ばれ、血を吸った縄が斜面を長く擦った。
血のついた縄が北へ消える頃、河床では別の三本が張られていた。
*
ダーヴァンは工兵に三本の測量縄を張らせた。中央は斜路の通り道、左右は縁を示す。サーヴァが角度を確かめ、古代橋台へ残した針へ目をやると、二本を結ぶ赤い糸はまだ水平を保っていた。亀裂の水が薄明かりを返している。
見習い魔道士十二名が橋台と河床へ分かれた。彼らが白い石粉の線をまたぐたび、騎士は盾を引き、工兵は道具を抱えて外へ出る。レッド・ウィザード二名が左右へ入り、サーヴァを頂点に三角形を作った。
サーヴァは花崗岩の小片を掲げたまま、結陣を見回す。
「《石の壁》は私が起こして形を定める。術が結ばれた後は、全員が同じ壁へ集中を置け。誰か一人でも保っている限り、術は残る。集中を失った者は白線の外へ出ろ。一度切れた結び目へは戻れない。石が定着するまでは誰も斜路へ入れるな」
「承知しました、サーヴァ師」
見習いたちの返事が揃う。
ダーヴァンは騎士を二重に置いた。内側の四人は術者へ背を向けて盾を重ね、外側の八人は投石と侵入者に備える。残る者を弩兵と工兵の間へ散らした。別のレッド・ウィザードから借りた騎士も混じるため、命令は徽章ではなく位置で飛ばす。
「北東から投石! 外円右は二歩詰めろ! 内円は魔道士方の袖と白線に触れるな!」
サーヴァが《石の壁》の詠唱を始めた。
花崗岩の小片を握る指の間で、灰色の光が脈打つ。左右のレッド・ウィザードが一節ずつ応じ、見習いたちも白線の内側から順に手を向けた。
最後の見習いの指先から光が伸びた時、浅い水を押し分け、灰色の石板が一枚ずつせり上がった。最初の板が南の橋台へ食い込み、次の板が斜めに重なった。十枚は測量縄に沿って折れ、長い部分では幅を狭めて下へ支えを伸ばし、中棚へ続く斜路を作る。縁には低い胸壁、中央には荷車の車輪が通れる平面が残った。
現れたばかりの石は乾いている。表面には苔も水跡もなく、削り屑さえ落ちていない。
術者たちの指先から細い灰色の光が伸び、サーヴァの定めた石面へつながった。
見習いの一人が、十分を計る掌ほどの砂時計を橋台の平らな石へ置き、ひっくり返した。細い砂が上の球から落ち始める。
北段から拳ほどの岩が降り、外円の盾を叩く。騎士が一人、片膝をついた。矢も続く。盾の隙間から見上げたダーヴァンは、焼けた防柵の横で青い輪を作る白い仮面を見つける。
「焼けた杭の右に敵術者! 《魔法解呪》だ!」
弩兵が一斉に弦を放った。仮面の術者は石組みへ身を伏せるが、青い輪は斜路へ飛んでくる。空気が薄く震え、石板の縁が一瞬透けた。
サーヴァの右に立つレッド・ウィザードが片手を返す。《呪文妨害》の赤い線が青い輪へ食い込み、濡れた石の上で双方が砕けた。斜路の輪郭が再び固まる。
次の矢群は結陣へ集まった。内円の盾と盾の間、指二本ほどの隙間を一本が抜ける。サーヴァは片手で《盾》を張り、透明な面で矢を横へ弾いた。
その一本後ろを来た矢が、隣の見習い魔道士の脇腹へ刺さる。
若い男は息を詰め、膝から白線へ落ちた。彼の指先から伸びていた光が消え、残る光だけが石面へつながった。
内円の騎士が盾を立てたまま後ろ手を伸ばし、見習いの胸当てを掴んだ。
「魔道士殿!」
見習いは答えず、口元から血混じりの泡をこぼした。白線へ戻ろうと指を動かしたが、指先に光は戻らない。
サーヴァが残る術者へ命じる。
「集中を保て! 倒れた者へ手を伸ばすな!」
見習いたちは足を動かさず、サーヴァが握る花崗岩を見た。
ダーヴァンは見習いを支える騎士へ指を向ける。
「その方を白線の外へ運べ! 矢は抜くな。治療役まで盾を切らすな!」
騎士は大盾を前へ残し、見習いの胴を左腕で抱えた。交代の騎士が盾の位置へ入ると同時に、負傷者を石粉の外へ引きずり出す。二人の工兵が担架を差し入れたが、見習いの赤い肩帯には触れず、騎士の指示を待った。
砂時計の砂が三分の一ほど落ちた頃、最初のゾンビが斜路へ足を載せようとした。ダーヴァンは大盾の下端を死体の胸へ当てて止める。
「お待ちください、ヤレク師。まだ石は定着しておりません」
死霊術士ヤレク・ヴァシュは舌打ちを隠しもせず、ダーヴァンを見て告げた。
「私の兵を押し返すとは、ずいぶんと職分が広がったな、オルス」
ダーヴァンは盾を引いた。それでも斜路の前は譲らない。
「ご無礼は承知しております。一体を通せば後続も乗ります。斜路が消えれば、ヴァシュ師の兵だけでなく、サーヴァ師の結陣まで巻き込みます」
サーヴァは石板へ向けた手を動かさずに言った。
「まだだ。砂が落ち切るまで、アンデッドは石籠の前で待機させよ」
ヤレクの口元が歪む。だがサーヴァへ異を唱えず、杖を横へ振った。
「戻れ」
ゾンビが斜路から退き、代わって弩兵が斜路の根元から胸壁越しに北へ射ち始める。
上空ではマンティコアが《風の壁》の切れ目を探し、北段の弓兵へ尾を向けて旋回していた。一体が放った尾のトゲは透明な壁に弾かれ、そのうち一本が外円の騎士の腿へ突き立った。男はよろめいてもトゲを抜かず、盾の位置を保つ。
白い幕がまた薄くなった。河床の端で待っていた別のレッド・ウィザードが詠唱を終えると、消えかけたみぞれの上へ新しい柱が重なる。術を継ぐたび、レッド・ウィザードの一人が結陣の外で息を整え、見習いが次の触媒を差し出していた。
砂が半分ほど落ちた頃、北段の狂戦士が二人、斜面を駆け下りてくる。外円の一人が盾でバトルアックスを受け、次の騎士が脇からグレイヴを入れた。倒した敵は追わず、すぐ術者との間へ戻る。
砂時計を見張っていた見習いが顔を上げる。
「残り三分です!」
雷雲が光った。ダーヴァンは結陣の間隔を見る。散らせない。サーヴァは中央を動けず、残る術者も白線の内側を離れられなかった。
「外円は北へ三歩! 雷を結陣から外せ!」
騎士が一斉に踏み出す。直後、《招雷》が外円の前へ落ち、石籠を弾けさせた。ゾンビ三体と騎士一人が泥へ倒れる。盾から煙を上げながらも、騎士は片膝で位置を守った。
砂時計の上の球には、わずかな砂しか残っていなかった。
サーヴァの呼吸は一定だった。頬を伝う水が汗かみぞれか、ダーヴァンの位置からは見分けられない。橋台の二本の針を結ぶ赤い糸は、まだ水平を保っている。
最後の砂粒が下の球へ落ちた。
サーヴァが両掌を石へ向け、結びの語を発する。補助術者たちも順に手を下ろした。斜路の表面から淡い光が退き、細かな砂埃が立つ。工兵が上面を槌で叩くと、乾いた音が返った。
「第一斜路、固定。工兵は砂を撒け。歩兵を先に通し、荷車はその後だ」
上面を確かめた工兵が、待っていた歩兵へ叫ぶ。
「石が固まったぞ! 先頭、盾を上げろ!」
生者の歩兵が斜路へ入り、ゾンビは両側で矢を受ける。負傷した見習い魔道士は、騎士二人に付き添われて後方へ運ばれていった。通り過ぎる歩兵は担架へ顔を向けず、道を空けるため胸壁へ身を寄せる。
カザルの伝令が橋台を上がってくる。
「カザル閣下より、生者の予備をすべて前へ。北段を取るまで止めるなとのご命令です!」
ダーヴァンは、担架の見習いと、腿に尾のトゲを受けた騎士を見比べた。
「全予備を上げれば、横谷へ回す兵を出せない。負傷者を下ろす列も詰まる。半数を南の曲がりへ残す許可を求める」
伝令が返答する前に、カザル本人が斜路の下まで来た。みぞれがカザルの肩で溶け、ローブへ黒い染みを作っている。彼は伝令を脇へ退かせ、ダーヴァンを見据えた。
「予備の配分を変えてよいと、誰が許した?」
ダーヴァンは盾を下げ、頭を垂れる。
「許可を求めております、カザル閣下。負傷者を下ろす道が塞がれば、第一斜路そのものが止まります」
「聞いた。却下する。押し返された後の道を心配する前に、押し返されない数を上げろ。予備は一人も残すな」
カザルは赤土を靴へつけた伝令を振り向かせ、横谷の方角を確かめる。
「オルス。騎士八人と見習い魔道士二名を連れ、上の鉱夫道から横谷へ回り、軍用車列を通せ。二本目を掛ける前には戻って来い」
「仰せのままに、閣下」
カザルが杖で横谷を示すと、崩落道の獣使いが骨笛を短く吹いた。四体のうち一体が北段の輪を離れ、横谷へ翼を向ける。
ダーヴァンは白傷の副長を手招きした。
「ここを任せる。サーヴァ師の判断を優先しろ。斜路の上で兵を止めるな」
副長は第一斜路の出口と南の工兵道を見比べ、頷く。
「承知しました。ご武運を」
ダーヴァンは八人を選び、岩壁側で待つ見習い魔道士二名へ一礼した。
「魔道士殿方、横谷まで護衛いたします。上の道では、私の盾より前へお出になりませんよう」
二人のうち年長の見習いが短く頷いた。
「了解した。先導してくれ」
ダーヴァンは二人を列の中央へ入れ、八人の騎士を前後へ分ける。騎士たちは盾を前へ向け、二人の見習い魔道士を挟んで上の鉱夫道へ入った。
*
北段の奥で、ナージャ・ヴェスナは古い排水路の入口に膝をついていた。
入口は崩れた石積みと柳の根に隠れ、人ひとりが屈んで入れるほどしか開いていない。中から吐く冷気が、足元の浅い水へ細かな波を作っている。
ナージャは仮面をつける前に、素手で泥をすくった。舌先へ触れると、雪解けの味に錆と古い灰が混じる。
後ろには九人のウィッチラーランが立っていた。鹿角、白樺、鳥の羽、黒い羊毛。仮面の形は一つとして同じではない。誰もサーイの術者のような円を作らず、排水路の左右や倒木の上から、それぞれ川と土の見える場所を選んでいる。
ナージャは柳皮の仮面を顔へ結び、両手を水面へ置いた。
「ここを通っていた流れを見せて。石の下へ戻した後、どこまで土地を削るのかも」
返事はない。
水面が指の周りで一寸下がり、泥へ細い筋が現れた。筋は排水路の奥から北東へ曲がる。入口を塞ぐ丸石の一つに白い霜が浮かび、ナージャが触れると隣の石へ、さらに地中へ移っていった。
テルソーは声を返さない。水の高さと泥の筋、冬でも冷える石の順で、流れを戻した後の形を示している。
泥の筋は橋台の下から中棚の基礎へ抜け、サーイの斜路へ向かう一方で、北の冬道にも分かれた。水車を示す小枝へ霜が走り、貯蔵小屋に見立てた二つの石も水の内側へ沈む。
ナージャの膝元で流れは三つに分かれ、どの筋も集落の暮らしへ届いた。
「橋台の下だけへ狭められない?」
水面が元の高さへ戻り、丸石の霜も消える。
背後で枝が鳴った。リュドミラが杉の間から現れ、ロングボウを肩へ戻す。毛皮の帽子から濡れた髪が垂れていた。
「二台を見つけたよ。横谷でサーイの軍用荷車と向かい合ってる。大人は脅されてサーイ軍の荷を降ろしてる。子供と歩けない老人は幌の中で縛られてた。抵抗した男が一人、道に倒れてる」
ナージャは泥の筋から顔を上げた。
「黒盾の騎士は?」
「まだいない。でも伝令が上の鉱夫道へ入った。マンティコアも一体、横谷の上を回ってる」
排水路の上からボリヴィクが下りてきた。頬の傷には乾いた血が残り、外套の右肩は《火球》に焼かれている。煤けたバトルアックスを提げたまま、中棚へ顎を上げた。
「今なら赤衣の横へ届く。奴らは第一斜路へ術者を集めている。五十人いれば、結陣を割れる」
彼はナージャの前で足を止め、バトルアックスの刃を地面へ下ろした。戦団を率いるボリヴィクでも、ハスランが土地から答えを得ている間は、その言葉を待つ。
ナージャは旧流路を示す泥の筋へ指を置いた。
「横谷の二台は、川を戻せば旧流路そのものに呑まれる場所にいる。今は開けない」
「荷車の救出に三十人を回す。残りで術者陣を叩く」
「川を戻すのは、最後の荷車が横谷を抜けてからです」
ボリヴィクは焼けた外套を引き上げる。
「ナージャ・ハスラン。二台を動かしている間に、サーイは二本目を掛ける。数人を助けるために、三百人を北段へ上げさせるのか?」
ナージャは仮面を外さない。
「その数人を流した後で、残る者を守ったとは言えません」
「次の犠牲者を減らすために、今ここで赤衣を減らす必要がある」
ナージャは水から手を上げた。指の間から落ちた泥が、膝へ黒い点を作る。
「これは命令です。あなたは横谷へ行って二台を動かしなさい。斜路を壊すのはその後です」
ボリヴィクは排水路を見下ろし、鼻から短く息を抜いた。バトルアックスを持ち上げる前に、一度だけ頭を下げる。
「……了解。二台を出した後で、橋台の裏へ楔を打つ。石を読める者を二人つけてくれ。場所を誤れば、奴らの斜路ではなく、俺たちの退路が落ちるぞ」
ナージャは九人の仮面を見回した。白樺の仮面をつけた女と、鹿角の術者が一歩出る。
「二人をつけます。リュドミラ、案内して。橋台へ入るのは、荷車が動き始めてからです。先に楔を打てば、サーイの工兵に見つかって横谷ごと塞がれます」
ナージャが革袋からナナカマドの灰を取り出し、鹿角の術者へ渡す。《跡を残さぬ移動》の言葉が唱えられると、灰は戦士たちの濡れた靴と外套の裾へ薄くまとわりついた。泥へ下りた足跡はすぐ輪郭を失い、鎖帷子の擦れる音も杉の葉音へ沈んだ。
最後に、ナージャはボリヴィクの胸へ二本の指を当てる。
「《死からの守り》を結びます。一度だけ、死へ落ちるところを押し戻せます。光が消えたら、二度目はありません」
ボリヴィクは胸へ残った冷たい印を拳で叩いた。
「一度で済ませる。二台を北へ出し、楔も打って戻る」
「急いでください。橋台の下の水が、もう揺れ始めています」
リュドミラが先に杉林へ入った。ボリヴィクたち三十人の足音は十歩も行かずに消え、排水路には石の下を走る水だけが残った。
*
横谷の入口で、ボリヴィクはバトルアックスを縦にして肩をすぼめた。二人並べた道は奥へ行くほど狭まり、荷車の見える手前で一台分の幅しか残っていない。
リュドミラは岩壁の割れ目へ体を滑らせ、古い採石道を先に下りた。低い枝を押し分け、赤土の崩れた場所を避けて、谷底を見下ろせる岩棚まで進む。
谷底の道が見える場所まで来ると、リュドミラが拳を上げた。
二台の避難民用荷車が北を向いて止まっている。先頭は灰毛の牝馬、二台目は小柄なラバ二頭。その正面を、サーイの軍用荷車三台が南向きに塞いでいた。
軍用荷車は一台につき二体のウォーホース・スケルトンが牽いている。骨だけの頭が避難民の牝馬と向き合い、蹄を赤土へ食い込ませたまま、鼻息も上げずに立っていた。三台目の後ろ、北へ三十歩ほど坂を上った先には、石切場の古い積み出し場がある。そこまで車列を一台ずつ後退させなければ、どちらの荷車も脇を抜けられない。
積み出し場の手回し巻き上げ機から太い綱が延び、最後尾の軍用荷車へ結ばれていた。サーイの工兵は先頭車から石材袋と油樽を降ろし、三台を軽くしてから、後ろ向きに積み出し場へ引き戻すつもりだった。
避難民の大人たちは縄を解かれていたが、背中にはスピアの穂先が向けられている。工兵から渡された石材袋を道の端へ積み、油樽を転がしていた。路肩には、軍用車から外した車輪止めの丸太が二本置かれている。先頭車の御者だったらしい男が、その先へうつ伏せに倒れていた。背中にはクロスボウ・ボルトが一本残っていた。
子供と歩けない老人は二台の幌の内側に残され、手首を支柱へ縛られていた。泣き声が幌布を震わせるたび、荷を運ぶ大人が顔を上げ、スピアの石突で背を打たれた。
黒い盾は一枚もない。軍用荷車を守るのは生者の歩兵と弩兵、工兵だけだった。
リュドミラが北側の岩棚を指す。
「伝令は上の道へ入った。黒盾が来るなら、積み出し場から下りてくるはずよ」
ボリヴィクは鹿角の術者へ手を振った。術者が杖を地面へ突き、《からみつき》の言葉を唱える。
軍用荷車の周りで、泥の下から根が噴き出した。工兵二人の足首へ巻きつき、荷台の縁から手を離させる。先頭車の車輪にも根が絡み、ウォーホース・スケルトンの骨脚を締め上げた。
歩兵が警告を上げるより早く、ボリヴィクは斜面を駆け下りた。
最初のスピアをバトルアックスで払い、その柄を返して男の顎を打つ。後ろの狂戦士が最後尾の軍用荷車へ回り、積み出し場から延びる綱をバトルアックスで断った。
リュドミラの矢が、弩兵の肩を岩壁へ縫い留める。別の戦士は先頭の避難民用荷車へ乗り込み、支柱へ結ばれた縄を切った。老人が子供を抱き寄せ、荷台の床へ伏せる。もう一人の戦士も二台目の幌へ入り、ラバの後ろで縛られていた老人と子供を解いた。
荷下ろしをさせられていた男たちは石材袋を放り出した。一人が灰毛の牝馬へ走り、別の二人は二台目のラバの手綱を取る。
サーイ兵は荷車と岩壁を背にしてスピアを並べた。鹿角の術者は《からみつき》を保ったまま、先頭の歩兵へ杖を向ける。
北の積み出し場に黒い盾が現れた。
先頭の四枚が軍用荷車の脇へ一列で入り、ダーヴァンがその先頭でロングソードを抜く。二人の見習い魔道士は、後ろに残る五人に囲まれて積み出し場側に立った。
「前列は俺に続け! 敵を荷車から離せ! 後列は魔道士殿方を囲い、弩兵は斜面を射て!」
年長の見習い魔道士が片膝をつき、《テンサーの浮遊盤》を唱えた。淡い力場の円盤が地面から三尺ほど浮かび、工兵が最後尾の荷台から鉄針の箱を下ろして載せる。
もう一人の見習いは鹿角の術者へ指を向け、《炎の矢》を放った。橙色の火が倒木の端を焦がし、術者は杖を引いて身を伏せる。泥から伸びた根は消えず、車輪とウォーホース・スケルトンの骨脚を締めつけたままだった。
ダーヴァンを先頭に、四人の騎士が軍用荷車の脇を一人ずつ抜けた。狭い道では盾を並べられない。隊長がボリヴィクへ盾を当て、その肩越しから二人目のロングソードが伸びる。
ボリヴィクはバトルアックスの柄でロングソードを受けた。衝撃が両腕を走り、バトルアックスの刃が岩へ当たる。膝を狙う二撃目から飛び退くと、背が避難民用荷車の側板へぶつかった。幌の中で老人が子供を荷台の奥へ引く。
左手で側板を押して体を起こし、バトルアックスをダーヴァンの盾へ打ち込む。刃は貫けず、黒い表面へ深い傷を残した。隊長は盾の重みごと、ボリヴィクを谷壁へ押しつける。
谷口の上を大きな影が横切った。
横谷の上を回っていたマンティコアが翼を畳み、ラシェメンの後続へ頭を向けて降りてくる。狭い谷へ入るため、岩壁すれすれまで左翼を立てていた。
ダーヴァンは後列へ怒鳴る。
「魔道士殿方を盾の下へ! 上を塞げ!」
後列の騎士が二人の見習いへ盾を重ねる。
マンティコアが尾を開いた瞬間、リュドミラの矢が岩壁を避けるため立てた左翼の付け根へ刺さり、翼膜を骨の間まで裂いた。
獣の胴が横へ流れ、ラシェメンの後続へ向けて放たれた尾のトゲも谷底を斜めに横切った。一本は岩壁で砕け、一本がサーイの騎士の首と肩の継ぎ目へ入った。さらに一本がボリヴィクの胸へ飛ぶ。
ダーヴァンの盾に押さえられ、避ける幅がない。尾のトゲが焼けた外套と鎖帷子を裂き、胸骨の脇へ食い込んだ刹那、ナージャが結んだ光が皮膚の上で白く弾けた。
途切れかけた意識が胸の奥から押し戻される。
ボリヴィクは尾のトゲを抜かず、左手で胸から突き出た部分を折った。隊長の視線が傷へ落ちた瞬間、兜へ頭突きを入れ、盾の圧力から肩を外す。
制御を失ったマンティコアは左翼を岩壁へ打ちつけ、先頭の軍用荷車へ落ちた。車軸が折れ、ウォーホース・スケルトンの背骨が巨体の下で砕ける。獣が起き上がろうと前脚と尾を振るたび、油樽が路面へ転がり、二台目の長柄もへし折れた。
崖側へ押し出された先頭車が、牽引組ごと谷へ落ちる。マンティコアは二台目へ突っ込み、残るウォーホース・スケルトンを車輪の下へ倒した。三台目は止まりきれず、前輪を斜めに沈んだ二台目の後部へ乗り上げる。
折れた長柄がマンティコアの脇腹へ刺さった。獣は二台の間でなお尾を打ち、狭道を塞いだ。
その羽ばたきと荷車の衝突に驚き、灰毛の牝馬が前脚を上げた。避難民用の先頭車が斜めへ引かれ、崖側の車輪が道の縁へ乗り上げる。土が崩れ、荷台が崖側へ傾いた。
ボリヴィクはバトルアックスを捨て、傾いた荷台の崖側へ回り込んだ。側板の下へ肩を入れる。戦士二人も前後の車軸を支え、三人の靴が泥を滑った。車体は崖際で止まったまま動かない。
ダーヴァンは弩兵の方へロングソードを振った。
「荷車を支えている三人を射て!」
白樺の仮面が両腕を上げる。《風の壁》が避難民用荷車とサーイの弩兵の間へ立ち、放たれたクロスボウ・ボルトを岩壁へ跳ね上げた。
リュドミラは牝馬の頭へ外套を被せ、手綱を北へ引く。
「右の車輪へ丸太を入れて! 私が馬を向けるまで、荷台を押さないで!」
荷下ろしをさせられていた男が、外されていた車輪止めの丸太を車輪の下へ差し込む。ボリヴィクたちが肩を入れ直し、リュドミラが牝馬を前へ出した。右車輪が崩れた縁を越え、泥の上へ戻る。
二台目と三台目は斜めに噛み合い、その間でマンティコアが尾を打っていた。南へ抜ける幅はない。
ダーヴァンは二人の見習い魔道士へと向き直る。
「魔道士殿方、車列は戻せません。もう一枚《テンサーの浮遊盤》を出せますか? 鉄針と花崗岩だけなら、上の道へ運べます」
年長の見習いが、路面へ転がった油樽を見る。
「油樽は捨てるのか?」
「はい。ここに留まれば、お二方まで失います」
見習いは一度だけ積み出し場を見回し、若い方へ顎を向けた。
「盤を出せ。オルス隊長、持ち帰る荷を選んでくれ」
ダーヴァンは鉄針の箱と花崗岩の触媒箱を指した。若い見習いが詠唱し、二枚目の力場の円盤を浮かべる。工兵は一枚へ鉄針の箱、もう一枚へ花崗岩の触媒箱と巻き尺を載せた。
ダーヴァンは騎士を二組へ分けた。
「四人は魔道士殿方と浮遊盤を上の道へ! 残る者は俺と下がれ! 工兵と弩兵は、自力で来られる者だけ続け!」
二人の見習い魔道士が鉱夫道へ上がる。二枚の《テンサーの浮遊盤》は、それぞれの後ろを揺れずに追い、鉄針と触媒箱を積み出し場から運び出した。
ボリヴィクはバトルアックスを拾い、退く盾列へ踏み込む。ダーヴァンが正面から受け、残る騎士を一人ずつ北の積み出し場へ下げた。
横から突き出たスピアが騎士の腿当てを割る。男は盾を支えにして一歩下がり、後ろの騎士に肩を取られて積み出し場へ下がった。
その脇で、別の騎士へ狂戦士が肩からぶつかった。二人の足元で道の縁が崩れる。狂戦士は仲間に帯を掴まれたが、黒い騎士だけが下の岩棚へ落ちた。甲冑が一度跳ね、そのまま見えなくなる。
積み出し場まで退いた騎士二人が大盾を伏せ、スピアを腿へ受けた男を載せた。見習い魔道士たちの後ろへ運び上げる。
ダーヴァンは落ちた部下を追わず、上の鉱夫道へ入る見習い魔道士の後ろを盾で塞いだ。
最後の騎士が積み出し場へ退く。ダーヴァンは盾を正面へ残したまま数歩下がり、上の道へ身を滑り込ませた。
ボリヴィクは追わなかった。胸から折れた尾のトゲが突き出し、両手でバトルアックスを握れば傷口が開く。彼は白樺と鹿角の術者へ振り向いた。
「二人は橋台へ! ナージャ・ハスランが示した排水口の左だ。赤土の出ている割れ目へ楔を打て!」
鹿角の術者が《からみつき》への集中を解くと、軍用車輪と骨脚を締めていた根が土へ沈んだ。白樺の術者は鉄楔の袋を肩へ掛け直し、鹿角の術者とともにリュドミラの示す割れ目へ消える。
狭道では、折れた車台に挟まれたマンティコアがまだ尾を打っていた。狂戦士二人がスピアを持って近づき、一人が盾で前脚を受ける。もう一人がスピアを喉へ突き込み、獣の尾が石を二度叩いて止まった。
狂戦士は三台目に残ったウォーホース・スケルトンの頸骨を断ち、引き革を切った。積み出し場の綱を三台目へ掛け、六人で巻き上げ機を回す。三台目を石壁へ寄せた後、同じ綱でマンティコアの死体と前輪の砕けた二台目を採石棚へ引き上げた。
避難民の男たちは狭道に散った板を谷へ投げ、油樽を岩壁の窪みへ転がした。灰毛の牝馬が先頭車を北へ引き、二台目も同じ轍を追って積み出し場を抜けた。
ボリヴィクは谷口に残り、見習い魔道士たちの消えた鉱夫道へバトルアックスを向けていた。
橋台の奥から、金槌の音が三度返る。
さらに高い岩棚で白い布が二度開いた。二台目の荷車が積み出し場を抜け、北方街道へ上がっていった。
*
白い布旗は、中棚の第一斜路からも見えた。
旗が二度開き、松の幹へ巻きつく。サーヴァは次に、上の鉱夫道から戻る黒い甲冑を数えた。先頭はダーヴァン。盾に斧傷、頬当てには灰色の泥。連れて出た八人のうち五人が歩き、一人は盾の担架で運ばれてくる。
二人の見習い魔道士が騎士の内側を歩き、その後ろを二枚の浮遊盤が追っている。ダーヴァンが彼女の前で盾を下げると、カザルは浮遊盤へ目を向けた。
「報告しろ、オルス」
「マンティコアが軍用車列へ墜落しました。先頭車は崖下へ落ち、残る二台も前輪と牽引組を損じて道を塞いでいました。鉄針一箱と花崗岩の触媒箱だけ持ち帰りました。騎士二名を失い、一名は脚を負傷して歩けません」
「油はどうした?」
「油樽は置いてきました」
カザルは担架の騎士を一瞥した。
「負傷者を治療役へ。死者の名は書記へ出せ。メレク、二本目は掛けられるか?」
「斜路は掛けられます。ただし、北段の根を焼く油がありません。力術士を一人、先行隊へ回してください」
「力術士は先行隊につける。続けろ」
サーヴァは北段の縁を見た。崩れた石垣の後ろへ、灰色の仮面が二人増えている。
「第一斜路の上端は中棚にあり、こちらが先に押さえられました。二本目は敵のいる北段へ直接つながります。固定を待てば、向こうは上端へ兵とハスランを集め、《魔法解呪》を重ねてきます」
「固定前に先行隊を渡せるか?」
「可能です。ただし、固定前に結陣の集中がすべて切れた時も、《魔法解呪》を通された時も、斜路は消えます。先行隊だけを一列で渡し、北端を取ったら本隊は止めてください。荷車は固定後です」
カザルは北段へ向けて杖を上げた。
「オルス。騎士六人と歩兵二十人を先に渡せ。力術士一名と見習い二名は盾列の後ろへ。北端にはアンデッドを置け。本隊は固定の合図まで動かすな」
サーヴァはダーヴァンへ顔を向けた。
「一列で、前の者と間を空けて渡せ。北端へ着いた者から左右へ開け。斜路の上で列を止めるな」
「承知しました、サーヴァ師」
カザルは軍旗の柄を中棚へ倒させた。
「全軍を第一斜路から中棚へ上げろ! 測量線を空け、先行隊は前へ!」
生者の歩兵が第一斜路へ入り、アンデッドがその前を埋める。スケルトンは胸壁の陰から矢を射ち、ゾンビは盾も持たず斜面へ肩を並べた。
北側の土が盛り上がる。
枯れた低木が一斉に枝を伸ばし、古い軍道を塞いだ。《植物繁茂》で太った根が石の隙間へ入り、足を置ける場所を半分まで狭める。
手前には《トゲ密生》が広がり、何もなかった地面から硬い棘が噴き出した。先頭のゾンビは足裏を貫かれても止まらない。一歩ごとに肉を裂かれ、膝から崩れる。その背へ次の死体が乗り、さらに後続が踏み重なった。
腐肉と骨の上へ、生者の歩兵が踏み込む。滑った者を後列が押し、狭い通路が北へ伸びた。
カザルが杖で左右の茂みを分ける。
「右の根だけ焼け! 左は残して矢除けにしろ!」
命令を受けた見習い魔道士が、《炎の矢》を右側の根へ当てた。歩兵はその前へ出ず、炎が道を作るのを待つ。煙が中棚へ溜まり、深紅のローブと黒い甲冑を腰から下だけ隠した。
サーヴァは第二斜路の測量線を目で追う。中棚上部から北段まで、残る高低差は十歩あまり。古代橋台の北角へ荷重を掛けず、側壁の岩へ三枚以上を食い込ませる。長い板には下支えを二枚。第一斜路より短いぶん、十枚で届く。
上空が暗くなった。ダーヴァンが雲底を見上げる。
「サーヴァ師、《招雷》です!」
その声と同時に、サーヴァは花崗岩の小片を握り直した。雷が結陣を組む前の術者群へ落ちる。彼女は左手で《元素吸収》の形を切り、腕を走る青い光を円環へ逃がした。
衝撃で奥歯が鳴り、指先から煙が上がる。左手の感覚は消えたが、サーヴァは膝をつかない。
右側へ入るはずだったレッド・ウィザードは石粉の線を越えて倒れ、胸から焦げた煙を上げている。見習い二人も投げ出され、一人が身を起こした。もう一人は耳から血を流し、動かなかった。
サーヴァは立てる者へ右手を振る。
「負傷者を第一斜路から南へ下げよ。第二斜路の結陣に入れる者だけ、私の後へ続け!」
騎士たちはレッド・ウィザードを先に担架へ載せ、その後で動かない見習いへ手を伸ばした。歩兵の負傷者が道を譲らされ、レッド・ウィザードと見習い魔道士が南へ運ばれていく。
力術を担うレッド・ウィザードが中棚の前へ出て、杖の先端を狭い通路へ向けた。倒れたゾンビの向こうで、ラシェメン兵のスピアの穂先が一列に重なっている。
《電撃》が走った。
青白い線がスピアの穂先から穂先へ抜け、濡れた鎧を光らせる。前列が同時に倒れ、後ろの兵が左右へ散った。北段下まで、幅の狭い突破口が開く。
サーヴァは戻ってきたダーヴァンの腕を掴んだ。
「ダーヴァン、私に付け。ここからでは側壁の白線が見えん。上の岩棚へ移る。残る護衛は突破口から上げろ」
ダーヴァンは移動先の岩棚を見上げた。
「承知しました。到着と同時に前を塞ぎます。後続が上がるまで、私の盾から離れないでください」
サーヴァは《次元扉》を開いた。
赤い縁が空間へ走り、向こう側に中棚上部の濡れた岩が見える。サーヴァが踏み込み、ダーヴァンも続いた。足元の斜路と叫び声が消え、次の瞬間には北段直下の岩棚へ出る。
ラシェメンの弓兵が十数歩先にいた。
ダーヴァンはサーヴァを盾の後ろへ押し込み、三本の矢を受ける。一本が縁で折れた。盾の陰からロングソードを突き出し、近づいた兵のスピアの穂先を横へ払う。
「術者方を上げろ! サーヴァ師の後ろへ白線を作れ!」
別の矢が来た。サーヴァは痺れた左手を使わず、右手だけで《盾》を結ぶ。彼女の側へ立った透明な面が、矢を斜面へ逸らした。
下から黒い兜が現れる。騎士四人が盾を屋根のように重ね、その下を、結陣に加わる見習いたちが上がってきた。先行隊の見習い二人は後続の騎士に挟まれて岩壁側へ寄り、角笛手も胸の角笛を押さえながら続く。別の組も岩棚へ上がり、半円に盾を並べた。
ダーヴァンは前列の盾を、スピアを構えた兵へ向け、角笛手を岩棚の南端へ残した。そこなら、サーヴァの右手と、北端へ出るダーヴァンの盾をどちらも見られる。
サーヴァは側壁へ測量針を打った。振れは小さい。次に、古代橋台へ残した銀の頭へ目を移すと、遠くても朝の光を返している。
「ここから北段へ掛ける。三枚を側壁へ、二枚を下へ折る。残りで斜路を作る」
残ったレッド・ウィザードが彼女の右へ立ち、結陣に加わる見習いたちは狭い岩棚へ白線を引いた。雷で人数を失った分、集中を保てる人数は第一斜路より少ない。
サーヴァは全員の目を順に見てから、二度目の《石の壁》を唱え始めた。
残ったレッド・ウィザードが一節を重ね、見習いたちも白線の内側から順に手を上げる。最後の見習いの指先が光った時、岩棚から石板が伸び、北段の縁へ食い込んだ。
最初の二枚が斜めに上がり、次の板が床を作った。下へ折れた支えは側壁と一体になり、最後の板が北段の土を押し上げる。
白線の内側から伸びた光が、サーヴァの作った斜路へつながった。見習いの一人が砂時計を岩棚の平らな場所へ置き、ひっくり返した。
北段のハスランが斜路の上端まで走ってきた。距離は二十歩もない。灰色の木彫りの仮面の前で、青い《魔法解呪》の輪が開く。
相手の指が閉じる前に、サーヴァは右手を突き出した。《呪文妨害》の赤い亀裂が青い輪を断ち切る。灰色の仮面の肩が揺れ、術は濡れた石へ崩れた。直後の矢は、ダーヴァンの盾が受ける。
ダーヴァンは盾を斜路へ向けた。
「先行隊、渡れ! 残りは南端で待て! 斜路へ入るな!」
騎士二人が第二斜路へ入り、北段へ着くと左右へ開いてスピアを持つ兵を押し戻した。続く四人が上端へ盾を並べ、アンデッドをその間へ入れる。ダーヴァンも北端へ渡り、赤い軍旗の柄を崩れた石垣の隙間へ打ち込ませた。
力術士と見習い二人が盾列の後ろへ渡り、歩兵二十名が一列で続く。最後の一人が北段へ上がると、ダーヴァンは南端へ片手を上げ、本隊を止めた。中棚の兵は斜路を空け、固定の合図を待つ。
北段で旗が開いた時、砂時計の上の球にはまだ半分以上の砂が残っていた。
サーヴァは歓声の方を見なかった。橋台の測量針が、兵の足とは別の間隔で揺れている。足元の石板から、ごく低い振動が靴底へ返った。
*
旧排水路の水面も、同じ間隔で上下していた。
ナージャは柳皮の仮面越しに、小さな波を数える。短く二度、間を置いて一度。橋台が沈むたび、地中の水が排水路へ押し戻されていた。
杉林から走ってきた伝令が、首の白布を頭上で二度振りながら叫ぶ。
「二台とも北方街道へ出ました! 最後の避難民も、荷車の上にいるのを確認しました!」
ナージャは白布が泥へ落ちるところまで見た。排水路へ両手を入れ、残ったウィッチラーランを見回す。
「始めます。川が北へあふれ、水車や貯蔵小屋が流されても、手を離さず続けなさい」
残った七人が排水路の周りへ散った。鳥羽の二人は背中合わせになり、黒い羊毛の女は流れの中へ立つ。三人は土手や倒木の上へ位置を取り、最後の一人は杉林へ向いて杖を構えた。
一人は山へ呼び、一人は雨の名を唱え、一人は泥に埋まった魚骨を取り出す。低い声と高い声が別々に流れ、ナージャの周りで同じ拍へ重なった。ナージャが水と塵を掌で混ぜ、《水位制御》の言葉を告げる。ナージャを含む八人の集中が同じ術へ結ばれた。
排水路の水が止まった。
次いで川の本流が目に見えて下がり、河床の石が露出する。流れへ立つゾンビの足首から水が引き、サーイ兵の何人かが第一斜路の下へ降りた。
ナージャは両腕を北東へ動かす。
術の及ぶ水域が押し動かされ、排水路から橋台の下へ続く流れが旧流路へ曲がった。塞がれた石と泥へ当たり、水面が一度高く盛り上がる。
地の下で何かが軋んだ。
霜をまとった丸石が一つ沈み、隣も傾いた。柳の根が土ごと持ち上がる。テルソーが塞ぎを緩め、石の間から茶色い水が噴き出して排水路の奥へ吸い込まれた。
ナージャは両腕を橋台側へ寄せた。術の内側で水面が狭まり、旧流路へ入った流れが橋台の下へ集まる。だが術の届く範囲を出た水は、地形の低い方へ広がっていった。
最初の噴き出しが第一斜路の下で起きた。
乾いていた石板の継ぎ目から濁水が上がり、アンデッドの列を膝から倒す。中棚の端も崩れ、泥と割石が斜路の支えへ流れ込んだ。
中棚のサーイ歩兵が、噴き上がる水を指した。
「クソったれ! 水が下から来るぞ!」
工兵も石籠の列へ腕を振る。
「石籠を継ぎ目へ持ってこい! 穴を塞げ!」
サーイの弩兵が排水路の入口へ向きを変えた。戻ってきたボリヴィクは、術者たちの前へ割り込む。
「盾を前へ! ハスランたちの顔を矢から隠せ!」
白樺と鹿角の術者も彼の後ろへ現れ、排水路の左右へ分かれた。二人の腕は泥に濡れ、楔の袋は空だ。ボリヴィクは息を継がず、ナージャへ報告する。
「ここで戦えるのは十人だ! 負傷者と担ぎ手は北へ送り、荷車の護衛に六人残した。側面隊が来るぞ!」
胸当ての下には、折れたマンティコアの尾のトゲが残っている。裂いた布が胴へ固く巻かれ、バトルアックスは両手で持てず、右手で肩へ担いでいた。
サーイの側面隊が杉林から現れた。生者の歩兵とスケルトンが半数ずつ。ボリヴィクは先頭のスピアをバトルアックスで払い、左肘で次の盾を押す。後ろの狂戦士が脇を埋め、術者陣までの十歩を塞いだ。
鳥羽のハスランが短い祈りを放つ。《集団癒しの言葉》が戦士たちへ届き、浅い傷の血を止めた。ボリヴィクの胸の布は赤いままだが、崩れかけた膝が伸びる。直後、河床からクロスボウが鳴った。
クロスボウ・ボルトが排水路へ集まる。鳥羽の一人が、ナージャと同じ術へ置いていた集中を切った。《水位制御》は残る七人の集中で保たれ、彼女は身を翻して《風の壁》を立てる。濁水の上へ透明な帯が走り、クロスボウ・ボルトは回転しながら土手へ落ちた。
峡谷上空に残った三体のマンティコアが、旧排水路の術者陣へ向きを変える。最初の防柵で翼膜を射抜かれた一体は高度を取れず、左手の杉林すれすれから尾のトゲを放った。トゲは《風の壁》へ正面から当たり、白樺の幹へ弾かれる。
残る二体は壁を越えるため、翼を大きく打って上昇した。低空に残った傷ついた一体を、リュドミラが指す。
「左の低い奴を射て! 高く上がらせるな、翼を狙え!」
矢が傷ついた翼膜を貫いた。マンティコアは片翼が利かなくなり、排水路の上を横滑りする。前脚で土手を掻いても止まれず、開いた旧流路へ横腹から落ちた。濁流に翼を畳まれ、巨体が橋台の方へ流されていく。
ナージャは水から目を離さない。
旧流路が満ちていく。泥の筋で見せられた通り、水は橋台だけへ向かわなかった。横谷から離れた北側の冬道の低みへあふれて轍を消し、水車の羽根を逆に回す。軸が高い音を立て、貯蔵小屋の床板も浮いた。壁を破った穀物の袋が、濁流の中でほどけていく。
ナージャは右手をわずかに戻した。
術の内側で流れが狭まり、橋台へ向かう水も細くなる。その分だけ斜路の下から噴く泥が弱まり、中棚のサーイ兵が石籠を押して穴を塞ごうとした。
冬道の端では、避難を手伝った集落の男たちが濡れた帽子を握っている。叫べば届く距離でも、ナージャを止める者はいない。水車の屋根が目の前で低く沈んだ。
ナージャは右手を元へ戻す。流れが再び広がり、水車の軸が折れた。羽根が一枚ずつ川へ入り、二棟目の貯蔵小屋も傾く。
黒い羊毛の女と、土手に残る術者たちが声を張り上げた。ナージャは両腕を旧流路の幅いっぱいへ開く。濁流が古代橋台の下へ入り、埋まっていた砂礫をまとめて動かした。
峡谷全体へ、石と石が噛み合う低い音が走った。
*
低い音が足元へ届いた時、サーヴァは第二斜路の南端にいた。
側壁へ食い込ませた最初の石板の下から、砂と水が細い柱になって噴いている。指ほどだった流れは、ひと息の間に腕ほどへ広がった。濁水が胸壁へ当たり、第二斜路の北端を守るサーイ兵の脚をすくう。
古代橋台の測量針が大きく揺れた。
針の根元へ、もとの南北の割れ目とは違う亀裂が走る。荷重を受ける面に沿い、斜め下へ潜る線だ。橋台の北角が指一本ぶん沈み、第二斜路の上端も北へ傾いた。
サーヴァは膝をつき、石面へ右の掌を当てる。短く二度の震え。間を置いて、深い一度。
震えは兵の足と違う。旧流路の水が基礎の砂礫を抜いていた。次に沈めば、側壁へ食い込ませた支えまで剥がれる。石板を残しても、橋台ごと落ちる。
サーヴァは斜路の上へ声を飛ばした。
「中棚の列を動かすな! 第二斜路へ新しい兵を入れるな!」
上端でダーヴァンが振り返る。
「サーヴァ師、すでに北段へ渡った部隊はどうしますか?」
「まず生者を南へ戻せ。アンデッドは北端へ残して追撃を止める」
北段の赤い軍旗の周りでは、サーイ兵と到着したラシェメン増援がスピアを突き合わせている。戻る道は第二斜路しかない。今消せば、前衛は北段へ残される。
ダーヴァンは北端から声を張った。
「あと何度、沈みに耐えられますか?」
サーヴァは測量針の揺れを数えた。
「今ので一度目だ。次で継ぎ目がずれ、三度目には側壁の支えが外れる。固定までは持たない」
直後、頭の内側へ別の声が入った。カザルの《送信》だ。声は遠くから響かず、耳と耳の間へ直接置かれる。
【増援到着。第二斜路を恒久化せよ。橋頭堡を保持。前衛は退かせるな】
サーヴァは橋台の亀裂から目を離さず、短く念を返した。
【橋台沈下。現在一度目。三度目で側壁支え破断。撤収に三分以上。恒久化すれば前衛ごと落ちます】
その間にも、サーイ兵が斜路を南へ走る。ダーヴァンは北端へ盾を並べ、戻る列と戦う列を分けた。軍旗はまだ立っていたが、柄の周りの土が水を含み、傾き始めている。
数秒後、二度目の《送信》が頭の内側へ届いた。
【限界まで維持。北段の生者を戻せ。術者と騎士を優先。アンデッドは北端を保持】
サーヴァは補助術者へ声を向ける。
「石から手を離すな! 集中を保て!」
残ったレッド・ウィザードと見習いたちは、白線の内側で手を上げた姿勢で動かない。左手には《元素吸収》の痺れが残り、サーヴァ自身も指を閉じられなかった。右手で花崗岩を握り、石板の輪郭を保つ。
北段から負傷者が下りてきた。
一人目は自分で歩く見習い魔道士、二人目は肩を借りた騎士、三人目は盾へ寝かされたレッド・ウィザードだった。騎士二人が盾の取っ手と縁を持ち、斜路の中央を南へ運ぶ。後ろではスケルトンが膝をついてショートボウを射ち、ゾンビはスピアで押されても胸壁の間を離れない。
橋台が二度目に沈んだ。
石板の継ぎ目が鳴り、見習い魔道士の一人が大きくよろめく。鼻と口から血を流し、白線の外へ膝をついた。彼の指先から伸びていた光が消え、石面へつながる光が一本減った。
隣の術者が腕を伸ばしかける。
「触れるな! その者はもう術へ戻れん!」
白線の外に立つ騎士が盾を背へ回し、見習いを抱え上げる。残る術者は自分の位置を動かず、石へ向けた手を保った。
南へ戻ったダーヴァンが、割れた頬当ての向こうから北段を振り返った。スピアに貫かれた左肩を押さえず、残る人数を報告する。
「北段の生者は、まだ二十人余りです。騎士六人が退却を支えています。次の沈みまでに全員は渡れません」
サーヴァは噴き出す泥を見る。流れは太くなり、側壁へ食い込ませた最初の板がわずかに浮いていた。
「全員を待てば、補助術者まで崩落に巻き込まれる 」
ダーヴァンは斜路の傾きと南端の継ぎ目を見比べる。
「サーヴァ師。短三つを出します。よろしいですか?」
「許可する。次の沈みが始まったら、残る全員に集中を切らせる」
ダーヴァンは南端の角笛手へ右腕を上げ、三本の指を立てた。
角笛手が胸の角笛を取る。
サーヴァは右手を斜路へ向けながら、測量針を見る。針先が一瞬止まり、亀裂の奥で砂礫の擦れる音がした。二本の針を結ぶ赤い糸が張る。
北段で赤い軍旗が抜かれる。
騎士が旗を脇へ抱え、最後の生者の列へ入った。後ろからラシェメンの狂戦士が迫ってくる。胸へ布を巻いたボリヴィクが片手でバトルアックスを振り、ゾンビの肩を割った。追撃する側も負傷者が多く、列は長くない。
三度の短い角笛が鳴った。南の曲がりから同じ三音が返り、さらに後方へ渡っていく。
斜路の中ほどで、サーイ歩兵の伍長が叫ぶ。
「短三つだ! 南へ戻れ!」
若い兵が北段の軍旗を見上げた。
「旗はまだ北にあるぞ!」
伍長は若い兵の肩を南へ押す。
「旗ではなく角笛を聞け! 魔道士方の担架を通せ!」
最初の短音で、ダーヴァンは北端の盾列を一歩ずつ南へ引かせた。二度目で生者歩兵が一斉に向きを変える。三度目が峡谷へ返る前に、死霊術士ヤレク・ヴァシュが杖を北へ突き出した。
「この狭路を保持せよ。生者を追う者を通すな」
スケルトンはショートボウを捨て、折れたスピアを拾う。ゾンビも斜路の上端へ肩を並べた。退却の角笛も傾く石板も理解せず、命じられた場所で狂戦士へ手を伸ばす。
ダーヴァンは騎士を斜路の両側へ立たせた。
「中央を空けろ! 魔道士方と騎士の負傷者を先へ! 歩ける兵は自分で走れ! 止まった者は胸壁側へ寄れ!」
南へ向かう列が動いた。騎士は中央へ出ようとする歩兵を盾で押し戻し、担架の道を空ける。倒れた兵は胸壁際へ引きずられ、後続の靴を避けて身体を丸めた。
見習い魔道士が一人、石板の上で倒れる。ダーヴァンが騎士へ怒鳴った。
「魔道士殿を盾へ! 前後二人で持て!」
一人の騎士が大盾を伏せ、もう一人が見習いの肩と膝を持つ。革帯を胸へ回し、前後の二人が盾を担いだ。左右の騎士が矢を受けながら、四人で中央を南へ走る。
北端では、黒い盾の一枚がスピアを受けた。
穂先が脇の継ぎ目へ入り、鎧の内側まで沈む。騎士はスピアの柄を掴み、相手を引き寄せて盾で打った。後ろの仲間が肩を取ろうとすると、その手を払い、南を指す。
「列へ戻れ! ここは俺が抑える!」
狂戦士のバトルアックスが兜へ落ち、騎士は胸壁へ倒れた。身体はそのまま動かない。
戻る生者は十五人を切った。橋台から深い音が上がる。
ダーヴァンは斜路の中央へ声を通した。
「揺れるぞ! 伏せるな、走れ!」
第二斜路が北へ傾いた。片側の胸壁が下がり、走る兵の身体も横へ流れる。騎士二人が盾を広げ、魔道士を運ぶ列を中央へ押し戻した。歩兵の一人が胸壁を越えかけたが、誰も足を止めない。男は石面へ爪を立てたまま濁流へ落ちた。
先頭の兵は南端の岩へ転がり込み、最後尾には騎士二人、歩兵数名、それに退却を知らないアンデッドが残った。
下支えの一枚が側壁から剥がれた。
石板は形を保ったまま、支えを失って下へ折れた。床の継ぎ目にできた段差へ、先ほど北端を守っていた騎士の足が挟まり、隣の騎士が肩を掴んで引いた。
足を取られた騎士が叫ぶ。
「置いて行け!」
それでも離さない仲間の胸当てを、彼は拳で叩く。二人の盾に通された細い鉄輪が、石へ当たって鳴った。
「お前も落ちるぞ! 離せ!」
北端ではアンデッドの列が破られ、狂戦士が斜路へ入る。南端で、サーヴァは残る術者へ腕を振り下ろした。
「全員、集中を切れ!」
レッド・ウィザードと見習いたちが同時に手を開いた。
第二斜路は砕けず、形ごと薄れていく。胸壁も床も下支えも一息のうちに消え、挟まれていた騎士と、彼を引く騎士、渡りきれないアンデッドと数人の兵が足場を失った。
ダーヴァンは盾を捨て、南側の岩へ飛ぶ。胸から石へ当たり、右手で縁を掴んだ。叫びと甲冑のぶつかる音が背後の谷へ落ちる。二人の騎士は濁流の上へ小さく見え、すぐ泥煙へ隠れた。
北段と中棚の間に、再び空隙が開く。
ラシェメンの狂戦士は縁で止まり、その距離を越えられない。北段に残ったアンデッドだけが、スピアやバトルアックスを受けながら命令どおり道を塞いでいた。
*
ダーヴァンは岩棚へ胸を擦りつけ、左腕で身体を引き上げた。ロングソードを支えにして斜面を駆け下りる。
「第一斜路へ下がれ! 魔道士方を先に通せ!」
サーヴァは歩ける見習いを南へ向かわせ、倒れた者は騎士の背に負わせていた。痺れた左腕がローブの脇で揺れている。残ったレッド・ウィザードが最後まで白線を確認し、誰も取り残されていないのを見てから後へ続いた。
第一斜路は、根元の橋台とともに沈み始めた。
古代石の北角が河床へ沈み、斜路全体が中央から曲がる。胸壁へ亀裂が走り、石板の一枚が水へ落ちた。上を走る歩兵が倒れ、後ろの列も折り重なる。
ダーヴァンは倒れた兵へ盾の縁を掛け、胸壁側へ押し退けた。
「立てる者だけ進め! 倒れた者は壁際へ寄せろ! 魔道士方の担架を止めるな!」
別の兵が割れ目へ片脚を落とした。後続がその肩を踏み越え、中央を走る。ダーヴァンはロングソードの柄で残った胸壁を叩いた。前後の騎士も胸壁を叩き、曲がった斜路の先へ音をつないだ。
腿に尾のトゲを受けた騎士は列の外側で盾を構え、亀裂が足元へ届くと、大盾を継ぎ目へ渡した。最初に越えたのは、負傷した見習い魔道士を載せた盾担架だった。
次の担架が渡り終える前に、石がさらに沈む。大盾ごと騎士の脚が継ぎ目へ落ちた。別の徽章を持つ騎士二人が腕を掴んで引き上げるが、腿の傷から血が噴き、男は立てない。
胸壁から外れた石塊が、別の騎士の兜を打った。男は意識を失って崩れ、ロングソードを手放す。大盾の多くは見習いの担架に回っていた。残る騎士が二人ずつ組み、負傷した騎士を一人ずつ担ぐ。
河床の別の場所で赤い光が開いた。
後衛のレッド・ウィザードが《濃霧》を唱え、白い霧で第一斜路と橋台を包む。北段からの矢は隠れるが、自軍の道も見えなくなった。ダーヴァンはロングソードの柄で胸壁を叩く。騎士が前後へ同じ音を送り、兵はその響きを右に聞きながら南へ進んだ。
霧の外、南の橋台に立つカザルの声が届く。
「残る魔道士を先へ! 騎士は担架を運べ! 歩兵は走れる者だけ続け! アンデッドと工兵資材は捨てろ!」
生者の歩兵が斜路の出口で負傷者を受け取った。ローブを泥で汚したサーヴァが南側の岩へ移ると、カザルは彼女の左腕と測量板を見た。
「メレク、報告は後だ。測量記録を持って下がれ」
「……第一斜路も、次の沈みには耐えません」
「見えている。歩ける見習い共を連れて行け。担架は騎士に運ばせる」
カザルは後方に残っていた荷車を脇へ寄せさせ、開いた道へ魔道士と騎士の負傷者を通す。北側から追撃の角笛が一度鳴った。
濃霧の切れ目に、胸へ布を巻いたボリヴィクが現れる。戦団の前には、沈みかけた第一斜路へ続く細い岩棚がまだ残っていた。
次の濁流が、横谷より北の支道へあふれた。
ラシェメン兵の叫びが追撃音を消す。冬道の向こうでは、横谷で先に通した二台の避難民用荷車が、北方街道の低みに回り込んだ泥水へ車輪を取られていた。
車体は広い路面へ斜めに止まり、濁流に押されながらも崖際までは寄っていない。救助に回った氏族戦士は、道を横切る水で二つに分断されている。
川向こうのラシェメン兵が車体へしがみついて叫んだ。
「車輪が沈む! 子供がまだ中だ!」
別の兵が切れた綱を掲げる。
「この長さじゃ届かん! 下流から回してくれ!」
ボリヴィクのバトルアックスは南へ向いたまま止まった。崩れた渡りから荷車へ目を移すと、刃を北へ振り直す。
「追撃中止! 縄を持って水車道へ回れ! 荷車と川向こうの者を先に上げる!」
狂戦士たちは向きを変え、数人が水車道へ走った。残る者も縄を結び、濁流へ入る。
ダーヴァンが霧の内側へ戻ると、角笛手が一人で待っていた。
「隊長、斜路に残っているのは、もう俺たちだけです!」
南側の岩には、サーヴァと歩ける見習い魔道士がすでに移っている。盾担架も担がれた騎士も、すべて渡り終えていた。
第一斜路の中央が、橋台ごと河床へ沈み始める。ダーヴァンは角笛手の背を押した。
「先に飛べ!」
角笛手が南側の岩へ移り、ダーヴァンも続いた。
二人が岩へ転がり込んだ直後、第一斜路は中央から割れ、大きな石板のまま濁流へ落ちた。流れを塞いだ板が次の水圧で起き上がり、横へ転がっていく。
霧の上を二体のマンティコアが南へ飛んだ。地上では生者の歩兵と見習い魔道士、歩ける五名のレッド・ウィザードが工兵道へ列を作り、雷を受けた一名は担架で運ばれている。アンデッドの多くと石籠、工具は峡谷へ残され、横谷の軍用車列も回収できなかった。
冷たい雫が一つ、ダーヴァンの兜を打った。ほどなく橋台の石面へ黒い斑点が増え、《濃霧》の表面を細かな雨筋が縫い始める。北段から響く怒号も、列が南の曲がりを越えるたびに遠のいていった。
戦闘音が聞こえなくなる頃、崩れた渡りから届くのは、濁流に石が転がる低い響きだけになっていた。
*
夜になると、峡谷の雨が本降りになった。
サーヴァは南の工兵道を進む列の中で、負傷者を積んだ荷車の軋みを聞いていた。残った資材を降ろした荷車に人が積まれ、歩ける工兵が左右の車輪を押している。回収できないアンデッドも、工具箱や石籠、切り出した石材も、崩れた渡りの向こうへ残した。
道が広がる場所で、カザルは馬車を止めさせた。天幕の下へ荷箱を置き、従軍書記へ敗北報告を口述する。
「作戦名《石笛の渡り》。北段の橋頭堡は放棄。恒久路の構築に失敗した。主因は古代橋台の沈下と地下流路の変動。正規の術者全員、見習い魔道士の大半、生者部隊の中核を回収し、南側防衛線まで後退する」
書記は濡れた紙を板へ押さえ、聞き取った文を読み返した。カザルは「敗走」と書かれた一語を「後退」へ直させる。死者数は騎士、歩兵、工兵、魔道士の順ではなく、魔道士から記された。
隣で、サーヴァは技術報告を書いた。橋台の漏水を報告した時刻。補強を求めた時刻。測量針の周期振動を確認した時刻。《送信》を受けて返した時刻。短三つの合図を許可し、結陣に残った全員へ集中解除を命じた時刻。数字の横へ、亀裂の方向と石板の傾きも描き入れる。
カザルは報告板を上から下まで読み、解除時刻の行を指で叩いた。
「このまま出せば、上官命令に反して壁を消したと読まれる。お前自身の記録で、審理官にお前を切る刃を渡すことになるぞ」
サーヴァは炭筆を置かない。
「時刻を消せば、橋台が先に沈んだことも消えます。次にここへ斜路を掛ける工兵は、解除を失敗として扱うことになります」
「審理官が順に読むとは限らない」
「それでも、順に読める記録を残します」
カザルは彼女の顔を見た後、炭筆を取った。書記とサーヴァの前で紙の余白へ署名し、解除時刻にも命令時刻にも線を引かない。
「二枚とも添付しろ。私の命令とメレクの解除を、同じ時刻表へ載せる」
書記が報告板を革袋へ収めた。
*
少し離れた岩壁の下で、ダーヴァンは騎士を並べていた。
黒い鎧は泥で灰色になり、赤い縁取りの外套も裂けている。自力で立てる者だけが一列を作った。負傷者は荷車の脇へ寝かされ、意識のない者には外套が掛かっていた。
ダーヴァンは二十四の名を、最初の護衛組から順に呼ぶ。
第一斜路を守り続けた白傷の副長が、割れた声で返事をした。雷を受けた騎士も片膝のまま右手を上げる。腿に尾のトゲを残した者と、橋台の石を兜へ受けた者には、治療役が代わりに「生存」と答えた。
五人の名には、雨が荷車の幌を打つ音のみが返る。横谷で二人。北段の上端で一人。消えた第二斜路とともに二人。
ダーヴァンは五つの名を二度呼び、名簿へ線を引いた。最後に自分の名を読み、自分で「在」と答える。
自力で返事をした声は、ダーヴァンを含めて十五。残る四人は盾や担架の上にいた。
白傷の副長が、空いた五人分の間隔を詰めようとする。ダーヴァンは手を上げて止めた。
「そのままにしろ」
列の中に、雨の落ちる場所が五つ残った。
*
崩れた渡りの北側でも、ナージャは雨に濡れた名簿の読み上げを聞いていた。勝利の角笛と損失を数える声が、交互に続いている。
集落の書記役が、濡れた板を火へかざしながら読み上げた。
「冬道、東側三百歩が流失。水車一基、軸と羽根を喪失。貯蔵小屋二棟、倒壊。穀物は半分以上が回収不能。行方不明は現在七名」
集落の者が板へ印をつけるたび、別の者が川沿いへ捜索に出た。狂戦士たちは武器を置き、濁流から引き上げた荷車へ縄を掛けている。
ボリヴィクの胸からは尾のトゲが抜かれ、切り開いた鎖帷子の下へ厚い布が巻かれていた。バトルアックスを持たずに荷車の横を歩き、車輪が泥へ沈むたび片手を側板へ当てる。力が続かなくなると、後ろの戦士が肩を入れ替えた。
旧排水路の近くでは、ナージャが火の前に座っている。柳皮の仮面を膝へ置き、濡れた髪を頬へ張りつかせていた。
集落の代表が三人、雨の中を歩いてくる。水車守の老人は袖へ白い粉を残し、女は貯蔵小屋の鍵を束ねていた。最後の若者は冬道の補修を任されている。
三人はナージャの前で止まった。
老人は水車のあった方角へ目を向け、女は鍵の束を握る。若者も崩れた渡りから目を離さない。誰も頭を下げず、誰も責める言葉を口にしなかった。雨が鍵を打つ音が火の前へ落ちる。
やがて女が、失われた物と行方不明者を書いた板を差し出した。
ナージャは両手で受け取り、膝の仮面の横へ置く。板を裏返さず、火へも近づけない。滲んだ七つの名を、一つずつ指で追った。
北方街道では、救出された二台の荷車が再び動き出す。濡れた毛布に包まれた子供たちが、幌の隙間から後ろを見ていた。川はまだ茶色く、術が解けた後も、開いた旧流路を自分の重さで走り続けている。
雨の下で、折れた古代石柱の空洞へ風が入る。
水の底に半分沈んだ柱から、低い笛の音が一度だけ上がった。