二十面体の向こう側──D&D作品集   作:黄金の20面ダイス

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滅びた氏族の魂を取り戻すため、復讐の誓いを立てたドワーフのパラディンが、デヴィルの契約城へ単身乗り込む話です。


契約城は基礎から壊せ

 滅びた灰鎚氏族の鍛冶神殿では、雨が炉の代わりに音を立てていた。

 

 崩れた天井から落ちた雫が、冷えた水桶を叩く。壁沿いの炉は灰を抱いて眠り、中央の金床が磨かれている。モラディンの金床と炎を刻んだ祭壇であり、氏族が滅びてからもヘルダ・銅筆が毎朝、煤を拭き取ってきたものだった。

 

 石扉が開くと、雨気と黒い血の臭いが入ってきた。

 

 ドゥルガン・灰鎚は濡れた外套を肩から外し、扉脇の鉤へ掛けた。何度も鍛え直されたプレート・アーマーには新しい傷が増えていたが、歩調は乱れていない。右手のウォーハンマーには、最後の地上代理人から浴びた黒血が乾きかけていた。

 

 ヘルダは記録卓から立ったものの、薬箱へは向かわなかった。ドゥルガンの腰で、六角形の地獄鉄印が鎖を引いて脈打っていたからだ。

 

「代理人は?」

 

「死んだ。逃走用の門も、帳簿も焼いた。残ったのはこれだけだ」

 

 ドゥルガンはウォーハンマーを金床脇へ立て、腰の鎖から地獄鉄印を外した。中央の金床へ置くと、縁から黒砂がこぼれ、金床の溝を逆向きに昇っていく。印は六枚の薄板へ開き、赤い文字を何層にも浮かべた。

 

 ヘルダは重なった薄板を一枚ずつ繰り、途中で二度、同じ箇所へ戻った。

 

「灰鎚氏族の契約原本は、やはり地上にありません。私たちが保管していたのは、代価と返済期限を写した副本です」

 

 灰鎚氏族が契約を結んだのは、主坑道の崩落と飢饉が重なった冬だった。ヴァルザクの仲介人は、坑道を支える地獄鉄と一冬分の穀物を差し出した。副本では、その代価を三十年にわたる鉱石の納入で返すことになっていた。

 

 だが納品先は毎年変えられ、到着した鉱石は品位不足として突き返された。返済したはずの分まで利息へ組み直され、最後には氏族全員の魂が担保へ移された。ヘルダが何年調べても、その変更を認める条項は副本のどこにもなかった。

 

「原本と担保の魂は、ヴァルザクの領域にある執行装置へ結びつけられています。この督促状は、最後の生存相続人に一度だけ認められた異議申立ての呼出状です。指定された門を通れるのは、あなた一人。審理が始まれば債権者本人が立ち会います」

 

 黒砂は印の中央へ集まり、細い円錐を作っていた。頂点から一粒ずつ落ちていく。

 

「砂が尽きるまでに異議が認められなければ、欠席裁定と同じ扱いになります。灰鎚氏族の魂は個別の人格を失い、ヴァルザクが保有する霊的資源へ溶かされる。蘇生も交信もできません。名を呼んでも、返事をする者が残らないという意味です」

 

 ドゥルガンは盾を腕から外さなかった。大型盾の表にはモラディンの聖印、内側には失われた氏族の名が刻まれている。握り革の下にある兄ブロリンの名へ、左の親指が一度触れた。

 

「門はどこへ開く?」

 

「黒印公証城の受理広間です。向こうで門を閉じられても、督促状が審理の終了を認めれば、同じ印が帰還路を開くはずです」

 

「援軍を通す抜け道は?」

 

「ありません。別の者が門へ触れれば、異議申立てそのものが放棄と見なされます。遠隔から届く術も、境を越えた時点で切られるでしょう」

 

 ヘルダは地獄鉄印から顔を上げた。

 

「ヴァルザクは、あなたが一人で来るように条件を組みました。氏族の魂を目の前に出せば、あなたはヴァルザク本人を殴らずにはいられないと考えている。審理の体裁を整えていますが、目的は交渉ではありません」

 

「分かっている。最後の代理人を生かしておけば、この門は開かなかった。殺せば、印が俺を呼ぶ。どちらを選んでも奴の予定どおりだ」

 

「なら、せめて受理広間で城の構造を見てください。契約文が隠されている以上、正面からヴァルザクを討つだけでは終わりません」

 

「そのために行く。本人と原本と、魂を縛る仕掛けが一か所へ揃った。地上で三十七年探したものが、向こうから同じ城へ集まってくれた」

 

 ヘルダの指が、地獄鉄印の端を強く押さえた。止める言葉を重ねる代わりにドゥルガンの右肩へ回り、切れかけた鎧紐を新しい革紐へ替える。結び目を二重にし、余りを短剣で切った。

 

「帰ってきた時、この結び目がなくなっていたら、肩当ては一から作り直します」

 

「炉を焚いておけ。盾も直すことになる」

 

「直せる形で持ち帰ってください」

 

「そのつもりだ」

 

 ドゥルガンはウォーハンマーの鎚頭を布で拭い、中央の金床へ触れさせた。背筋を伸ばしたまま目を閉じる。

 

「Moradun gar, zhar en(モラディンよ、我が意志を鍛えよ)」

 

 祈りが終わると同時に、黒砂が金床から立ち上がった。砂粒は宙で弧を作り、ドワーフ二人分の高さの門へ変わる。向こう側には、壁も床も黒鉄で覆われた広間と、武器を持った影の列が見えた。

 

 ドゥルガンは地獄鉄印を腰の鎖へ結び直した。砂は胸甲の脇で落ち続けている。

 

「門が戻らなければ、残った記録を北の氏族へ渡せ」

 

「帰還路が開くまで炉は閉じません。あなたが戻った時、冷えた金床しかないのは困るでしょう」

 

 ヘルダは金床の反対側へ下がり、門の縁へ触れない位置を空けた。ドゥルガンが盾を前へ出し、黒砂の門をくぐると、足裏へ厚い地獄鉄の響きが伝わる。

 

 黒印公証城の受理広間には、七つの審査扉が並んでいた。武装解除、身元確認、宣誓、証拠提出、反対尋問、債務照合、最終受理。扉の上に刻まれた地獄語を読み終える前に、正面の書記台から細身のデヴィルが立ち上がった。鉄面の口だけが開き、羽根ペンの先がドゥルガンへ向く。

 

「異議申立人ドゥルガン・灰鎚。審理の秩序を保つため、武器、防具、聖印、魔法具を提出し、第一扉の前で待機せよ。提出物は審理終了後に返還する」

 

 ドゥルガンは七つの扉ではなく、書記台の後ろに立つ主柱を見た。柱は天井を支えるには太すぎ、床の継ぎ目は柱を避けるように曲がっている。

 

「七つの手続きを終えるまで、督促状の砂は止まるのか?」

 

「手続き中も期限は進行する。規程に従い、速やかに武装を提出せよ」

 

「なら、武器を預けて待てという命令そのものが棄却の仕掛けだ。従わない」

 

 鉄面のデヴィルは返答せず、羽根ペンを紙へ下ろした。受理拒否の記録を始めたらしい。

 

 ドゥルガンは盾の縁を書記台へ当てた。横へ押すと、書記台は床の溝に沿って三歩分滑り、デヴィルごと第一扉の前から退いた。書類が散ったが、鎚は振るわない。

 

「抗議なら、あとでヴァルザクへ出せ。俺は期限のある方へ行く」

 

 広間の左右で警鐘が鳴った。七つの扉へ赤い閂が下り、壁の裏から鎖と足音が近づいてくる。

 

 ドゥルガンは広間の中央で片膝をついた。ウォーハンマーの鎚頭を床へ立て、右手を柄から滑らせて地獄鉄へ触れる。熱を持った床の下から、複数の振動が返ってきた。右手の回廊を走る軽い足音が六つ。別の通路から重い足音が二つ。

 

 さらに深い場所では巨大な輪が一定の間隔で回り、その一回転ごとに三本の太い部材がわずかに違う調子で鳴っている。

 

 正面の七扉へ続く床は薄い。左壁の向こうだけ、荷重を受ける石積みが二重になっていた。法廷を飾るための壁ではない。地下の重い装置を吊り、その力を上階へ逃がすための構造だった。

 

 腰の督促状から落ちる黒砂が、胸甲をかすかに叩く。

 

 ドゥルガンは立ち上がり、ウォーハンマーの鎚頭を盾の聖印へ打ちつけた。

 

「Dorn var. Bharak thol(鎚は進み、鋼は耐える)」

 

 呪文《加速》が身体へ行き渡った。書記が警告文を読み上げようとして口を開く。その息が声になるまでに、ドゥルガンは左壁へ達していた。

 

 ウォーハンマーをアーチの根元へ二度振り下ろす。一撃目で化粧板が砕け、二撃目で奥の要石が抜けた。崩れた壁の向こうから、三本の鎖がほとんど同時に飛び出す。

 

 盾が一番上の鎖をはね上げた。二本目は胸甲を斜めに滑り、三本目が右足首へ巻きつこうとする。ドゥルガンは足を引く代わりに前へ踏み、鎖を短くした。操っていたチェイン・デヴィルが引き戻す前に間合いへ入り、膝の横へ鎚頭を落とす。

 

 白熱した光が関節の内側で弾けた。脚が折れ、巨体が沈む。続く一撃で鎖を操る右肘が潰れ、三撃目が顎を跳ね上げた。デヴィルが背中から倒れた時には、ドゥルガンはもう一体の前へ移っている。

 

 頭上から六体のスパインド・デヴィルが火の棘を降らせた。盾を傾け、最初の斉射を壁へ流す。二体目のチェイン・デヴィルが鎖を扇状に広げたが、振り切る前に胸へ鎚が入り、背後の柱まで運ばれた。緩んだ鎖を盾の上端で掬い、柱を回して両腕へ絡める。輪の重なる箇所を一度潰すと、地獄鉄同士が噛み合った。

 

 スパインド・デヴィルが左右から急降下する。先頭の二体は、盾の縁と鎚頭に同時に迎えられた。一体は首の向きを折られて床へ落ち、もう一体は胸を打ち抜かれて灰へ崩れる。

 

 後列が背後へ回ろうとした時には、ドゥルガンは低く沈み、盾を頭上へ寝かせていた。火の棘が板金で跳ねる。起き上がる勢いで盾を振り上げ、低く飛んだ一体を天井へ叩きつけた。

 

 残る三体が高度を取り直す。ドゥルガンは最も近い一体の尾を盾で掬い、隣の一体へ投げつけた。絡んで落ちた二体へ盾をかぶせ、床へ押さえ込む。

 

 最後の一体が放った棘を外へ流し、そのまま踏み込んだ。鎚頭が翼の付け根から胸へ抜ける。床でもがいていた二体も、盾へ体重を乗せると静かになった。

 

 最初に膝を砕かれたチェイン・デヴィルが、片腕だけで鎖を持ち上げていた。ドゥルガンは通りすがりに留め輪を踏み、ウォーハンマーの石突きで床へ打ち込む。二体とも立てず、六体のスパインド・デヴィルも追撃できる状態ではなかった。

 

 警鐘が鳴り始めてから、督促状の砂は爪幅ほどしか減っていない。崩れた壁の向こうでは、鉄面の書記が羽根ペンを紙へ触れさせた姿勢で固まっていた。記録するための言葉が、出来事の速さに追いついていなかった。

 

 回廊の先で鉄扉が開き、八人の契約兵が横一列に並んだ。ヒューマンが四人、ドワーフが二人、ドラゴンボーンとハーフリングが一人ずつ。首へ巻かれた黒鉄の輪から細鎖が伸び、背後の壁にある赤い印へつながっている。武器を構えてはいたが、前列のヒューマンの槍先はドゥルガンの胸より床へ近かった。

 

 ドゥルガンは彼らの手前で速度を落とした。背後から追えるデヴィルはいない。左右の壁にも隠し扉は見当たらなかった。

 

「首輪が命令を強いるのは見れば分かる。自分の手で武器を置ける者には、こちらから手を出さない。置けない者は、首を守れ。武器だけを折る」

 

 前列のヒューマンがスピアを落とした。隣のドワーフも斧を手放し、ハーフリングは両手で短剣を置く。残る五人の首輪が赤く焼け、細鎖が壁へ引かれた。悲鳴とともに体が前へ出る。

 

 ドラゴンボーンの大斧が上から来た。ドゥルガンは刃の内側へ入り、柄を盾で押し上げる。空いた胸へ鎚を振らず、盾の上端で顎を打った。巨体の膝が落ちる。左から突かれたスピアは脇へ挟み、柄の中央を手甲で折った。持ち主の手首へウォーハンマーの柄を当て、壁へ押し込む。指が開いたところで止め、スピアの残りを落とさせた。

 

 後ろの二人が同時に剣を振った。一人目の刃を盾で受け、二人目の軌道へ押し込む。二本が噛み合ったところで盾をひねり、まとめて奪う。片方の兜へ柄頭を打ち、もう片方の胸当てへ盾を突き出した。二人は左右の壁へ倒れた。

 

 最後のドワーフ兵だけが、首輪に引かれながらも斧を振り切らなかった。両腕が震え、刃が肩の高さで止まっている。ドゥルガンは盾の縁を斧柄へ当て、その高さで押さえた。

 

「よく止めた。そのまま手を放せ。首輪の引きが強くなる」

 

 兵士が斧を落とす。ドゥルガンは壁の赤い印へウォーハンマーを打ち込んだ。表面が割れ、五本の細鎖から力が抜ける。首輪は残ったが、兵士たちを前へ引くものはなくなった。

 

「武器を置いた三人で、倒れた五人を受理広間まで運べ。俺が炉を止めれば首輪も外れる。止められなかった時は、黒砂が消えた後で外門を探せ」

 

 最初にスピアを置いたヒューマンが、倒れたドラゴンボーンの腕を肩へ回した。

 

「炉には、私たちの契約もあるのですか?」

 

「鎖が同じ地下へ続いている。名が炉にあるなら、一緒に外す」

 

 ドゥルガンは返事を待たず、回廊の先へ進んだ。

 

 査印橋は城の中央を貫く縦穴へ架かっていた。両側で巨大な印章盤が上下し、運ばれてくる地獄鉄板へ債務印を焼きつけている。

 

 橋の中央にはホーンド・デヴィルが立ち、長い刺股と翼で道を塞いでいた。角まで含めればドゥルガンの三倍近い。刺股の穂先には、何人分もの血が焼きついている。

 

「異議申立人を法廷へ通すよう命じられているが、武装した破壊者を通せとは聞いていない。武器を投げろ。盾もだ!」

 

「拒否する」

 

 刺股が突き出された。穂先は盾の中央ではなく下端を狙っている。受ければ盾ごと持ち上げ、縦穴へ落とすつもりだった。

 

 ドゥルガンは盾を斜めに立て、穂先を外側へ滑らせた。刺股が欄干へ寄った瞬間、左足で柄を踏む。ウォーハンマーが胸骨の下へ入り、光輝が背中まで抜けた。ホーンド・デヴィルの上体が反り、後ろ足が一歩下がる。

 

 翼が開き直るより早く、二撃目が右膝の外側へ落ちた。巨体の重心が左へずれる。ドゥルガンは腰を沈め、盾の下縁を肋の下へ差し込んだ。刺股を踏んだ足を離し、脚、腰、肩を一つの線にして押し上げる。

 

 ホーンド・デヴィルの両足が床から離れた。

 

 後退する足場を奪い、翼を開く前の一瞬へ、橋の外側へ傾く力を重ねる。巨体は仕切り柵を背中で破り、隣の査印機へ倒れ込んだ。下降してきた印章盤が片翼と刺股を枠へ挟み、機械全体が鈍い音を立てる。

 

 デヴィルは空いた左手でドゥルガンを掴もうとした。ウォーハンマーが手首を打ち、指を開かせる。ドゥルガンは査印機の留め爪へ鎚を落とした。爪が曲がり、印章盤は翼を押さえた位置で固定される。骨の折れる音と咆哮が、縦穴へ重なって落ちていった。

 

 中央法廷の大扉には、赤い封印が十二枚重なっていた。正面から解けば砂が尽きる。ドゥルガンは蝶番の位置を確かめ、扉そのものではなく、蝶番を支える石柱へ鎚を振った。

 

 要石を二つ抜くと、扉の重みが片側へ寄る。三撃目で柱の根が割れ、巨大な扉は封印を残した状態で法廷内へ倒れた。

 

 石煙の向こうで、ゆっくりと拍手が鳴った。

 

 灰印侯ヴァルザクは玉座に腰掛けていた。赤黒い皮膚を覆う地獄鉄の胸甲、背中に畳まれた翼、角の間に連なる灰色の印章。ピット・フィーンドに似た巨体だったが、胸甲と冠には契約を示す細かな文字が刻まれている。

 

 玉座の左右にはチェイン・デヴィルが二体、段下にはビアデッド・デヴィルが四体。書記席に並ぶ小柄なデヴィルたちは、倒れた扉から距離を取っていた。

 

「三十七年ぶりだな、ドゥルガン・灰鎚。地上の代理人を七名、回収人を十九名、仲介所を四か所。よく働いた。おかげで未整理だった損失を、すべて貴様の氏族へ加算できる」

 

 法廷の壁には、無数の地獄鉄釘が打ち込まれていた。一本ごとの頭に名が刻まれ、細い光が床へ降りている。灰鎚氏族の列は玉座の右側。ブロリンの名も、盾の内側と同じ綴りでそこにあった。

 

 ドゥルガンは倒れた扉を越え、法廷へ入った。腰の督促状を見ると、黒砂はまだ四分の一も落ちていない。

 

「鉱石を受け取らず、納品先を変え続けたのはお前の命令か?」

 

「返済物が規格を満たさなければ受領しない。納品先の変更も、原契約が認めた債権者の権利だ」

 

「原契約を作り、魂を炉へつないだ者もお前か?」

 

「最終債権者も執行責任者も私だ。貴様の祖父が署名した時から、所有権は一度も途切れていない」

 

 ドゥルガンは壁に並ぶ灰鎚氏族の名へ目を向けた。ブロリンの魂釘も、その両隣にある父母の魂釘も、まだ欠けてはいない。

 

 視線を玉座へ戻す。

 

「返済できないよう条件を変え、氏族の魂を炉へ送った。その決定を下したのは、お前だな?」

 

「債権者の権限に基づいて条件を執行したのは私だ。もっとも、契約へ署名したのは貴様の祖父だが。被害者の顔をして、責任のすべてをこちらへ押しつけるのは──」

 

「署名した責任は、灰鎚が背負った」

 

 ドゥルガンの声が、ヴァルザクの言葉を途中で断った。

 

「だが、返せないように契約を組み替え、魂を炉へ送った責任まで死者へ押しつけるな。それはお前の分だ」

 

 盾の内側で、親指がブロリンの名を押さえた。

 

 表側に刻まれたモラディンの聖印が熱を帯びる。復讐の誓いへ神力を通した瞬間、神性伝導《滅殺の誓言》が発動した。法廷にいるただ一体──灰印侯ヴァルザクが、ドゥルガンの討つべき仇敵として定まる。

 

 メイスを引く右肘。翼を開く前に沈む肩。胸甲の継ぎ目をかばい、わずかに外へ向いた軸足。

 

 取り巻きの鎖も、書記たちのざわめきも消えてはいない。それでもヴァルザクの動きだけは、どこへ踏み込み、どこへ鎚を入れれば逃がさずに済むか、その順序まで鮮明に見えた。

 

 ドゥルガンはウォーハンマーを低く構え、床を蹴った。

 

 《加速》に押された重装の姿が段下から消える。ビアデッド・デヴィルがハルバードを構えるより早く、ドゥルガンは玉座の前へ踏み込んでいた。ヴァルザクのメイスが横から振られた。盾で柄を外へ押し、開いた胸へウォーハンマーを叩き込む。

 

 地獄鉄の胸甲が大きくへこんだ。鎚頭と金属の間へ神聖な力が集まり、《神聖なる一撃》としてヴァルザクの肉体へ流れ込もうとする。

 

 その直前、玉座の下で灰色の印が回った。

 

 へこんだ胸甲から赤い光が引き出され、床の溝へ落ちる。光は法廷中央の円を通り、壁へ駆け上がった。ブロリンの名を刻んだ魂釘が、胸甲と同じ形に裂ける。

 

「ドゥルガン!」

 

 兄の声が壁から響いた。

 

 鍛冶場で何度も聞いた声と違わない。打つ場所を見ろ、熱を逃がすな。記憶の中の言葉ではなく、痛みに押し出された叫びだった。

 

 ドゥルガンは《神聖なる一撃》を放つ直前で止めた。ヴァルザクの胸からウォーハンマーを引き抜く。

 

 灰印侯はよろめきながらも笑った。ブロリンの魂釘では、亀裂の縁から赤熱した地獄鉄が滲み、床から上がる光に沿って傷を埋め始めている。壁の釘は魂そのものを納めた容器ではない。地下の炉が名を映し、損害を受け渡すための端末だった。

 

「貴様が私へ与えた傷は、審理妨害による損失として原契約炉が計量する。炉は損失を担保へ配賦し、私の肉体を元へ戻す。いまの打撃なら兄君一人で足りた。さらに光を流していれば、灰鎚の魂釘が五、六本は砕けていた」

 

 ヴァルザクが玉座の肘掛けを打つ。

 

 赤い解呪印がドゥルガンの足元で閉じた。《加速》が断ち切られ、速められていた神経と筋肉が一斉に動くことを拒んだ。前へ進み続けていた力だけが残り、膝が床へ落ちる。左腕を上げようとしても、盾は石へ引かれたまま動かない。

 

 二体のチェイン・デヴィルが鎖を投げた。一本が盾腕を胴へ縛り、もう一本が右肩から脇腹へ回る。ビアデッド・デヴィルのハルバードが背と腿を狙った。胸板と背板へ当たった刃は滑ったが、肩当ての下と膝裏へ鉤が食い込む。

 

 骨を断つはずの打撃を、鋼の厚みと崩れない姿勢が浅い傷へ変えた。ドゥルガンは倒れず、片膝をついた姿勢で頭を上げる。

 

「殺すな。異議申立人には、選択の機会を与えねばならない」

 

 ヴァルザクの命令で鎖が引かれた。ドゥルガンは腕を動かせないまま、法廷中央へ引きずられる。黒い署名台の上へ三枚の契約板が浮かび、赤い文字が読める大きさまで膨らんだ。

 

「第一案、私を攻撃し続ける。貴様の復讐は一撃ごとに灰鎚氏族を削り、最後の魂が消えた後でようやく私へ届く。第二案、貴様自身の魂を譲渡する。その対価として灰鎚氏族は解放しよう。第三案、署名せず期限を迎える。氏族は炉へ溶け、貴様だけが地上へ帰る」

 

 ヴァルザクは自分の胸甲を指で叩いた。へこみは浅くなり、代わりに壁の魂釘へ亀裂が残っている。

 

「城壁や扉を壊して気が済むなら、好きにするといい。建物の損耗は私の経費であり、魂へ転嫁できない。だが、貴様が欲しいのは石ではない。私の死だ。だから貴様は、氏族か復讐かを選ばねばならない」

 

 ドゥルガンの右手が動き始めた。ウォーハンマーの鎚頭を床へ立て、指を柄から滑らせて黒石へ触れる。

 

 先ほどの一撃が通った順番は足裏へ残っていた。胸甲から玉座、玉座から床の円。その先で衝撃は三方向へ分かれ、半拍遅れて壁の魂釘へ上がった。受理広間で聞いた三つの周期と同じだった。

 

 床下の一つ目の部材は、ヴァルザクの胸甲のへこみが浅くなるたびに鳴った。二つ目はブロリンの魂釘が裂ける直前に震え、三つ目は法廷の封印へ赤い光が走った時、城全体へ響いた。傷を量り、魂へ送り返し、契約を強制する仕事が、地下の三方向へ分けられている。文字だけの術なら、これほど重い反響は返らない。

 

「俺の魂を渡した後も、原契約炉は動かすのか?」

 

「当然だ。灰鎚氏族以外の担保は、別の正当な債権に属している。貴様が救えるのは血族のみ。全員を救えると思うほど、傲慢ではあるまい?」

 

 ドゥルガンは壁を見た。灰鎚の列の外にも、ヒューマン、エルフ、ドワーフ、ドラゴンボーンの名が続いている。文字の読めない釘も多い。一本の釘へ、家族全員の名を押し込んだものまであった。

 

「その条件では署名しない。俺を新しい担保に替え、空いた場所へ次の名を打つのみだ」

 

「ならば、拒絶として記録しよう」

 

 ヴァルザクは三枚目の契約板を前へ滑らせた。署名欄のない板面で、黒砂をかたどった印が赤く瞬く。

 

「砂が尽きれば灰鎚氏族は処分され、貴様だけが地上へ返る。これで選択は終わりだ」

 

「いや。まだ一つある」

 

 ヴァルザクの爪が、契約板の上で止まった。

 

「選択肢は三つだ。契約にないものを、貴様が勝手に増やすことはできない」

 

「お前が数えなかっただけだ」

 

 ドゥルガンは署名台ではなく、足元の床を見た。

 

「俺がお前を打った傷は、玉座から床へ流れ、壁の魂釘へ届いた。だが、ここまでに壊した扉も壁も、灰鎚の魂には傷一つ返らなかった」

 

 ヴァルザクの瞳が、ほんの一瞬だけ法廷中央の円形継ぎ目へ落ちた。

 

 すぐに笑みを戻したが、メイスを握る指には先ほどまでなかった力が入っている。

 

「城の損耗は債権者側の経費だ。先ほど私がそう説明した。それが何だという?」

 

「お前の傷だけが、床下の何かを通って魂へ運ばれる。なら、お前を殴らずに、その道を壊す」

 

 法廷の空気が変わった。

 

 書記席では羽根ペンが止まり、二体のチェイン・デヴィルが互いを見た。ヴァルザクだけが表情を崩さなかったが、玉座と床をつなぐ導線の前へ、翼をわずかに広げている。

 

「石と鉄を砕いて契約が消えるとでも?」

 

「契約が消える必要はない。命令が魂まで届かなくなればいい」

 

 ドゥルガンの手足へ力が戻った。右手がウォーハンマーの柄を握り直す。

 

「氏族を炉から外す。その後にお前を殺す」

 

 ヴァルザクのメイスが持ち上がった。今度は見せつけるための緩慢な動きではない。

 

「押さえろ! 署名台から動かすな!」

 

 二体のチェイン・デヴィルが鎖を締め、四体のビアデッド・デヴィルが一斉に間合いを詰めた。ハルバードの穂先が低く揃い、ドゥルガンの脚と鎚を狙う。

 

 ドゥルガンは引かれる鎖へ逆らわず、自由の利く右手でウォーハンマーの石突きを床へ押し立てた。左の盾腕は胴へ縛られたまま聖印を正面へ向ける。

 

「Gorun vadr, varkh dra(炉の主よ、穢れを打ち砕け)」

 

 《破壊の大波》が法廷へ放たれた。

 

 低い雷鳴が床、鎧、鎖の内部を一度に震わせる。二体のチェイン・デヴィルが浮き、胸から光輝の亀裂を走らせた。身体を縛っていた鎖ごと柱へ叩きつけられ、一体は灰へ崩れ、もう一体も両腕を焼かれて動かなくなる。

 

 四体のビアデッド・デヴィルはハルバードを構える暇もない。雷鳴に脚を払われ、床へ倒れたところへ光輝が降りる。一体は書記席を巻き込んで壁へぶつかり、二体は魂釘の手前で止まり、残る一体は玉座の段へ転がった。光が消えた後、立ち上がる者はいなかった。

 

 書記席の小柄なデヴィルたちには雷鳴だけが通り過ぎた。机の下へ伏せたまま、傷一つ負っていない。損害転嫁が残るヴァルザクも、ドゥルガンが対象から外していた。

 

 二本の鎖が力を失い、肩と盾から床へ落ちる。法廷が静まると、地下の三重の振動がはっきり聞こえた。

 

 ドゥルガンは署名台を盾で押し倒した。床の中央にある円形の継ぎ目が露出する。継ぎ目の外周へ鎚を二度入れ、赤い留め石を割る。三度目で中央床が半歩沈み、玉座の下から太い鎖が引かれる音がした。

 

「やめろ!」

 

 ヴァルザクがメイスを振り下ろす。盾で受け、左膝を床へ落として衝撃を逃がす。すぐに立ち上がり、沈んだ中央床の縁へ鎚を差し込んだ。梃子にして持ち上げると、円形の昇降台全体が傾く。

 

 下には縦穴と、鎖で吊られた保守台が見えた。法廷の床は原契約炉へ部材を下ろすための蓋だった。

 

 ドゥルガンは傾いた昇降台へ乗り、外縁へ噛んでいた制動爪を叩き折った。吊り鎖が滑車を走り、台が縦穴へ下がり始める。ヴァルザクが翼を広げた時には、ドゥルガンは法廷の床より下へ消えていた。

 

 昇降台は鎖を鳴らしながら降り、城の深部で大きく揺れた。ドゥルガンは盾を欄干へ押しつけ、右手のウォーハンマーで姿勢を支える。頭上から炎が落ち、台の縁を赤く焼いた。ヴァルザクが縦穴を飛び降りてくる。

 

 やがて壁が途切れ、巨大な空洞が開いた。

 

 原契約炉は、底の見えない溶岩裂溝の上に吊られていた。城の塔ほどもある円筒の周囲を、名を刻んだ地獄鉄の輪が幾重にも回っている。法廷から降りてきた光は、三本の太い支柱を通って炉へ入っていた。

 

 一本目には魂釘から下る白い光が多く、二本目にはヴァルザクの傷から引き出された赤い脈が走っている。三本目からは黒赤い線が城壁と封印へ広がっていた。三本の接合部には細い迂回路があり、どれか一つが止まれば、残りへ流れを回せるように組まれている。

 

 昇降台が保守環へ着く。ドゥルガンは段差を越え、最も近い支柱へ向かった。

 

 支柱の中央は、ウォーハンマーを何百回振っても砕けない厚さだった。表面の契約文字も幾重に守られている。だが壁との接合部には、熱膨張を逃がす環状の継ぎ手があり、固定軸が外側から打ち込まれていた。交換を前提にした部品へ、契約文字は刻まれていない。

 

 ドゥルガンは一番上の固定軸へ鎚を当てた。

 

 背後でヴァルザクが片手を掲げ、爪の間へ炎を集める。

 

 火炎が空洞を横切った。ドゥルガンは盾を頭上へ傾け、支柱の陰へ入る。炎は盾の表面で分かれ、肩と背へ流れた。プレート・アーマーは燃え抜けない。代わりに板金そのものが熱を抱え、下の鎖帷子を通して皮膚を焼く。髭の先から焦げた臭いが上がった。

 

 鎚を振る。一撃目で固定軸の頭がへこみ、二撃目で半寸浮いた。

 

 ヴァルザクのメイスが盾へ落ちる。左肩が沈み、足元の保守環へ罅が入った。続いて爪が右肩当てを掴み、鎧紐を一本引きちぎる。

 

 ドゥルガンは振り向かない。三撃目を固定軸へ入れ、頭を完全に抜く。残る二本を同じ方向から打てば、荷重が偏って継ぎ手が噛む。支柱の反対側へ回り、二本目を逆向きに叩いた。

 

 ヴァルザクの尾を盾で受ける。毒針が表板を擦り、火花を散らした。続くメイスが背板へ入り、胸が支柱へぶつかる。息が漏れたが、骨までは届いていない。

 

 二本目の固定軸が抜ける。

 

「兄の悲鳴が怖いのだろう! ならば膝をつけ。貴様が止まれば、あの声も止まる!」

 

 ヴァルザクの声が空洞へ響いた。ドゥルガンは三本目の固定軸へ鎚を置いた。

 

「怖いさ。もう一度、兄へ俺の傷を渡す気はない」

 

 鎚が落ちる。

 

 三本目の固定軸が折れ、環状の継ぎ手が開いた。第一支柱が壁から外れ、円筒炉がわずかに傾く。回転していた地獄鉄輪が一段ずれ、何十本もの光が切れた。上方へ白い火花が昇る。

 

 破断面から赤熱した地獄鉄が流れ出した。液状の金属は外れた継ぎ手を埋め、床へ落ちた固定軸まで細い糸を伸ばす。同時に、魂を結んでいた白い流れが第二支柱へ回り、傷を運んでいた赤い脈は第三支柱へ移った。

 

 一本を外しただけでは、残る二本が機能も荷重も引き受ける。しかも修復が終われば、最初の支柱も戻る。

 

 ドゥルガンは再接合の速さを一度見ただけで、第二支柱へ走った。

 

 ヴァルザクが翼で先回りし、保守環へ着地する。メイス、爪、尾が間を置かずに来た。メイスを盾の上部で受け、爪を厚い胸板へ滑らせる。尾は軌道を変え、脇腹の継ぎ目へ入った。毒針が鎖帷子を割り、肉へ刺さる。

 

 冷たい痺れが右脚へ下りた。

 

 ドゥルガンは尾を盾と脇で挟み、ヴァルザクが引く力に合わせて前へ出る。毒針が抜け、血が鎧の内側を流れた。第二支柱の継ぎ手まで残り四歩。メイスが横から胸へ当たり、体が欄干へ押される。

 

 欄干は折れたが、ドゥルガンは落ちなかった。ウォーハンマーを保守環の隙間へ差し込み、右手一本で体を支える。左足を戻し、盾で次の爪を外へ弾く。鎚を引き抜くと、そのまま第二支柱の一本目の固定軸へ叩き込んだ。軸は継ぎ手の内側へ抜け落ちる。

 

 二本目へ移る前に、ヴァルザクが背後から首当てを掴んだ。ドゥルガンの両足が床を離れる。

 

 左腕の盾を外へ開き、ヴァルザクの肘へ板の縁を差し込む。掴む腕の角度が崩れ、足が床へ戻った。振り向きざまに構えた鎚はヴァルザクへ向かわない。二本目の固定軸へ落ち、頭を折って継ぎ手の奥へ沈めた。

 

 ヴァルザクの爪が右肩当てを完全に剥がす。露出した鎖帷子へ三本の爪が食い込み、血が飛んだ。

 

 ドゥルガンは盾の腕帯を外し、継ぎ手の隙間へ下縁を差し込んだ。ウォーハンマーで盾の外板を打つ。大型盾が楔となって沈み、環状の継ぎ手を押し開いた。表の聖印に亀裂が入り、内板の氏族名の手前まで裂け目が伸びる。

 

 もう一度、盾を打つ。奥に隠れていた三本目の固定軸が露出した。

 

 ヴァルザクのメイスが振り下ろされる。ドゥルガンは左手を握り革から離し、半歩横へ動いた。メイスは肩を掠め、楔になった盾の上端へ当たる。衝撃で継ぎ手がさらに開いた。

 

 両手でウォーハンマーを握り、三本目の固定軸を打ち抜く。

 

 第二支柱が外れた。

 

 円筒炉が大きく傾き、空洞の壁と保守環が同時に裂ける。ヴァルザクは翼を開いて浮いた。ドゥルガンは継ぎ手に残った盾の握り革を掴み、崩れる床から引き抜く。盾は中央から歪み、上端の三分の一が割れていた。それでも腕帯と、内側の氏族名は残っている。

 

 第一支柱の破断面では、赤い地獄鉄がすでに半分まで継ぎ手を作り直していた。

 

 第三支柱との間にあった保守環が崩れ、溶岩裂溝へ落ちる。残った足場から対岸まで、重装鎧のドワーフが跳べる距離ではない。下では溶岩と、炉からこぼれた魂の光が渦を巻いている。

 

 ヴァルザクは空中から見下ろした。胸甲のへこみは壁へ転嫁された状態で消えかけている。

 

「二本を壊しても最後まで届かない。第一支柱は間もなく戻り、二本目もつながる。貴様が稼いだのは、数秒の遅れだけだ!」

 

 ドゥルガンはウォーハンマーの鎚頭を足元へ立て、歪んだ盾の腕帯を締め直した。再び鎚を取り、内板へ入った亀裂を確かめる。裂け目はブロリンの名のすぐ横で止まっていた。手甲の親指を、その刻み目へ押しつけた。

 

「Dumra ven. Urd na(氏族の名は、炉にも消えぬ)」

 

 復讐の誓いの最奥にある《応報の天使》が、祈りへ応じた。

 

 最初に鳴ったのは、焼き入れを終えた鋼が内部の歪みを吐き出すような、低く連なる音だった。肩甲の継ぎ目に炉の奥の橙白が走り、背板の隙間から黒鉄色の地金が押し出される。

 

 地金は空中で幅広い板へ延び、角度を変えながら一枚ずつ重なった。鎚目を残した面。荷重を受けるため厚く取られた縁。何十枚もの羽板が開くたび互いの根元を噛み、左右に巨大な翼を組み上げていく。継ぎ目が炉心の色に灼け、動くたび火花を細くこぼした。

 

 最後の一枚が定位置へ収まると、増えた重みに石棚が軋んだ。すぐに翼が荷重を受け、ドゥルガンの背を引き起こす。飾りのための羽ではない。盾と鎧と鎚の重さを、そのまま空へ押し上げるための構造だった。

 

 鍛鉄の翼が一度、大きく打たれる。

 

 衝撃が背後の石棚を砕き、ドゥルガンの全身を第三支柱へ押し出した。ヴァルザクが正面へ回り込み、両手から火柱を迸らせる。空隙が炎で塞がれても進路は変わらない。歪んだ盾を前へ構え、鎧と鎚の重さを炎の中心へ持ち込む。

 

 盾の表面が赤熱し、髭の先が焼ける。脇腹の毒が鼓動に合わせて広がった。ヴァルザクのメイスが盾へ当たり、亀裂が握り革の近くまで伸びる。それでも飛ぶ速度は落ちなかった。

 

 メイスの柄を盾で外へ押し、ヴァルザクの脇を抜ける。第三支柱の継ぎ手へ、飛行の勢いを乗せて盾から衝突した。

 

 環状の継ぎ手が大きく鳴り、歪んだ盾の下縁が隙間へ食い込む。衝突の力で外側の二本の固定軸が曲がり、頭を継ぎ手の外へさらした。ドゥルガンは左肩で盾を押しつけたまま、右手のウォーハンマーを引く。

 

 右の固定軸をへし折り、鎚を返して左の軸頭を外へ弾く。継ぎ手が開きかけたところへ、ヴァルザクの爪が背後から振り下ろされた。鍛鉄の左翼がえぐられ、黒い羽板が十数枚、継ぎ目の火を引いて溶岩へ落ちる。身体は支柱へ押しつけられたが、盾の楔は抜けなかった。

 

 中央の固定軸が、なお継ぎ手を噛んでいる。ドゥルガンは柄を短く握り、軸頭へ鎚を打ち込んだ。ひしゃげた頭へもう一度重ねる。軸と固定環がまとめて割れ、第三支柱が壁から外れた。

 

 固定環から剥がれた拳大の地獄鉄が飛び、盾の亀裂へ深く食い込んだ。

 

 三本の支えを失った原契約炉は、音を立てずに一尺沈んだ。次いで、回転していた地獄鉄輪が互いに噛み合い、城全体を揺らす音を上げる。第一支柱を修復していた赤い地獄鉄が逆流し、破断面から噴き出した。

 

 魂釘をつないでいた白い流れも、傷を転嫁していた赤い脈も、城へ強制力を送っていた黒赤い線も、同時に行き場を失った。炉心を囲む輪が一つ、二つと割れる。

 

 そこから無数の光が溢れた。一人分の名と記憶を抱えた光が炉から離れ、空洞を満たす。ヒューマン、エルフ、ドワーフ、ドラゴンボーン、見たことのない角や翼を持つ者。輪郭を結ぶ時間は短く、ほとんどは顔が見える前に火花へ戻った。それでも、互いの手を探す者、幼い影を抱き上げる者、長く曲がっていた背を伸ばす者がいた。

 

 灰鎚氏族の名を刻んだ輪が割れる。

 

 ドゥルガンの盾から冷たさが抜けた。何十年も冬の石のようだった内板が、掌の血と同じ温度へ戻る。

 

 昇る光の中から、短い笑い声が聞こえた。

 

 兄ブロリンが、弟の打ち損じを見つけた時に上げていた笑いだった。姿を探す前に声は遠ざかり、古い鍛冶歌の一節へ重なって天井の亀裂を抜けていく。

 

 原契約炉が残った地獄鉄輪ごと溶岩裂溝へ落ちた。白い魂の光だけが沈まず、城の上層へ昇り続ける。

 

 ヴァルザクは自分の胸へ手を当てた。胸甲のへこみから黒い血が溢れ、今度はどこにも流れない。角の間に連ねていた灰印が次々に砕ける。

 

 灰印侯は上方の縦穴へ向きを変えた。

 

 ドゥルガンは盾を前腕の帯へ預け、左手を握り革から外した。割れた聖印を指でなぞり、その指をウォーハンマーの鎚頭へ触れさせる。短い祈句とともに《聖なる武器》が宿り、氏族伝来の鎚は橙白の光輝を帯びた。黒い地獄鉄の空洞が、鎚頭を中心に明るく切り分けられる。

 

「逃げるな。ここからは、お前の番だ」

 

 鍛鉄の翼が打たれ、ドゥルガンは崩れ始めた城を駆け上がった。

 

 ヴァルザクは上層へ逃げながら、自分の城を壊した。縦穴の梁をメイスで折り、階段を踏み抜き、追手の前へ燃える石材を落とす。原契約炉を失った黒印公証城は、傷を直す力も失っていた。ひびは壁から天井へ走り、魂釘の抜けた穴から光が噴き出している。

 

 ドゥルガンは階段を使わない。翼を畳んで崩れた床の穴を抜け、開けた空間へ出るたび大きく広げる。一度羽ばたくごとに、板と板が噛み合う重い音が響いた。左翼はヴァルザクの爪で欠け、右翼も炎で縁が赤くなっている。それでも飛ぶ力は落ちない。

 

 中央法廷へ戻ると、壁の魂釘はほとんど抜けていた。空になった穴から光が昇り、倒れたデヴィルの灰を巻き上げている。《破壊の大波》を受けた六体は、灰となるか、柱と瓦礫の下で動きを失っていた。書記たちは外廊へ逃げている。

 

 倒れた大扉の向こうで、黒鉄の首輪が床へ落ちる音が続いた。契約兵たちを壁へつないでいた細鎖も力を失い、受理広間の方角から、負傷者を運ぶ声が遠ざかっていく。さらに奥で査印機が崩れ、片翼を挟まれていたホーンド・デヴィルの咆哮が重なった。背後から追ってくる鎖音はない。

 

 ヴァルザクは法廷の天井近くで急停止し、振り向きざまにメイスを振った。

 

 ドゥルガンは空中で盾を合わせた。衝撃に押され、翼の先が壁を削る。ヴァルザクは間を置かず爪を振り、尾を下から突き上げた。爪が右肩の鎖帷子を裂き、尾の毒針がすでに傷ついた脇腹を掠める。

 

 《聖なる武器》を宿したウォーハンマーが横へ返る。

 

 鎚頭はヴァルザクの左脇へ深く入った。光輝が胸甲の内側で爆ぜ、黒血が法廷の床へ降る。壁から叫びは上がらない。傷は浅くならず、灰印侯の呼吸が一度止まった。

 

 ヴァルザクはメイスの柄を短く持ち、ドゥルガンの胸へ突き込む。胸板がへこみ、重装鎧の身体が壁へ叩きつけられた。石が崩れ、背中の翼が半ば埋まる。鎚頭の光が一瞬細くなったが、消えない。ドゥルガンは柄から手を離さず、《聖なる武器》へ注いだ精神集中を保った。

 

 角の間から、暗い波が広がる。

 

 法廷の壁が遠のき、代わりに冷えた灰鎚氏族の炉が見えた。盾の内側から名が消え、ヘルダが一人で金床の前に立っている。起きていない光景が、現実と同じ重さで迫った。

 

 ドゥルガンの左手が一度震える。

 

 盾の内板へ親指を押し当てた。亀裂の横にブロリンの名が残っている。冷たくない。そこへ付いた血は、いま流れている自分のものだった。

 

 彼は壁から背を離した。

 

 翼が埋まった石を吹き飛ばし、ヴァルザクとの距離を一息で詰める。メイスを盾で上へ弾き、光を帯びたウォーハンマーを顎の下へ入れた。巨体の頭が跳ねる。続く爪を胸板で受け、二撃目を右の鎖骨へ落とす。鎚が当たるたび、胸甲の契約文字が内側から焼けた。

 

 ヴァルザクは翼で後退し、法廷の外壁を突き破った。

 

 赤い空の下、城の最上層に巨大なアーチ門が立っていた。門の内側には別の地獄領域の暗い空が揺れ、向こう側から軍勢の角笛が届く。ヴァルザクは折れた胸甲を押さえながら、そこへ飛ぶ。

 

 ドゥルガンは外壁を蹴り、門の正面へ先回りした。重装鎧の両足が石床へ着き、鍛鉄の翼が左右へ広がる。欠けた左翼も、飛行を失うほどではない。

 

「その門の先には、私より上位の者がいる!」

 

 ヴァルザクがメイスを構え直した。

 

「ここで私を滅ぼせば、貴様の勝利は一晩も続かない。灰鎚の名を新たな債務者名簿へ載せ、地上の神殿を一つずつ焼く。私を通せば、今日の損失は私の失策として処理しよう。貴様の氏族も、あの兵どもも追わない」

 

 ドゥルガンは割れた盾を胸の前へ上げた。

 

「追う者が来るなら、入口を聞く手間が省ける」

 

「虚勢で地獄の法は変わらん!」

 

「法の話はしていない。お前が作ったものの責任を取らせる」

 

 ヴァルザクが踏み込んだ。

 

 メイスとウォーハンマーがぶつかり、赤い火花と炉心色の光が散る。体格も柄の長さもヴァルザクが上だった。正面から押し合えば、ドゥルガンの足が門柱まで運ばれる。

 

 二度目の打ち合いで半歩下がり、三度目は盾をメイスの柄へ当てた。ヴァルザクの両手の間を押し、鎚頭の軌道を外へ流す。開いた右膝へウォーハンマーが入った。

 

 尾が横から来る。盾を下げ、毒針の根元を板の縁で受ける。尾が跳ね上がった隙に、鎚を左の肋へ返した。光輝が肉へ食い込み、黒い血が飛ぶ。

 

 ヴァルザクの翼が大きく開いた。後退のためではない。視界を塞いで右側へ回り込み、翼の下を抜けてアーチ門へ走る。

 

 ドゥルガンは追いかけなかった。

 

 ヴァルザクが門へ飛び込むため、右足を深く踏み込む。その後ろ膝が伸びきる直前、ウォーハンマーが横から入った。

 

 関節が砕け、踏み込みの力が消える。灰印侯の巨体は門の手前で崩れ、片手を床へついた。翼を打とうとしても、飛び立つための姿勢へ戻れない。

 

 ドゥルガンは鎚を肩口へ打ち込み、門から離れる方向へ上体を向けた。ヴァルザクが爪で床を掴み、翼を開いて抗う。

 

 その胸郭の下へ、割れた盾の縁が入る。

 

 腰を落とし、右脚で床を蹴る。鍛鉄の翼が後方へ打たれ、重装鎧と盾へ飛行の勢いが加わった。ヴァルザクの両足が浮き、巨体が横へ運ばれる。

 

 灰印侯はアーチ門の柱へ背中から衝突した。石柱が中央で折れ、片翼が崩れた石の下へ挟まる。門の内側に揺れていた暗い空が細くなり、途切れた。

 

 ドゥルガンの盾も限界を迎えた。表板が二つに割れ、モラディンの聖印の半分が床へ落ちる。内板は腕帯に残り、氏族名を載せたまま左腕から垂れた。

 

 ヴァルザクは石を押しのけ、折れた片翼を引きずって立った。メイスは門柱の下へ挟まれ、手には爪しか残っていない。胸甲は二か所で割れ、黒血が腹まで流れている。

 

「私を殺しても、原契約炉は一基にすぎん! 地獄には同じ炉が幾つもある。貴様が壊した制度は、別の公証城で明日も動く!」

 

 ドゥルガンはウォーハンマーを下げずに近づいた。鎚頭を包む《聖なる武器》の光が、ヴァルザクの胸甲へ刻まれた文字を一つずつ照らす。

 

「支えきれない梁を、支えられると偽って組む。崩れれば下敷きになった者を材料にして穴を埋める。お前の契約は欠陥だらけだ」

 

 ヴァルザクの爪に炎が集まる。

 

「合意はあった! 署名も証人も対価も、すべて法に従っている!」

 

 ドゥルガンは割れた盾の残りを前へ出した。

 

「灰鎚では、欠陥品を作った職人が引き取る」

 

 ヴァルザクが炎を放つ。

 

 盾の内板が白熱し、腕帯が焼け切れた。氏族名を刻んだ板が床へ落ちる。炎を抜けた爪がドゥルガンの右肩へ入り、鎖帷子と肉を裂いた。

 

 上体が傾く。鎚頭の光も揺れた。

 

 それでも左足はヴァルザクの砕けた膝の内側へ入り、逃げる方向を塞いだ。右手のウォーハンマーを両手へ持ち替える。焼けた左掌が握り革へ触れ、血と焦げた革が混じった。

 

 ウォーハンマーがヴァルザクの胸へ当たる。

 

 中央法廷で最初にへこませた場所だった。鎚頭に宿る《聖なる武器》の光輝が割れた胸甲へ流れ込む。今度は横へ逃げる赤い筋が生まれない。壁の魂釘も、原契約炉も、傷を引き受ける者も残っていなかった。

 

 灰印侯の爪が、ドゥルガンの肩から離れる。

 

「地獄の法は……私が滅びても……」

 

「なら、次の炉も壊すだけだ」

 

 その言葉とともに、法廷では完成させなかった《神聖なる一撃》が、《聖なる武器》の光へ重なった。

 

 灰色の契約印が胸から喉、角の根元へ向かって一つずつ焼ける。ドゥルガンは鎚頭をさらに押し込んだ。二つの光がヴァルザクの背から噴き抜け、胸甲を内側から割る。炉白の炎が巨体を満たし、角も翼も輪郭を失わせた。灰印侯は灰と地獄鉄の破片へ崩れ、床へ落ちた灰から別の場所へ逃げる霊火は上がらなかった。

 

 アーチ門の向こうに残っていた暗い空が閉じた。

 

 ドゥルガンの腰で、最終督促状がひとりでに開く。赤い文字が乱れ、「債権者不在、審理終了」の二行へ縮んだ。黒砂が下へ落ちるのをやめ、逆向きに昇って円を作る。円の向こうに、灰鎚氏族の鍛冶神殿と中央の金床が見えた。

 

 城の最上層が大きく傾く。

 

 氏族名を刻んだ盾の内板は、ヴァルザクの灰の手前へ落ちていた。第三支柱の固定環から剥がれた拳大の地獄鉄が、盾の亀裂へ食い込みながら残っている。ドゥルガンはウォーハンマーの柄で破片をこじり出した。左腕で盾板と地獄鉄をまとめて抱え、鎚は右手に下げる。

 

 黒砂の門へ向かう。

 

 背後で黒印公証城が裂け、赤い空へ炎と解放された魂の光を噴き上げた。ドゥルガンは振り返らず、門をくぐった。

 

 神殿の冷たい空気へ戻った途端、《応報の天使》の翼が火の粉となってほどけた。《聖なる武器》の光も鎚頭から静かに引き、古いルーンのみが残る。

 

 重装鎧の重みが両足へ戻った。ドゥルガンは金床まで三歩進み、そこで片膝をつく。ヘルダが駆け寄ったが、彼は先に左腕の盾板を床へ置いた。

 

 内側の氏族名はすべて残っていた。亀裂はブロリンの名の脇で止まり、触れても以前の冷たさがない。

 

 神殿の奥で、一つの炉に白橙の火が灯る。

 

 隣の炉、そのまた隣の炉へ、誰も触れていない炎が順に立ち上がる。炉前に人影は現れず、古い送風筒も動かない。それでもモラディンの祭壇に刻まれた溝へ光が走り、失われた氏族の炉が静かに温まっていった。

 

 ヘルダは盾板へ伸ばしかけた手を止め、ドゥルガンの右肩へ布を押し当てた。

 

「鎧を外します。脇腹にも毒が入っていますね。治療台まで歩けますか?」

 

「肩を貸せ。鎧を切る前に、これを金床へ置く」

 

 ドゥルガンはウォーハンマーを金床へ載せた。鎚頭の溝には、ヴァルザクの胸甲だった地獄鉄が食い込んでいる。続いて、持ち帰った執行支柱の破片をその横へ置く。

 

 ヘルダは鎧紐を切りながら、黒い破片を見た。

 

「原本を奪ったのですか? それとも、契約文の矛盾を証明したのですか?」

 

「どちらでもない。契約の原文には触れていない。魂へ命令を届かせ、傷を移していた炉を落とした」

 

「ヴァルザクの傷を魂へ移していた装置ですね。炉を止めれば契約の強制も止まると、どうして分かったのです?」

 

「最初の一撃が、玉座から床へ落ちて三方向へ分かれた。地下で三本の支柱が鳴った。一本を外すと、残り二本へ光と荷重が移った。だから修復される前に、三本とも折った」

 

 ヘルダの視線が、固定軸の折れた痕から割れた盾、焼けた鎧へ移った。

 

「契約書ではなく、城の構造を読んだのですね。どこを壊したのです?」

 

 ドゥルガンは支柱片へ手を置いた。

 

「基礎だ」

 

 地獄鉄を受けた金床が、一度だけ澄んだ音を神殿へ返した。

 

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