この話は作者が友人とプレイしたスペルジャマーキャンペーンのプレイログに沿って構築されています。
死せる神の亡骸が、アストラル海を横切る壁のように浮かんでいる。
頭部は小さな島ほどもある。閉じたまぶたには深い亀裂が走り、胸から突き出た肋骨のあいだを銀色の靄が流れている。かつて何を司っていた神なのか、船内の記録には残っていない。サイラス・ヴェインは亡骸を一度見上げ、船倉の精神航法核へつながる計器へ視線を戻した。
捕獲したスター・モス船ダーク・スターは、亡骸の左肩に沿って進んでいる。水晶質の翼が帆の代わりに魔力を受け、進路に合わせて傾く。
甲板にいる生身の乗員は、サイラスだけだ。細身のヒューマンは、濃紺の長衣の下にブレストプレートを着込んでいる。
胸当ての縁には細い銀線が走り、小さな触媒を留める金具がついている。索具を点検しているのは、《小さな召使》で動く木製の人形だ。船尾のスペルジャミング・ヘルムには、サイラスの《似姿》が座っている。
複製体は操船と呪文発動のために作られた。顔も記憶も魔力も本人と同じだが、命令された仕事以外はしない。壊れれば作り直し、必要なら船と一緒に捨てる。
接触に備え、サイラスは休息に入る前に《空白の心》を施していた。休息を終えると、甲板で一分をかけて《予知》を発動し、《不可視視認》と《言語会話》も重ねた。刃が来る方向、足場が崩れる位置、敵が術式を完成させる直前の指先の動きが、現実よりわずかに早く感覚へ届く。
「船速を二割落とせ。亡骸の鎖骨から九十メートルの距離を保て」
伝声管の向こうで、複製体が答える。
「了解した。右舷後方に空間の乱れが三つある」
「見えているよ」
肉眼には何も映らない右舷後方を、不可視のスター・ランサー騎兵が三つの編隊に分かれて進んでいる。四枚翼の乗騎には、それぞれ銀の鎧を着たギスヤンキが跨がっている。
死せる神の肋骨の影から、黒紫色の船首が現れた。巻貝に似た殻と、船腹から伸びる太い触手を持つノーチロイドだ。一隻目に続いて二隻が姿を見せる。さらに左右には別種の船が二隻ついていた。
鹵獲船の甲板では、ヒューマンとドワーフの船員が索具と大型弩砲を扱っている。誰も隣を見ず、号令もないのに同じ瞬間に綱を引き、同じ角度で砲門を開いた。マインド・フレイヤーに思考を縛られた隷属者たちだ。
「やれやれ。片方ずつ探す手間くらいは省いてくれたらしい」
サイラスは杖を甲板へつき、《鏡像》を発動した。輪郭が三つに分かれ、同じ装備を身につけた四人のサイラスが船首に並ぶ。続けて《星の冠》を呼び出す。七つの光球が頭上へ現れ、ゆっくりと周回を始めた。
最後に、操舵室へ通じる廊下を振り返る。
そこには《モルデンカイネンの忠実な番犬》を置いてある。不可視の番犬は、味方として指定していない侵入者が近づけば吠え、噛みつく。サイラスにだけ見える大きな猟犬が、廊下の中央で伏せていた。
「複製体。船体を維持しろ。侵入者が操舵室まで達したら、ダーク・スターを中央のノーチロイドへ衝突させろ」
「了解した」
返答には間がない。
背後を、大きな赤い翼が横切った。
死せる神の肩の裏から、若いレッド・ドラゴンが飛び出した。首の付け根に跨がるギスヤンキ騎士は、銀のグレートソードを片手で抜いている。続いて二隻のギスヤンキ戦船が銀の靄を抜け、左右へ展開した。不可視だったスター・ランサーの騎兵も姿を見せ、ダーク・スターを半円状に囲む。
「船を停止しろ!」
騎士の女が怒鳴った。《言語会話》の働きで、鋭いギス語が明瞭な共通語として聞こえる。
「私はトゥナラスの騎士ダガズだ。ルーセント・エディクトから持ち出したイリシッドの遺物を投棄しろ! 従わなければ、船ごと破壊する!」
サイラスは正面のノーチロイドを見ながら答える。
「初対面の相手に要求するには、ずいぶん雑だね。少し待ってくれ」
「今すぐ捨てろ!」
「君は前を見た方がいい」
サイラスが警告した直後、中央のノーチロイドから青白い光が広がった。
精神爆砕がダーク・スターを打つ。船体には傷一つつかない。代わりに、頭蓋の内側へ異物を押し込むような衝撃が来る。《空白の心》が思考を読ませず、精神への損傷を退ける。だが、体を硬直させる力までは消えない。
サイラスは三つの《予見》から、体が硬直しない未来を選んだ。
衝撃が頭蓋の内側を通り抜ける。膝は曲がらず、詠唱も途切れない。近くにいた木製の従者は動きを止め、甲板へ転がった。
ダガズのレッド・ドラゴンが苦鳴を上げる。ギスヤンキ騎兵の一人が鞍から外れ、命綱にぶら下がった。
冷たい声が、サイラスの思考へ直接触れた。
【航路の種を返せ。抵抗は許可していない】
正面の旗艦、その上甲板に三体のマインド・フレイヤーが立っている。中央に立つ一体だけが長身で、顔の触手も長い。ウリサリッドだ。左右には、マインド・フレイヤーのサイオニック使いが一体ずつ控えている。ウリサリッドは青い水晶を組み合わせた増幅器へ片手を置き、精神爆砕を艦隊全体へ広げている。
増幅器の周囲では、ダガーを持つヒューマンの甲板員六人と、ハンドアックスを持つドワーフの砲手三人が護衛に立っていた。全員がサイラスへ顔を向けているが、目も口元も動かない。
サイラスは杖をわずかに持ち上げた。
「許可を求めた覚えはないよ。それより、君たちが先に片づけるべき相手が来ている」
サイラスの声は、前方のイリシッドにも後方のギスヤンキにも通じる。
旗艦の上甲板までは十五メートルほどしかない。サイラスは《集団示唆》を発動し、ウリサリッドと左右のサイオニック使いへ同じ言葉を投げた。
「あの赤竜の騎士は、航法核を破壊しに来た。彼女と追撃隊の進路を先に塞ぎ、こちらの船へ近づけない方がいい」
術は三体の精神へ同時に入り込んだ。左右のサイオニック使いは触手を一度だけ強張らせ、白い目をダガズへ向けた。ウリサリッドだけが長い触手を大きく開き、術を押し返そうとする。
サイラスは二つ目の《予見》から、ウリサリッドの抵抗が崩れる未来を選んだ。
三体の視線が同時にダガズへ向いた。
次の瞬間、増幅器の青い光がダガズへ向いた。左右のサイオニック使いも装置へ触手を添え、ウリサリッドの攻撃に力を重ねる。二隻の護衛艦は針路を変え、レッド・ドラゴンを挟むように加速した。鹵獲船では、砲手たちが一斉にギスヤンキ戦船へ照準を移す。
ダガズがサイラスを睨む。
「貴様、何をした!」
「君たちを先に足止めするよう勧めた。イリシッドにとっても、間違った判断ではないだろう?」
ノーチロイドの触手から、透明な粘液に包まれた投射体が放たれた。狙いはダガズではなく、レッド・ドラゴンの翼だ。ドラゴンが火炎を吐き、投射体を両船の間で焼く。中から飛び出した脳形の寄生体が炎に包まれ、銀の海へ散った。
ギスヤンキ戦船が反撃する。大型弩砲の矢が護衛艦へ突き刺さり、船殻を貫いた。スター・ランサーの騎兵は再び不可視となり、旗艦へ向かう。
不可視となった騎兵も、サイラスには見えている。
「右へ十五度。船首を下げろ」
複製体が命令どおりダーク・スターを動かした。船はギスヤンキ戦列とノーチロイドの中間へ滑り込み、すぐに高度を落とす。
直後、鹵獲船の弩矢とギスヤンキ船の砲撃が、直前までダーク・スターのあった空間で交差した。二本の矢は互いに当たらず、そのまま反対側の船へ届く。鹵獲船の矢がギスヤンキ船の帆柱を折り、ギスヤンキの矢が鹵獲船の舵翼を砕いた。
「なるほど。双方とも射撃訓練は悪くない」
サイラスは《星の冠》から一つを放った。光球は弧を描き、旗艦から射出された強襲艇の操縦者を撃ち抜く。舵を失った艇は回転しながら、ギスヤンキ戦船の側面へ衝突した。
強襲艇の口が開き、白い長毛に覆われたクアゴスの強襲兵がギスヤンキ船へ飛び移る。銀剣を抜いた兵たちが迎え撃ち、甲板で白い火花が散った。
左舷の下から、別の強襲艇がダーク・スターへ迫る。艇内には白い長毛がひしめき、船首の骨鉤がダーク・スターの船腹へ向けられていた。
「複製体、左舷を上げろ」
ダーク・スターが傾く。強襲艇の鉤は、捕獲時から亀裂のあった水晶翼の端へ刺さった。
サイラスは脇の伝声管へ口を寄せた。
「複製体、水晶翼の付け根を《分解》しろ」
船尾の窓から緑色の光線が走り、水晶翼の付け根を正確に消し飛ばす。切り離された翼端は強襲艇ごと船体から離れ、下方を通過していたギスヤンキのスター・ランサーへぶつかった。騎兵は寸前で飛び降りたが、乗騎は強襲艇と絡まり、護衛ノーチロイドの触手へ衝突する。
触手が反射的に両方を締め上げた。ダガズの部下がサイラスへ剣先を向けたが、彼は見もしない。
強襲艇がもう二隻、船尾へ回り込む。サイラスは透明な《力場の壁》をダーク・スターの後方へ斜めに展開した。
一隻目は壁に正面から激突し、船首を潰す。二隻目は回避しようとして進路を変え、追ってきたスター・ランサーの前へ出た。不可視の乗騎が強襲艇を角で貫き、そのまま船体を護衛ノーチロイドへ押し込む。
サイラスは三つ目の《予見》から、騎兵の槍が装甲の継ぎ目を貫く未来を選んだ。
スター・ランサーに乗るギスヤンキが、槍先をわずかにひねった。銀の穂先は護衛艦の外板を滑り、二枚の装甲の継ぎ目へ突き刺さる。内部から紫色の液体と細かな破片が噴き出した。
「その護衛艦は任せたよ」
サイラスの声が《言語会話》を通して騎兵へ届く。返事の代わりに、銀の槍が彼の方へ一度向けられた。騎兵は破口へ向き直り、そのまま内部へ突入する。
ダーク・スターの甲板下で、番犬が吠えた。
不可視の猟犬の声が船内へ響く。
「船尾に侵入者七。マインド・フレイヤー一、クアゴス六」
複製体が報告する。
「操船を続けろ。番犬が先頭を止める。残りが扉へ触れたら《火球》を使え。操舵室が焼けても構わない」
「了解した」
サイラスは船首を離れ、廊下へ向かった。彼の周囲では三体の鏡像が同じ歩幅で動き、残る六つの星が頭上を回っている。
角を曲がる前に、番犬の唸りと骨の砕ける音が聞こえた。通路へ入った先頭のクアゴスは、何も見えない場所から喉を噛み潰され、床へ倒れている。残る五体は壁際へ寄り、マインド・フレイヤーが中央を進んでいた。
敵の大きな白い目がサイラスを捉える。
精神爆砕が通路を走った。
《予知》が警告するより先に、サイラスは杖を上げている。完全には避けられない。衝撃が頭へ届き、視界が一瞬白くなる。それでも《空白の心》が損傷を退け、鍛えた精神が硬直を許さない。
マインド・フレイヤーは間合いを詰め、四本の触手を伸ばす。
最初の触手が鏡像を掴み、像だけが消えた。二本目も別の像を裂く。三本目が本体の顔へ迫る。
サイラスは《盾》を発動した。透明な防壁が触手を弾く。続けて《星の冠》から二つ目の光球を放ち、至近距離でマインド・フレイヤーの胸を撃ち抜いた。
敵が後退したところへ、不可視の番犬が横から噛みつく。牙は肩から胸まで深く入り、マインド・フレイヤーを床へ引き倒した。
サイラスは倒れた敵へ杖を向ける。
「君は研究材料としては面白い。けれど、ここで捕虜を増やすほど暇ではないよ」
《魔法の矢》が五本、杖先から飛んだ。光弾は触手の根元と両目へ分かれて命中し、マインド・フレイヤーの動きが止まる。
後方のクアゴス五体が一斉に突進した。
サイラスは《脈波》を放つ。通路を満たした衝撃が五体をまとめて押し返し、開いた乗り込み口から船外へ吹き飛ばした。命綱をつけていた二体は船腹へ叩きつけられ、ぴんと張った綱に吊られた。ほかの三体は強襲艇の甲板へ落ちた。強襲艇は骨鉤を外し、船尾の下へ退いていく。
操舵室の扉は無傷だった。複製体はヘルムから立たず、船を動かし続けている。
「左舷の護衛艦が沈黙。旗艦が本船へ接近中。ダガズのドラゴンは健在」
「触手が届く直前まで旗艦へ寄せろ。僕が移ったあとは、距離を三十メートル以上開けるな」
「接舷するのか?」
「君はここに残れ。旗艦が離脱した場合、船倉の航法核を《分解》しろ。情報の回収より、敵へ渡さない方を優先する」
「了解した」
複製体は本人と同じ顔で一度だけ頷き、視線を前方へ戻した。サイラスは返事を待たず甲板へ戻る。船首へ出る前に《鏡像》をかけ直す。残っていた一体の像が薄れ、三体の新しい鏡像が彼の周囲へ現れた。
護衛ノーチロイドの一隻は死せる神の肋骨へ船体を打ちつけ、ギスヤンキ騎兵が開いた穴から内部へ入っていく。もう一隻はギスヤンキ戦船と触手を絡ませ、互いの船体を引き裂いていた。
中央の旗艦だけが、ダーク・スターへ船首を向けている。ウリサリッドと二体のサイオニック使いは、増幅器から精神爆砕と念動の衝撃を送り、ダガズと追撃隊を押し返していた。下層の操舵者は航法核の信号を追い、旗艦をダーク・スターへ加速させている。
「思ったより早いね。少し興味が出てきた」
旗艦の触手が伸びる。
複製体がダーク・スターを急停止させた。触手の先端が船首の手すりを掠める。両船の距離が縮まり、ノーチロイドの開口部から腐った海水に似た臭いが届いた。
サイラスは《次元扉》を発動する。紫色の扉が甲板に開き、彼は三体の鏡像とともに踏み込んだ。
扉の向こうは旗艦の上甲板だった。
サイラスが現れた瞬間、増幅器の周囲にいた九人の船員が振り向いた。中央ではウリサリッドが増幅器へ両手を置き、左右のサイオニック使いとともに、ダガズのレッド・ドラゴンへ攻撃を送り続けている。その上を球形のマインドウィットニスが浮いていた。
六人のヒューマンがダガーを抜き、三人のドワーフがハンドアックスを振り上げる。号令はない。九人は四人に分かれて見えるサイラスを囲むように左右へ広がり、同じ歩調で距離を詰めた。
サイラスは動かなかった。前列の刃が鏡像へ届く直前、杖を横へ払う。
《脈波》が扇状に広がった。
前列のヒューマン三人は胸を打たれ、船縁へ背中から叩きつけられた。後続の三人は湾曲した外殻へ激突し、頭を垂れて崩れ落ちる。ドワーフ三人も甲板から足を離され、増幅器の基部と硬い肉襞へ転がった。九人は折り重なったまま動かなくなった。
頭上でマインドウィットニスの眼柄が一斉に開いた。色の違う光線が甲板を裂く。《予知》が軌道を先に示し、サイラスは半歩ずつ位置を変えた。一本が鏡像のあいだを抜け、精神を焼く一本は《空白の心》に阻まれる。
残る一本が肩へ突き刺さった。ブレストプレートの内側でスペルファイアーが白く灯り、魔力の一部を呑み込む。衝撃で長衣の裾が跳ねたが、サイラスは杖を下げない。
《星の冠》から三つ目の光球が離れ、マインドウィットニスの大眼の縁を焼いた。球形の怪物が眼柄を乱し、高度を落とす。
星光が大眼を捉えた直後、増幅器の前に立つ三体の頭部が一斉に動いた。ダガズへ伸びていた青い光が途切れる。三対の白い目が、倒れた九人の船員からマインドウィットニスへ移り、最後にサイラスを捉えた。
サイラスの《集団示唆》で押し込まれていた考えが、三体の精神から弾き出された。
ウリサリッドの怒りが、冷たい圧力となってサイラスの思考へ叩きつけられる。
【我らを欺いたな。航法核ごと、お前の脳を回収する】
「気づくのが遅いよ。もう少し早ければ褒めたんだけどね」
ウリサリッドが長い触手を扇状に開いた。増幅器の青い光がその背後へ集まり、精神爆砕を形作る──次の瞬間、サイラスはウリサリッドへ《迷路》を発動した。
細い光の線が長身の体を囲む。精神爆砕が放たれる前に、ウリサリッドの姿は別次元の迷宮へ消えた。怒りの思念が途切れ、増幅器の青い明滅が乱れる。
左側のサイオニック使いが白い目を見開いた。《念動力》がサイラスの胴を締め、甲板から引き上げる。同時に、右側のサイオニック使いが間合いを詰めた。伸びた触手が一体の鏡像を掴み、薄い光へほどく。
高度を落としたマインドウィットニスが眼柄を立て直した。新たな光が集まるより早く、サイラスは《星の冠》から四つ目の光球を放つ。星光が大眼を貫き、球形の体を甲板へ叩き落とした。肉の塊が増幅器の脚へぶつかり、眼柄が広がって動かなくなる。
右側のサイオニック使いが一歩退き、触手の先をサイラスへ揃えた。《幻の強制力》が意識へ食い込む。
増幅器とサイラスのあいだで甲板が裂けた。黒紫色の巨大な口が開き、何列もの歯が噛み合う。腐った息が吹き上がり、進路を塞ぐように口が左右へ広がった。
宙に固定されたまま、サイラスは《念動力》を使うサイオニック使いへ杖を向ける。
「僕を持ち上げるより、自分を守った方がよかったね」
《星の冠》から五つ目の光球が飛んだ。星光が左側のサイオニック使いの頭部を貫く。
締めつけが消え、サイラスの体が落ちる。《予知》が見せていた位置へ杖を引き寄せ、体をひねった。左手と片足から甲板へ着き、膝を深く曲げて勢いを逃がす。
幻の口が足元で閉じた。脚を噛み砕かれる感覚が走ったが、痛みは《空白の心》に遮られ、傷一つ残らない。サイラスは裂け目を調べず、歯の並ぶ場所へそのまま一歩を出す。
右側のサイオニック使いが触手を振り下ろす。触手は二体の鏡像のあいだを薙ぎ、本体のこめかみを掠めた。
サイラスは口の内側に見える甲板で立ち上がり、杖を水平にした。
《魔法の矢》が四本、右側のサイオニック使いの胸と肩へ続けて当たる。敵は増幅器の陰へよろめき、身を伏せた。黒紫色の口も輪郭を崩し、甲板の模様へ戻っていく。
増幅器の陰から、紫色の血が細く流れていた。サイラスは負傷したサイオニック使いを追わず、装置へ近づく。
青い増幅器は、三本の水晶柱と脳組織を束ねた導管で構成されている。ルーセント・エディクトに残っていた装置より新しい。中央の脳髄には十二本の銀針が刺さり、そのうち三本がダーク・スターの船倉へ信号を伸ばしていた。
サイラスは杖を増幅器の脚へ立てかけ、腰の工具差しから細い探針と小さな挟み具を抜いた。アーティフィサーの基礎訓練で覚えた手順どおり、左手の探針を導管へ当て、右手の挟み具で銀針の根元を順に揺らす。三本だけが、ダーク・スターの航法核と同じ間隔で脈打った。
赤い翼が上甲板を掠めた。
ダガズが鞍から飛び降り、折り重なった船員の死体を越えて増幅器の脇へ着地する。銀のグレートソードが振り下ろされた。
サイラスは探針と挟み具を放し、半歩だけ後ろへ下がる。刃は目の前を通り、増幅器の外殻へ食い込んだ。
「そこを退け!」
ダガズはグレートソードを引き抜き、増幅器へ向かう。
「壊すのは待ってくれ。仕組みを見ている」
「イリシッドの装置を研究するつもりか!」
「もちろん。未知の機構を前にして、何も見ずに壊す方が不自然だろう?」
「三息で終えろ!」
「五息欲しい」
「三息だ!」
「では、間を取って四息にしよう」
サイラスは落ちた探針と挟み具を拾い、増幅器へ向き直った。
増幅器の陰から、負傷したサイオニック使いが滑り出る。サイラスと向かい合うダガズの背後へ回り、触手を兜へ伸ばした。
サイラスには見えている。警告はしなかった。
ダガズが気づいたのは、触手が兜へ触れる直前だ。彼女は頭を下げ、グレートソードを逆手に返す。刃がマインド・フレイヤーの脇腹へ食い込む。それでも一本の触手が肩へ巻きついた。
サイラスは探針を導管へ当てたまま、挟み具で銀針を一本抜く。
抜けた針の穴から青白い光が弾けた。サイオニック使いのこめかみに浮いていた青い脈も同時に光り、体が硬直する。ダガズは触手を振りほどき、敵の首へグレートソードを叩き込んだ。紫色の頭部が甲板へ転がった。
ダガズがサイラスへ顔を向ける。
「最初から分かっていたな?」
「君なら処理できると判断した。実際、問題はなかった」
サイラスは挟み具で二本目の銀針を外す。
旗艦全体が震えた。ダーク・スターへ向いていた船首が右へ流れ、ギスヤンキ戦船と接触する。両船の側面が擦れ、装甲板が剥がれた。旗艦は横へ流れ続け、戦船から離れていく。
ダガズがグレートソードを振り上げる。
「時間だ!」
「僕の数え方では、まだ三息だよ」
サイラスは探針を最後の銀針の根元へ差し込み、挟み具で固定金具を半回転させた。三本の導管を走っていた紫色の光が逆流し、青い明滅が旗艦から周囲のノーチロイドへ広がる。
増幅器から、イリシッドの思念を模した命令が放たれる。
【航法核は旗艦内部にある。全船員と全強襲兵は旗艦へ集結せよ】
護衛艦と鹵獲船の強襲艇が一斉に旗艦へ向いた。白い長毛のクアゴスが乗り込み口へ押し寄せ、武器を持った船員も後に続いた。二隻の鹵獲船も船首を旗艦へ向けた。舵翼を失った一隻は大きく横滑りしながら、もう一隻の後を追う。ギスヤンキ騎兵は強襲艇と鹵獲船を追って旗艦へ集まった。数人は上甲板へ降り、別の一隊は船腹の破口から内部へ入った。
ダガズが接近する強襲艇を見て、サイラスへ顔を向けた。
「貴様……! 我が騎兵を誘導したな!」
「隷属者たちを呼び戻しただけだよ。君の騎兵は自分で追ってきた」
ダガズはすぐに左腕を上げ、ギス語で命令を飛ばす。
「全騎、旗艦から離脱! 船内班は最寄りの破口から退け! 回収班は船腹へ回れ!」
スター・ランサーが次々に旗艦から離れる。数頭は船腹へ回り、破口の前で速度を落とした。
サイラスは探針と挟み具を甲板へ置き、増幅器の脚に立てかけた杖を拾った。杖先を、二本の銀針を抜いて露出させた脳組織へ向け、《炎の矢》を発動する。
火線が脳組織を焼く。水晶柱に亀裂が走り、船体の奥から低い振動が返った。増幅器の明滅が速まり、旗艦の内壁に走る青い脈が一本ずつ弾けていく。
増幅器の脇に細い光の線が走った。ウリサリッドが《迷路》を抜け、上甲板へ戻ってくる。長い触手が開き、怒りに満ちた命令が船内へ広がりかけた。
「君は研究対象としては魅力的だ。ただ、持ち帰るには大きすぎる」
《星の冠》から六つ目の光球が飛び、ウリサリッドの胸を焼く。長身の体がよろめいた。ウリサリッドは増幅器へ片手を押し当て、乱れた明滅を押さえ込もうとする。
サイラスは最後の光球を放った。星光がウリサリッドの腕を貫く。長身の体が増幅器へ倒れ込み、手の下にあった水晶柱が折れた。青白い炎が装置の内側から噴き上がる。
サイラスは《力場の壁》を半球状に展開した。
透明な半球がウリサリッドと増幅器を包む。長い触手が内側から壁を叩くが、傷一つつかない。青白い炎が水晶柱を伝い、増幅器の中で圧縮された思念が脈打った。
サイラスは増幅器の明滅を数えた。
「崩壊まで十二秒」
ダガズはグレートソードを鞘へ戻し、旗艦下層へギス語の命令を飛ばした。
「船内班、退避を続けろ! 回収班、全員を拾え!」
甲板へ駆け上がった二人がスター・ランサーへ飛び乗る。船腹の破口からも銀色の閃光が続き、回収班が兵を一人ずつ乗騎へ引き上げていた。最後尾の一人が出る前に、破口が収縮して閉じる。
ダガズはレッド・ドラゴンの鞍へ跳び移った。ドラゴンは身をひるがえし、旗艦から離れる。
サイラスは《次元扉》を通ってダーク・スターへ戻った。残る二体の鏡像も彼とともに旗艦から消え、ダーク・スターの甲板へ現れる。
複製体が船を急旋回させる。旗艦から伸びた触手が船尾を掠め、水晶板を数枚剥がした。番犬が操舵室の前で吠え続けている。
「最大船速。死せる神の胸骨を遮蔽に使え」
「了解した」
ダーク・スターが加速する。
背後で旗艦が破裂した。
青白い思念の衝撃が球状に広がり、旗艦へ寄っていた強襲艇と二隻の鹵獲船をまとめて呑み込んだ。旗艦へ集められた船員とクアゴスは声も上げずに崩れ、退避が遅れたギスヤンキ騎兵もスター・ランサーごと銀の海へ投げ出された。
透明な半球だけが爆発の中に残り、その内側でウリサリッドと増幅器が焼けている。旗艦の殻が割れたところで、サイラスは《力場の壁》を消した。閉じ込められていた青白い炎と思念の衝撃が外へ噴き出し、残骸をさらに細かく砕く。
爆発の閃光がダーク・スターの船尾を照らす。その光の中で、サイラスの周囲に残っていた二体の鏡像が薄れ、消えた。
ダガズのレッド・ドラゴンは爆発圏を抜けた。左翼の端は焼けているが、姿勢を崩さず飛び続けている。二隻あったギスヤンキ戦船のうち、一隻は大きく傾き、もう一隻が曳航のために寄っていた。組み合っていた護衛ノーチロイドは船腹を割られ、触手を垂らしている。
ノーチロイド側で動いているのは、死せる神の肋骨に引っかかった護衛艦だけだ。小型の脱出艇が一隻、旗艦の残骸から離れ、銀の靄へ向かっている。
「脱出艇一。操縦席にイリシッド一体を確認した」
複製体が告げる。
脱出艇の操縦席は爆発で裂け、片腕を失ったイリシッドの上半身が露出していた。艇は残骸のあいだを縫い、銀の靄へ向けて速度を上げる。
サイラスは杖を上げた。《予知》が脱出艇の進路を一瞬先まで示す。彼は艇そのものではなく、艇が次に通過する空間へ《火球》を放った。
明るい火線が銀の海を走る。脱出艇がその地点へ差しかかった瞬間、火球が膨れ上がった。艇は回避する間もなく爆発の中心に呑まれ、船殻ごと砕けた。黒紫色の破片と炎に包まれた触手が旗艦の残骸へ降り注ぐ。
「記録を持ち帰られると面倒だからね」
ダーク・スターは死せる神の胸骨の陰で速度を落とした。船倉から精神航法核の拍動が続いている。旗艦の増幅器を壊しても、完全には沈黙していない。
ダガズのレッド・ドラゴンが追いつき、左舷へ並ぶ。騎士は鞍上から剣を向けた。
「航法核を渡せ!」
「その要求は最初に聞いたよ」
「イリシッドを呼ぶ遺物を持ち歩くことは許さん! 今ここで引き渡せ!」
「引き渡しには同意しない。ただし、処分には同意する」
サイラスは伝声管へ口を寄せる。
「複製体。船倉の航法核を破壊しろ。記録水晶は残せ」
「了解した」
複製体がヘルムから立ち、船倉へ消えた。ダーク・スターは胸骨の陰を惰性で進む。
数秒後、船倉から緑色の光が漏れた。《分解》が発動し、規則正しく続いていた拍動が止まる。
ダガズは目を細め、甲板へ上がってくる複製体を見る。本人と同じ顔をしているが、皮膚は白く、衣服の縁に霜がついていた。手には、航法核から抜き出した記録水晶がある。
彼女の剣先が複製体へ移る。
「こいつは精神汚染を受けていないのか?」
「僕の《似姿》だ。精神防御も万全さ。万が一汚染があれば、僕が責任を持って壊す」
「貴様の判断を信用する理由がない」
「信用は要らないよ。いま剣を振れば、何が起こるかだけ理解してくれればいい」
サイラスは声を荒らげない。ダガズの背後で、レッド・ドラゴンが喉を鳴らした。二隻のギスヤンキ戦船は損傷し、騎兵も数を減らしている。ダーク・スターの甲板にはサイラスと複製体が並び、操舵室前には不可視の番犬が残っていた。
ダガズは剣を下ろさない。
「貴様はイリシッドの隷属者共を旗艦へ呼び戻し、追撃した我が騎兵ごと爆破した」
「増幅器を壊すには、敵を一か所へ戻すのが早かった」
「我々を上手く利用したつもりか? 今ここで貴様の首を刎ねてもいいんだぞ」
「怖いこと言うねえ。僕はただ空いた航路を使っただけなのに」
サイラスはダガズの目を見たまま、声の高さも表情も変えない。ダガズのグレートソードに紫色の光が集まる。
《予知》が、剣を振り下ろした場合の軌道をサイラスへ伝える。彼は動かない。杖先に魔力が集まり、複製体は記録水晶を左手へ移した。レッド・ドラゴンが頭を持ち上げても、二人の視線はダガズから外れない。
ダガズの視線が複製体へ移り、次に傾いた自軍の戦船へ向く。
数秒後、剣の光が消える。
「次にイリシッドの遺物を利用した時は、貴様も標的にする」
「役に立つなら使う。君の許可は求めないよ」
ダガズは返事をせず、レッド・ドラゴンを反転させた。ギスヤンキ騎兵が損傷船の周囲へ集まり、残骸から生存者を回収している。ダーク・スターへ礼を述べる者はいない。サイラスも呼び止めなかった。
複製体が記録水晶を差し出す。
「旗艦から返った信号を保存した。ザリクシスまでの航路は断片的だが、復元できる」
サイラスは水晶を受け取り、光へ透かした。紫色の線が内部に走り、いくつかの星系座標へ枝分かれしている。旗艦の増幅器で見た水晶柱と導管の配置も、まだ鮮明だった。
「復元できるなら問題ない。操舵へ戻れ」
「了解した」
複製体は船尾へ向かう。サイラスは壊れた水晶翼と、死せる神の肋骨に残る船の残骸を見た。ギスヤンキの戦船は一隻が航行不能。スター・ランサーの群れには、少なくとも六つの空いた鞍がある。マインド・フレイヤー側は旗艦と護衛艦一隻、鹵獲船二隻を失い、残った一隻も肋骨に刺さったままだ。
ダーク・スターでは、水晶翼の片端が失われ、船尾の外板が剥がれている。船腹と操舵室には破口がない。
サイラスは杖の先で甲板を一度叩いた。停止していた木製の従者が動き出し、散った部品を拾い始める。不可視の番犬は操舵室前に伏せたまま、扉を見張っている。
「針路をザリクシスへ。旗艦の記録を使え」
伝声管から複製体の声が返る。
「了解した。ギスヤンキ艦隊との距離は?」
「取らなくていい。ギスヤンキはしばらく修理で動けない」
ダーク・スターの水晶翼が開く。船は死せる神の胸骨を離れ、銀の海へ船首を向けた。
背後では、ダガズのレッド・ドラゴンが損傷船の上を旋回している。正面には、逃げ切れなかったノーチロイドの残骸から紫色の液体が細い帯となって伸びていた。
サイラスは記録水晶を指先で回し、内部の航路を読み取る。ザリクシスへ向かう線は三本に分岐している。そのうち二本には偽の星系座標が挟まれ、残る一本だけが死せる神の影から先へ繋がっていた。
「なるほど。最後に一つくらいは、役に立つことをするじゃないか」
水晶を懐へ収める。
ダーク・スターは速度を上げ、ギスヤンキとマインド・フレイヤーの残骸を後方へ置いていった。