俺の幼馴染が俺の親友に寝取られました。社会的に抹殺するから今に見とけ。 作:αβ-アルファベータ-
【星400突破記念SS】 あの頃の春に。
──私立聖鳳学園中等部。
その校舎の屋上は、佐藤湊にとって唯一、世界のすべてを俯瞰できる場所だった。四月の柔らかい風は、どこか甘い匂いがする。
それは校庭の桜が散り、新緑が萌え始める時期特有の、生命の更新を祝う匂いだった。
「湊、またそんな顔して遠く見てるー!」
不意に背中を突かれ、湊はバランスを崩しそうになって笑った。背後には、午後の陽光を浴びて神々しいまでに輝く少女、水瀬結衣が立っていた。
彼女の髪は春風に揺れ、その瞳は澄み渡る空のように純粋だった。
「遠くなんて見てないよ。ただ、空がきれいだなと思ってただけ」
湊は言葉を選んで答えた。彼は幼い頃から、言葉の持つ重みを誰よりも理解していた。だからこそ、自分の心にある複雑な感情を、いつも平坦な言葉で覆い隠す癖があったのだ。
「もう! 湊はいつもそうやって、私を置いていこうとするんだから」
結衣は不機嫌そうに唇を尖らせたが、その表情には微かな甘えが混じっている。彼らは幼稚園の頃からの幼馴染だ。
お互いの家庭の事情も、好きな食べ物も、苦手なテストの科目も、すべて共有している。その関係は、もはや一つの生命体を半分に分けたかのような自然な結びつきだった。
湊にとって結衣は、ただの幼馴染という言葉では収まりきらない存在だった。
彼女が笑えば、世界から暗い影が消え去り、彼女が泣けば、世界のどこかで雨が降る。そう信じて疑わなかったほど、結衣という存在は湊の心の中心を占めていた。
「置いていかないよ。結衣が俺の隣にいてくれる限り、俺はどこにも行かない」
湊がそう言うと、結衣の頬がほんのりと桜色に染まった。その反応を見て、湊の心臓は激しく波打った。
——好きだ。
あの日、屋上でそう告白しようと何度決意しただろうか。しかし、湊は踏み出せなかった。
今のこの、傷つくことのない「幼馴染」という楽園の境界線が、あまりにも完成されすぎていたからだ。
この境界線を越えるということは、今の関係という美しいガラス細工を叩き割ることに等しい。湊は、自分の言葉が結衣を縛り、彼女の自由を奪ってしまうのではないかという、身勝手な怯えを抱えていたのだ。
「よう、佐藤! また屋上か? お熱いねぇ」
軽やかな靴音とともに、屋上の扉が開いた。そこに立っていたのは藤堂蓮。
学園のサッカー部のエースであり、誰からも慕われる、非の打ち所のない「ヒーロー」だった。
当時の湊にとって、蓮は目標であり、最高の親友だった。どんな時も前向きで、どんな失敗も笑い飛ばす蓮の強さに、湊は憧れに近い感情を抱いていた。
「蓮、お前もまたサボりか?」
「サボりじゃねえよ。先生の用事の帰りだ。……それより、お前ら二人、いつまでそんな距離感でいるんだよ? 見てるこっちがもどかしいぜ」
蓮は屈託なく笑い、湊の肩を強く叩いた。その笑顔はあまりに爽やかで、どこにも濁りがない。
少なくとも、中学生の湊には、その笑顔が後に彼の人生を狂わせる「演技」であるなど、想像できるはずもなかった。
「もう、蓮くんったら。湊くんはシャイなんだから」
「ハハハ、そうだな。佐藤は昔から、いざって時に腰が引けるんだよ」
蓮は湊を見下ろすように笑ったが、そこには軽蔑の色はなく、どこか「未熟な兄弟」を見るような慈しみさえ感じさせた。
湊は、自分が蓮に信頼されていることに深い喜びを感じていた。
自分のような、どこか陰があり、内向的な人間を、蓮のようなスターが認めてくれている。その事実が、湊の閉ざされがちな世界を大きく広げてくれていたのだ。
「佐藤、お前みたいな真面目な奴が、あんな可愛い幼馴染を独り占めしてるんだから、もっと自信持てよ。俺がお前の立場だったら、とっくにプロポーズしてるぜ」
冗談めかした蓮の言葉に、結衣は「もう、蓮くん!」と顔を真っ赤にして怒った。その楽しげな三人の時間は、いつまでもずっと続くような気がした。
誰も彼らを傷つけず、誰も裏切らず、ただ穏やかな時間が過ぎていく。湊は、この完璧な日々の中で、自分が最も安全で、最も幸福であることを知っていた。
◇◆◇
放課後の帰り道。並木道は夕日に焼かれ、彼らの影を長く引き伸ばしていた。
蓮は途中の交差点で、「部活があるから」と爽やかに手を振って去っていった。結局、残ったのは湊と結衣の二人だけ。
結衣は、湊の袖口を遠慮がちに握っていた。心臓が痛いほど鳴る。空気が振動する。
「ねえ、湊。……もし、明日世界が終わるって言われたら、湊は何をする?」
結衣の問いかけには、いつも少しだけ特別な意味が隠されている気がした。湊は並木道を歩きながら、夕日に照らされた彼女の横顔を盗み見た。
「たぶん、君とこうして一緒に歩いていたいかな。いつも通りに」
ありきたりな答えだったかもしれない。しかし、それが当時の湊にできる、精一杯の誠実さだった。
結衣の歩みが止まった。彼女は驚いたように湊を直視し、それから、今まで見たこともないような、ひどく儚げで、けれど慈しみに満ちた微笑みを浮かべたのだ。
「……そっか。よかった」
彼女の声には、安堵と、それ以上に深い「諦念」のようなものが混じっていた気がした。その時、湊は、今この瞬間こそが、自分が変わるべきタイミングだと直感した。
(……好きだよ、結衣)
心の中で何度も練習した言葉。喉元まで出かかった感情。あと一歩。あと一歩だけ踏み込んで、結衣の手をしっかりと握れば、すべては変わったはずだった。
だが、その瞬間。
「湊! 明日の課題の範囲、どこだっけ?」
蓮の声が、聞こえた。
蓮が部活を終え、わざわざ彼らを追いかけて戻ってきたのだ。
その輝くような笑顔と、湊に向かって手を振る姿を見た瞬間、湊の中の「境界線を越える勇気」は、また音を立てて奥底へと沈んでいった。
(まあ、明日でいいか)
明日。その言葉が、どれほど残酷で、どれほど甘美な毒だったか。
「湊くん、どうしたの?」
「……いや、なんでもない。ちょっと考え事をしてただけだ」
湊は笑って誤魔化した。
明日も、明後日も、この三人の関係は続くはずだ。蓮の笑顔があり、結衣の優しさがあり、自分はそれを守り続けていればいい。そう信じて疑わなかった。
彼らが歩く影は、あまりに長く、そして美しく伸びていた。夕日に照らされた並木道は、これから始まる地獄の入り口へと続いていたが、湊はそれを知る由もなかった。
あの日、踏み出せなかった一歩。
あの日、飲み込んだ「好きだ」という言葉。あの日、守ろうとしたはずの日常。
すべてが、佐藤湊を「怪物」へと変貌させるためのピースだったとしても。それでも、その夜の帰り道だけは、彼らにとって、これ以上ないほど温かく、透明な世界だったのだ。
彼らは明日が来ることを信じていた。決して裏切られることのない、永遠の明日が来ると——。