「…………」
男が薄らと目を開けると、目の前に巨大な塔が聳え立っていた。
青空の下、およそ1000mはあろうかという巨塔が、街の中心で直立していたのだ。
「……なんだ、ここは? R国か?」
先ほどまで彼は、あの男の手引きで悪魔王子とのショーめいた演出をセッティングし、それをもってあの男の王佐を務める『白鯨』の追放を目論んでいたはずだった。
だが辺りを見回せば、どうもここはR国という雰囲気ではない。それを証するように、R国人は基本的に白人種であるはずなのに、周囲を歩くのは黄色人種、地中海や中東系を含む白人種、黒人種と様々である。
「ふん、まあいい」
男は吐き捨てるように言うと、近くを通行していた男性の首根っこを突然掴んだ。
「わっ!? え、なっ……?」
「おい、お前。ここはどこだ? モスクワか?」
「は……? も、モスクワってどこですか?」
「…………」
男の明晰な頭脳は、相手のこの反応だけで現在の状況をあらかた解析した。
ここがR国ではないこと。自分はR国から別の場所に何らかの方法で移動したこと。少なくともここにいる人間は自身と同言語で会話ができること。自身は異邦人ではあるようだが、特別煙たがられたり敵視されるような身なり・身分ではなさそうなこと。その他多くの情報を瞬く間に導き出す。
「いいや、もういい。とっとと失せろ」
男は通行人の男性を無造作に解放すると、男性は「わっわっ」と言いながら体勢を崩し、やがてぶへっと悲鳴をこぼしながらコンクリート製の地面と接吻した。ボキッという音も聞こえたので歯か鼻骨が折れた可能性があるが、男にとってはどうでもよいことだった。
(事情はわからんが、俺はどうやら別の国か何かに来てしまったらしい。だが)
男は革ジャケットの内ポケットにしまっていたスマートフォンを取り出し、電波状況を確認するが、そこには圏外を示すバツのマークがあった。
(電波が通じていない。静虎や熹一、悪魔王子やボリス、あの男とも一切の連絡が取れそうにない……ということから見るに)
ここは異世界。そう結論づけるのが妥当である、と男は考えた。
(なぜ俺が、異世界に来ることになったのか)
原因だけなら思い当たる節はある。悪魔王子に己を痛めつけるよう仕組み、灘の秘技で一時的に己が身を仮死状態に持ち込んだこと。それが何らかの特異事象を引き起こし、現況を招いた可能性が高い。
(まあ、科学的にあり得るか否かはさて置くが……)
量子力学の観点から言えば、異世界転移なる現象が起こる確率はほとんどゼロに近い。男も創作物としての異世界転生というジャンルは目にしたことがあるが、当然そのようなモノを楽しむ感性は持っていなかったので、そこに関心を向けたことは一度たりともなかった。
「いずれにせよ、行動を起こさねば話にならんな」
男は非効率的な行動様式を常に嫌うわけではないが、基本的にはスマートに生きることを好む。どこへともなく歩き出した男の足は、まずは公共施設を目指していた。
⭐︎⭐︎⭐︎
「ほう。野蛮人の聖地と?」
「そう言われてはいますね」
男は市役所を見つけだすと、一直線に受付窓口へと向かい、この街に関すること、この世界の常識、そして個人的に気になっていた事物について窓口の中年市職員に尋ねた。外国人を装えば不審がられることもなかった。
「天空闘技場といったか。そこに行けば金を調達できるんだな?」
「勝てば、ですけどね。いえ、貴方は強そうですし200階も目指せるかもしれませんが……」
「200階には何があるんだ?」
「それが、詳しいことはあまり。ただそこから先は、物凄く強い人たちがいるらしいとか」
「ふん……そうか。知りたいことはおおよそ知ることができた、もう用はない」
男は淡白にそう言い残すと、くるっと踵を返した。
「あっ、もういいんですか?」
男は市職員の言葉に返事をすることもなく、街の中心に物々しく聳える塔───天空闘技場へと向かっていった。