「てめェか? これからおれにブチのめされて無様に死に晒すチンカスってのは」
2mを超す巨漢の男が、鬼龍を侮蔑の眼差しで見下ろしながら言う。
この男は195階の相手だ。このクラスとなると油の乗った世界チャンピオン級が多く、どの階であろうが人類トップクラスのファイターが立ち塞がるようなものだった。それゆえ灘の技を使わなければ確実な打倒は難しい相手も散見された。
「………」
「おれァな、カキンの軍学校を卒業してんだ! ベンジャミン=ホイコーロ様って知ってっか? 昔おれァ、あの人の私設兵候補にも選ばれたこともあんだぜェ!」
「…………」
「軍の仕事でむしゃくしゃした時はよう、いーっつもココに来ててめェみたいな粋がったボケカスをボコボコにしてんだ! 何たってここァ殺しも認められてるからなあ! 大抵一発ブン殴れば全員泡吹いて死ぬからおもしれえぜ!! ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!!」
「これ以上口を開くな、豚が」
「あ?」
「聴こえなかったか? 野糞の如き悪臭を発する豚畜生の貴様に、その汚らしい口を閉ざせと言ったのだ」
一瞬、場を包み込む沈黙。
「んだあ? てめェ……」
間を置いて、巨漢のこめかみに青筋が走った。
「おい、早く始めろ。この豚と一秒とて同じ空間に居たくない」
「あ……は、はい」
冷や汗を垂らす審判に鬼龍がそう命じた途端、ドンッ!! と弾頭が発射されたかのような衝撃音がフロア内に響き渡った。
鬼龍は目の端でそれを捉えると、反射的に灘の秘技を用いる。彼の双子の弟が最も得意とする一方で、鬼龍自身も高練度に修めている迎撃技。
(灘神影流)
鬼龍の雄々しき肉体が急に流麗な軌道を描いたかと思えば、ぶつかってくる物体を受け流すような体勢を取る。
(弾丸すべ)
ドゴォオオッッ!!!!
「うっ、ぐぅおおぉッ!!?」
しかし肉の塊をいなしきれず、ドガァアッ!! と壁に大激突する鬼龍。革のジャケットとシャツ二枚を隔てただけの背骨にはヒビが入り、五臓六腑に甚大なダメージが広がる。
「ぐ……ぬぅうううう…………!!!?」
鬼龍は激痛に震えながらも、辛うじて立ち上がる。
その目は依然として死んでいないが、誰がどう見ても巨漢の突進攻撃に苦しんでいるのは明らかだった。
「……すげえな。念に目覚めてもねえのに耐えるのかよ」
先ほどまで侮りと驕慢さに満ちていた男の声に、微かに尊敬の声色が混ざる。鬼龍にはその理由がわからない。
「な、何を……言っている…………?」
「いや、こっちの話だ。しかもおれァ強化系なんだがなァ……」
巨漢は首をゴキッゴキッと鳴らすと、改めて鬼龍に向き直る。その顔は笑っていない。
「でもまァ、効いたろ?」
「…………」
効いたどころの話ではなかった。目の前にいる男は、あの悪魔王子よりも高い攻撃力を誇っていた。トダーでも勝てるか怪しい剛力だ。
この男、これほどまでに強かったのか。灘の技も通用しないほどなのか。
鬼龍は相手の強さを評価しながらも、しかし先ほど聞こえた言葉───『念』『強化系』といったワードにも注意を向けていた。
だが今の鬼龍には情報が足りなすぎた。この世界に来たばかりなのに、独力でこの世界の新たな概念について答えにまで辿り着けるはずがない。他に思考のリソースを割きたいのもある。
従って鬼龍は、直接訊いた。
「念とは、なんだ?」
巨漢は目を細めて、しばし黙っていたが。
結局、
「てめェもすぐに覚えられるだろ」
一言、そう口にするだけに留まった。
「どういう意味だ」
「文字通りだよ。生きて帰れればの話だがなァ」
ニチャアと嗤う巨漢。腰を押さえながら、じりじりと動き出す鬼龍。
しかし、ちょうどそこで『ピ────ッ!!』とホイッスルの音が鳴った。
「あ?」
「なにっ……」
女性の審判が大慌てでリングの中に入ってきて、唐突に叫んだ。
「ちょ、ちょっとご両名! 落ち着いてください!!」
「いや、何を?」
真顔で問う巨漢。心底意味がわからないといった様子だ。
「あの……まだ私、試合開始のホイッスル鳴らしてません!」
「はァ?」
嘘だろ、と巨漢が鬼龍の方を向くが、鬼龍もホイッスルが鳴っていないことは知っていた。ただしばらく試合が続けられていたので、ほとんど公認のもと試合がとり行われているのかと思っていた。
「確かに、笛は鳴っていない」
「ま、マジかよ……」
巨漢は意図せずフライングをしただけのようだった。副審からもそれを伝えられると、試合を再スタートするため、巨漢はすごすごとリング外へと戻っていった。
しかしこの日、試合が行われることはついぞなかった。時間が18時に差し掛かるということで、職員の勤務時間との兼ね合いもあり、本試合は後日行われる方向で持ち越されることとなったからだ。
鬼龍としては九死に一生を得た形だ。
「けっ、おいてめェ! ぜってェ逃げんじゃねえぞ! わあったなァ!!」
そう巨漢に大声を浴びせかけられるが、鬼龍にとっては応答する義理も意気もない。
予想外に苦戦しかけたことで苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら、鬼龍は静かにその場を立ち去った。
(……この肉体で、辛酸を舐めることになるか………ちっ)