超超かぐや姫!♡ 作:匿名月人
2030年、6月――。
梅雨が明け、日を追うごとに次第に強くなる日差しがベランダの床を照り付ける。開け放たれた窓を介して、ジメジメとした熱気が部屋の中に吹き込んでくる。
参考書を捲る手を止め、頬にまで垂れてきた汗をぬぐいながらも、その目は問題集から離さない。絶え間なく動き続けるもう片方の手が、ノートにシャーペンで計算式を綴る。
今日はあと2時間でバイトに行く時間になってしまう。それまでに、この章を終わらせないといけない。
『それでね、そのときヤッチョは~』
置いてあるタブレットの中で、和服を着た少女が身体を左右に揺らしながら笑顔で話を続ける。
とんでもない速度で流れるコメントをチラリとみては、その中の幾つかを的確に拾い上げては話のネタとし、思わずクスリと笑ってしまうようなトークが部屋の中に流れる。
一歩間違えれば集中力を乱すノイズ。しかし、私――
ああ、部屋の中を推しの声が満たしていく……。
思わずにやけてしまう顔とは反対に、身体は休む間もなく矢継ぎ早に問題を解き進めていく。
ユーザー数の膨大な"ツクヨミ"の管理人として様々なお知らせやチュートリアルの案内などをしながらも自身は休む間もないくらいずっと配信だったり、ライブなどを頻繁に開催している。各種デバック作業は基本的にアシスタントロボットに任せているが、時折そういう作業を配信で行ったりもする。8000歳という設定にも信憑性が生まれるほどの、日々絶え間なく湧き出る無尽蔵のコンテンツで"ツクヨミ"を彩り続ける最先端の物語。それが、月見ヤチヨだ。あと分身もできる。
その正体は、やれ企業の合作AIだとか、政府が主導するプロジェクトの超高性能AI、有名配信者グループが全員で回しているガワなど、様々なバックボーンが噂されているものの、私個人はあまり興味がない。
たとえどんな存在であれ、ヤチヨがいなかったら。
安物の扇風機故の低速なのに無駄にうるさいウォンウォンという駆動音。ノートにシャーペンがカリカリと文字を刻む音。ペラリ、参考書を捲る音。カサ……とカーテンが風に吹かれて布が擦れる音。
そんな雑多の音の中でも明瞭に耳朶を打つ、風鈴のような心地よい涼しさすら感じれる推しの声に聴覚の全てを委ねながらも、気合いを入れるようにシャーペンを持つ手に力を籠めて問題集に向き合う。
プルルルル……プルルルル……
机の上に放り出されていた携帯が通知を受けて震え、その振動で参考書へと集中していた意識が浮上する。思っていたよりも集中していたようで、あれから1時間ほどが経過していた。
携帯は断続的に震えており、誰かから電話が来ているようであった。
もしかして、お母さんじゃないよね……いやでも、
――今でも彩葉はすぐに泣いて帰ってくると思ってます。甘ちゃんやから。
着信者が誰かを確認するために伸ばしていた手が宙で止まる。
母からの電話だったらどうしよう。そんな甘ったれな私の思いを見透かしたように、頭の中に声が響く。
母の言葉は、京都から離れて上京し、こんなに遠くに離れていても折に触れて耳に届いた。まるですぐ隣に立っているように鮮明に、そして何度も脳内でリフレインする。
いつだって、母の言葉は冷酷なほどに正しく、日常生活で躓くとき。困ったとき。どんな時でも、言われた言葉が脳裏をよぎり、そのたびに胸が苦しくなった。
そう、もっと。あの子よりももっと。全部完璧に頑張らないと、お母さんに――
『あ、それっ♪あ、よいしょっ♪』
画面の中のヤチヨが、軽快にドジョウ掬いの踊りを披露する。
まるで実際に見てきたかのように、妙に小慣れた様子ながらにも、ヤチヨらしさの感じれる可愛らしい動きを前にコメント欄の自称専門家たちも色めき立つ。
楽し気なその声に、頭の中で反響していた母の声がだんだんと薄くなる。いつの間にか胸を締め付けるような圧迫感はかき消され、息のし辛さはもはや感じなくなっていた。
……また、助けられちゃった。
最後に残った胸のつっかえを吐き出すように、長い一息をつく。
いつもありがとうございます。おかげで生きております、と配信のヤチヨと、神棚に御神体として飾っているヤチヨのアクリルスタンドに一拍一礼した後、電話を手に取り着信者を確認する。
電話の着信者には、実の兄の名前が表示されていた。
一応、家族だからと電話番号の登録はしていたものの、今まで一度も電話していなかった予想外の相手からの着信に少し瞠目してしまう。
色々あって勝手に気まずく思って避けてしまっていることから、応答のボタンを押すのを躊躇してしまう。だが、ここ数年会話もしていなかった相手、しかも家族である兄からの急な電話である。
急にかけざるを得なかった何か大事な用があったりするのかも、と思い電話を耳に当て、通話をつないだ。
『おう、彩葉。ちょっとええか?』
「……お兄ちゃんやん。どうしたん急に」
いつもの帝アキラとしての配信で聞く自信に満ちた声とは違う、ぶっきらぼうながらにも、相手を慮るような優しい声が携帯を通して聞こえてくる。
久しぶりの肉親の声。それと兄に対する複雑な感情故に言葉に詰まってしまうが、なんとか声を出せた。
『んー……いや、仲良くやっとるかなって』
「何の話?」
いや、ほんとに何の話だ。
まさか母のことではないだろう。仲良くやってるわけないことくらい兄なら知っているだろうし。
友達のことだろうか。それなら仲良くやってると答えるが、急に友達のことについて聞かれるなんてあまりにも脈絡が無さすぎる。祖父母と話してる訳でもないし。
そうしたら、兄が話しているのが誰のことなのか。ふと、脳裏にもしや――と少女の姿が浮かんだ。
『いや、静月急にそっちいったから。どうやろって』
「……え」
『ん?もしかしてまだ静月からなんも聞いてないん?言っとけって言ったのに……』
脳裏に浮かんだうっすらとした少女の姿が、次第に輪郭を帯び、いくつもの思い出を伴ってその姿を鮮明に映し出す。
どこにいくにも一緒だった子供の頃。2人で並んで歩くことが当たり前で、お互いがお互いのことを完全に理解しあっている。そう錯覚してしまっていた頃。
隣にいた静月は、いつだって私の手を握って、眩しさすら覚えるほどの綺麗な笑顔だった。
――ねえね。ウチ、いっぱい頑張ったで。やからな、もっと褒めてな?
――にいによりねえねのが好きや!優しいもん!
ねえね、ねえねと、あんまりにも私に懐いて甘えてる様子を見て、お父さんもお母さんも顔を見合わせて少し困ったように笑う。友達とサッカーをして、帰ってきたばかりのお兄ちゃんが、おしくらまんじゅうみたいにくっつきあう私たちを見て、呆れたように笑う。
静月を思い出すときにはいつも、そんな幸せと笑顔が溢れていたあの頃の情景が真っ先に浮かんだ。
そしてその度に、もう戻らない暖かさに、泣きそうなくらい胸が締め付けられていた。
『まぁ、面倒見てやってや。彩葉も知ってると思うけど、色々あったから俺も少し不安で――』
――彩葉。まだ泣いてるの?
『――彩葉?』
「あ、うん。わかった、まかせて。大丈夫、大丈夫だから」
『……静月となんかあったん?なんか、様子おかしいで?』
兄からの心配するような声に、我に返る。
流石は兄とでもいうべきか。自分に言い聞かせるように、大丈夫と答える私の言葉の裏側に宿る静月への複雑な思いを、どう誤魔化そうか考えている最中。ピンポーンと家のチャイムを鳴らす音が響いた。
「あっ、ごめん、ピンポン来ちゃった。切るで」
『ちょ、彩葉?いろ――』
これ幸いにと、誤魔化すように兄の制止を振り切って通話を切る。
ああ、そうだった。そういえばこの前、片側が完全に死んでしまったイヤホンを買い替えたから、それが届いたのかな。貧乏学生にはかなり苦しい買い物だったが、推しの声が片耳からしか聞こえないというのは私の生死に直結する由々しき問題だったので頑張って勇気を出したのだ。
電話の内容を頭の片隅に追いやってから、席を立つ。
自宅ゆえに少しだらけなさを出してしまっていた服の裾などを整え、玄関の扉に手をかける。
「は~い、少々お待ちくださいっと――」
――彩葉。いってらっしゃい。たまには帰ってきてな。
扉を開けた私の目に、刃のよう強烈な斜陽の鋭い光が飛び込んできた。
反射的にまぶたを閉じた後、光を遮るために額に手をかざすよりも前に、ふっと光が弱まったのを感じた。
その影の中で、確かめるようにゆっくりと目を開く。
――斜陽をその背に受け、私の前に立つ姿。
同じ髪色、同じ位置のなきぼくろ。私たちのおそろい。唯一違う、お父さん譲りの心身を預けたくなるような柔らかい垂れ目。
伏せられていたそれがゆっくりと動き、同じ色の瞳と目が合う。
最後に会った時から、あまり変わらない顔だち。
でも、背丈だけは少し伸びていて。少しだけ差のあったそれが、私とあまり変わらなくなっていた。先ほど脳裏に描いた姿が、本人を前に即座にアップデートされる。
予想外の展開を前に、思わず扉を開けた姿勢のままフリーズする私を前に、その瞳は細められ、口元はゆっくりと弧を描く。
「やっほ~彩葉♡来ちゃった♡」
「……うげ」
首を少し傾けて煽情的にほほ笑む静月。
久しぶりの再会に対して、喉の奥で濁ったような声が漏れた。