遺体の引き渡しと、ノルム騎士団による故郷の人々の火葬は、すべて滞りなく終了した。あとに残されたのは、灰が舞い散ったあとの冷たい静寂と、鼻腔にこびりついて離れない焦げた匂いだけだった。
一級魔法使いであるゲナウとメトーデに課せられた、この地での任務は完了した。あとは翌朝、大陸魔法協会オイサーストの北部支部へと戻る、ただそれだけの手筈となっていた。だが、すべてが終わったはずのその前夜。割り当てられた宿屋の一室に足を踏み入れ、木製の重い扉を閉めた瞬間だった。
「───ッ、ぐ、」
ずっと張り詰めていた、鋼のようだった緊張の糸が唐突に途切れた。それと同時に、胃の底からせり上がるような激しい吐き気がゲナウを襲った。視界が歪む。ゲナウはまともな思考を奪われ、よろめきながら室内の隅にあった木製のゴミ箱に飛びついた。
なるべく声を殺し、喉をかきむしるような衝動に耐えながら、とっさにそこへ胃の中のものを吐き下した。酸っぱい液体が喉を焼き、涙が視界を滲ませる。吐瀉物が底を叩く鈍い音が、静かな部屋にやけに大きく響いた。口元を袖で拭い、ゴミ箱の縁を掴んだまま、ゲナウは荒い呼吸を繰り返す。胸の奥が、焼けるように熱くて痛かった。失ったものが、あまりにも重なりすぎていた。
かつて背中を預け合った、誇り高き相棒の死。魔族の手によって無惨に蹂躙され、一人残らず命を奪われた故郷の人々。そして、かつてこの地で共に笑い合っていた、幼馴染みの姿。すべてが灰となり、もう二度と戻らない。一級魔法使いとして冷静であるべきだと、感情を殺してきたツケが、今になって身体の拒絶反応として現れていた。
『オレには、あんたがいい奴に見えるよ』
『お互い、長生きしようぜ』
不意に、あのシュタルクという名の若き戦士が口にした言葉が脳裏をよぎる。その不器用で、泥臭いまでの優しさに満ちた言葉に、一時的にせよ心が救われたのは事実だった。前を向くための免罪符を、彼からもらったような気さえしていた。だが、それでも。割り切れない泥のような感情が、どうしてもゲナウの胸の奥底に、どす黒く喉越しの悪い塊として居座り続けている。
「………何故ッ」
誰に向けてかもわからない呪詛が、夜の静寂に小さく消えた。
薄い壁一枚を隔てた隣の部屋で、メトーデはその異変を正確に察知していた。聞こえてきたのは、押し殺したようなくぐもった呻き声と、激しい嘔吐の気配。一瞬、彼女の動きが止まる。彼の元へ行くべきか、それとも気づかない振りをすべきか、迷いが脳裏をよぎった。
(きっと、拒絶される)
ゲナウという男のプライドの高さを知っている。他人に弱みを見せることを何よりも嫌う男だ。一級魔法使いとしての矜持が、部外者の立ち入りを拒むだろう。それでも───メトーデの身体は迷いよりも速く動いていた。考えるより先に部屋を飛び出し、廊下を駆け抜け、彼の部屋の扉を勢いよく開け放つ。
「ゲナウさん……!」
部屋に踏み込んだメトーデの目に飛び込んできたのは、レヴォルテ戦後に瀕死状態だった時と似た、衰弱した彼の姿だった。ベッドの端にぐったりと頭部を預け、力無く床に座り込んでいる。そのすぐ横には木製のゴミ箱が置かれ、そこから胃酸のツンとする特有の臭いが室内に漂っていた。
「来る、な……メトー、デ……ぐッ」
顔を伏せたまま、ゲナウが掠れた声で拒絶の言葉を絞り出す。しかし、その直後に再び激しい吐き気が彼を襲った。すでに胃の中には何も残っていないはずだった。それでも、内臓を雑巾のように絞り上げられるような激しい痙攣と、身体の内側からこみ上げる震えが止まらない。酸っぱい唾液だけが、無情に床へとこぼれ落ちる。メトーデは彼の拒絶を無視し、躊躇うことなくその足元へと歩み寄った。そして、小さく震え続ける彼の背中に、そっと手を伸ばして優しく摩さすり始めようとした。
「……ッ、ぁ、触るな……、来る、な……」
不快な脂汗に濡れた顔を歪ませ、ゲナウはなおもメトーデを拒もうとした。いつもなら周囲を威圧するはずの鋭い眼光は完全に光を失い、ただただ絶望の淵で溺れているようだった。すべてを失い、身も心もボロボロになった彼が目の前にいる。その凄惨な姿を前にして、メトーデは自分の無力さに胸が引き裂かれそうになっていた。背中をさすることさえ、今の彼女には許されない。そもそも、そんな生ぬるい慰めで、彼が今見ている地獄が消えるはずもないのだ。
(何とかしてあげたい。この人の苦痛を、一瞬でもいいからわたくしが代わりに引き受けたい)
その一心だった。狂おしいほどの義務感と、彼を救いたいという祈りにも似た衝動が、メトーデの理性を塗りつぶしていく。メトーデは、自らの衣服のボタンに震える手をかけた。一つ、また一つと、躊躇いなくそれを外していく。
「……わたくしを、“使って”ください」
震える声で告げると同時に、メトーデは床に座り込む彼の身体にしがみついた。
「貴方の“はけ口”でも、何でもいい。叩いても、汚しても、都合のいいおもちゃにしても構いません。だから、お願いです、一人で苦しまないで……」
衣服の隙間から覗く肌の温もりを彼に押し付けるようにして、メトーデは必死に懇願した。彼の地獄を少しでも引き受けるためなら、己の身をどう差し出しても構わなかった。
肌のぬくもりで、彼の身体を苛む寒さを、狂気を、少しでも紛らわせたかった。しかし、その祈りは無情にも遮られる。
「……ッ!」
ゲナウは片手に信じられないほどの拒絶の力を込め、メトーデの身体を強く突き放した。突き飛ばされたメトーデは、床の上で呆然と彼を見つめる。
「……馬鹿なことを、言うな」
ゲナウは自嘲するように、あるいは酷く悲しそうに歪んだ顔で、掠れた息を吐き出した。その双眸には、自己嫌悪と深い絶望が混ざり合っている。
「これ以上、俺に……何かを奪わせないでくれ」
その言葉が、メトーデの胸に深く突き刺さった。彼はこれ以上、誰も失いたくないのだ。たとえそれが、自らを慰めるための都合のいい“おもちゃ”の破滅であったとしても。自分のために誰かが傷つくことそのものが、今の彼の心をさらに擦り切らせるのだと、メトーデは理解した。彼を慰め、一時でもその地獄から救うことすら、自分には許されない。己の差し出した手すら彼を追い詰める刃になるのだと悟り、メトーデはただ、静かに涙を頬へと伝わせるしかなかった。
「何故……お前が泣く」
意味が判らない、といった様子で、ゲナウが虚ろな瞳でメトーデを見つめる。泣きたいのは、すべてを失って胃液を吐き散らしている自分のはずだった。それなのに、なぜ目の前の女がそれほどまでに悲痛な顔で涙を流しているのか、今の彼の疲弊しきった脳では理解が追いつかなかった。
「貴方の心が、これ以上ないくらい涙で溢れているからです。代わりに泣いてあげる事しか、今のわたくしには出来ません」
メトーデは涙を流しながら、真っ直ぐにゲナウを見つめてそう言った。
「代わり、だと……? 俺の苦しみが、お前に判るはずがないだろう……! ぅぐッ」
ゲナウは怒りを滲ませて言い返そうとしたが、再び強烈な胃の痙攣に襲われた。ゴミ箱に顔を伏せて吐き下す。何度も繰り返した嘔吐によって食道が裂けたのか、今度は吐瀉物の中にどす黒い血すら混じっていた。メトーデは胸を締め付けられながらも、一歩も引かずに言葉を紡ぐ。
「貴方の言う通り、苦しみを全て判ってあげる事など出来ません。それでもわたくしは、貴方の傍にいて、貴方を慰めたい……」
「自ら慰み者に、なろうというのか。それは俺を侮辱しているのと同じだぞ……ッ」
ゲナウは吐血を拭いもせず、激しい嫌悪を込めて言い放った。そんな安い感情で一時の慰めを得たところで、現実は何一つ変わりはしない。失った相棒も、故郷の人々も、幼馴染みも、何一つ戻ってはこないのだ。それが痛いほど判っているからこそ、彼はメトーデの差し出す救いを受け入れることができなかった。
「そうですね……わたくしは貴方を侮辱しようとしています。せめて今夜だけでも、わたくしに全てを委ねて下さい」
メトーデの瞳に宿る決意は、もう誰にも止められなかった。今の彼は心身ともに弱り切っている。一級魔法使いである彼女にとって、この至近距離から不意を突いて拘束魔法を効かせるのは、あまりにも簡単なことだった。
「───ッ!?」
ゲナウの身体が瞬時に硬直する。指一本動かすことすらできなくなった。
「やめろ、メトーデ……! 俺はそんなもの求めてなど」
拒絶の言葉は、唐突に途切れた。メトーデが自らの唇で、彼の口を完全に塞いだのだ。その瞬間、ゲナウの喉の奥から再びツンとした酸っぱい液体がせり上がってきた。しかし、メトーデは眉一つ動かさなかった。唇を重ねたまま、その苦く不快な液体を、迷うことなく自らの喉へと飲み込んだ。魔法使いとしての矜持も、男としてのプライドも、すべてを泥塗りにされる感覚。ゲナウは恥辱よりも凄まじい不快感が勝り、抵抗を試みるようにメトーデの下唇を強く噛んだ。
「……っ」
鉄の味が口内に広がる。それでも、メトーデは決して怯まなかった。唇から血を流しながらも、彼を引き離そうとはしない。それどころか、彼女はそのまま彼の頭部を優しく、しかし力強く包み込むようにして、両腕を回した。まるで、凍える子供を世界の悪意から守るかのように、ゲナウの頭(こうべ)を自らの胸へと抱き寄せた。
柔らかな胸の感触が、ゲナウの頭部に否応なく伝わってくる。並みの男であれば、その温もりに溺れ、目の前の女をそのまま貪り尽くしていたかもしれない。だが、ゲナウは違った。
「───ッ、ぅ、ぁ"……!」
ゲナウは全身の魔力を無理矢理に絞り出し、己を縛る拘束魔法に激しく抵抗した。強引に首を動かすと、彼はメトーデの白い首筋に容赦なく噛みついた。これ以上は狂った真似をやめろという、彼に残された唯一の、そして明確な意思表示だった。鋭い歯が皮膚を割り、じわりと血が滲む。本当は、彼女を傷つけるつもりなど毛頭なかった。だが結果として、己を救おうとする彼女を肉体的に傷つけている事実に、ゲナウの心は内側からボロボロに引き裂かれていた。だが、メトーデは首筋に走る激痛に眉をひそめることすらしなかった。それどころか、慈愛に満ちた笑みさえ浮かべて、彼の耳元で囁いた。
「いいのですよ、ゲナウ。わたくしのために心を痛めずとも。これはわたくしの身勝手な行為です。貴方に責任は何一つありません」
その聖母のようであり、同時に恐ろしく歪んだ献身の言葉。それがゲナウの張り詰めた最後の意地を、完全に打ち砕いた。ゲナウは、メトーデの首筋に噛みつくのをやめた。抵抗する気力も、拒絶する言葉も、すべてが彼の中から消え失せていた。ゲナウは代わりに彼女の肩へと力なく頭(こうべ)を預け、子供のように激しい嗚咽を漏らしながら、ただただ涙を流し続けた。声を押し殺すことすら、もうできなかった。
失ったもののあまりの大きさに、一級魔法使いという仮面が完全に剥がれ落ちていた。そんな彼を見て、メトーデはそっと拘束魔法を解いた。自由になった彼の全身を包み込むように、その優しい両腕でさらに深く、強く抱きしめる。ゲナウが彼女を抱き返すことはなかった。けれど、もう突き放そうともしなかった。ただひたすらに、彼女の温もりにされるがままになりながら、夜が明けるまで静かに泣き続けた。
───宿の木枠の窓から、昼が近い鋭い光が差し込んでいた。ゲナウはベッドの中でおもむろに目を覚ました。眩しさに眉をひそめながら上体を起こす。昨夜の悪夢のような出来事が一瞬で脳裏をよぎったが、身体は驚くほど軽かった。
「おはようございます、ゲナウさん。よく眠れましたか?」
すぐ横から、聞き慣れた落ち着いた声がした。見れば、メトーデがベッドの脇に置かれた椅子に、何事もなかったかのような澄ました顔で座っていた。上着だけ脱いでいたが衣服の乱れも一切なく、一級魔法使いとしてのいつもの端正な姿がそこにある。彼女はただ、昨夜の狂気など嘘だったかのように、いつも通り優しく微笑んでいた。
「ゲナウさんが目覚めるまで、オイサーストへの出発を遅らせてもらったんです。ちゃんと動けそうですか? 何なら、もう一日遅らせても……」
「いや、いい……動ける」
ゲナウはメトーデの言葉を遮り、ベッドからゆっくりと立ち上がった。昨夜あそこまで激しく泣き崩れたというのに、何故だか瞼の重みも、目の腫れも一切感じない。胃の不快感も完全に消え去っていた。メトーデが何か魔法を施したのだろう。彼女の多彩な魔法の才を考えれば、睡眠中に治癒魔法や腫れを引かせる処置を行ったことは容易に想像がついた。彼女の“身勝手”は、夜が明けてもなお続いていたのだ。ゲナウは、彼女に噛みついたはずの下唇と首筋に視線をやる。そこには、傷跡はおろか赤みすら残っていなかった。
「着替え、手伝いますね」
そう言うと、メトーデは甲斐甲斐しくゲナウの普段着を整え始めた。昨夜、あれほど激しく吐き散らしたにもかかわらず、室内のゴミ箱も、衣服も、吐き汚した跡は綺麗さっぱり消え去っている。メトーデは本当に底の知れない魔法使いだと、ゲナウは内心で息を漏らした。
「お腹、空いてませんか? 軽くスープくらいは入れておいた方がいいですよ」
メトーデの勧めに従い、二人は宿の食堂で軽く食事を済ませた。あれ程の過酷な嘔吐を繰り返したのだ。口にするものは、初めのうちは消化の良い軽い物でなければ、再び胃壁を刺激して吐き気を催してしまう。そこまでの体調管理すら完璧に念頭に置いている彼女に、ゲナウはもはや頭が上がらなかった。やがて手配された馬車が到着し、二人は乗り込んだ。車輪が砂利道を鳴らし、オイサーストの北部支部へと帰る道すがら、揺れる車内で二人はぽつり、ぽつりと短い言葉を交わす。
「……メトーデ」
「はい、何でしょう、ゲナウさん」
「昨夜のことだが」
ゲナウは視線を窓の外、遠ざかっていく滅びた故郷の景色へと向けたまま、重い口を開いた。
「? 何の事でしょう」
メトーデは小首を傾げてみせた。悪戯っぽく、けれど完璧な他人の顔をして、どうやら昨夜の出来事など最初からなかったかのように、知らない振りをしてくれるらしい。
「いや……何でもない」
ゲナウも少しだけ目元を緩め、それに応じる事にした。胸の奥底に澱んでいた、あのどす黒い絶望感が嘘のように晴れている。一級魔法使いとしての自分ではなく、ただの一人の人間として、泥をすべて吐き出させてくれた。これもやはり、彼女のあの異常なまでの献身のお陰なのだろう。だからこそ、一言だけは、男としてのプライドを捨ててでも言っておかなければならないと感じていた。
「色々済まなかった。それと……ありがとう」
直接目を合わせることはできなかった。ゲナウは気まずそうに視線を窓の外の流れる景色へと向けたまま、けれど素直に、その言葉を口にした。
「わたくしは何もしていません。お礼は不要ですが……そう言って頂けて嬉しいです」
メトーデは満足そうに微笑むと、さらに優しい声で言葉を続けた。
「どうかこれからも遠慮せず、わたくしに助けを求めて下さいね」
「……慰めも程々にな」
「ふふ……はい」
メトーデは鈴を転がすように、楽しげに笑った。馬車は日中の光の中を、オイサーストに向けて静かに進んでいく。失ったものは二度と戻らない。それでも、背中を任せられる新たなパートナーが隣にいる。その事実だけが、ゲナウの凍てついた心を、確かに前へと進め始めていた。
End