「あら? あそこにいるのはゲナウさんと……」
大陸魔法協会本部の中庭。燦々と降り注ぐ木漏れ日の中、メトーデは足を止め、遠目にその光景を眺めていた。視線の先には、一人の大柄な男。一級魔法使いのゲナウだ。いつも通りの険しい表情で、小柄な女性魔法使いと向かい合っている。二人は何やら、非常に真剣な様子で言葉を交わしていた。
「……あぁ、またか」
不意に、すぐ隣から気だるげな声が聞こえた。いつの間にかそこに佇んでいたのは、長い髪を生き物のようにうねらせた、ゼーリエの側近の一人───ゼンゼだった。
「またって、どういう事ですゼンゼさん?」
メトーデが小首をかしげて尋ねる。
「君はまだ一級魔法使いになって日が浅いから知らないだろうけど、ゲナウは割とモテるんだよ。黒金の翼を操る魔法《ディガドナハト》も相まってね。しかし致命的な事に、本人は全くの無自覚ときたもんだ」
「確かにあのディガドナハトは魅力的ですよね、ゲナウさんがより素敵に見えます」
メトーデは感心したように、そっと顎に手を当てた。漆黒の翼を広げて戦う彼の姿は、魔法使いとしての冷徹な強さと、どこか影のある美しさを引き立てている。
「何だメトーデ、君もゲナウに気があるのか?」
ゼンゼがじと目のまま、長い髪をわずかに揺らして問いかける。
「えっ? えぇっと……あ、女性の方が足早に去って行ってしまいましたよ」
メトーデは苦笑しながら、慌てて視線を中庭へと戻した。見れば、先ほどまでゲナウと真剣に話していた女性魔法使いが、顔を真っ赤にして早足にその場を立ち去っていくところだった。その背中には、明らかな落胆と悲しみが滲んでいる。
「いつもの事だよ。……ゲナウ」
ゼンゼがため息混じりに、中庭に一人残された大柄な男へと呼び掛けた。声をかけられたゲナウは、眉間のシワをさらに深くしながら、二人のいる回廊へとゆっくり歩み寄ってくる。
「また振ったのか」
ストレートに切り込むゼンゼ。しかし、ゲナウは心底不可解そうな仏頂面だ。
「付き合って下さいと言われただけで、仕事の話なら付き合うと言ったら勝手に去った」
「やはりな……ゲナウは女心の分からん奴なんだよメトーデ」
「あぁ、なるほど……」
ゼンゼとメトーデは、しんと静まり返った空気の中、示し合わせたように冷ややかな視線をゲナウへと向けた。向けられた本人は、何が悪いのか全く理解していない様子で、ただ不機嫌そうに腕を組んでいる。
「ゲナウさん、乙女心というのを勉強なさった方が良いんじゃありません?」
メトーデは困ったように眉を下げ、優しく、しかし確実に苦言を呈した。
「そんなものは知らん。私は与えられた仕事を全うするだけだ」
ゲナウは表情一つ変えず、事も無げに言い放つ。その頑なな態度に、ゼンゼは完全に呆れ顔を見せた。
「ほらこれだ、こいつは仕事と付き合ってるようなものだよ。これで何人女を泣かしてきたことやら」
「勝手に言い寄って勝手に去って行く女など知らん。仕事の邪魔だ」
ゲナウの痛烈な言葉に、メトーデは胸の前に手を当て、深く大きな溜め息をついた。
「ゲナウさんって、女性側の気持ちを考えた事もないのですね……」
「そんな無駄な事を考える暇があったら自分の為すべき事をするべきだ。……私は仕事に戻る」
完璧な正論のつもりなのだろう。ゲナウはそれ以上二人の言葉に耳を貸すことなく、踵を返した。大柄な体を翻し、黒い外套をなびかせながら、颯爽と自分の仕事場に向かって歩き去っていく。残された中庭の回廊には、ただ風が吹き抜けるだけだった。
「あの、メトーデさん、ゼンゼ様……」
背後から控えめな、しかしどこか弾んだ声がした。振り返ると、そこには先ほど中庭でゲナウと話していた女性魔法使いが立っていた。名をゾンネという。
「あぁ、ゲナウの奴がすまなかったね。代わりに謝罪しとく」
ゼンゼが長い髪を揺らしながら声をかける。
「お気の毒でしたね、ゾンネさん」
メトーデもまた、包み込むような優しい笑みを浮かべて彼女を労った。二人に気を遣われ、ゾンネは自身の燃えるような赤毛と同じくらい、顔を真っ赤に染めた。
「いえ、いいんです。これで三回目だし、顔も覚えてもらえませんし」
恥ずかしそうに視線を落とすゾンネの言葉を聞き、ゼンゼの目が一段と冷ややかに据わった。
「ふむ……後で軽く私の髪で首でも締めるか」
「ゼンゼさん、わたくしも拘束魔法でお手伝いしますよ?」
メトーデがふわりと微笑んだまま、恐ろしい提案を笑顔で上乗せする。
「や、やめて下さい。ゲナウ様を困らせないで……」
二人の不穏かつ本気度の高そうなやり取りに、ゾンネはさっきとは違う意味で顔を青ざめさせ、慌てて両手を振って止めるのだった。
「しかしこのままで良いのですかゾンネさん。顔も覚えてくれないなんて流石にゲナウさんったら酷すぎます」
メトーデは呆れたようにため息をつき、腰に手を当てた。
「そこなんですけどメトーデさん……あなたはゲナウ様の任務のペアとなる事が多いですよね」
「えぇ、それがどうかしましたかゾンネさん」
不思議そうに小首をかしげるメトーデに、ゾンネは羨望と、ほんの少しの恨めしさが混ざった視線を向けた。
「メトーデさんはいいですよね……ゲナウ様とペアを組めて。私はこれでも二級魔法使いなんですけど、一度しか組めた事がないんです」
「なる程、君は一度組んだだけで一目惚れしたと?」
ゼンゼが髪の隙間から鋭い視線を覗かせ、核心を突く。その言葉に、ゾンネの体温は一気に跳ね上がった。
「そうなんです、あの体格で黒金の翼を駆使して戦うお姿に見とれてしまって」
ゾンネは両手で顔を覆い、指の隙間から目を覗かせた。思い出すだけで胸が激しく高鳴っているのが、見ている二人にも伝わってくる。
「……なるほど。あの大男の無骨な戦いぶりに、そんな需要があったとはね」
ゼンゼは意外そうな声を漏らし、顎に手を当てて考え込んだ。
「素敵ですよね。彼の黒金の翼を操る魔法《ディガドナハト》は非常に合理的で、かつ前衛としての安心感は抜群です。……ただ、あの性格ですからね」
メトーデはクスクスと笑いながらも、恋する二級魔法使いの女性を値踏みするように見つめる。
「ゾンネさん。ゲナウさんはね、合理性の塊のようでいて、実はかなりの身内思いです。顔を覚えないのは、貴女に興味がないからではなく、単に戦場で守るべき相棒(ペア)としての認識がまだ薄いからですよ」
メトーデの言葉に、ゾンネが顔を覆っていた手をパッと離した。
「そ、それなら、どうすればゲナウ様に認識してもらえるでしょうか……!?」
「わたくしと、決闘をしましょう!」
メトーデはパチンと綺麗に指を鳴らし、満面の笑みで言い放った。
「「……え?」」
ゾンネとゼンゼの声が、完璧に見事なハモりを見せて重なった。
「わたくしを全力で負かした所を見せれば、貴女に気を持ってくれると思いますよ! ペアを組む頻度も上がるはずです!」
そのメトーデの唐突かつ大胆な提案に、ゾンネとゼンゼはしばらく呆気にとられていた。しかし、彼女たちの頭は二級と一級魔法使い。状況を冷静に分析し始めるうちに、段々と二人もその気になってくる。
「それはいい考えだ」
ゼンゼが腕を組み、真面目な顔で頷いた。
「しかし魔法協会本部でやると野次馬が煩いだろうからオイサーストの郊外でやるべきだな。ゼーリエ様にバレたら減点されかねない」
「はい、それなら思い切り暴れられます! メトーデさんを負かして、ゲナウ様に今度こそ振り向いてもらいますっ」
ゾンネの瞳に、先ほどまでの恥じらいは消え失せ、二級魔法使いとしての熱い闘志がパチパチと燃え上がった。
「ふふ、良い返事です。わたくしも手加減はしませんから、本気で来てくださいね?」
メトーデは優しく微笑みながらも、その魔力の波動をわずかにピリつかせる。かくして、一人の女性の恋路のために、一級二人と二級魔法使いによる極秘の“模擬決闘”がオイサーストの平原で幕を開けようとしていた。
「……ゲナウさん、オイサーストの郊外まで来て頂けますか?」
執務室で大量の書類と格闘していた彼に、メトーデは事も無げに声を掛けた。
「何の為に? 私は忙しい」
見事なまでの即答と拒否。しかし、メトーデはこれっぽっちもめげない。
「やはりここはゼンゼさんにお任せしましょう」
「ゼンゼだと?」
ゲナウが怪訝そうに眉をひそめた瞬間。
「……呼んだか」
執務室のドアが静かに開き、無数の長い髪をうねらせながらゼンゼが入ってきた。
「すまんがゲナウ、無理矢理にでも来てもらうよ」
「なッ」
ゲナウが身構えるよりも早く、ゼンゼの鋼鉄のごとき長い髪が瞬時にその大柄な身体を絡めとり、完璧に拘束した。
「何のつもりだ、離せ! 黒金の翼を展開されたいのかゼンゼ」
身動きを封じられたゲナウが、低く凄みのある声で脅しをかける。しかし、ゼンゼの表情は一切変わらない。
「脅しなどきかないぞ。そもそも側近同士が争ってみろ、ゼーリエ様が黙っていないからな」
「うぐ……」
ゼーリエの名を出され、ゲナウは返す言葉を失い唸った。これで見学者の連行は完了。メトーデは満足そうに微笑み、拘束されたまま宙に浮かせられるゲナウを先導するように、オイサースト郊外へと歩き出すのだった。
「……それで、どういうつもりだ。そこの女魔法使いは……誰だ」
郊外の決闘場所まで連れて来られ、ようやく拘束を解かれたゲナウは、服の皺を伸ばしながら忌々しそうに言った。そして、目の前に立つ赤毛のゾンネに、まるで今初めて会ったかのように冷ややかな目を向ける。
「ゲナウさん酷すぎですよ! 彼女は貴方に三回も告白してるのに!」
「そうだぞゲナウ、私の髪で首を締めるか?」
メトーデとゼンゼからの容赦のない非難がゲナウに浴びせられる。
「いえ、いいんですお二人共……。私を毎回忘れるゲナウ様もそれはそれで好きです」
頬を赤らめながらモジモジと呟くゾンネ。
「何て健気な……! ゾンネさん、なでなでしてあげます!」
「意味が判らんのだが」
愛おしさに耐えかねてゾンネを抱きしめ頭を撫で回すメトーデと、完全に置いてけぼりを食らって眉間をこれ以上ないほどに険しくするゲナウ。
「つまりだゲナウ、今からここで一級と二級魔法使い同士のメトーデとゾンネがお前を賭けて決闘をする。それを見届けろ」
ゼンゼが淡々と、しかし決定的な事実を告げた。
「……は?」
さすがのゲナウも、今度ばかりは呆然とした声を漏らし、目の前の狂った状況を理解しようと硬直する。しかし、それを待つことなく、メトーデとゾンネは互いに距離を取り、杖を構えて戦闘態勢に入った。
「始め!」
ゼンゼの冷徹な号令が平原に響いた瞬間、ゾンネから膨大な魔力が爆発的に膨れ上がった。
「ゲナウ様ーー! 私は貴方のことが、死ぬほど大好きですーーーっ!!」
恋の叫びと共にゾンネが杖を突き出す。放たれたのは、大気を一瞬で沸騰させ、空間すら歪ませる極大の熱線魔法だった。直線上の地面がドロドロに融解し、赤黒いマグマの溝を作りながらメトーデへと迫る。
「あらあら、凄まじい威力ですね!」
メトーデは驚きつつも、素早く障壁を展開し、さらに幾重もの防御魔法を重ねる。しかし、ゾンネの恋心という名の火力は凄まじく、メトーデの障壁を次々と焼き砕いていく。メトーデは本来、あらゆる系統の魔法を器用に操る多才な一級魔法使いだ。攻撃、防御、精神魔法、さらには回復までこなす。
だが、今の彼女の動きにはどこかキレがなかった。ゾンネを勝たせるため、無意識に、あるいは意図的に手加減をして押し込まれている。じりじりと後退するメトーデ。それを見つめる観客席(ただの岩場)のゲナウは、眉間のシワをさらに深くしていた。彼は合理主義の塊であり、戦いにおける妥協や不合理を何よりも嫌う男だ。メトーデの不自然な劣勢の理由を、彼が見逃すはずがなかった。
「おいメトーデ!」
ゲナウの怒声が決闘場に割り込む。
「いつものお前らしい強みはどうした。対人戦における搦め手、多種多様な手数の多さ……それがお前の戦い方だろう! わざと負けようとしているなら許さんぞ! そんなくだらん真似は一級魔法使いへの侮辱だ!」
「……!?」
ゾンネが「えっ、私のために怒ってくれてる!?」と一瞬顔を輝かせたが、それは勘違いだった。ゲナウはただ、目の前で行われている不真面目な戦闘に腹を立てているだけだ。しかし、この言葉はメトーデの一級魔法使いとしてのプライドに火をつけてしまった。
「……ふぅ。ゲナウさんにそこまで言われてしまっては、仕方がありませんね」
メトーデの目が、すっと冷ややかな魔法使いのそれに変わる。直後、彼女の魔力の質が一変した。
「ゾンネさん、ごめんなさい。わたくし、プロの魔法使いですから、戦いにおいて“手を抜く”というのが一番の屈辱なんです」
メトーデの杖から、目まぐるしいほどの魔法の連鎖が始まった。熱線を真っ向から受け止めるのではなく、強力な風魔法で軌道を僅かに逸らし、同時に泥の魔法でゾンネの足場を奪う。バランスを崩したゾンネの視界を、今度は目眩ましの光魔法が遮った。
「しまっ───」
ゾンネが気づいた時には、背後に回り込んだメトーデの杖先が、彼女のうなじにピタリと突きつけられていた。
「そこまで」
ゼンゼの声が響く。本気を出したメトーデの、圧倒的な手数と戦術の前に、ゾンネは手も足も出ずに敗北してしまった。平原に静寂が訪れる。ゾンネは、メトーデの強さに圧倒され、そして「ゲナウ様のために勝てなかった」という事実に、その場にへたり込んでしまった。
「……負け、ました……」
ゾンネはぽつりと呟き、その場に崩れ落ちた。ゲナウへの愛を叫び、あれほどの魔力を込めた熱線を放ったというのに、本気を出した一級魔法使いの前には届かなかった。「ゲナウ様に良いところを見せる」という目的を果たせず、悔しさと情けなさで、ゾンネの目から大粒の涙がポロポロと溢れ出す。
「ううっ……ゲナウ様ぁ……」
両手で顔を覆って泣きじゃくるゾンネ。その頼りない背中に、硬く重い足音が近づいてきた。見上げると、そこにはいつものように険しい表情で腕を組んだゲナウが立っていた。ゾンネは「不甲斐ない戦いをして呆れられた」と思い、さらに身を縮める。だが、ゲナウの口から出たのは、予想もしない言葉だった。
「……おい、いつまで泣いている。立て」
ゲナウはふいっと視線を逸らし、不器用な口調で続けた。
「……だが、最初の熱線の威力と、一級魔法使いを追いつめた練度は見事だ。お前ほどの火力を扱える魔法使いはそういない。……ゾンネ、だったな。よくやった」
「ひゃいっ……!?」
ゾンネは涙で濡れた顔を跳ね上げた。ゲナウが、初めて自分の戦力を認めてくれた。それどころか、いつも「おい、そこの」としか呼ばなかった彼が、初めて自分の“名前”を呼んでくれたのだ。
「ゲ、ゲナウ様が……私の名前を……っ!」
一瞬で涙が引っ込み、ゾンネの顔がパッと文字通り薔薇色に染まる。しかし、その感動の余韻をぶち壊すように、ツカツカと激しい足音を立ててメトーデが詰め寄ってきた。彼女はむっとした表情で、ゲナウの胸元を指差す。
「ちょっとゲナウさん! ゲナウさんが余計なことを言うから、ゾンネさんが泣いちゃったじゃないですか! 乙女の純情をなんだと思っているんですか!?」
「……俺はただ、一級魔法使いとして不誠実な戦い方をするお前に喝を入れただけだ。結果としてゾンネの練度の高さも証明された。何が問題だ」
「大問題です! わたくしは優しく丸く収めようとしていたのに、台無しですよ!」
勝ったはずのメトーデに理不尽に責め立てられ、ゲナウは心底迷惑そうに眉間を揉む。ゾンネはゾンネで、「ゲナウ様に名前を呼ばれた」という事実だけで脳内麻痺を起こし、幸せそうな顔でふらふらと立ち上がっていた。そんな三人の様子を、髪を弄りながら静かに見ていたゼンゼが、感情の読めない声で淡々と言い放った。
「やれやれ、結局メトーデの勝ちか。では約束通り、ゲナウはメトーデの“モノ”だな」
「……はッ?」
ゲナウの動きがピキリと止まる。
「えっ!?」
ゾンネの脳内ハッピー空間が一瞬で吹き飛んだ。
「ちょっと、ゼンゼさん!?」
メトーデまでもが目を丸くする。ゼンゼは悪びれる様子もなく、冷淡な口調のまま、さらに話をややこしくしていく。
「何を驚いている。この決闘は、勝者がゲナウの“所有権”を得るというルールだったはずだ。一級だろうが二級だろうが魔法使いたるもの、規律と約束は絶対。ゲナウ、今日からお前はメトーデの私物だ。好きに可愛がられるといい」
「待てゼンゼ! そんな不条理な約束など俺は認めんぞッ!」
ゲナウが声を荒らげるが、ゼンゼは完全に無視して「私は報告書を書かねばならんのでね」とその場を去った。
「な、ななな、なんですってぇーーーっ!?」
ゾンネの絶叫が平原に響き渡った。ゲナウ様に名前を呼ばれて天国にのぼった直後、まさかの「ゲナウ様がメトーデのモノになる」という地獄の宣告。ゾンネの目に、先ほどとは違う嫉妬と執念の炎がメラメラと燃え上がる。決闘は終わったはずなのに、ゾンネの周囲の空気が再び熱線魔法の予兆で歪み始めていた。
「仕方ありませんね……。ゼンゼさんがそう言うのなら、一級魔法使いの規律として従わなければなりません」
メトーデはわざとらしく深いため息をつくと、いたずらっぽく微笑んだ。そのまま、まだ状況についていけていないゲナウへと、躊躇なく歩み寄る。
「ではゲナウさん、まずはハグから始めましょうか。これから毎日、たくさん可愛がってあげますね?」
「おい、よせ……! 離れろメトーデッ」
ゲナウが真顔で後ずさりするのも構わず、メトーデは彼の腕にぎゅっと抱きついた。それどころか、わざとゾンネに見せつけるように、ゲナウの胸元に頬をすり寄せ、クスクスと楽しそうに笑ってみせる。その光景を見たゾンネは───
「あ……ぁ、あ……」
激しい嫉妬の炎で爆発するかと思いきや、彼女の頭の中で、何かがプツンと切れた。あまりの衝撃と精神的ダメージの大きさに、感情のキャパシティを完全に超えてしまったのだ。限界まで燃え上がっていた彼女の恋の魔力は、一瞬で一滴残らず消え失せた。
「ゲナウ様に……名前を呼ばれて……。その直後に、メトーデさんの……私物……。あはは、私、何のために戦っていたんだろう……」
完全に燃え尽き症候群(バーンアウト)に陥ったゾンネの目は、ハイライトが消え失せて完全に虚無を映している。
「もういいです……。私、実家に帰ります……。お幸せに……」
ゾンネは幽霊のようにふらふらとした足取りで、誰の言葉も耳に入らない様子で、トボトボと一人で勝手に帰っていってしまった。
「おい、ゾンネ!? 待て、お前は勘違いをして───!」
ゲナウが引き留めようとするが、ゾンネの耳にはもう届かない。彼女の背中は、絵に描いたような敗北感と虚無感に包まれていた。ゾンネの姿が完全に平原の彼方に消え去ったのを見届けると、メトーデは「ぷっ」と吹き出し、ゲナウからすっと体を離した。
「……ふぅ。行ってしまいましたね」
「メトーデ、お前という奴は……! 悪ふざけが過ぎるぞ。ただでさえややこしい事態を、これ以上引っかき回してどうするッ」
心底呆れ果てたように怒るゲナウに対し、メトーデは杖を弄びながら、少しだけバツの悪そうな、しかしどこか満足げな笑みを浮かべた。
「ふふ、ごめんなさい。でも、半分はゲナウさんのせいですよ? わたくし、本当は最初、どう戦うべきかすごく葛藤していたんですから」
「葛藤だと?」
「ええ。一級魔法使いとして、本気を出して二級のゾンネさんを完膚なきまでに叩きのめすのは、大人のすることじゃないって。だから、わざと負けてあげるのが正解なのかしら、なんて考えていたんです。……でも、心のどこかで、そんな不誠実な戦い方をする自分が嫌でたまらなかった」
メトーデはゲナウの目を真っ直ぐに見つめた。
「そこに、ゲナウさんがいつもの調子で活を入れてくれたでしょう? 『わざと負けようとしているなら許さん』って。あの言葉のおかげで、わたくし、迷いを捨ててプロとして本気を出せたんです。そこは感謝しているんですよ?」
「……俺はただ、規律に反する戦い方が気に入らなかっただけだ」
ゲナウは仏頂面で腕を組んだ。だが、メトーデはそんな彼の頑なな横顔を見つめながら、さらに距離を詰め、耳元で小さく囁いた。
「それにね、ゲナウさん。もう半分は……本当のところ、わたくし以外の女性に、ゲナウさんが取られてしまうのが、どうしても嫌だったんです」
「な……ッ」
「だから、絶対に負けられなかったのです。ふふ、これでも結構、独占欲が強いんですよ?」
そう言って、メトーデは悪戯が成功した子供のように、最高にチャーミングに微笑んだ。さすがのゲナウも、ゾンネの猛アタックには動じなかったものの、メトーデのこの確信犯的な大人の告白には、言葉を失ってわずかに頬を染めるしかなかった。
End