一級魔法使いメトーデの人生において、男という生き物は、おおかた単純で、ひどく扱いやすい地上の動物に過ぎなかった。街を歩けば、すれ違う男たちの視線が面白いほどに突き刺さる。彼女の少し癖毛のある豊かで艶やかな長い髪、青紫の深く理知的な瞳、そして何より、歩くたびに流麗な曲線を揺らす抜群のスタイル。才色兼備という言葉は、まさにメトーデのためにあるかのような完璧さだった。
「美しい方、もしよろしければ、あちらの店でお茶でも……」
声をかけてくる男のあしらい方など、数え切れないほど心得ている。メトーデは唇の端をふっと和らげ、大人の余裕を湛えた完璧な微笑みを返した。
「お誘いはとても嬉しいです。けれど、これから大事な魔導書の整理がありまして。また、ご縁があれば」
それだけで、男はそれ以上の追及を諦め、むしろ彼女の丁寧な物腰にさらにのぼせ上がって去っていく。事実、メトーデはそれなりに男を経験してきた。恋のような駆け引きを楽しんだこともある。だが、心からその魂を捧げ、愛した男など、今までただの一人として存在しなかった。強いて彼女の完璧な人生に“おかしな点”を挙げるならば、それは男関係ではない。
自分よりも小さくて、愛らしくて、撫で回したくなるような女の子(例えばゼーリエやフリーレンのような)に対して、異常なほどの執着と庇護欲を抱いてしまうことくらいだろう。男たちは、彼女の完璧な美貌に一目惚れし、勝手に憧れ、勝手に破れていく。メトーデにとって男とは、手のひらで転がすだけの、退屈な遊具のようなものだった。───そう、あの、冷徹で不器用な男と出会うまでは。
一級魔法使いの先輩であるゲナウという男だけは、これまで出会ってきたどの男とも決定的に違っていた。きっちりと七三に分けられた髪に、常に無愛想。大柄で頑強な体格は、お世辞にも世間一般の“洗練されたいい男”とは言い難い。だが、メトーデの鋭い瞳は、任務を共にするたびに彼の一挙手一投足へ吸い寄せられていった。ゲナウは、メトーデを“女”として絶対に見てこない。どれほど彼女が美貌を輝かせようとも、抜群のスタイルが強調される身のこなしをしようとも、彼の瞳には業務的な色彩しか浮かばない。
声をかける時も、内容は常に戦況か移動効率の話だけ。淡々と、冷徹に、仕事のパートナーとしての距離を保ち続ける。戦闘になれば、その徹底ぶりはさらに際立った。ゲナウは窮地のメトーデをわざとらしく庇うような真似はしない。ただ、己の黒金の翼を操る魔法《ディガドナハト》を静かに展開し、襲い来る魔族や魔物を一撃のもとに屠るだけだ。
「ゲナウさん、お怪我を。わたくしの女神様の魔法で……」
戦闘後、かすり傷を負った彼の腕にメトーデがそっと手を伸ばそうとした時だった。
「不要だ。これしき傷のうちに入らん。魔力は次の戦闘に温存しろ」
ゲナウは一瞥もくれず、その手を冷たく払った。徹底して彼女の手を借りようとせず、甘えを許さない。これまでの男たちなら、彼女が触れようとするだけで、顔を赤くして喜んだというのに。向けられるのは、完璧なまでの無関心。女としてのプライドを粉々にされるようなその冷遇が、皮肉にも、メトーデの胸の奥に燻る独占欲に火をつけていた。───この男を、私の手で揺さぶってみたい。そう思わせた男は、後にも先にも、彼しかいなかった。
夜も更けた深夜の執務室。静まり返った部屋の奥で、ゲナウはまだ机に向かい、山積みの書類を前にペンを走らせていた。そこへ、気配もなく扉が開き、メトーデが静かに姿を現す。夜の闇の中でも、彼女の艶やかな髪と整った容姿は、まるで一輪の美しい花のようだった。
「まだお仕事をなさっているのですか、ゲナウさん。そろそろお休みになっては?」
メトーデは形の良い唇を緩め、慈愛に満ちた声をかけた。しかし、ゲナウは書類から目を離すことすらしない。
「それはこちらの台詞だ。お前はさっさと自分の部屋で休め。明日も早い」
突き放すような冷たい声。いつものメトーデなら、ここで男の扱いを諦めるか、あるいは軽くあしらって立ち去るところだ。しかし、彼女の心にはすでにゲナウという男への執着が根を張っている。
「あらあら、貴方のお身体が心配で様子を見に来たのですけど……」
メトーデは困ったように眉を下げてみせ、手にしたトレイを掲げた。
「美味しい紅茶を淹れるので、休憩なさっては?」
「………」
ゲナウはわずかにペンを止め、メトーデの手元を見つめた。いつもなら“不要だ”と一蹴するはずの彼が、珍しく躊躇するような沈黙を落とす。やがてゲナウは短くため息をつくと、椅子から立ち上がり、部屋の隅にある休憩スペースのソファへと腰掛けた。メトーデは、内心で小さな勝利の笑みを浮かべる。彼が実は紅茶好きであることは、事前に把握していたのだ。
「どうぞ、ゲナウさん」
うやうやしく差し出されたカップを受け取り、ゲナウはそれを静かに口にした。ふわりと上質な茶葉の香りが執務室に広がる。鉄壁だった彼の表情が、ほんの少しだけ緩んだのを、メトーデの鋭い瞳は見逃さなかった。
ゲナウが静かに紅茶を飲み終えようとした、その時だった。それまで向かいのソファに座り、黙って彼の様子を観察していたメトーデが、音もなく立ち上がった。そして、あろうことかゲナウの真隣へと滑り込むように腰掛けた。至近距離から漂う、男を惑わす甘い香り。ゲナウの頑強な身体が一瞬だけ、硬直するように反応した。だが彼はすぐに感情を押し殺すと、空になったティーカップを長テーブルに置き、その場から立ち上がろうとする。しかし、その瞬間をメトーデは見逃さなかった。
「………ッ」
引き留めるように、彼女の白い手がゲナウの腕を強く引く。
「……何をする」
「ゲナウさん、もっといい休憩をしませんか?」
不敵に微笑むと同時、メトーデはゲナウの大柄な身体を、およそ女性のものとは思えない力でソファへと押し込んだ。ドサリ、と鈍い音が響く。大柄なゲナウの身体が、幅のあるソファへ仰向けに押し倒されていた。
「……どういうつもりだ」
見上げる形になったゲナウの顔が、無愛想を通り越して、一層の不機嫌さに染まる。その瞳が、鋭くメトーデを射抜いた。普通の男なら、この体勢だけで完全にのぼせ上がり、彼女の意のままになっていただろう。だが、ゲナウはあくまで冷静に、そして警戒を孕んだ目で彼女を睨みつけている。ゲナウは知らない。メトーデが密かに《己の筋力を一時的に高める魔法》を発動させていたことを。完璧な才色兼備であり、搦め手も、そして強引な手に出る度胸も持ち合わせている。馬乗りになるような格好で彼を組み伏せたメトーデは、勝ち誇ったような、それでいてどこか妖艶な笑みを浮かべ、じっとゲナウの顔を見つめ返した。
「わたくしがもっと、いい休憩の仕方を教えてあげようというのです」
メトーデは妖艶に微笑むと、身につけていた上着を躊躇いなく脱ぎ払った。薄い肌着一枚になった彼女の身体からは、磨き抜かれた豊満な胸元の谷間が露わになる。深夜の静寂のなか、白い肌が執務室のわずかな明かりに照らされて、眩いほどに浮かび上がった。しかし、ソファに押し倒されたゲナウの瞳に、狼狽の硬直はあっても、溺れるような色はない。彼は至極冷静な声のまま、低く言葉を紡いだ。
「……ここは執務室だぞ。自分が何をしようとしているか判っているのか、メトーデ」
「勿論ですとも」
メトーデは臆するどころか、さらに顔を近づけて囁く。
「だからこそ、限界まで根を詰めている今の貴方には、気持ちの良い休憩が必要なのです。ご安心下さい、執務室の鍵なら、さきほど魔法で強力に掛けておきましたから」
逃げ場を塞いだことを告げると同時に、メトーデは自らの豊かな胸を、ゲナウの頑強な胸板へと容赦なく押し付けた。柔らかな肉体と、鍛え上げられた硬い身体が、衣服越しにぴったりと密着する。並みの男なら理性を吹き飛ばされるであろう状況。だが、ゲナウはただ不快そうに眉根を寄せ、その圧倒的な質量を受け止めながら言い放った。
「お前のそれは無駄に重い。退け」
「あら、失礼な……」
予想通りの手厳しい拒絶に、メトーデはむしろ歓喜に胸を躍らせ、不敵な笑みを深くする。彼女はゲナウの耳元にそっと唇を寄せ、吐息を吹きかけるように言葉を繋いだ。
「何なら……ご自分の手で触れて、確かめてくれても宜しいのですよ?」
「………」
微動だにしないゲナウの態度に、メトーデの胸の奥で苛立ちの火花が弾けた。思い通りにならない男などいなかった。それなのに、目の前の男は自分の美貌も、肌の温もりも、差し出した誘惑のすべてを塵芥のように切り捨てる。その理不尽なまでの拒絶が、彼女のプライドを容赦なく抉っていた。
「───っ」
メトーデはゲナウの大きな片手を無理矢理掴むと、肌着越しに自らの豊かな胸へと力任せに押し当てた。男なら、誰もが狂い、貪りつくはずの特等席。しかし、ゲナウの太い指先はぴくりとも動かなかった。それどころか、彼女の肉体を掴もうとする素振りすら一切見せない。ただの物体の表面に触れているかのように、冷徹な無感覚がそこにあった。
「何故ですか……。何故、それ程までにわたくしを拒絶なさるのです」
メトーデの瞳に、じわりと涙が浮かぶ。それは彼女がこれまでの人生で、男を意のままにするために何度も使ってきた、完璧に計算された“美しい弱さ”の演出だった。しかし、ゲナウの心は微塵も動かない。押し倒された姿勢のまま、彼は冷酷に言い放った。
「女の涙など、私には武器にもならん。退かないというなら、力尽くで───」
「わたくしの言う事を聞きなさい、この石頭……!!」
ついに女としてのプライドを完全に叩き割られたメトーデは、感情のままに彼の太い首へと両手をかけた。筋力を高める魔法の術式がさらに激しく展開する。魔力によって強化された彼女の細い指先は、今や大柄な戦士の息の根を容易に止めるほどの、恐るべき凶器へと変貌していた。メトーデはゲナウの首筋に指を食い込ませ、その体重のすべてをかけて強く、深く、締め上げていく。
「落ち、着け、メトーデ」
細い指が喉笛に食い込むなか、ゲナウは顔の血流を滞らせながらも、途切れ途切れに声を絞り出した。
「お前の、才色兼備な所は、認めている。だが……俺はお前に、不釣り合い、だろう」
「え……?」
予想だにしない告白に、メトーデの思考が一瞬だけ停止する。同時に、彼の首を締め上げていた両手の力が、自然と少しだけ緩んだ。
「俺は、女の扱いをよく、知らない……。一級魔法使いになる為、その後も、仕事一筋でやってきた、からな……。仕事上ならともかく、それ以外でどう接したらいいか、判らないだけだ」
無骨で冷徹なはずの先輩が、窒息しかけながら吐き出したのは、あまりにも不器用で、あまりにも世俗的な“男としての本音”だった。自分を拒絶していたのではなく、どうしていいか分からず硬直していただけ。その事実が頭に染み込んだ瞬間、メトーデの胸の奥からおかしさが込み上げてきた。
「ふふ、あははは! 何ですかそれっ!」
メトーデは思わずゲナウの首から完全に両手を離し、ソファの上で仰け反るようにして大笑いした。涙を浮かべていた瞳からは、今度は可笑しさのあまりの本物の涙が滲み出ている。
「お、おい……そこまで笑う事ないだろう」
仰向けに寝かされたままのゲナウの顔に、初めて鮮やかな赤みが差した。居心地の悪そうに視線を泳がせるその姿は、いつもの冷酷な一級魔法使いとは程遠く、ひどく人間らしく見えた。完璧な美貌にのぼせ上がる有象無象の男たちよりも、この不器用で頑固な石頭の方が、よほど愛おしい。メトーデは笑いすぎて震える息を整えながら、再びゲナウの顔を覗き込んだ。
「そういう事だったのですね……女として一度も見てくれてないのかと思いました。やはり罪な女ですね、わたくしは」
恐怖の色が消えた執務室で、メトーデはさも当然のように自らの才色兼備を肯定してみせた。その切り替えの早さと傲慢なまでの自信に、ゲナウは呆れたように小さくため息を漏らす。
「誤解を与えたならすまないと思うが、だからといってこのような行動に出るのはどうかと思うぞ」
「あら、わたくしは自分に興味を示してくれない貴方に興味を持ったのですよ? そうさせたゲナウさんが悪いです」
悪びれもせず、むしろ楽しそうに言い放つメトーデ。押し倒されたままのゲナウは、彼女の豊かな胸の重みと、至近距離から注がれる熱い視線に、いよいよ居心地の悪さを募らせていた。
「あのな……とにかく俺の上から退いてくれないか」
「無理矢理退かさないならこのまま先へ進めますけど、どうします?」
メトーデはさらに身を乗り出し、ゲナウの目鼻の先で妖艶な笑みを浮かべた。筋力を高める魔法はまだ維持されたままだ。ゲナウが本気で魔法を使えば引き離せるかもしれないが、それはこの執務室を破壊することを意味する。そして何より、彼自身、彼女の放つ圧倒的な艶やかさに、先ほどまでの冷徹さを維持できなくなりつつあった。二人の距離は、もう唇が触れ合うほどに近かった。
「………」
ゲナウは無言のまま、魔力を解放した。彼が選んだのは、攻撃魔法ではなく強力な浮遊魔法だ 。メトーデの身体がふわりと宙に浮き上がった一瞬の隙を突き、ゲナウは俊敏な動きで彼女の下から脱出、部屋の隅へと大きく距離を取った。
「あらあら残念……この先はまた今度、ですね」
浮遊魔法を解かれ、しなやかに床へと降り立ったメトーデは、全く動じる様子がない 。むしろ獲物を追い詰める愉悦に満ちた目でゲナウを見つめ、諦めるつもりなど毛頭ないことを示していた。
「今度など、無くていい」
乱れた衣服を整えながら、ゲナウは苦々しく言い放つ 。だが、メトーデはフッと妖艶に微笑むだけだった。
「ダメです。女性の扱いをよく知らないなら、わたくしが直に手取り足取り教えてあげます。そうでないと楽しめないでしょう?」
「楽しくなくていい。俺はあくまで……」
「お仕事一筋でいたいのですか?」
ゲナウの言葉を遮り、メトーデは一歩、また一歩と優雅な足取りで彼へと近づく。
「なら今度、貴方が愛してやまないお仕事一筋から貴方を奪って差し上げます。覚悟しておいて下さいね、ゲナウさん」
そう言い残すと、彼女はまるで勝利者のような不敵な笑みを浮かべ、夜の執務室を後にした。残されたゲナウは、静まり返った部屋の中で、まだ微かに残る彼女の甘い香りと、激しく刻まれる自身の鼓動を自覚せざるを得なかった。
End