葬送のフリーレン短編集   作:風亜

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優しき嘘の裏に

 一級魔法使い、ゲナウとメトーデ。冷静沈着で合理性を重んじる男と、包容力に満ちながらも底の知れない女。二人の一級魔法使いに、大陸魔法協会本部から緊急の任務が下ったのは、よく晴れた朝のことだった。 

 

───人間を惑わし、生きたまま連れ去る魔族がいる。すでに数人の村人が行方不明になっており、防壁都市の周辺森林が怪しいという。魔王亡き後も、人類と魔族の闘争は終わらない。ゲナウはいつも通り、淡々と黒い外套を翻して出立の準備を進めていた。

 

「珍しいこともあるものですね。あのメトーデが体調不良だなんて」

 

 出発直前、詰所に現れたのはメトーデではなかった。代わりにそこにいたのは、急遽応援として呼び出された別の一級魔法使いだった。

 

「……自己管理の甘い奴だ。あいつの分の戦力は、お前が埋めろ」

 

 ゲナウはそう言ったが、内心では微かな違和感を覚えていた。メトーデは自身の体調管理を怠るような魔法使いではない。しかし、実際に彼女の部屋を訪ねた際、彼女は酷い熱に浮かされ、まともに立ち上がることすらできない状態だったのだ。

 

戦力外。そう判断せざるを得なかった。ゲナウは容赦なくメトーデを置いていく決断を下し、新たな同行者と共に、魔族が潜むという鬱蒼とした森へと足を踏み入れた。それが、狂い始めた歯車だった。

 

 

───三日後。大陸魔法協会本部に、一人の魔法使いが命からがら逃げ帰ってきた。ゲナウと同行した、あの一級魔法使いだった。

 

「ゲナウは……ゲナウは、どうした!?」

 

 息を呑む協会職員たち。戻ってきた魔法使いの身体に、目立った外傷はほとんどなかった。しかし、その瞳は恐怖に大きく見開かれ、焦点が定まっていない。精神の均衡が完全に崩壊しかけていた。

 

「わからない……私は、私はただ……」

 

 朦朧とする意識の中、その魔法使いは怯えながら、途切れ途切れに戦況を語り始めた。標的の魔族は、物理的な破壊魔法を使うタイプではなかった。人間の精神に直接干渉し、最も深いトラウマや、ありもしない幸福な幻影を見せて心を蝕む───最悪の“精神魔法”の使い手だったのだ。

 

「気づいた時には、もう術中に嵌まっていた……。頭が割れそうに痛くて、何が現実か分からなくなって……。呪詛返しも、防御結界も、何一つ意味をなさなかった……!」

 

 精神攻撃をまともに受けたその一級魔法使いは、魔法の発動すら満足にできず、その場に崩れ落ちたという。魔族の狡猾な笑い声が森に響く中、死を覚悟したその時。───ガツン、と。激しい衝撃と共に、身体が後ろへ突き飛ばされた。

 

「ゲナウ、が……私を、突き飛ばして、逃がしたんだ。あいつは、あの黒金の翼の魔法で、私を無理やり森の外へと弾き飛ばした……」

 

 朦朧とする視界の向こうで、ゲナウが一人、魔族の前に立ちはだかる姿が見えた。それが、最後の記憶だった。

 

「その後……彼がどうなったかは、分からない。私は、気づいたら森の境界にいて───」

 

 語り終えると同時に、一級魔法使いはそのまま糸が切れたように意識を失った。静まり返る本部。ただ一人、戻って来なかったゲナウ。冷徹で、誰よりも合理的なあの男が、仲間を逃がして一人その場に残った。精神を惑わす魔族の巣窟に、彼は今も囚われているのだろうか。それとも───

 

 

 

 あの事件から、半年という歳月が流れた。ゲナウの所在は、未だに一切不明のままだった。

 

(わたくしが、あのとき一緒にいれば……)

 

 メトーデは、激しい悔恨の中にいた。あの日、原因不明の体調不良に見舞われ、ゲナウの同行者を辞退せざるを得なかったこと。もし自分が隣にいれば、彼の凍てついた心を理解し、精神魔法から守ることができたのではないか。彼女は自分を責め続けていた。しかし、ただ立ち止まっていたわけではない。メトーデは自慢の魔力探知を限界まで駆使し、大陸中を、彼が消えたあの周辺の土地を、幾度となく捜し回っていた。

 

大陸魔法協会の創始者であり、彼らの師でもある大魔法使いゼーリエは、この事態に沈黙を守っているように見えた。だが、彼女は何もしていなかったわけではない。ゼーリエはすべてを見抜いていた。あの魔族の性質も、ゲナウの精神の在り処も。そして───

 

「ゲナウを呪縛から救い出せるのは、メトーデ、お前しかいない」

 

 それが、ゼーリエが下した結論だった。精神魔法によって深く閉ざされたゲナウの心に触れ、それを解きほぐすことができるのは、他者への深い包容力と、偏執的なまでの情愛を持つメトーデの魔法をおいて他にないのだと。ましてゼーリエ自身、自由に動ける状況になかった。密かに暗殺計画が進められている。今はまだ、動くべき時ではない。

 

 

 そして、ある日のことだった。陽の光すら届かない、深く、冷たい霧が立ち込める森の中。捜索を続けていたメトーデの魔力探知が、ピキリと微かな震えを感知した。

 

「……っ!」

 

 それは、あまりにも微弱で、今にも消えてしまいそうな魔力。しかし、メトーデが間違えるはずのない、あの冷徹で、どこか不器用な男の魔力の残滓だった。メトーデは霧を切り裂くようにして魔力の源へと急いだ。木々をかき分け、視界を遮る白い靄の向こうへと突き進む。やがて、霧の奥にひっそりと広がる開けた空間に出た。

 

「ゲナウ、さん……?」

 

 そこに、彼はいた。半年前と変わらない黒い外套を纏い、一人、ぽつんと背を向けて佇んでいる。ピクリとも動かず、ただ深い霧の向こうを見つめるようにして立ち尽くす、ゲナウの後ろ姿がそこにあった。

 

「ゲナウさん、漸く見つけました……!」

 

 メトーデの胸に、張り詰めていた緊張を忘れるほどの歓喜が突き上げた。半年間、片時も忘れることのなかったその背中。彼女は駆け寄ろうと、一歩を踏み出す。

 

「今までどうしていたのですか、貴方を連れ去ったかもしれない魔族は……」

 

 嬉しさの余り、メトーデの鋭い警戒心に一瞬の隙が生まれた。無防備にその距離を縮めようとした、まさにその時だった。

 

「近、づくな……ッ!」

 

 ゲナウの口から、血を吐き出すかのような、酷く掠れた声が絞り出された。それは、メトーデがかつて聞いたこともないほどに、苦痛と絶望に歪んだ拒絶の声だった。

 

「えっ……」

 

 メトーデは息を呑み、反射的に足を止めた。ゆっくりと、ゲナウの肩が小刻みに震え始める。その身体からは、禍々しい術式の残滓が、まるで黒い鎖のように絡みついているのが見えた。彼はまだ、戦い続けていたのだ。半年間、たった一人で、自身の精神を侵食する呪いと。

 

そこへ、さらに別の声が、ねっとりとした霧の奥から響いてきた。

 

「おや……私の玩具に何か用かな、女魔法使い」

 

 耳の奥にこびりつくような、酷く不快なトーンの高い男の声。五感を不愉快に逆撫でするその魔力。姿はまだ見えない。しかし、メトーデは確信した。これこそがゲナウを捕らえ、この半年間、彼の心を玩具のように弄び続けていた魔族だと。

 

「私はこの半年間、この男魔法使いを使って人体実験をしていたのだよ」

 

 不快な高音の響きが、霧に濡れた木々の間に反響する。姿の見えない魔族は、自分の成し遂げた“偉業”を誇るように、ねっとりと言葉を続けた。

 

「他の人間ではすぐ脆く崩れてしまうが、その男は違った。強靱な肉体と精神力だ……。しかし身体を私の魔力で日に日に改造する内に、半魔族化してくれた。実にいい成果が出た」

 

 実験。改造。そして、半魔族化。そのあまりにも非道で、おぞましい単語の羅列に、メトーデの全身が凍りついた。

 

「何で、すって……? ゲナウさんを、半魔族化させた……?」

 

 メトーデは驚愕に目を見開いた。魔族は人間を欺き、喰らうだけの存在だ。しかし、その魔族は、一級魔法使いの強靭な精神と肉体に目をつけ、玩具として弄び、その本質すら作り変えてしまったというのか。

 

「ククク……。試しに女魔法使いよ、半魔族化させた私の玩具と遊ぶ気はないか?」

 

 魔族は依然として姿を現す気配がない。霧の奥深く、完全に気配を隠匿したまま、楽しげにこちらの様子を伺っている。自分が丹念に作り上げた“玩具”と、そこに迷い込んできた憐れな女魔法使いが殺し合う様を、安全な特等席から高みの見物にしようという腹積もりなのだ。静寂が森を支配する。メトーデの視線の先で、じっと背を向けていたゲナウの身体が、不自然な角度でピクリと動いた。

 

「ゲ、ナウ……さん……」

 

 彼女の呼びかけに応じるように、ゲナウがゆっくりと、こちらを振り返る。その顔を見た瞬間、メトーデは息を詰まらせた。

 

その姿は、あまりにも異様で、おぞましかった。ゲナウの左半身は、まるで揺らめく漆黒の闇に染まったかのように変貌していた。その頭部からは、人ならざる禍々しい角が一本生え、見開かれた左目は、血のように昏い紅の輝きを放っている。しかし、右半身だけは、辛うじて元の“人間”の姿を保っていた。その表情は激しい苦悶に満ち、自身の肉体と精神を侵食する魔族の力と、今も必死に抗い続けているのが見て取れた。

 

半魔族化───まさにその名の通りの姿だった。メトーデは始めこそ息を呑み、その異形に激しく動揺した。しかし、彼女の瞳から光が消えることはなかった。動揺は一瞬で消え去り、すぐに“彼を救わねばならない”という強い使命感が彼女の胸を支配した。

 

(ゲナウさんを半魔族化させた、その魔族の魔力を完全に引き剥がすことができれば……あるいは)

 

 ゼーリエの言葉が脳裏をよぎる。ゲナウを救えるのは自分しかいない。メトーデは瞬時に思考を巡らせ、彼を傷つけずに呪縛の術式だけを解体する方法を模索し始めた。だが、狂った玩具を操る魔族は、彼女に一瞬の猶予も与えなかった。

 

ギチ、と不穏な音が響く。ゲナウの背から、どす黒い漆黒の魔力を帯びた、黒金の翼が展開された。彼の代名詞でもある黒金の翼を操る魔法《ディガドナハト》。しかし、以前のそれとは違い、魔族の呪詛が混ざり合った、禍々しい質量を持って狂い咲いている。

 

「───ッ!」

 

 次の瞬間、ゲナウの姿が掻き消えた。半魔族化によって爆発的に跳ね上がった身体能力。ゲナウは瞬時に間合いを詰め、メトーデの目の前へと肉薄していた。

 

ドッ、と激しい衝撃がメトーデの身体を走った。防御魔法の展開は間に合わなかった。しかし、彼女を襲ったのは鋭利な黒金の翼でも、禍々しい半魔族化の左手でもなかった。ゲナウの右半身───辛うじて人間の姿を保っていた側の右手が、彼女の身体を強く押しやったのだ。メトーデは勢いよく後方へと倒れ込み、霧に濡れた地面を転がった。

 

(……あ。もし、左手で攻撃されていたら……)

 

 倒れ込んだまま、メトーデは息を荒くしてゲナウを見上げた。もしあの漆黒に染まった左手で攻撃されていたら、今の衝撃だけで命はなかったかもしれない。ましてや、ゲナウはあれほど禍々しい黒金の翼を展開していながら、それをメトーデに差し向けることはしなかった。

 

魔族さえ一撃で即死させる、彼の最大火力の魔法。それを使わなかった。使わなかったのではない。必死に、使わないように抑え込んだのだ。ゲナウは、今も凄まじい苦痛に顔を歪ませ、自らの肉体を内側から縛るように硬直させている。彼は完全に操られているわけではなかった。意識的に、狂いそうな半魔族化の衝動を自ら制し、メトーデを即死から守ったのだ。

 

「ほう……?」

 

 その光景を見ていた魔族の声が、霧の奥から響き渡った。楽しげだった高音のトーンに、微かな不快感と、苛立ちが混じり始める。

 

「まだ自我を保っているのか。私の魔力にこれほど耐えるとはな。だが、所詮は人間の出来損ないだ。命令に逆らうなど、玩具としては致命的な欠陥だな」

 

 衣服が擦れるような気配が霧の向こうで揺れる。魔族のどす黒い魔力が、さらにその密度を増していくのが分かった。

 

「なら、もっと強力な精神魔法で完全に圧し潰して操るか。その脳髄ごと、私の絶対的な奴隷にしてやろう」 

 

 魔族がさらなる呪縛を重ねようとしている。これ以上強い精神魔法を受ければ、ゲナウの細い糸のような自我は、今度こそ完全に消滅してしまう。

 

 

「……見つけましたよ、本物の魔族さん」

 

 倒れ伏したまま、メトーデの瞳が鋭く光った。魔族がゲナウの精神を完全に圧し潰そうと、魔力を一段と高めたその瞬間。それこそが、メトーデが張り巡らせていた探知の網に、相手の正確な位置を引っかける絶好の好機だった。刹那、彼女の身体が浮き上がる。メトーデは凄まじい速度で飛行魔法を発動し、霧の中へと突っ込んだ。

 

目指すは、濃霧の奥にそびえ立つ大きな木の上。そこには、高みの見物を決め込んでいた魔族が身を潜めている。距離を一気に詰めると同時に、彼女の持つ杖に眩い魔力が集束する。─── 一般攻撃魔法《ゾルトラーク》。現代の魔法使いが最も速く発動できる人類の至高の攻撃魔法。それが至近距離から魔族へ向けて放たれた。

 

「なっ、貴様……!?」

 

 まさか即座に位置を割り出され、急襲されるとは思っていなかった魔族は、驚愕の声を上げた。本能的な反応だけで辛うじて身体を捻り、直撃こそ避けたものの、その余波で足場にしていた大木の枝が派手に爆散する。もはや姿を隠し続けることは不可能だった。しかし、メトーデの猛攻はそれだけでは終わらない。ゾルトラークを放った直後、彼女は間髪入れずに次の魔法へと繋げていた。

 

「───霧を晴らす魔法《エリルフラーテ》」

 

 メトーデを中心に、猛烈な突風が全方位へと吹き荒れる。戦場を覆い尽くしていた濃密な霧が、一瞬にして綺麗に吹き飛ばされた。月明かりの下に暴き出されたのは、異様に細長い手足を持った、痩躯の魔族の姿だった。

 

「チッ……!」

 

 魔族は忌々しげに顔を歪め、鋭い視線でメトーデを睨みつける。姿を暴かれた怒りと、玩具にしようとした人間たちへの見下した感情が、その声をさらに尖らせた。

 

「調子に乗るなよ、人間の小娘が! 貴様も我が精神魔法に溺れ、その男と同じく醜い実験台になってもらおうか!」

 

 魔族は手にした不気味な杖を、空中にいるメトーデへと真っ直ぐに向けた。ゲナウの自我を削り取ろうとしていたものとは比較にならない、禍々しく強烈な精神魔法のエネルギーが、杖の先端に収束していく───

 

「させる、ものか……!」

 

 その声を上げたのは、メトーデでも、魔族でもなかった。精神魔法の呪縛をその強靭な意思でねじ伏せ、身をよじって立ち上がったゲナウだった。彼は素早く地を蹴った。霧が晴れたことで、標的の姿は今や完全に露わになっている。魔族の意識が上空のメトーデに集中したその刹那の隙を、一級魔法使いの戦術眼が見逃すはずがなかった。

 

ゲナウの背から、漆黒の魔力が膨れ上がる。しかし、彼が展開したのは半魔族化に侵された左半身の翼ではなかった。ゲナウは、辛うじて人間の側を保っている“右半身”から黒金の翼を現出させたのだ。鋭利な質量を持った黒金の翼が、夜気を切り裂く。───真横一閃。ゲナウの右の翼は、杖を掲げていた魔族の胴体を、容赦なく真一文字に両断した。

 

「わ、我が玩具の分際で……!?」

 

 上下に泣き別れになった魔族の身体から、どす黒い血と魔力が噴き出す。魔族は自らの敗北が信じられないといった様子で、絶叫した。

 

「半魔族化している左方であれば、我が魔力と同調させて受け止められたものを……ッ! なぜ、人間の側の力で私を斬れた……!?」

 

「人間を、舐めるなよ……」

 

 ゲナウは膝をつき、激しく息を荒くしながらも、冷徹な瞳で崩れ落ちる魔族を見下ろした。

 

「魔族に無理矢理与えられた半魔族の力など、お前の魔力と地続きの呪いだ。そんなものでお前を倒せない事ぐらい、最初から分かっていた……。だから俺は、人間の魔法使いの技術でお前を斬ったのだ」

 

 魔族の身体がじわじわと魔力の粒子に還り始める。しかし、その顔には最期のあがきのような、醜悪な笑みが浮かんでいた。

 

「フ、フハハ! 見事だ人間……! だが、私を倒した所で、半年に渡り我が魔力に侵され続けた貴様の肉体は、もう元に戻る事は出来んぞ!」

 

 魔族は崩壊していく指先でゲナウを指さし、呪詛の言葉を吐き散らす。

 

「お前はもう人間には戻れない! せいぜいそのまま異形の半魔族として、かつての同胞たる一級魔法使いたちに屠られるのだな……! ハハハ、ハハハハ……ッ!」 

 

 不快な高笑いを残し、痩躯の魔族は完全に魔力の粒子へと変わり、夜風に消えていった。静寂が戻った戦場で、ゲナウは魔力の暴走に耐えかねたように、その場に激しく倒れ込んだ。

 

「ゲナウさん……!」

 

 メトーデは飛行魔法を解き、地上の泥を蹴ってゲナウの元へと駆け寄った。魔族が消滅したというのに、彼の左半身の禍々しい変貌は収まるどころか、より深くその肉体を侵食しようと蠢いている。

 

「もう、いい……メトーデ。お前の手で、俺に終止符を打ってくれ」

 

 俯せに倒れたまま、ゲナウは消え入りそうな声で呟いた。辛うじて人間の形を保っている右目だけを、静かに閉じている。その横顔には、死への恐怖ではなく、途方もない疲弊だけが滲んでいた。

 

「この半年間、地獄でしかなかった。……思い出したくもない」

 

 誇り高き一級魔法使いが、魔族の実験台にされ、自我を弄ばれ続けた絶望。彼が耐え抜いてきた時間の重さが、その短い言葉に詰まっていた。

 

「…………」

 

 メトーデはそっとゲナウの傍らに膝をつき、その痛々しい身体を見つめた。そして、慈愛に満ちた、しかし確固たる決意を秘めた声で告げる。

 

「ゲナウさん。今から貴方の左半身の魔族化を解きます」

 

「何を、言って……?」

 

 ゲナウは怪訝そうに、閉じていた右目を薄く開けた。魔族の長きにわたる呪詛だ。本人ですら手遅れだと確信している異形化を、解く方法などあるはずがない。そう言いたげな彼の瞳に、メトーデは優しく微笑みかけた。

 

「あの魔族の執拗な魔力を、すべて引き剥がすのです。大丈夫……。貴方は今まで、充分過ぎるほど苦しんだのですから。半魔族化を解く際に、これ以上貴方を苦しめたりはしません」

 

 メトーデは両手をそっとゲナウの身体へと翳した。彼女の内に眠る特別な魔力が、静かに脈打ち始める。

 

「わたくしに、身を委ねて下さい」

 

 メトーデが施した“彼を救う魔法”───それは、あまりにも過酷な救済の儀式だった。ゲナウの左半身を蝕んでいる魔族の呪わしい魔力を、彼女自身が身代わりとなって引き受け、己の体内で分解・浄化する。それこそが本質だった。まずは、彼がこれ以上の苦痛を感じないようにメトーデは優しく、そして極めて精密に精神魔法を展開した。ゲナウの荒れ狂う意識を包み込み、できるだけ穏やかな状態へと導いてゆく。やがて、緊張に強張っていた彼の身体から、ゆっくりと力が抜けていった。

 

「……始めますね」

 

 メトーデが深く息を吸い、魔力を同調させる。次の瞬間、ゲナウの左半身にへばりついていたどす黒い魔力が、彼女の掌を通じてメトーデの体内へと流れ込んできた。

 

「っ……!」

 

 脳を直接灼かれるような激痛が、メトーデの全身を駆け抜けた。半年にわたりゲナウを苛み続けた、魔族の穢らわしい執念と憎悪の残滓。それが自身の肉体と精神に流れ込んでくる恐怖は、筆舌に尽くしがたいものだった。内臓がねじ切れるような肉体的苦痛と、闇に引きずり込まれそうになる精神的苦痛。しかし、メトーデは奥歯を噛み締め、決して声には出さなかった。

 

(ここで……声を上げてしまったら……)

 

 もし彼女が苦悶の声を漏らせば、穏やかな眠りの中にあるゲナウは、その強靭な意志で無理やり目を覚ますだろう。そして、自分を庇うために、必ずこの術を止めにかかる。それだけはさせない。今の彼には、一時だけでも地獄のような苦痛から解放され、穏やかに眠っていてほしかった。夜の静寂の中、異質な魔力の奔流だけが二人の間で渦巻いている。

 

浄化にはそれなりの時間を要した。メトーデの額からは冷や汗が滴り、その華奢な身体は限界近くまで震えていたが、ゲナウの左半身を包む黒い異形は、彼女の献身と引き換えに、少しずつ、しかし確実に人間の肌へと戻っていった。ただゲナウを救いたい、その一心だけで、メトーデは果てしない苦痛の闇に耐え続けていた。

 

 

 

 ……ゲナウが目を覚ましたのは、見覚えのある白い天井の下だった。そこは大陸魔法協会本部に設置された、重症者用の特別な治療施設の一室だった。

 

(俺、は……?)

 

 彼は上体を起こそうとして、無意識の内に自分の左手へと視線を落とした。そこにあるのは、何の変哲もない人間の手だ。指を曲げれば、自分の意思通りに動く。あまりにも当たり前の、普通の五本指。しかし、何かがおかしい。それ以上の記憶が、脳の奥底に霧がかかったように全く思い出せないのだ。

 

断片的な記憶を手繰り寄せる。確か、ある強力な魔族の討伐任務に向かったはずだった。だが、パートナーであるメトーデは直前になって酷い体調不良を訴え、共に赴くことができなかった。そこまでは覚えている。しかし、その任務の結末がどうなったのか、その後どうやって自分がここへ運ばれたのか、中間の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。

 

「……ん」

 

 ふと横を向くと、隣のベッドに人影があった。そこには、メトーデが穏やかな寝息を立てて横たわっていた。彼女の顔色は以前のように戻っており、健やかな眠りについているように見える。

 

(あぁ、メトーデの体調不良は治ったのだな。……良かった)

 

 ゲナウは冷徹な仮面の奥で、素直に安堵の息を漏らした。だが、安堵と同時に疑問がさらに深まる。メトーデの病気が治ったのはいいとして、なぜ任務に出ていたはずの自分までが、この最高峰の治療施設のベッドに寝かされているのだろうか。さっぱり状況が掴めない。

 

隣のベッドで、シーツが擦れる音がした。少し離れた位置にあるベッドで、メトーデがゆっくりと長い睫毛を震わせ、意識を取り戻したようだった。

 

「あ、ゲナウさん……貴方もお目覚めになったのですね。良かった……」

 

 メトーデはゆっくりと上体を起こし、隣のベッドに座るゲナウの姿を見つめた。その瞳には、心底から安堵したような深い優しさが滲んでいる。

 

「俺に、何があったんだメトーデ。よく思い出せないのだが……」

 

 ゲナウは自らの記憶の空白に眉をひそめ、率直な疑問を彼女に投げかけた。問いかけられたメトーデは、ふんわりとしたいつもの口調で、穏やかに語り始めた。

 

「……あのですねゲナウさん、今回の任務、わたくしは同行出来なかったでしょう? 聞いた話では精神魔法を得意とする魔族が、ゲナウさんに速攻でやられた直後、魔力の粒子になる前に強力な精神魔法を貴方にかけたそうなのです」

 

「精神魔法を……?」

 

「えぇ。その呪縛のせいで、ゲナウさんはあの任務から“半年”も眠りに陥ってしまっていたのですよ。お気の毒に、その当時の記憶も多少削られてしまったみたいですね。でも、こうして無事に目を覚まされたのですから、もう大丈夫です」

 

 メトーデは一切の淀みなく、綺麗に編み上げた“優しい嘘”を並べ立てた。まさか自分が半年間も魔族の実験台にされ、半魔族化させられていたとは夢にも思っていないゲナウは、“半年も眠っていた”という事実に驚き、思わず自分の身体を見つめ直す。しかし、その左手はどこまでも綺麗な人間のものだった。

 

「……本当か?」

 

 ゲナウは一級魔法使いとしての鋭い目線で、メトーデの顔をじっと見つめた。

 

「えぇ、本当ですよ」

 

 メトーデはいつもの、非の打ち所がない完璧な笑顔をゲナウに向けた。彼が“地獄だった、思い出したくもない”と零したあの凄惨な過去を、再び背負わせる必要などない。半年間、彼がただ穏やかに眠っていたことにしておけば、彼の尊厳は守られる。自分が肩代わりしたあの激痛など、この笑顔一つで隠し通せるものだった。

 

 

「メトーデ、お前も何故ここで眠っていたんだ?」

 

 ゲナウは、自分の隣のベッドで横になっていた彼女へ、至極当然の疑問を口にした。半年もの間、自分が深い眠りに落ちていたというのなら、なぜ彼女までが今、同じ治療室のベッドにいるのか。

 

「それは貴方をずっと介抱していたからですよ。眠る場所も一緒じゃないと、介抱にならないでしょう?」

 

 メトーデは事もなげに、いつもの柔らかな調子で返した。我が身を苛んだあの凄絶な浄化の苦痛など、おくびにも出さない。

 

「半年も……欠かさず、か?」

 

「そうですよ、おかしいですか? 貴方はわたくしの大切なパートナーですもの、それくらい当然です」

 

 首を少し傾げながら、メトーデはどこまでも優しい笑みを崩さない。その完璧な笑顔の裏にある、彼女が引き受けてくれたものの大きさに、ゲナウが気付くことはない。

 

「そう、か……。すまなかったな、世話をかけて。いや、こういう時は……ありがとう、だったか」

 

 ゲナウは不器用そうに視線を落とし、小さく息を吐きながら感謝の言葉を口にした。

 

「ふふ、そうですね。後でゼーリエ様に目覚めた事を伝えに行きましょう。あの方もあれで、結構心配なさっていたでしょうから」

 

「あぁ……半年分、埋め合わせもしなければな」

 

 そう言って、ゲナウは今や完全に人間のものとして動く左手を、静かに握りしめた。窓の外からは、新しい朝の光が静かに部屋へと差し込み、半年間の地獄を戦い抜いた二人を、等しく暖かく包み込んでいった。

 

 

 

End

 

 

 

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