葬送のフリーレン短編集   作:風亜

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可愛い額に吸い寄せられて

 一級魔法使いとしての任務を終え、ゲナウとメトーデの二人は、夕暮れに染まり始めたオイサーストの街を歩いていた。行き交う人々の雑踏の中、メトーデはいつものように、数歩前を行くゲナウの大きな背中を追うように歩を進めていた。

 

相変わらず表情を崩さず、黙々と歩く彼の背中は、任務中の緊張感をまだ微かにまとっているようにも見える。そう思った、次の瞬間だった。ふと、前を歩いていたゲナウが足を止め、滑らかな動作でメトーデの方へと振り向いた。

 

「あら……?」

 

 メトーデが立ち止まるより早く、ゲナウがすっと間合いを詰めてくる。驚くほど近くまで接近してきた彼の影に包まれ、メトーデは思わず瞬きを繰り返した。ゲナウは無言のまま、大きな片手を持ち上げる。呪詛への対処か、あるいは何か別の警戒か。

 

メトーデが身を固くした刹那、彼の三本の指先は彼女の広く艶やかな額へと向かい───ぺちっ。乾いた、けれどひどく控えめな音が響いた。叩かれた、というよりは、軽く叩きつけられたような感触。全く痛くはない。しかし、あまりにも突飛で予想外の行動に、さすがのメトーデも目を丸くして硬直してしまった。

 

「……どうしたんです、ゲナウさん?」

 

 メトーデは額を片手で押さえながら、怪訝そうな、それでいてどこか面白がるような視線をゲナウに向けた。ゲナウは叩いた手を何事もなかったかのように下ろすと、いつも通りの険しく、そして完全に無感情な声音で一言だけ放った。

 

「いや……お前の額を、軽く叩いてみたかっただけだ」

 

「何ですか、それ」

 

 メトーデは呆れたように息を漏らした。真面目な顔で何を言っているのだろう、この人は。しかし、ゲナウはそれ以上の釈明をするつもりはないらしく、何食わぬ顔で前方に向き直ると、再び大股で歩き始めてしまった。置いていかれそうになり、メトーデは慌ててその背中を追う。少しだけむっとした彼女は、ただ引き下がるような性格ではなかった。

 

(……仕返しです)

 

 メトーデはゲナウの斜め後ろにぴったりと距離を詰めると、人差し指をそっと突き出した。狙うのは、彼の綺麗に刈り上げられた、無防備な後頭部だ。つん、つん。指先でその短い髪の感触を確かめるように、小突いてみる。

 

「…………」

 

 ゲナウの歩みが一瞬だけ乱れた。彼は振り返ることこそしなかったが、低い声で呟いた。

 

「……やめろ」

 

「ふふ、嫌です。先に仕掛けてきたのはゲナウさんですからね」

 

 冷徹に見えて、案外こういう子供っぽいちょっかいに弱い。そんな彼の新しい一面を発見したメトーデは、満足そうに微笑みながら、少しだけ歩調を速めたゲナウの後ろを機嫌よく付いていくのだった。

 

そんな応酬を交わしながら歩くうちに、二人はいつの間にか、オイサーストの裏通りにある行きつけの酒場へと足が向いていた。普段から任務の報告がてら立ち寄る、ひなびた、しかし料理の美味い店だ。薄暗い店内の奥まった席に腰掛け、簡素な肉料理と飲み物を注文する。料理が運ばれてくるまでの間、メトーデは頬杖をつきながら、対面に座るゲナウをじっと見つめた。先ほどの「お前の額を軽く叩いてみたかっただけだ」という彼の言葉の真意を、まだ測りかねていたのだ。当のゲナウは、いつも通り腕を組み、彫刻のように無表情のままである。

 

 しかし、その胸の内は、いつになく激しく揺れ動いていた。ゲナウは内心で、己の突飛な行動に対する“言い訳”を必死に組み立てていた。いつも冷静で、どこか底の知れない大人の余裕を漂わせているメトーデ。だが先ほど前を歩いている時、ふと振り返った瞬間に見えた彼女の広い額が───どういうわけか、妙に愛らしく思えてしまったのだ。子供が珍しい玩具を見つけた時のように、ほんの少し小突いてみたい、軽く叩いてみたいという、理性を超えた衝動が突き上げてきた。

 

いや、もっと言えば、そこに口づけを落としてしまいたいとさえ、一瞬だけ頭をよぎった。……一級魔法使いとして、流石にそんな大それた真似はまだ出来ない。だからこそ、理性の妥協点として出た行動が、あの不器用極まりない“ぺちっ”だったのだ。そんなゲナウの葛藤など露知らず、メトーデの視線は、彼の髪型へと移っていた。

 

「そう言えば、ゲナウさん」

 

 メトーデは悪戯っぽく微笑みながら、先ほど人差し指でつついた彼の後頭部、そして綺麗に整えられた前髪へと視線を這わせた。

 

「ずっと気になっていたんですけど、どうしていつもその、きっちりとした『七三分け』なんですか? 任務中も微塵も崩れませんし、何か強いこだわりでも?」

 

 ゲナウはピクリと眉を動かし、視線をわずかにそらした。

 

「……子供の頃からこの髪型だ。特に理由はない」

 

 無感情に返されたその一言に、メトーデの脳内で、瞬時にある光景が静止画として組み上がった。

 

(子供の頃から……?)

 

 それは、今と全く同じ“七三分け”の髪型をした、ほんの小さな男の子の姿。現在の険しい強面よりも可愛らしく身体は小さく目は大きめ、そして今とは異なるどこかぽけーっとした顔をして、ちょこんと佇んでいる“ちびゲナウ”の姿だった。

 

(な、何ですかそれは……! 反則的に可愛すぎます……!!)

 

 想像の破壊力は凄まじかった。メトーデの脳内に突き抜けた悶絶級の可愛らしさに、彼女は思わず両手で顔を覆った。いつもは冷静沈着な彼女の肩が、小刻みに震え始める。

 

「……メトーデ? どうした」

 

 不審そうに尋ねるゲナウの声を、メトーデは必死に堪えながら遮った。

 

「い、いえ、何でもありません……っ。ただ、小さいゲナウさんが、その髪型でとことこ歩いているところを想像したら、その……胸が苦しくなってしまいまして」

 

「意味が分からん」

 

 溜め息混じりに飲み物に手を伸ばすゲナウ。その耳尖が、心なしかほんのりと赤くなっているのを、メトーデの鋭い観察眼は見逃さなかった。額を軽く叩いた男と、その男の幼少期に悶える女。オイサーストの夜は、いつも通りのようでいて、ほんの少しだけ二人の距離を縮めながら更けていくのだった。

 

 

───運ばれてきた料理をすっかり平らげ、二人の前には食後の軽い飲み物だけが残されていた。夜も更け、周囲の席の騒がしさが増していく中、二人のテーブルだけはどこか独特な空気のままである。メトーデは先ほどの悶絶からどうにか復活すると、悪戯っぽい笑みを浮かべたまま、再びゲナウの髪型に狙いを定めた。

 

「今の七三分けも素敵ですけど……ゲナウさん、気分転換に少し髪型を変えてみてはいかがですか?」

 

「断る」

 

 ゲナウは一切の迷いなく、即座に拒否した。あまりの速さにメトーデは苦笑しつつも、さらに身を乗り出して食い下がる。

 

「そんなにすぐ断らなくてもいいじゃないですか。わたくしから見ると、その……前髪を完全に下ろしたりしたら、今よりもさらに素敵度が増すと思うんですよね」

 

 それは、普段の厳しい表情が少し隠れ、彼の顔立ちが引き立つであろうという、メトーデなりの確信を持った提案だった。しかし、ゲナウは眉根を寄せ、ひどく現実的な理由で却下する。

 

「前髪を下ろせば前方が見えづらくなる。戦闘中に視界を遮るような真似は、命取りだ」

 

「もう、頑固ですねぇ……」

 

 メトーデは呆れたように息を吐いた。お洒落や気分転換といった概念は、この堅物な一級魔法使いの頭には一ミリも存在しないらしい。メトーデが肩をすくめたその時、ゲナウが不意に彼女の顔を正面から睨みつけるように見つめ、低い声で逆襲に転じた。

 

「……そもそも、お前の額は何故そんなに広いんだ」

 

 直球すぎる問いかけに、メトーデは一瞬ぱちくりと目を瞬かせた。

 

「え? ……そう見えるんですか?」

 

 自らの額にそっと手を当てる。確かにすっきりと出した髪型をしてはいるが、ゲナウからそんな部分を指摘されるとは思ってもみなかった。

 

「M字型に前髪が上がっているので、額が広く見えるのではないでしょうか。小さい頃から前髪は自然とこんな感じでしたねぇ」

 

「そんなものなのか……」

 

 ゲナウは納得したのかしてないのか、微妙な顔をしている。

 

「それよりゲナウさん、やっぱり前髪変えた方が」

 

「まだ言うか。……そんなに私の七三分けが気に入らないのかお前は」

 

 拗ねた様子で、メトーデから顔を背けるゲナウ。

 

「そんなわけないじゃありませんか。ただ……印象的に真面目すぎるというか、少し気楽に構えてみてもよろしいのではないかと思って」

 

「断る、と言っている。……ならお前は、私が髪型を変えろと言ったら変えるのか?」

 

「えぇ、変えてもいいですよ? どんな髪型がお望みですか?」

 

 予想外のメトーデの反応に、ゲナウは面食らってしまい、言葉がたどたどしくなってしまう。

 

「いや、その、何だ……別に変えなくて、いい……」

 

「あら、そうですか? ロールアップするとか……何なら思い切って短くしますっ?」

 

「やめろ、それだと後ろの鳥の羽のように跳ねた長い髪が見れなくなる。まして前髪まで変えたら額が隠れる可能性があるじゃないか」

 

 ゲナウは途端に饒舌になり、メトーデが髪型を変えることなど一切許さないといった風だ。

 

しかしそこで、メトーデの優れた頭脳は、ゲナウのこれまでの行動を瞬時に繋ぎ合わせた。街頭での突然の“ぺちっ”。今の、どこか焦ったような、それでいて執着を感じる視線。そして、髪型の話題から強引に自分の額へと話を逸らそうとした不自然さ。

 

(まさか……)

 

 メトーデの唇が、妖艶な、そして全てを見透かしたような笑みの形に吊り上がる。彼女は座席から少しだけ身を乗り出し、ゲナウの顔を覗き込むようにして囁いた。

 

「もしかして……ゲナウさん、わたくしの額のこと、“可愛い”とか思っていらっしゃいません?」

 

 完全なる図星だった。

 

「───ッ!? げほッ、ごほッ……!!」

 

 不意を突かれたゲナウは、ちょうど口に含んでいた飲み物をまともに気管に入れたらしく、激しく咳き込んだ。いつもの冷徹な威厳はどこへやら、珍しく顔を真っ赤にして口元を押さえている。

 

「あらあら、大丈夫ですか?」

 

 慌てて木のカップを遠ざけ、背中をさすってあげようと手を伸ばすメトーデ。その表情は、してやったりという満足感と、うろたえる彼の姿への愛おしさでいっぱいに満ちていた。

 

店を出ると、夜のオイサーストの空気は昼間の熱気が嘘のように冷え込んでいた。人通りもまばらになった静かな夜道を、二人は並んで歩く。先ほど店内で見せた激しい動揺からどうにか立ち直ったゲナウは、いつも以上に口を固く結び、前方だけを見つめて大股で歩いていた。しかし、その歩調は不思議と、隣を歩くメトーデの足幅から遅れることはない。メトーデはそんな彼の横顔を盗み見ながら、小さく笑った。

 

「まだ怒っていらっしゃるんですか、ゲナウさん」  

 

「怒ってはいない」

 

 低く突き放すような声。だが、そこに本気の拒絶がないことを、メトーデはよく知っている。

 

「本当ですか? 図星を突かれてあんなに咳き込むなんて、一級魔法使いの名が泣きますよ」

 

「……黙れ。あれはただ、飲み物が喉に詰まっただけだ。お前の突拍子もない妄想に付き合うつもりはない」

 

 頑なに認めようとしない男の背中を、街灯の淡い光が照らし出す。メトーデは「はいはい」と軽く受け流しながら、ふと足を止めた。宿へと続く、少し薄暗い路地の入り口。周囲には誰もいない。

 

「ゲナウさん」

 

 呼ばれて、ゲナウが数歩先で足を止める。振り返った彼の瞳に、メトーデはまっすぐ視線を合わせた。今度はからかうような笑みではなく、どこか真剣で、試すような眼差しだった。

 

「妄想、ですか。……じゃあ、もう一度確かめてみます?」

 

 メトーデは自らの前髪を、片手でそっとかき上げた。街灯の光を浴びて、彼女の白い、綺麗な額が露わになる。オイサーストの街中で、彼が思わず手を伸ばしてしまった、あの額だ。

 

「本当に、何とも思っていないんですか?」

 

 ゲナウの身体が、微かに硬直した。静寂が二人の間を支配する。夜風がメトーデの髪を揺らし、彼女の甘い香りがゲナウの鼻腔をくすぐった。

 

 ゲナウの胸の内で、何かが切れた。認めたくはなかった。己の中に湧き出た、一級魔法使いとしてはあまりに不合理で、ひどく子供じみた独占欲のような衝動を。だが、こうして目の前で挑発するように佇む彼女を見ていると、これ以上の言い訳は全て無意味に思えた。ゲナウは無言のまま、大股でメトーデとの距離を詰めた。昼間の街中よりも、先ほどの店の中よりも、ずっと近く。

 

「ぇ───」

 

 メトーデが驚きに目を見開いた瞬間、ゲナウの大きな手が、彼女の細い肩をがっしりと掴んだ。逃がさないとでも言うように。強引に引き寄せられたメトーデの視界が、ゲナウの胸元で遮られる。次の瞬間、彼女の広い額に、柔らかく、けれど力強い感触が押し当てられた。

 

───それは、昼間の不器用な“ぺちっ”とは全く違う、確かな熱を持った口づけだった。ほんの数秒。夜の静寂の中で、ゲナウの唇が彼女の額に深く刻み込まれる。やがて彼がゆっくりと顔を離したとき、メトーデは完全に言葉を失っていた。

 

いつも余裕を崩さない彼女の頬が、見たこともないほど真っ赤に染まっている。ゲナウは彼女の肩から手を離すと、何事もなかったかのように再び前を向いた。その耳尖は赤く染まっていたが、声だけは驚くほど平然としていた。

 

「……満足、させてもらった」

 

 そう言い残し、彼は再び歩き出す。メトーデは、今度は仕返しの“つんつん”をすることすら忘れ、赤くなった額を両手で押さえたまま、しばらくその場に立ち尽くしてしまった。

 

「満足って……そんなにわたくしの額に口づけをしたかったのですね……ふふ」

 

 ぽつりと呟いたメトーデの声は、夜のオイサーストの風に優しく溶けていった。彼女は熱を持った顔を隠すように少し俯きながら、しかしどこか嬉しそうに、前を行く彼の背中を急いで追いかけるのだった。

 

 

 

End

 

 

 

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