葬送のフリーレン短編集   作:風亜

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その愛に救われて

 薄暗い教会の空気は、張り詰めた魔力と焦燥感に満ちていた。

 

「ゲナウさん! 戻ってきてください、ゲナウさん……!」

 

 一級魔法使いメトーデは、幾度目かも分からない治癒魔法を、彼の胸へと注ぎ込み続けていた。その美しい顔は涙と汗に濡れ、いつも崩さない冷静さは完全に失われている。北部高原での死闘で引き裂かれたゲナウの肉体は、大陸魔法協会が用意した回復薬や、彼女の優れた聖遺物魔法をもってしても、繋ぎ止めるのがやっとだった。ゲナウの心臓が、また不規則に跳ね、その魔力が急速に霧散していく。

 

「嫌です……わたくしを一人にしないで……!」

 

 メトーデは彼の大きな掌を両手で強く握り締め、ただひたすらに、その魂をこちらの世界へと引き留めようと祈り続けていた。

 

 

 ───ゲナウの意識は、底のない深い闇へと沈んでいった。痛みすら消え失せたその暗闇の先で、唐突に、視界が蒼白い光に染まる。

 

「…………、……」

 

 風の音が聞こえた。泥と血の臭いしか知らなかった鼻腔を、甘く、どこか懐かしい花の香りがくすぐる。ゲナウがゆっくりと目を開けると、そこは果てしなく広がる美しい花畑だった。澄み渡る青空と、風に揺れる蒼白い花弁。あまりの平穏さに、ゲナウは自らの死を確信した。

 

「ずいぶんと険しい顔をして寝ていたね、一級魔法使いの君」

 

 不意に、頭上から声が降ってきた。聞き覚えのない、しかし酷く耳に馴染む、穏やかで芯のある声。ゲナウが視線を上げると、そこに一人の青年が立っていた。淡い蒼色の髪。吸い込まれそうなほどまっすぐなライトブルーの瞳。そして、その背には見覚えのある白い高潔なマントが翻っている。それは、かつて世界を救った勇者ヒンメルの、最も輝かしかった若かりし頃の姿だった。ゲナウは驚きで眉を動かすこともなく、ただ静かにその姿を見つめた。現実であれば、歴史上の英雄を前にして何らかの礼節を尽くしたかもしれない。だが、ここは死の淵だ。余計な虚飾など、今の彼には残っていなかった。

 

「……勇者ヒンメル、か」

 

 ゲナウは掠れた声で呟き、上体を起こした。傷を負っているはずの身体は、不思議なほど軽い。

 

「ああ、そうだよ。君のことは知っている。ゲナウ、君はいつも誰かのために命を懸けて戦っているね」

 

 ヒンメルは悪戯っぽく微笑みながら、ゲナウの隣に腰を下ろした。

 

「……買い被りだ。私は私の任務を全うしているに過ぎない。冷酷で、融通が利かず、多くの者を見捨て死なせてきた男だ」

 

 ゲナウは視線を落とし、自らの大きな掌を見つめた。その手は、守れなかった者たちの血で汚れているように思えてならなかった。

 

「知っているよ」

 

 ヒンメルは優しく、しかしきっぱりと言った。

 

「君が冷徹な仮面を被って、どれほどの涙を噛み殺してきたか。君が故郷を失い、それでもなお立ち上がり続けた理由を。……そして、君が守ろうとした世界は、今も君を必要としているんだ」

 

 ゲナウは自嘲気味に息を吐き出した。

 

「私のような男が消えたところで、代わりはいくらでもいる。大陸魔法協会には優秀な若者が育っている。……私は、もう疲れた」

 

 それが、彼の本音だった。いつも厳しい表情で、冷酷なまでに合理的であろうとしたゲナウ。だが、彼の心はとっくに限界を迎えていた。相棒との別れ、故郷の崩壊、繰り返される凄惨な戦い。この美しい花畑で、すべてを投げ出して眠ってしまえたら、どれほど楽だろうか。ヒンメルは、そんなゲナウの横顔を、ただ静かに見つめていた。その瞳には、憐れみではなく、深い敬意が宿っていた。

 

「ゲナウ。僕たちは、いつか必ず死ぬ。それは変えられない真実だ」

 

 ヒンメルの声が、風に乗って花畑に溶けていく。

 

「でもね、今じゃない。君の物語は、ここで終わるにはまだ早すぎるんだ」

 

「なぜ、そこまで私を呼び戻そうとする。貴殿には関係のないことだろう」

 

「関係あるさ。だって、僕が命を懸けて守った未来で、君が今、必死に戦ってくれているんだから」

 

 ヒンメルは立ち上がり、ゲナウに向かって手を差し伸べた。その手は、若々しく、力強さに満ちていた。

 

「君が流した涙も、背負った傷も、決して無駄じゃない。君が生きている限り、君が守った人々の笑顔が、いつか君の心を救う。フリーレンが僕の記憶を未来へ連れて行ってくれるように、君の戦いもまた、誰かの光になるんだ」

 

 ゲナウは、差し出されたヒンメルの手を見つめた。その手の向こうに、自分を待っているであろう現実の光景が、朧げに浮かび上がってくる。不器用で、自分を慕ってくれるゼーリエの弟子たち。ぶつかり合いながらも共に戦った一級魔法使いの仲間たち。そして、自分が守るべき、まだ見ぬ人々の明日。

 

「……やはり、貴殿は酷な男だ、勇者ヒンメル」

 

 ゲナウは小さく、本当に微かに、苦笑した。

 

「死者にまで、戦えと急かすのか」

 

「あはは、手厳しいな。でも、君ならそう言ってくれると思ったよ」

 

 ヒンメルは眩しいほどの笑顔を浮かべた。ゲナウは、ヒンメルの手を握らなかった。代わりに、自らの力でしっかりと大地を踏み締め、立ち上がった。

 

「私は一級魔法使いゲナウだ。……他人の指図で死ぬつもりはない」

 

「うん。それでこそ、今の時代を生きる英雄だ。……それに、ゲナウ。今も君のすぐ傍で、君を失う恐怖と戦いながら、必死に手を伸ばしている人がいる」

 

 ヒンメルが花畑の向こうを指さす。その視線の先、空間が微かに歪み、現実の世界の情景が朧げに映し出された。そこにいたのは、ボロボロになりながらも、涙を流して治癒魔法を唱え続けるメトーデの姿だった。彼女の魔力は底を尽きかけている。それでもなお、自分の命を削るようにしてゲナウの胸に手を当て、彼の名前を呼び続けている。

 

「メトーデ……なぜ、あそこまで……」

 

 ゲナウは目を見開いた。彼は知っていた。彼女が自分に対して、単なる任務のパートナー以上の、深い情愛を抱いてくれていたことを。だが、いつ死ぬかも分からない戦いの中で、ゲナウはその想いからずっと目を背け続けてきたのだ。

 

「彼女はね、君のその不器用な優しさも、背負った傷も、すべてを包み込みたいと思っているんだよ」

 

 ヒンメルは、ゲナウの肩にそっと手を置いた。

 

「君を心から愛している人がいる。君が還るべき場所は、この寂しい死の淵じゃない。彼女の元へ、戻ってあげなよ」

 

「……私は、彼女を幸せにできるような男ではない」

 

 ゲナウは拳を握り締め、苦しげに顔を歪めた。

 

「私の手は血に汚れ、心はとっくに疲れ果てている。彼女の愛を受ける資格など……」

 

「資格なんて、最初から誰にも必要ないさ」

 

 ヒンメルは眩しいほどの笑顔で、ゲナウの言葉を遮った。

 

「愛してくれる人がいるなら、その手を握り返す。それだけでいいんだ。君が生きていること自体が、今の彼女にとっての救いなんだから。……さあ、行って。これ以上、彼女を泣かせちゃいけない」

 

 ヒンメルの力強い言葉が、ゲナウの凍りついた心を激しく揺さぶる。現実の世界から、メトーデの掠れた声が、花畑の風に乗って聞こえてきた。

 

『お願い、ゲナウさん……わたくしを置いていかないで……』

 

 ゲナウは深く息を吸い込み、ヒンメルに向かって一礼した。

 

「……勇者ヒンメル。感謝する」

 

「うん。生きて、彼女をたくさん抱きしめてあげてね」

 

 ヒンメルの姿が白い光の中に溶けていく。美しい蒼月草の花畑が遠ざかり、再びあの重苦しい激痛と、そして───メトーデの温かい涙の感触が、ゲナウの肉体を支配した。

 

『ゲナウ、生きるんだ。生きて、君だけの美しい足跡を、その世界に残してくれ』

 

 最後のその言葉を耳にしながら、ゲナウは深く、深く、現実の淵へと浮上していった。

 

 

 

「ぁ……、ぐ……」

 

 ゲナウの胸が大きく波打ち、途絶えかけていた呼吸が吹き返した。その大きな指先が、自分の手を握る彼女の手を、微かに握り返す。

 

「ゲナウ……さん……?」

 

 メトーデが信じられないというように目を見開く。ゆっくりと開かれたゲナウの瞳が、涙で濡れたメトーデの顔を捉えた。彼はいつもの厳しい表情を少しだけ緩め、掠れた声で、しかし確かに彼女の名前を呼んだ。

 

「……メトーデ。すまない、待たせた」

 

「ゲナウさん……! よかった、本当によかった……!」

 

 メトーデはたまらず彼の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。ゲナウはまだ痛む腕をゆっくりと動かし、ヒンメルとの約束を果たすように、彼女の背中を優しく、静かに抱きしめるのだった。窓から差し込む現実の朝日が、生き延びた二人を温かく照らしていた。

 

 

───静謐な空気が満ちる教会の礼拝堂。その奥にある一室で、ゲナウはまだ絶対安静のまま、ベッドに横たわっていた。体中を覆う包帯と、未だ浅い呼吸。一命を取り留めたとはいえ、彼が負った傷はそれほどまでに深かった。メトーデは彼のベッドの傍らに椅子を寄せ、甲斐甲斐しく看病を続けていた。冷たい水で濡らしたタオルで彼の額を拭い、薬草の香りが漂う温かいスープを匙ですくい、ゆっくりと彼の口元へ運ぶ。その手つきは驚くほど優しく、そして、二度とこの手を離さないと言わんばかりの熱が籠もっていた。ゲナウはスープを飲み干すと、天井をじっと見つめたまま、掠れた声でぽつりと言った。

 

「……メトーデ。生死の境を彷徨っている間、私は妙な夢を見ていた」

 

「夢、ですか?」

 

 メトーデは新しいタオルを絞りながら、不思議そうに小首を傾げた。

 

「ああ。果てしなく広がる花畑の中で……私は、勇者ヒンメルに会った」

 

「まぁ! ……あの、勇者ヒンメル様に、ですか?」

 

 メトーデの手がピタリと止まり、その美しい瞳が驚きで大きく見開かれた。歴史上の英雄であり、仲間と共に魔王を倒した勇者。まさか、死線の向こうでそんな存在に出会っていたとは思いもしなかったのだ。

 

「ああ。私のような男の前に現れるとは、おかしな話だがな」

 

 ゲナウは自嘲気味に、微かに口元を緩めた。

 

「姿は、各地に建てられている銅像と同じ、若かりし頃の姿だった。あまりに眩しくて、直視し難い男だったよ」

 

「銅像と同じ……本当に、あのヒンメル様だったのですね」

 

 メトーデは胸元で手を組み、深い感慨にふけるように息を吐いた。

 

「私はな、メトーデ」

 

 ゲナウの声が、少しだけ低く、真剣なものに変わる。

 

「戦いにも、この冷酷な現世に戻ることにも、心底疲れ果てていた。あのまま、あの穏やかな花畑で足を止め、現世に戻るのを諦めかけていたのだ」

 

「ゲナウさん……」

 

 メトーデの顔に、一瞬だけ寂しげな陰りが走る。彼がどれほどの重荷を背負って戦ってきたかを、誰よりも近くで見てきたからこそ、その言葉の重さが痛いほど分かった。しかし、ゲナウは言葉を続けた。

 

「だが、彼に言われたよ。『君を心から愛している人がいるんだから、戻らないとダメだ。その手を握り返してあげなよ』と」

 

「え……?」

 

 メトーデの思考が一瞬、停止した。

 

「彼はすべてを知っているような顔で、現世の様子を私に見せた。そこには、魔力を使い果たしかけながら、泣いて私の名前を呼ぶお前の姿があった。ヒンメルは、そんなお前の元へ戻れと言ってくれたのだ」

 

 ゲナウは視線を天井から外し、ベッドの横で固まっているメトーデの目をまっすぐに見つめた。その不器用な眼差しには、これまで彼女の想いから目を背け続けてきたことへの悔恨と、これからはそれを受け止めるという、静かな覚悟が宿っていた。

 

「あ、あら……それは、その……」

 

 メトーデの白い頬が、みるみるうちに鮮やかな朱色に染まっていく。いつも気品のある佇まいで、どんな一級魔法使いに対しても大人の余裕を崩さない彼女が、完全に形無しになっていた。耳の裏まで真っ赤にしながら、視線を泳がせ、タオルの端を無意味にきつく握り締める。

 

「勇者ヒンメル様は、その、ずいぶんと……お節介な方、なのですね……」

 

 蚊の鳴くような声でそう呟き、顔を伏せてしまうメトーデ。そんな彼女の様子を愛おしそうに見つめながら、ゲナウは包帯の巻かれた手をゆっくりと伸ばし、彼女の震える手をそっと包み込んだ。

 

メトーデが顔を伏せたまま、小さく肩を震わせていると、手の甲にじんわりとした温もりが広がった。見落としてしまいそうなほど、ゆっくりと、しかし確実に彼女の手を包み込む、ゲナウの大きな手。

 

「ゲナウ、さん……?」

 

 メトーデが恐る恐る顔を上げると、そこにはいつもの険しい表情ではなく、どこか柔らかい光を宿したゲナウの瞳があった。

 

「驚かせたなら済まない。だが……あの男に言われるまで、私は大切なことを見失っていたようだ」

 

 ゲナウは自嘲気味に息を吐き、メトーデの細い指先を、壊れ物を扱うようにそっと握り締める。

 

「私はいつも、死ぬ時は一人だと思っていた。誰かを遺すことも、誰かに遺されることも恐れて、心を閉ざしていた。……一級魔法使いとしての任務を全うすることだけが、私の生きる意味だと」

 

「………」

 

 メトーデは何も言わず、ただゲナウの言葉をじっと聞き入る。その目には、じわりと涙が浮かんでいた。

 

「だが、お前は違った」

 

 ゲナウはまっすぐにメトーデを見つめた。

 

「私が倒れた時、お前は任務ではなく、ただ私個人のために泣いてくれた。……メトーデ。お前のその真っ直ぐな想いが、私をあの花畑から引き戻してくれたんだ」

 

 いつも冷静で、感情を滅多に表に出さないゲナウが、これほどまでに熱く、素直な言葉を口にしている。それは、死線を潜り抜けた彼が、初めてメトーデに対して見せた『本音』だった。

 

「ゲナウさん……わたくしは、ただ……」

 

 メトーデは溢れそうになる涙を堪えきれず、ぽろぽろと頬を伝わせた。

 

「貴方が、もう目覚めないかもしれないと思ったら、胸が張り裂けそうで……。任務なんて、大陸魔法協会なんて、どうでもいいとすら思ってしまいました……っ」

 

 彼女はもう、いつもの“大人の余裕”を装うことができなかった。ゲナウのシーツを片手でぎゅっと握り締め、子供のように涙を流す。ゲナウは微かに上体を起こそうとしたが、激痛に顔をしかめた。

 

「ッ……」

 

「あ、動いてはダメです! 絶対安静なのですから!」

 

 慌てて制止しようとするメトーデ。しかし、ゲナウは痛みに耐えながら、繋いだままの手をぐっと自分の胸元へと引き寄せた。引っ張られるようにして、メトーデの身体がベッドの上のゲナウへと近づく。二人の距離は、吐息が触れ合うほどに近くなった。

 

「……私の手を握り返してくれ、メトーデ」

 

 ゲナウの声は低く、ひどく甘く響いた。

 

「これからは、お前の想いから逃げないと誓う。だから……これからも私の傍にいて、その温もりを私に教えてくれ」

 

 その言葉は、冷酷な一級魔法使いとして生きてきた彼なりの、精一杯の愛の告白だった。メトーデは真っ赤になった顔をさらに上気させながらも、今度は視線を逸らさなかった。ゲナウの大きな手を、両手で包み込むようにきゅっと握り返す。

 

「……ずるいです、ゲナウさん。そんな風に言われたら、もう一生、貴方から離れられなくなってしまいます」

 

 涙を含んだ瞳で、メトーデは嬉しそうに、そしてとても愛おしそうに微笑んだ。

 

「構わん。むしろ、離れるな」

 

 ゲナウはそう言って、照れ隠しのようにメトーデの手を自分の口元に寄せ、その指先にそっと、誓いのような優しいキスを落とした。窓から差し込む教会の柔らかな光が、ようやく心が通じ合った二人を、静かに包み込んでいた。

 

指先に触れたゲナウの唇の温かさに、メトーデの心臓は激しく跳ね上がった。いつもは冷徹で、自分の一歩引いたアプローチも淡々とあしらっていた彼が、いま目の前で、ひどく熱っぽい視線を自分に向けている。

 

「ゲ、ゲナウさん……本当に、どうしてしまったのですか……?」

 

 メトーデは赤くなった顔を両手で覆いたい衝動に駆られながらも、繋がれた手を離すことができず、ただ上気した息を漏らす。

 

「言っただろう。死にかけて、ようやく目が覚めたのだと」

 

 ゲナウは小さく息を吐くと、繋いだままのメトーデの手を、今度は自分の頬へと寄せた。熱を帯びた彼の頬の感触が、メトーデの手のひらに直接伝わる。ゲナウはまるで極上の毛布にでも触れているかのように、彼女の手のひらに身を委ね、小さく目を細めた。その、大型の動物(あるいは猛獣)が、心を許した飼い主にだけ見せるような“控えめな甘え方”に、メトーデの胸はキュンと締め付けられる。

 

「……冷たいな。気持ちがいい」

 

 ゲナウが微かに、本当に微かに微笑む。熱を出している彼にとって、メトーデのひんやりとした手は心地よいのだろう。しかし、メトーデはハッと我に返った。 

 

「あ、あの! 気持ちがいい、ではありません! ゲナウさん、お身体がまだずいぶんと熱いじゃないですか!」

 

 慌てて手を引き、彼の額に手を当て直すメトーデ。

 

「やはりまだ熱があります。それなのに、そんなに無理をして上体を起こしたり、喋ったりして……! 傷口が開いたらどうするのですか。わたくしは一級魔法使いですが、本職の回復魔法の専門家ではありません。もし貴方に何かあったら……」

 

 いつもの余裕はどこへやら、メトーデは本気で狼狽し、小言を並べ立てる。心配のあまり涙目がちになっている彼女を、ゲナウはただじっと見つめていた。その眼差しがあまりに優しく、そしてどこか物欲しげであることに気づき、メトーデは口を噤んだ。

 

「……どうしたのですか? そんなに見つめて」

 

「メトーデ」

 

 ゲナウは掠れた声で、寝返りを打つように少しだけ顔を彼女の方へ傾けた。

 

「……スープが、まだ少し残っている」

 

 メトーデがサイドテーブルに目をやると、先ほど彼に食べさせていたスープが、まだ器の底に半分ほど残っていた。

 

「一人で飲むには、まだ手が震える。……冷めると、味が落ちるからな」

 

 無表情を装ってはいるが、ゲナウの耳の後ろはほんのりと赤い。彼なりの、精一杯の“もっと看病してほしい”というおねだりだった。その不器用すぎる甘え方に、メトーデの胸の奥から愛おしさが溢れ出す。

 

「……もう、本当にずるい方です」

 

 メトーデはふっと困ったように笑うと、サイドテーブルからスープの器を手に取った。しかし、彼女は匙を持たなかった。代わりに、自らスープを一口、その美しい唇に含んだ。

 

「メトーデ……?」

 

 ゲナウが怪訝そうに眉をひそめた瞬間、メトーデはベッドへ深く身を乗り出し、彼の唇に自分の唇をそっと重ねた。

 

「ッ……!」

 

 ゲナウの目が見開かれる。メトーデは彼の驚きを受け止めるように、優しく、そして丁寧に、自身の口内にある温かいスープを彼の口へと流し込んでいく。薬草の微かな苦味と、お互いの体温が混ざり合う、あまりにも甘美な口移し。ゲナウは一瞬だけ身体を硬くしたが、すぐに諦めたように力を抜き、メトーデから注がれる温もりをすべて、静かに飲み干した。スープがすべて行き渡っても、二人の唇はしばらく離れなかった。メトーデはゲナウの唇の感触を慈しむように、名残惜しげに小さく吸うと、ようやくゆっくりと顔を離した。繋がった糸が、教会の柔らかな光に反射して微かにきらめく。

 

「……これが、一番冷めずに、美味しく召し上がっていただける方法です」

 

 メトーデは上気した顔に悪戯っぽい、けれど最高に幸せそうな微笑みを浮かべた。

 

「お前は……本当に、大胆な真似を……」

 

 ゲナウは顔を真赤に染め、手で口元を覆いながら完全に絶句していた。冷酷な一級魔法使いの威厳はどこへやら、彼女の深い愛の前に完全に降伏した男の顔になっていた。

 

「ふふ、お熱、さらに上がってしまいましたね」

 

 メトーデは器をテーブルに戻すと、今度はゲナウのベッドの端にそっと腰掛けた。そして、彼の包帯だらけの身体に障らないよう、細心の注意を払いながら、その広い胸元にそっと自分の頭を預けた。ゲナウの胸からは、トントンと、少し早鐘を打つような愛おしい鼓動が聞こえてくる。

 

「メトーデ……」

 

「このまま、少しだけこうさせてください。あなたが本当に生きて戻ってきてくれた実感が、欲しくて……」

 

 甘えるように呟く彼女に、ゲナウはもう何も言わなかった。ただ、残った気力を振り絞るようにして、包帯の巻かれた大きな腕を彼女の背中に回し、愛おしそうにその身体を抱き寄せた。

 

「……ああ。ここにいる。もう、どこにも行かない」

 

 ゲナウの低く穏やかな声が、メトーデの耳元で心地よく響く。彼の胸の鼓動と、お互いの優しい体温。それだけに包まれながら、メトーデはそっと瞳を閉じた。死線の向こうから奇跡的に戻ってきた命と、ようやく結ばれた確かな想い。窓から差し込む優しい木漏れ日の中で、二人はどちらからともなく、深く、穏やかな眠りへと落ちていった。

 

 

 

End

 

 

 

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