葬送のフリーレン短編集   作:風亜

20 / 50
拒めば拒むほど

「……、ッく、は、……」

 

 薄暗い執務室。北側諸国の冷たい夜気が、開け放たれた窓から音もなく滑り込んでくる。一級魔法使いゲナウは、机に両手をついたまま、激しい咳に身を震わせていた。喉の奥を、酷く異質な塊がせり上がってくる。窒息しそうなほどの不快感と、肺を直接握りつぶされるような鈍い痛み。ゲナウはたまらず口元を抑え、深く何度も嘔吐(えづ)いた。ぽろぽろと、手のひらから零れ落ちるものがある。それは、黒い事務机の上に静かに散らばった。

 

───アストランティア。星の形をした、少し硬質で、どこか棘を連想させる繊細な赤い花弁のような総苞。それが、彼が息を吐き出すたびに、血の混じらない綺麗な状態で生み出されていく。

 

「……阿呆らしい」

 

 ゲナウは掠れた声で毒づき、机の上の花弁を荒々しく箒で掃くようにして、ゴミ箱へと追いやった。

 

花吐き病。巷で囁かれる、おとぎ話のような奇病。片思いの拗らせが原因で、胸の中に根を張った花を吐き出すようになる呪い。自らがそれに罹患しているなど、ゲナウは今もなお認めていない。なぜなら、彼には“誰かを恋い慕う”などという自覚が、これっぽっちもなかったからだ。

 

(呪詛の類か、あるいは魔族の残痕か。……いずれにせよ、一級魔法使いが聞いて呆れる)

 

 ただの体調不良。あるいは、最近の過密な任務による一時的な魔力の変調。そう自分に言い聞かせ、乱れた衣服を整える。彼が想う相手など、いるはずがなかった。ただ目の前の魔族を殺すことだけを存在理由としてきた男に、誰かを特別に想う余裕などあるはずがない。

 

コンコン、と。静まり返った部屋に、遠慮のない、しかし洗練されたノックの音が響いた。ゲナウの背筋が、無意識のうちに強張る。

 

「ゲナウさん、メトーデです。まだ起きていらっしゃいますか?」

 

 あいつだ。その声を聞いた瞬間、ゲナウの胸の奥で、眠っていたはずの“根”が猛烈に蠢いた。ぎり、と奥歯を噛み締める。喉の奥が一気に熱くなり、花の香りが口内に充満する。

 

「……夜更けに何用だ。鍵は開いている」

 

 努めて冷静に、いつもの低い声を意識して返事をする。扉が開き、廊下の明かりを背に受けてメトーデが入ってきた。相変わらず、どこか余裕を感じさせる、整った美しい立ち振る舞いだ。

 

「失礼いたします。執務室の明かりが見えたものですから。……まぁ、ずいぶんと冷え込んでいますね」

 

 メトーデは部屋に入るなり、開いた窓へと歩み寄り、パタパタとそれを閉めた。その動作一つ取っても、彼女の気遣いは完璧で、悪意など微塵もない。

 

「用がないなら帰れ。私は忙しい」

 

「そうおっしゃると思いました。ですが、最近のゲナウさん、少し様子がおかしいですよ。任務中も心ここにあらずといった風ですし、何より……」

 

 メトーデが、一歩、ゲナウの方へ歩み寄る。彼女が近づくにつれ、彼女が纏う、微かな、しかし清潔な香水の香りがゲナウの鼻腔をくすぐった。その瞬間、ゲナウの肺が激しく拒絶反応を起こした。

 

(───来るな。近づくなッ)

 

 心の中で叫ぶが、声にはならない。喉が完全に花弁で塞がれかけていた。

 

「顔色が、いつにも増して優れません。体調を崩されているのではないですか?」

 

 メトーデの目が、心底からの心配を湛えてゲナウを見つめる。彼女にとって、ゲナウは大切な戦友であり、尊敬すべき一級魔法使いの同僚だ。そこに一片の濁りもない。彼女はただ、純粋に、悪気なく、彼の身を案じているだけだった。

 

「……何でもない。ただの、寝不足だ」

 

 ゲナウは声を絞り出す。だが、限界だった。

 

「ゲナウさん?」

 

 メトーデが、さらに距離を詰める。心配のあまり、彼女の細い手が、ゲナウの額に触れようと伸びてくる。

 

「(やめろ───)ッ、ごほッ! げほッ、く、……ッ!!」

 

 ゲナウはメトーデの手を振り払うようにして、背を向け、激しく机に突っ伏した。一度溢れ出た衝動は、もう止められなかった。手のひらで口を覆うが、指の隙間から、棘に見える赤い花弁のような総苞が、まるで血飛沫のように次々と溢れ出て、床へと舞い落ちる。

 

「……え?」

 

 メトーデの困惑した声が聞こえる。ゲナウは必死に背中で息をしながら、床に散らばったアストランティアの花を、自らの漆黒の外套で隠そうと足で引き寄せた。しかし、あまりの量に隠しきれるはずもない。

 

「ゲナウさん、それは……花? なぜ、口から……」

 

 メトーデの声から余裕が消え、明らかな動揺が混じる。彼女は多種多様な魔法や呪いに通じる優秀な魔法使いだ。この現象が何を意味するか、知識としては知っているはずだった。

 

「見るな……、出て行け……ッ!」

 

 ゲナウは振り返らず、地を這うような声で拒絶した。しかし、メトーデは引き下がらない。それどころか、背後からゲナウの肩にそっと手を置いた。その手の温もりが、ゲナウの心を、そして病をさらに追い詰める。  

 

「そんな状態で放っておけるわけがありません。これ、呪いの類ですよね? どこの魔族に植え付けられたのですか? すぐに私の精神魔法で解析を───」

 

「違うと言っている!!」

 

 ゲナウは激昂し、メトーデの手を強く撥ね退けた。勢いよく振り返ったゲナウの口元には、未だ一枚の赤い花弁のような総苞が張り付いている。その瞳は、怒りと、そして自らの制御の利かない肉体への屈辱に震えていた。

 

「魔族の呪いなどではない。ただの……私の、不徳だ。お前には関係ない。消えろ」

 

 冷酷に言い放つ。だが、メトーデの瞳には、怒りも、怯えもなかった。そこにあるのは、痛々しいほどの“深い慈愛”と“心配”だけだった。

 

「関係なくありません。わたくし達はパートナーでしょう? ゲナウさんが一人でこんなに苦しまれているのに、理由も聞かずに立ち去るなんて、わたくしにはできません」

 

 メトーデは、傷ついた子供をあやすかのように、一歩前へ出た。そして、拒絶するゲナウの強張った身体を、包み込むようにそっと抱きしめた。

 

「大丈夫ですよ、ゲナウさん。わたくしにできることなら、何でも言ってください。貴方の苦しみを、取り除きたいのです」

 

 優しく、頭を撫でるような距離感。メトーデにとっては、これが彼女なりの、心からの親愛の情であり、救済の形だった。しかし、それはゲナウにとって、最も苛烈な“毒”だった。

 

(あぁ、何て事だ……)

 

 彼女の腕の中で、ゲナウの胸の奥の“根”が、狂ったように歓喜の悲鳴を上げ、一気に成長していく。彼女が優しくすればするほど。彼女が自分を心配して、近づけば近づくほど。この病の引き金である“彼女への無自覚な想い”が、彼の理性を焼き尽くそうとする。これほど近くにいるのに、彼女のその優しさは、自分を“一級魔法使いの同僚”としてしか見ていない証拠。その決定的な事実が、ゲナウの心を容赦なく抉る。

 

「……は、ッ、ぐ……」

 

 ゲナウはメトーデの肩越しに、再び激しく咳き込んだ。今度は、総苞だけではない。一輪の、完璧な形を保ったアストランティアの赤い花が、ゲナウの口から溢れ、メトーデの美しい髪の上に、ぽつりと落ちた。あまりの苦しさに、ゲナウは自嘲気味に目を細める。

 

(なぜ、これほど胸が痛む。なぜ、こんなにもあいつの温もりが心地よく、そして悍ましいほどに苦しい)

 

 そこまで追い詰められてなお、ゲナウは自らの感情の正体を“恋”とは呼ばない。認めない。ただ、自分に注がれるメトーデの無垢な善意の重さに、息も絶え絶えになりながら、終わりなき窒息の苦しみに沈んでいくのだった。

 

 

 メトーデの細い腕に抱かれながら、ゲナウは荒い呼吸を繰り返していた。彼の口から零れ落ち、彼女の髪に引っかかったアストランティアの花。メトーデはそれをそっと指先で摘み取り、悲しげに見つめた。実は、メトーデは知っていた。これが“花吐き病”という、呪いではなく“想い”が引き起こす病であることを。そして彼女は、ゲナウ自身がその事実に気づいていないこと、あるいは死んでも認めようとしないであろうことも、完全に理解していた。

 

「ゲナウさん」

 

 メトーデは抱きしめる力を微かに強める。彼女の胸の奥にも、静かに、しかし決して消えない火が灯っていた。彼女が惹かれたのは、彼の冷徹な仮面の裏にある、不器用すぎるほどの優しさだ。北部高原の過酷な戦場で、どれほど口では突き放そうとも、最後には必ず誰かを庇って傷を負う男。その生き様に、メトーデはいつしか、単なる同僚以上の、深い恋慕を抱いていた。だからこそ、想うのだ。───この不器用で、自分をすり減らすことしか知らない人を、私が癒し、守らなければ、と。

 

「……離れろ、メトーデ」

 

 ゲナウが掠れた声で、彼女の肩を押し戻す。メトーデは今度は素直に数歩下がったが、その手にはまだ、彼が吐き出したアストランティアの花が握られていた。

 

「ゲナウさん。お隠しにならなくても結構です。わたくし、知っていますよ。これが魔族の呪いなどではなく……『花吐き病』という恋煩いであることを」

 

「……!」

 

 ゲナウの鋭い眼光が、驚愕と拒絶に揺れた。

 

「戯言を。私が、誰かにそのような軟弱な感情を抱くはずがない。私は北部高原で魔族を殺す一級魔法使いだ。……それ以外のものは、何も持たないし、必要もない」

 

 ゲナウは吐き捨てるように言った。それは彼にとって、人生のすべてを賭して守ってきた一線の“正義”だった。故郷を奪われ、戦いの中にしか居場所のない自分に、恋愛などという贅沢で脆い感情は不要。否、あってはならないのだ。

 

「いいえ、必要ですよ。ゲナウさんも一人の人間です」

 

「黙れ、必要ないと言っている!」

 

 怒鳴った拍子に、喉の奥が引き裂かれるような痛みに襲われる。

 

「ごほッ、げほッ……!」

 

 ゲナウは再び激しく咳き込んだ。今度は、先ほどよりも明らかに花の量が多い。床にアストランティアの赤い花弁のような総苞が、まるで血のように降り積もっていく。認めようとしないゲナウの頑なな理性が、彼の“気持ち”と激しく衝突し、裏腹に病状をどんどん悪化させてさせていく。

 

「ゲナウさん、もうやめてください……!」

 

 メトーデは胸を締め付けられる思いで、その光景を見つめていた。彼女は知っている。花吐き病を治す唯一の方法は、想い人と“両想い”になることだと。だが、今のゲナウは、自らの感情そのものを全力で否定し、心の奥底に鍵をかけて閉じ込めている。彼が自分自身の恋心を認めない限り、メトーデがどれほど彼を愛していようとも、この病が癒えることはないのだ。

 

「わたくしを頼ってください。わたくしは貴方のパートナーで……あなたを守りたいのです」

 

「……お前に守られるほど、私は、落ちぶれて、いない……」

 

 ゲナウは机を支えに、どうにか立ち上がろうとする。だが、肺を花に侵食され、魔力の循環さえも滞り始めていた。視界がかすみ、膝が笑う。その、どこまでも頑固で、痛々しいほどに孤高な姿。メトーデは静かに歩み寄り、崩れ落ちそうになる彼の身体を、再びその華奢な身体ですべて受け止めた。

 

「頑固な人。……でも、そんなゲナウさんだからこそ、わたくしは」

 

 メトーデは彼の耳元で、消え入りそうな声で呟いた。その声に宿る本物の“熱”に、ゲナウは一瞬、息を呑む。

 

「今はまだ、認めなくて結構です。ですが、わたくしは貴方を死なせません。どれほど拒絶されても、わたくしは貴方の隣に居続けますから」

 

 メトーデの腕の中で、ゲナウは激しく襲い来る咳の波と、胸を焦がすような切なさに、ただ目を閉じることしかできなかった。彼の口から零れ落ちた赤い花弁のような総苞が、二人の足元を赤く染め上げていく。自覚なき恋の病は、彼の拒絶を嘲笑うかのように、さらに深く、その根を広げていた。

 

 

 その日、北部高原の宿営地の一室は、異様な香気で満ちていた。甘く、しかしどこか硝煙と死を連想させる、硬質で冷たい花の香り。

 

「がはッ、……げほッ! ───ぅ、く……ッ」

 

 ベッドの上で、ゲナウは激しく身悶えていた。すでに戦うどころか、起き上がることすらできない。漆黒の外套は剥ぎ取られ、白い寝着の胸元は、彼が吐き出し続けるアストランティアの赤い花弁のような総苞で埋め尽くされている。

 

花吐き病の末期。想いを自覚しないまま拒絶の理性を強め続けたゲナウの体内で、花の“根”は彼の命そのものである魔力の回路を完全に侵食していた。呼吸をするたびに肺が内側から突き刺され、口からは血の一滴も混じらない、ただただ恐ろしいほどに美しく赤い花が溢れ出る。

 

「ゲナウさん……! 息をして、しっかりしてください……!」

 

 ベッドの傍らで、メトーデは必死に彼の身体を抱き起こしていた。彼女の美しい衣服も、ゲナウが吐き散らした赤い花弁のような総苞にまみれている。しかし、そんなことを気にする余裕など微塵もなかった。メトーデの手は細かく震え、その瞳には、かつてないほどの恐怖と焦燥が浮かんでいる。

 

「……メ、トーデ……、離れ……ろ……」

 

 ゲナウは薄れていく意識の中で、なおも掠れた声で彼女を拒もうとした。彼女が近づけば、胸の奥の怪物が狂ったように喜び、さらに自分の命を吸い上げて花を咲かせる。それが分かっているからこその拒絶だった。だが、メトーデにはそれが“自分への嫌悪”に見えてしまい、彼女の心を容赦なく抉る。

 

「嫌です! なぜそこまでわたくしを拒むのですか!? 呪いでも魔族の攻撃でもない、ただの病でしょう!? なぜ治療を拒むのですか……!」

 

「治療など……ない……。私は、誰も、想って、いない……」

 

 ゴホッと、ゲナウの口から一輪の完璧な形をした大輪のアストランティアが零れ落ち、ベッドに転がった。それと同時に、彼の身体から急激に魔力が失われ、肌が急速に冷たくなっていく。心不全、あるいは窒息。このままでは、彼は数時間ともたずに、自らの胸の中に咲いた花に命を 喰い尽くされて死ぬ。メトーデは、その知識のすべてを総動員して理解していた。

 

花吐き病を治す唯一の方法は“両想い”であること。そして何より、ゲナウ自身がその感情を受け入れること。どれほど自分が彼を愛していようとも、ゲナウが頑なに“お前への感情などない”と心を閉ざし続けている限り、彼女の愛は届かない。それどころか、彼女の接近が彼への追い打ちとなり、死期を早めているという残酷な現実。

 

「……わたくしの、せいですか」

 

 メトーデの瞳から、大粒の涙がポロポロとゲナウの胸元へ落ちた。

 

「わたくしが、貴方に近づいたから。わたくしが、貴方を特別に想ってしまったから……だから、貴方はわたくしを拒むために、死んでいこうとするのですか……?」

 

 その声は、いつもの大人の余裕など完全に消え失せた、ただの傷ついた少女の悲鳴だった。メトーデはゲナウの冷たくなりかけた頬を両手で包み込み、額を彼の額へと押し付けた。

 

「酷い人……。不器用で、頑固で、どこまでもわたくしを置いていこうとする。……でも、わたくしは絶対に貴方を諦めません。貴方が自分の心を殺して死ぬというなら、わたくしはわたくしのすべてを賭けて、その心を抉り開けてみせます」

 

 メトーデは、ゲナウの赤みを帯びたブラウンの瞳を真っ直ぐに見つめた。彼の瞳はすでに光を失いかけている。

 

「ゲナウさん、聞いてください。わたくしは貴方を愛しています。一級魔法使いの同僚としてではなく、一人の男性として、貴方のその傷だらけの魂を、生涯をかけて守りたい」

 

 彼女の告白は、もはや戦場での叫びではなく、静かな、しかし絶対に揺るがない“誓い”だった。

 

「貴方がどれほど自分に恋愛など不要だと思っていようと関係ありません。貴方が故郷を失い、戦うことしかできないと言うなら、これからはわたくしのいる場所を、貴方の新しい故郷にすればいい。……わたくしを、貴方の生きる理由にしてください」

 

 メトーデはそのまま、ゲナウの血の気の引いた唇に、自らの唇を重ねた。深い、深い、命を分け与えるような口づけ。メトーデの涙の味が、ゲナウの口内に広がっていく。

 

(……温、かい……)

 

 ゲナウの閉ざされかけた意識の底に、メトーデの強烈な“熱”が流れ込んできた。彼女の涙、彼女の匂い、そして、自分をどこまでも肯定し、求めてくれる圧倒的な愛の質量。理性が、最後の抵抗を試みる。

 

『お前は一級魔法使いだ。このような温もりに溺れては、いつかまた大切なものを失うぞ』

 

 しかし、それ以上に、彼の魂が叫んでいた。

 

『失いたくない。メトーデを、この温もりを、もう二度と手放したくない』

 

「───あ、あぁ……」

 

 ゲナウの胸の奥で、カチリ、と音がした。頑なに閉ざされていた心の門が、メトーデの涙と口づけによって、跡形もなく崩壊していく。自覚した瞬間、肺を苦しめていたアストランティアの“根”が、一瞬にして光の粒子となって霧散した。滞っていた魔力の回路が爆発的に開き、ゲナウの身体に凄まじい熱が戻ってくる。

 

「……ッ、は、ぁ……ッ!」

 

 ゲナウは大きく息を吸い込み、メトーデの身体を、今度は拒絶するためではなく、強く抱きしめるためにその腕を回した。

 

「ゲナウ、さん……?」

 

 メトーデが目を見開く。ゲナウの口から花はもう出ない。代わりに、彼の大きな手がメトーデの背中に回り、驚くほどの力で彼女をベッドへと引き寄せていた。

 

「……私の、負けだ。メトーデ」

 

 ゲナウは彼女の耳元で、まだ少し掠れているが、確かに生気の戻った低い声で呟いた。ゲナウはメトーデの身体を抱きしめたまま、その髪に深く顔を埋めた。死の淵から彼を引っ張り上げたのは、他でもない、彼女の容赦ないほどの愛だった。

 

「私は……阿呆だった。お前を失う恐怖を、私は『戦いへの雑念』だと、ずっと欺き続けていた。……認めよう。私は、お前に溺れている」

 

 突然、ゲナウの喉が大きく震えた。これまでの、肺を抉られるような窒息の苦しみではない。胸の最奥、最も純粋な心の在処から、何かがせり上がってくる不思議な感覚。ゲナウはベッドから少し上体を起こし、口元を片手で覆った。メトーデが咄嗟に、彼のもう片方の手を包み込むように握りしめる。

 

「───ッ、く、ぁ……」

 

「ゲナウさん……?」

 

 ゲナウの指の隙間から、溢れ出たのは光だった。これまでに吐き出してきた、少し硬質でトゲトゲとした赤いアストランティアではない。それは、月光をそのまま編み込んだかのように妖しく、美しく輝く、一輪の“白銀の百合”だった。ぽとり、と。ゲナウの手のひらから、その不思議な百合がベッドの上に落ちる。花弁は金属のような気品ある銀色の光沢を放ちながら、透き通るような白さを宿し、部屋を満たしていた硝煙の香りを一瞬で清らかな甘さへと塗り替えていった。メトーデはその花を見て、息を呑み、そして本当に嬉しそうに目元を綻ばせた。

 

「……本当に、治ったのですね」

 

 花吐き病の古い伝承。両想いになり、病が完全に完治したその証として、罹患者は最後に“白銀の百合”を吐き出すという。それは、決して他者へは感染しない、二人の想いが結実した奇跡の結晶だった。ゲナウは自分の手のひらと、ベッドに転がった白銀の百合を交互に見つめ、それから初めて見るような優しい苦笑を浮かべた。

 

「……生涯の不覚、と言いたいところだが。こればかりは、悪くないな」

 

 ゲナウはもう片方の手で、メトーデの身体を驚くほどの力で引き寄せ、再び強く抱きしめた。彼の口から、花はもう出ない。胸の痛みもない。あるのはただ、心地よい魔力の循環と、目の前の女性を愛おしいと想う、確かな熱だけだった。

 

「もう、絶対に離しませんから」

 

 メトーデはゲナウの胸に顔を埋め、安堵の涙を流しながら、ベッドの上の白銀の百合をそっと愛おしそうに拾い上げるのだった。そこにはただ、互いの命の温もりを確かめ合う二人の呼吸だけが残されていた。

 

 

 

End

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定