葬送のフリーレン短編集   作:風亜

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狂おしいほどに

 北側諸国の冬は冷徹だ。しんしんと降り積もる雪を見下ろしながら、ゲナウは自室の机で書類にペンを走らせていた。一級魔法使いとしての任務、ゼーリエからの指示、次の討伐作戦の立案。彼の頭を占めるのは、常に効率と結果だけだった。

 

「ゲナウさん、次の作戦書を持ってきましたよ」

 

 ノックと同時に、聞き慣れた落ち着いた声が響く。パートナーであるメトーデだ。彼女はいつものように完璧な美しい微笑みで歩み寄り、机に書類を置いた。その丁寧な所作には一切の無駄がなく、有能な魔法使いとしての風格が漂っている。だが、ゲナウはペンを止めた。じっと彼女の顔を見つめる。

 

「……何でしょう? わたくしの顔に、何かついていますか」

 

「魔力が乱れている。ほんの僅かだが、呼吸の周期もいつもと違う」

 

 ゲナウの言葉は、冷静な戦力分析そのものだった。恋愛感情など微塵もない。ただ、命を預け合うパートナーの機能低下を警戒する、仕事人間としての冷たい観察眼。

 

「次の任務は過酷だ。自己管理もできないなら、お前を前線から外す」

 

「あら、手厳しいですね。少し寝不足なだけですから、心配いりませんよ」

 

 メトーデはいつものように、柔らかく余裕のある笑みを浮かべてみせた。丁寧な言葉遣いも含めて、完璧な演技だった。

 

「ならいい。下がれ」

 

 ゲナウが視線を書類に戻したのを確認すると、メトーデは静かに部屋を退出した。パタン、と扉が閉まる。廊下に出た瞬間。メトーデは壁に手を突き、激しく咳き込んだ。込み上げる不快感と、胸を突き刺すような鋭い痛み。

 

(……本当に、どこまでも仕事人間なんですから)

 

 彼女は自嘲気味に微笑み、口元を押さえていた手をそっと離した。その手のひらの上には、血の一滴すら混じっていない。ただ、冷たくて白い、うつむきがちに咲くスノードロップの花弁が数枚、静かに乗っていた。メトーデは精神操作の魔法を応用し、自らの動揺も、喉の違和感も、すべてゲナウの前で完璧に隠蔽していた。

 

それなのに、彼は“魔力の乱れ”だけで体調不良を見抜いたのだ。ただし、それは彼女を心配したからではない。あくまで“戦力としての不具合”を検知しただけ。体内に根を張るこの奇妙な花は、ゲナウへの届かない恋心が原因だと、聡明な彼女はすでに理解していた。両想いにならなければ死に至る、というこの病の法則も。

 

(任務のため。戦力のため。……わたくしを見てくれる理由は、いつでもそれだけ)

 

 メトーデは手のひらの白い花弁を見つめながら、暗い廊下でそっと目を細めた。彼女の脳裏に、静かで、ひどく澱んだ思考がよぎる。もし、このまま自分が病に倒れたら。ゲナウさんはどんな顔をするだろう。きっと彼は眉一つ動かさず、淡々と“有能な戦力を失った”と処理し、次の代わりを探すのだろうか。それとも───

 

(いっそ、この病のせいで任務が失敗して、貴方が大怪我でも負えばいいのに。そうして、わたくしがいなければ何もできない身体になってしまえばいい。───手に入らないのならいっそ死んでほしい。死ぬほど苦しめばいい)

 

 任務のことしか頭にないあの男が、任務を奪われ、戦う力を失い、ただ目の前で朽ちていく自分を見つめるしかなくなる。その時初めて、彼は自分だけのせいで“狂う”のではないか。

 

「……ふふ、最低ですね、わたくしったら」

 

 丁寧な口調のまま、自分の理性が、恋というバグのせいで静かに狂い始めている。メトーデは冷たい花弁を優しく握りつぶすと、何事もなかったかのように、またいつもの完璧な微笑みを張り付けて歩き出した。体内の花は、さらに深く、彼女の心臓に根を伸ばしていく。

 

 

 数日後、北部高原の鬱蒼とした森林地帯。ゲナウとメトーデは、結界を荒らすはぐれ魔族の討伐任務に就いていた。戦闘は合理的に、かつ迅速に終わった。ゲナウの黒金の翼が魔族を切り裂き、メトーデの正確無比な攻撃魔法がトドメを刺す。いつも通りの、無駄のない完璧な連携だった。しかし、魔族が塵に還った直後、ゲナウは背後の気配に振り返った。

 

「……メトーデ」

 

 声をかけられたメトーデは、一瞬だけビクッと肩を揺らした。だが、次の瞬間にはいつもの柔らかな笑みを湛えて振り返る。

 

「はい、何でしょうか、ゲナウさん」

 

「お前の魔力の残量が計算に合わない」

 

 ゲナウは歩み寄り、冷徹な視線で彼女を上から見下ろした。彼の口から出たのは、労いの言葉ではなく、徹底した“数値”の指摘だった。

 

「今の一戦、お前の魔法の威力は平時と変わらなかった。だが、消費した魔力量が通常の1.3倍多い。なぜだ。魔力の効率的な運用は一級魔法使いの基本のはずだ」

 

 メトーデは、心臓の奥の根がチクリと痛むのを感じた。

 

(……本当に、恐ろしいほどよく見ていますね)

 

 彼女はゲナウに気づかれないよう、戦闘中も体内の“花”を抑え込む精神操作魔法を併用していた。その分の魔力消費を、ゲナウは戦闘のログだけで正確に割り出したのだ。

 

「あら、ゲナウさんに見透かされてしまうなんて恥ずかしいですね。最近、新しい防御魔法の術式を体内で常時展開する実験をしているんです。その燃費が少し悪くて」

 

「嘘だな」

 

 ゲナウの低い声が、森の冷気を孕んで響く。

 

「お前ほどの魔法使いが、そんな非効率な実験を実戦に持ち込むはずがない。それに、お前の魔力は『外』ではなく『内』に向けて練られている。何かを体内から拒絶しているか、あるいは、何かを必死に抑え込んでいる魔力の動きだ」

 

 ゲナウは一歩、メトーデとの距離を詰めた。彼にとって、これはただの“不確定要素の排除”だ。パートナーが自覚なき呪詛に侵されている可能性や、魔族の精神魔法を受けている可能性を、仕事人間として淡々と潰そうとしているに過ぎない。

 

「隠し事は許さない。戦力に支障が出る前に理由を言え。お前の身体の中で、何が起きている」

 

 冷たい、しかし圧倒的なまでの視線がメトーデを射抜く。その瞳には、自分の体調を案じる“男”の情などはひとかけらもない。あるのは、ただ有能な武器の破損を懸念する“指揮官”の目だ。普通なら、その無機質な冷たさに絶望するかもしれない。だが、メトーデの歪み始めた思考は、まったく別の悦びを抽出していた。

 

(ああ、ゲナウさん。貴方はそうやって、わたくしを『管理』したいのですね。わたくしの魔力の隅々まで、呼吸の回数まで、すべてを把握しておきたいのですね)

 

 恋愛感情ではない。けれど、ゲナウが自分という存在をここまで緻密に、狂おしいほど正確に観察しているという事実が、メトーデの胸を満たしていく。

 

「……ゲナウさん」

 

 メトーデは小さく息を吐き、一歩前に出た。ゲナウとの距離が、あと数センチで触れ合うほどに縮まる。彼女の口元には、いつも通りの、しかしどこか底の知れない艶やかな微笑が浮かんでいた。

 

「本当に、ゲナウさんはわたくしのすべてを知りたいのですね。でも、これは一級魔法使いとしてのプライベートな秘密、と言ったら……怒られてしまいますか?」

 

 その言葉の裏で、メトーデの喉元まで、冷たい純白の花弁がせり上がってきていた。今ここで、彼の目の前でこの花を吐き出せば、彼はどんな計算式を組み立てるだろう。これが自分への恋患いだと知った時、あの鉄壁の仮面はどう崩れるだろう。

 

「ふふ、冗談ですよ。少し体内の魔力循環の調子が悪いだけです。帰還したら、自分でじっくり治療しますから、今回は見逃してくださいな」

 

 丁寧な口調でそう煙に巻くと、メトーデは楽しげに、しかし確実に、心臓の奥で成長するスノードロップの根が、さらに深く彼女を蝕んでいくのを感じていた。

 

 

 ───それは、さらに数週間が経過したある日の任務中のことだった。吹き荒れる吹雪の中、二人は強力な結界の修復作業に当たっていた。周囲に敵の気配はない。しかし、極寒の環境と絶え間ない魔力消費は、メトーデの身体を確実に限界へと追い詰めていた。

 

(……うっ、ぁ……)

 

 メトーデの視界が、急激に歪む。精神操作の魔法でどれだけ痛みを麻痺させようとしても、心臓の奥にびっしりと生い茂った“根”が、彼女の肺を、気道を、物理的に圧迫していた。

 

「メトーデ、術式の展開が遅れている。どうした」    

 

 結界の向こう側から、ゲナウの硬い声が響く。メトーデは返事をしようと口を開いた。だが、言葉の代わりに込み上げてきたのは、すさまじい拒絶反応だった。

 

「ごほっ……げほっ! ゲナウ、さん……っ!」

 

 激しく咳き込み、その場に膝を突く。その瞬間、彼女がこれまで完璧に維持していた隠蔽の魔法が、完全に霧散した。

 

「おい、メトーデ!」

 

 ゲナウがただ事ではない気配を察し、瞬時に彼女の元へと駆け寄る。メトーデは必死に手で口元を覆った。ゲナウにだけは、この醜くも哀れな姿を見られたくなかった。自分の恋心が、こんな実体を持った異物として体内から溢れ出る瞬間だけは。

 

「触ら……ないで、ください……っ、ゲナウさん、下がって……」

 

 丁寧な口調を保つ余裕すらなく、掠れた声で拒絶する。だが、仕事人間であるゲナウが、その指示に従うはずがなかった。パートナーの明確な機能不全。原因不明の体調不良。彼はそれを“排除すべきリスク”として、力ずくで解明しようとする。

 

「拒否は認めん。原因を突き止める」

 

 ゲナウの大きな手が、メトーデの手首を掴んだ。  

 

「離して!」

 

と叫ぼうとしたメトーデの抵抗を、彼は一級魔法使いとしての圧倒的な筋力と冷徹さでねじ伏せる。そして、彼女の口元を塞いでいた手を、力ずくで引き剥がした。

 

「ごほっ、あ、───っ!!」

 

 遮るもののなくなった彼女の唇から、激しい咳と共に、何かが一気に溢れ出た。バラバラと、雪の上にぶちまけられる。それは血ではなかった。冷たい雪原に散らばったのは、数十枚もの、純白の、瑞々しい花弁。そして、彼女の喉の奥からせり出し、ボタボタと落ちたのは───茎のついた、丸ごとのスノードロップの花だった。

 

「……何だ、これは」

 

 ゲナウの瞳が、初めて驚愕に揺れた。魔族の呪いか、未知の精神魔法による擬似物質化か。彼の高度な戦術脳が、瞬時にあらゆる可能性を計算しようとフル回転する。しかし、目の前で、苦しげに息を荒げながら白い花を吐き続けるパートナーの姿は、彼のどの計算式にも当てはまらなかった。

 

「魔法の痕跡がない……。これは、本物の植物か? なぜお前の体内からこんなものが……」

 

 ゲナウは雪に落ちたスノードロップを一輪、拾い上げようとした。

 

「触らないで……っ!!」

 

 メトーデが悲鳴のような声を上げた。花吐き病の特徴。それに触れた者に、この呪わしい恋患いは“感染”する。

 

「ゲナウさん、それに触れてはダメです……! お願いですから、見ないで……わたくしを見ないでください……!」

 

 涙を浮かべ、雪原に散らばる花弁を必死に隠そうとするメトーデ。しかし、ゲナウの指先は、すでにその白い花弁に触れていた。ピリ、とゲナウの指先から、微小な魔力の変動が伝わる。呪いではない。魔族の術でもない。ただ、その花に触れた瞬間、ゲナウの脳内に流れ込んできたのは、言葉にならないほどの“重苦しい、執着に満ちた恋情”の残滓だった。ゲナウは、その感情の向かう先が“自分自身”であることに、その徹底した観察眼ゆえに、瞬時に気づいてしまった。

 

「メトーデ。お前、これは───」

 

 すべてを察したゲナウの視線が、メトーデを射抜く。暴かれた。自分の心臓を蝕む狂気が、最も見られたくない相手に、最も無機質な方法で暴かれた。メトーデは、浅い呼吸を繰り返しながら、絶望の淵で、しかしどこか恍惚とした歪んだ笑みを浮かべた。

 

「……ふふ。気づいて、しまいましたね。ゲナウさん」

 

 乱れた髪の間から、メトーデの瞳が怪しく光る。  

 

「これがわたくしの、貴方への『バグ』です。触ってしまいましたね。……もしこれが貴方にうつったら、貴方も任務どころではなくなって、わたくしみたいに狂ってしまうのでしょうか?」

 

 雪の上に横たわる純白の花々は、二人の間で、静かに冷たく咲き誇っていた。

 

 

 ゲナウの指先に残る、謎の感情の残滓。しかし、彼の鋼の理性はその精神的ノイズを“無意味な情報”として一瞬で切り捨てた。彼にとって重要なのは、目の前の有能な戦力(メトーデ)が、自己の精神的なバグによって死に瀕しているという冷酷な事実だけだった。

 

「狂う、か」

 

 ゲナウは感情の消えた声で呟き、立ち上がった。指先についた白い花弁を、容赦なく雪の上に振り落とす。

 

「下らん。そんな非合理的な理由で、俺が任務を放棄すると思うか」

 

「……ゲナウ、さん?」

 

 メトーデは雪に伏せたまま、呆然と彼を見上げた。ほんの一瞬でも、彼の冷静さが揺らぐことを期待した自分の浅はかさを思い知る。ゲナウはどこまでも、ゲナウだった。

 

「両想いになれば治る、だと? ならば話は単純だ」

 

 ゲナウは冷徹な視線でメトーデを見下ろしたまま、淡々と言い放った。

 

「メトーデ。俺はお前に、一級魔法使いとしての能力、および任務上のパートナーとしての利便性を大いに認めている。お前を失うことは、今後の任務において著しい損失だ」

 

 彼は一歩、彼女に近づく。

 

「だから、命じる。お前のその『恋』とやらを、今すぐ両想いにしろ。俺はお前をパートナーとして必要としている。その事実に偽りはない。それがお前の言う恋愛感情とどれほど乖離していようが知ったことか。俺の言葉を都合よく解釈し、その脳内のバグを今すぐ修正しろ」

 

「───っ」

 

 メトーデは息を呑んだ。あまりの理不尽。あまりの、仕事人間ゆえの暴論。彼はメトーデに恋をしたわけではない。ただ、“お前が必要だ(=だから死ぬな、治れ)”という事実を、力ずくで彼女の心臓に叩き込んできたのだ。

 

「それができんと言うなら」

 

 ゲナウは腰の魔導書に手をかけ、氷のように冷たい声で続けた。

 

「ゼーリエ様に報告し、お前の脳内から『俺への執着』だけを外科手術の魔法で抉り出させる。お前が俺を忘れ、ただの有能な人形になろうとも、戦力として機能するならそれでいい」

 

 忘れられるか、今ここで彼の都合の良い“必要性”を受け入れて生き永らえるか。どこまでも冷徹で、残酷な二択だった。しかし、その徹底した冷酷さに触れた瞬間、メトーデの胸の奥で、カチリ、と何かが噛み合う音がした。

 

(あぁ……本当に、この人は……)

 

 これほど拒絶されても、これほど道具のように扱われても。彼は自分を“手放さない”と言っているのだ。任務のため、という最悪な理由であっても、ゲナウはメトーデという存在を、他の誰でもない自分の隣に縛り付けようとしている。それは、メトーデの歪んだ執着にとって、これ以上ない“正解”だった。

 

「……ふふ、あははは……っ!」

 

 メトーデは口元を押さえ、狂おしき笑声をあげた。お腹が痛いほどにおかしい。そして、愛おしい。自分の聡明な頭脳でも制御できなかった狂気を、この男は“仕事の効率”という定規一本で、力ずくでねじ伏せてみせたのだ。

 

「げほっ……っ、ごほ!」

 

 激しい咳が、再び彼女を襲う。しかし、今度溢れ出たのは、先ほどまでの小さな花弁ではなかった。ゴトリ、と雪の上に落ちたのは。純白を通り越し、月光のように鈍く輝く白銀の、巨大な百合の花。それは、花吐き病における“完治の証明”。ゲナウの“お前が必要だ”という冷徹な執着を、メトーデの心が“両想い”として強引に、かつ完璧に解釈した瞬間の証だった。

 

「はぁ、はぁ……っ……」

 

 呼吸が、劇的に軽くなる。心臓を縛り付けていた根が、一瞬で霧のように消え去っていく。メトーデは乱れた衣服を整え、ゆっくりと立ち上がった。その顔には、先ほどまでの悲壮感は微塵もない。いつもの、大人の余裕を湛えた完璧な微笑みが戻っていた。

 

「……本当に、手厳しい方ですね、ゲナウさん」

 

 メトーデは足元の白銀の百合を踏みにじり、一歩、彼の隣へと並んだ。

 

「でも、分かりました。ゲナウさんがそこまでわたくしを求めてくださるなら、一級魔法使いとして、これからも貴方の隣で完璧に機能して見せましょう。……死ぬまで、ね?」

 

「……フ、最初からそうしろ」

 

 ゲナウは踏みつぶされた花を一瞥することすらなく、踵を返して歩き出した。その背中を、メトーデは底の知れない、けれど確かな悦びに満ちた瞳で見つめ、その後を追う。二人の関係は、何も変わらない。ゲナウはどこまでも仕事人間のままで、メトーデはそんな彼に、より深く、静かな狂気をはらんだ恋を捧げ続ける。北側諸国の冷たい風だけが、消えゆく銀の花びらを静かに押し流していった。

 

 

 

End

 

 

 

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