葬送のフリーレン短編集   作:風亜

22 / 50
魂の眠る地

「───オレオール?」

 

 低く、ひどく冷徹に響くゲナウの声が、静まり返った室内に落とされた。神技のレヴォルテとの死闘が終わり、凄惨な戦場となった村には、未だに硝煙と血の匂いがかすかに立ち込めている。村人の遺体を引き取りに来るノルム騎士団を待つため、フリーレン一行と一級魔法使いの二人は、比較的被害を免れた民家の一室に身を寄せていた。薄暗い部屋の片隅で、フリーレンはいつものように淡々と、けれどどこか遠くを見るような目で自らの旅の目的地について口にした。それを聞いたゲナウは、形の良い眉を不機嫌そうにひそめる。

 

「馬鹿馬鹿しい。そんな都合の良い場所があるはずがないだろう」

 

 ゲナウは忌々しげに一蹴した。腕を組み、背を壁に預けたまま、彼の鋭い視線がフリーレンを射抜く。

 

「死者と対話できる場所だと? 人間の未練が生み出したただのおとぎ話だ。現実はそう甘くはない。死んだ者はそれまでだ。後に残るのは、冷たくなった肉体と、それを処理する生者の労力だけだ」

 

 彼の言葉は冷酷だったが、多くの死を見届け故郷を滅ぼされた彼なりの現実主義でもあった。

 

「わたくしは、あると思いますよ」

 

 ゲナウの言葉を否定するように、柔らかく、しかし芯のある声が重なった。メトーデだ。彼女はフリーレンの隣に腰掛け、その小さな頭を愛おしそうになでなでしながら、穏やかな微笑を浮かべている。

 

「世界は広いですし、魔法の世界にはわたくしたちの常識を超えた神秘がいくつもあります。大魔法使いフランメが残した手記にあるのなら、なおさらです。死者の魂がそこに集うというのも、あながち夢物語ではないとわたくしは思います。ねえ、フリーレンさん?」

 

「むふー、メトーデは話がわかるね。けどなでなではやめて」

 

 メトーデの手を結局受け入れながら、フリーレンは少しだけ視線を落とした。

 

「まぁ、もしかしたらフランメの何かの罠かもしれないけどね」

 

「罠、ですか」

 

 少し離れた場所で、お茶の準備をしていたフェルンが呆れたような声を出す。シュタルクも「えぇ……フリーレンの師匠そんなことする人なのか?」と顔をしかめた。

 

「うん。たまにそういう質の悪い悪戯するから」

 

 フリーレンは事もなげに言ってのけた。フランメへの、呆れと信頼が混ざったような口調だった。

 

「でも、私は一応信じてそこを目指してる。……ヒンメルに、伝えたいこともあるしね」

 

 その名前を口にした瞬間、フリーレンの瞳に宿る色彩が、ほんの少しだけ柔らかくなった。それはもうこの世にはいない、けれど確かに彼女の旅の起点となった勇者の名。ゲナウはそれ以上は言葉を続けなかった。ただ、否定しつつも、そんな不確かなもののために大陸を北へと進むエルフの横顔を、その冷徹な双眸で見つめていた。室内には再び、騎士団の到着を待つ静寂が訪れる。しかしその空気は、先ほどまでの戦いの余韻とは少し違う、どこか静かな熱を孕んでいるようだった。

 

 

 隣の部屋へと移動したゲナウは、一人、窓の外に広がる静まり返った村の景色を眺めながら思考を巡らせていた。

 

(魂の眠る地、オレオール……)

 

 もし本当に死者と対話できる場所が存在するのなら、あのゼーリエ様が知らないはずはない。だがあの方は、知っていたとしても我々一級魔法使いにわざわざ話して下さるようなお方ではないだろう。あの至高の魔法使いにとって、生者と死者の境界など、取るに足らない事象の一つに過ぎないのかもしれない。だが、本当にそんな地があるのだろうか。ゲナウは自らの内に湧き上がる疑問を、冷徹な理性で抑え込もうとしていた。死んだ者が戻らないことなど、誰よりも理解しているはずだった。

 

「ゲナウさん」

 

 衣擦れの音と共に、静かに扉が開いた。やってきたのはメトーデだった。彼女はいつも通りの穏やかな、しかしすべてを見透かすような笑みを浮かべて歩み寄ってくる。

 

「……何の用だ、メトーデ」

 

「いいえ、少し気になりまして。ゲナウさんなら……もし本当にオレオールがあるのだとしたら、やはり前の相棒さんや、お友達、それに故郷の方々とお話したいですか?」

 

 その問いは、ゲナウが今まさに思考の海に沈めていた核心を、正確にすくい上げていた。思考を悟られたことにゲナウはわずかに眉をひそめる。

 

「……言っただろう。そんな都合の良い場所などないと。死者は語らない。それがこの世界の冷酷な現実だ」

 

 ゲナウの声は冷たかった。だが、メトーデはその冷たさに怯むことなく、ただ静かに彼の横顔を見つめている。彼女の沈黙に、ゲナウは自嘲気味に息を吐き出すと、視線を窓の外の荒涼とした景色へと戻した。

 

「だが、もし……」

 

 言葉を途中で切り替え、ゲナウは隣に立つ同僚へと視線を向けた。

 

「もし本当にあったとして……メトーデ、お前は誰かと対話したいのか?」

 

 普段は他人に興味を示さないゲナウが発した、珍しい問いかけだった。メトーデは一瞬だけ意外そうに目を見張ったが、すぐにその唇に、いつもの深みのある微笑を湛えた。

 

「いえ、特に」

 

 メトーデは至極短く、あっさりと答えた。その拍子抜けするような返答に、ゲナウは怪訝そうに彼女を見る。メトーデは悪びれもせず、その綺麗な唇を緩めた。

 

「わたくしが興味あるのは、もし本当にそんな場所があったとして、ゲナウさんが亡くしてしまった方々とどんなお話をしたいか、なのです」

 

「……興味本位で聞くな」

 

 ゲナウは突き放すように言い放ち、再び窓の外へと視線を逸らした。重苦しい沈黙が二人の間に流れる。しかし、メトーデは立ち去ろうとはせず、ただ静かにゲナウの横顔を見つめ、彼の言葉を待っていた。やがて、ゲナウは小さく息を吐き出すと、ぽつりと、しかし重い言葉を絞り出すように語り始めた。

 

「……死者と対話できるとしても、私はあいつらに謝罪するしかできん。助けられなかったのだからな。楽しかった思い出話など、今更する気にはなれん」

 

 己の無力さゆえに守れなかった者たち。彼らに向ける言葉は、悔恨と罪悪感以外に持ち合わせていない───それがゲナウの、不器用で、あまりにも誠実すぎる本心だった。それを聞いたメトーデは、いつもの微笑みを少しだけ和らげ、そっと疑問を投げかける。

 

「そうでしょうか」

 

「何?」

 

「謝罪してほしいなど、ゲナウさんの親しい方々は思っていないはずです。きっと、笑顔で対話してくれると思いますよ」

 

 確信に満ちた、どこか優しいその言葉は、ゲナウの頑なな心を逆撫でするには十分だった。

 

「……知ったような口を聞くな」

 

 ゲナウは低く、拒絶を込めた声でメトーデを遮った。他人が、ましてや死者でもない者が、彼らの気持ちを代弁することなど許されるはずがない。しかし、ゲナウの厳格な態度を前にしても、メトーデの瞳には、彼に対する確かな温かさが宿っていた。

 

「知ったような口、そうですね。確かにわたくしは、ゲナウさんの大切な方々を知りません。ですが……魔法使いとしての視点からなら、少しだけお話しできます」

 

 メトーデは窓辺のゲナウの隣まで歩みを進めると、同じように外の夜闇を見つめた。

 

「ゲナウさん、魔法とは『イメージの世界』です。そして、わたくしたちが死者を想うとき、その死者はわたくしたちの心の中で、生前と変わらぬ姿で、変わらぬ声で語りかけてきます。それは単なる妄想でしょうか?」

 

 彼女の問いかけに、ゲナウは答えず、ただ微かに顎の端を強張らせた。

 

「いいえ、違います。わたくしたちが誰かを深く記憶している限り、その人の『生前の意志』や『優しさ』のイメージは、わたくしたちの心に刻まれ、魔法のように作用し続けます。ゲナウさんが彼らを『助けたかった』と悔やむのは、彼らが貴方にとって、それほどまでに尊い存在だったから。そして、そんな貴方を彼らが恨むはずがないと、わたくしには『イメージ』できるのです」

 

 メトーデは一度言葉を区切り、ゲナウを真っ直ぐに見つめた。

 

「もしオレオールという場所が本当にあって、死者の魂がそこに在るのだとしたら、彼らはきっと生前のままです。貴方を信頼し、共に在った記憶のまま、そこにいる。そんな彼らが、生き残って今も戦い続けている貴方を見て、謝罪だけを望むでしょうか? 魔法使いなら、己のイメージの力を信じるべきです。貴方が彼らを冷酷な死者としてではなく、かつての友としてイメージするなら……彼らもまた、笑顔で貴方を迎えるはずですよ」

 

 彼女の言葉は、冷徹な魔法の理屈でありながら、同時に酷なほど優しい死生観でもあった。ゲナウは、メトーデの言葉を遮ることもできず、ただ黙って聞いていた。その拳は、いつの間にか強く握り締められていた。

 

「お前のイメージを私に押し付けるな」

 

 ゲナウの絞り出すような声は、怒りというよりも、己の内に隠した脆い部分を無理やりこじ開けられた者の拒絶だった。彼はメトーデから顔を背け、再び夜闇へと視線を戻す。その横顔には、冷徹な一級魔法使いとしての仮面の裏で、割り切れない過去と罪悪感に苛まれる、ひどく複雑な感情がにじみ出ていた。

 

「魔法はイメージの世界だ。それは分かっている。だが……死者への想いまで都合よく書き換えられるほど、私の魔法は便利にできてはいない」

 

 ゲナウは自嘲気味に微かに笑う。その拳は、いまだ固く握られたままだ。

 

「彼らが私を恨んでいないなどと、生き残った者が勝手にイメージするのは、ただの傲慢であり逃げだ。私は、彼らの無念を、その痛みを、都合のいい記憶として美化するつもりはない。私は彼らの死をそのまま背負って歩む。……それが、生き残った私の義務だ」

 

 冷酷に徹することでしか、死者の重みに耐えられない。そんなゲナウの不器用な生き様が、その言葉には詰まっていた。メトーデは、彼の頑なな横顔をじっと見つめていたが、やがて困ったように、しかしどこか愛おしむような、柔らかい微笑みを浮かべた。

 

「……やはりゲナウさんは、とてもお優しい方ですね。その傲慢なまでの責任感こそが、貴方の強さであり、優しさです」

 

 彼女は一歩下がり、綺麗に一礼する。

 

「押し付けるつもりはありませんでした。ただ、そんなに多くのものを一人で背負い込んでいては、いつか心が擦り切れてしまいます。わたくしのイメージが、いつか貴方の荷物を少しでも軽くする手助けになれば、そう思っただけです」

 

 メトーデの言葉は、ゲナウの拒絶さえも包み込むように穏やかだった。ゲナウはそれ以上言葉を返さず、ただ不機嫌そうに、しかし先ほどよりもどこか張り詰めた糸が緩んだような、複雑な沈黙を保ち続けた。

 

「……ゲナウさんは、その背負った義務の先に、何を見据えているのですか?」

 

 メトーデは頭を上げると、一礼した姿勢から滑らかに、しかし確実に彼との距離を半歩詰めた。その瞳には、先ほどの包容力とは異なる、魔法使いとしての鋭い観察眼が宿っている。

 

「ゲナウさん、貴方は死者の重みを背負い、どこへ向かうつもりなのです。今回の件が片付いた後……貴方の次の任務、あるいは今後の目的は何ですか?」

 

 ゲナウはぴくりと眉を動かした。彼女の問いが、単なる世間話ではなく、自分の本質を見透かそうとするものであると気づいたからだ。

 

「……一級魔法使いに与えられる任務は、大陸魔法協会、ひいてはゼーリエ様の意思だ。私が個人的な目的を挟む余地などない」

 

「ふふ、教科書通りの答えですね。ですが、ゼーリエ様の命令だけが、魔法使いを動かすわけではないと分かります。それに、貴方ほどの魔法使いが、ただの『人形』として次の戦地へ赴くとは思えません」

 

 メトーデは淡々と、しかし核心を突くように言葉を重ねる。

 

「貴方が彼らの死を美化せず、そのまま背負って生きると言うのなら……それはつまり、次の任務でも、その次の戦いでも、貴方はまた『誰かを死なせないため』に、あるいは『誰かの死を背負う覚悟』で戦うということです。それは、終わりなき自傷行為のようにも思えますが?」

 

 彼女の問いかけは、ゲナウの生き方の根底にある、ある種の“危うさ”を暴き出そうとしていた。ゲナウは深く息を吐き出し、メトーデを冷ややかに見据えた。

 

「魔法使いが戦場で死を恐れ、背負うものを数えて立ち止まるなど、それこそ三流のすることだ。私の目的はただ一つ。人類の領域を脅かす魔族を、一匹残らず排除すること。その過程で誰が死に、私が何を背負おうとも、私の歩みが止まることはない。……それだけだ」

 

「……なるほど。やはり、徹底した『冷徹な守護者』でありたいのですね」

 

 メトーデは満足したように微笑んだ。彼の頑なな目的の中に、不器用なまでの“人間への執着”を感じ取ったからだ。

 

「安心いたしました。それほど強い目的がおありなら、わたくしが余計な心配をする必要はありませんね。ゲナウさんがその目的を果たすまで……わたくしも、微力ながらお供させていただきますよ」

 

 そう言って微笑むメトーデに、ゲナウはただ「勝手にしろ」と言わんばかりに、小さく溜め息をついた。

 

 

 コンコン、と静まり返った部屋に遠慮のない軽いノックの音が響いた。ゲナウが応じるよりも早く、木製の扉がすうっと開く。そこに立っていたのは、小柄な体に杖を携えたフリーレンだった。

 

「夜遅くに悪いね、ちょっと失礼するよ」

 

 フリーレンは悪びれる様子もなく部屋に入ってきたが、その足取りはあまりにも自然で、直前まで扉の向こうで完全に気配を消していたことを物語っていた。

 

「……フリーレン。いつからそこにいた」

 

 ゲナウが苦々しい顔で睨むと、フリーレンは視線を泳がせることもなく、淡々と答えた。

 

「ん? メトーデが『死者は心の中で魔法のように作用し続ける』って言い始めたあたりからかな。ちょっと興味深い話だったから、邪魔しちゃ悪いと思ってさ」

 

 確信犯だった。メトーデは驚く風でもなく、「あら、お恥ずかしいところを聞かれてしまいましたね」と、くすくすと微笑んでいる。フリーレンは部屋の中央まで歩くと、二人の顔を順番に見つめ、それから窓の外の夜空を見上げた。魂の眠る地、オレオールがあるという北の果てを。

 

「二人の死生観、なんだか人間らしくて面白いね。メトーデの『イメージの中で生き続ける』っていうのも、ゲナウの『死をそのまま背負う』っていうのも、時間の流れが早い人間だからこその考え方だと思う」

 

 フリーレンは杖をそっと壁に立て掛け、自身の小さな両手を見つめながら、エルフとしての死生観を静かに語り始めた。

 

「私たちエルフには、そもそも『死』を身近に感じる機会がほとんどない。何百年、何千年も生きるから、誰かが死ぬということの現実感が、人間のそれとは根本的に違うんだ。かつて同胞たちが魔王軍に全滅させられた時も、私は悲しいというより、ただ『いなくなったんだな』としか思えなかった」

 

 その声には、冷徹さではなく、果てしない時間を生きる種族ゆえの、圧倒的な断絶と孤独があった。

 

「でもね、ヒンメルたちと旅をして、ヒンメルとハイターの死を見送ってから、少しだけ変わった。エルフにとって、死者は『背負うもの』でも『イメージで書き換えるもの』でもない。ただ……『今の自分を作っている欠片』なんだと思う」

 

 フリーレンは振り返り、真っ直ぐにゲナウとメトーデを見た。

 

「ヒンメルが死んでから、私は人間のことを知ろうと思って旅を続けている。ハイターの言葉があったからフェルンを弟子にしたし、アイゼンの勧めがあったからシュタルクを前衛に置いた。今の私の選択も、戦い方も、全部彼らが私の中に残していったもの。彼らが死んでいようと生きていようと、私は彼らの影響を受けて、今を生きている。……死生観なんて大層なものじゃないけど、私にとっての死者は、そういうものかな」

 

 エルフの悠久の時の中で、ほんの一瞬交わった人間たちの記憶。それが今のフリーレンの全てを構築しているという事実は、ゲナウの頑なな義務感とも、メトーデの洗練された論理とも違う、あまりにも純粋で、確固たる“答え”だった。部屋に、先ほどまでとは違う、穏やかで深い沈黙が落ちた。

 

「……エルフの長寿ゆえの傲慢だな」

 

 ゲナウのその声はいつも通り冷ややかだったが、その瞳は、フリーレンの言葉の重みに射抜かれたかのように微かに揺れていた。

 

「果てしない時を生きるお前たちだからこそ、死者の記憶をそんな風に『自分を構成する欠片』などと、綺麗に分類して昇華できるのだ。私たち人間の命は短い。昨日まで隣で笑っていた者が、今日には物言わぬ肉塊に変わる。その落差と痛みを、そんな風に静かに受け入れられるほど、人間の心は頑丈にはできていない」

 

 ゲナウの反論は、人間という脆い生き物の代弁でもあった。しかし、そう告げる彼の表情には、単なる否定だけではない、どこか核心を突かれたような複雑な色が混じっていた。なぜなら、ゲナウ自身もまた、無意識のうちに理解していたからだ。自分がどれほど“死を美化しない”と頑なに言い張ろうとも、彼らを救えなかったという悔恨が、今の自分を動かす最大の原動力───すなわち、彼を形作る“欠片”になっているという事実を。フリーレンは、ゲナウの辛辣な言葉に対しても、怒る風もなくただ静かに彼を見つめていた。その眼差しは、かつて同じように頑なだったかもしれない、多くの人間たちを見送ってきた者のそれだった。

 

「そうだね」

 

 フリーレンは小さく頷いた。

 

「傲慢かもしれない。でもね、傲慢だろうと何だろうと、ゲナウがその人たちのことを考えている時、ゲナウの選択の中に彼らの影がある。それは紛れもない事実だよ」

 

 その言葉に、ゲナウは今度こそ完全に言葉を失い、苦々しげに顔を背けた。メトーデは二人のやり取りを静かに見守りながら、ゲナウの横顔に宿った微かな変化を見逃さなかった。彼の頑なな鎧に、フリーレンの純粋な言葉が、確かに小さな、しかし深い亀裂を入れたのだと。

 

「……ふふ、やはりフリーレンさんのお言葉は深いですね。わたくしも、とても勉強になりました」

 

 メトーデは柔らかく微笑み、室内の張り詰めた空気を優しく解きほぐすように、そっと手を合わせた。

 

 

「……フリーレン、お前は勇者ヒンメルに魂の眠る地オレオールで会えたとして、何を伝えるつもりなんだ」

 

 ゲナウは無感情にそう問いかけた。その声音には皮肉も責め立てる意図もなく、ただ、自分とは異なる死生観を持つエルフが、その旅の終着点で何を求めるのかを純粋に測ろうとする響きがあった。

 

「まぁ、ゲナウさん。そのような事を聞くのは無粋というものですよ?」

 

 メトーデが、困ったように眉を下げて静かに窘めた。彼女の手が、ゲナウの無遠慮な問いを遮るようにそっと動く。しかし、フリーレンは気にした風もなく、淡々と、しかしどこか遠くを見るような目で答えた。

 

「そうだなぁ……。やっぱり実際会ってみない事には、本当に伝えるべき言葉は出てこないんじゃないかな」

 

「……そんなものか」

 

 ゲナウは短く応じた。あらかじめ用意された言葉などないというフリーレンの答えは、彼にとって予想外であり、同時に妙に納得のいくものでもあった。

 

「うん。でもね」

 

 フリーレンは少しだけ視線を落とし、自身の小さく白い手を見つめた。

 

「まぁ、ゲナウみたいに謝るのもありかなと思う」

 

「私のように、だと?」

 

 怪訝そうに眉をひそめるゲナウに、フリーレンは小さく頷いた。

 

「魔王討伐後、50年も放っておいたのは流石に悪かったと思ってるし」

 

 彼女にとって、その50年は“人間の時間を知る前の、いつものほんの一瞬”だったはずだ。しかし、ヒンメルを失った今のフリーレンにとっては、その一瞬こそが、取り返しのつかない怠慢であったと自覚している。

 

「ふふ、エルフの感覚だとそうなってしまいますよね」

 

 メトーデは、フリーレンのその深い後悔と、種族としての時間のズレを案じるように優しく微笑んだ。その言葉には、憐れみではなく、短い命の人間を愛してしまった長命種への、そっけないほど温かい労わりが込められていた。ゲナウは二人のやり取りを黙って見つめていたが、やがて小さく息を吐き出し、張り詰めていた肩の力をわずかに抜いた。

 

「もしオレオールにたどり着いて、ほんとにヒンメルに会って話せたらゲナウとメトーデにも知らせてあげるよ」

 

 フリーレンは何気ない口調で言った。それはまるで、旅先から絵葉書でも送るかのような気軽さだった。

 

「……知らされてどうしろと? 私にもオレオールへ行けというのか」

 

 ゲナウは低く、不機嫌そうに声を返した。彼の眉間には深い皺が寄っている。一級試験や北側諸国の任務で、どれほど多くの血と死を見てきたか。彼にとって、死者の国などという場所は、おいそれと足を踏み入れていい聖域ではないのだ。

 

「そこまで言うつもりはないよ。行くも行かないも自由だし」

 

 フリーレンは杖を傍らに置き、夜空を見上げながら淡々と続けた。

 

「私はエルフだから、殺されたりしない限り何千年も生き続けちゃうし。人間のゲナウやメトーデはわざわざオレオールに行かなくても、いずれ死んで魂の眠る地へ行く事になるなら同じ事だしさ」

 

「……!」

 

 ゲナウの呼吸が、一瞬だけ止まった。メトーデもまた、フリーレンのそのあまりにも残酷で、同時にあまりにも真っ直ぐな“事実の提示”に、静かに目を見張った。エルフの時間感覚。生者と死者の境界の薄さ。それは人間がどうしても超えられない壁だった。

 

「……魂の眠る地に、俺のような人間が行けるとでも?」

 

 ゲナウは自嘲気味に言った。その声には、彼が背負ってきた冷徹な過去と、奪ってきた命の重みが滲んでいる。

 

「せいぜい先に逝った者達にも会えず、地獄に落ちるのが目に見えている」

 

 そう言って、ゲナウは自分の手を見つめた。かつての相棒や友、故郷を失い、自らも手を汚してきた。そんな自分を待つ場所が、勇者ヒンメルと同じ美しい眠りの地であるはずがない。彼はそう、頑なに信じているようだった。

 

フリーレンが「うーん」と少し首を傾げて、遮るでもなく自然に言葉を紡いだ。

 

「地獄もあるかどうかすら分からないけどね。……この世自体が地獄だと感じる人間もいるみたいだし」

 

「……」

 

 ゲナウの視線が、わずかに揺れた。

 

「けど、天国はあるって、仲間の一人のハイターが言ってたっけ。その方が都合がいいからって。生きてる人間にとっても、死んじゃった人間にとっても、その方が救いになるから」

 

 フリーレンは暖炉の炎を見つめながら、かつての生臭坊主の言葉を思い出していた。ハイターが酒を飲みながら、それでも神官として大真面目に語っていた“都合の良い天国”の定義。それは、今まさに目の前で“自分は地獄に落ちる”と確信している男への、時を超えた答えのようでもあった。ゲナウは、完全に黙り込んでしまった。

 

この世自体が地獄───それは、故郷を滅ぼされ、死線と泥の中を這い回り、冷徹な一級魔法使いとして生きる彼自身が、日々肌で感じていることそのものだったからだ。自分が今いる場所が地獄なら、死んだ後に落ちる場所などどこにあるというのか。彼の頑なな心が、フリーレンの言葉によって静かに解きほぐされていく。そこへ、メトーデが優しく口を開いた。

 

「ゲナウさんは、不器用なだけです」

 

 彼女の声音はどこまでも穏やかで、慈愛に満ちていた。

 

「多くの命を背負い、冷徹に振る舞いながらも、誰よりも傷ついた人々に寄り添おうとしている。そんなゲナウさんが地獄に落ちるはずがありません。もしハイター様の言う通り天国が『都合のいい救い』なのだとしたら、それは貴方のような方のためにこそ、あるべき場所ですよ」

 

 メトーデはそう言って、ゲナウの頑なな横顔を、まるでお姉さんのように慈しむような目で見つめた。

 

フリーレンが満足そうに頷き、「じゃあ、天国でヒンメルに会ったら、ゲナウの席も空けておくよう言っておくね」と微笑む。

 

「お、おいフリーレン……!」

 

 ゲナウが慌てて止める間もなく、フリーレンは「おやすみ」と小さく手を振って、パタパタと足音を立てながら部屋を出て行ってしまった。嵐のように去っていったマイペースなエルフの背中を見送り、残された部屋には、パチパチと爆ぜる暖炉の音だけが響く。

 

「ふふ……これで天国行き確定ですね、ゲナウさん」

 

 メトーデが口元を片手で隠しながら、いたずらっぽく、くすくすと笑った。

 

「はぁ……勝手な事を」

 

 ゲナウは深く、重いため息をついた。だが、その横顔からは先ほどまでの刺々しい自嘲は消え失せていた。

 

「だが、まだそんな場所へ行くつもりはない。北側諸国の平穏はまだまだ遠い。その為に私は戦い続ける」

 

 彼は自分の手をもう一度強く握り締め、前を見据えた。彼の戦いは、死んで救われるためのものではない。今生きているこの地獄のような現実を、少しでも平穏に変えるためのものだった。

 

「ゲナウさんは、本当に生真面目ですね」

 

 メトーデは呆れたように、けれど愛おしそうに目を細めた。

 

「わたくしもお手伝いしますよ。共に天国に行けるまで、ね」

 

「そこまで付き合わなくてもいい」

 

 ゲナウはそう言ってふいっとそっぽを向いたが、耳のあたりがわずかに赤くなっているのを、メトーデは見逃さなかった。冷徹な一級魔法使いの、あまりにも不器用で、泥臭いほど人間らしい横顔。北部高原の冷たい夜の中で、二人の距離は、ほんの少しだけ縮まったようだった。

 

 

 

End

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定