葬送のフリーレン短編集   作:風亜

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悪夢に見いだす光

「……ゲナウさん、あまり顔色が良くありませんね」

 

 宿屋の一室。魔導書のページをめくる手を止め、メトーデは正面に座るパートナーを真っ直ぐに見つめた。ゲナウは表情を変えず、ただ短く「気のせいだ」とだけ返す。しかし、その目元に深く刻まれた陰影と、微かに濁った彩層は、彼の言葉が嘘であることを雄弁に物語っていた。

 

ゲナウが悪夢に魘されるようになったのは、あの戦いの後からだ。かつての相棒、滅ぼされた故郷の、親しかった人々や友の顔。夢の中の彼らは、一様に血の泥沼に足をとられ、もがきながらゲナウを睨みつける。

 

『何故、助けてくれなかった』

 

 怨嗟の声が耳を塞いでも突き刺さり、彼らの伸ばした手がゲナウの足を掴む。そのまま底なしの血の沼へと引きずり込まれていく───そんなおぞましい夢を、目を閉じる度に何度も見た。だから、ゲナウは眠ることをやめた。メトーデと組んで任務に当たるようになってから、宿が混み合っていない限りは別室を取るようにしていた。己の醜態を晒さないためだ。だが、どうしても一部屋しか空いていない夜もある。そんな時、ゲナウは当然のようにベッドをメトーデに譲り、自らは床に外套を敷いて腰を下ろした。

 

「ゲナウさん、ベッドは広いですよ。半分使われますか?」

 

「不要だ。ここで体を休める」

 

 そう言って目を閉じるが、意識は決して手放さない。浅い微睡みさえも悪夢の呼び水になる。ただ、闇の中で息を潜め、朝が来るのを待つだけだった。街を出て、野営を余儀なくされる夜も同じだった。

 

「わたくしが先に見張りをします」と申し出るメトーデを、ゲナウは鋭い一瞥で制する。

 

「お前は先に寝ろ。私はまだ目が冴えている。交代の時間になったら起こす」

 

 厳格な口調に押され、メトーデは大人しく毛布に包まった。規則正しい呼吸が聞こえ始めても、ゲナウは焚き火の前に座り続けた。爆ぜる火の粉を凝視し、思考を無理やり現実に繋ぎ止める。結局、朝までメトーデを起こすことはなかった。そんな無理が、長く続くはずもなかった。

 

「……気のせい、では済まされない段階です」

 

 メトーデは立ち上がり、ゲナウの傍らへ歩み寄った。彼女の冷静な、しかし観察眼の鋭い瞳がゲナウを捉える。

 

「一部屋の時も、野営の時も、貴方は一度もまともに眠っていませんね。これでは次の魔族との戦闘に支障が出ます」

 

 看破されていた。向けられた視線から逃れるように、ゲナウは顔を背けた。睡眠不足による疲労は、確かに彼の強靭な肉体を確実に蝕みつつあった。

 

「神技のレヴォルテを討伐した後から、ではないですか」

 

 メトーデの静かな、しかし確信に満ちた言葉が、室内の重苦しい空気を切り裂いた。ゲナウはぴくりとも動かなかったが、その視線が僅かに鋭さを増す。元凶たる魔族は確かに滅ぼした。シュタルクと共に死力を尽くし、かつての相棒の仇を、故郷の仇を討ち果たしたはずだった。だが、どれほど強大な魔族の首を落とそうとも、失われた命は戻らない。むしろ、復讐という目的を失ったことで、ゲナウの心には濁った自責の念だけが澱のように沈殿していた。別れ際、あの不器用な戦士の青年───シュタルクに言われた言葉が耳の奥で蘇る。

 

『お互い、長生きしようぜ』

 

 その言葉を投げかけられた瞬間、ゲナウの胸には確かに、素直な喜びが湧いた。冷徹に、ただ義務を果たすためだけに生きていると思っていた自分に向けられた、真っ直ぐな生の肯定。それは嬉しかった。しかし、ゲナウという男の性格は、それを都合よく受け入れて前を向けるほど器用にできてはいなかった。生き残ってしまった。守るべきものを何一つ守れなかった自分が、のうのうと長生きなどしていいはずがない。

 

「……あいつらじゃない」

 

 ぽつりと、ゲナウの口から掠れた声が漏れた。いつになく感情の乗ったその響きに、メトーデは目を細める。

 

「俺を罵り、血の泥沼に引きずり込もうとするのは……あいつらじゃない。俺自身だ。死んだあいつらが、あんな浅ましい真似をするはずがない。分かっている。……自分を苦しめているのは、他でもない俺自身だ」

 

 吐き出すような吐露。それは、完璧にコントロールされているはずの一級魔法使いが、睡眠不足と精神的疲労の果てに見せた、致命的な隙だった。常に冷静で、冷酷なまでに任務を遂行するパートナーの、あまりにも痛々しい姿。メトーデはそれ以上、言葉で彼を説得することを諦めた。綺麗事も、慰めも、今の彼には届かない。

 

「……頑固ですね、ゲナウさん」

 

 メトーデは呆れたように息を吐きながら、一歩、彼との距離を詰めた。思考が鈍っているゲナウは、彼女の魔力の揺らぎを察知するのが一瞬遅れた。気づいた時には、すでにメトーデの細い指先が、彼の額へと向けられていた。

 

「少し、おやすみなさい」

 

 精神魔法───催眠の術式。極度に集中力を欠いていたゲナウの意識は、彼女の指先が額を軽く小突いた、ただそれだけの衝撃で、嘘のように手放された。

 

「……め、と、で……」

 

 掠れた声を最後に、ゲナウの身体がゆっくりと前へ倒れ込む。メトーデはそれをしっかりと両腕で受け止め、床へと優しく横たえた。強制的な眠りは成功した。これで数時間は、肉体を休めることができるはずだった。しかし、メトーデはすぐに息を呑むことになる。眠りに落ちてわずか数十秒。ゲナウの眉間にはみるみるうちに深い皺が刻まれ、その呼吸は激しく乱れ始めた。額からは大粒の汗が流れ落ち、衣服を掴む両手が、白くなるほど強く握りしめられている。

 

「……ッ……、ぁ……」

 

 歯の隙間から漏れるのは、押し殺した悲鳴。魔法による強制的な睡眠は、肉体の自由を奪うだけで、彼の脳内に巣食う“自責”という名の怪物を消し去ることはできなかったのだ。むしろ、意識という防壁を魔法で無理やり取り払われたことで、ゲナウの精神は、いつも以上に無防備な状態で悪夢の泥沼へと叩き落とされていた。

 

「ゲナウさん……?」

 

 メトーデが彼の顔を覗き込む。その表情は、今にも己の罪の重さに圧し潰されそうなほど、深く、絶望的に歪んでいた。

 

メトーデは、ゲナウの精神世界へさらに深く意識を同調させる決断をした。彼の脳内に直接潜り、悪夢の元凶を断つための精神魔法。しかし、その境界を越えた瞬間に広がった光景に、メトーデは息を呑んだ。そこは、言葉にできないほどおぞましい地獄だった。空はどす黒く濁り、足元は見渡す限りの血の沼が広がっている。その赤黒い泥の中から、無数の手が這い出ていた。致命的な傷を負い、無惨に死んでいったはずの故郷の人々や友、そしてかつての相棒。彼らは皆、生気を失った白目をむき、奇怪な咆哮をあげながらゲナウの身体に群がっている。

 

「……ぁ……、う、あ……ッ」

 

 現実では決して見せない、声にならない悲鳴。ゲナウは血溜まりの沼に腰まで沈み、死人たちの手でさらに底へと引きずり込まれそうになっていた。その身体は恐怖と絶望で激しく震え、拒絶するように両手で頭を抱えている。

 

「すまない……俺が、俺がもっと強ければ……ッ、すまない、すまない……!」

 

 プライドの高い彼が、何度も、何度も涙を流して謝罪の言葉を繰り返していた。これが彼の心の奥底。レヴォルテを倒してなお、毎夜一人で戦い、負け続けていた絶望の正体だった。

 

「───なんておぞましい夢。見ていられませんね」

 

 メトーデは不快感を露わにし、毅然とした足取りで血の沼を進んだ。群がる死人の群れが彼女にも牙を剥くが、メトーデは容赦なく精神の障壁を展開し、蠢く彼らを力任せに退けていく。一歩ずつ泥をかき分け、ついに絶望の淵にいるゲナウの元へと辿り着いた。メトーデは、泥にまみれたゲナウの肩に、現実と同じようにしっかりと手を触れた。びくりと拒絶するように震える彼の顔を覗き込み、凛とした、しかし包み込むような声を響かせる。

 

「もう自分を責めるのはやめて下さい、ゲナウさん」

 

 死人たちの怨嗟の声に負けないよう、彼の耳元で、はっきりと、諭すように言葉を紡ぐ。

 

「それは寧ろ、亡くなって行った方々への侮辱にもなります。彼らは魔族に命を奪われたのであって、貴方の無力さに殺されたのではありません。彼らを貴方の自責の念に利用するのはおやめなさい」

 

 その毅然とした言葉は、血の沼に波紋を広げ、ゲナウの虚ろな目に見る見るうちに光を呼び戻していく───はずだった。

 

確かにメトーデの言葉は届いたはずだ。ゲナウの瞳は微かに揺れ、彼女の存在を認識した。しかし、彼の心を蝕み続けた罪悪感の根は、あまりにも深く、そして強固だった。

 

「分かって、いる……だが、俺は……ッ」

 

 ゲナウは悲痛な表情で顔を歪め、頬を大粒の涙で濡らしたまま、やはり死人たちに引かれるように血の沼の深淵へと飲み込まれようとしていく。自ら沈むことを望むかのように、彼の身体から力が抜けていく。

 

「……本当に、聞き分けのない子ですね、ゲナウさん」

 

 そんな絶望の光景を前にしても、メトーデはどこまでも冷静だった。その瞳に諦めの色は一切ない。

 

「ならば無理矢理にでも、貴方の心に光を灯しましょう」

 

 メトーデはゲナウの肩を掴む手にさらに力を込め、沼に沈みゆく彼の身体を強引に引き留めた。そして、彼の耳元で、今度は突き放すように、しかし絶対的な真実を叩きつける。

 

「自責の念は“許し”にはなりませんよ。そんな風に心を殺し、自ら死にゆくのも同じです。それは亡者たちに許しを請うているのではなく、ただ貴方が、自責の念という独りよがりの感情に溺れているだけです……!」

 

 逃げ道を塞ぐようなメトーデの言葉に、ゲナウの息が止まる。

 

「いい加減目を醒ましなさい、ゲナウ!」

 

 命じるような、高らかな声が地獄の世界に響き渡った。彼女がそう叫んだ瞬間、メトーデの身体から、どす黒い世界を真っ二つに引き裂くほどのまばゆい光が溢れ出した。その光は、精神魔法による強制的な“覚醒”と“浄化”の輝きだった。光は瞬く間に血の沼を蒸発させ、ゲナウに群がっていた死人たちの幻影を白く塗り潰していく。怨嗟の叫びは光の中に消え去り、どこまでも深く暗かったゲナウの精神世界が、圧倒的な純白の光で満たされていった。

 

 

「はッ……、ぁ、く……ッ!」 

 

 まばゆい光が弾けた瞬間、ゲナウは現実の世界へと引き戻された。宿屋の床の上、汗まみれになった身体が、弾かれるように飛び起きる。その瞳は恐怖に大きく見開かれ、胸が壊れたふいごのように激しく上下していた。酸素が上手く吸い込めず、過呼吸に陥ったゲナウの荒い吐息が、静かな室内に響き渡る。そんな彼の背中に、そっと温かい手が添えられた。

 

「落ち着いて、ゆっくり呼吸をして下さい。……吸って、吐いて。もう大丈夫ですから」

 

 メトーデはゲナウの傍らに跪き、怯える子供をあやすように、優しく、規則正しいリズムで彼の背中を摩り続けた。一級魔法使いとしての冷徹な仮面はそこにはなく、ただ傷ついたパートナーを包み込むような慈愛だけがあった。

 

───どれほどの時間が経っただろうか。彼女の手の温もりと、根気強い言葉に導かれ、ゲナウの激しい呼吸は徐々に整っていった。しかし、嵐が去った後の彼の表情は、生気を失ったように虚ろなままで、未だ暗い澱の中に沈んでいるようだった。それを見たメトーデは、摩る手を止め、彼の顔を真っ直ぐに見つめた。

 

「ゲナウさん。……まだ、そんな独りよがりな自責の念を抱いているのですか?」

 

 その声は、先ほどまでの優しさとは一転して、どこか凄みを含んでいた。

 

「もし、またその暗闇に閉じこもるつもりなら───わたくしは何度でも、貴方の心の内に入り込んで、あの光で満たしますよ? 貴方がわたくしに降参するまで、何度でも、です」

 

 微笑みすら浮かべたその表情は、半ば脅迫気味ですらあった。拒絶を許さない、彼女なりの苛烈な救済の意志。

 

「……フフ……」

 

 一瞬の沈黙の後、ゲナウの割れた唇から、静かな笑い声が漏れた。それはいつもの冷徹な彼からは想像もつかない、自嘲気味で、しかし、どこか憑き物が落ちたような穏やかな笑みだった。

 

「独りよがり、か……。そうだな、お前の言う通りだ」

 

 ゲナウは力なく首を振った。

 

「死んだ人間の心など、もう動かないというのに……俺は、何を一人で勝手に縛られていたのか……」

 

 そう呟いたゲナウの身体から、張り詰めていた緊張が完全に抜け落ちていく。極限の睡眠不足と、精神世界の激闘による本当の疲労が、一気に彼を襲った。メトーデの膝に崩れ落ちるようにして、ゲナウはそのまま深い、深い眠りへと陥っていった。

 

その寝顔には、もう先ほどのような悲痛な皺は刻まれていない。今度こそ彼は、あのおぞましい血の沼の悪夢に魘されることはなかった。

 

(ふぅ……わたくしもゲナウさんと共にしばらく眠りましょう。彼の精神状態を救うのに、かなり魔力を消耗しましたから……。やっと、穏やかに彼も眠れるようになったことですし。───今度こそ本当に、おやすみなさいゲナウさん)

 

 窓から差し込み始めた微かな朝光が、静かに寄り添い眠る二人の姿を優しく照らしていた。

 

 

 

End

 

 

 

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