葬送のフリーレン短編集   作:風亜

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紅き血を欲する者

 森の奥深く、陽光さえ遮るほどに生い茂る木々の隙間で、一匹の巨大な魔物が地響きを立てて倒れ伏した。その巨体が完全に魔力の粒子へと変わるのを見届け、ゲナウは低く息を吐きながら、自身の黒い外套を翻した。

 

「───仕留めたか」

 

 冷徹な声が、静寂を取り戻した森に響く。北部高原での魔物討伐任務。今回の一件は、事前の情報よりも遥かに凶暴で、不意を突かれる形となった。一級魔法使いであるゲナウの卓越した防御魔法をしても、その猛攻を完全に防ぎきることはできなかった。

 

「いつもながらお見事です、ゲナウさん」

 

 背後から、一切の乱れもない、鈴の鳴るような美しい声が響く。同じく一級魔法使いであり、任務のパートナーであるメトーデだ。彼女は衣服に塵一つ付けず、おっとりとした笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。

 

「……油断した。潜伏能力が想定以上だったな」

 

 ゲナウは忌々しげに呟き、黒金の翼を収めた。だが、その時。メトーデの細められた瞳が、ゲナウのある一点を捉えて、ぴたりと動きを止めた。

 

「あら……ゲナウさん、頬に傷が」

 

「……ん」

 

 言われて初めて、ゲナウは自身の右頬に走る熱い痛みに気づいた。魔物の鋭い爪が、防御魔法の隙間を僅かに掠めていたらしい。浅い傷ではあるが、そこからは一筋の鮮血が、彼の硬質な肌を伝って顎のラインへと流れ落ちていた。

 

「これくらい、大したことは───」

 

 言いかけたゲナウの言葉は、唐突に遮られた。視界に、メトーデの艶やかな髪と、彼女が身に纏う特有の甘い香りが、一瞬で近づいた。

 

(………?)

 

 次の瞬間、ゲナウの思考は完全に停止した。右頬の傷口に、 柔らかく、温かいものが 触れた。それは、 濡れた小さな舌 だった。

 

「───ッ!?」

 

 ぺろり、と。まるで上質な蜂蜜を味わうかのように、メトーデはゲナウの頬の血を、迷いなく一度だけ舐めとったのだ。

 

「なッ……! 何をする……!?」

 

 ゲナウは弾かれたように身を引き、大きく後ろへ飛び退いた。普段の冷静沈着な彼からは想像もつかないほど、その声は裏返り、驚愕に震えている。右手を頬に当てて彼女を睨みつけるが、その耳朶は屈辱か困惑からか、赤く染まっていた。

 

当のメトーデは、指先を顎に当て、小首を傾げていた。なぜそんな行動をとったのか、自分でもよく分かっていない。ただ、彼の鋭い目元の下で、赤く、鮮やかに流れる血を見た瞬間。理屈よりも先に、“舐めてみたい”という奇妙な衝動が突き上げてしまったのだ。彼女は、唇の端に残ったわずかな味を確かめるように、小さく舌ペロをすると、満面の笑みを浮かべた。

 

「あら、すみません……。突発的な衝動を抑えきれなくて。けれど───」

 

 メトーデは一歩、ゲナウとの距離を詰める。その瞳には、子供が新しい玩具を見つけた時のような、純粋で、どこか妖艶な光が宿っていた。

 

「ゲナウさんの血って、美味しいですね」

 

「……狂ったか、お前」

 

 ゲナウは心底信じられないといった目で彼女を凝視した。一級魔法使いには一癖も二癖もある者が揃っているが、目の前の女の奇行は、その中でも群を抜いて理解の範疇を超えていた。

 

「早く女神様の魔法で治させて下さい。そんな顔で見られると、なんだかわたくし、照れてしまいます」

 

「誰のせいで、こんな……。もういい、さっさと治せ」

 

 ゲナウは忌々しげに彼女から視線を外すと、メトーデは彼の頬の傷を塞いだ。メトーデの呪詛のような言葉が耳に残って離れず、その後、拠点の街へ戻るまでの道中、彼は一言も口を利かなかった。

 

 

───しかし、これが奇妙な悪癖の始まりだった。それからというもの、ゲナウが前線で戦い、僅かでも血を流す度、彼女の“悪癖”は発動した。数週間後の任務、岩場での乱戦。魔物の攻撃がゲナウの手の甲を切り裂き、血が滲んだ。戦闘後ゲナウが息を整える間もなく、メトーデは音もなく背後に現れた。

 

「ゲナウさん、お手を」

 

「断る。これくらい治さずとも」

 

「はい、失礼します」

 

 彼女はゲナウの拒絶を完全に無視し、彼の大きな手を両手で包み込むと、そのまま手の甲の傷口へ、躊躇なく唇を寄せた。

 

「ッ……お前、またか……!」

 

「ふふ、やっぱり美味しいです。少し鉄の味が強いですが、奥の方にゲナウさんの魔力の高まりを感じます」

 

「離せ……! 舐めるなと言っているッ」

 

「治癒の前に、一口だけ。これがわたくしの、新しい特権ということで」

 

 ゲナウがどれだけ冷徹に突き放そうとしても、メトーデはどこ吹く風だった。彼女は卓越した魔法使いであり、ゲナウが本気で拒絶しようと身を引いても、まるで吸い付くような身のこなしで、あっさりと傷口を捉えてしまう。今やメトーデにとって、戦いの中でゲナウが負う傷は、最高級の“ご馳走”へと変わっていた。怪我をする度に、女神様の魔法で優しく、跡形もなく治してあげる。けれどその直前、まだ生温かい血が溢れているその瞬間にだけ、彼女はぺろりと、その傷口を愛おしそうに舐め上げるのだった。

 

「……メトーデ。いい加減にしろ」

 

「次はどこを怪我してくださるんですか? ゲナウさん」

 

 赤く染まる傷口を前に、優しく微笑む聖女のような表情で、とんでもない執着を覗かせるメトーデ。ゲナウの苦難に満ちた日々は、まだ始まったばかりだった。

 

 

───数ヶ月が経っても、メトーデの“悪癖”が収まる気配はなかった。それどころか、彼女の行動はより自然に、より執拗になっていく。ゲナウが前線で黒い外套を血で汚すたび、彼女はまるで当然の権利を行使するように歩み寄り、その唇で血を奪い、その後に“女神様の魔法”で傷を癒やす。ゲナウにとって、それはただの不条理な奇行であり、一級魔法使い特有の、理解し難い精神の歪みの一つだと思い込もうとしていた。だが、ある夜。その均衡が崩れる。

 

決戦の場となったのは、数日間に及ぶ激戦の末に陥落させた、魔族の古城の一室だった。崩れた石壁から差し込む月光が、冷え切った床を白く照らしている。ゲナウは壁に背を預け、深く腰を下ろしていた。今回の魔族は強大だった。彼の黒金の翼《ディガドナハト》は文字通りボロボロに引き裂かれ、自身も脇腹と左腕に、肉を深く抉るほどの重傷を負っていた。どくどくと流れる鮮血が、彼の黒い衣服をいっそう黒く染めていく。

 

「……ゲナウさん」

 

 足音が響く。現れたメトーデの顔から、いつもおっとりとした笑みは消えていた。彼女はゲナウの凄惨な出血量を見るなり、痛ましいものを見るように眉をひそめ、その場に膝を突いた。

 

「ひどい怪我ですね。……すぐに」

 

 彼女は細い指先を伸ばし、ゲナウの引き裂かれた衣服の隙間───溢れる血が止まらない脇腹の傷口へと触れようとした。その唇が、いつも通りに、僅かに開かれる。だが、その手首を、ゲナウの血濡れた右手が強く掴んで止めた。

 

「……もう、やめろ、メトーデ」

 

 低く、地を這うような声だった。いつもの拒絶とは違う。そこには本気の怒りと、それ以上に、心底からの疲弊が混ざっていた。

 

「治すなら、今すぐ魔法だけを使え。……なぜそんなことをする。俺をからかうのも、大概にしろ」

 

 ゲナウの鋭い瞳が、至近距離でメトーデを射抜く。

 

「お前が何を考えているのか分からん。一級魔法使いの気まぐれに付き合うほど、俺の命は安くない。ただの悪趣味なら、いい加減にしろ」

 

 掴まれたメトーデの手首に、ゲナウの指が食い込む。痛むはずだった。しかし、メトーデは表情一つ変えず、ただじっと、ゲナウの目を、そして彼の体から流れ落ちていく赤い血を見つめていた。

 

静寂が、二人の間に重くのしかかる。やがて、メトーデは小さく息を吐くと、掴まれたままの手を無理に引き剥がそうとはせず、ただ静かに口を開いた。

 

「からかってなど、いません。一度だって、そんな軽い気持ちで触れたことはありませんよ」

 

 その声は、驚くほど冷徹で、そしてひどく重かった。彼女の瞳の奥に宿る陽炎のような光が、月光に照らされて怪しく揺らめく。

 

「ゲナウさんは、いつもそうです。……まるで、いつでも死んでいいような戦い方をする」

 

「……何だと?」

 

「相棒さんと故郷を失い、戦う意味をそこにしか見出せないかのように、自分の命を、肉体を、平然と削っていく。今日もそうです。防御魔法をもう一段階厚く張れば防げたはずの攻撃を、貴方は反撃のためにあえてその身で受けた」

 

 メトーデの言葉は、ゲナウの戦い方の本質を正確に、冷酷に抉り出していた。彼は一級魔法使いであり、誰よりも冷徹に戦況を見極める。だがその根底には、自分の命に対する執着の薄さ───“目的のためなら、いつでもこの命を捨てる”という、歪んだ覚悟が常にあった。

 

「わたくしはそれが、たまらなく嫌なのです」

 

 メトーデの顔が、ゆっくりとゲナウの傷口へと近づく。彼女の細い指先が、今度はゲナウの胸元、ドクドクと刻まれる心臓の鼓動の真上に、強く押し当てられた。

 

「貴方の血が流れて、地面に吸われて消えていくのを見るたびに、わたくしの心がどれほど摩耗するか、ゲナウさんには分からないでしょう。……だから、奪うんです」

 

 彼女の瞳が、狂気を孕んで爛々と輝いた。それは、紛れもない“一級魔法使い”としての、圧倒的なエゴと執着の光だった。

 

「消えて無くなるくらいなら、その血をわたくしの体に取り込んで、わたくしが貴方を生かしているんだと、この手で、この舌で、実感したい」

 

「メトーデ……お前……」

 

「貴方が自分の命を軽んじるなら、わたくしがそれを縛り付けます。治癒の魔法をかける前に、貴方の命の一部をわたくしが直接いただく。そうして初めて、わたくしは『あぁ、今日もゲナウさんをわたくしのものとして繋ぎ止められた』と安心できるんです」

 

 それは、単なる悪趣味でも、突発的なフェティシズムでもなかった。ゲナウという一人の魔法使いが、いつか自分の目の前で呆気なく死んでしまうのではないかという、深い恐怖。そして、それを絶対に許さないという、悍ましいほどの独占欲が生み出した、彼女なりの“狂気”の儀式だったのだ。

 

「……ですから、大人しくしてください。これはわたくしの、貴方に対する執着の証なのですから」

 

 メトーデはそう囁くと、ゲナウの抵抗を、その圧倒的な魔力の威圧感でねじ伏せるようにして、彼の脇腹の傷口へと唇を寄せた。

 

「ッ……、ぁ"……」

 

 熱い舌が、溢れる血を、傷口ごと深く舐め上げる。ゲナウは体に電流が走ったような衝撃を覚え、思わず天を仰いだ。いつもなら強く突き放すはずの右手が、なぜか宙で止まり、彼女の髪を掴むことができない。彼女の本音を、その歪んだ情熱を知ってしまった今。それが、自分という破綻した人間に向けられた、あまりにも重すぎる“生への執着”だと理解してしまった今、彼は、彼女を拒絶する言葉を失ってしまった。じゅり、と生々しい音が静かな部屋に響く。

 

───彼女がゲナウの血を十分にその身に吸い上げた後、ようやく、黄緑色の清らかな“女神様の魔法”の光が、ゲナウの体を包み込んだ。みるみるうちに脇腹の裂傷が塞がり、激痛が引いていく。だが、その傷跡のあった場所には、まだメトーデの唇の熱さと、彼女の唾液の湿り気が、消えない刻印のように生々しく残っていた。メトーデは満足そうに唇を拭うと、いつもの、まるでおっとりとしたお姉さんのような、優しい聖女の笑みに戻っていた。

 

「ふふ、ごちそうさまでした。……随分と、おとなしくしてくださったんですね」

 

「…………」

 

 ゲナウは何も答えず、ただ片手で顔を覆った。傷は完全に治癒したはずなのに、胸の奥の、彼女に触れられた場所だけが、いつまでも熱く、ひどく脈打っていた。突き放すことも、受け入れることもできない、奇妙な呪い。二人の関係は、もはや元の“任務のパートナー”には戻れないところまで、深く、昏い場所へと沈み込んでいた。

 

 

その後の任務は、奇妙なほど順調だった。ゲナウは自らの戦い方を、僅かに、だが確実に変えていた。以前のような命を削るような捨て身の戦術を控え、黒金の翼を操る魔法《ディガドナハト》による強固な防御を徹底するようになったのだ。それは彼女の重すぎる本音に対する彼なりの配慮か、あるいは“これ以上舐められたくない”という意地だったのかもしれない。結果として、ゲナウが無傷で戦闘を終える日々が数週間続いた。だが、それは同時に、メトーデの“渇き”を極限まで引き摺り出す結果となった。

 

 ある日の夜。深い森の中での野営時、パチパチと薪が爆ぜる音だけが周囲に響いていた。ゲナウが焚き火の傍らで静かに魔導書を読んでいると、対面に座っていたメトーデが、おもむろに立ち上がった。彼女の足音はいつも以上に重く、その顔からは、いつものおっとりとした笑みが完全に消え失せていた。彼女はゲナウの目の前まで歩み寄ると、感情の読めない真顔で、ストレートに言い放った。

 

「ゲナウさん、血を吸わせて下さい。最近全く口に出来ていません」

 

「…………」

 

 ゲナウは魔導書を読むのをやめ、ゆっくりと顔を上げた。驚きはなかった。むしろ、やはりそう来たか、と心のどこかで予想していた。彼女のあの悍ましいほどの執着が、無傷の日々を大人しく見過ごすはずがないと分かっていたのだ。戦い方を変え、傷を負わなければ諦めるかとも思ったが、どうやらこの一級魔法使いの狂気は、ゲナウの想像の枠に収まるものではなかったらしい。

 

「……どこがお望みだ」

 

 ゲナウは深くため息を吐き、半ば諦めたように声を落とした。言葉とは裏腹に、その鋭い瞳は“適当な擦り傷程度で満足しろ”という無言の圧を放っていた。だが、メトーデの行動は、ゲナウの妥協を遥かに超越していた。

 

「では、失礼します」

 

 メトーデは淡々と告げると、衣服の奥から一本の短剣を抜いた。月光を反射して冷たく光る刃。ゲナウがその意図を察し、僅かに眉をひそめた瞬間───メトーデは一切の躊躇なく、ゲナウの左肩へと短剣を突き立てた。ざくり、と肉を切り裂く生々しい音が響く。刃はゲナウの黒い外套を貫き、その下の肉へと深く達していた。

 

「ッ……、く……ッ」

 

 ゲナウの口から、押し殺した呻きが漏れる。長年、死線を潜り抜けてきた彼にとって、肉体を刃で穿たれる痛みなど慣れっこだった。だが、目の前で真顔のまま、一切の敵意も殺意もなく、ただ“純粋な渇望”だけで自分を刺してくるパートナーの姿に、胸の奥が複雑に、ひどく歪にざわついた。メトーデは突き刺した短剣を容赦なく引き抜くと、それによって溢れ出た、生温かく鮮やかな鮮血を、うっとりとした目で見つめた。

 

「あぁ……やっと、わたくしのゲナウさんの匂いがします」

 

 彼女はそのままゲナウの胸元に深く体重を預け、彼の左肩の傷口へと狂おしく唇を寄せた。

 

「……ッ、は、ぁぐ……」

 

 熱い舌が傷口に潜り込み、溢れる血を、その奥の肉ごと貪るように吸い上げ始める。ただ舐めとるのではない。メトーデはゲナウの体に強固にしがみつき、喉を鳴らしながら、彼の命そのものを体内に吸い尽くそうとするかのように、強く、激しく血を吸い続けた。

 

じゅ、く、と生々しい音が静夜の森に響き渡る。ゲナウは疼くような痛みを左肩に感じながら、自身に覆い被さるメトーデの細い体を、ただ黙って受け止めるしかなかった。彼女の長い髪が、彼の首筋や胸元に絡みつき、甘い香りと鉄の匂いが混ざり合って脳を痺れさせる。

 

 

───どれほどの時間が経っただろうか。焚き火の薪が崩れ、火の粉が舞い上がる。ゲナウの左肩からの出血は、彼女に吸われることで地面に落ちることすら許されず、すべてメトーデの体内へと消えていく。さすがに、失血による軽い眩暈を覚え始めたゲナウは、彼女の頭に手を置き、低く掠れた声で告げた。

 

「……もう、いいだろう。大分、経つぞ」

 

 魔法で今すぐ治せ。そう言外に促した。しかし、メトーデは吸い付いたまま、びくりと体を震わせるだけで、一向にやめようとはしなかった。それどころか、彼女の細い指先がゲナウの背中に回り、彼の衣服を破れんばかりに強く掴んだ。まるで、ここで口を離してしまえば、彼がまた自分の手の届かない遠くへ行ってしまうとでも恐れるかのように。

 

「メトーデ……、おい」

 

 ゲナウが僅かに声を荒らげても、彼女は頑なに拒むように、さらに深く、彼の肩口へと顔を埋め、吸い上げる力を強めていく。彼女の喉が、ごくり、と音を立てて彼の血を飲み干した。その狂気に満ちた愛執の深さに、ゲナウは抗う術を失い、夜の静寂の中で、ただ彼女に命を差し出し続けるしかなかった。

 

 

「───メトーデ」

 

 ゲナウは低く、だがこれまでにないほど確かな力を持った声で、彼女の名を呼んだ。失血のせいで、彼の視界の端はすでに白く霞み始めている。このままでは本当に命が危ない。だが、それ以上にゲナウの心を動かしたのは、自分にしがみつき、狂ったように血を吸い続けるメトーデの体が、小刻みに、哀れなほど震えていることに気づいたからだった。

 

彼女は、ただ欲望のままに血を貪っているわけではない。その行為の根底にあるのは、おぞましい狂気などではなく、もっと脆くて、痛々しい、破綻寸前の“恐怖”だった。ゲナウは残された右腕を動かし、自らの肩に顔を埋めるメトーデの細い体を、強く、逃がさないように抱きしめた。

 

「────っ!?」

 

 メトーデの体が、びくりと硬直する。引き離されると思ったのだろうか。しかし、ゲナウの腕は彼女を突き放すのではなく、その華奢な背中をしっかりと、彼の胸へと引き寄せていた。

 

「もういい。……我に返れ、メトーデ」

 

 怒鳴るわけでも、冷たく突き放すわけでもない。呆れたような、けれどどこか包み込むような、大人の包容力を滲ませた声だった。ゲナウの大きな手のひらが、彼女の背中を、子供をあやすようにぽんぽんと不器用に叩く。その男らしい手の温もりと、自身を包み込む確かな体温に触れた瞬間。メトーデの口元が、ようやくゲナウの肩口から離れた。

 

「ぁ……、あ、わたくし、は……」

 

 ゲナウの胸から顔を上げたメトーデの顔は、血の気が引き、真っ青に染まっていた。彼女の美しい唇はゲナウの血で赤く汚れている。しかし、その瞳から溢れ出たのは、血ではなく、大粒の涙だった。

 

「ゲナウ、さん……わたくし、何を……」

 

 ゲナウの衣服を掴む彼女の手が、激しく震え始める。彼の血の味に惑わされ、正気を失いかけていた彼女は、ゲナウに抱きしめられたことで、ようやく自分が何をしたのかを理解したのだ。自分が一番恐れていたこと───“ゲナウを失うこと”を、自らの手で引き起こしかけていた。自分の我儘な渇望のせいで、大切なパートナーを本当に殺しかけてしまった。その事実が、彼女の心を恐怖で打ちのめした。

 

「すみません……すみません、ゲナウさん……! わたくしは、わたくしはただ、貴方が、明日にはいなくなってしまうんじゃないかって……怖くて……っ」

 

 おっとりとした一級魔法使いの仮面は、完全に剥がれ落ちていた。メトーデはゲナウの胸に額を押し当て、子供のようにボロボロと涙を流して泣きじゃくった。北部高原の戦いは過酷だ。昨日まで笑っていた仲間が、次の日には物言わぬ肉塊になる。

 

そんな地獄の中で、どれだけ毅然と振る舞っていても、彼女の心は限界だったのだ。いつかゲナウも、自分の目の前で呆気なく死んでしまうのではないか。その極限の孤独と恐怖が、彼女を“血を吸って繋ぎ止める”という歪んだ行動に走らせていた。彼女の悲痛なSOSを、ゲナウは静かに受け止めていた。

 

「……馬鹿者が。俺を誰だと思っている」

 

 ゲナウはため息混じりに言うと、右手の指先で、彼女の頬を伝う涙を不器用に拭ってやった。

 

「俺は一級魔法使いだ。そう簡単には死なない。……お前を置いて、一人で死にに行くような真似はしない。約束する」

 

「本当、ですか……?」

 

「あぁ。だから、そんなに怯えるな」

 

 ゲナウのぶっきらぼうだが、嘘のない確かな言葉。それが、メトーデの凍りついていた心を、ゆっくりと、優しく溶かしていく。彼女は何度も頷きながら、ゲナウの胸の鼓動を確かめるように、さらに深く寄り添った。

 

「……安心したなら、早く治せ。本当に、意識が飛びそうだ」

 

「っ! は、はい、今すぐに……!」

 

 メトーデは慌てて涙を拭うと、ゲナウの左肩に両手を添えた。今度は血を吸うためではない。彼を救うため、彼を生かすための、純粋で温かい“女神様の魔法”の光が、静夜の森を照らし出す。短剣の深い傷跡が、みるみるうちに塞がっていく。失われていたゲナウの気力と体力が、彼女の魔力によって満たされていく。傷が完全に癒えた後も、二人はしばらく、静かに抱き合ったままだった。

 

「ゲナウさん。……もう、自分で貴方を傷つけるような真似はしません。お約束します」

 

 メトーデはゲナウの胸に顔を埋めたまま、小さく、けれど固い決意を込めて呟いた。

 

「……そうしろ。だが、戦いの中でどうしても負ってしまった傷なら、多少は目を瞑ってやる」

 

「ぇ……?」

 

 驚いて顔を上げるメトーデに、ゲナウは決まり悪そうに視線を逸らした。

 

「お前がそこまで不安だと言うなら、仕方のないことだ。その代わり、吸うのは一口だけだ。……それでお前が正気を保てるなら、一級魔法使いとしての『必要経費』として認めてやる」

 

 それは、ゲナウなりの最大限の譲歩であり、彼女の歪んだ愛執を、そのまま丸ごと受け入れるという、彼なりの“契約”だった。メトーデの瞳に、今度は嬉し涙が滲む。彼女は、いつもの、けれど以前よりもずっと心からの、柔らかく優しい聖女の笑みを浮かべた。

 

「ふふ、はい。……ありがとうございます、ゲナウさん。大好きです」

 

「……黙れ。早く寝ろ」

 

 ゲナウはそっぽを向いたが、その耳朶は赤く染まっていた。二人の関係は、確かに普通ではない。狂気と執着から始まった、歪な絆だ。けれど、暗闇の中で互いを強く求め合い、繋ぎ止め合った二人の間には、確かに誰も踏み込めない、温かな“救い”が満ちていた。

 

 

 

End

 

 

 

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