一級魔法使いのゲナウは、痛みに声を上げるような男ではない。パートナーのメトーデがそれを知っているからこそ、眼前の光景は異様であり、かつ致命的だった。
北部高原の深い森。討伐した魔族の死骸が黒い塵となって消えゆく中、ゲナウはその場に膝を突いた。彼の背から、使い慣れた黒金の翼が霧散する。
「ゲナウさん!?」
メトーデが駆け寄ったとき、彼はすでに自身の胸を強く掻きむしっていた。衣服の隙間、頑強な首筋の皮膚の下を、何かが這い回っている。それも、一つや二つではない。無数の“蠢き”が、彼の肉を内側から押し上げていた。
「ぐ、ぁ……ッ!」
ゲナウの喉から、押し潰されたような呻きが漏れる。彼の外套が泥に汚れ、額からは尋常ではない量の汗が噴き出していた。
「……呪い、か。あの魔族、死に際に……ッ」
「動かないで。今、診ます」
メトーデは即座に膝を突き、ゲナウの胸元をはだけさせた。彼女の美しい瞳が見開かれる。皮膚の下をのたうつ無数の影。それは魔族が放った、肉体を蝕む虫型の“呪い”だった。ゲナウの体内で、彼の膨大な魔力を餌にして急速に増殖している。
───今、ゲナウの体内は、数千、数万の未知の這う虫によって侵食されつつあった。人類の魔法技術において、魔族の“呪い”は未解明の領域だ。通常の解呪魔法は通用しない。
「ハァ、ハァ……メ、トーデ。俺の、魔力を……吸って、増えている。このままでは、遠からず……」
「喋らないでください。余計に魔力が巡ります」
メトーデの声は冷静だった。しかし、その手はわずかに震えている。ゲナウは、冷徹で現実主義な男だ。戦う術を失い、足手まといになる己の結末を、すでに悟ったような目をしていた。
「置いて、行け。脳や、心臓まで、喰い尽くされる前に……俺の首を、落とせ……」
「嫌です」
メトーデはきっぱりと言い放った。
「わたくしは、小さくて可愛い女の子も好きですが、貴方のその、頑固で融通の利かない鉄のようなお顔が苦痛に歪んでいるのも……不謹慎ながら、少し唆るものがあります。ですが、死なせるのは論外です」
「お前……この状況で、何を……」
「わたくしは欲張りなんです、ゲナウさん。だから、全部救います」
メトーデはゲナウの身体を抱き起こし、自身の膝にその頭を乗せた。膝枕の体勢のまま、彼女はゲナウの額に自身の額をそっと重ねる。
「メトーデ……?」
「人類の魔法で呪いが解けないなら、アプローチを変えるまでです。彼らは貴方の『魔力』を食べている。なら、わたくしの『精神魔法』で、貴方の魔力そのものに『猛毒』のイメージを混ぜ込みます」
彼女が得意とする精神魔法。それは本来、人間の心を操るものだ。しかしメトーデは、ゲナウの精神と深く同調することで、彼の魔力の“味”を、体内の虫にとっての劇薬へと変質させようというのだ。それは一歩間違えれば、ゲナウの精神ごと崩壊させかねない禁忌の賭けだった。
「わたくしの波長に合わせてください。深く、深く……」
メトーデの身体から、淡い黄金色の魔力が立ち上る。それがゲナウの身体を包み込み、皮膚の奥へと染み込んでいった───その、刹那だった。
「がッ、ぁ……ぐあ"ぁぁぁーーーーッ!!」
ゲナウの口から、人間のものとは思えない絶叫が上がった。体内の虫たちが、突然変質した魔力(毒)を拒絶し、一斉に狂乱したのだ。ピキピキ、とゲナウの全身の血管がどす黒く浮き上がる。数千、数万の異形が、彼の肉を内側から食い破ろうと、一斉に牙を剥いて蠢き始めた。皮膚のすぐ下を、無数の小刻みな突起が波打つように、高速で這い回る。胸から、腹へ、そして首筋へ。まるで彼の肌の下で、無数の生きた虫が沸騰しているかのような、おぞましい視覚的変貌だった。
「くッ、ぅ、ガはッ……!」
ゲナウは血の混じった唾液を吐き出し、自身の胸元に指を突き立てた。あまりの激痛に理性が消し飛び、自らの肉をむしり取ろうとする。しかし、彼の指が肌を裂くより早く、体内の虫たちが内臓を、筋肉の繊維を、容赦なく内側から捩じ切り、貪り始めた。ゴリ、と骨が軋む音が響く。心臓の周囲を、無数の節足が這う感触。
肺を直接、冷たい触手で握り潰されるような呼吸困難。ゲナウの背中が、人間の可動域を超えて弓なりにしなる。強靭な彼の指先は、メトーデの肩を掴み、肉に深く食い込んでいた。彼の爪が彼女の衣服を裂き、皮膚から血を滲ませる。だが、ゲナウにはもう、己がパートナーを傷つけていることすら認識できていない。
「あ"、ぁ、熱い……身体が、熔ける……ッ!!」
ゲナウの全身から、凄まじい量の汗が噴き出す。それは体内の虫たちが死に物狂いで放つ、呪いの毒素だった。彼の皮膚は異常な高熱を帯び、真っ赤に充血している。眼球の毛細血管が弾け、ゲナウの視界は文字通り血の赤に染まっていった。皮膚の薄い耳の後ろや、鎖骨の窪みから、虫の形をした“蠢き”が今にも皮膚を突き破って外へ飛び出してきそうに、幾度も皮膚を内側から尖らせ、押し上げる。
「痛いですか、苦しいですか? ……耐えてください、ゲナウさん」
メトーデは顔色一つ変えない。肩に食い込むゲナウの指の痛みに微かに眉をひそめたものの、その瞳にあるのは狂気的なまでの慈愛だった。彼女は暴れるゲナウの巨躯を、細い両腕で限界まで強く抱きしめる。彼が自傷行為に走らないよう、その自由を奪うように、自らの身体を天秤にかけて組み伏せる。
「わたくしは貴方を絶対に離しません。この呪いごと、わたくしの魔法で完全に圧し潰します」
メトーデはさらに魔力を引き上げ、ゲナウの体内に“劇薬”を流し込み続けた。ゲナウの肉体の中で、メトーデの黄金の魔力と、おぞましい虫の群れが真っ向から衝突する。肉を抉り、神経を焼き切るような、地獄の交戦。
ゲナウの喉はすでに潰れ、声にならない悲鳴が、ただの呼吸の塊となって漏れ出ていた。耐え難い苦痛の濁流。意識が完全に暗転する寸前、ゲナウは、己の胸に押し当てられたメトーデの身体の、ひどく冷徹で、しかし絶対的な暖かさだけを、命綱のように引き寄せようとしていた───
(あぁ、なんて可愛そうで、なんて愛おしい。いつも無愛想で、わたくしの冗談を冷たくあしらうあのゲナウさんが、今はわたくしの腕の中で、苦痛のあまり理性をなくして暴れている。わたくしの肩に食い込む彼の指先は、骨が軋むほど強い。肩の服が破れ、肉が抉れる痛みが走るけれど、不思議と嫌な気分じゃない。むしろ、彼が生きようとしてわたくしに縋り付いている証拠みたいで、胸の奥がひどく疼いてしまう。……けれど、感傷に浸っている余裕はない。ゲナウさんの魔力回路が、このおぞましい虫どもに喰い荒らされていくのが手に取るようにわかる。これ以上、彼らの『捕食速度』を許せば、彼の精神の核まで喰い尽くされて、本当にただの人形になってしまう。絶対に、そんなことはさせない。この人はわたくしの一級魔法使いのパートナーで、わたくしが気に入っている、世界で唯一の『頑固な鉄の男』なのだから)
「わたくしの波長に、染まりなさい」
メトーデはさらに深く、ゲナウの精神の深淵へとダイブする。彼女の精神魔法は、対象の『心』を私色に塗り替えるもの。ならば、ゲナウの魔力の根源すらも、自分の支配下に置けばいい。虫たちが貪っているゲナウの魔力を、メトーデの意志で、極上の『劇薬』へと変質させる。一歩間違えれば、彼の脳を直接焼き切ってしまう禁忌の綱渡り。指先ひとつ、魔力の出力ひとつブレることは許されない。暴れる彼を抱きしめる腕に、さらに力を込める。
(わたくしの体温、わたくしの魔力、わたくしの存在のすべてを、彼の苦痛の濁流の中に叩き込む。死なせない。誰にも渡さない。この魔族の呪いごと、わたくしの魔法で完全に圧し潰して、わたくしの手で救い上げてみせる───!)
ゲナウの身体から、黒い煤のようなものが完全に噴き出し、這い回る蠢きが静まり返った。死滅した虫たちが無害な魔力の残滓となって体外へ排出されると同時に、ゲナウの身体から完全に力が抜ける。彼はメトーデの膝に顔をうずめたまま、まるで呼吸の仕方を忘れたかのように、浅く、不規則な呼吸を繰り返していた。
衣服は彼自身の汗と、のたうち回った際の泥、そして皮膚から滲み出た微量の血でボロボロに汚れ、肌はまだ異常な熱を帯びて赤く充血している。指先は細かく痙攣し、いつも彼が纏っている威圧感はどこにもなかった。
一級魔法使いとしての誇りも、冷徹な仮面も、すべて苦痛によって剥ぎ取られた、無防備な『抜け殻』のような姿だった。メトーデは自身の引き裂かれた肩の痛みも気に留めず、愛おしげにゲナウの濡れた前髪を指で梳いた。
「……終わりましたよ、ゲナウさん。本当によく耐えてくださいました」
ゲナウの長い眉が微かに揺れ、血走った瞳がゆっくりとメトーデを見上げた。その瞳には、まだ現実と悪夢の境界線が曖昧なような、虚ろな光が宿っている。
「……メ、トーデ……」
掠れた声は、いつもの低い声音とは違い、酷く弱々しかった。
「俺は……生きている、のか……?」
「ええ。生きています。わたくしの魔法が完璧だったおかげです」
メトーデは悪戯っぽく微笑み、彼の頬にそっと手を添えた。ゲナウの肌が、彼女の冷たい手のひらを求めて微かに擦り寄るような動きを見せる。本人は無意識なのだろうが、その弱りきった態度が、メトーデの独占欲を激しく刺激した。
「身体の中が……酷く、冷える。魔力が……空っぽだ……」
「限界まで虫に喰われましたからね。それに、わたくしの『毒』のイメージに当てられて、貴方の魔力回路も今はひどく傷ついています。動こうとしては駄目ですよ」
ゲナウは小さく息を漏らし、自分の指先を動かそうとしたが、ピクリとも動かなかった。本当に、指一本動かす気力も残っていないのだ。自嘲するように、彼は微かに口元を歪めた。
「……無様、だな。パートナーに、ここまで……無防備に、生殺与奪の権を握られるとは……」
「ふふ、嫌ですか? いつでも首を落とせる状態のゲナウさんなんて、滅多に拝めませんもの」
「お前なら……本当にやりかねん、から……笑えない……」
ゲナウはそう言いながらも、メトーデの膝から頭を動かそうとはしなかった。いや、動かせないのだ。そして、彼女が自分を絶対に害さないという、奇妙な信頼が彼のどこかにあるのも事実だった。
「冗談ですよ。わたくしは貴方を助けたんです。……でも、少しだけ、お仕置きは必要ですね」
メトーデは、自分の引き裂かれた肩と、そこに滲む血をゲナウの視界に見せるように指し示した。
「暴れたゲナウさんに壊されてしまいました。わたくし、結構痛かったんですよ?」
ゲナウの虚ろな瞳が、彼女の傷に焦点を合わせる。彼の顔に、微かな、しかし明確な『罪悪感』が浮かんだ。冷徹な彼が、自分を救うために傷ついたパートナーを見て、胸を痛めている。その表情が見られただけで、メトーデにとってはお釣りが出るほどの報酬だった。
「……すまない、メトーデ。俺は……」
「謝罪はいりません。その代わり───」
メトーデは上体を屈め、ゲナウの耳元で、甘く、しかし拒絶を許さない声で囁いた。
「動けるようになるまで、わたくしに寄りかかっていてください。宿に着くまで、わたくしがずっと、貴方を抱きしめて運んであげますから」
「……断る、と言いたいが……」
ゲナウは重い瞼をゆっくりと閉じ、諦めたように深い息を吐き出した。
「身体が……言うことを、聞かん……。好きに、しろ……」
「はい、お望み通りに」
メトーデは満足そうに微笑むと、気絶するように深い眠りに落ちていくゲナウの身体を、今度は慈しむように、優しくその腕の中に抱きしめ直した。
───気がつくと、ゲナウはベッドの上にいた。窓の外はすでに夜の帳が下りている。体内の不快な蠢きは完全に消え去っていたが、代わりに、ひどい倦怠感と、魔力回路が未だに微かに熱を持っているような、奇妙な火照りが残っていた。
「───お目覚めですか、ゲナウさん」
枕元からの声に視線を巡らせると、そこにはいつもの旅装を解き、薄手の寝間着を纏ったメトーデが座っていた。彼女の肩には、昼間の戦いでゲナウがつけてしまった傷を保護する、白い包帯が痛々しく巻かれている。なぜ女神様の魔法で自分で回復しないのか、あるいは魔力を使い過ぎて回復出来ないのかは分からなかった。
ゲナウは上体を起こそうとしたが、鉛のように重い身体はベッドに沈んだままだ。
「……ここは」
「わたくしがいつも使っているお部屋ですよ。ゲナウさんの部屋まで運ぶのは面倒でしたし……何より、今の貴方は目が離せない状態でしたから」
メトーデはそう言うと、水の入ったコップをゲナウの唇にそっと当てた。ゲナウは拒まずにそれを飲み干し、短く息を吐く。
「……すまなかった。お前の部屋を汚し、その、肩の傷も……」
「まだそんなことを気にしているのですか。肩の傷をそのままにしているのは何も、ゲナウさんに責任を感じてほしいからではありませんよ。ただもう少し……ゲナウさんにつけられた傷をこのままにしておきたいという、わたくしなりの“欲”ですから」
メトーデはくすくすと笑い、コップを置くと、流れるような動作でゲナウの布団の中に滑り込んできた。
「なッ……お前、何を───」
驚いて声を荒らげようとするが、ゲナウの喉はまだ掠れており、迫力がない。メトーデはそんな彼の動揺を楽しむように、彼の逞しい胸元に頭を預け、細い腕をその腰に回した。
「動かないでください。これは『体内の治療の延長』です」
「言い訳が苦しいぞ、メトーデ……」
「本当ですよ。わたくしの精神魔法の『毒』のイメージが、貴方の体内にまだ残滓としてこびりついています。こうして直接肌を触れ合わせて、わたくしの純粋な魔力を直接流し込み、中和してあげているんです。……ほら、ここがまだ熱いでしょう?」
メトーデの細い指先が、ゲナウの胸元、ちょうど昼間まで虫たちがのたうち回っていた場所に優しく触れる。その指先から流れ込んでくる彼女の魔力は、昼間の激痛を伴うものとは違い、ひどく甘やかで、冷え切った彼の身体を芯から溶かしていくような心地よさがあった。ゲナウの身体から、自然と強張りが抜けていく。
「……勝手な奴だ」
「なんとでも。ですが、大人しくわたくしに抱かれているゲナウさんは、いつもの何倍も素敵ですよ」
メトーデは顔を上げ、至近距離からゲナウを見つめた。その瞳には、彼を完全に組み伏せ、己の庇護下に置いていることへの、深い悦びと独占欲が妖しく揺らめいている。ゲナウは、彼女のその“異常なまでの執着”を、今や心地よいとすら感じている自分に気づき、内心で苦笑した。あの凄惨な呪いの苦痛から、自分を力ずくで引きずり上げたのは、紛れもなくこの女の、底知れない魔法と歪んだ愛なのだ。
「……一度しか、言わんぞ」
ゲナウは、まだ自由に動かない重い右腕を、酷くゆっくりと動かした。そして、自分の胸元にあるメトーデの細い背中に、そっと手を添える。
「助かった。……ありがとう、メトーデ」
不器用で、しかし明確な彼の歩み寄りに、メトーデの一瞬だけ目を見開いた。やがて、彼女の顔にこの上なく満ち足りた、そしていつになく少女のような愛らしい笑みが浮かぶ。
「ふふ、どういたしまして。……でも、まだ魔力の中和は終わりそうにありません。明日の朝まで、このままでいてあげますね、ゲナウさん」
「あぁ。好きに、しろ………」
ゲナウは重い瞼を閉じ、パートナーの柔らかな体温と、自分を優しく満たしていく黄金色の魔力に身を委ねた。昼間の地獄のような苦痛は、今や遠い幻のようになり、二人の極上の静寂だけが、夜の部屋を満たしていった。
End