大陸魔法協会北部支部の執務室は、いつも通りの静寂と、どこか張り詰めた空気に包まれていた。一級魔法使いゲナウは、机の上に山積みにされた書類を前に、眉間に深い皺を刻んでいる。北部高原の情勢、魔族の動向、そして新米魔法使いたちの任務報告書。目を通すべき案件は際限なく、彼の漆黒の羽を思わせる外套が、心なしかいつもより重そうにコート掛けに垂れ下がっていた。コツ、コツ、と静かな足音が部屋に響く。ノックの音の後に扉が開いたが、入ってきた人物はいつもの一級魔法使いとしての気配を、奇妙な形で遮断していた。
「ゲナウ様、ひと息入れては如何ですか?」
鈴の鳴るような澄んだ声。トレイを片手に、見慣れない衣装をまとって現れたのは、彼のパートナーであり、同じく一級魔法使いのメトーデだった。だが、その姿はいつもと決定的に違っていた。普段の機能的でどこか洗練された魔法使いの法衣ではない。黒を基調としたシックなドレスに、雪のように白いエプロン。頭には可憐なフリルがあしらわれたヘッドドレスが乗っている。すらりとした長身の彼女がその衣装に身を包むと、背徳的な美しさと妙な厳かさが同居した、形容しがたい雰囲気を醸し出していた。
トレイの上には、丁寧に淹れられたことが一目でわかる紅茶と、香ばしい匂いを漂わせる焼き菓子が乗っている。ゲナウは書類から目を上げ、その異様な光景にぴたりと動きを止めた。鋭い眼光が、メトーデの頭の先からつま先までを往復する。
「お前……何だその格好は。それに様付けとは」
低く、警戒心を孕んだ声。しかしそこには、明らかな困惑が混じっていた。メトーデはふんわりとスカートの裾を持ち上げ、完璧な所作で一礼してみせる。その表情には、いたずらが成功した子供のような、あるいは未知の魔法を試す学者のような、艶やかな微笑が浮かんでいた。
「あら、知りませんか? メイドさんの格好ですよ。似合います?」
首を少し傾げ、尋ねるメトーデ。対するゲナウは、一切の冗談を排した、深い谷底を思わせるほどの真顔だった。彼は腕を組み、深くため息をつくと、大真面目なトーンで言い放った。
「めいど……? 冥土にでも行くつもりか。やめておけ、お前はまだ若い」
「……はい?」
今度はメトーデが目を丸くする番だった。北部高原の過酷な戦場でも冷静沈着な彼女が、一瞬だけ素の声を漏らす。ゲナウの視線はどこまでも真剣で、そこには死線を共にしてきたパートナーに対する、不器用なれど純粋な“心配”が宿っていた。どうやら彼は、彼女が過酷な任務のストレスで精神を病み、自ら死の国(冥土)へ旅立つ衣装を身にまとっていると勘違いしたらしい。メトーデは思わず吹き出しそうになるのをこらえ、トレイを机の空きスペースにそっと置いた。
「あの、その冥土ではありません。ご奉仕をさせて頂くメイドさんの方ですよ」
「ご奉仕……?」
ゲナウの眉間の皺がさらに深くなる。彼の語彙の中に、そんな平穏で献身的な言葉は存在しないかのようだった。
「えぇ。ある異国の古い文献で見つけたのです。ご主人様の身の回りの世話をし、快適な環境を提供するために仕える、特別な給仕係の給仕服(ドレス)だとか。ほら、ゲナウ様はいつも根を詰めすぎていらっしゃいますから。わたくしがこうして『メイドさん』として、心を込めておもてなしをすれば、少しは肩の力が抜けるかと思いまして」
メトーデは楽しげに指を組み、ゲナウの顔を覗き込む。
「どうです? この格好のわたくしに、お茶を注がれる気分は」
ゲナウは紅茶から立ち上る湯気を見つめ、それからメトーデの頭のフリルに視線を戻した。魔族との戦いにおいては、どんな攻撃も受け流す彼だったが、目の前の若手一級魔法使いが繰り出す“おままごと”のような精神攻撃には、完全に防戦一方だった。
「……馬鹿馬鹿しい。そんな暇があるなら、次の防衛任務の魔力配分でも計算しておけ」
そっ気なく言いながらも、ゲナウは差し出されたカップに手を伸ばした。口に含むと、驚くほど高貴な香りと、絶妙な温度の甘みが疲れた身体に染み渡っていく。焼き菓子を一口齧れば、サクリとした食感の後に、優しいバターの風味が広がった。
「……味は悪くない」
「ふふ、光栄です。メイドの基本は、ご主人様の好みを完璧に把握することですから。……ところで、ゲナウ様」
メトーデがふっと距離を詰める。その瞳が、怪しく、そして慈愛に満ちた光を帯びた。
「せっかくのメイドさんですから、お茶やお菓子だけでは物足りませんよね? もっとこう……精神的なご奉仕と言いますか。お疲れのゲナウ様の頭を、わたくしの膝の上に乗せて、優しく“なでなで”して差し上げることも可能ですが……?」
「断る」
「あら、つれないですね」
クスリと笑うメトーデを、ゲナウは忌々しげに睨みつける。しかし、その手はしっかりと二杯目の紅茶を求めて動いていた。部屋を満たすのは、香ばしいお茶の香りと、不器用な魔法使いたちの奇妙に穏やかな時間。窓の外には北部高原の冷たい風が吹いていたが、この部屋の中だけは、確かに少しだけ、暖かさに満ちていた。
「……お昼になりましたゲナウ様。オムライスをお持ちしましたので、ケチャップで何か描いて差し上げますよ?」
「まだメイド姿をやめない気か……。ケチャップで何でも描けるというのか」
「はい、大体は」
「なら……シュティレを描いてみせろ」
「隕鉄鳥シュティレですね! そうくると思って練習しておきました。では行きますよ……」
メトーデは上手にオムライスにシュティレを描く。
「ほう……やるな」
「でしょう? さぁ、おいしくな~れのお時間です、一緒にやりましょう!」
「……何?」
ゲナウの思考は完全に停止した。オムライスの上のシュティレは見事だった。ケチャップの細い線で、特徴的な翼のシルエットや、あのすばしっこそうな頭部が正確に再現されている。そこまでは一級魔法使いとしての観察眼と手先の器用さとして納得がいった。だが、メトーデの口から飛び出した“おいしくな~れ”という奇妙な呪文と、先ほどから彼女が胸の前で両手を使って作っている、謎のハートのような形。それが一体何のために存在するのか、ゲナウの硬質な頭脳をもってしても、一ミリも理解できなかった。
「何、とは。おいしくなるための、メイドさんの『萌え萌えキュン』の魔法ですよ」
メトーデは至って大真面目だった。その美しい瞳には、一欠片のふざけた色もない。まるで新しい結界魔法の発動手順を説明するかのような、凛とした真剣さである。
「これをやるとやらないとでは、ケチャップの馴染み具合と、オムライスの卵のまろやかさが劇的に変わるのです。さあ、ゲナウ様もご一緒に。はい、萌え、萌え……」
「絶対にやらん。魔族に精神を汚染されたか、お前は」
ゲナウは苦々しげに言い、椅子の背もたれに深く体重を預けた。彼の人生において、“もえもえ”なる未知の単語を口にする状況など、天地がひっくり返ってもあり得ない。もしそんな姿を同僚のゼンゼに見られでもしたら、末代までの恥だ。
「あら、そんなに警戒なさらないでください。これは精神魔法の一種のようなものです。声を揃えて、心を込めることに意味があるのですよ? ほら、こうして手をハートの形にして……」
メトーデは躊躇なくゲナウの傍らにすり寄ると、彼の大きく無骨な手を両手で包み込んだ。驚いて手を引こうとするゲナウだったが、メトーデの握力は思いのほか強く、そしてしなやかだった。流れるような所作で、ゲナウの人差し指と親指を強制的に曲げさせ、自分の指と合わせるようにして、オムライスの上で強制的に“ハート”の形を形成させる。
「おい、離せメトーデ……!」
「いきますよ? せーの」
ゲナウの低い抗議の声を完全に無視し、メトーデは満面の笑みで声を響かせた。
「おいしくな~れ、萌え、萌え、キュンっ♡」
「………ッ」
最後の“キュン”の瞬間に、メトーデはゲナウの手を優しく握り込み、小さな衝撃波(のような手振りのポーズ)をオムライスに向かって放った。静寂が部屋を支配する。ゲナウは自分の手を見つめ、それからケチャップでシュティレが描かれたオムライスを見つめた。心臓がいつもより少し早く鐘を打っている気がしたが、それは決して恐怖や動揺ではなく……いや、明らかな動揺だった。
「……これで満足したか」
ゲナウは今度こそ強引に手を引き抜くと、乱暴にスプーンを掴んだ。そして、メトーデがせっかく描いたケチャップのシュティレを、躊躇なく真ん中から一刀両断にする。そのまま口へと運んだ。モグモグと不機嫌そうに顎を動かす。メトーデは、主人の反応を待つ忠実な猟犬のような(実際はただ楽しんでいるだけの)目で彼を見つめていた。
「お味はどうですか?」
「……癪だが、悪くない。卵の火の通り加減も絶妙だ。……呪文の効果ではなく、お前の調理技術のおかげだろうがな」
そっぽを向きながら放たれたゲナウの言葉に、メトーデは「ふふっ」と嬉しそうに胸を張った。
「そう言っていただけて光栄です。これで午後からの書類仕事も捗りますね。お食事が終わりましたら、次は『耳かき』のご奉仕はいかがですか? 膝枕の準備はいつでも……」
「二度とやらんと言っている。早くその奇怪な服を着替えてこい」
そう言いながらも、ゲナウのスプーンを持つ手は止まらず、オムライスは瞬く間に彼の胃袋へと収まっていった。メトーデの“メイドさん”としての戦いは、どうやらまだ続くようだった。
「さぁ今度は、肩を揉んで差し上げましょう」
「まだやるのか……」
オムライスを完食し、ようやく一息つけるかと思ったゲナウだったが、メイド姿のメトーデの猛攻は止まらない。彼女は躊躇なくゲナウの背後に回り込むと、その細い指先を彼の肩へと乗せた。
「あらあら、随分ガッチガチですね。どれだけ凝ってるんですか貴方は」
衣服越しでも伝わる鉄板のような硬さに、メトーデは呆れたように息を漏らす。一級魔法使いとしての過酷な任務、そして大陸魔法協会北部支部での膨大な書類仕事。ゲナウの身体は、彼が自覚している以上に限界を迎えていた。
「これは……背中と腰も重点的に揉みほぐさないとダメですね。休憩スペースのソファに俯せに寝て下さいな」
「断る」
「まぁそう仰らず」
ゲナウは冷たく拒絶したが、メトーデにその言葉は通用しなかった。彼女はゲナウの脇に手を入れると、魔法使いらしからぬ見事な体捌きと力加減で、半ば無理やり彼を立ち上がらせる。そのまま抵抗する隙を与えず、執務室の隅にある応接用の大きな革張りソファまで誘導し、流れるように彼を俯せに倒し込んだ。
「………」
あまりに鮮やかな手際に、ゲナウはもはや声も出ない。顔をソファのクッションに埋めたまま、小さなため息をつくのが精一杯だった。
「さて、メイドメトーデはゲナウ様の疲労の溜まったお身体を癒して差し上げます!」
メトーデは嬉しそうに声を弾ませると、ソファの脇に膝をつき、ゲナウの背中に両手を添えた。普段の戦闘では魔族を多彩な魔法で倒すその手が、今は驚くほど優しく、そして的確にゲナウの凝り固まった筋肉を捉える。まずは肩甲骨の周りから。指先で円を描くように圧をかけ、徐々に背中、そして腰へと揉みほぐしていく。メトーデは女神様の魔法の心得もあるため、人間の身体の構造や、どこを刺激すれば疲労が抜けるかを完全に熟知していた。
「むぅ……」
最初は身を固くしていたゲナウだったが、あまりの心地よさに、思わず鼻から短い息が漏れる。じわじわと身体の芯から温かくなっていくような感覚。ガチガチだった筋肉が、まるで魔法で融解していくかのように、みるみるうちに解きほぐされていく。
「ふふ、少し力が抜けてきましたね。我慢せず、わたくしに身を委ねてください」
メトーデの声が、先ほどまでのふざけた調子から、包み込むような慈愛に満ちたトーンへと変わる。彼女の体重をうまく乗せた絶妙な加減の揉みほぐしは、もはや極上の魔法だった。背中から腰にかけて、澱のように溜まっていた重みが、綺麗に消え去っていく。
「メ、トーデ……お前、いつの間にこんな……」
「内緒です。可愛い女の子を撫で回すために、身体の仕組みはいろいろ勉強しましたから。その応用ですよ」
「……相変わらず、ろくでもない理由だな……」
毒づくゲナウだったが、その声にはもう、いつもの鋭さはなかった。魔法の暖房の効いた静かな部屋。心地よい紅茶の残香。そして、背中に伝わるメトーデの温もりと、リズミカルに身体を癒していく優しい刺激。
(……少しだけ、目を閉じるか……)
そう思ったのが最後だった。日頃の極度の緊張と寝不足、そしてメトーデの完璧な施術が合わさり、ゲナウの意識は急速に深い微睡みの底へと沈んでいった。いつもなら周囲の僅かな気配にも反応するはずの彼が、完全に無警戒な寝息を立て始める。
「……ゲナウ様?」
背中を揉む手を止め、メトーデはそっと彼の顔を覗き込んだ。いつもは険しく刻まれている眉間の皺が、今は綺麗に消え失せている。どこか幼さすら感じさせるような、無防備で穏やかな横顔。北部高原の死線を共に潜り抜けてきた、頑なで、誰よりも不器用なパートナーの、滅多に見られない休息の姿だった。
「本当に……頑張りすぎなんですよ、貴方は」
メトーデは静かにソファから立ち上がると、ゲナウがいつも着ている漆黒の外套をハンガーから取り、彼の背中にそっと掛け直してあげた。それから、彼女はもう一度彼の枕元に膝をつく。フリルのついたヘッドドレスを少しだけ直し、眠るゲナウの顔を愛おしそうに見つめた。
「お疲れ様でした。わたくしの大切なご主人様」
悪戯っぽく、けれど心の底から優しい微笑みを浮かべると、メトーデはゆっくりと顔を近づけた。そして、彼の無防備な右の頬に、チュッと小さく、音を立ててそっとキスをした。ゲナウはピクリとも動かず、ただ穏やかな寝息を刻み続けている。メトーデは満足そうに微笑むと、彼を起こさないよう細心の注意を払いながら、トレイの上の空いた食器をまとめ、静かに部屋を後にした。メイドの格好をした彼女の足音は、いつもよりずっと、弾むように軽やかだった。
End