葬送のフリーレン短編集   作:風亜

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その声に惹かれて

 一級魔法使いの任務を終え、夕暮れ時の静かな書斎で報告書をまとめていた時のことだった。並んでペンを動かしていたメトーデが、ふと顔を上げてこちらを見た。

 

「ゲナウさん、前から思っていたのですが……貴方の声、とても素敵ですね」

 

 唐突な言葉に、ゲナウは羽ペンを止めた。眉をひそめて隣を見る。

 

「……何の話だ」

 

「そのままの意味ですよ。深みがあって、聞いていてとても落ち着きます」

 

 メトーデはうっとりとした様子で頬に手を当て、微笑んでいる。ゲナウには全く自覚がなかった。自分の声はぶっきらぼうで、他人に威圧感を与えることの方が多いと思っていたからだ。釈然としない気持ちのまま、ゲナウは視線を報告書に戻した。

 

(……自覚がないのですね、この人は)

 

 メトーデは内心で苦笑する。だが、ゲナウとしても、目の前の女性に対して思うところがないわけではなかった。

 

(お前の方こそ……)

 

 ゲナウは心の中で呟く。メトーデの声には独特の艶がある。それはまるで、耳元で優しく響く鈴の音のようだ。小柄な女の子や可愛いものを愛でる時の彼女の声もいいが、こうして二人きりで話す時の落ち着いた声音は、不思議とゲナウの心を波立たせた。もちろん、そんな大それたことを口に出す気は毛頭ないが。すると、メトーデが椅子を少しだけゲナウの方へと寄せた。

 

「ねえ、ゲナウさん。少し実験をしてみませんか?」

 

「実験?」

 

「ええ。わたくしの耳元で、何か言葉を囁いてみてください」

 

 ゲナウは露骨に嫌そうな顔をした。

 

「断る。悪ふざけが過ぎるぞ、メトーデ」

 

「ふざけてなどいません。貴方の声の響きを、もっと近くで確かめてみたいだけです。……だめ、ですか?」

 

 上目遣いで見つめられ、ゲナウは小さく舌を打った。この女は、一度言い出したら引き下がらない。拒絶し続ける方が面倒だと判断した彼は、椅子の背もたれから身を乗り出した。

 

「一度だけだ」

 

 ゲナウはメトーデの横髪をかすめるほど顔を近づけ、低く囁いた。

 

「───これで、満足か」

 

 耳元をくすぐる低音に、メトーデは小さく身震いした。

 

「ふふ、素晴らしいです。でも、事務的すぎますね。もう少し、感情の籠もった言葉にしてくださいな」

 

「注文が多いな」

 

 ゲナウは小さく溜息をつき、再び彼女の耳元に唇を寄せた。

 

「───早く、報告書を終わらせろ」

 

「もう一息です。もっと、こう……熱を帯びた言葉を」

 

 悪ノリするメトーデに急かされ、何度も耳元で囁きを繰り返すうちに、ゲナウの感覚は少しずつ麻痺していった。至近距離から漂う彼女の香りと、吐息の近さ。しつこく「もう一度」とねだるメトーデの唇を黙らせたい衝動と、無意識の独占欲が、彼の理性を一瞬だけ狂わせた。ゲナウは彼女の耳元に深く深く、声を滑り込ませる。

 

「───愛している。これからも、ずっと傍にいろ」

 

 静寂が書斎を支配した。それは二人の未来を縛る、ゲナウなりの究極の告白だった。ゲナウはハッと我に返り、勢いよく体を離した。メトーデを見ると、いつも余裕に満ちていた彼女の表情が完全に固まっている。みるみるうちに、その白い頬が鮮やかな朱色に染まっていく。

 

「あら、あらあら……」

 

 メトーデは両手で真っ赤になった顔を覆い、珍しく狼狽したように視線を彷徨わせた。

 

「今のは、流石に反則です……。そんな不意打ちは、心臓に悪すぎます」

 

「……お前が何度も、熱を帯びた言葉をと言ったからだ。俺は注文通りに……」

 

「そんな注文、していません! ああ、でも……素敵な声でそんなことを言われたら、本当に勘違いしてしまいます」

 

 メトーデは胸元を押さえ、まだ少し肩を揺らしている。だが、彼女はただ照れたままで終わるような女性ではなかった。深く息を吸い込み、トクントクンと高鳴る胸を落ち着かせると、メトーデの瞳に大人の余裕と、悪戯っぽい光が戻る。

 

「ゲナウさん。言われっぱなしというのは、わたくしの趣味ではありません」

 

「何……?」

 

 彼女はふっと艶やかに微笑むと、今度は自分からゲナウの椅子を引き寄せ、彼の耳元に顔を近づけた。

 

「……ッ、メトーデ……! 離れろ、もう実験は終わりだ」

 

「終わりませんよ。仕返しです、ゲナウさん。……耳を貸してくださいな」

 

 驚くゲナウの肩をメトーデの手がそっと押しとどめる。その細い指先から伝わる体温に、ゲナウは身を硬くした。次の瞬間、鈴の音のような、しかしどこか熱を帯びたメトーデの声が、彼の耳朶に深く滑り込む。

 

「───離れませんよ。死が二人を分かつまで、ずうっと」

 

「な……ッ!?」

 

 ゲナウの背中にゾクリとした震えが走った。だが、メトーデの仕返しはそれだけでは終わらない。彼女はさらに声を一段と低く、甘くして、吐息が直接かかるほどの距離で畳みかける。

 

「そんなに真っ赤になって……本当に、可愛い人ですね。貴方のそういう不器用なところ、大好きですよ」

 

「お前……ッ!」

 

「聞こえませんでしたか? ───大好き、ですよ」

 

 これでもかと鼓膜を揺らす極上の囁き。ゲナウは完全に限界を迎えた。いつも冷静な一級魔法使いの仮面はどこへやら、顔だけでなく耳の裏から首筋までが、カッと燃えるように熱くなる。

 

「悪ふざけが……過ぎるぞ、メトーデ」

 

「ふふ、ふざけてなどいません。貴方の素敵な声で縛られたのですもの。わたくしも、貴方を一生縛り返して差し上げようと思っただけです」

 

 メトーデは体を離すと、上目遣いでゲナウの顔を覗き込んだ。その瞳はまだ少し潤んでいて、彼女自身も必死に平静を装っているのが丸わかりだった。しかし、ゲナウの心臓はすでにうるさいほどに脈打ち、まともな反論の言葉が出てこない。これ以上彼女の顔を見たらどうにかなってしまいそうで、彼は大慌てで顔を背けた。

 

「……すまない。調子に乗りすぎた。今のやりとりは全て忘れてくれ」

 

 ゲナウはバツが悪そうに、震える手で報告書にペンを走らせ始めた。もちろん、めちゃくちゃになった思考では一文字も頭に入っていない。そんな彼の様子を、メトーデはまだ自身の頬をほんのり赤らめながらも、愛おしそうにクスクスと見つめていた。それ以降、二人の間に流れる空気は、いつになく甘く、そしてゲナウからすると酷く気まずいものへと変わっていた。

 

 

 夜の帳が下りても、ゲナウの頭は昼間のやり取りで満たされたままだった。報告書の文字は滑り落ち、耳元に残るメトーデの甘い吐息と“大好き”という言葉が、激しい頭痛のように彼を混乱させていた。その時、ノックの音とともに、張本人であるメトーデが何食わぬ顔で部屋に現れる。

 

「夜分に失礼します、ゲナウさん。……まだ、お休みではありませんよね?」

 

 ゲナウは内心の動揺を隠すように、いつも以上に険しい表情で彼女を睨みつけた。

 

「何の用だ、メトーデ。用件がないなら帰れ。俺は今、思考を整理している」

 

「あら、昼間の続きで頭がグルグルしていらっしゃるのかしら? ふふ、実はわたくしもなんです。だから……もう一度、囁き合いをしませんこと?」

 

「断る。これ以上、お前に言う言葉など何一つない」

 

 ゲナウは冷たく突き放し、視線を机に戻す。しかし、メトーデは全く怯むことなく、音もなく彼の背後に忍び寄る。そして、椅子の背もたれにそっと手をかけ、確信犯的な笑みを浮かべた。

 

「つれない方ですね。ですが、わたくしは諦めませんよ? ゲナウさんがどうしても囁いてくださらないのなら……」

 

 メトーデはさらに身を屈め、彼の耳元で楽しげに爆弾を落す。

 

「このまま、あなたのベッドに潜り込んでしまいますよ? 夜は長いですもの、朝までじっくり、その気にさせて差し上げます」

 

「なッ……! お前、自分が何を言っているのか分かっているのかッ」

 

「分かっていますとも。ですから、大人しくわたくしを満足させてくださいな」

 

 彼女の本気とも冗談ともつかない視線に、ゲナウは完全に退路を断たれた。本当にベッドに入り込まれては、自分の理性が持つ保証がない。彼は大の男が降伏するかのように深くため息を突き、観念して椅子から立ち上がった。

 

「……分かった。一度だけだ。それで満足したら、すぐに自分の部屋へ戻れ」

 

「ええ、お約束します」

 

 嬉しそうに目を輝かせるメトーデを、ゲナウは壁際に誘導した。昼間の仕返しに対する羞恥心と、彼女を黙らせなければならないという使命感。ゲナウは意を決して、メトーデの細い肩を掴み、その耳元へ限界まで顔を近づけた。

 

「───いいか、よく聞け」

 

 低く、地響きのように響くゲナウの声が、至近距離でメトーデの鼓膜を震わせる。

 

「俺をからかうのも大概にしろ。お前のその一挙一動に、俺がどれだけ───翻弄されているか、自覚を持て」

 

 一瞬、メトーデの身体がビクリと跳ねた。ゲナウは容赦なく、さらに声を低く潜め、熱を帯びた吐息を彼女の耳に直接吹き込む。

 

「───ベッドに入り込むなどと、二度と口にするな。本当にそうなった時、お前が泣いて命乞いをしても───俺は絶対に、離してやらないからな」

 

 執着と独占欲を隠そうともしない、男としての剥き出しの囁き。言い終えたゲナウが顔を離すと、メトーデは壁に背を預けたまま、呆然と立ち尽くしていた。昼間の比ではないほど、彼女の顔は耳の付け根まで真っ赤に染まり、呼吸は浅く乱れている。完全にキャパシティをオーバーしたメトーデは、両手で口元を押さえ、潤んだ瞳でゲナウを見上げた。

 

「あ、あの……ゲナウさん……それ、は……」

 

「約束通り、お前を満足させる囁きだ。用が済んだなら、早く出て行け」

 

 ゲナウはそう言い捨てて背を向けたが、彼の耳もまた、隠しきれないほど真っ赤に染まっていた。メトーデはそれ以上言葉を返すこともできず、珍しく完全にノックアウトされた様子で、ふらふらと部屋を後にした。一人残されたゲナウは、激しく波打つ胸を押さえながら、今度こそ一晩中眠れない夜を迎えることになるのだった。

 

 

 昨夜のあまりに過激すぎた自身のセリフを思い返し、ゲナウは一睡もできないまま朝を迎えた。一級魔法使いとしての冷静さを欠き、あろうことか「泣いて命乞いをしても離さない」などと脅迫まがいの言葉を口にしてしまった己の未熟さに、彼は激しい自己嫌悪と猛省に陥っていた。

 

(……いくら煽られたとはいえ、女性に対してあまりにも品性を欠く言葉だった。恐怖を与えてしまったに違いない)

 

 重い足取りで執務室へ向かったゲナウは、すでに席に着いていたメトーデの姿を見て、心臓が跳ね上がるのを感じた。メトーデはどこか気まずそうに、いつもより視線を低くして書類を眺めている。ゲナウは深く息を吸い込み、昨夜の非礼を埋め合わせるべく、彼なりの最大限の配慮と優しさを行動に移すことに決めた。

 

「……メトーデ。おはよう」

 

「あ……ゲナウさん。おはようございます」

 

 いつもなら先に挨拶すらしない彼が、妙に落ち着いた、柔らかい声で挨拶をしたため、メトーデは驚いてパッと顔を上げた。

 

「昨夜は……すまなかった。俺の言葉が過ぎた。お前に怖い思いをさせたのなら、謝る」

 

「え? いえ、怖いだなんて、そんな……っ」

 

 昨夜の熱情的な声を思い出して再び頬を染めるメトーデを気遣い、ゲナウはそっと彼女のデスクへ近づいた。そして、驚くべき行動に出る。

 

「今日の分の書類だ。……半分は俺が引き受ける。お前は体調が優れないなら、無理をせず適度に休め。紅茶でも淹れてこよう」

 

「えっ、ゲナウさんが、わたくしに紅茶を……!?」

 

 普段なら「自分の分くらい自分で淹れろ」と言う堅物な男が、自ら進んで給湯スペースへ向かい、丁寧に淹れた温かい紅茶をメトーデの机にそっと置いた。それだけにとどまらず、ゲナウは彼女がペンを落としそうになると、素早い動きでそれを拾い上げ、手元に優しく戻した。

 

「あ、ありがとうございます……」

 

「気にするな。……何か、他に手伝えることはあるか? 力仕事でも、何でも言ってくれ」

 

 至れり尽くせりの、至極真面目で優しいゲナウ。しかし、その目は「これ以上傷つけないようにしなければ」という義務感と、直視できない羞恥心で泳いでいる。あまりの激変ぶりに、メトーデは最初こそ戸惑っていたものの、彼の「やりすぎて猛省している」という健気な意図を察し始めた。優しくされればされるほど、昨夜の彼の男らしい囁きが脳裏にフラッシュバックし、メトーデの胸は別の意味で締め付けられる。

 

(そんなに優しく、腫れ物に触るように扱われたら……余計に意識してしまうではありませんか……!)

 

 普段の厳しいゲナウなら軽口でかわせるものの、今の彼の「本気の気遣い」と「滲み出る不器用な優しさ」は、メトーデの防壁をいとも簡単に打ち破っていった。結局、ゲナウが優しくすればするほど、二人の間の空気は甘く、そしてどうしようもなく、妙な緊張感に包まれていくのだった。

 

 

 ゲナウの徹底した「紳士的で不器用な優しさ」は、メトーデの計算を完全に狂わせていく。いつもなら余裕たっぷりに彼をからかうはずの彼女だが、お茶を淹れてもらい、書類を肩代わりされ、体調を本気で気遣われるうちに、胸の奥がじんわりと熱くなり、奇妙な独占欲が首をもたげてきた。

 

(ずるいです、ゲナウさん。そんなに真っ直ぐに優しくされたら……からかうことなんて、もう出来なくなってしまいます……)

 

 午後になり、部屋に差し込む日差しが強くなってきた頃、メトーデの限界は訪れた。これ以上、彼の「猛省モード」に流されていては、自分が調子に乗って本当に壊れてしまいそうになる。それならいっそ、この不器用な優しさに全力で乗っかってしまおう───そう決めたメトーデの瞳に、少し甘えたような、潤んだ光が灯った。

 

「……ゲナウさん」

 

 ペンを置き、少し声を鼻にかけるようにして彼女が呼びかける。ゲナウはびくりと肩を揺らし、恐る恐る彼女の方を向いた。

 

「どうした、メトーデ。どこか痛むのか? すぐに休んだ方が───」

 

「いえ、そうではありません。……ただ、少しだけ、疲れました」

 

 そう言うと、メトーデは椅子から立ち上がり、ゲナウのデスクのすぐ横まで歩いていく。そして、驚くゲナウの目の前で、彼の大きな背中にそっと、自身の額を預けた。

 

「メ、メトーデ……!? 何をしている、離れろッ」

 

「離れません。だって、ゲナウさんが『何でも言ってくれ』とおっしゃったのでしょう? わたくし、今とても甘えたい気分なんです」

 

 背中越しに伝わる、彼女の柔らかい体温と心地よい香りに、ゲナウの全身の筋肉が瞬時に硬直した。昨夜の「ベッドに潜り込む」という言葉が脳裏をよぎり、頭が爆発しそうになる。

 

「甘える、だと……? 意味が分からん。俺はお前の体調を気遣って───」

 

「分かってくださいな。ゲナウさんが不器用な優しさを見せるから、わたくしの調子が狂ってしまったのです。ですから、これはあなたのせいですよ?」

 

 メトーデは背中に顔をうずめたまま、服の裾を細い手でぎゅっと握りしめた。いつもなら大人の余裕で迫ってくる彼女が、今はまるで子供のように、ゲナウの温もりを求めて小さくなっている。そのあまりの愛らしさと無防備さに、ゲナウの「やりすぎた」という反省心は、別の種類の「保護欲」へと上書きされていった。

 

「……お前というやつは、本当に、掴みどころがないな」

 

 ゲナウは深くため息をついたが、その声には先ほどまでの拒絶の色はなかった。彼はゆっくりと身体を反転させ、メトーデと向き合う。そして、戸惑う彼女の頭に、大きな、しかし酷く不器用な手つきでそっと手を置いた。

 

「───これでいいか」

 

 ぽんぽん、とぎこちなく髪を撫でるゲナウ。今度はメトーデの方が、彼の大きな手掌の温かさに完全にノックアウトされる番だった。顔を真っ赤にしながらも、彼女は嬉しそうに目を細め、さらにゲナウの胸元に寄り添うのだった。

 

ゲナウの大きくて不器用な手のひらに頭を撫でられ、メトーデの胸はこれまでにない幸福感で満たされていた。しかし、いつもならここで引き下がる彼女も、すっかり調子を狂わされ、ゲナウの底なしの優しさに完全に味を占めてしまう。メトーデは彼の胸元からゆっくりと顔を上げると、頬を赤らめたまま、上目遣いでゲナウをじっと見つめた。その瞳には、さらなる悪戯心と、本気の甘えが混ざり合っている。

 

「……ゲナウさんの手、とっても温かいです。でも、頭を撫でていただくだけでは、まだ少し元気が足りません」

 

「これ以上、俺にどうしろと言うんだ。書類ならもう半分以上終わらせているぞ」

 

「そういう実務的なことではなくて……。あの、もしよろしければ……次は、膝枕をしていただけないかしら?」

 

「……は?」

 

 ゲナウは我が耳を疑い、完全にフリーズした。

 

「お前、今なんと……?」

 

「ですから、わたくしをゲナウさんの膝の上に寝かせて、そのまま優しくしていただきたいのです。そうしてくだされば、午後の分の書類も一瞬で片付けてみせますわ」

 

 メトーデは自分の贅沢なおねだりに少し気恥ずかしさを覚えつつも、引く気はないとばかりにゲナウの服の裾を引っぱる。ゲナウは、昨夜の己の暴言(泣いて命乞いをしても離さない)への罪悪感と、目の前で信じられないほど愛らしい表情で迫ってくるパートナーの姿を天秤にかけた。彼の理性が「一級魔法使いが執務室ですることではない」と激しく警鐘を鳴らしたが、今のゲナウは「猛省モード」の真っ最中。彼女の頼みを断るという選択肢は、すでに彼の脳内から消去されていた。

 

「……お前がそこまで言うなら、一度だけだ。本当に、一度だけだからな」

 

 ゲナウは耳まで真っ赤にしながら、執務室の休憩スペースのそれなりに幅のあるソファの端に深く腰掛け、太ももを軽く叩いた。まさか本当に許可が出るとは思っていなかったメトーデは、一瞬目を丸くしたが、すぐに破顔して「ありがとうございます!」と声を弾ませる。メトーデはそっと、ゲナウの膝の上に自身の頭を横たえた。普段の厳格な佇まいからは想像もつかないほど、彼の太ももは硬く、男らしい体格を物語る筋肉に覆われている。至近距離から見上げるゲナウの顎のラインや、恥ずかしさのあまり完全に明後日の方向を向いている横顔に、メトーデの心臓は再びうるさいほどに鳴り響き始めた。

 

「……メトーデ。これで満足したか」

 

 ゲナウは視線を頑なに合わせようとしないまま、低い声で問いかける。しかし、彼の大きな手が、躊躇いがちに再びメトーデの柔らかな髪へと伸びてくる。そして、宝物に触れるかのような手つきで、ゆっくり、ゆっくりと彼女の髪を指先で梳き始めた。そのあまりの優しさと心地よさに、メトーデは完全に骨抜きにされてしまった。

 

「……はい、とっても幸せです……。ゲナウさん、そんなに優しくされたら、本当に戻れなくなってしまいます……」

 

 メトーデは彼の膝の上で小さく身を縮め、嬉しそうに、そして少し切なそうに瞳を閉じる。ゲナウは、自分の膝の上で無防備に体温を預けてくる彼女を見下ろし、胸の奥が締め付けられるような愛おしさを覚えた。周囲に人が来ないことを祈りながら、二人の間には、執務室とは思えないほど甘く、静かな時間が流れていくのだった。

 

 

「……メトーデ。おい、もう時間だ」 

 

 どれほどの時間が流れただろう。ゲナウは真っ赤になった顔をようやく少しだけ落ち着かせると、膝の上の愛しい重みに向かって、努めて冷静な声を絞り出した。夕方のチャイムが遠くで鳴り響き、これ以上この体勢を続ければ、本当に他の魔法使いに目撃される危険がある。

 

「書類の整理も残っている。もう起きろ」

 

 ゲナウが髪を撫でていた手を止め、膝枕を切り上げようと身じろぎした、その時。メトーデは閉じていた目をパッと開くと、信じられないほどの素早さでゲナウの腰に両腕を回した。

 

「いやです。まだ離しません」

 

「ッ……メ、メトーデ。何をしている、離れろ」

 

 驚いたゲナウが彼女の肩を掴んで引き剥がそうとするが、メトーデは彼の腰にしがみついたまま、ぎゅっと力を込めて顔を胸元にうずめる。普段の彼女からは想像もつかないほど我が儘で、強い力が込められていた。

 

「離しません。ゲナウさんが急にそんなに優しくするから、わたくし、完全に甘え癖がついてしまいました。これは全てあなたの責任です」

 

「無茶苦茶を言うな。俺は……お前が体調を崩していると思って配慮しただけで……」

 

「お仕事なんて後回しです。今は、こうしてゲナウさんの温もりに触れていたいのです……。お願いですから、もう少しだけこのままでいさせてくださいな」

 

 服越しに伝わる彼女の熱と、切実さを帯びた甘い声。腰に回された腕の感触が、ゲナウの理性を容赦なく削り取っていく。昨夜、自分が口にした「泣いて命乞いをしても離さない」というセリフが皮肉にも逆の立場で返ってきたかのようだ。

 

「お前というやつは……本当に、ずるいな」

 

 ゲナウは天を仰ぎ、観念したように脱力した。引き剥がそうとしていた彼の両手が、迷った末に、そっとメトーデの細い背中に回される。そのまま、壊れ物を抱きしめるように優しく彼女の体を包み込んだ。

 

「……今回だけだ。本当に、日が暮れるまでの、あと少しだけだからな」

 

「ふふ……はい。ありがとうございます、ゲナウさん」

 

 ゲナウの胸の中で、メトーデは満足そうに微笑み、さらに深く彼の身体に寄り添う。夕暮れの赤い光が差し込む執務室で、二人はお互いの心臓の音をすぐ近くに聞きながら、どこまでも甘く、離れがたい時間をただ貪り続けるのだった。

 

 

 夕暮れの赤い光が部屋を包み込み、ゲナウの腕の中でメトーデは愛おしそうに身体を預けていた。背中に回された彼の大きな手の温もりと、不器用ながらも自分を包み込んでくれるその力強さに、メトーデの胸はこれ以上ないほど高鳴っていた。ゲナウは、これ以上は本当に自分の理性が保てないと直感し、深く息を吸い込んで彼女の身体を優しく揺らす。

 

「……メトーデ。もう本当に日が暮れる。今日のところは、これで終わりだ」

 

 彼がゆっくりと腕の力を緩め、彼女を解放しようとした、その瞬間。メトーデは腰に回した腕を離さないまま、ゲナウの首筋にすっと顔を近づけた。そして、昼間の耳元での囁き合いを思い出すかのように、彼の耳朶に直接、熱い吐息を吹きかけたのだ。

 

「……ゲナウさん。今夜も、貴方の部屋に行っていいですか?」

 

 その一言は、ゲナウにとって文字通りのトドメだった。

 

「な……ッ」

 

 昨夜の「ベッドに潜り込む」という言葉、そして自分が口にした「泣いて命乞いをしても離さない」というセリフが、一瞬でゲナウの脳裏を埋め尽くす。彼女の甘く、そしてどこか本気を含んだその声に、ゲナウの頭は完全に真っ白になった。いつも冷静沈着な一級魔法使いの仮面は木っ端微塵に砕け散り、顔から首筋、そして手の甲に至るまで、カッと血が上って真っ赤になる。

 

「お、お前は……自分が、何を誘っているのか……分かっているのか……!」

 

 ゲナウは低く震える声で問い返したが、メトーデは彼の胸に顔をうずめたまま、くすくすと悪戯っぽく、しかしひどく愛おしそうに身をよじった。

 

「分かっていますとも。ゲナウさんが昨夜、あんなに素敵な脅し文句を言うからです。わたくし、本当にそうなってしまうのか、確かめたくなってしまいました」

 

 確信犯的な彼女の言葉に、ゲナウは完全に言葉を失った。これ以上彼女を部屋に入れたら、今度こそ己の理性が崩壊し、本当に「離してやらない」状況になってしまうのは明白だ。

 

「……駄目だ。今夜は、絶対に強力な魔法で鍵を掛けておくからな」

 

 ゲナウは必死に理性を繋ぎ止め、蚊の鳴くような声で拒絶の言葉を口にしたが、その身体はまだメトーデを抱きしめたまま、離すことができずにいた。メトーデはそんな彼の不器用な抵抗さえも愛おしく思いながら、今夜訪れるかもしれない甘い時間の想像に、自身もまた胸を熱くときめかせるのだった。

 

 

 

End

 

 

 

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