激しい爆音と、大気を引き裂くような魔力の奔流が止んだ時、そこには無残に破壊された荒野と、事切れた魔族は魔力の粒子と化した。討伐は完了した。
しかし、一級魔法使いであり、共に北部高原の任務をこなしてきたゲナウとメトーデの戦いは、まだ終わっていなかった。
「……メトーデ! 聞こえているか、メトーデ!」
ゲナウは鋭い声を張り上げた。彼の視線の先、魔族を屠った中心に立つメトーデの様子は、明らかに異常だった。戦闘中に喰らった魔族の呪詛か、あるいは精神攻撃が引き金となったのか────
彼女の膨大な魔力が、制御を失って文字通り“暴走”していた。周囲の空間が、彼女から放たれる狂おしいほどの魔力密度によって歪んでいる。
(……このままでは、あいつの身体が持たない)
ゲナウの脳裏に、最悪の結末が過る。限界を超えて酷使される魔力回路は悲鳴を上げており、このまま暴走が続けば魔力切れどころか、彼女の肉体そのものが内側から崩壊しかねない。命の危機だった。
「あ、ぁ、ああぁああ……っ!」
正気を失ったメトーデの瞳には、目の前に立つパートナーの姿すら映っていない。彼女にとって、世界のすべてが“排除すべき敵”に置換されているようだった。彼女が反射的に杖を振るうと、純粋な破壊の術式が全方位へと撒き散らされる。
「くッ……!」
ゲナウは瞬時に《黒金の翼》を展開した。鋼鉄の硬度を持つ漆黒の翼が、メトーデから放たれた無軌道な魔力の散弾を弾き返す。いつもなら、ゲナウは冷徹で、合理性を重んじる男だ。北部高原の過酷さを知る彼は、他人のために無茶をするような真似はしない────はずだった。
だが、今この瞬間、ゲナウの胸を支配していたのは、冷徹な計算ではなく、形にできない焦燥感だった。故郷を失い、仲間を失ってきたゲナウにとって、不条理に誰かを失うことはもう見飽きていた。
ましてや、あの生意気で、それでいて誰よりも有能な、自分の背中を預けてきたパートナーが、目の前で自滅へと突き進んでいるのだ。放っておくという選択肢など、彼のプライドが、そして彼の心が許さなかった。
ゲナウは翼を羽ばたかせ、猛烈な魔力の嵐の中へと強引に飛び込んだ。容赦なく肌を切り裂く魔力の刃を、最小限の動きで躱し、時には翼で受け流す。一歩間違えれば五体が消し飛ぶような密度の攻撃を潜り抜け、ゲナウはついに、取り乱すメトーデの間合いへと肉薄した。
「メトーデ、正気に戻れ!」
ゲナウは力強く彼女の身体を抱き留めた。彼女の身体は、暴走する魔力の熱で異常なほど熱くなっている。激しく暴れる彼女を、ゲナウは自らの両腕と、包み込むような黒金の翼で必死に抑え込んだ。
「俺だ、ゲナウだ! もう敵はいない! 落ち着け、魔力を止めろ!」
耳元で必死に言葉を紡ぐ。普段のぶっきらぼうな彼からは想像もつかないほど、感情を剥き出しにした、必死の説得だった。ゲナウの胸の中で、メトーデの身体が一瞬、ビクリと跳ねて動きを止める。その時、メトーデの混沌とした意識の奥底には、確かにゲナウの声が届いていた。暗闇の中で、聞き慣れた、不器用で、けれど酷く安心する彼の声が響いたのだ。
(ぁ……ゲナウ、さん……?)
しかし、彼女の身体に深く刻まれた防衛本能と、暴走する術式は、その認知を歪めて出力した。迫り来る温もりを“自分を縛る敵の罠”だと誤認した彼女の肉体は、彼女自身の意志とは裏腹に、最悪の迎撃行動をとってしまう。
───ドスッ、と鈍い音が、二人の間で響いた。激痛がゲナウの背中を突き抜けた。メトーデの手が、無意識のうちに、先端が小斧のようになった彼女の杖を逆手に握り直し、ゲナウの羽の付け根のちょうど真ん中の背中へと深く突き立てていたのだ。
「が、はッ……!」
口内から鮮血が溢れ出る。背中から心臓のすぐ近くを貫通した冷たい感触と、焼けるような激痛がゲナウの意識を白く染めかける。圧倒的な失血。視界が急速に狭まっていく。
(……ここで、手を離せば)
ゲナウの冷徹な理性が囁く。手を離して距離を取り、防御に専念しなければ、確実に死ぬ、と。だが、ゲナウの意志はそれを拒絶した。ここで自分が手を離せば、彼女は永遠に暗闇に取り残され、本当に壊れてしまう。背中に刺さった杖が肉を抉る痛みに耐えながら、ゲナウは回そうとした腕の力を緩めるどころか、さらに強く、彼女を抱きしめた。
「……め、とーで……」
血を吐きながらも、ゲナウは掠れた声で言葉をかけ続けた。
「……もう、いいんだ……戻ってこい……メトーデ……」
その懇願するような、ひどく儚いパートナーの声が、ついにメトーデの狂気を完全に打ち砕いた。ガタガタと震えていたメトーデの身体から、急速に圧力が抜けていく。それと同時に、彼女の瞳にじんわりと光が戻ってきた。
「……ぇ……?」
メトーデの視界を覆っていた靄が晴れる。最初に視界に入ったのは、自分を強く抱きしめるゲナウの黒い衣服。そして、彼の肩越しに見える、自分の杖の先端。その小斧の刃は、ゲナウの背に深く突き刺さり、そこから信じられないほどの量の鮮血が溢れ出ていた。
「ゲナウ……さん……?」
ゲナウの身体から、ふっと力が抜けた。ドサリ、と重い音を立てて、彼が地面へと崩れ落ちる。彼を包んでいた黒金の翼は羽根を散らして消え去り、そこには大量の血の海に伏せるパートナーの姿だけが残された。
「嘘……いや、嫌……! 私が、私がやったの……!?」
メトーデの脳内に、自分が犯した過ちの記憶が濁流のように流れ込んでくる。頭が真っ白になり、呼吸が過呼吸気味に浅くなる。パニックで視界が激しく揺れた。
(私が、ゲナウさんを殺した? 私のせいで、私の魔法のせいで───!)
あまりの恐怖と罪悪感に、心がへし折れそうになる。叫び出しそうな錯乱の淵で、しかし、彼女の魔法使いとしての本能が、そしてゲナウへの強い想いが、彼女の理性を繋ぎ止めた。
(落ち着いて、自分。わたくしは一級魔法使い。ゲナウさんが認めてくれた、女神様の魔法すら扱う魔法使いでしょう……!)
彼女は自分の恐怖やパニックを、プロとしての執念と、彼を絶対に失いたくないという祈りで強引にねじ伏せた。
「しっかりして、ゲナウさん! 死なせない、絶対に死なせませんから……!」
震える手で、メトーデはゲナウの身体を横向きにする。彼の顔色はすでに土気色で、呼吸は浅く、今にも魂が零れ落ちそうだった。メトーデはゲナウの背中の傷口に両手を当てる。暴走で枯渇しかけていた彼女の魔力が、今度は優しく、しかし狂おしいほどの必死さを伴って、緑色の癒しの光へと変換されていく。
「お願い……届いて……繋がって……!」
メトーデは涙で視界を滲ませながら、全力で回復魔法を注ぎ込んだ。肉体を再生し、血管を繋ぎ、失われた血液を全ては無理でも補う。普段なら冷静に、効率よく組み立てるはずの術式が、今は彼女の“生きて”という感情そのものに突き動かされていた。
自分の魔力が底を突き、脳が割れるように痛もうとも、手を止めることなど万に一つも考えなかった。彼の命が消えるくらいなら、自分の魔力も命も、すべて使い果たしても構わないと本気で思っていた。
───どれほどの時間が経っただろうか。メトーデの魔力が本当に限界を迎え、光が消えかかったその時。
「……ごほッ、げほッ……!」
ゲナウの胸が大きく上下し、彼が激しく咳き込んだ。その瞳が、うっすらと開かれる。
「ゲナウさん……!」
「……メトーデ、か……。騒がしい、ぞ……」
いつもの、ぶっきらぼうで冷淡な声。しかし、確かに生きて、そこにいる声だった。致命傷は塞がった。それを確認した瞬間、メトーデを張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。彼女はそのままゲナウの胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣き崩れた。
「よかった……本当によかった……! ごめんなさい、ごめんなさい……!」
罪悪感と、彼が助かった安堵感が混ざり合い、涙が止まらない。ゲナウは小さくため息をつき、まだ重い右腕を少しだけ動かして、自分の胸で泣きじゃくるメトーデの頭に、ぽんと不器用に手を置いた。
「……馬鹿者が。泣くな、耳に響く……」
彼の言葉は刺々しいが、その手つきは驚くほど優しかった。ゲナウもまた、彼女が正気に戻り、自分の腕の中で生きていることに、心の底から安堵していた。北部高原の冷たい風が、互いの存在を確かめ合うように寄り添う二人を、静かに包み込んでいった。
────北部高原の片隅に佇む、一級魔法使い用の小さな隠れ家(セーフハウス)。結界魔法で守られたその木造の家の中で、薪ストーブの爆ぜる音だけが静かに響いていた。
「……動かないでと言っているでしょう、ゲナウさん」
スープの入った木椀を盆に載せ、寝室に入ってきたメトーデが、眉をひそめて鋭い声を上げた。ベッドの上で、ゲナウが上半身を起こし、上着に手をかけようとしていたからだ。メトーデに睨まれ、ゲナウは諦めたように背中を壁に預けた。
「身体がなまる。いつまでも寝ていられるか」
「傷口は塞がりましたが、失った血液と魔力はまだちゃんと戻っていません。大人しくわたくしの言うことに従ってください」
メトーデはベッドの脇に腰掛け、スープをスプーンですくい、ゲナウの口元へと運ぶ。完全に子供扱いだった。いつもなら“小さくて可愛いもの”を愛でる側のメトーデが、今はどこか母親のように、あるいは厳格な看護師のようにゲナウを世話している。
ゲナウはひどく嫌そうな顔をしたが、ここで拒絶すれば彼女がまたあの“酷く傷ついた目”をするのを分かっていた。観念して、彼は大人しくスープを口に運ぶ。あの日、メトーデの治療によってゲナウは一命を取り留めた。しかし、暴走した魔力と小斧の杖が残したダメージは深く、二人はこの隠れ家で数日間の療養を余儀なくされていた。
「……それで、自分の身体の調子はどうだ」
ゲナウがスープを飲み干したのを見届け、盆を置いたメトーデに、彼は静かに問いかけた。メトーデの手が一瞬、ピクリと止まる。彼女は視線を落とし、自身の白く細い両手を見つめた。
「……落ち着いています。あのような暴走は、もう」
彼女の声には、まだ自責の念と、自分の内側にある“力”への恐怖が滲んでいた。メトーデの実家は、多種多様な攻撃魔法や呪詛、精神操作に対抗する術を網羅する、北部高原でも特殊な家系だった。彼女自身、精神魔法の使い手でもあり、他者の魔力を見極める目を持つ。
だが、その特殊な血筋には、裏の側面があった。精神を他者に同調させ、深く介入できる一族の性質は、時に強大すぎる精神攻撃や呪詛を喰らった際、防衛本能として“自身の魔力と精神を完全に切り離し、肉体を戦闘自動人形(オートマタ)化させる”という、極端な暴走を引き起こす引き金になり得たのだ。
あの日、魔族が死に際に放った精神呪詛は、本来ならメトーデの精神を破壊するものだった。それを彼女の一族の血が、本能的に“精神の遮断(暴走)”という形で身代わりにした。結果として彼女の心は守られたが、代わりに制御を失った魔力が、最愛のパートナーを手にかけかける凶器と化してしまったのだ。
「わたくしの血筋の、悪い癖です。……一級魔法使いとして、お恥ずかしいところをお見せしました」
メトーデは自嘲気味に微笑んだ。その表情を見たゲナウは、フッと鼻で笑った。
「恥じる必要がどこにある。あれはあの魔族の呪詛が執拗だっただけだ。それに、お前の一族の性質があったからこそ、お前の精神は壊れずに済んだのだろう」
「……ですが、わたくしは貴方を」
「俺が勝手に飛び込んだんだ」
ゲナウはメトーデの言葉を遮るように、ぶっきらぼうに言い放った。
「俺はお前が優秀な回復魔法の使い手でもあると知っている。だから、死なない程度に刺される覚悟で突っ込んだ。計算通りだ」
「嘘をおっしゃい」
メトーデは少しだけ、いつもの調子を取り戻してゲナウを睨んだ。
「あの時、わたくしの杖は貴方の肺のすぐ近くを貫通していました。一歩間違えれば即死です。計算なんてできるはずがありません。……本当に、無茶苦茶をなさる」
メトーデの瞳に、じんわりと涙が浮かぶ。ゲナウは決まり悪そうに視線を逸らした。実際、計算などしていなかった。ただ、目の前で壊れかけている彼女を救いたい、その一心だけだった。それを口にするのは、彼の不器用なプライドが絶対に許さなかった。
「……結果として、俺は生きている。お前がほぼ完璧に治したからだ。それでいい」
ゲナウはそう言うと、布団から大きな手を伸ばした。そして、メトーデの、まだ微かに震えている頭の上に、ぽんと手を置いた。あの日、戦場で彼女を落ち着かせた時と同じ、無骨で、けれど確かな温もりを持つ手だった。
「お前はよくやった、メトーデ。自分を責めるな」
その言葉は、何よりも深くメトーデの心を救った。彼女はゲナウの大きな手の下で、じっと目を閉じる。彼の掌から伝わる体温が、彼女の内側に残っていた暴走の恐怖と罪悪感を、綺麗に溶かしていくようだった。
「……ゲナウさんは、本当に優しいですね」
「うるさい。早く寝かせろ」
メトーデが小さく笑うと、ゲナウは恥ずかしそうに手を引き、布団を頭まで被ってしまった。その背中はまだ少し痛むはずなのに、どこか愛おしく、頼もしかった。
メトーデはそっと立ち上がり、部屋のランプの灯りを落とした。カーテンの隙間から差し込む北部高原の月光が、静かに二人を照らしている。まだしばらくは、この隠れ家での不器用な、けれど穏やかな時間が続きそうだった。
End