レヴォルテ討伐後のオイサースト。賑わう街並みの中で、ゲナウは目的もなく足を動かしていた。故郷は失われ、今の彼に帰る場所は無い。あるのは、一級魔法使いとして宛がわれた、無機質で特別な部屋だけ。
レヴォルテ戦の傷を癒やすための休暇とはいえ、メトーデとの臨時ペアも解消され、ただ一人で歩く時間は、彼に奇妙な空白感をもたらしていた。
(メトーデも、私の元を去ったか……)
次の任務まで、時間は十分にある。しかし、自分はこれからどうしたいのか。戦うこと以外に、何を望めばいいのか。まるで途方に暮れたかのような、割り切れない寂しさが胸をかすめたその時、聞き慣れた足音が近づいてきた。
「ゲナウさん。お暇でしたら、一緒に焼き菓子でも作ってお茶にしません?」
振り返ると、そこにはいつも通りの穏やかな微笑みを浮かべたメトーデが立っていた。
「……断る。なぜ私がお前とお茶などを」
本当は、その声に救われたような心地がしていた。しかし、素直になれないゲナウは、つい冷たい言葉で一度突き放してしまう。だが、メトーデはそんな彼の態度を最初から予想していたかのように、全く動じなかった。
「そうおっしゃると思いました。ですが、もう場所は確保してあるんです。行きましょう」
メトーデはゲナウの腕を強引に引き、歩き出す。結局、ゲナウは彼女の勢いに抗いきれず、大陸魔法協会本部の一角にある広々としたキッチンへと連れて行かれてしまった。エプロンを渡され、並んで作業を始める。ゲナウは器用に、メトーデに指示されるまま、黙々と生地を捏ねていった。甘いバターの香りが室内に広がり、オーブンの中で菓子が膨らんでいく様子を眺めているうちに、ゲナウの頑なだった心は少しずつ解きほぐされていく。
「ゲナウさん、手際が良いですね。もしかして、お菓子作り得意なのでは?」
「……お前の指示が的確なだけだ。まぁ、たまに自分で作ってみたりもするが」
「道理でお上手だと思いました。お菓子を作れる殿方って素敵です」
「こ、紅茶に合う菓子を自分で作れるようになりたかっただけだ」
そんな他愛のない会話を交わしながら、焼き上がった菓子を皿に盛り、紅茶を淹れる。湯気の向こうで、メトーデが真剣な目をゲナウに向けた。
「ゲナウさん。もしよろしければ、わたくしたち、正式なパートナーになりませんか?」
唐突な提案に、ゲナウはカップを持つ手を止めた。
「……何を言い出す。私は、誰かを守れるような男ではない。臨時だからこそ、お前も無事でいられたのだ」
自嘲気味に呟く彼に対し、メトーデは優しく、しかし確かな口調で告げる。
「わたくしは守られるだけの人形ではありません。それに、わたくしはゲナウさんの隣が、一番落ち着くのです」
躊躇の沈黙が流れる。だが、ゲナウの胸を満たしていたのは、拒絶ではなく確かな喜びだった。これ以上、独りで歩く寂しさに耐える必要はないのかもしれない。
「……好きにしろ。お前がそれでいいと言うのなら、断る理由はない」
ぶっきらぼうに、しかし明確に受け入れたゲナウを見て、メトーデは嬉しそうに微笑む。
「ふふ、ありがとうございます。そうと決まれば、あとでゼーリエ様に伝えませんとね。きっと、驚かれますよ」
楽しげにこれからの予定を話すメトーデの横顔を見ながら、ゲナウは静かに紅茶を口に運ぶ。窓から差し込むオイサーストの柔らかな光の中で、彼の心には、確かに温かな居場所が生まれ始めていた。
「……ゼーリエ様、か。あの御方が、一級魔法使い個人の付き合いに興味を持たれるとは思えんがな」
「どうでしょう? 案外、見守ってくださっているかもしれませんよ」
そんな会話を交わした数日後。二人は正式な任務のパートナー結成の報告をすべく、大陸魔法協会本部の奥深く、ゼーリエの謁見の間を訪れていた。玉座に深く腰掛けたゼーリエは、並び立つ二人を冷徹とも思える鋭い眼差しで見下ろす。そして、ゲナウが用件を切り出す前に、退屈そうに髪を弄りながら口を開いた。
「……ようやくその気になったか。遅すぎるくらいだ」
「ゼーリエ様? わたくし達の報告をご存知だったのですか?」
メトーデが少し意外そうに目を丸くする。
「知るわけがないだろう。だが、お前たちがそう決めることは分かっていた。ゲナウ、お前の戦い方はいつも危うすぎる。己の身を顧みず、ただ敵を屠ることしか考えていない」
ゼーリエの言葉は厳しく、ゲナウの確信を突いていた。
「……否定はしません。それが私の戦い方です」
「だから言っているのだ。お前のような不器用な男には、回復魔法も扱える者であり、戦況を冷静に見極められるメトーデが必要不可欠だとな。私が最初から臨時のペアに指名した意図を、まさかただの気まぐれだと思って一喜一憂していたわけではあるまい?」
フン、と鼻で笑うゼーリエ。その言葉の裏にある「生きて次の世代へ繋げ」という、弟子への不器用な親心に二人は気づかされる。言葉こそ辛辣だが、その実、誰よりもゲナウの生存を、そして二人の相性の良さを考えての差配だったのだ。
「ゼーリエ様。厳しいお言葉ですが、そこに溢んばかりの愛を感じます。やはりお可愛らしい御方……! なでなでしてもよろしいですかっ?」
メトーデは感極まった様子で両手を頬に当て、うっとりとゼーリエを見つめた。
「い、今はよせ、メトーデ。お前達を正式なパートナーとして認めた最中だというのに、なでなでなどしている場合かっ」
ゼーリエは本当に嫌そうな顔をしてメトーデから身を引く。
「……配慮、感謝いたします、ゼーリエ様」
ゲナウは深く頭を下げた。己の危うさを見抜き、メトーデという「帰る場所」へと導いてくれた師の深い情に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
「ただし、次に私の前へ来る時は、どちらかが欠けているなどという無様な真似は許さん。……下がれ」
冷たく言い放たれた退室の許可。しかし、その背中に向けられた二人の一礼には、確かな敬意と感謝が込められていた。部屋を出て、長い廊下を歩きながら、メトーデがクスクスと笑う。
「ほら、言ったでしょう? ゼーリエ様も喜んでくださるって」
「……喜んでいたようには見えなかったがな。だが、まぁ……」
ゲナウは隣を歩くメトーデを見やり、小さく口元を緩めた。
「これでもう、途方に暮れることはなさそうだ」
オイサーストの光が差し込む廊下を、新しく、そして確かな絆で結ばれた二人の足音が、どこまでも重なって響いていった。
ゼーリエへの報告を終えた数日後。ゲナウの私邸では、再び甘い焼き菓子の香りが漂っていた。
「ゲナウさん、今回はスコーンを焼いてみたのですが……いかがでしょう?」
メトーデが焼き上がったばかりの皿を差し出すと、ゲナウは慣れた手つきで淹れた紅茶を二つのカップに注ぎ、席に着く。
「……美味い。お前の手際は相変わらず見事だな」
「ふふ、ありがとうございます。ゲナウさんの淹れてくれたこの紅茶、少し渋みはありますが、甘いスコーンにとてもよく合いますよ」
正式なパートナーとなってから初めて開く、二人だけのお茶会。サクサクとしたスコーンを齧り、温かい紅茶を喉に流し込みながら、二人は自然と「これから」のことに想いを馳せていた。
「これからは、もう臨時のペアではありません。お互いの背中を預け合う、本物のパートナーです。ゲナウさん、これからの戦い方ですが……」
「あぁ、分かっている。ゼーリエ様にも釘を刺されたからな。これからは、お前という回復魔法も扱える者がいることを前提に動く。……とはいえ無茶な特攻は控えるつもりだ」
「それは頼もしいです。ですが、もしゲナウさんが傷ついたら、わたくしが絶対に死なせませんから。安心して暴れてきてくださいね」
メトーデの頼もしい微笑みに、ゲナウはふっと表情を緩めた。ひとしきりこれからの連携について語り合った後、メトーデはカップを置くと、少し悪戯っぽく、だが真剣な眼差しをゲナウに向けた。
「ところで、ゲナウさん。一つ、やり直したいことがあるのですが……おねだりしてもいいですか?」
「やり直したいこと? なんだ」
「───改めて、わたくしと握手をしてくださいますか?」
メトーデはそう言って、テーブル越しにそっと右手を差し出した。ゲナウはその手を見つめ、ハッと当時のことを思い出す。初めてゼーリエの前で臨時ペアを組まされたあの日。ゲナウは余裕の無いあまり、メトーデが差し出した手を無視して前を向き続けてしまった。結局、ゼーリエに「握手くらいしろ」と促されて、ようやく義務的に手を合わせたのだ。ゲナウは当時の自分の振る舞いを思い返し、酷くバツの悪そうな顔をした。
「……あぁ、あの時のことか。すまなかった。あの時は、色々と想定外の事態が重なりすぎていて、私の頭が追いついていなかったんだ。お前に対して、酷く失礼な態度をとってしまったと反省している」
ゲナウはそう静かに告げると、今度は躊躇うことなく、自分の大きな手をしっかりとメトーデの手へと重ねた。大きな手のひらから伝わる、不器用だけれど誠実で温かい体温。メトーデは嬉しそうに目を細め、くすくすと笑った。
「いいんですよ、気にしないでください。あの時のゲナウさんは、亡くした相棒さんや故郷のことで、相当いっぱいいっぱいなご様子でしたから。ですが……」
メトーデは握った手に少しだけ力を込め、悪戯っぽく微笑む。
「あの時、あなたが背を向けたとしても、私は手を引っ込める気なんて全然なかったんですよ? 握手をしてくれるまで、ずーっとあのまま待つつもりでした」
「……お前なら本当にやりそうだな」
ゲナウは呆れたように息を吐いたが、その表情は優しく凪いでいた。今度はゼーリエに言われたからではなく、自分の意志で、目の前の大切なパートナーの手をしっかりと握り返す。
「ゲナウさん。これからも、よろしくお願いしますね」
「あぁ。こちらこそ、よろしく頼む、メトーデ」
窓から差し込む柔らかな午後の光の中で、二人はもう一度、温かい紅茶で乾杯を交わした。かつては冷徹に見えたゲナウの瞳には、今やメトーデへの確かな信頼と、これからを共に歩む決意が静かに灯っていた。
「それにしても、メトーデ」
ゲナウは紅茶をもう一口すすり、ふと思いついたように口を開く。
「お前は最初から、私と組むことに迷いはなかったのか? 私はお前のように、誰にでも好かれるような人間ではないが」
その問いに、メトーデはスコーンの最後の一片を口に運んだあと、心底愛おしそうな表情でゲナウを見つめた。
「迷うわけがないでしょう? ゲナウさんは不器用で、いつも厳しい顔をしていますが、誰よりも他者の命を重んじる優しい方です。わたくしはそんな貴方の“中身”を、最初からちゃんと知っていましたから」
メトーデはそう言うと、立ち上がってゲナウの隣へと歩み寄る。そして、彼の左手を両手でそっと包み込む。
「それに……あの時のゲナウさんが、本当はどれほど張り詰めていたかも、分かっていましたよ」
「……!」
ゲナウの眉が、僅かに跳ね上がった。メトーデの言葉は、あの日───ゼーリエの前で二人が初めて引き合わされた瞬間の、ゲナウの記憶を鮮明に呼び覚ます。当時のゲナウは、前の相棒を失ったばかりの深い喪失感の中にいた。さらに追い打ちをかけるように言い渡された次の任務先は、彼自身の故郷、北部高原。冷徹な表情を崩さぬよう必死に保っていたが、彼の内面は、これまでにないほど激しく余裕を無くしていた。
(また誰も救えないのではないか。自分の故郷すら、守り切れないのではないか───)
押し寄せる予期不安と、相棒を死なせてしまった自責の念。頭の中がグチャグチャで、余裕など一欠片もなかった。だからこそ、メトーデの方を振り返ることもできず、ただ前を向いたまま、「……足を引っ張るなよ」と、自分自身を鼓舞するように、突き放すような冷たい言葉を吐き捨てることしかできなかった。差し出された彼女の手を見る余裕さえ、あの時の彼には無かったのだ。
「……気づいていたのか」
ゲナウは自嘲気味に、視線を落とす。
「酷いものだな。一級魔法使いともあろう者が、感情に呑まれ、新入りの前で無様なほどに怯えていた。お前を見ることすらできなかったのは、私の弱さの証明だ」
「弱さなんかじゃありません」
メトーデは遮るように、しかしどこまでも優しく、包み込んだ彼の左手に力を込めた。
「大切な人を失って、自分の大切な場所が危機に瀕している。それで平気な顔をしていられる人なんていません。前を向いたまま、必死に震えを隠していた背中を見て、わたくしは思いました。───ああ、この人を絶対に独りにしてはいけない、わたくしが隣で支えなければ、と」
メトーデの真っ直ぐな瞳が、ゲナウの瞳を射抜く。
「だからこそ、ゲナウさん。こうして過去を乗り越え、一緒にお菓子を作って、紅茶を飲んでくれる……今の貴方とパートナーになれて、わたくしは本当に幸せなんですよ」
「……お前は大裟裟だな」
ゲナウは今度こそ完全に顔を背けた。だが、その耳の端が真っ赤に染まっているのを、メトーデの聡明な瞳は見逃さない。ゲナウは小さくため息をつくと、空いた右手でメトーデの頭を、まるでお気に入りの小さな生き物を労わるように、優しく、そして今度は確かな愛おしさを込めて撫でた。彼の大きな手から伝わる温もりに、メトーデは幸せそうに目を細める。
「お茶会はこれで終わりだ。……だが、明日からの戦いでは、お前を退屈させる暇はないぞ」
「望むところです。わたくしの可愛いゲナウさんを、傷一つなく守ってみせますから」
「……“可愛い”は余計だ」
呆れたようなゲナウの声と、メトーデの鈴を転がすような笑い声が、静かな部屋に響き渡る。テーブルの上に残された二つのカップからは、まだ微かに、甘く温かい湯気が立ち上っていた。かつて孤独と焦燥の中で戦場を睨みつけていた魔法使いは、いま、生涯を共にする最高のパートナーの温もりを隣に感じ、静かに心を安らげている。外には、どこまでも青く澄んだ空が広がっていた。これから二人が歩む未来が、どんなに過酷な戦いであっても、あの日の拒絶を乗り越えて結ばれたこの絆がある限り、決して揺らぐことはない───。そう確信させるような柔らかな光の中で、二人の特別な時間は、幸福な余韻を残して静かに幕を閉じた。
End