神技のレヴォルテとの激闘が幕を閉じ、ノルム騎士団の到着を待つ間。一行は比較的被害の少なかった民家を借りて、それぞれの傷を癒やしていた。
戦闘で体力を消耗していたゲナウは、奥の部屋のベッドで泥のように眠っていた。しかし、壁の薄い隣の部屋から、何やら楽しげで騒がしい話し声が漏れ聞こえてきて目を覚ます。普段の彼なら無視するところだが、あまりにも妙な盛り上がり方に、不審に思って様子を見に行くことにした。
重い体を起こし、隣の部屋のドアを静かに開ける。そこでは、なぜかフリーレン、フェルン、シュタルク、そしてメトーデの4人が、互いに向かって交互に投げキッスを繰り出し合うという、極めて異様な光景が広がっていた。
「あ、ゲナウ起こしちゃった? お詫びに投げキッスしてあげるね。ちゅっ」
部屋に入ってきたゲナウに気づくやいなや、フリーレンがいきなり至近距離から完璧なフォームで投げキッスを放ってきた。
「…………」
ゲナウは微動だにせず、ただ無表情でフリーレンを見下ろした。心拍数一つ上がっていない。文字通り、訳が分からないという顔だ。
「え……ゲナウに効いてない。そういえばザインにも効かなかったっけ」
自分の必殺技?が完全にスルーされたことに、フリーレンはあからさまに肩を落とし、しょんぼりと唇を尖らせた。すかさずフェルンが、いつものジト目でフリーレンを咎める。
「フリーレン様、起き抜けの男性にいきなりそんなえっちな真似をするのはやめてください。不健全です」
「な、何言ってるんだよフェルン! でも、やっぱりフリーレンの投げキッスはちょっと……その、刺激が強すぎるというか、えっちだろ……!」
シュタルクが顔を真っ赤にしながら、そっぽを向いて抗議する。
「……えっち? これが、か?」
ゲナウの頭の中の疑問符はさらに増えるばかりだった。重傷を負って生死の境を彷徨った直後に、エルフで年こそかなり上とはいえ背の低い魔法使いから放たれた謎の仕草。それがなぜ「えっち」という評価に繋がるのか、彼の堅物な思考回路では1ミリも理解が追いつかない。そんな困惑するゲナウの前に、今度はメトーデが目をきらきらと輝かせながら一歩前に踏み出してきた。
「フリーレンさんの投げキッス最高じゃないですか、分からないんですかゲナウさん?! 小さくて愛らしいフリーレンさんがあんなに妖艶な仕草をしてくださるんですよ? ご褒美以外の何物でもありません! あぁ、フリーレンさん、わたくしにももう一度お願いします!」
フリーレンの尊さを熱弁して恍惚とした表情を浮かべるメトーデ、顔を真っ赤にしているシュタルク、相変わらず冷ややかなフェルン、そしてメトーデの勢いに少し引き気味のフリーレン。四者四様のカオスな視線を浴びながら、ゲナウはただ静かに頭痛を覚え、額を押さえた。
「ゲナウさん、ここは貴方もフリーレンさんに投げキッスを返すところですよ! さあ、どうぞ!」
メトーデが目を輝かせながら、無茶な提案を突きつけてきた。
「断る。なぜ私がそんな意味不明な真似をしなければならない」
ゲナウは即座に一蹴し、部屋に戻ろうと踵を返す。しかし、その背中にフリーレンが追い打ちをかけた。
「えー、ゲナウ冷たい。ザインはやってくれなかったけど、ヒンメルならノリノリでやってくれたよ?」
「フリーレン様、この頑固そうな一級魔法使いにそれを求めるのは酷です。……でも、少し見てみたい気はしますね」
「ゲナウ! 漢を見せてくれ!」
フェルンとシュタルクまで便乗し、退路を断たれたゲナウ。あまりのしつこさに、彼は盛大にため息をついた。ここで一度やって見せれば、この不毛な騒ぎも収まるだろうと諦めたのだ。
「……一度だけだ。二度とこの件で私に話しかけるな」
ゲナウは寝起きの気だるい体のまま、フリーレンに向き直った。大真面目な顔で右手を口元に当て、そこから突き出すように手を開く。だが、投げキッス特有の片目を瞑るウインクをしようとした瞬間、悲劇が起きた。
「…………ちゅ」
ゲナウは、片目だけを綺麗に閉じることが致命的に苦手だったのだ。閉じようとした右目は痙攣するように半分開き、連動して左目まで中途半端に細まり、眉間には不自然なしわが寄る。結果として、投げキッスというよりは、何かを企む悪党のような凄まじい“変顔”が完成してしまった。
「「「「…………」」」」
一瞬の静寂の後、部屋が爆発したような笑いに包まれた。
「ぶふッ! あはははは! ゲナウ、顔! 顔が怖すぎるよ!」
シュタルクが床を叩いて爆笑し、フェルンも「ふふふ……っ」と口元を押さえて肩を震わせている。フリーレンすら「ゲナウ、それは新手の呪詛か何かかな?」とお腹を抱えていた。メトーデも涙目を浮かべて笑い転げている。
「……もう、絶対にやらん」
完璧にプライドを傷つけられたゲナウは、顔を真っ赤にして激怒した。普段の冷徹さはどこへやら、あからさまに不機嫌なオーラを放ってへそを曲げてしまう。それを見たメトーデは、笑いすぎたことを反省し、涙を拭いながら立ち上がった。
「ふふ、ごめんなさいゲナウさん。悪気はなかったんです。お詫びに……大人の女性の、本物の投げキッスをお見せしますね」
メトーデはゲナウの正面に立つと、艶やかな笑みを浮かべた。しなやかな指先を唇に当て、流れるような美しい動作で、ウインクと共に極上の投げキッスをゲナウに向けて放った。
─────ドクンッ
それは、フリーレンの幼い仕草とは根本的に異なる、本物の“大人の色気”が詰まった一撃だった。不意打ちでそれを正面から直撃させられたゲナウは、頭が真っ白になった。経験したことのない激しい鼓動が胸の奥で跳ね、熱い血が一気に顔へと駆け上がる。
(……な、なんだこれは。心臓の動悸が止まらん……!)
生まれて初めての強烈な気恥ずかしさと動揺。赤面した顔をこれ以上見られるわけにはいかない。ゲナウは咄嗟に皆に背を向け、そのまま床にガタッと膝をついて、頭を抱えるように丸くなって蹲ってしまった。突然のゲナウの異変に、さっきまで笑っていた一同は一転して大慌てになった。
「えっ!? ゲナウ!? 具合悪くなったのか!?」
「レヴォルテ戦の傷が開いたのでしょうか!? シュタルク様、早くベッドへ!」
「ゲナウ、しっかりして! メトーデのキッスには即死魔法でも仕込まれてたの?」
「ええっ!? わたくし、ただ投げキッスをしただけですよ!?」
背後でシュタルクたちがパニックになる中、ゲナウは耳まで真っ赤にしたまま、ただ無言で床を見つめて耐え続けるしかなかった。
「ゲナウさん!? 大丈夫ですか!?」
メトーデが血相を変えて駆け寄り、床に蹲るゲナウの顔を覗き込もうと横から回り込んできた。大人の女性特有の甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐり、彼女の美しい顔が至近距離まで迫る。
「くッ……来るな! 寄るな……!」
ゲナウはさらに顔を真っ赤に染め上げ、パニック状態で身をよじるようにしてメトーデから顔を背けた 。心臓のバクバクという音が耳の奥でうるさいほどに鳴り響いている。彼にとって、この未知の動揺はレヴォルテの剣よりも恐ろしい脅威だった。そんな大騒ぎの傍らで、フリーレンは不満そうに頬を膨らませていた。
「……解せない。私、メトーデよりずっとお姉さんなのに。何この違い。ゲナウ、私の時は微動だにしなかったよね?」
千年以上生きるエルフとしてのプライドが少し傷ついたのか、フリーレンはちょっとご立腹の様子でゲナウを睨みつける。すかさずシュタルクが、呆れたように冷静なツッコミを入れた。
「そりゃフリーレンは見た目がメトーデみたいな、背が高めの大人のお姉さんじゃないからだろ。ゲナウだって男なんだから、あんな風に迫られたら誰だって心臓が保たねえよ」
「シュタルク様、それはフリーレン様に失礼です」
フェルンがジト目でシュタルクをピシャリと撥ね退けた。そして、何故か強い意志を秘めた目でゲナウを見つめる。
「フリーレン様の投げキッスの方が、圧倒的にえっちです。それは譲れません」
「お前それまだ拘ってんのかよ!?」
「ですが……」と、フェルンは顎に手を当てて真剣に分析を始めた。
「ゲナウ様のこの異常なまでの取り乱し方を見るに、これはただの色気ではありません。これはきっと、ゲナウ様にしか効かない、メトーデ様の“特殊な投げキッス”なのですよ!」
「特殊な投げキッスってなんだよ! どんな魔導書に載ってんだよそれ!」
シュタルクの至極真っ当なツッコミも、今のフェルンの耳には届かない。
「なるほど……。ゲナウの精神にダイレクトに作用する、新種の精神魔法の可能性……」
フリーレンまで真に受けて大真面目に考え込み始める始末だった。
「だ、誰も魔法などかけられていない……! 頼むから静かにしてくれ……!」
背後で繰り広げられる訳の分からない議論と、心配そうに手を伸ばしてくるメトーデの間で、ゲナウは耳まで真っ赤にしたまま、ただひたすらに嵐が過ぎ去るのを待つように蹲り続けた。
「そうですか……。では、わたくしの特殊な投げキッス、もう一度試してみましょう!」
メトーデが何やら妙な使命感を燃やし、悪戯っぽく微笑みながら再び袖をまくった。
「よ、よし! ゲナウ、ここは検証のために耐えてくれ!」
「ゲナウ様、未知の魔法の謎を解き明かすためです。観念してください」
「ゲナウ、ちょっとじっとしててね」
「待て、お前たち何を───おい、離せ! 離さんかッ!」
ゲナウの必死の抵抗も虚しく、シュタルクに羽交い締めにされ、フェルンとフリーレンに両脚をがっちりと掴まれてしまう。いくら一級魔法使いとはいえ、前衛のシュタルクの怪力と三人係の拘束には抗えない。無理やりメトーデの方を向かされ、直立不動にさせられたゲナウ。
「それじゃあ、いきますよ? ……ちゅっ♡」
メトーデは先ほどよりもゲナウに一歩近づき、吐息が届きそうなほどの距離で、ウインクと共に格段に濃厚で艶やかな投げキッスをゲナウの正面から炸裂させた。
ピキィィィン、と音がしそうなほどに、ゲナウの全身が限界まで強張った。顔はトマトのように真っ赤を通り越して茹で上がり、目は見開かれたまま完全に瞳孔が据わっている。脳内のキャパシティを遥かに超えた大人の色気の直撃に、彼の思考回路は完全に焼き切れてしまった。
「よし、解放!」
フリーレンたちの合図で、三人が一斉にゲナウから手を離す。するとゲナウは、糸の切れた人形のように、硬直した姿勢のままバタリ……と床へ盛大に俯せに倒れ込んでしまった。ピクリとも動かない。
「……やっぱり即死魔法じゃん! 恐ろしい魔法だよ、メトーデのキッスは」
フリーレンが目を丸くして、倒れたゲナウを指差しながら驚愕の声を上げた。
「本物の大人のお姉さんってこわい……。魔族より恐ろしいものを見た気がする……」
シュタルクはガタガタと膝を震わせ、メトーデから一歩距離を取って怯えている。一方、フェルンは倒れたゲナウとメトーデを交互に見つめながら、真剣な表情で顎に手を当てていた。
「……どうしたらメトーデ様のような、一級魔法使いを一撃で葬る投げキッスができるようになるのでしょうか。修行、でしょうか……」
「フェルン、そっちの方向には進まなくていいからな!? オレの心臓が保たねぇから!」
そんな年少組の大騒ぎを余所に、メトーデはクスッと妖艶に笑いながら、倒れたゲナウを浮遊魔法で起き上がらせた。
「あらあら、純情なゲナウさんには少々刺激が強すぎましたかね。ふふ、可愛い人。……それでは皆さん、ゲナウさんを隣の部屋のベッドに寝かせてきますね」
気絶して真っ赤な顔のままのゲナウを運び、メトーデは楽しげに奥の部屋へと消えていく。残されたフリーレンたちは、大人の女性の底知れぬ恐ろしさを、身をもって知るのだった。
「はッ……!」
ゲナウは勢いよく上体を起こし、ガバッと目覚めた。額には冷や汗がにじんでいる。そこは自分が先ほどまで眠っていた、民家の奥の部屋だった。
「あら、お目覚めですか、ゲナウさん」
すぐ近くの椅子に腰掛けていたメトーデが、嬉しそうに顔を覗き込んできた。目覚めた瞬間、最も気まずい相手とバッチリ目が合ってしまったゲナウは、心臓を跳ね上がらせながら咄嗟にプイッと横へ目を逸らした。まだ耳の裏まで熱い。メトーデはそんなゲナウの様子を愛おしそうに眺めると、クスッと悪戯っぽく微笑んだ。
「ごめんなさいゲナウさん、ちょっとやり過ぎちゃいましたね。……実はあの投げキッス、ほんのちょっとだけ、相手をときめかせる“精神魔法”を混ぜちゃったんですよ」
「お前な……! 一級魔法使いが同僚に私闘同然の精神魔法をかけるなど、正気の沙汰か……!」
ゲナウは青筋を立てて激怒しかけたが、ふう、と深く息を吐いて強引に怒りを抑え込んだ。魔法のせいにできるのなら、先ほどの自分の異常な動揺にも説明がつく。少しだけプライドが救われた気がした。だが、メトーデの悪戯心はまだ収まらなかったようだ。彼女は椅子の位置をさらにベッドへ近づけると、上目遣いでゲナウの服の袖をちょんと引っ張った。
「ねぇゲナウさん……もう一回だけ、今度はわたくしだけに向けて、投げキッスしてくれませんか?」
「断る。一度見ただろう、俺にあれはできん」
「そこをなんとか。次は笑ったりしませんから」
執拗にねだるメトーデを睨みつけ、ゲナウはふん、と鼻を鳴らした。魔法の細工なしでここまで動揺させられたのだ。このまま負けっぱなしで引き下がるのは、一級魔法使いとしての矜持が許さない。ゲナウはなぜか、急に強気な笑みを口元に浮かべた。
「……いいだろう。先ほどのような、無様な変顔になってもいいと言うのなら、してやる」
ゲナウはベッドの上に端座し、至近距離でメトーデと真正面から向き合った。相変わらずの無愛想のまま、彼は大きな右手を口元に当てる。そして、迷いのない動作で手を開き、メトーデの目の前へと突き出した。
「……ちゅ」
今度は、先ほどのような目の痙攣は一切なかった。いつもの無愛想のままにゲナウは完璧に右目だけを閉じ、左目で真っ直ぐにメトーデを射抜いていた。不器用な男が、ただ一度の失敗を瞬時に修正し、大真面目に繰り出してきた、完璧なウインクの投げキッス。
「……はぁんっ!?」
予想だにしない至近距離からの完璧な不意打ちを食らい、メトーデの口から変な色っぽい声が漏れた。みるみるうちに彼女の白い頬が、ゲナウの時と同じように鮮やかな赤に染まっていく。メトーデは胸元を押さえ、信じられないものを見たという風にパチパチと目を瞬かせた。
「げ、ゲナウさん……反則ですよそれ……。ずるいです……」
メトーデが完全に形勢逆転され、珍しくうろたえながら抗議する。そんな彼女の様子を、ゲナウはすっかり平熱に戻った冷徹な瞳で見下ろし、フッと鼻を鳴らした。
「さっきの仕返しだ。一級魔法使いをナメるなよ」
平静を装いながらそう言い放つゲナウだったが、内心では、メトーデのあまりに可愛い反応に、また少しだけ心臓がうるさく鳴り響いていた。
End