葬送のフリーレン短編集   作:風亜

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合同鍛錬のゆく末

「……九十七、九十八、九十九、百」

 

 一級魔法使いゲナウは、深い森の奥、木漏れ日すら届かない静寂の中で、一人黙々と拳立て伏せを続けていた。普段の漆黒の外套を脱ぎ捨て、薄手のインナーシャツ一枚になった彼の背中は、尋常ではない速度と正確さで上下している。

 

魔法使いでありながら、彼は知っていた。強靭な精神と魔法を支えるのは、極限まで鍛え上げられた肉体であるということを。誰にも見られないこの静かな場所こそが、彼の密かな鍛錬の場だった。

 

「あら、こんなところで素敵な汗を流している方がいると思ったら。ゲナウさん、貴方でしたか」

 

 突如として頭上から降ってきた鈴を転がすような声に、ゲナウの動きがピタリと止まる。顔を上げると、そこには美しい笑みを浮かべたメトーデが立っていた。彼女の特技の一つ、探知魔法。誰にも見つからないはずの隠れ家を、彼女はまるでお気に入りのカフェを見つけるような軽やかさで見つけ出してしまったのだ。

 

「メトーデ……なぜここにいる」

 

「ふふ、可愛い小さき者たちを探していたら、もっと素晴らしい“大きなもの”を見つけてしまいました。それにしても……」

 

 メトーデの視線が、ゲナウの背中から肩、そして汗ばんだ腕の筋肉へと注がれる。彼女の目は、まるで極上の美術品を鑑賞するかのように、うっとりと潤んでいた。

 

「素晴らしい筋肉ですね。引き締まっていて、無駄がなくて、それでいて非常に力強い。見とれてしまいます……」

 

「……見世物ではない。用がないなら去れ。私は鍛錬の途中だ」

 

 ゲナウは忌々しげに顔を背け、再び地面に視線を落として腕立て伏せを再開した。しかし、メトーデの好奇心と、ある“欲”はすでに抑えきれなくなっていた。

 

「ねえ、ゲナウさん。わたくし、次第に欲が出てきてしまいました。ただ見ているだけなんて勿体ないです。わたくしもその高みへ、一緒に参加させていただけないでしょうか?」

 

「断る。これは魔法使いの遊びではない。邪魔だ」

 

「そんなことをおっしゃらずに。ほら、よくあるでしょう? 腕立て伏せをしている男性の背中に、女性が乗るというシチュエーションが」

 

「………。どうしても退かんと言うなら、一度だけだ。それで満足したら即座にここから離れろ」

 

 ゲナウはため息をつき、背中を水平にして動きを止めた。メトーデは「わあ、嬉しい」と声を弾ませ、しなやかな体躯を彼の背中の上にそっと乗せる。しかし、ゲナウは眉一つ動かさずに腕立て伏せを数回繰り返すと、鼻で笑った。

 

「……軽すぎる。羽毛を乗せているのと変わらん。これでは筋トレにすらならん。満足したら早く降りろ」

 

「あら、わたくしを軽いと言ってくださるのは淑女として嬉しいですが、筋トレにならないのは本意ではありませんね。───ならば、重さを追加すればよいのですね?」

 

 メトーデは不敵に微笑むと、自身の魔力を練り上げた。《自身の質量を一時的に増加させる魔法》───その瞬間、ゲナウの背中に、まるで巨大な岩盤がのしかかったかのような凄まじい衝撃が走った。

 

「ぐッ……!? お前、何を……!」

 

「ふふ、これでどうかしら? 容赦なく潰しにいきますよ、ゲナウさん」

 

 メトーデはただ乗るだけでなく、まるでゲナウの身体に絡みつくように、彼の首や肩に腕を回し、全体に均等かつ過酷な負荷がかかるようポジションを調整した。彼女の柔らかい身体の感触と、魔法による圧倒的な重圧が同時にゲナウを襲う。

 

「フ……舐めるなよ、メトーデ……!」

 

 ゲナウの一級魔法使いとしてのプライドに火がついた。彼は歯を食いしばり、血管を浮き上がらせながら、その異常な重量を力強く押し上げた。

 

「素晴らしいです! では、次はスクワットにしましょう!」

 

 メトーデはゲナウの背中にしがみついたまま、楽しそうに指示を出す。ゲナウが立ち上がると、彼女はさらに魔法の出力を上げ、じわじわと負荷を増していった。ゲナウが懸垂をはじめれば、彼女はその長い脚を彼の腰に絡みつけ、重力魔法で下へと引きずり込もうとする。あらゆる筋トレにおいて、メトーデはまるで妖艶な蛇のようにゲナウに絡みつき、文字通り極限の負荷を与え続けた。

 

「まだまだ……! 私は、この程度では、屈せん……!」

 

「ええ、その意気です! もっと汗を流して、わたくしを支えてください!」

 

 ゲナウは負けじと限界に挑み続けた。呼吸は荒くなり、全身から滝のような汗が流れ落ちる。視界がかすみ、筋肉が悲鳴を上げているのがわかる。だが、彼は止めなかった。メトーデの楽しそうな笑声と、己の限界を超えようとする執念が、彼を突き動かしていた。しかし、肉体の限界は突然訪れる。

 

「……ぬ、ぁ……」

 

 最後に挑んだ過酷な体幹トレーニングの最中、ゲナウの腕から完全に力が抜けた。ドサリ、と激しい音を立てて、ゲナウは地面に頽れた。魔法を解いたメトーデが、慌てて彼の身体から離れる。

 

「ゲナウさん!? 大丈夫ですか!?」

 

 ゲナウはピクリとも動かない。呼吸は浅く、完全に意識を失っていた。限界を完全に超越した結果の、強制シャットダウンだった。

 

「あらあら……頑張らせすぎてしまいましたね。でも、限界まで追い詰めた後の殿方のお世話をするのも、わたくしの大好きなことです」

 

 メトーデは困ったように微笑みながらも、その目はどこか嬉しそうだった。彼女はゲナウの頭を優しく自分の膝の上に引き上げ、いわゆる膝枕の体勢をとった。そして、懐から取り出した清潔なハンカチで、彼の額や首筋に浮かぶ大量の汗を丁寧に拭い始める。

 

「よく頑張りましたね、ゲナウさん。本当に素敵でしたよ」

 

 森の静寂が戻る中、メトーデはゲナウの荒い呼吸が落ち着くまで、その心地よい重みを膝に感じながら、いつまでも彼の髪を優しく撫で続けていた。

 

 

 

「……ッ!?」

 

 急速に覚醒していく意識の中で、ゲナウは自分が何者かの膝の上に頭を乗せているという、あり得ない現実を理解した。一級魔法使いとしての本能が警報を鳴らす。彼は弾かれたように、バネ仕掛けの人形さながらの勢いで上半身を起こそうとした。しかし、その凄まじい勢いが、完全に裏目に出る。

 

「きゃっ!?」

 

 すぐ真上から降ってきた小さな悲鳴。そしてゲナウの視界が暗転した。彼の顔面は、すぐ目の前にあったメトーデの豊満な胸、それも無防備な下乳のあたりに、文字通りもろに正面衝突してしまったのだ。

 

「ぶふぉッ……!?」

 

 柔らかく、かつ圧倒的な弾力。鼻腔を突き抜ける、甘く馨しい石鹸と女性特有の香り。予期せぬあまりにも肉感的な衝撃に、ゲナウの思考は完全にフリーズした。同時に、まだ限界を迎えたまま回復しきっていなかった首と背中の筋肉が、急激な運動に耐えかねて激しく痙攣する。

 

「ぐ、ぁ……ッ」

 

 力が抜け、ゲナウの身体は重力に逆らえなくなった。生気を失った丸太のように、再び後頭部からドサリとメトーデの膝の上へと、元の位置へ真っ逆さまに落ちていった。

 

「あらあら……。目覚めて早々、そんなに元気に襲いかかってこられるなんて。ゲナウさん、貴方って意外と肉食獣の気質があるのですね?」

 

 メトーデは衝突した胸を片手で軽く押さえ、顔を赤らめるどころか、どこか楽しそうに、いたずらっぽく微笑んだ。彼女の指先が、再びゲナウの額に触れ、乱れた前髪を優しく整える。

 

「……違う。断じて違う。今のはただの不慮の事故だ……!」

 

「ふふ、わかっていますよ。でも、そんなに焦らなくてもわたくしは逃げませんから。もう、今日はお部屋に戻って休まれた方が良いですよ? 筋トレのやり過ぎも身体に良くないと聞きますから」

 

 メトーデはまるでやんちゃな弟を窘める姉のような口調で、優しく、しかし有無を言わせぬトーンで言った。その言葉を聞いた瞬間、ゲナウの額に青筋が浮かび上がる。

 

(誰のせいでこうなったと思っている……!)

 

 声に出そうとしたが、あまりの疲労で喉が引き攣り、掠れた息しか出ない。

 

ゲナウとしては、そもそもお前が邪魔をしなければ、いつも通り百点満点の鍛錬を終えて、悠々と自室に戻っていたはずなのだ。あの異常な“重さの魔法”と、蛇のように絡みついてくる肉体的な負荷。それらがなければ、一級魔法使いたる自分が、こんなところで女の膝を枕にして無様に気絶するなどという失態を演じるわけがなかった。言いたいことは山ほどあったが、今のゲナウは指一本動かすのすら億劫なほどに消耗していた。そんな彼の内心を見透かしたように、メトーデは顔を覗き込んできょとんとした目を向けた。

 

「そんなに怖い顔をしないでください。わたくし、反省はしているのですよ? ゲナウさんの体力があそこまで限界だったなんて気づかなくて……。今度はもっと加減しますから、またわたくしも筋トレに参加させて下さいな」

 

 メトーデはそう言うと、形の良い唇の端を吊り上げ、妖艶で、それでいて少女のような悪戯な笑みを浮かべた。

 

「二度と、参加させるか……。断る……」

 

「まぁ、そんな冷たいことをおっしゃって。ほら、もう夕暮れですよ。このままここで夜を明かすわけにはいきません。立って、わたくしが支えますから」

 

 メトーデはゲナウの拒絶を軽やかに受け流すと、彼の脇に両手を差し込み、驚くほどの力強さでその巨体を抱き起こした。ゲナウは屈辱に歯を食いしばりながらも、自分の足にまともに力が入らないことを自覚せざるを得なかった。彼は、外套を脱いだ薄着のメトーデの肩に、ずっしりと腕を回す形になる。

 

「……すまん。だが、すぐに離れろ。一人で歩ける」

 

「強がりはおよしなさい。今手を離したら、貴方は確実に地面と再会することになりますよ?」

 

 メトーデはクスクスと笑いながら、ゲナウの腰にしっかりと自分の手を回した。彼女の細い体躯からは想像もつかないほど、魔法使いとしての体幹はしっかりしている。ゲナウの大きな身体を、肉体の密着も厭わずにがっしりと支えていた。

 

二人は密着したまま、静まり返った夕暮れの森をゆっくりと歩き始めた。一歩進むたびに、メトーデの柔らかい身体の側面が、ゲナウの鍛え上げられた脇腹や二の腕に擦れる。ゲナウはその度に緊張で身体を硬くしたが、彼女は全く気にする様子もなく、「イチ、ニ、イチ、ニ」と楽しそうにリズムを取っている。

 

森を抜け、一級魔法使いの宿舎がある静かな廊下へと辿り着いた頃には、周囲は完全に帳に包まれていた。幸いにも、他の魔法使いに見つかることなく、ゲナウの部屋の前まで到着することができた。

 

「はい、到着です。よく頑張りましたね、ゲナウさん」

 

 メトーデが手を離すと、ゲナウはドアに背中を預け、ようやく一つ深い息を吐いた。

 

「……メトーデ。今日のことは……」

 

「ふふ、誰にも言いませんよ。一級魔法使いゲナウさんの威厳は、わたくしが守って差し上げます。ただ……」

 

 メトーデは一歩近づき、ゲナウの耳元で小さく囁いた。

 

「次回の“合同鍛錬”、楽しみにしていますね」

 

 彼女はそれだけ言うと、エレガントに一礼し、軽やかな足取りで廊下の闇へと消えていった。一人残されたゲナウは、自室のドアノブを掴みながら、まだ微かに鼻腔に残る彼女の香りと、下乳のあの柔らかな感触を思い出し、今更になって顔がカッと熱くなるのを自覚した。

 

「……あいつは、やはり苦手だ」

 

 ゲナウは誰に言うでもなくそう呟くと、重い足取りで部屋の中へと消えていった。

 

 

 

 あれから数日後。ゲナウは前回の失態を猛省し、今度こそメトーデに一級魔法使いとしての威厳を示すべく、人知れず鍛錬場の隅で入念なウォーミングアップを行っていた。

 

「ふぅ……。今日は絶対に、あのような無様な姿は晒さん」

 

 しかし、ゲナウが精神を統一させた瞬間、背後から軽やかな足音が近づいてきた。

 

「ごきげんよう、ゲナウさん。約束通り、また筋トレのお手伝いに参りましたよ」

 

 振り返ると、そこには気合十分といった様子で、動きやすい軽装に身を包んだメトーデが立っていた。心なしか、前回よりもやる気に満ち溢れた笑みを浮かべている。

 

「……メトーデ。前も言ったが、これは鍛錬だ。遊びではない。それに、今回は加減すると言ったな?」

 

「えぇ、もちろん覚えていますとも。わたくし、嘘はつきません。今日はゲナウさんのペースにしっかり合わせますから、安心して身を委ねてくださいな」

 

 メトーデはそう言って、上品にウインクをして見せた。こうして、第二回合同筋トレが幕を開けた。まずは基礎的な自重トレーニングから始まった。ゲナウが地面に伏せ、腕立て伏せを始めると、メトーデは「では、失礼しますね」と声をかけ、当然のようにゲナウの背中の上に腰掛けた。「……!」ずっしりと、しかし女性特有の柔らかさを伴った重みがゲナウの背中にかかる。だが、一級魔法使いの意地がある。ゲナウは歯を食いしばり、寸分のブレもなく腕を曲げ伸ばししてみせた。

 

「あら、さすがゲナウさんです。これくらいでは微塵も動じないのですね。では、少しずつ加減しながら魔法の重荷を足していきます」

 

 メトーデがクスクスと笑いながら魔法を唱えると、彼女の体重に加えて、じわりじわりと目に見えない重圧がゲナウの背中にのしかかってきた。

 

(……くッ、この間のデタラメな重さとは違う。確かに、今の私の限界をギリギリで見極めた、絶妙な負荷だ……!)

 

 ゲナウは驚愕した。メトーデの言う加減とは、単に手を抜くという意味ではなかった。ゲナウの筋肉の収縮、呼吸の乱れ、骨のきしむ音を完全に把握し、彼が最も効率よく筋肉を追い込める限界値を正確にコントロールしているのだ。

 

「ふふ、良い表情です。その調子で、あと二十回いきましょう」

 

「お前の……ッ、言う、通りに……ッ、やってやる……!」

 

 メトーデのドSなコーチングにより、ゲナウの筋肉は猛烈な勢いで乳酸を溜め込んでいく。数時間の容赦ないメニューを終えた頃、ゲナウは汗だくになり、呼吸を激しく荒らげて地面に大の字になって倒れ込んでいた。全身の筋肉が悲鳴を上げ、指一本動かすのも億劫なほどの疲労感。しかし、前回のような気絶には至っていない。まさに、限界の一歩手前で完璧に調整されていた。 

 

「お疲れ様でした、ゲナウさん。今日も素晴らしい頑張りでしたね」

 

 メトーデはタオルでゲナウの額の汗を優しく拭き取ると、またもや自然な動作で彼の頭を自分の太ももの上に乗せた。───そう、第二回目にして、当然のように膝枕がセットに組み込まれていた。

 

「……おい、メトーデ。この体勢は必要ないと言ったはずだ」

 

「あら、これはアフターケアです。筋肉を急激に休ませるより、こうしてリラックスした状態でわたくしの回復魔法を併用した方が、明日の筋肉痛が和らぐのですよ?」

 

 彼女の手のひらから、心地よい温かさの魔法がゲナウの頭部や首筋へと流れ込んでくる。その心地よさに、ゲナウの反論する気力は削ぎ落とされていった。

 

「……本当に、お前という奴は……」

 

「ふふ、少しはわたくしのサポートを見直していただけましたか?」

 

 上から覗き込んでくるメトーデの顔。その距離は、前回の事故を思い出させるほどに近かった。ゲナウは慌てて視線を逸らしたが、彼女の膝の柔らかさと、またしても鼻腔をくすぐる甘い香りに、心臓の鼓動が激しくなるのを抑えられなかった。

 

 

その時、鍛錬場の入り口の影から、静かで、しかし酷く冷徹な声が響いた。

 

「……見苦しいな。一級魔法使いともあろう者が、公衆の面前で痴態を晒すとは」

 

 長くうねる髪を揺らしながら、蔑むような、あるいは酷く退屈そうな目で二人を見下ろしていたのは、ゼンゼだった。その冷ややかな佇まいと、どこか師であるゼーリエを彷彿とさせる傲然とした口調に、ゲナウの背筋に冷たいものが走る。その隣には、いつも通り生真面目に眼鏡を押し上げるファルシュが控えていた。彼は手元の書類から視線を上げ、信じられないものを見たというように軽く目を見開いている。

 

「これは……驚きました。ゲナウさん、メトーデさん。お二人がそのような“深い仲”であったとは、聖朝廷への報告書には記載されておりませんでしたが」

 

 ファルシュの声音は至って丁寧で、事務的だった。しかし、それ故に言葉の刃が鋭く突き刺さる。

 

「ち、違う! これは鍛錬の、一環だ……!」

 

 ゲナウは弾かれたように起き上がろうとしたが、先ほどの猛特訓のせいで、またしても筋肉が痙攣を起こす。

 

「ぐ、ぉ……ッ」

 

「あらあら、ダメですよゲナウさん。まだ魔法の途中ですから、大人しくしていてくださいな」

 

 メトーデは嬉しそうにゲナウの身体を抱きとめ、再び自分の膝の上へと引き戻した。その様子を見て、ゼンゼは小さく笑う。

 

「ふ……。言い訳にもなっていない。そんなにメトーデの膝が良いのなら、そのまま一生そこで眠っているがいいさ。行くよ、ファルシュ。くだらないものを見た」

 

「えぇ。……ゲナウさん、お邪魔をしてしまい申し訳ありませんでした。どうぞ、その……お盛んな鍛錬を続けてください。私は見なかったことにいたしますので」

 

 ファルシュは一礼すると、どこか憐れむような、しかし軽蔑の混じった目でゲナウを一瞥し、ゼンゼの後を追って歩き去っていった。

 

「待て、ゼンゼ! ファルシュ! 誤解だ……ッ! 貴様ら、戻れ……ッ!」

 

 ゲナウの必死の叫びも虚しく、二人の足音は冷徹に遠ざかっていく。後に残されたのは、同僚たちに完全な誤解と致命的な不名誉を植え付けられ、真っ赤になって絶望するゲナウと、そんな彼を見て「ふふ、これでまた次回も決定ですね」と、最高の笑顔を浮かべるメトーデだけだった。

 

誤解を解くどころか、ファルシュからは「他言は無用に」と哀れみの目を向けられ、ゼンゼからは「腑抜け」と一蹴されたゲナウ。一級魔法使いとしてのプライドを完全にへし折られた彼は、ついに退路を断ち、メトーデに正面切っての勝負を挑むことを決意した。

 

 

 

 数日後、再び鍛錬場にメトーデを呼び出したゲナウは、黒い外套を脱ぎ捨て、いつになく真剣な面持ちで彼女を睨み据えた。

 

「……メトーデ。今日こそ決着をつける」

 

「あら? 決着、ですか?」

 

 メトーデは小首を傾げ、いつものように楽しげな、どこかゲナウをからかうような笑みを浮かべる。

 

「そうだ。お前の重さの魔法、そしてあの妙な身体能力。それら全てを全力で使って来い。私は一歩も引かず、お前の課す全ての負荷を完璧にこなしてみせる。もし私が最後まで立ち続けていたら……二度と、私の鍛錬に口を出すな。当然、膝枕などというふざけた真似も一切禁止だ」

 

「ふふ、なるほど。ゲナウさんの男としてのプライドを懸けた勝負、というわけですね。……いいですよ。そこまでおっしゃるなら、わたくしも一級魔法使いとして、本気であなたを可愛がって差し上げます」

 

 メトーデの目が、スッと細められた。その美しい瞳の奥に、一瞬だけ、戦いを楽しむ捕食者のような鋭い光が宿る。

 

「では、第一種目からいきましょうか」

 

 勝負が始まった。ゲナウが挑んだのは、狂気じみた高強度のサーキットトレーニングだった。地獄のような重量が、メトーデの魔法によって容赦なくゲナウの全身へとのしかかる。前回の絶妙な加減とは違い、今回はゲナウのプライドに応じるかのように、彼の肉体の限界値のほんの数パーセント上を常に攻め続ける、冷徹で完璧なまでの本気の負荷だった。

 

「ぐ、おおおおぉッ……!」

 

 ゲナウの太い腕が、背中が、太ももが、はち切れんばかりに膨れ上がる。滝のような汗が地面に滴り、呼吸は肺が焼けるかのように激しい。しかし、ゲナウは止まらなかった。一級魔法使いとしての執念、そして何より「こいつの手のひらの上で転がされ続けるわけにはいかない」という意地が、彼の肉体を突き動かしていた。

 

「素晴らしいです、ゲナウさん……! まさかわたくしの最高出力を、ここまで耐え切るなんて!」

 

 メトーデの瞳が興奮に潤んでいく。彼女はゲナウの隣にぴったりと寄り添い、その荒い息遣いや、極限まで追い詰められた肉体の躍動を、恍惚とした表情で見つめていた。

 

「ハァ……ハァ……! まだ、だ……! これ、くらいで……ッ!」

 

「えぇ、では、最後の仕上げです!」

 

 メトーデがさらに魔力を高め、最後の、そして最大の負荷をゲナウの背に叩きつけた。ゲナウの膝が、激しい拒絶反応を起こしてガクガクと震える。視界がチカチカと明滅し、意識が遠のきそうになる。だが、彼は倒れなかった。

 

「……終わった、ぞ……メトーデ……!」

 

 全てのメニューを終えた瞬間。ゲナウは激しく息を乱しながらも、しっかりと自分の足で、その場に文字通り立ち続けてみせた。膝は震え、全身の筋肉は悲鳴を上げていたが、確かに彼は床に這いつくばってはいない。ゲナウの勝ちだった。

 

「……ハァ、ハァ……私の、勝ちだ。約束通り、二度と……」

 

 ゲナウが勝利の宣言を口にしようとした、その時だった。

 

「えぇ、貴方の勝ちです、ゲナウさん。本当に、本当に格好良かったです……!」

 

 メトーデの顔は、感極まったように紅潮していた。彼女はゲナウの拒絶など最初から耳に入っていないかのように、感嘆の声を上げながら、限界を迎えて一歩も動けないゲナウの懐へと飛び込んできたのだ。

 

「な……ッ!?」

 

 抵抗する力など、今のゲナウには残っていない。メトーデの両腕が、ゲナウの汗ばんだ首筋にきつく巻き付く。そして、彼女の豊かな胸が、ゲナウの鍛え抜かれた胸板へと、これ以上ないほどぴったりと、隙間なく押し付けられた。

 

「限界を超えてなお立ち続けるその意志、その肉体……! あぁ、やっぱりゲナウさんは最高に素敵です。わたくし、あなたのそういう不器用で強いところが、たまらなく愛おしいと思ってしまうのです」

 

 耳元で囁かれる、熱を帯びた吐息。正面からダイレクトに伝わってくる、メトーデの驚くほど柔らかく、そして温かい肉体の感触。ゲナウは完全に硬直した。床に倒れなかった結果、今度は立体のまま、メトーデの全身を正面から受け止めるという、前回以上の濃厚な密着状態に陥ってしまったのだ。

 

「ま、待て……! 離れろ、メトーデ! 私の勝ちだ、膝枕は禁止のはず……」

 

「ええ、お膝の上がダメなら、こうして立って抱きしめれば良いだけですものね? わたくし、約束は守りましたよ?」

 

 メトーデはゲナウの胸に顔を埋めたまま、衣服越しにも分かるほど不敵に、そして妖艶にクスリと笑った。

 

「お前……ッ、そういう、屁理屈を……ッ」

 

 怒ろうとしたゲナウだったが、極限の疲労と、目の前の美女から放たれる圧倒的な雌のフェロモンに脳が完全にバグを起こし、顔が耳の裏まで真っ赤に染まっていく。プライドを懸けて勝利をもぎ取ったはずが、結局のところ、メトーデという底知れない女の包容力と執着心の前に、ゲナウはまたしても完全敗北を喫するのであった。

 

その時、二人が密着する鍛錬場の入り口から、ペタペタと素足で床を叩く、小さく軽い足音が近づいてきた。

 

「おいおい。一級魔法使いの鍛錬場が、いつから安っぽい愛の巣に成り下がった?」

 

 傲然としていて、それでいてどこか子供っぽさを残した、あまりにも聞き馴染みのある声。ゲナウの全身の血の気が一瞬で引いた。

 

「ッ……、ゼーリエ様……!?」

 

 そこに立っていたのは、黄金に輝く長い髪をなびかせ、不敵な笑みを浮かべた人類最高峰の魔法使い───彼女たちの師であり、大陸魔法協会を統べるゼーリエ本人だった。ゲナウは今度こそ心臓が止まるかと思った。一級魔法使いとしての威厳どころか、己の絶対的なトップに対して、部下弟子同士のこれ以上ない不純で破廉恥な現場を押さえられてしまったのだ。

 

最悪の空気、一級魔法使い剥奪すらあり得る最悪の事態だと、ゲナウの脳裏に絶望が過った。しかし、ゼーリエの反応はゲナウの予想とは全く異なるものだった。彼女は怒るどころか、その小さな顎に手を当て、二人の様子をじろじろと隅々まで眺め回すと、実につまらなそうに、そして最高に愉しげに口元を歪めた。

 

「ほう。ゼンゼやファルシュが“ゲナウがおかしなことになっている”と報告してきたから、どんな大層な呪いにでもかかったのかと思えば……。なんだ、ただの盛りのついた子供の戯れか」

 

「あ、あの、ゼーリエ様。これは断じてそのようなものでは……ッ」

 

 ゲナウは必死に声を絞り出そうとしたが、メトーデは腕を解くどころか、むしろ「あら、ゼーリエ様」と嬉しそうに、ゲナウの胸に顔をすり寄せたままゼーリエに微笑みかけた。

 

「ごきげんよう、ゼーリエ様。ゲナウさんの鍛錬がとても素晴らしかったので、わたくし、つい感動して褒めて差し上げていたところなのです」

 

「ふむ、褒美が抱擁とはな。ずいぶんと安い一級魔法使いだ。……それにしてもゲナウ、お前、顔が真っ赤だぞ? 魔族を前にしても眉一つ動かさぬ鉄面の男が、女一人に組み敷かれてそんなに余裕のない顔をするものか」

 

 ゼーリエはゲナウの正面まで歩み寄ると、小さな身体で見上げるようにして、彼の引き攣った顔を覗き込んできた。その瞳には、かつてないほどのおもちゃを見つけた子供のような悪戯っぽい光が宿っている。

 

「……ッ、ぅぐ……!」

 

「ふふ、可愛いですねゲナウさん。ゼーリエ様にまでからかわれてしまって。でも、そういうウブなところも、わたくしは大好きなのですよ?」

 

「おいメトーデ、調子に乗るな……! 離れ、ろ……ッ!」

 

 二人のやり取りを見て、ゼーリエはついに声を上げてクスクスと笑い出した。神話の時代から生きる彼女にとって、人間の男女の機微など退屈なものでしかなかったはずだが、あの規律の塊のようなゲナウが、メトーデという想定外のイレギュラーに翻弄され、完全にキャパシティをオーバーしている姿は、流石に新鮮で面白かったらしい。

 

「くっくっ、いい気味だ。いつもお堅い顔ばかりしているお前が、そんな顔をするなんてな。メトーデ、もっとやってしまえ。この男は少し頭が硬すぎる。お前のそのくだらない魔法とやらで、少しはそのひん曲がった根性を揉みほぐしてやるといい」

 

「はい、ゼーリエ様! 仰せのままに!」

 

「ゼーリエ様!? 職権乱用です……ッ!」

 

 ゲナウの悲痛な叫びを、ゼーリエはフンと鼻で笑い飛ばした。

 

「一級魔法使いなら、己の身くらい自分で護ってみせろ。女一人に好き勝手されているようでは、まだまだ鍛錬が足りんということだ。……まぁ、せいぜい励むことだな、二人とも」

 

 ゼーリエはそれだけ言うと、満足そうに身を翻し、再びペタペタと足音を響かせながら去っていった。その背中は、明らかに面白い見世物を見たと言いたげに弾んでいた。

 

(……ぁ、終わった……)

 

 心の支えであった“絶対的な規律ゼーリエ”にすら面白がられ、公認?を得てしまったゲナウは、その場に真っ白になって燃え尽きた。

 

「ふふ、ゼーリエ様のお墨付きもいただけましたね。さあ、ゲナウさん。お部屋に戻って、もっとお祝いをして差し上げますからね?」

 

メトーデの甘い声が、絶望のどん底にいるゲナウの耳に、優しく容赦なく響き渡るのだった。

 

 

 

End

 

 

 

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