葬送のフリーレン短編集   作:風亜

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メトーデの体調不良

 北部高原の任務の合間、立ち寄った小さな宿場町でメトーデが激しい体調不良に倒れたのは、完全に想定外の事態だった。

 

いつも冷静で、どこか余裕を崩さない一級魔法使いの彼女が、朝から青白い顔をしてベッドから起き上がれない。ゲナウは冷静に状況を判断しようとしたが、目の前で力なく息を吐くパートナーを前に、ただの風邪や疲労にしては様子がおかしいと、不器用な焦りを覚えていた。

 

「ゲナウさん……申し訳ありません、少し、御手洗いに……」

 

 消え入るような声でメトーデが言う。彼女は自力で立ち上がろうとしたが、身体が鉛のように重いのか、激しい目眩に襲われたように視線を揺らした。

 

「無理をするな。貸せ」

 

 ゲナウは躊躇なく歩み寄り、彼女の細い肩に手をまわして身体を支えた。普段なら「まぁ、頼もしいですね」と冗談の一つでも言いそうなメトーデだが、今はただ彼の衣類をきつく掴み、小さく頷くだけだった。ゲナウが慎重に彼女をベッドから引き起こし、ゆっくりと立たせたその時だった。

 

「……!?」

 

 ゲナウの視線が、彼女が今まで横たわっていたシーツの異変を捉えた。白い布地の中央に、それなりの量の、鮮やかな赤が染みを作っている。

 

「メトーデ、お前、どこを怪我している。魔族の不意打ちか? いつから隠していたッ」

 

 ゲナウの声に明確な焦りと、鋭い緊張が走る。戦闘の最中に彼女が負傷した記憶はなかったが、隠れて呪いや毒を受けていた可能性を瞬時に疑った。外套を跳ね除け、彼女の身体に新たな傷がないか、取り乱したように確認しようとするゲナウを、メトーデは弱々しく手で制した。

 

「……あ。いえ、違います、ゲナウさん……。これは、その……たまに、体調不良の波と重なってしまうのですよね……」

 

 メトーデは体調の悪さもあって酷く気まずそうに、だが極めて冷静に視線を逸らした。ゲナウはまだ状況が飲み込めず、険しい表情のまま彼女を見つめている。

 

「とにかく、先に御手洗いを済ませてしまいます。……支えていただけますか」

 

「……あ、あぁ。分かった」

 

 困惑を抱えたまま、ゲナウは彼女を確実に支え、廊下の奥にある御手洗いまで連れて行った。扉の前で待つよう言われ、腕の中の重みが消えた後も、ゲナウの脳裏にはあの鮮血が焼き付いていた。一級魔法使いの自分が気づかないほどの深手だったのか。それとも───。数分後、少し落ち着いた顔で出てきたメトーデを再び支え、部屋へと戻る。彼女を椅子に座らせると、ゲナウはすぐにシーツを剥ぎ取ろうと動いた。

 

「ゲナウさん、お待ちください。シーツはわたくしが後で魔法で───」

 

「寝ていろ。お前は今、まともに呪文を紡げる状態ではない。私が取り替える」

 

 有無を言わせぬ口調で、ゲナウは汚れたシーツを手際よく引っぺがした。宿の予備のシーツを引っ張り出し、乱れのないようにベッドへ敷き直していく。その様子を、メトーデは申し訳なさそうに見つめていた。

 

ゲナウが新しい寝床を作り終え、彼女を再び横にならせて毛布を掛けたところで、メトーデは小さくため息をついた。これ以上、この生真面目なパートナーを勘違いのパニックに陥らせるわけにはいかない。

 

「ゲナウさん。先ほどの血の件ですが……そんなに怯えた顔をしないでください。魔族の攻撃でも、何かの呪いでもありません。女性特有の、生理現象ですから」

 

 手短に、しかし明確に告げられた言葉に、ゲナウの手がピタリと止まった。無愛想な顔が、見たこともないほどに硬直する。

 

「せ、生理……?」

 

 北側諸国の平穏のために戦ってきた彼にとって恋愛経験などほぼ皆無、女性と関係を持ったこともないゲナウである。知識として「そういうものがある」とは知っていても、現実に目の前で、しかも任務のパートナーである万能な女性魔法使いからその言葉を突きつけられるとは夢にも思っていなかった。

 

みるみるうちに、ゲナウの耳の裏から首筋までが真っ赤に染まっていく。彼は完全にフリーズし、視線をどこに泳がせていいのか分からず、最終的に部屋の隅の木目を凝視した。

 

「……そ、そうか。……すまない、私の配慮が足りなかった」

 

「いえ……こちらこそ、お見苦しいところを。いつもは周期を合わせて薬を飲むのですが、今回の連戦で少し身体のバランスが崩れてしまったようです。お恥ずかしい限りです」

 

「恥じる必要はない……!」

 

 ゲナウは自分の動揺をかき消すように、少し大きな声を出してしまった。そしてすぐにハッとして口元を押さえる。

 

「……生きている以上、そういった現象があるのは当然だ。それより、その……腹が痛むのか? 私にできることはあるか」

 

 顔を赤くしたまま、それでも大真面目に“パートナーの危機”に対処しようとするゲナウ。メトーデはその不器用な優しさに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 

「……えぇ。少し、温めると楽になるのですが」

 

 ゲナウは無言で深く頷くと、逃げるように部屋を出て行った。彼が向かったのは宿の厨房だった。

 

 

「……すまないが、頼みがある」

 

 宿の厨房の扉を乱暴に開け、地獄の使者のような険しい顔で入ってきたゲナウに、夕食の仕込みをしていた恰幅の良い女料理番はひっくり返りそうになった。黒い外套をまとい、大柄で目つきの鋭い一級魔法使いの男が、包丁を握る手さえ震えるほどの威圧感を放っている。

 

「な、なんだい、お前さん……。うちは真っ当な宿屋だよ?」

 

「……連れの女が、倒れた」

 

 ゲナウは拳を固く握りしめ、視線をあちこちへ彷徨わせた。その耳の裏が、夕日のせいではなく真っ赤に染まっていることに料理番は気づく。

 

「倒れた? 医者を呼ぶかい!?」

 

「いや、医者は不要だ。……その、女性特有の……障り、だ。腹を、酷く痛めている」

 

 蚊の鳴くような声で“障り”と口にしたゲナウは、人生最大の試練に直面しているかのように硬直していた。恋愛経験などほぼ無い男が、生まれて初めて口にした単語だった。料理番の女性は一瞬きょとんとしたが、彼の真っ赤な耳と、必死に平静を装おうとする態度を見て、すべてを察して破顔した。

 

「なんだ、女性の月経かい! だったらそんな怖い顔しなさんな。男がうろたえてどうするんだい」

 

「うろ、たえてなどいない……ッ!」

 

「はいはい。だったら、突っ立ってないで手伝いな。あの子のために身体が温まるスープを作ってあげるんだよ」

 

 料理番に背中をバシバシと叩かれ、ゲナウは「私が、作るのか……?」と呆然とした。しかし、メトーデのあの苦しげな顔と、ベッドに染みた鮮血を思い出すと、否応はなかった。

 

ゲナウは不器用な手つきで、言われるがまま木の実の皮を剥き、生姜や小さな根菜を刻んだ。

 

「ほら、お湯を沸かして水袋に詰めな! 腹を温めるのが一番なんだから」

「スープの塩気は薄くだよ、弱ってるときに濃いものは入らないからね」

 

 料理番の容赦ない指示に、ゲナウは任務さながらの集中力で「分かった」「これでいいか」と真剣に応じ、汗をかきながら水袋と特製スープを完成させたのだった。

 

 

 熱い水袋と温かいスープを持ち、ゲナウが部屋に戻ってきた。メトーデはベッドの上で上体を起こし、戻ってきた彼の少し乱れた前髪と、エプロンこそ外しているものの、どこか煤けたような姿を見て、すべてを察してクスリと笑った。

 

「まぁ、ゲナウさん。厨房で戦ってこられたのですか?」

 

「……いいからこれを腹に当てろ。スープも冷めないうちに飲め」

 

 ゲナウは相変わらず視線を合わせようとせず、ぶっきらぼうに水袋と木製の器を差し出した。メトーデが言われた通りに水袋を毛布の下の腹部に当てると、じんわりとした心地よい熱が広がり、思わず「はぁ……」と安らかなため息が漏れる。

 

「生き返るようです。スープも、とても優しい味がします……ゲナウさんが作ってくださったのですか?」

 

「……私は手伝っただけだ。宿の者が指図した」

 

 椅子に腰掛け、腕を組んでそっぽを向くゲナウ。だが、その横顔はやはり微かに赤い。メトーデはスープをゆっくりと飲み干すと、器を枕元に置き、ベッドの中からじっとゲナウを見つめた。

 

「ゲナウさん。そんなに遠くに座っていないで、もう少し近くに来てください」

 

「……ここで充分だ。魔族の襲撃にも備えなければならない」

 

「魔族は気まぐれですからね……けれど、今わたくしが求めているのは、護衛ではなくて……ゲナウさんの温もりです」

 

「な……ッ」

 

 ゲナウの身体が目に見えて跳ね上がった。彼は弾かれたようにメトーデを凝視する。メトーデはベッドの中から、熱で少し潤んだ瞳で彼を見上げ、悪戯っぽく、しかし心からの親愛を込めて微笑んでいた。

 

「嘘ではありません。体調が悪いときは、誰しも心細くなるものです。特にわたくしは、いま貴方しか頼れる人がいないのですから」

 

「私、しか……」

 

 その言葉は、頑ななゲナウの心を簡単に打ち砕いた。ゲナウは数秒間の激しい葛藤の末、ギギギ、と重い音を立てて椅子をベッドのすぐ脇へと引き寄せた。二人の距離が、手を伸ばせば触れ合えるほどに縮まる。

 

「……これでいいか」

 

「はい。ありがとうございます」

 

 メトーデは毛布からそっと白い手を伸ばし、ベッドの縁に置かれていたゲナウの大きな手を、下から包み込むように握った。ゲナウはビクッと指先を震わせ、引っこ抜こうとしたが、メトーデの思いのほか強い力と、その手の冷たさに気づいて動きを止めた。

 

「手が、冷たいな」

 

「ええ。ですが、ゲナウさんの手はとても温かいです。……こうしていると、お腹の痛みも和らぐ気がします」

 

 ゲナウは完全に固まっていた。女性の手をこんな風に握るのも、握られるのも初めてだった。彼女の手は驚くほど柔らかく、小さく、そして確かに冷えている。いつもは自分と対等、あるいはそれ以上に冷徹に立ち回る一級魔法使いの彼女が、今はひどく儚い存在に思えた。

 

「……私の手が温かいのは、先ほどまで厨房で火の前にいたからだ」

 

「ふふ、理由なんてどうでもいいのです。ただ、貴方が傍にいてくれるだけで」

 

 メトーデは満足そうに目を細め、ゲナウの手を握ったまま、そっと枕に頭を沈めた。ゲナウは繋がれた手を見つめ、どうしていいか分からず、ただ逃げ出さないように、彼女を安心させるように、ほんの少しだけその手を握り返した。

 

「今日はもう動かん。ここの滞在を数日延ばす」

 

「……ですが、任務の期限が」

 

「一級魔法使い二人の移動速度なら、二、三日の遅れなどいくらでも巻き返せる。それとも、その体調で私の足を引っ張るつもりか?」

 

「……いいえ。お言葉に甘えさせていただきますね」

 

「……早く寝ろ、メトーデ。私がここにいる」

 

「はい……おやすみなさい、ゲナウさん」

 

 暖炉の爆ぜる音だけが響く静かな部屋で、ゲナウは彼女が深い眠りに落ちるまで、その小さな手をずっと離さずに握り続けていた。恋愛など知らない堅物な男の、それが彼なりの、精一杯の愛おしさの表現だった。

 

 

 ────それから丸二日間、ゲナウは甲斐甲斐しくメトーデの世話を焼いた。恋愛経験がないからこそ、彼は“看病の手順”を任務と同じように完璧に遂行しようとした。定期的に湯を沸かして水袋を温め直し、消化に良い食事を運び、彼女が眠りにつくまで部屋の片隅で静かに護衛を続けた。

 

時折、メトーデが寝返りを打つたびに、彼がびくっと肩を揺らすのを、メトーデはベッドの中で密かに楽しんでいた。三日目の朝、カーテンの隙間から差し込む光の中で、メトーデはすっきりと軽い身体で目を覚ました。顔色も完全に元に戻っている。

 

「おはようございます、ゲナウさん。おかげさまで、もうすっかり万全です」

 

 ベッドの横で腕を組んで座っていたゲナウが、ゆっくりと目をあける。彼女の健康的な顔色を見て、完全に回復したことを確認すると、彼はようやくホッとしたように小さく息を吐き、立ち上がった。彼の顔からは、ここ数日の赤みは消え、いつもの厳格な表情に戻っている。

 

「そうか。では、出発の支度をしろ。遅れた分、容赦なく歩かせるからな。あ、いや……飛行魔法の方がいいか。私は黒金の翼で行く。ついて来れるな?」

 

「ふふ、望むところです。本当に、頼もしくて優しいパートナーですから」

 

 メトーデがわざと「優しい」と強調して微笑むと、ゲナウは一瞬だけ、また耳の後ろを微かに赤くして、フイと視線を逸らした。

 

「……余計なことは言うな。行くぞ」

 

 先に部屋を出て行く彼の背中を見送りながら、メトーデは嬉しそうに微笑む。二人の距離が、言葉にせずとも確実に、そして少し甘く変化した、北部高原の静かな休息の記憶だった。

 

 

 

End

 

 

 

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