討伐任務の帰り道、天候の急変は容赦なく二人の一級魔法使いを襲った。
「酷い土砂降りですね、ゲナウさん。この先に小さな山小屋があったはずです。そこで雨宿りをしましょう」
メトーデは、水滴の滴る前髪を払いながら、冷静な声で提案した。
「あぁ、そうしよう」
黒い外套を濡らしたゲナウが、鋭い視線を険しい山道に向けたまま短く応じる。やがて、雨に煙る視界の向こうに木造の古びた山小屋が姿を現した。しかし、二人がその扉の前に立った瞬間、同時に足を止める。
「……先客か」
ゲナウが呟く。扉の向こうから、極めて微弱な魔力が漏れ出ていた。
「ええ、ですが……様子が変です。人間ではありませんね」
メトーデの鋭い魔力探知は、すでに壁の向こうにいる存在を正確に捉えていた。彼女は意識を集中させる。
「小柄ですが……頭部に魔力の塊があります。片方だけですが、これは……『角』ですね。魔族です」
ゲナウの目が、細く険しくなる。
「こんな場所に魔族だと? 討伐漏れか。……メトーデ、突入と同時に仕留めるぞ。油断はするな」
「判りました。わたくしが隙を作ります。いつでもどうぞ」
二人は無言で頷き合い、ゲナウが力強く扉を蹴り開けた。
メトーデが即座に杖を構え、攻撃魔法の術式を展開する。しかし、二人の視線が部屋の隅を捉えた瞬間、その動きがわずかに止まった。そこにいたのは、激しく身体を震わせ、両手で頭を抱えて縮こまっている小さな少年だった。その頭部からは、メトーデの探知通り一本の角が生えていたが、もう片方の角は根元から無惨にへし折れている。
「ぁ、うぁ……」
少年は怯えきった、涙の浮かぶ瞳で二人を見上げていた。その姿は、あまりにも無力な人間の子供そのものに見えた。メトーデの瞳に、冷徹な一級魔法使いとしての光が戻る。
「……ゲナウさん。魔族は人の言葉を話し、人を欺く化け物です。どんなに幼く見えようとも、その本質は変わりません。このまま倒すべきです」
術式をさらに強固に編み上げ、少年へ狙いを定めるメトーデ。だが、その杖の前に、ゲナウの大きな身体が静かに割り込んだ。
「待て、メトーデ」
「……ゲナウさん?」
メトーデは怪訝そうに眉をひそめ、ゲナウの背中を見つめた。
ゲナウの脳裏に、激しい雨の音を掻き消すほどの鮮烈な記憶が蘇っていた。目の前で震える少年は、あの懐かしい故郷の、幼馴染みの子供時代に酷似していたのだ。ゲナウは無意識のうちに一歩を踏み出し、少年へと歩み寄っていた。その強面な顔に、かつてない動揺が走る。
「……大丈夫だ」
ぽつりと零れ出たその声は、驚くほど優しかった。
「ゲナウさん、何を……!」
背後からメトーデの鋭い声が飛ぶ。
「それは子供に見えても魔族なのですよ? 騙されてはいけません」
「だが、こんなに怯えている。……殺めてしまうのは、余りに酷だ」
ゲナウは少年に視線を落としたまま、低い声で返した。
「……ゲナウさんらしくありません。貴方はいつも魔族に対して冷徹に対処してきたはずです。例えそれが子供の魔族だとしても、容赦はしないと」
メトーデの杖は、依然として少年に向けられたままだ。その瞳には困惑と、冷徹な警戒が入り混じっている。ゲナウは、絞り出すように言葉を繋いだ。
「……似て、いるんだ」
「……え?」
「……幼馴染みの、子供の頃にそっくりで……。お前も見ただろう、私の滅ぼされた故郷で死んだ、青年の幼馴染みの死体を」
あの惨劇の跡地で、変わり果てた姿で見つかった、かつての友の顔。目の前の魔族の輪郭は、その友の幼き日の面影をあまりにも正確に象っていた。
「だからって……!」
メトーデがなおも反論しようとする。しかしゲナウはそれを手で制し、懐から携帯用の保存食を取り出した。
「……暫く、様子を見よう。妙な素振りを見せたら、その時は倒せばいい。……保存食だが、これを食べるか?」
ゲナウが差し出した干し肉を、魔族の少年はびくりと肩を揺らしながら見つめる。やがて、恐る恐る小さな両手を伸ばし、それをひったくるように受け取った。少年はゲナウを怯えた瞳で見つめ返しながら、必死にそれを口へと運び、貪るように食べ始める。その様子を、メトーデは冷ややかな、しかし複雑な眼差しで見つめていた。
「ゲナウさん……いくら幼馴染みさんの子供時代に似ているからといって」
メトーデはため息混じりに、しかし真剣な眼差しで諭そうとした。魔族に情をかける危険性を、誰よりも知っているはずの男なのだ。
「責任は私がとる。頼む、メトーデ」
ゲナウは懇願するように、低く、重い声を絞り出した。その悲痛な表情に、メトーデは小さく肩をすくめる。
「……仕方ありませんね」
やがて夜が明け、激しかった土砂降りが嘘のように止んだ。外へ出ようと二人が腰を上げたその時、子供の魔族がゲナウの外套の裾を小さな手でぎゅっと掴んだ。その瞳に涙を溜め、ゲナウにすっかり懐いた様子で引き留める。
「……行かないで」
ゲナウはその場に立ち尽くし、少年の頭にそっと手を置いた。
「……もう少し傍にいてやりたい」
「ゲナウさん……!」
メトーデはついに声を荒らげた。
「本来なら一級魔法使いとして、魔族にそんな事をしてはならないのですよっ?」
「判っている……。しかし、放っておけないんだ」
(はぁ……この人は結局優しさを隠しきれない人なのは判っていましたが、ここまでとは……)
メトーデは内心で深いため息をついた。普段は不愛想で冷徹に見えるこの男の、脆いほどの身内への情を、彼女は誰よりも理解していた。
「すまんメトーデ、近くの村まで行って買い出ししてきてくれないか。保存食も底をついてしまった。この子に何か食べさせなければ」
メトーデはしばらくゲナウと魔族の少年を交互に見つめていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……判りました。ですが、くれぐれも油断なさらないで下さい。わたくしはすぐに戻りますから」
「あぁ……すまない」
メトーデは一人、山小屋を後にした。
───近くの村で買い出しをした際、不穏な噂を耳にするメトーデ。
「おい、やっぱりあの山小屋の『チビ魔族』、ただの迷子なんかじゃねえぞ。裏山の木こりがまた消えた。衣服の切れ端ひとつ、残ってやしねえんだ……!」
「あぁ、あれに関わった人間は誰一人戻ってこない。まるで最初から存在しなかったみたいに、綺麗さっぱり消されちまう。手遅れになる前に、一刻も早く一級魔法使いかノルム士団に救援を頼まねえと、この村は全滅だ……」
(……衣服すら残らない。魔族の生態としては、極めて合理的で、かつ最悪の部類ですね)
買い出しの品が詰まった袋を抱え、メトーデは静かに村を後にする。彼女の脳裏に浮かぶのは、山小屋に一人残してきたパートナーの姿だった。
(ゲナウさん。貴方は冷徹な一級魔法使いの仮面を被りながら、その実、誰よりも優しく、過去の傷を抱え込んでいる。知っていますよ。あの山小屋に居着いた幼体の魔族に、貴方がかつて失った『幼馴染み』の面影を強く重ねてしまっていることを。だからこそ、貴方の黒金の魔力は、あの小さな魔族を前にして初めて鈍った。わたくしに『近くの村まで食料を買い出してきてくれ』と頼んだのも、きっとわたくしを巻き込まず、一人で決着をつけるため……あるいは、踏ん切りをつける時間が欲しかったから。貴方のその人間らしい情を、わたくしは決して無下にはしたくありません。……でも、相手は言葉を話し欺くだけの、ただの『人食いの怪物』なのです。村人たちの噂が本当なら、あの幼体はすでに、人間を跡形もなく消失させる段階に入っている。ゲナウさん、貴方のその優しさは、あの魔族にとっては絶好の『餌』でしかないのですよ。これ以上は、一秒だって待てません。貴方の心が壊れる前に、そして、貴方がその肉体ごと奴の胃袋に消えてしまう前に)
「───《飛行魔法》」
メトーデは買い出しの袋を抱えたまま、地を蹴って一気に上空へと舞い上がる。彼女の視線の先、不穏な雲が垂れ込める山頂の小屋を見据え、その瞳には一級魔法使いとしての冷徹な決意が宿っていた。
(待っていてください、ゲナウさん。貴方のパートナーとして、わたくしはあの怪異を絶対に許しません)
村からの帰り道、メトーデの胸騒ぎは確信へと変わっていた。買い出しの袋を抱え、山小屋の扉を勢いよく押し開ける。しかし、視界に飛び込んできたのは、最悪の光景だった。ゲナウは壁を背に座り込み、足や腕を力なく投げ出していた。その左肩口には、あの幼い魔族が狂暴な獣のように深く食らいついている。足や脇腹からも生々しい血が流れ、床を赤く染めていた。これほどの激痛の中、ゲナウは一切の声を出さない。小屋の中に響くのは、肉を抉り、骨を鳴らす、魔族の不気味な咀嚼音だけだった。
「今すぐやめなさい! だから言ったではないですか、子供でも所詮は魔族なのですよ!」
メトーデは買い出しの袋を投げ捨て、鋭い叫びと共に杖を構えた。しかし、ゲナウは焦点の合わない虚ろな瞳のまま、掠れた声を絞り出す。
「いいんだ……腹が、減ってるんだろう……。俺を、このまま食べればいい……」
精神まで魔族に蝕まれているかのような、狂気的なまでの諦念。
「いい加減になさい!!」
メトーデは激昂し、ゲナウの左肩に食らいつく魔族の少年を力任せに引き剥がそうとする。掴まれた少年は、血に濡れた顔を歪めてメトーデを睨みつけた。
「何だよ……邪魔しないでよ。ぼくお腹減ってるんだ。この人、魔力いっぱいある。食べれば早く大きくなれ───」
少年が言葉を言い終わるか終わらないかの瞬間だった。風を切り裂く音が響き、メトーデの小斧のような杖の先端が、少年の首を容赦なく刎ね飛ばした。ゴロリ、と転がった頭部は、ゲナウの体に触れる前に魔力の粒子へと変わり、塵となって虚空へ消えていく。残された胴体もまた、煙のように形を失っていった。
「……どうして食べられる事を許したのですか。幼馴染みの方によく似ていたからって自己犠牲が過ぎますよ」
メトーデは女神様の魔法を紡ぎ、淡い光でゲナウの深い傷口を包み込みながら、いつもより低く冷静な声で話す。
「どうして、だろうな……あいつの顔を見ていたら、子供の頃の楽しかった思い出ばかりよみがえって……気付いたら、喰われてた」
「お馬鹿、一級魔法使いの名が泣きますよ。……この事はゼーリエ様には報告しないでおきます。と言っても、あの方なら見抜かれるでしょうけど」
「そうだな、馬鹿だ俺は。子供の魔族に、幼馴染みの面影を見いだすなど」
ゲナウは目を閉じ、自嘲気味に微笑した。流れ続ける血は魔法の光によってようやく止まり、抉られた肉がじわじわと修復されていく。しかし、彼の心に刻まれた生々しい傷跡までは、女神様の魔法でも癒やすことはできなかった。
「……メトーデ」
「なんですか」
「すまなかった。お前が正しかった」
ゲナウは自らの不覚を完全に認め、深く息を吐き出した。魔族は言葉を話し、人の心を模倣するだけの化け物だ。そんな鉄則は、誰よりも彼自身が骨の髄まで理解していたはずだった。それなのに、あまりにも酷似していた幼い面影に、一瞬の心の隙を突かれてしまった。メトーデは治療の手を止めず、少しだけ表情を和らげる。
「判ればよろしいのです。わたくしたちは一級魔法使い。冷徹でなければ、すぐにあの化け物どもの餌食になります。……ですが」
一拍置き、彼女はゲナウの顔を覗き込んだ。
「そんな脆さを隠し持っている貴方だからこそ、わたくしはこうして手を貸しているのですよ。……さあ、傷は塞がりました。立てますか、ゲナウさん」
「あぁ……」
「約束して下さいゲナウさん。この先、魔族が貴方の亡くした方にどんなに似ていたとしても躊躇わないと。そうでなければわたくしが有無を言わせずその魔族を消し去ります」
山小屋を出たメトーデは、並んで歩くゲナウを見据えてそう告げた。彼女の眼差しには、パートナーを二度と危機に晒さないという強い決意が宿っている。
「判った。……なぁ、メトーデ」
「はい?」
「オイサーストに戻ったら、パン屋に寄ろう。あまり美味くなさそうなパンを選ぶんだ。あいつのパンはいつもそうだった。そして……後で二人で食べよう」
「あら、ゲナウさんからお誘いなんて珍しい。勿論構いませんよ」
「パンを焼く腕、上がっていたかもしれないが、もう食えないからな……」
ゲナウは雨上がりのすっきりとした青空を見上げた。雲の切れ間から差し込む陽光が、濡れた森をきらきらと輝かせている。その澄み渡る視界の先を、一羽の大きな鳥が悠々と羽ばたいていた。その自由な姿に、ゲナウは二度と戻らない故郷の、そして幼馴染みの面影をそっと重ね、心の中で静かに別れを告げた。
End