「───ということでゼーリエ様。北部高原の一件、および神技のレヴォルテの討伐任務は、これにて正式に完了となります」
「……そうか。ゲナウの故郷は気の毒だったが、前線の魔族を一つ潰せたのは上出来だ。下がっていいぞ」
魔法都市オイサースト、大陸魔法協会本部の謁見の間。ゼーリエからの短い労いの言葉を受け、メトーデは深く一礼して退室した。
廊下に出ると、窓から差し込む夕日が長い影を作っている。メトーデは小さく息を吐き、隣に誰もいない違和感を覚えていた。いつもなら、あのひときわ大きな影が、自分の隣を無言で歩いているはずだった。
「さて……」
メトーデは唇の端を少しだけ上げ、自身の髪を指先で弄んだ。今回の任務が終われば、また別の任務を探してフリーとして動くつもりだった。
一級魔法使い同士のパートナーシップなど、本来はその場限りのビジネスライクなものだ。しかし、彼女の足は、自然と自室ではなく”彼”の滞在先へと向いていた。
一級魔法使いに与えられた宿舎の一室。その扉の前で、メトーデは一度だけ呼吸を整え、ノックもそこそこに鍵の開いた扉を押し開けた。
「失礼します、ゲナウさん。報告書はわたくしが提出しておきましたよ」
部屋の中は薄暗く、ひんやりとしていた。ベッドの上に、上着を脱ぎ捨てたゲナウが座っている。女神様の魔法による治療は受けているものの、彼の顔色は白い壁紙と同じくらいに血の気が引いていた。衣服の隙間から覗く肌は、失った血液の量を物語るように痛々しい。
「……メトーデか。お前の任務は終わったはずだ。なぜここにいる」
ゲナウの声は、いつも以上に低く、掠れていた。その瞳は、まだ北部高原の、あの滅びた故郷の灰色の空を見つめているかのように冷たく、遠い。
「わたくしの意志でここに居ます。……相棒さんや故郷とお友達を失ったばかりの貴方を、一人で放置してフリーに戻るほど、わたくしは薄情な女ではありませんよ」
「余計なお世話だ、俺は一級魔法使いだ。この程度の傷……どうということはない。付きまとうな、鬱陶しい」
いつもの冷徹な突き放し。だが、メトーデは動じなかった。彼女の優れた魔力感知は、彼の身体から漏れ出る魔力が、怒りや殺意の塊ではなく、いまや極限まで擦り減り、今にも消え入りそうなほどに怯えていることを正確に捉えていた。
「どうということは、大いにあります。女神様の魔法は傷口を塞ぎますが、流れた血までは増やしてくれません。それに───」
メトーデは一歩、彼の懐へと踏み込んだ。普段なら、その圧倒的な体格と威圧感に気圧されるところだが、今の彼はあまりにも危うい。
「“悲しくない”と嘘を吐く割には、貴方の心は、その大きな身体が縮んでしまいそうなほどに傷ついている。違いますか?」
ゲナウは答えなかった。ただ、僅かに不快そうに視線を逸らしただけだった。その横顔には、深く、暗い“憂い”が滲んでいた。立て続けに起きた悲劇。大切な相棒の死。故郷の全滅。幼馴染との永久の別れ。
心が崩壊するのを防ぐために、彼は感情のスイッチを強制的に切ったのだ。そうしなければ、この大柄な魔法使いは、悲しみの重さに耐えかねて、二度と立ち上がれなくなっていたはずだから。
「……勝手にしろ」
吐き捨てるような言葉。それは彼が許した、精一杯の“甘え”だった。メトーデは小さく微笑むと、手際よく部屋の明かりを灯し、持参した薬草とお茶の準備を始めた。
「ほら、お茶を淹れましたよ。鉄分を補う魔法薬も混ぜておきました。ちゃんと飲んで休んでください」
「…………。お前が淹れる茶は、相変わらず締まらない味がするな」
「文句を言わずにお飲みなさい」
ゲナウは黙ってカップを受け取り、不器用な手つきで口に運んだ。その様子を見つめながら、メトーデはベッドの脇に腰を下ろした。彼女は、レヴォルテ戦の直後、ゲナウが瀕死の重傷を負いながらも、這ってシュタルクの元へ向かった姿を想像していた。自分の一級魔法使いのコートを、わざわざシュタルクの止血に使うために。
かつての相棒のように、死なせるわけにはいかない。その執念。そして「オレにはあんたがいい奴に見える」と言ってくれたシュタルクへの、言葉にできないほどの恩義。あの時、駆けつけたメトーデを、ゲナウは指先ひとつでシュタルクの元へと促した。
内心、一刻も早くゲナウ自身の治療をしたくて生きた心地がしなかったメトーデだったが、彼の“人間としての誇り”を尊重し、あえて指示に従ったのだ。
「ゲナウさん」
「……何だ」
「シュタルクさんは、元気にフェルンさんにお説教されていましたよ。“無茶をしすぎる”と」
「そうか。あいつは、頑丈なだけが取り柄だからな」
ゲナウの口元が、ほんの僅かに緩んだのをメトーデは見逃さなかった。彼はすべてを失ったわけではない。彼の命懸けの行動は、確かに一人の人間の未来を繋ぎ、そして彼自身の心にも、小さな光を灯していた。
「お前は、本当に変わった奴だな」
ゲナウがぽつりと言った。
「誰もが俺を冷酷だと言い、遠巻きにする。お前だって、俺の魔力に恐怖を感じていたはずだ」
「ええ、恐ろしかったですよ。魔族かと思うほどの殺意でしたから。……でも、それ以上に、貴方が一人で泣いているように見えて、気が気でなかったのです」
メトーデは、そっとゲナウの大きくて武骨な手に、自分の手を重ねた。いつもなら“気安く触るな”と引き剥がされるはずの手。だが、今のゲナウはその温もりを拒まなかった。ただ、じっと自分の大きな手のひらを見つめている。
「────失うばかりの人生だと思っていた」
ゲナウの声が、低く室内に響く。
「だが……お前のようなお節介が一人くらい残っているなら、この世界も、それほど悪くはないのかもしれないな」
それは、心を麻痺させていた彼が、ようやく取り戻した“誰かに傍にいてほしい”という、人間らしい無意識の願いだった。
「ええ。ですから、貴方が完全に元気になるまで、わたくしはフリーの看板を休業して、ここに居座ることに決めました」
「勝手にしろと言ったはずだ。……どうせ俺と居ても面白くも何ともないぞ」
言葉とは裏腹に、ゲナウの張り詰めていた肩の力が、すとんと抜けるのが分かった。その表情には、どこかホッとしたような、静かな安堵が広がっていた。メトーデはふふっと悪戯っぽく微笑み、彼の顔を覗き込む。
「あらあら、やっぱりそういう不器用なところ、ちっちゃくて可愛いですね、ゲナウさん」
「……お前、俺の身長を見てからその言葉を吐け」
いつもの、代わり映えのない、でも愛おしい二人のやり取り。魔法都市オイサーストの夜は静かに更けていく。
失われた故郷の傷が癒えるには、まだ長い時間がかかるだろう。けれど、この薄暗い部屋の中で、二人の影はぴったりと寄り添い、確かな温もりを分け合っていた。
───魔法都市オイサーストの朝は、北部高原の険しさが嘘のように穏やかな光に満ちていた。
「さあゲナウさん、行きましょう。今日はお天気も良いですし、絶好の散歩日和ですよ」
「……なぜ俺が、こんな大衆の面前をうろつかなければならんのだ」
宿舎の玄関先で、ゲナウはひときわ深い眉間の皺を寄せていた。上着こそ羽織っているものの、その下に見え隠れする包帯と、未だに少しぎこちない足取りが、彼の身体がまだ本調子ではないことを物語っている。
「日に当たるのも立派な医療行為です。女神様の魔法の予後を良くするためにも、適度な運動は必要不可欠なんですよ」
そう言って微笑むメトーデは、有無を言わせぬ足取りで彼の隣に並んだ。ただ隣を歩くだけではない。彼女はゲナウの大きな身体にぴったりと身を寄せ、その細い腕を彼の腰のあたりにしっかりと回し、体重を支えるように密着していた。
一級魔法使いの男と女が、まるで恋人同士のように寄り添って街を歩く。その姿は、通りすがる魔法使いや住民たちの視線をいや増しに集めていた。
「……メトーデ。離れろ。年寄り扱いするな。俺は一人で歩ける」
ゲナウは顔を背け、低い声で鋭く抗議した。だが、メトーデは回した腕にさらにきゅっと力を込め、彼を見上げて窘める。
「年寄り扱いだなんて滅相もない。貴方はまだ病み上がり───いえ、重度の大怪我人なんですよ? 倒れでもしたら、このわたくしの細腕では受け止めきれずに一緒に転んでしまいます」
「なら最初から離れれば済む話だ。大体、お前のどこが細腕だ。レヴォルテの配下を力ずくでねじ伏せておいて、よく言う」
「あら、女性に向かってなんて理不尽な言い草でしょう。あれはそれ、これはこれです。ほら、足元に段差がありますよ。ゆっくり」
子供をあやすようなメトーデの態度に、ゲナウは盛大にため息をついた。いつもなら強引にでも振り払うところだが、彼女の言う通り、まだ踏ん張りが利かないのも事実だった。それに、腰に回された彼女の手のひらから、驚くほど一途で、どこか焦れるような心配の情が、魔力を通じて痛いほど伝わってくるのだ。
(……やれやれ、これではどちらが護衛されているのか分からんな)
ゲナウは諦めたように肩の力を抜き、彼女の支えに身を委ねて歩幅を緩めた。オイサーストの中央広場に差し掛かると、果物や焼き立てのパンの甘い香りが風に乗って運ばれてきた。
ふと見ると、噴水広場では、街の子供たちが元気に追いかけっこをしている。その微笑ましい光景を、ゲナウは無言で見つめていた。彼の脳裏に、今はなき故郷の子供たちの姿が過ったのかもしれない。メトーデは、彼の視線の先を優しく見つめ、そっと声をかけた。
「……良い街ですね。戦いばかりの北部高原とは違って」
「ああ。……だが、俺たちが境界線で戦い続けなければ、この平穏も明日には消える。一級魔法使いの義務は重い」
相変わらず生真面目で、どこまでも不器用な男。けれど、その言葉の底には、以前のような刺々しい絶望ではなく、“護るべきもののために再び立つ”という、静かで確かな人間の意思が宿っていた。
「ええ、そうですね。でも、次の戦いのことは、その身体が完全に治ってから考えましょう」
メトーデはそう言うと、ゲナウの腰を支えていた手を離し、今度は彼の大きな手のひらを包み込むようにして、自分の両手でぎゅっと握りしめた。
「まずは、あの屋台で売っている甘い焼き菓子を食べに行きませんか? ゲナウさん、貴方には少し、甘味が足りていませんから」
「……お前の淹れる茶と同じで、締まらない味になりそうだな」
「もう、一言余計ですっ!」
怒ったふりをして先を歩こうとするメトーデに、ゲナウは引っ張られるようにして一歩を踏み出す。その顔はまだ少し不機嫌そうだったが、繋がれた手から伝わる温もりが、彼の凍てついた心を心地よく、確かに溶かしていくのを感じていた。オイサーストの温かな陽だまりの中、二人の影はゆっくりと、どこまでも仲良く並んで歩いていった。
End