深夜、薄暗い部屋のデスクで、フェルシュは一枚の古い羊皮紙を広げていた。
そこに記されているのは、人類の足跡が途絶えて久しい北部高原の最果て───『最果ての魔封谷』の地図。
「フェルシュ、準備はできたか」
背後の闇から、ゼーリエが音もなく姿を現した。その手には、不気味な紫色の光を放つ魔導書が握られている。
「はっ。ゼーリエ様のご指示通り、かの地に眠る『七崩賢の遺産』の調査、および周囲に巣食う変異魔族の討伐任務として書状を整えました。……ですが、本当にこの地へあの二人を?」
フェルシュの言葉には、珍しく微かな躊躇が含まれていた。
『最果ての魔封谷』。そこは常に強力な結界と異常な魔力濃度に覆われ、魔法使いの“魔力探知”や“五感”を狂わせる極限の環境として知られている。
どれほど優れたペアであっても、互いの位置すら見失いかねない死地だ。
ゼーリエはふっと冷酷な笑みを浮かべ、玉座の背もたれに身を預けた。
「構わん。ゲナウの盾が、メトーデの目が、あの視界も魔力も通らぬ絶望の谷でどれだけ通用するか試してやる。互いの姿が見えず、声も届かぬ状況で、なお“信頼”という不確かなものを保てるかどうか、見ものだな」
ゼーリエの瞳が好奇心で怪しく輝く。これは単なる任務ではない。大魔法使いが仕掛ける、二人の絆に対する最高難度の試練だった。
翌朝。一級魔法使いの招集に応じ、謁見の間に現れたゲナウとメトーデ。
フェルシュから手渡された任務の指令書に目を落とした瞬間、ゲナウの鋭い眉がさらに深く跳ね上がった。
「……最果ての魔封谷、か。相変わらず、ゼーリエ様は人使いが荒い」
隣に立つメトーデも、いつもの余裕の笑みを崩さないものの、その瞳の奥には一級魔法使いとしての冷徹な警戒心が宿っている。
「ふふ、でも楽しそうですね。ゲナウさん、わたくしの手を絶対に離さないでくださいね? 迷子になっちゃいますから」
「誰が迷子になどなるものか。……行くぞ、メトーデ」
ゲナウは黒い外套を翻し、迷いのない足取りで歩き出す。メトーデはその背中を追うように、嬉しそうに微笑みながら後に続いた。
二人の背後で、ゼーリエは玉座からその姿をじっと見つめている。
五感を奪う絶望の谷で、不器用な盾と全てを包み込む癒しの光がどう抗うのか───新たなる死闘の幕が、静かに上がろうとしていた。
【最果ての魔封谷・最深部】
「───しまっ、た……!」
ゲナウの苦悶の声が、濃密な魔霧の中に消えかけた。
五感を狂わせるこの谷の主───変異魔族『霧幻のディートリヒ』の策略により、ゲナウはメトーデと分断され、完全に孤立していた。
視界はゼロ。魔力探知も、谷全体を満たす異常な魔力ノイズによって完全に遮断されている。
どこから攻撃が来るか分からない極限状態の中、ゲナウの右脇腹を、魔族の放った無音の魔力刃が深く貫いた。
「ガハッ……!」
鮮血が漆黒の外套を濡らす。ゲナウは膝をつき、黒金の翼を結界代わりに自身の周囲へ展開しようとした。しかし、濃霧に魔力を吸われ、翼は形を保てずに霧散していく。
「ハハハ! 哀れな人間め。自慢の盾も、ここではただの鉄クズだな」
霧の向こうから、実体のない魔族の嘲笑が響く。死を覚悟したゲナウの脳裏に、かつて失った仲間たちの顔がよぎった。また、自分は誰も守れずに終わるのか。その時だった。
「───わたくしの“可愛い人”に触るな、と言ったはずですよ?」
霧を切り裂くように、凛とした声が響き渡る。次の瞬間、ゲナウの視界を埋め尽くしていた濃い魔霧が、凄まじい光の波動によって一瞬で吹き飛ばされた。
「な、何だと……!? 我が霧の結界を、力技で吹き飛ばしただと!?」
驚愕する魔族の前に立っていたのは、杖を構え、かつてないほど冷徹な怒りを瞳に宿したメトーデだった。
「メ、トーデ……なぜ、ここが……。探知魔法は使えないはずだ……」
息も絶え絶えに問いかけるゲナウ。メトーデは即座に彼の傍らにひざまずくと、躊躇なくその胸に手を当てた。
「説明は後です。……《聖光の抱擁》!」
メトーデの手のひらから、これまでの回復魔法とは一線を画す、圧倒的な密度の純白の魔力が溢れ出す。それはゼーリエの書庫に眠る古い魔導書から、この任務のために彼女が修得してきた対呪詛・即時肉体再生の新魔法だった。
ゲナウの傷口から溢れていた血が瞬時に止まり、引き裂かれた肉体と内臓が、目にも留まらぬ速さで編み上げられるように再生していく。さらに、谷の呪いによって枯渇しかけていた彼の魔力までもが、メトーデの膨大な魔力を直接流し込まれることで、急速に満たされていく。
「……ッ、これは……!」
「わたくしの最高峰の回復魔法、舐めないでくださいって言いましたよね?」
メトーデはゲナウに極上のウィンクをしてみせると、すぐに立ち上がり、霧の奥に潜む魔族を睨みつけた。
「タネ明かしをしてあげます。魔力探知が使えないなら、別のものに探知を頼ればいい。……ゲナウさん、貴方にこれを渡していましたよね?」
メトーデが指さしたのは、ゲナウの胸元。任務の前に彼女が“お守り”として無理やり押し付けた、小さなカボチャのチャームだった。
それはただの飾りではない。メトーデが事前に、自身の精神魔法の残滓を極小に絞ってエンチャントしておいた“特定の精神波長を引き合う呪言の触媒”だったのだ。
どれほど五感が狂おうとも、メトーデは自分自身の魔力の波紋だけは正確に感知できる。ゲナウへの執着と彼女の機転が、この絶対の死地で彼を見つけ出す奇跡を起こしたのだ。
「さあ、ゲナウさん。魔力は満タンに補充してあげました。反撃の時間ですよ?」
メトーデの言葉に、ゲナウはゆっくりと立ち上がった。その身体からは、先ほどまでとは比較にならないほどの、狂気的なまでの黒金の魔力が立ち上っている。
「……メトーデ。お前には、一生敵いそうにないな」
「ふふ、お褒めに預かり光栄です」
不器用な男の最強の盾と、すべてを見通し癒やす女の光。
二人の絆は、ゼーリエが仕掛けた絶望の谷すらも、完全に圧倒しようとしていた。
【ゼーリエの謁見の間】
「───報告は以上です。対象の魔族は完全に消滅。こちらの損害は皆無。一級魔法使い二人の連携は極めて機能的でした」
ファルシュが淡々と報告書を読み上げ、一礼して下がった。
玉座に深く腰掛けたゼーリエは、頬杖をついたまま、不機嫌さを隠そうともせずにフンと鼻を鳴らした。
「……実につまらん」
その声は、広大な石畳の間に冷たく響く。
「ゲナウの奴、模擬戦の時はあれほど出し惜しみしていた出力を、実戦では躊躇なく解放したというわけか。しかも、メトーデの防御に完全に背中を預けて」
ゼーリエは不満げに目を細めた。彼女が期待していたのは、ゲナウがメトーデをも巻き込むほどの狂気的な一撃を放つか、あるいはメトーデがそのゲナウの凶刃をギリギリでねじ伏せるような、互いのエゴが衝突する純粋な“魔法のぶつかり合い”だったのだ。
しかし、二人が持ち帰ったのは、一分の隙もない完璧な連携という、優等生すぎる模範解答だった。
「せっかく私の気まぐれで引き合わせてやったというのに。あいつらは恐怖や合理的判断ではなく、もっとタチの悪い“信頼”などという生ぬるいもので噛み合ってしまった。私の想定を超えてな」
ゼーリエは口を尖らせ、まるで楽しみにしていた玩具を取り上げられた子供のように、あからさまに悔しそうな表情を浮かべる。だがその直後、ゼーリエの唇の端が、ほんのわずかに吊り上がった。
「……まあ、いい。ゲナウのあの頑なな“情”という名の足枷を、あそこまで綺麗に外してみせるとはな。メトーデ、あの娘の全属性特化という歪な器用さは、他人の不器用さを埋めるためにこそ真価を発揮するわけか」
それは、己が見出した一級魔法使いたちの、新たなる可能性に対する歪んだ満足感だった。
ゼーリエはふっと不敵な笑みを浮かべ、傍らに控えるフェルシュに視線を向けた。
「フェルシュ。次の任務だ。あの二人の“絶対的な信頼”とやらが、どこまで保つか試してやる。人間の感情など、少しの絶望で簡単にひび割れる脆いものだ。……さらに過酷な戦地を用意しろ」
「御意に」
フェルシュは静かに頭を下げつつ、内心で(ゼーリエ様も案外、あの二人のペアを気に入っているのではないか)と苦笑するのだった。
【一級魔法使い専用サロン】
最果ての魔封谷から無事に帰還し、ゼーリエへの報告を終えた数日後の午後。
いつもなら誰も寄り付かないサロンの片隅に、ゲナウとメトーデの姿があった。
ゲナウはいつもの黒い外套を脱ぎ、シャツの袖を少し捲り上げて、テーブルの上の皿をじっと見つめている。その眉間のシワは、魔族と対峙している時よりも深い。
「……本当に、これでいいんだな」
地を這うような低い声で確認するゲナウの目の前で、メトーデは両手を頬に当て、目をこれでもかと輝かせていた。
「はい! もちろんです! ゲナウさんが『命の恩人へのお礼に、一つだけ何でも願いを聞いてあげる』なんて言ってくださるから、わたくし、一生懸命考えたんですよ?」
メトーデの“お願い”。それは、過酷な戦闘任務でも、高級な魔導書でもなかった。
「さあ、ゲナウさん! わたくしが焼いてきた特製の『超特盛り・イチゴのデコレーションケーキ』です! これを、わたくしが『あーん』ってするのを拒否せずに、全部笑顔で食べてください!」
目の前に鎮座するのは、およそ大の大人が一人で食べるには過剰なほど、生クリームとイチゴがこれでもかと盛られた大皿のケーキだった。しかも「笑顔で」という無理難題付きである。
ゲナウは深く、本当に深くため息をついた。魔封谷での彼女の機転がなければ、自分は今頃あの冷たい土の下だった。新魔法で傷を癒やし、魔力を分けてくれた彼女への恩義は、命よりも重い。
「……分かった。男に二言はない」
ゲナウは覚悟を決め、背筋を正した。メトーデは「わあ、素敵!」と歓声をあげると、フォークで大きめにケーキをすくい、ゲナウの口元へと運ぶ。
「はい、ゲナウさん。あーーーん」
ゲナウは迫り来る甘味の塊を睨みつけ、フッと口を開けた。生クリームが口いっぱいに広がり、強烈な甘さが脳を突き抜ける。紅茶を愛飲する彼にとっては、甘い物は割と好きなのだが、甘過ぎるのは流石に胸焼けがする。
「どうですか? 美味しいですか? ……あ、ゲナウさん、お顔が怖いですよ? “笑顔で”です!」
「…………ッ」
ゲナウは頬の筋肉をピクピクと震わせ、必死に記憶の底から“笑み”という感情を引っ張り出そうとした。結果として出来上がったのは、魔族を脅迫する時のようなどこか不気味で、しかし懸命に口角を上げようとしている、酷く不器用な笑顔だった。
「ふふ、ふふふふ! 駄目です、面白すぎます、ゲナウさん! でも、そんなお顔をしてまで約束を守ってくれるところ……やっぱりわたくし、大好きです!」
メトーデは心底楽しそうに笑い転げ、次の一口をすくい上げる。ゲナウは無言で、しかし今度は拒むことなく、その甘すぎるお礼を受け入れ続けた。
End