一年中が雪と氷に閉ざされているかのような北側諸国にも、ごく短い夏は訪れる。とはいえ、南方のそれとは違い、吹き抜ける風にはどこか冷涼な名残があった。それでも、照りつける陽射しだけは一丁前に肌を焼き、じっと佇んでいるだけでも体力を削り取っていく。
「ふう……北側諸国の夏ってこんなに暑かったでしたっけ。今年はそれなりに厳しい暑さになりそうですね」
そう言って、メトーデは白いマントの襟元を軽く手で煽った。彼女が今身にまとっているのは、一級魔法使い選抜試験の際にも着用していた、白のノースリーブに白のマントを合わせた特製の装束だ。少しでも涼しげに見えるように、そして実際に風通しを良くするための彼女なりの工夫であった。露出したしなやかな腕が、夏の陽光を浴びて眩しく反射している。
「……そうだな」
隣を歩くゲナウは、酷く無愛想に短く応じただけだった。その姿は、この酷暑の中にあっても相変わらずの黒い外套姿。首元までしっかりと覆われた分厚い生地は、見る者にそれだけで息苦しさを覚えさせる。しかし、当の本人は額に汗一つ浮かべておらず、表情を一つも崩していない。まるで彼がいる空間だけ、時間が凍りついているかのようだった。メトーデは足を止め、じっとパートナーの横顔を見つめた。
「ゲナウさん。流石にそのコートくらいは脱いだ方がよろしいのではありませんか? 見ているこちらまで、余計に暑くなってしまいます」
「必要ない」
ゲナウは視線すら向けず、歩調を緩めることもしない。
「私はこの格好に慣れている。任務中に余計な油断を生む引き金になりかねん。お前のように、わざわざ肌を晒す趣味はない」
「あら、これは機能性を重視した結果ですよ? 無理をして体を壊しては、一級魔法使いとしての任務に支障が出ます」
「なら、なおさら無駄口を叩かずに歩け。先を急ぐぞ」
ゲナウの冷淡な声が、夏の熱気に溶けていく。メトーデは小さくため息をつきつつも、その大柄な背中を追って、再び軽やかな足取りで歩き始めた。
「ねぇゲナウさん、いい加減コートだけでも脱ぎませんか? 熱中症になってしまいますよ」
「脱がんと言っている」
ゲナウはそう言って、再び歩き出した。だが、その歩調はいつもより僅かに、本当に僅かだが重い。メトーデは見逃さなかった。彼が腰の水の入った革袋に手を伸ばす回数が、ここ一時間で明らかに増えていることを。一口すするだけのつもりが、喉を鳴らして深く飲み干している。無表情を貫いてはいるものの、黒い外套の奥でじわじわと体温が上昇し、体力を奪われているのは明白だった。
その時、周囲の空気が一変した。夏の熱気とは異なる、禍々しく、そして爆発的な“熱”が頭上から押し寄せる。
「───来ます、ゲナウさん!」
メトーデが叫ぶと同時に、上空の雲を割って一体の魔族が姿を現した。魔族がその長腕を振るうと、虚空から巨大な火球がいくつも生み出され、容赦なく二人へと降り注ぐ。ただでさえ夏の北部高原が、激しい炎の連発によって瞬時に灼熱の地獄へと変貌した。陽炎が立ち上り、視界が歪むほどの熱波が押し寄せる。
「くッ……鬱陶しい性質の魔族だ」
ゲナウが外套を翻すと、背後から黒金の硬質な羽が広がり、鋭い風を切った。黒金の翼を操る魔法《ディカドナハト》。彼はその強靭な翼で炎の嵐を強引に切り裂き、魔族の視界を遮るように空中へと飛び上がった。
「メトーデ、合わせろ!」
「えぇ、お任せください!」
メトーデは即座に多様な魔法を紡ぎ出す。まずは防御結界を展開して降り注ぐ火の粉を完全に遮断し、同時に魔族の足元───空中の一点を凍らせる拘束魔法を放った。一瞬の隙が生じ、魔族の動きが止まる。その好機をゲナウが逃すはずがなかった。
「仕留める」
至近距離まで肉薄したゲナウの黒金の翼が、ブレードのように鋭く輝く。幾重にも交錯した斬撃が魔族の肉体を寸断し、絶大な威力の魔法がその核を撃ち抜いた。魔族は悲鳴を上げる間もなく、夏の青空に魔力の粒子となって散っていった。
「貴方とわたくしの、見事な連携でしたねゲナウさん」
メトーデが息を整えながら微笑み、魔法を解除する。しかし、返ってきたのは、言葉ではなく、鈍い地響きだった。
「───ゲナウさん!?」
着地したゲナウが、膝から崩れ落ち、そのまま地面に突っ伏した。激しい戦いの直後、彼の身体からは異常なほどの熱気が立ち上っている。ただでさえ暑い中、炎を操る魔族と戦い、その上、一切の熱を逃がさない黒の外套を頑なに着込み続けていたのだ。熱が容赦なく体内にこもり、限界を迎えたのは当然の結末だった。
「はぁ……だから、あのように申し上げましたのに」
メトーデは困ったように深くため息をつき、彼の額にそっと手を当てた。驚くほどの高熱だ。彼女は手際よく彼のコートだけを剥ぎ取ってからゲナウの身体に浮遊魔法をかけ、宙に浮かせる。そして、じっと動かない堅物なパートナーを見つめながら、呆れたように、けれどどこか保護欲をそそられたような口調で呟いた。
「頑固なのもほどがあります。まずは近くの村で、冷たいお水で冷やして差し上げなくては」
メトーデは浮遊させたゲナウを引き連れ、飛行魔法で緑の続く道を素早く進んだ。
───とある村の宿屋の一室。メトーデは浮遊魔法を解き、ゲナウの身体をベッドへと横たわらせた。彼の呼吸は荒く、浅い。顔は赤く火照り、容赦ない熱が皮膚の奥からあふれ出ている。
「さて……ここからは一級魔法使いではなく、一人の看護人としての仕事ですね」
メトーデはため息をつくと、意識のないゲナウの胸元に手をかけた。まずは何よりも、熱を閉じ込めている原因を取り除かなければならない。彼女はゲナウの黒の上着を持ち上げた上半身から力任せに剥ぎ取った。
「本当に黒い格好をされて……これでは熱がこもるのも当然です」
さらに効率よく放熱させるため、メトーデは彼の白の肌着まで脱がせ、ベルトを緩めて風通しを良くした。熱中症の改善には、太い血管が皮膚の近くを通っている場所を冷やすのが鉄則だ。メトーデは村人から分けてもらった冷たい井戸水と、手持ちの冷感を促す魔導特製の冷却布を用意した。
「失礼いたしますね、ゲナウさん」
彼女は躊躇なく、ゲナウの両脇の下、そして太ももの付け根(鼠径部)へと冷たい布を差し込んだ。さらに効率を上げるため、首の左右の付け根にも冷やした濡れタオルをあてる。これだけでは足りない。メトーデはさらに、熱中症の改善に効果的な処置を重ねていく。脱水状態にある彼の口元に、あらかじめ塩分と糖分をわずかに混ぜておいた冷水を少しずつ流し込んだ。
意識が朦朧としているため、誤嚥(ごえん)しないよう、彼の頭を少し横に傾け、慎重に数滴ずつ含ませていく。最後に、彼女は団扇を取り出し、ゲナウの全身に向けて優しく、しかし絶え間なく風を送り続けた。冷たい布で冷やすだけでなく、肌に風をあてて水分を蒸発させる気化熱を利用する。これこそが、体温を最も早く下げる最善の対症療法だった。
「これで見守るしかありませんね。……ふふ、普段はあんなに無愛想なお顔をなさるのに、こうして眠っていると、少しだけ可愛らしく見えますね。それにこの肉体美……たまりません」
メトーデは、ひんやりとした風を送りながら、少しだけ表情を緩ませてパートナーの寝顔を見つめ続けた。
───数時間後、部屋の窓から差し込む夕日の光が、ゲナウの瞼を照らした。
「……ぅ、く……」
微かな呻きとともに、ゲナウの意識がゆっくりと浮上する。視界が明瞭になるにつれ、見慣れぬ宿屋の天井と、すぐ傍で見下ろしているメトーデの顔が映り込んだ。
「───気が付きましたか、ゲナウさん」
「俺は、何を……」
身体を起こそうとしたゲナウは、己の異変に気づき息を呑んだ。自慢の黒い外套は剥ぎ取られ、上着も肌着も脱がされている。それだけではない。両脇の下や太ももの付け根、首元にいたるまで、容赦なくひんやりとした濡れタオルや冷却布がねじ込まれていた。
「メトーデ、これは何の真似だ……!」
無愛想のゲナウが、かつてないほどに目を見開き、バツの悪そうな、どこか狼狽した声を上げる。慌てて身動きを取ろうとする彼を、メトーデは優しく、しかし有無を言わせぬ力でベッドへと押し戻した。
「動いては駄目です。まだ熱が下がりきってはいません」
「くッ、離せ。私は、何とも……」
「いいえ、何ともあります。熱中症を侮ってはいけません」
メトーデはいつになく真剣な眼差しで、諭すように言葉を重ねた。
「今回はただでさえ暑い夏の日中。その上、相手は激しい炎を連発する魔族でした。あの状況で、熱の逃げ場がない黒のコートを着込んだまま戦うなど自殺行為です。熱中症は重症化すれば命に関わるのですよ? 頼りになる一級魔法使いが、任務の途中で熱倒れするなど笑えません」
ふぅ、と小さくため息をつき、彼女はゲナウの胸元に指を突き立てて念を押す。
「短いとはいえ、北側諸国の夏の間くらいは軽装にしてくださいませ」
「断る」
ゲナウは顔を背け、無愛想に即答した。
「……私は肌を晒すのが苦手だ。いつも以外の格好をするつもりはない」
その頑固極まる物言いに、メトーデはしばし呆れたように彼を見つめていたが、やがて「ふふっ」と悪戯っぽく微笑んだ。
「やはり拒絶なさるのですね。……でしたら、こうしましょう」
メトーデが軽く指を振ると、涼やかな魔力の光がゲナウの全身を包み込んだ。瞬時に、彼の身体を覆う空気がひんやりとした心地よい冷気に変わる。
「ゲナウさんに、常に周囲の温度を一定に保つ冷気を纏わせる魔法を掛けて差し上げました。これならどれだけ着込んでいようと、熱中症は防げますね」
冷タオルの不快感から解放され、最適な涼しさに包まれたゲナウは、しばらく自分の手のひらを見つめて沈黙していた。やがて、ひどく苦虫を噛み潰したような顔で、低い声を絞り出す。
「……出来るなら、最初からそうしろ」
「あら、ご自身で“必要ない”と突っぱねたのは、どこのどなたでしたかしら?」
「………」
メトーデの楽しげな笑い声が、涼しくなった部屋の中に響き渡った。
「もう肌着も上着も着ていいだろう。上半身裸では、居心地が悪い」
「こもった熱を逃がすには裸にした方が早いのですよ。とはいえ……見知らぬ人なら配慮として肌着は脱がさない方がいいですね」
「“親しき仲にも礼儀あり”、というが」
「あら、わたくし達は任務上のパートナーですよ? 裸の一つ二つ見られた所で減るものではありません」
「ならお前が熱中症になった時……俺がお前を、その」
「裸にして下さって構いませんよ?」
事も無げに言い放つメトーデに、ゲナウは急いで着替えながら拒否する。
「しない、絶対にしないからなッ。肌着は脱がさないまま水でもかけてやる」
「あらあら、それでは下着が透けて見えますね。わたくしは構いませんけれど」
恥ずかしがる振りをして両手を頬に当てるメトーデ。
「……お前は熱中症にならなそうだからその心配はないな」
「決めつけないで下さいな。わたくしだってゲナウさんと同じ北部高原出身なのですよっ? 暑さに弱いのは同じなのですから!」
「だが先ほど俺にかけた魔法を自身にもかければ、熱中症になりようがないだろう」
酷く面倒そうに言うゲナウにメトーデはカチンとくる。
「むむむ……いいでしょう! わたくし、熱中症になってゲナウさんに看病してもらうために、常に周囲の温度を一定に保つ冷気を纏わせる魔法を控えますからっ!」
「看病してもらう前提で熱中症に自らなろうとする馬鹿がいるかッ」
「ここにいますとも!」
胸を張るメトーデに頭痛がしてきて片手を頭に宛がうゲナウ。
「もういい、この話はやめよう……」
「でしたらゲナウさん、もう一度看病する為にまた熱中症になってくれません? かけた魔法解きますから」
「意味判らん……熱中症は勘弁してくれ。コートくらいは脱ぐから」
「……ゲナウさんなら上半身裸でも誰も気にしなさそうですけど? その筋肉質な肉体美を存分に短い夏の間だけ晒せば……!」
「気になるだろう、そもそも夏の間裸でいられるものかッ」
「わたくしの目の保養になります」
メトーデは目をキラキラさせてゲナウを見つめている。
「……お前の目の保養だけの為に脱がんからな」
「でしたらやはりもう一度熱中症に」
「いい加減にしろッ」
ぺちっとメトーデのおでこを強めに片手で叩くゲナウ。
「痛いですぅ、ゲナウさんのケチっ」
「このやり取りだけでまた熱中症になりそうだ……」
「なって下さい、いくらでも看病しますからっ!」
「あぁもう、勝手にしろ。俺はもう少し休む」
ゲナウは観念したように、ベッドに身体を横たわらせたが、せっかく着直した肌着と上着を再び脱がそうとするメトーデと格闘する羽目になるのだった。
End