北部高原、魔族の残党狩り任務の途上。かつて人類と魔族の激しい境界線だったその土地には、いまだ生々しい傷跡が残されていた。
「ゲナウさん、あそこに崩れた礼拝堂があります。少し、立ち寄ってもよろしいですか」
黒い外套をなびかせ、大股で歩いていたゲナウは、メトーデの言葉にわずかに歩調を緩めた。振り返った彼の視線の先には、屋根が完全に崩落し、灰色の石壁だけが辛うじて天を突いている小さな教会の跡があった。周囲には、かつて村があったのだろう、土に還りかけた木造家屋の基礎が点々と散らばっている。
「……無駄足だ。魔力残滓もない。生存者も、討伐すべき魔族もそこにはいないぞ」
ゲナウはぶっきらぼうに言い放った。その声は低く、どこか突き放すようだが、足を完全に止めてメトーデが動くのを待っている。神技のレヴォルテとの死闘を経て、彼らは一級魔法使いとしての正式なパートナーとなった。合理的で容赦のないゲナウと、多才でどこか掴みどころのないメトーデ。一見すると水と油のような二人だったが、互いの領分を侵さず、かつ確実に任務を遂行する間柄としては、奇妙なほどに噛み合っていた。
「分かっています。ただ、少しだけ」
メトーデは穏やかに微笑み、崩れた礼拝堂の敷地へと足を踏み入れた。かつては美しいステンドグラスがあったのだろう。窓枠の形にくり抜かれた石壁の向こうから、冷たい風が吹き込んでいる。メトーデは、今やただの石の塊と化した祭壇の前に進むと、衣服の汚れも気にせずに膝を突いた。そして、そっと両手を合わせ、目を閉じる。
ゲナウは礼拝堂の入り口に立ったまま、腕を組んでその背中を見つめていた。彼は祈らない。彼にとって、死者はすでに完結した存在であり、祈りが届く先とされる女神の存在も、魔法の術式を構築するための“未知の基盤”という認識が強かった。北部支部隊で多くの部下を失い、自らも故郷を失ったゲナウにとって、祈りとは生き残った者の感傷であり、戦いにおいては一銭の価値もないものだった。
だが、彼はメトーデのその行為を邪魔しようとはしなかった。三分、あるいは五分。静寂だけが二人を包む。風がメトーデの長い髪を揺らし、石壁の隙間から差し込む木漏れ日が、彼女の横顔を淡く照らしていた。やがてメトーデが静かに目を開け、衣服を払って立ち上がる。ゲナウの元へ歩み寄る彼女の表情は、いつもと変わらない微笑を湛えていたが、その奥にはどこか深い凪のような静けさがあった。
「お待たせいたしました、ゲナウさん。行きましょう」
「……満足したか。毎度毎度、目的のない祈りに時間を費やす。俺には理解できん」
歩き出しながら、ゲナウはぶっきらぼうに言った。非難というよりは、純粋な疑問に近い。
「目的がない、ですか」
メトーデはゲナウの半歩後ろを歩きながら、鈴を転がすような声で応じた。
「ええ、確かにそうかもしれませんね。ここに眠る方々が、わたくしの祈りで生き返るわけではありませんし、魔族への復讐が果たせるわけでもありません」
「なら、なぜやる。お前は合理的な魔法使いのはずだ。死んだ人間に呼びかけたところで、何も返ってはこない」
ゲナウの言葉は冷徹だった。だが、メトーデはその冷たさの裏にある、彼なりの“生者へのこだわり”を知っている。彼は死者を軽んじているのではない。むしろ、死という絶対的なものに対して、無力な儀式を繰り返すことが耐えられないのだ。
「ゲナウさん。わたくしにとっての祈りは、届けるためのものではないのです」
メトーデは前を見つめたまま、淡々と、しかし丁寧に言葉を紡いだ。
「わたくしは、小さな可愛い女の子が大好きです。それは、彼女たちが『今、生きている』という愛おしさに満ちているから。けれど、この世界には、魔族によってその愛おしさを突然奪われ、誰にも知られずに消えていった人たちが数え切れないほどいます。わたくしがここで手を合わせるのは、神様にお願いをするためではありません」
彼女は一度言葉を切り、ゲナウの無愛想な横顔を見上げた。
「『あなたたちがここに生きていて、理不尽に奪われたことを、わたくしは忘れません』と、わたくし自身の心に刻みつけるための儀式なのです。そうしなければ、あまりに多くの命を扱い、奪い合うこの旅の中で、わたくしの心が摩耗して、大切なものを可愛いと思えなくなってしまう気がするのです。だから、これはわたくしのための、とても我が儘な祈りなんですよ」
ゲナウは前を向いたまま、しばらく沈黙した。彼の脳裏に、かつてレヴォルテに惨殺された故郷の村人たちの姿がよぎる。あの時、ゲナウは静かな怒りに燃え、魔族を駆逐することだけを考えた。彼にとっての死者への報いは“敵を殺すこと”だけであり、祈る暇があるなら魔力を練るべきだと考えていた。しかし、メトーデの言う“心が摩耗する”という感覚は、理解できないわけではなかった。ただただ冷酷に、機械のように魔族を殺し続ける日々の中で、もし自分の中に“故郷を悼む気持ち”すら残っていなければ、自分は一体何のために戦っているのか。
「お前は、見た目に反して酷く回りくどいな」
口調はぶっきらぼうだったが、その足取りは先ほどよりもわずかに、メトーデの歩調に合わせるように緩やかになっていた。
「よく言われます。でも、こうしてゲナウさんがわたくしの我が儘に付き合ってくださるから、わたくしは安心して祈ることができるのですよ」
「俺は付き合ってなどいない。お前が勝手に足を止めるから、再開のタイミングを測っているだけだ」
「ふふ、そういうことにしておきます」
メトーデは嬉しそうに目を細めた。彼女にとって、ゲナウというパートナーの存在は、祈りという行為をより確かなものにしていた。もし彼が一緒になって涙を流すような人間であれば、メトーデは逆に、彼の傷を気遣って祈りに没頭できなかったかもしれない。
ゲナウが、その圧倒的な強さと不器用な無骨さで、ただそこに“現実の壁”として立っていてくれるからこそ、彼女は安心して死者との対話に没頭できる。彼が背後で周囲を警戒し、魔族の気配を遮断してくれているからこそ、彼女の祈りは静寂を保てるのだ。二人の影が、夕暮れの街道に長く伸びていく。
「ゲナウさん」
「次は何だ」
「次の街に着いたら、美味しいお菓子のある宿を探しましょう。心が満たされた後は、お腹も満たさなくては」
「勝手にしろ。俺は任務の報告書を書く」
突き放すような相槌。けれど、そこには確かな信頼の温度があった。魔族に滅ぼされた地を巡る二人の旅は、これからも続く。一人は冷徹に現実を見据え、一人は静かに去った者を悼む。その異なる二つの在り方は、崩れた礼拝堂の石壁のように、互いを支え合いながら、北の冷たい風を遮り続けていた。
───それから、さらに数ヶ月の時が流れた。北側諸国の冬は厳しく、吹き付ける風は刃のように冷たい。二人が歩く街道の傍らには、かつて小規模な集落があったのだろう、半ば雪に埋もれた石造りの井戸と、無残に焼けた柱の残骸が寂しげに佇んでいた。
「ゲナウさん。あちらに、小さなお墓の跡があります。少しだけ、よろしいですか」
メトーデが足を止め、雪を被った数基の粗末な墓標を指差した。木製の十字架は腐り落ちかけ、誰が眠っているのかを記した文字もとうに風化している。魔族の襲撃から命からがら生き延びた者が、せめてもの思いで身内を埋め、そのまま二度と戻れなかった……そんな背景が透けて見える場所だった。ゲナウはいつものように、小さく溜め息をついた。
「……いつもの我が儘か。手短にしろ。雪が強くなってきた、長居すれば足場を失うぞ」
「ええ、分かっています。いつもありがとうございます、ゲナウさん」
メトーデは丁寧に一礼すると、静かに墓標の前へと進んだ。積もった雪に膝を突けば、冷気が衣服を抜けて肌を刺すはずだが、彼女は躊躇わずにその場に跪く。そっと両手を合わせ、そっと目を閉じた。いつも通りの光景。ゲナウは数歩離れた場所で腕を組み、周囲の魔力残滓を警戒しながら、その背中を見つめていた。
だが、この日のゲナウの胸中には、いつもとは違うざわめきがあった。数日前、彼はかつての部下の遺族から届いた手紙を受け取っていた。北部支部隊を率いていた頃、彼の不手際ではなく、純然たる戦力差によって命を落とした若き魔法使い。その遺族からの手紙には、ゲナウを責める言葉は一言もなく、ただ『あの子の最期を教えていただき、ありがとうございました。これでようやく、あの子のために祈ることができます』とだけ書かれていた。
───祈る、か。ゲナウは、自らの大きな手のひらを見つめた。この手は、魔族の首を撥ね、部下の遺体を回収し、現実を生き抜くために使われてきた。彼にとって死とは“無”であり、残された者にできるのは、その死を無駄にしないために戦い続けることだけだった。祈ったところで、死んだ部下も、レヴォルテに奪われた自分の故郷も、何一つ戻ってはこない。その信念は今も変わらない。しかし、隣で静かに手を合わせるメトーデの言葉が、耳の奥で蘇る。
『理不尽に奪われたことを、わたくしは忘れませんと、わたくし自身の心に刻みつけるための儀式なのです』
ゲナウは静かに息を吐き出した。その白い息が、北風にさらわれて消えていく。もし、自分が“戦うこと”だけで頭を埋め尽くし、死者を悼むことを完全に忘れてしまったら。その時、自分の中に残るものは何だ。ただ魔族を殺すためだけの、精巧な人形のゴーレムと何が違う。
かつて故郷を護ってくれていたノルム騎士団や村人達の遺体を火葬する際、彼は胸に片手を当て目を閉じ祈りを捧げたはずだった。そうすべきだと思ったからだ。周囲に流されたわけじゃない。
「…………」
重い足取りでメトーデの隣へと歩み寄った。衣服が擦れる音に、メトーデがかすかに眉を動かした。けれど、彼女は目を閉じ、祈りの集中を解かない。ゲナウは、雪の中に静かに片膝を突いた。大柄な彼が姿勢を低くすると、それだけでメトーデに吹き付ける寒風の盾のようになった。彼はメトーデのように器用に両手を合わせることはしなかった。ただ、無骨な拳を自らの膝の上に置き、険しい顔のまま、じっと雪に埋もれた墓標を見つめた。
「ゲナウさん……?」
さすがに驚いたのか、メトーデが薄く目を開け、小声で彼を見上げた。
「……目をつぶれ、メトーデ。お前の祈りの時間だろう」
ゲナウは前を見据えたまま、不機嫌そうな声で言った。
「俺は神など信じない。女神の加護も、天国とやらの存在もな。死んだ奴らは全員、ただの肉の塊だ。そこに魂など残ってはいない」
言葉の内容は相変わらず冷徹で、突き放すようだった。しかし、彼の声音には、不思議といつもの刺々しさがなかった。
「だが……お前が言うように、俺たちが忘れてしまえば、こいつらがここに生きていたという事実ごと、この雪の中に消える。それだけは、どうにも虫が好かん。……俺は俺のやり方で、こいつらがここにいたことを、この目に焼き付けておく。お前は、お前の我が儘を続けろ」
そう言って、ゲナウはゆっくりと目を閉じた。彼の脳裏に浮かぶのは、この名もなき墓に眠る誰かではない。自分が救えなかった北部支部隊の部下たち、そして、あの日失った故郷の景色だ。彼は彼自身の記憶の底にある死者たちと、静かに向き合っていた。メトーデは、驚きに目を見張った後、すぐにその顔に深い慈しみのような微笑を浮かべた。
「……はい。我が儘に付き合っていただき、ありがとうございます」
メトーデは再び目を閉じ、今度はゲナウの気配を隣に感じながら、深く、深く祈りを捧げた。二人分の静寂。一人は、死者の魂が女神の元で安らかであるように。一人は、奪われた者たちの生きた証を、決して忘れないように。在り方は違えど、二人の男と女は、等しくその胸に“去りし者への想い”を刻みつけていた。
───どれほどの時間が経っただろうか。先に目を開けたのはゲナウだった。彼は立ち上がると、肩に積もった雪を乱暴に払い落とした。
「終わりだ。行くぞ」
「ええ。とても温かい祈りでした」
メトーデも立ち上がり、衣服を払う。彼女の顔は、いつも以上に晴れやかだった。
「何が温かいものか。冷気で膝の感覚がない」
ぶっきらぼうに歩き出すゲナウ。メトーデはくすくすと笑いながら、その後ろを歩む。その距離は、以前の“半歩後ろ”よりも、ほんのわずかに近くなっているようだった。
「ゲナウさん。次の村に着いたら、温かいスープを二人分、わたくしがご馳走しますね」
「いらん。各自、支給された携帯食料で済ませる」
「そんなことをおっしゃらずに。ゲナウさんが隣にいてくださると、本当に心強いのですから、これくらいはさせてください」
「……お前の奢りなら、文句は言わん」
白い雪原の向こう、二人の足跡が並んで刻まれていく。冷酷な現実が支配する北の地で、彼らは互いの不器用な暖かさに支えられながら、また次の目的地へと歩みを進めるのだった。
───それから、いくつかの季節が巡った。ゲナウの“祈り”は、最初はただ片膝を突き、目を鋭く光らせて墓標を睨みつけるようなものだった。だが、魔族の残党を追い、無数の命のやり取りを経ていくうちに、その無骨な佇まいには少しずつ変化が生じていた。
「ゲナウさん、あちらの木陰に。廃れた教会があります」
北部高原の深い森の中、木漏れ日が差し込む場所に、メトーデの言うように廃れた教会があった。村そのものはとうに消失し、今はただ森の静寂に埋もれている。
「分かった。……手短にな」
ゲナウはそう言うと、自ら進んでその教会の中へと歩み寄った。かつてのように“無駄足だ”と吐き捨てることも、周囲を過剰に警戒して離れた場所に立ち尽くすこともない。メトーデが隣に並び、静かに膝を突く。ゲナウはしばらくの間、その無骨な手をどうすべきか迷うように、黒い外套の袖の中で指を動かしていた。だが、やがて小さく息を吐き出すと、意を決したように大きな両手を胸の前で合わせた。指を固く組み、ゆっくりと、その険しい目を閉じる。口では今でも“神など信じない”と言い張るだろう。彼にとって魔法の術式を越えた奇跡や、目に見えない女神の救いは、未だに実体のない気休めに見えているのかもしれない。
けれど、彼はそれを“絶対に存在しない”と頑なに拒絶しているわけでもなかった。もし、本当に女神様というものがいて。もし、この理不尽な世界で命を落とした部下たちや、故郷の人間たちが、その温かい腕の中に迎え入れられているのだとしたら───それは、それほど悪いことではない。そう、心のどこかで、ほんの少しだけ、許せるようになっていた。目を閉じれば、暗闇の中に去りし者たちの顔が浮かぶ。彼はもう、怒りだけで彼らを思い出してはいなかった。メトーデの隣で、ただ静かに、彼らの生きた時間を胸に刻みつける。メトーデは、隣から聞こえるゲナウの静かな呼吸の音を聴いていた。かつては他者を寄せ付けない鉄のようだった彼の気配が、今は驚くほど穏やかに、この廃れた教会の静寂に溶け込んでいる。
(……本当に、不器用で優しいお方です)
メトーデは心の中でそう呟き、愛おしさを噛み締めるように、さらに深く指を組み直した。ひび割れたステンドグラスから差し込む美しい光のなか、立ったままのゲナウと、その隣に寄り添い両膝をついているメトーデが、異なる姿勢で両手を組み、静かに目を閉じている。そこには言葉はなく、ただ二人の間に流れる、完璧な信頼と静謐な祈りの時間が満ちていた。やがて、二人は同時に目を開けた。
「……行くぞ、メトーデ」
ゲナウは手を下ろし、ぶっきらぼうに背を向けた。その耳の端が、ほんの少しだけ赤くなっているのをメトーデは見逃さない。
「ええ、ゲナウさん。今日も、とても良いお祈りでしたね」
「俺はただ、目を休めていただけだ」
「ふふ、そういうことにしておきます」
からかうような、けれど心底嬉しそうなメトーデの声に、ゲナウはそれ以上反論せず、ただ大股で歩き出した。その広い背中は、今や彼女にとって、世界で最も信頼できる“祈りの特等席”となっていた。
End